第五幕:それでも
何か、懐かしい夢から雪奈は目覚めた。
「ここは……?」
見た感じではどこかの廃ビルのようだ。そこの鉄筋剥き出しの柱に、雪奈は縛られていた。腹の辺りと、手は頭上。足が縛られほとんど身動きが出来ない。
「やっと起きたのか」
柱の陰から男が現れる。その後ろにもう一人いるが、月明かりだけでは暗くてよく見えない。
「じゃあ、感動のご対面といこうか」
パチン、と指を鳴らすと、暗闇の中にいた誰かが男の横に並ぶ。
無駄のない立ち振舞いに、一目で高級品だと分かるブランド物の洋服。しかし、それとは裏腹に手や腕の至るところや、額に包帯が巻いてある。雪奈は、その顔に見覚えがあった。
「明里、姉さん……!?」
見間違うハズがない。今でも夢に出るほど、その顔は鮮明に覚えているのだから。
「雪奈、あんたはやっぱり、あの時殺しておくべきだった」
その声色からは、怒りや憎しみといった感情が色濃く読み取れる。
「あの鎌はね、私のものだったのよ……! そのためならとどんな酷い調教にも耐えてきたのに、全てお前が台無しにした!」
ゆっくりと雪奈に歩み寄りながら、明里はさらに呪詛の祝詞をうたう。
「毎日毎日なぶられ、辱しめられ、弄ばれ、身も心も犯された私が報われずに、何もないあんたがのうのうと生きてることが許せない!
私から全てを奪ったお前が許せない!」
ポケットから果物ナイフを取り出す。
「さぁて、どんな風に苦しめてやろうか。普通には殺さない。心が壊れるまで、じっくりたっぷりいたぶってあげるわ!」
雪奈の側にしゃがみ込むと、手に持つナイフで雪奈の頬を浅く切る。うっすらと滲み出るちを、明里は丁寧に、何度も舐めとる。
「……っ!」
全身が凍るような感覚にに、雪奈は耐える。自然と呼吸が荒くなる。
「寄り添う百合、か。いや、むしろ蔓系だな、こりゃ」
長い年月をかけて大樹を締め殺す蔓のように、明里は雪奈を殺す気なのだ。
「ところで、あの少年はどうなったのかねぇ」
男が呟いた時、部下が一人駆け込んでくる。
「申し上げます!警備に当たる者が、次々に自殺していきます!」
「自殺? そんな馬鹿な! 裏切ったとでも言うのか!?」
「いいえ……! 全員が突然!」
「……そりゃ、まずいな……」
死神が一人歩きでも始めたか、と男は呟く。
「なんでもいいから物持ってこい! バリケード作るぞ! 明里姫も気を付けて。鼠が一匹迷い込んだみたいだ」
「そんな鼠、殺してしまいなさい」
「了解」
誰かが来るらしい、と雪奈は大まかに理解する。その誰が、あの少年であることを願って。
「俊治、なの……?」
雪奈が言う。それに対するへんじはない。はずだった。
「雪奈ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
雪奈を呼ぶ声。それは、彼女が聞きたかった、少年のものだ。
「俊治ぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」
痛む脇腹を無視し、全力で応える。
「余計なことを!」
明里が雪奈の太股にナイフを突き立てる。痛みに耐えきれず、絶叫する。
「今ので場所が割れちまったな。バリケードから離れろよ。何が起きるか分からん」
呪物の能力は未知数なのだ。いきなり爆発してもなんらおかしくない。
足音が聞こえる。それは次第に大きくなっていき、バリケードの前で止まった。
(さて、どう来る……?)
残った部下が全員バリケードを至近距離で取り囲む。
「バッ、何してるてめぇら!」
その時、バリケードが縦に真っ二つになる。続けて、横一文字。取り囲んでいた者は一人残らず両断される。
「おいおい嘘だろ」
バリケードが崩れる。そこにいたのは、死神の鎌を持った、近衛俊治だった。
「俊治、あんた……」
鎌を完全に使いこなしていることに、雪奈は驚きを隠せない。
「雪奈、助けに来たぞ」
その言葉に迷いはない。
「本当に、馬鹿なんだから」
その頬に涙が伝う。
「お前、どうやってその鎌の所有権を……!?」
明里の問いに、一言。
「俺はただの担い手だ。それ以上でもそれ以下でもない」
そもそも意味など必要なかった。俊治にとって、雪奈を救えればそれでいいのだ。詳しい原理や理由など、どうでもよかった。
「やれやれ」
男が部下だった屍を見つめて、一度ため息をつく。そして、俊治と向き合った。
「どうしても邪魔する気か? 少年」
「それはこっちの台詞だ」
互いに引く気はない。殺るか殺られるか。それだけだ。
男が勢いよく地面を蹴り、肉薄する。その運動エネルギーをも拳に乗せ、俊治の頭部を狙う。俊治はボクサーのように頭を動かし、紙一重で避ける。さらにその動きを利用して鎌を薙ぎ払う。男はしゃがんでやり過ごし、その体勢のままローキックを放つが、それを読んでいた俊治は跳んでおり、当たらない。鎌の遠心力で回転している俊治は着地するとさらに力を乗せ、鎌の柄で男の側頭を捉えた。男が二メートルほど転がる。
頭を押さえながら、男は立ち上がる。その手の隙間から、血が流れ出る。
「やってくれるじゃん少年!」
男と俊治の戦いは激しさを増していく。勝負は五分五分といったところで、長引くほどに血を流し、傷が増える。それでも二人は止まらない。互いに力尽きるか、どちらかが倒れるまでは。
「雪奈」
明里が話し掛ける。
「私、知ってたよ」
明里よりも先に、雪奈が口を開いた。
「姉さんが酷い目にあってたこと。たくさんの男の人に……蹂躙されてたこと」
「……私の初めてはね、どこの誰とも知らないホームレスなのよ」
淡々と己の過去を語っていく明里に、雪奈は胸が痛んだ。
「一晩中犯されて、気を失っても犯されて。雪奈にそんな経験ないでしょ?
来る日も来る日も犯されて、そんな自分が嫌だった。そんな私に変わりなく接してくる雪奈が目障りだった」
「知ってたから私は、姉さんの暴力に耐え続けていたのよ」
「そんな同情必要ない! 昔っからそう。偽善ぶって、のうのうと過ごしてきた!
だから気に入らないのよ!……あぁ、でも。逃げてくところをお爺様に伝えた後は、一晩中笑いが止まらなかったわ」
高笑いする。
「まさか、姉さんが……!?」
「そうよ。特に、目の前であの女狐が死んだ時の雪奈の顔は、最っ高だった。そう思わない? あんたも」
「姉さん……! くそっ、くそっ! よくも私の家族を……! 返せ! お母さんを……お父さんを、返せ!」
頬を濡らしながら叫ぶ。
「あっははっ! 何を言うかと思えば、そんなこと? なら、あの男が死ぬのもよく見てなさい」
二人の激闘はまだ続いていた。
拳が俊治の腹を、鎌のつっ先が男の肩に突き刺さる。互いに下がる。肩で息をしながら鎌を指差し、男が口を開く。
「少年。何故そこまで雪奈ちゃんにこだわる。あの子は殺人者で、呪われていて、グループに追われている身だぞ。その呪いが振りかかるかもしれないし、グループに殺されるかもしれないんだぞ!」
「……それでも」
俊治は高らかに謳う。
「それでも、守りたいものがあるんだ!」
俊治が駆ける。男は残る全ての力を一撃に込めて迎撃するべく構える。
拳が放たれる。
バスケで回転してディフェンダーをかわすように、俊治は体を捻る。その背を少しかするが、走り続ける。
男が避けられたと気付いたときには、その正面に鎌の刃があった。
俊治は走り抜け、男は袈裟懸けに両断される。
「あーあ、負けたか」
つまらなさそうに言うと、明里は雪奈から離れる。
俊治は拘束を解くと、鎌を雪奈に手渡す。
「私の負けよ。殺しなさい」
両翼を広げ、死を受け入れる。
「……出来ないよ」
雪奈が弱々しく呟く。
「全く、偽善者ぶるのもいい加減にしなさいよ」
右手をポケットに入れ、明里は続ける。
「別に、私はどっちが勝とうが死ぬつもりだったのよ。雪奈が死ぬか否かの違いだけ」
ポケットから出した手にはナイフが握られていた。それで己の首の動脈を狙う。
だが、ナイフが首に触れるよりも先に、鎌が右手首から先を切り落とした。
「ぎっ……!?」
明里が下がる。唯一、壁がない面の方へと。あと一歩でも踏み出せば転落する。
「早まらないでよ姉さん!」
下手に刺激しかねないので、雪奈は近づけない。
「私はね、本当は雪奈が羨ましかった。何があっても愛してくれる人が、私にはいなかったから」
「姉さん……」
明里は穏やかに微笑むと、最期の言葉を遺していった。
「さようなら。また地獄で会いましょう」
その体が背中から外に倒れていく。雪奈が手を伸ばす。その手は虚空を掴んだだけだった。
月が雲に隠れ、明里の姿が消える。少しして、水っぽい何かが潰れる音がした。
夜に静寂が戻る。丑三つ時、月が優しく街を見下ろす。
「俊治」
雪奈は振り返る。頬で月の光が反射する。
「あんたは、私の側にいてくれる?」
雪奈の目の前の男は、さも当たり前のように、彼女が待ち望んだ言葉を紡ぐ。
「あぁ、一緒に帰ろう」
優しく雪奈を抱擁する。
「うん。私、俊治のご飯なら毎日食べてもいいよ」
「それは頑張らないとな。疲れただろ? 早く帰ろう」
「うん。……でも私、足にナイフ刺さったままなんだけど」
見てみると、確かにまだ刺さっていた。
「しゃーない。おぶってやるよ。悪いけど、帰るまでは刺さったままな。出血するし」
「大丈夫。そのくらい我慢出来る」
俊治は雪奈をおぶって、廃ビルをあとにする。
「ねぇ、俊治」
「どうした?」
「安心したら、眠くなってきたの。ちょっと寝ても、いい……かな……」
言い終わるが早いか、寝息が聞こえ始める。
「着いたらまた起こしてやるよ。それまでゆっくり寝てな」
背中で眠っている雪奈に言って、夜の街を歩く。他に人気はなく、明かりは点々とある街灯のみ。見慣れた光景のはずなのに、不思議の国を迷い込んだような気持ちになる。
冬の訪れを思わせるような寒空の中、足音が一つだけ、響き続けた。




