9話『辻斬り』
立夏の涼し気な夜のことであった。
新宿、道玄坂のあたりを一人の男が提灯を持って歩いている。
ここはすでに江戸の郊外であり、現在のようなビルディングの立ち並ぶ町並みではなく人家はまばらで畑の広がる田舎風景である。どこからか、蝮の臭いのする道を注意しながら進んでいた。
六天流道場の主、録山晃之介である。
着流しの腰には当人の体型に似合わぬほどの大太刀を佩いている。晃之介も五尺八寸は背丈のある丈夫なのだが、それにしても大きな刀であった。
父、綱蔵の形見、肥前忠吉作の太刀である。晃之介自身が使う並の大きさの打刀よりも刀身が五寸あまりも長く、晃之介自身もその違いから完全に使いこなせるというものではなかった。
なにせ綱蔵は背丈が六尺を越える大男で、六天流の装備を身につけた際には腰に大太刀、背中に五人張りの長弓と狼牙棒、片手に十文字槍を持つという関所で確実に止められる系偉丈夫だったのである。
それを聞いた九郎など、
「一人関ヶ原か、お主の父は」
と呆れた言葉を掛けたものである。
ともあれその日は、以前その大太刀を手入れしていた時に目釘が折れている事に気づいた晃之介が、柄の痛みも激しいようなのでどうせならば新調しようと知り合いの細工屋に預けていた太刀を受け取りに行った帰りなのであった。
(つい、話が弾んでしまった……)
最近ようやく門人が出来たことや、奇妙な小さい友人のことなどを話し、酒などを飲んでいるとこの時刻になってしまったのである。
林の中を歩いていると妙な予感がした。
厭な気配だ。
首筋がちりちりとして全身の毛が騒いだ気がして咄嗟に前へ飛んで後ろを振り返った。
すると、既に一間の間合いにまで刀を抜いた男が近寄っていて、今にも斬りかかりそうな具合であった。足には地下足袋を履き、足音などを消しているようだ。
「誰だ」
「……」
黒い覆面の男は提灯を突きつけられて、にたりと笑ったようだった。
再度晃之介が問いかける。
「何者だ! 答えろ!」
「くくく……これは中々に使えそうな奴よ。今宵は少し楽しめるか……その刀を頂戴する」
低い威圧感のある声であった。
応える気は無いらしく、刀を己の背後に隠すような奇妙な構えを取り、にじり寄ってくる。
晃之介は大太刀を抜き放ち、不敵に笑いながら云うのであった。
「何者か知らないが、舐められたものだ。こちらから実力を試させてもらうとしよう。行くぞ!」
一息に晃之介は間合いを詰め、斬りかかる。
****
九郎が刀狙いの辻斬り強盗の話を聞いたのは、本町にあるももんじ屋『獣菜』で獣肉を食っていた時のことだ。ももんじ屋とは当時江戸で薬食いと称して獣肉を食うための店で、馬肉、鹿肉、猪肉、イタチや兎も出していたという。
たまたま店に居合わせた[切り裂き]中山影兵衛からの情報である。
「……つぅわけで、夜な夜な刀持ちの侍剣客が辻斬りに襲われてばっさりやられてんだ。刀は持ち去られてな」
「素直に自主しても白州での裁きは厳しいものになるであろうなあお主」
「おいおい拙者じゃねぇって。へへっ拙者がそんなことするような奴に見えんのかよ?」
「火付盗賊改方では総突っ込み受ける発言だな!」
多分既に言われているのであろう男は獨酒を入れた猪口を傾けながら肩を竦めた。
この獨酒、非常に臭いがキツくそのまま飲むには辛いものがあるのだが、この店で出される猪の肉がまた臭い。濃い味の醤油で煮られた肉の繊維を噛みちぎって、豚よりも歯ごたえのあるきこきこした脂肪などで口の中がべっとりと獣臭くなった後に飲むこのキツい酒が、また堪らぬのであった。
特に九郎は江戸に来て毎日魚ばかり食べていた為に獣肉に飢えていて旨そうに昼間から酒をやっている。
「つってもよ? 拙者自身は清廉潔白な身上なわけだが周りは何故かそう思わねえんだこれが」
「凄くわかる」
「火付盗賊改方の同僚や上司は手口が違ぇから拙者じゃねえってわかってくれてはいるんだが……町方奉行所の連中はそうは思ってねえみてえでよう。拙者自身、この辻斬りを解決しようと夜な夜な出歩いているっつうのにそれも怪しいから止めろって長官と実家から止められちまった」
「状況証拠まで揃いすぎている……」
確かに異様に物騒なあだ名で呼ばれる、日頃から生活態度が悪い人斬り大好き同心が夜な夜な遊びまわっていれば、
「怪しい」
と見られても仕方がない。
危惧したのは上司と旗本四千石の中山家である。
中山家は影兵衛当人がやっていないという証言を、まあ少なくとも最大好意的に判断して話半分程度には信じているものの、下手に事態が動いて影兵衛に濡れ衣でも被せられれば大変な不名誉が振りかかる。
「実際昼間だってのに今も同心の手先に見張られてるしよう、ついぶっ殺しちまいたくなるぜ」
「マジであるか……己れも仲間だと思われないだろうか」
心配そうにきょろきょろと周囲を見回すがどれが見張りかはわからなかった。或いは外からこの建物の入口を張っているのかもしれない。危険な男が相手なればこそ、慎重に。
影兵衛はため息を吐いた。
「だから拙者も困ってるわけよ。な? ここまで言えばわかってくれんだろ?」
「何がじゃ」
「辻斬りをとっ捕まえないと拙者が遊びに行けねえ。ならさっさと捕まえるに限る」
そして顔を片方だけ吊り上げるような凶悪な笑みを浮かべて九郎へ指を向けた。
「辻斬り御用の手伝いを頼むぜ? 相棒」
「えっ普通に嫌だけど」
普通に断ってばくばくと肉を食って出て行く九郎であった。
彼は一般人なのでそのような事件に付き合う義理は無い。
拗ねたような影兵衛の顔が印象的であった。
****
あくる日の朝である。
九郎はまだ開いていない緑のむじな亭で茶を飲みながらお房相手に将棋を打っていた。九歳にしては確りとルールと駒の動きを覚えているお房であったが、さすがに九郎には遠く及ばず、指導将棋のような内容であった。
お房が熟練してくれば異世界で小さなブームになった超将棋大戦ルールを教えるのも良いかもしれない。駒の種類は変わらぬのだが二回行動や精神コマンド、特殊スキルに必殺技が使えるのが特徴的なゲームである。九郎も住んでいた街区の小さな大会で優勝し[穴熊狙撃]のクロウと呼ばれたものである。
([歩兵爆弾]のエイゲル……[将棋ボクサー]のレトレア……どうしているだろうか……)
などと遠い昔の将棋仲間の顔を思い出しながらのんびりと過ごしている時であった。
緑のむじな亭入り口の戸が勢い良く開けられた。
何事かと思って顔を向けると、膝に手をついて肩を上下し息を整えている少女が居た。
老舗の呉服屋、藍屋の娘お八である。
ひどく全力で疾走してきたようで、汗だくの顔を青くして上げ、九郎を見つけた。
「おい、どうしたのだハチ子や。そんなに慌てて」
「たっ大変なんだ、師匠が!」
「なに?」
と九郎は立ち上がりお八に近寄った。
お八の師匠とは九郎と友人でも有る六天流道場の主、録山晃之介の事である。九郎の紹介から近頃、かの道場へお八は通うようになったのだが……
「師匠が辻斬りに襲われたんだ!」
「……!」
九郎は駈け出した。
人波をかき分けて一直線に晃之介の道場へ疾走る。その速度は常識離れしたような早さで、目撃した町人たちは皆立ち止まって驚きの視線を向けるが、その時には既に視界から離れている程であった。
直線距離で一里以上は離れているはずなのに五分と経たずに、減速を知らぬような早さで六天流道場まで辿り着いた九郎は急ぎ門をくぐった。
「晃之介! 無事か!?」
そして九郎の目に飛び込んだのは、柱に縛り付けられた人相の悪い珍平風の男と、その男の前に仁王立ちしているきょとんとした顔の晃之介であった。
彼は軽く手を上げて告げた。
「九郎。早いな」
「お、お主辻斬りに襲われたと聞いたが……」
「ああ。なんか襲ってきたから普通に返り討ちにしてやった」
「おい!?」
九郎は道場の床に崩れ落ちながら嘆いた。
「あの引きだと辻斬りに怪我させられたとか負けたとか思うだろ!? なんで普通に勝ってるんだ!?」
「えっ……そんなこと言われても。俺が強いからであって負けを期待されても困る」
「うがああ!」
頭を抱えて呻く九郎。心配して大急ぎで駆けつけたというのに……
晃之介はこれでもかなり剣を使う方なのでそこらの剣客相手ならば不意打ちを受けない限りそう負けることはない。わかっては居たものの実際に無傷で楽勝だとこう、
「納得の通らぬ」
気分になるのが心情であった。
「じゃあなんであんなに急いでハチ子が伝えに来たんだよ!?」
「これも修行の一つだ。体力作りは大事だから走って行くようにと伝えたが成る程、確り守ったようだ」
満足そうに頷く晃之介に、慌てて駆けつけた自分が恥ずかしいやら粗足下しいやらで頭を抱えて呻くのであった。
暫し暴れたものの落ち着いた九郎が息を整えて立ち上がると、壁に縛り付けられた男を指差して聞いた。
「それで辻斬りを捕らえたはいいが何も話さぬので今から拷問とかやっちゃうわけだろ?」
「いや、ペラペラと奪った刀の卸先とか仲間の情報とか喋り出して頼むから逃がしてくれとか言ってるのでな、九郎にも知恵を借りようかと」
「はははっ御免なすって」
「駄目駄目だなこの辻斬り!」
卑屈そうな笑みを浮かべる辻斬りに愕然とする。
九郎は半目で呻いた。
「もう適当に火付盗賊改方に押し付ければいいのではないか? 小奴ら、世間では悪どい辻斬り強盗として有名らしいぞ」
「ぼ、坊ちゃんそれだけはご勘弁を! 善良で超下手にでる町人として紙屑拾いかおちゃないとかにこれから生まれ変わりますからお願ぇします! あの全ての指に竹串を刺して火をつけてから尋問開始とかやる火付盗賊改方だけは!」
「火付盗賊改方マジ怖っ……」
「こうまで云うものだからどうもな。こいつも、俺以外襲ったこと無いようだ」
襲われた当人だというのに困った顔をして腕を組んでいる晃之介であった。ちなみに、紙屑拾いはその名の通り紙くずを拾ったり家を訪問して集め再生紙の浅草紙作りに売り飛ばし、おちゃないとは女性の抜け落ちた髪の毛を拾い集めてつけ毛屋に売るというリサイクル業者であった。
卑屈になって身を窶そうというつもりなのである。
九郎はやや思考し、
「……それならばとりあえず情報だけでも同心なり奉行所なりに垂れ込むとするか」
「ええ、しかし気をつけねえといけねえことがありやして……」
「うむ?」
辻斬りの男が微妙な表情で云う。
「実はあっしともう一人居る辻斬りなんでやすが、そのもう一人……名前は知らねえけれど、凄腕の剣を使う同心なんでさ」
「……あっちゃー……やっぱりかー……やっぱりやっちゃってたかー」
九郎は額に手を当てて参ったようにうんうんと首を振った。
第一候補的中のようであった。謎の辻斬りと知り合いの[切り裂き]中山影兵衛の姿が見事に重なった。
男は続ける。
「だから下手に密告するとそいつに気づかれて逃げられかねないですぜ。どうも勘働きの良い奴みてえなんで」
「わざと容疑者になってアリバイ工作までしてるなんて……怖ろしい奴め」
こうなれば自分を誘ったのも、夜道で襲いかかるためだったのかもしれない。
そこまで考えて九郎は、はっとして気づいた。
「ま、まずい」
「どうした? 九郎」
「そのイカレ辻斬り野郎と親しげにしているところを同心の手先に見られておる! このままだと己れも仲間だと思われかねん……」
さらに、
「その男を召し捕らえようとすれば、同心らも大勢死人が出る……大事と関わってしまっているぞ」
「よくわからないが、どうするんだ? 手を貸そう」
「うむ」
九郎は重々しく頷いてごつごつした晃之介の手を取った。
「己れらで辻斬りの残りを捕まえて番屋に突き出すぞ!」
****
(ええと、アカシック……なんとかバーン……ⅡだっけかⅢだっけか)
九郎は背中に異世界から持ち込んだ名刀、アカシック村雨キャリバーンⅢを背負って夜道を歩きながらどうも思い出せない剣の名を考えていた。
この世界に来てすっかり使わなくなり埃をかぶっていた上級概念式武装なのだが、九郎もうっかり名前を忘れてしまっているようであった。
見事な拵えと朱色の鞘に収められたそれは誰が見ても、
[怖ろしいまでの名刀]
に見える。実際にそのような畏怖を生み出させる魔力……名称[凄い概念]を付与されて作られた刀でもあった。誰が見ても凄く思えるのである。
刀狙いの辻斬りが、そんな名刀を持っている小僧が独り歩きしているのを見つければ必ず襲うであろうと予想して、敢えて人気のない道を九郎は歩いていた。
その九郎からやや離れて、建物の影などに隠れるように追いかけているのは弓を持った晃之介である。
口に短冊のような紙を咥えている。それは九郎の持っている魔法の呪符[隠形符]というものだ。口に咥えていると内部に秘められた魔力により、使い手の姿を隠す効果がある。もっとも、目視不能なだけで匂いや音は伝わる為に使用時には注意が必要なのだが……
ともあれ、おまじないとして晃之介にそれを使わせて後ろからついてこさせているのであった。当時の人は信心が高く、おまじないなども多く流行していたので特に疑問にも思わず、姿を消した晃之介はそれと気づかずに付いてきている。
九郎の刀を狙って辻斬りが現れた時に援護射撃をする計画である。
だが、あの影兵衛のような男が不意打ち気味に仕掛けてきて一撃目をまず生き残れるかどうか……九郎の腕にかかっている。
(しかしまあ、この前盗賊と争ったばかりなのに今度は辻斬りと関わることになるとは……)
江戸も物騒なものだ、と自分から首を突っ込んだのだったが、九郎は思うのであった。
半刻程も歩いただろうか。
意外に、覆面を付けた辻斬りは九郎の正面から自然と歩み寄るように現れた。
刀を背負いつけているので背中から切りつけるのが確実性がないと見たのだろう。
九郎は刀に手を掛けた。まだ抜かない。
「お主……やはり、とだけ言わせて貰う」
「……」
「悪鬼め。いくぞ」
合図だった。
風切り音と共に矢が辻斬りに放たれる。練習用ではない半弓(長弓の半分の長さの弓)から打たれた矢は一直線に辻斬りへ向かう。闇夜に飛来するそれは視認することなど不可能だ。
当たる。
当たったが如何な察知をしたのか、辻斬りは左掌に矢を貫通させて、それでも受け止めていた。
それを意外には思わない。続けざまに九郎は懐に入れていた石塊を投げつけた。
余人の放った石塊ではない。
だが、矢の刺さったままの左手で殴りつけるように石を打ち払った。恐らくは手指の骨が砕けただろうが、気にせずに辻斬りは滑るような足さばきで九郎へ迫る。
九郎がアカシック村雨キャリバーンⅢを僅かに鞘から抜いた。一寸ほど抜かれた刀身に月光を反射したそれは、対峙し切りかかって来た辻斬りが思わず目が吸い込まれるような、
「凄い」
と、呟くほどに刀に気を取られた。
それが一瞬の隙となった。
見えぬ弓使いから放たれた二の矢が、視線を刀にやった辻斬りの右膝に突き立った。
膝に矢を受けては歴戦の戦士だとしても如何ともし難い。
それでも九郎を切るべく振るった辻斬りの凶刃を、肌一枚切らせて避けて辻斬りの体に固く握った拳からの凄まじい当て身を叩き込んだ。
「ごふ……」
とても耐えられるものではない。
肺に溜まった息を全て吐き出したような声を上げて、辻斬りは倒れ伏した。
隠形符を手に持ち直した、半弓を持っている晃之介が駆け寄ってきて、
「九郎、無事か」
「御蔭でな。しかし恐るべき男よ。此奴をここで捕らえることが出来て己れは少し安心したぞ」
言いながら、倒れ伏した辻斬りの覆面を剥ぎ取る。
それは全然見知らぬ中年の男であった。
「……違えじゃねーか! 糞っ紛らわしいなおい!」
九郎は気絶した知らないおっさんの頬を思わずぶん殴った。
****
事件はその後、火付盗賊改方に委ねられることとなったが、九郎と晃之介が捕らえた辻斬り(最初に捕らえた男は離してやった)の正体は、同心の格好をして悪行を働くという有名な悪党、同心二十四衆が一人[似非同心]の村岡拾朗であった。
もちろん正当な同心ではない。元は上方の方から流れてきた浪人なのであるが、同じような変装の手口で様々な事をしていたらしい。何故偽物なのに二十四衆に入れらているのか甚だ疑問であった。
普段着の裏地を同心の柄にしておりいつでも身を変えられるようにしてあるというのは周到な事この上ない。
切り裂き同心、中山影兵衛(及びにその一味と目される蕎麦屋の九郎)の疑いは晴れて一件落着である。
村岡、並びに辻斬りと知っていて刀を仲買していた商人は獄門と処された。
とはいえ、同心の格好をしたものが大手を振るって江戸の町を歩き、また辻斬りなどをしていたという事がお上に知れてしまったのだから大きな騒ぎになったのであるが、そこまでは九郎の与り知らぬことであった。正しい身分証明の無い九郎は犯人の引渡しなどを晃之介に任せたのである。
この功績から晃之介の武芸、とりわけ弓術が一部の武士の間で知られるとなり、後に弓術の指導としてとある大名屋敷へ呼ばれたりすることとなるが、それはまた別の話である。
なお、結局この度でも振るわれることのなかったアカシック村雨キャリバーンⅢは九郎の部屋で再び凄い部屋干し竿代わりにしている。凄い。
「ばっかじゃないのあんた! ばっかじゃないの師匠!」
褌一丁で大根飯と豆腐に醤油をかけて食っている九郎と晃之介を見てお八は指をさして怒鳴った。
汁は無かった。白米、大根、豆腐と江戸の三白と呼ばれる食の基本三種類が揃っている質素にして粋な食事……実際は貧乏臭いのではあったが。
普段から実家で上流の食事をとっているお八から見れば在り得ぬ食事風景だった。
晃之介と九郎はため息を吐きながら云う。
「くっ、あの時に半が来ると思ったんだけどな……」
「またしても全財産をスッてしまうとは……石燕にたからねば」
「普通、賭博に持ち金全てかける!?」
噛み付くような態度でもそもそと飯を食らう二人を説教するお八である。
晃之介は「ふっ」と息を吐いて決め顔で告げた。
「男にはやらねばならない時があるんだ、お八」
「そして己れらは男なのだよ……」
「ちょっと良さげな言葉で誤魔化すな!」
晃之介は見事世間を騒がす辻斬りを捕らえた褒美として金一封を貰ったのだが、九郎と山分けした後に早速賭博につぎ込んだのであった。
九郎もリベンジマッチめいた意識があったのかもしれない。晃之介はまんまと乗せられた形になるが、恨み事一つ言わぬのはこの男の真っ直ぐなところであった。騙されやすいともいうが……
どちらにせよやはりスって褌状態になってしまったのである。そんな状態でむじな亭に帰るとお房に怒られるので晃之介の道場に泊まった九郎であった。
くしゃくしゃと髪を掻いたお八は唸るように云う。
「あーもう、あたしが古着屋からなんか着るもん買ってくっから待ってろ!」
と走り出して云った。
しみじみと九郎が云う。
「口は悪いが根はお人好しな娘だの」
「そうだな」
「というかお主、替えの服は持ってなかったのか?」
「質に入れていてな……折れた木剣やお八用の道具を買い揃えていたら金が無くて」
「……頑張れよ」
「ああ、お八も見どころ……というか根性はある見たいだからな。それなりに指導もやりがいがある」
それは何よりだ、と九郎は味気の無い大根飯に渋目の茶を掛けてさらさらと啜った。茶は、藍屋からの差し入れのようで上等だった為に、思いの外美味であった。
飯を二人で喰らっていると、ちらりと晃之介が視線を一瞬だけ上にした後、また飯へと戻しながら小さな声で、
「ところで、あれはお前の客か?」
「……あれというと?」
「道場の入り口でこちらを伺っている……」
というので、疚しいところの無い九郎は堂々と振り向いて見る。
そこには例の陰間が顔を半分だけ出してこちらを伺っていた。
玉菊である。仕事でもないというのに顔には薄く化粧をして、やはり女物の着物を確りと着こなしている。十人が見れば皆、可愛らしい少女だと思うであろう。男だが。
九郎は軽く顔を顰めながら、
「……ここ最近妙な視線を感じると思うておったらお主か」
「……」
「ええい、黙っておらぬで見られたのなら逃げるか入ってくるかしろ」
と、告げると許可を得られたとばかりに軽い足取りでぽっくり下駄(遊女の下働きが履く下駄である)を脱いで道場に上がってきた。
「ようこそおいでませ、男の世界へ!」
「妙なことを云うな!」
男二人、褌姿で飯を食っているむさ苦しい空間へ深呼吸しながら近寄るのであった。
晃之介もなんとなく見覚えがあったらしく、
「いつだったか盥に乗っていた……」
「ですよぅ! 漁師さんに拾われなかったら成瀬川土左衛門みたいになってたでござんす!」
「ああ、あの力士の」
水死体はぶくぶくに膨れるものだと知っている晃之介は、その当時まだ現役である力士、土左衛門の姿を思い浮かべて頷くのであった。確かに顔まで膨れた容貌と、力士にしては青白い肌が水死体のようなのであると、相撲の見物客の間では密かに囁かれている。
本人の耳に知れればその噂をした者と、場所の途中であろうが大喧嘩を起こしてしまうであろうが……江戸時代、まだ組合のような組織が出来ていなかった時の相撲取りは荒っぽく喧嘩っ早いものが多いのである。
それは兎も角、玉菊は後手に隠していた弁当箱のようなものを二人に差し出した。
「大根飯と豆腐だけじゃ大の男が精も付きんせん。わっちの手料理を喰ろうてくりゃれ?」
と、蓋を開ける。
そこには鰻の切り身と山芋と葱を串に刺して、山椒味噌を塗り、炭火で炙ったものがぎっしり入っていた。
玉菊は頬を抑えながら嬉しそうな笑顔で、
「これを食べれば朝からでも益荒男! いきり勃つ須佐之男!」
「目的意識の高すぎる食材であるな!」
鰻も山芋も、精をつける為の食材だと江戸でも認識されていたようだ。ただ、どちらも田舎っぽい為に庶民の供であった。もう少し後の年代に鰻が蒲焼きとして手間をかけて食うようになるまで、ぶつ切りにして炙った簡単なものが多かったのである。
ともあれ、味気のない大根飯を食っていた二人には濃い味付けのそれは美味そうに見えたために、まず晃之介が嬉しそうに手をつけてまだ温かいそれを食い始めたため、九郎も渋々と玉菊の差し入れを頂くことにした。
山椒の香りがつんとして、柔らかく味噌の染みたとした鰻の身にほこほこねっとりした山芋、焼いて甘みが増した葱の爽やかな風味が食欲をそそる。
「旨いな……ところで、九郎の妹か誰かか?」
「うふふ、わっちは九郎様の良い人でありんす……」
「そ、そうなのか? ……九郎、進んでいるんだな……」
意外そうな顔をしながらもあっさり信じる晃之介の人の好さが憎かった。
九郎は串を齧るようにしながら嫌そうな顔で、
「そもそも此奴は男だ」
「なるほど……妙な方向へ凄い進んでいるな九郎! 落ち着いて引き返したほうがいいぞ!」
「違うわ!」
座ったままどうやったのか一尺程後ろに引きつつ感心した声を上げる晃之介に全力で否定した。
それで玉菊が接吻でもせんばかりに口を付きだしてひっついていくるのだから、片手で接近を拒みながら苛立たしげに声を上げる。
「だいたいお主、しょっちゅう姿を見せるが仕事はどうしたのだ、陰間の仕事は!」
「やでござんすなぬし様。この界隈じゃ常識でありんすが、陰間の仕事は休み休みやりませんと、後ろの菊が酷いことに」
「知りたくなかった常識だ!」
頭を抱えるが、何か面白そうに晃之介がはっと気づいたような表情になってから口元を抑えた。
「尻だけに……知りたくなかった、か。ふっ……ふふっ」
「……」
「……」
二人の反応は無かった。
一人、何か壺に入って笑いを忍ばせる晃之介を見ながら、何処か先程より一段冷えたような串焼きを九郎は味気なく齧るのであった。
一方でお八、古着屋で晃之介の服は適当に見繕ったものの、九郎に着せる服を延々と悩んでしまって中々帰って来なかったという。