012 それぞれの想い
「ここの角を曲がれば私の家だよ」
学校から歩くこと一時間と三十分ほど。多くの生徒の家がある中心部を離れ、新しいマンションより古い民家が目立つようになってきた郊外まで来たところで、ようやく楓の家へとたどり着いた。寄り道をしたとはいえ、かなり時間がかかっている。
「あれが私の家だよ。二人ともついてきてもらってごめんね」
「全然問題ないよ。それにしても、思っていたよりもかなり遠かったね。ここから毎日通うのって、結構大変じゃない?」
「うーん、そうでもないよ。通い始めて最初のほうはそれこそ朝起きるのが大変だったけど、今はもう慣れちゃったから。さすがに、合唱練習に間に合わせるのは大変だけどね。ここ最近は毎朝五時起きがずっと続いてるから、もう眠くて眠くて」
あくびをしながらさらっと言った楓の台詞に、私達二人は驚いて顔を合わせる。
「……ねえ叶恵。あんた今日は何時に起きた?」
「えー……今の話を聞いた後に聞いちゃうの?実里から先に言ってよ」
「……7時ちょうど」
「私は7時15分だったよ」
得意げに胸を張る叶恵だったが、自分で言っていて悲しくなったようで、すぐにしょげてしまった。
「歌うの苦手なのに、そこまで頑張って早起きして、練習にもちゃんと出てるなんて、楓は偉いよ」
「うん、だってみんなと歌うのは楽しいから」
にこっと笑った楓と夕日が重なる。その笑顔のまぶしさは、天使のそれととも思えた。
「そう、それなら……」
「えっ、楓って歌うの好きだったの?あれほどの音痴だったのに?」
落胆から復活した矢先の爆弾発言。これが叶恵という人間である。私も素っ頓狂な顔をしているが、聞かれた楓はもっとひどい顔をしている。先ほどの天使の笑顔から表情を変えないようにしているが、それに失敗して誰から見てもわかるような苦笑いをしている。
「叶恵……それを本人に向かって言っちゃうの?もうちょっと空気を読めないの?」
「え?私そんなに変なこと言ったかな」
そういう叶恵がこの場の誰よりも素っ頓狂な顔をしていた。
「はあ……まあいいや。叶恵は言っても治らないの、わかってるし」
「そんなに変なこと言ったの!?」
「変ではないけどタイミングが悪いって言ってるの!それに、下手の横好きってことわざもあるでしょ!」
「実里……それはフォローになってないよ……」
「え?あっ、ごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど……」
どうも私は余計な一言が多いらしい。薬と間違えて楓の傷口に塩を塗ってしまったようだった。今度こそ深く沈みこむ楓に、どう言葉をかけてやればいいのだろう。
「……でも、いいんだ。もう何を言われたって私は気にしないって決めたから。私が音痴なのは今に始まったことじゃないから、言われたってしょうがない。それよりも、私を受け入れてくれる、応援してくれる皆がいるのに、関係のない人間から少し言われたくらいで私が諦めてちゃダメでしょ?」
さあっと、風が頬を撫でる。そして、日が沈んでいく。凛々しく顔を上げた楓を照らしながら。
「……って、全部春ちゃん先生からの受け売りなんだけどね。この間、二人で話をしたときにいろいろ言われて」
いたずらっぽく笑う楓に、先ほどの凛々しさはない。いつもの愛らしい楓だ。だが、今までの楓と少し違って見えた。隣を見れば、叶恵もすっとんきょうな顔をしていた。驚いたのは私だけではなかったようだ。
「楓、この一週間でずいぶん変わったね」
「そうね。あの一件でしょげないかちょっと心配してたんだけど……いらないお世話だったみたい」
キラキラ輝く楓の覚悟。それを見て、私たちも決意を新たにする。楓が苦手なものにここまで真剣に向き合っているのだ。私たちだって頑張らなければ。
「楓ちゃん、私たちもそろそろ帰るね」
「あ、ちょっと待って!何か話したいことがあるって言ってたじゃない?せっかくだから家でお茶でも……」
「お誘いはありがたいけど、遠慮しておくわ。不審者の情報は親にも連絡がいくだろうから、あんまり帰りが遅いと心配しちゃうでしょ?」
日没を迎えたことで、あたりは徐々に闇に包まれつつある。あと十数分もすれば真っ暗になってしまう。
「でも、話したいことがあるって……」
「ん、ああ、あれね、もう分かったからいいわ」
「え?」
「じゃーそういうことだからー。楓ちゃん、バイバーイ。『テレポート、ショートカット、植村叶恵の家の前』!」
楓がなにかを言う前に、叶恵は白い光に包まれる。一言声をかけて、私もそれに続く。
「楓!」
「ふぇ!?な、なに?」
「合唱コン、絶対に勝ちましょう!」
「・・・・・・!!」
楓にそれだけ告げると、私もテレポートする。返事こそ聞こえなかったが、大きく首を縦に振る姿ははっきりと目に焼き付けた。
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「先生の仕事っていいよねー。仕事が終わる時間も決まってるし、子供達が休みの日なんてずっと休みなんでしょ?夏休みも長いしさー。うちの会社なんて2、3日に1回は残業入るし、夏休みなんてお盆だけだよー」
「そうそう、うちもおんなじ。いいなー春は。イケメンの先生とかいたら是非紹介してよー」
たまに大学時代の同級生と居酒屋に行くと、必ずといっていいほどこの話題が上がってくる。一般企業に就職したみんなからすれば、同期の中でただひとり教師をしている私が羨ましく見えるのだろう。なにせ、公務員だから職がなくなることはほとんどない上に、給料は安定している。毎日子供の相手をしていればいいのだから、これほど楽な仕事はないようにも見えるだろう。
だがしかし、実際はそこまで甘い仕事ではない。給料は安定しているとはいえ、一般企業よりもかなり安い。話を聞いていても、私より安い給料で働いている同期にはあったことがない。
しかも、朝は早く、夜は遅い。授業が終わっても、その報告を書いたり次の授業の用意をする必要があるし、担任をしていればクラスに関わる仕事も追加で入ってくる。部活動の顧問をしていればその活動もあり、定時に帰っているのは非常勤の先生方だけで、ほとんどの先生はほぼ毎日残業の繰り返しである。その手当だって微々たるものだ。
その上、「教師は清く在るべし」という世間の印象から、自分のやりたいことも自由に出来ず、愚痴をこぼすことすら出来ない。
教員は地獄だと教授から言われていた手前、大学時代の私もある程度の覚悟はしていたが、正直言って、ここまで過酷な仕事だとは思っても見なかった。ある程度のことは我慢しようと決めていたにも関わらず、教師になったことを少し後悔するほどである。まさに、教師の仕事は好きでなければやっていけない仕事の代表格といえるだろう。
そして、今日も当然のように職員会議というサービス残業が入る。今日の議題は、ここ数日発生している生徒への声掛け事案への対応との事だった。
「……楓と、実里に叶恵もよし、と。これで全員帰宅したかな。よし、『遠隔監視、解除』」
遠隔監視を解除して、私は一息つく。
緊急集団下校の見送りを終えた先生達が続々と教員室へと戻ってきているが、どの先生も疲れきった顔をしている。誰も口には出していないが、心の奥底では「不審者コノヤロー」と思っていそうな顔だ。
生徒の見送りをしたのち、職員会議をひらいて今後の対応を決める、ということだったが、なかなか先生たち全員がそろわない為、会議も始められずにいた。
「すみません教頭先生、遅くなりました」
一人遅れていた速水先生がようやく戻ってきたのは、他の先生達が揃って十分近く経ってからだった。
「速水先生、ご苦労様です。他の先生方と比べてお戻りになるのがずいぶんと遅かったですが、なにか問題でもありましたか?」
「ああいえ、特に問題はありませんでした。うちのクラスに一人だけ遠くから通学している子がいまして。その生徒を自宅まで送り届けていたんですよ。……生徒の安全確認を一切していなかったどこぞの先生と違って、ね」
「……私が何もしていなかった、とでもおっしゃりたいんですか?」
嫌味な目でコチラを見つめ、笑う速水先生に、思わず反論してしまう。
「おや、何か違った点でも?」
「私は私なりの方法で生徒達の安全確認をしていました。まるで仕事をしていないかのように言われるいわれはありません」
「ほう。ただただ職員室に座っているだけで安全確認ができるなんて素晴らしいですねえ。それで緊急事態にどのように対処されるのか、後学のために是非お教えいただきたい」
嘲笑うかのように吐かれる言葉に、人を小馬鹿にしたような笑顔。それが向けられているのは、決して私自身ではない。そのことがわかっているからこそ、この男の言葉を黙って聞き流すことはできない。
「速水先生程度の不審者であれば簡単に撃退できますよ。これでも一流の言霊使いですから。なんなら今すぐにでも試してみますか?」
「何だと……?」
「まあまあ畠山先生、落ち着いてください。速水先生も。今から職員会議ですから。ね?」
最年長の先生にたしなめられ、仕方なく私は席に着く。速水先生も乱暴に椅子を引き出すと、不機嫌そうに鼻を鳴らして席に着く。
「……えー、とにかくこれで全員そろいましたかね」
「教頭、教頭。校長がまだいらっしゃってないようですが、どうかされましたか」
「校長は今日は出張です。ほら」
指し示した予定表の部分には、「校長:教育委員会へ出張」と大きく書かれてある。
「校長にすでに連絡はしたのですが、まだ用事が済んでいないそうで、職員会議は先に始めておいてくれとのことです」
「いつもながらお忙しいですなあ、校長は。言霊を教育に取り入れるなど、様々な取り組みをしていらっしゃるだけに、引く手あまたなのでしょうな」
「かといって、校長としての業務を軽んじているわけでもない。あの年であそこまで活動的なのは、いやはや我々も見習わなければいけませんな」
初老の先生たちの笑い声は、教頭の咳払いに遮られる。
「……とにかく、校長先生は戻るのに時間がかかるとのことですので、先に会議を始めさせていただきます。今回の緊急職員会議の議題ですが、先ほどお伝えしていた通り、不審者出没に対する本校の対応について協議していきたいと思います。えーそれでは本件の概要ですが……」
教頭による説明はもはや聞くまでもないだろう。不審人物が学校の周辺に現れている。簡単にまとめるとただそれだけのことだ。付け加えて言うなら、まだ声をかけられただけ、いわゆる声かけ事案というやつで、警察では対応が難しいとのことだった。
「全く、いい迷惑だよ。こっちは普段の仕事に加えて、合唱コンクールの練習だったり準備だったりがあって、ただでさえ忙しいっていうのによ……」
愚痴る速水先生は、明らかにいらついていた。腕を組み、貧乏ゆすりをするその姿は、とても会議に参加している人間の態度には見えない。
かくいう私も、教頭の話など聞いていないのだから、あまり人のことを言えた義理ではないのだが。
「……ということで、警察では対応できないと通達がありました。しかしながら、この問題を放置して生徒に万が一のことがあれば我々教員の責任が問われかねません」
こういう問題が起きたときでさえ、生徒のことよりも自分の保身を第一に考えて動く。この教頭はいつもこうだ。こんな人が、なぜ教員を目指したのか。私には理解ができない。
そして、私が知る限り、教頭のような人間にはある特徴がある。それは、
「今後、合唱コンクールの練習は中止して、授業後は全生徒を即座に帰宅させるようにします」
「……え?」
--他人の努力を、平気で踏みにじることだ。