8話『知り合った連中』
神楽坂に建っている庭付きのとある邸宅には、
「妖怪が潜んでいる」
と、云う噂がまことしやかに語られるようになったのはここ数年の事である。
その噂を聞いて妖怪屋敷を早速訪ねようと鳥山石燕が意気込んだのであるが、肝心の現場が彼女の自宅だったので心底がっかりしたようである。
原因は明らかに年中喪服で妖怪画を好んで描いている石燕なのであるが……
ともあれ、石燕の屋敷……自称[船月堂]は不定期に彼女の生徒らへ勉学や画の技法などを教える私塾となることがあった。
主な生徒は従姉妹である佐野房と同居している百川子興である。
他にも生徒は居るのだが塾の日程が適当、というかお房が家に来た時だけしか開かずにそれ以外の日は大抵昼間から飲み歩いていたり、魑魅魍魎を探し歩いていたりして留守にしているため、家に住み込みの弟子をしている子興ぐらいしか参加できていない。
そもそも石燕がいちいち他人に教えるのが面倒だと思っているので、彼女を師と仰ぐ者は適当に狩野派の師匠筋に押し付けているのであった。地獄先生と名乗る割には駄目な教師である。
その日は珍しく石燕の塾が行われている日である。
お房に読み書きを教える傍ら子興に漆絵の手ほどきをしてやっているようであった。石燕自身は単色を使った錦絵を得手としているのだが、弟子の子興はむしろ様々に色を使うのが、
「面白い」
と思っているようだ。とは言え画法は広く習得し、軽く熟せてしまう石燕なればこそ、子興が望む画法を指導することも容易いのであった。
漆の匂いが部屋に篭らぬように風通しを良くしているその塾で、初顔の生徒が頭を抱えて教科書代わりの黄表紙(大衆向けの絵本のようなもの)と睨み合いをしている。
九郎である。
「むう……」
目を細めていても書かれている字は変化しない。つまりは九郎、あまり字が読めぬのであった。
日本語で書かれてはいるものの、300年程未来で生きた九郎からしてみれば古語他ならない。漢字は読めるのだが接続詞に現代では使われていない文字が加わっていたりひらがなが矢鱈達筆に見えたり、中々に難しい。
全く字の読めぬものならばすぐに投げ出すのだが、中途半端に読める為に頑張って読み解こうとしている姿を見て子興は目を細めながら、
「九郎っちいつも大人ぶってるのに意外だね」
などと誂うものだから苦い顔で九郎も否定をする。
「ええい、この時代は字の癖が書き手によってありすぎなのだ。この草紙に比べれば石燕の書いた字がまだ読み易いぞ」
「おや九郎君から褒められるとは。雨でも降るのかね……はっ、まさか九郎君は妖怪『雨降り小僧』だとでも云うのかね!?」
「なんだその妖怪は」
「雨を降らす小僧の妖怪だから雨降り小僧だよ。雨の神の遣いだとも言われているね」
「名前がそのままというか適当だな……」
九郎はまったく関係ないが東南アジアに住む猿の仲間、カニクイザルを思い出した。カニを食う猿の名称である。
子興が続けて、
「豆腐小僧と並んで黄表紙では人気妖怪なんだ。ええと、確か師匠の出した雨降り小僧と豆腐小僧の衆道系薄い高い本の売れ残りがその辺に……」
「見せんでええわい」
本の山に手をかけた子興を止める九郎。こんな時代でも薄い高い本はあるのか、とため息を吐いた。というかこの時代、本は版木を彫った物を一枚一枚紙に転写して紐で綴じていたのだから必然とどれも高価なのであった。庶民は貸本屋で借りるのが普通である。
よくよく思い出せば異世界にも同人誌即売会が行われていた。
商業都市で年に一度、各国から作家たちが集ったものである。壁サークルが魔王だった。かのイベントでは商売神と宴神の加護により邪竜だろうが悪霊だろうが神殺しの大罪人だろうが、商業目的ならば安全に滞在が出来るのであったが……
考えにふけっていた九郎を見ながら石燕が子興に告げる。
「言い忘れていたが子興君、実は九郎君は遥か未来から時間移動してきた未来人なのだよ。この時代の文字が読めなくても不思議ではない」
「……ああ、うん。そうなんだ、大変だね」
一瞬間を開けて考え、子興は優しく受け入れるように頷いた。誰だってとは言わないが、妙な設定に被れる時代はあるものである。
熱心に信じさせる気力も沸かないのか九郎は気にせずに、目の疲労を取ろうと寄せた眉根を揉んだ。
石燕は含み笑いを漏らしながら告げる。
「ふふふ。そのうちにこの、世界を大いに盛り上げる為の石燕の塾に宇宙人(仏教用語)や超・能力者も集うのかもしれないね」
「頼むからその発言を後世に残すなよ」
なにやら歴史だか著作の危機を感じた九郎は半目で睨みながら釘を差したのだった。
*****
昼飯は魚売りが来たので子興が鯵を買ってたたきにした。
三枚に下ろした鯵の切り身を丁寧に包丁で細かく叩き、紫蘇の大葉と茗荷の細切りを加えて上に摩った生姜を乗せて生醤油で食べるのである。
小さく刻まれた身に生醤油がよく絡み、茗荷の歯ごたえと大葉の爽やかな風味が生臭さを消してこれを白い飯と合わせるとまた格別なのであった。特に、炊きたてではなくやや冷えて硬くなった飯に合うのである。
喉につっかえそうになりそうなぐらい掻きこむ九郎を、嬉しそうに子興は眺めるのであった。
「うう、師匠は外食ばっかりであんまり小生の料理食べてくれないけど……」
「いや中々に乙なものだぞ子興よ」
九郎が褒めるのを聞いて隣で食うお房も頷きながら、
「子興姉ちゃんは日頃の家事によく気配りが出来るって評判なの。……まあ、嫁の貰い手が無くて可哀想だからあたいが流してる評判なんだけど」
「お房ちゃんの気遣いが逆に哀しいよ!?」
「地獄先生の弟子では仕様が無いの。子興姉ちゃんも妖怪の類だと思われてて嫁ぎ遅れとは……可哀想」
「お房ちゃんも将来的に同じ運命を辿るからね!?」
かしましく騒ぐ二人は兎も角、小さな魚のつみれが入った冷たいすまし汁を飲んで美味そうにしている九郎に自慢げに石燕は云うのであった。
「料理も私が教えたのだよ? 不味いものでも作ってみたまえ。八丈島で版木を彫らせる修行に行かせるところだよ──ああ、それと酒を出したまえ」
「はぁい」
割りと本気で島流しさせるつもりがあるのを知っている子興は僅かに青ざめながら徳利を持ってきた。
実際に八丈島に伝わる山に住まう妖怪[テンジ]を調査しに石燕が行った際、連れて行った同門の北川何某が置いていかれたのを目撃しているのであった。その時の北川の失敗した焼き魚のような死んだ目が何とも言えなかったのである。帰ってきても北川は、
「テンジちゃんまじテンジ」
と、ぶつぶつ呟く危ない精神状態になっていたほどであった。
その時の様子を九郎に子興は語って聴かせるに、
「すぐにお寺に連れて行ったんだけど、お坊さんが『お前たち何をした!』って怒鳴りだして北川の髪とか切って親戚とか呼んで『残念だけど助からんでしょう……』って」
「どこかで聞いたことのある洒落にならない怖い話風になっとるぞ……それでその北川何某はどうなったのだ?」
九郎の疑問に師匠である石燕が応える。
「うん、それ以来あの男は人が変わったように春画ばかり描くど助平になってしまったのだよふふふ」
「何故に!? どういうオチだそれは!」
笑いながら石燕は、話を肴に盃に注がれた酒を飲み干す。見ながら九郎は、
「……昼間からよう飲むなあ」
と呆れたような声を上げるのであったが、諦めたような顔で子興は、
「師匠はとにかく酒飲みだから……この前も詩吟の会で『朝もよし 昼もなおよし 晩もよし その合々にちょちょいとよし』とか詠ってたぐらい」
「酒飲みの何が悪いというのかね?」
「主に肝臓とかが悪いであろう」
「ふふふ」
九郎から目を逸らす石燕であった。
やがて開き直ったかのように告げる。
「昼酒昼風呂昼寝は作家の意気地だ! さあ子興君、風呂を用意したまえ」
「はぁ……」
「まあそのなんだ、頑張れよ」
恐らく本日の塾終了のお知らせにため息混じりの子興を一応励まして、町にでも出かけようかと立ち上がった九郎の手を石燕は掴んだ。
「君も風呂に入っていくかね九郎君。入っていくね。よし」
「断固辞退するわい」
きっぱりと断って逃げるように立ち去った。
****
江戸の町は当時世界でも有数の観光都市でもあった。
『江戸見物四日めぐり』と題される資料に見られるように現代で云うガイドブックのようなものも様々に出版されていたようである。地方からやってきた労働者や藩士らはこぞってそれらを購入して非番の日は歩き歩いていたという。
遊び歩くに退屈しない。神社仏閣を巡るだけでその境内にある屋台出店や、大道芸も多く見られて九郎は見物に出歩いていた。
草餅を片手に道を進んでいるとなにやら立派な店だが鯨幕が掛かっている店の前に通りかかった。鯨幕は白黒の幕で葬式などに使われるように縁起の悪い……というか喪に服したり穢れがあったりするときにかけるものである。
徳川五代将軍綱吉が制定した法令に服忌令というものがある。これは穢れが発生した際にどれだけの期間忌引きにすれば良いか細かく決めたものであった。
恐らくはこの店舗、最近何らかの死人でも出たのか店を開けることをせずに居るのだろう。
だが、何処かで見たような……と九郎は少しの間立ち止まって首を傾げた。
すると、店の中から出てきた少女と目があった。
お八である。
「……あ」
「ん、ここは藍屋だったのか。夜と昼では印象が違うな」
納得したように草餅を飲み込んで頷いた。
そして、
「じゃあの」
と軽く会釈して立ち去って行こうとしたのだが……
外に出てきたお八が家の中にすっ飛ぶように駆けて行き、そして再び走り降りてきて九郎の袖を引っ張り込むのであった。
「ぬぁ!? どうしたのだハチ子」
「親父とお袋が呼んでんだよ! 早く来い!」
「わかった、わかったから引っ張るでない」
なにやら慌てている様子のお八を宥める九郎である。
店の奥に連れて行かれると品の良さそうな夫婦が並んで座ってこちらを見ていた。
お八は引っ張っていた手を離して姿勢を正し、
「と、父様、母様! 連れて参りました!」
「親父とお袋ではなかったのか──痛っ」
ぽつりと口走った九郎の背中をこっそりと軽く摘んだ。
しかしその行為も気づかれたようでお八の母は戒めた。
「お八。命の恩人になんという事をしてるのです。それに連れて参ったではなく、お連れしました、でしょう。言葉遣いを直しなさい」
「はい……すみません」
叱られてうなだれるお八であった。
別段九郎は気にしていないのだったが、そこは有名な商屋の娘であるお八にもその両親にも、面目が有るのだろう。
座敷に上がって並んで隣に座っているお八は大人しくしている分には可愛らしい少女であるのだが……やはり口の悪さは両親も気にしているようだ。
(子供は元気なぐらいで丁度良いがの……)
九郎は頬を軽く掻く仕草をしながら思った。
少し居心地悪そうな態度を察したのか、娘を叱る妻を制して大旦那が頭を下げた。
「これ……失礼をしました。改めましてわたくし、藍屋の主をやらせて貰っております芦川良助と申します。この度は危ういところをお助け頂いてまことありがとうございました」
「ご丁寧に……己れは九郎だ。蕎麦屋の[緑のむじな亭]で隠居しておる」
「な、なんと、佐野六科のところにですか?」
「うむ。少しばかり旅先で縁があってな。店を幾らか手伝う代わりに住まいを借りているのだ」
「左様でしたか……いえ、実は佐野六科の亡妻はわたくしの娘、お六。つまり彼はわたくしの義理の息子に当たりまして……奇縁に驚かされます」
「そうであったか」
偶然助けた相手が六科の親戚だったとはつゆとも思っていなかった九郎は素直に驚いた。
店にお八が来てすぐに去っていった時は、てっきりお房の友人か何かだと思って深くは聞かなかったのだ。
妙なめぐり合わせに感じ入ったのであるが、良助は用意していたものを九郎の目の前に差し出した。
紫色の布で包まれた小判だ。十枚ほども重なっている。
「む、ご主人。これは……」
「遠慮なさらずに気持ちよく受け取ってくだされ」
「……ならば有難く頂戴しよう」
良助の顔から誠意というか、感謝というかそういう感情を感じたため、断るのが、
「逆に失礼」
に思えて九郎は素直にそれを受け取り懐に仕舞った。
その後も茶と菓子などを交えながらお互いに世間話をした。
九郎の出身なども聞かれたがやはり適当に濁すのであった。この場合に家族が押し込みにやられて皆死んだという話の振り方は、向こうがそれ以上突っ込んで聞いてこなくなるので便利だと思ったが、真剣に同情してくる相手だと少々罪悪感が沸くのである。
この店主夫妻も同情から「うちに住まないか」などと言ってくれたのだが、どうどうとぐうたら出来る環境であるむじな亭に愛着があるので丁重に断る必要があった。
見た目よりも実年齢が高いこともさり気なく伝えると、大人の盗賊を投げ飛ばす肝の太さと落ち着いた態度からむしろ、
「やはり」
と相手が納得するほどであった
九郎と良助は妙にうまがあったのか楽しげに談笑していると話題はお八のことへと映った。
「実は……」
と困ったように夫婦が目配せして語った内容は、お八があの事件から妙に剣術などを学びたいと頼んでくるのであるとか。
窮地に陥った時にいつもの強がりすら出せずに震えて泣いてしまったのが余程堪えたのだろうと九郎は思った。そもそもそのような状況で怖がるのは十代の少女なのだから当然なのではあるが、やはり本人の負けん気が強い性分なのだ。
「とは言っても女が剣術を習うなどはしたない、と止めるのですが……」
「勝手に剣術道場を覗きに行く始末でして」
「ほうほう」
「んっだよ……別にいいじゃねえか……」
ぼそぼそと親に聞こえない程度の声量で云うお八を九郎は微笑ましく思う。
少しばかり助け舟を出そうと思って告げてみる。
「しかしご主人よ、この通り……云ってはなんだが、ハチ子は気性が激しい性分であろう。いつも家に閉じ込めて細々としたことばかり教えられても、そのなんだ……すとれす、ええと苛立ちのようなものが溜まってしまって余計に仕事が捗らぬのではないか?」
「そ、そうそう。そうなんだよ、体動かさないで縫い物とかやってるとむずむずして失敗しちまって……」
「これ」
「あっ……す、すみません」
「よいよい、誰ぞ聞いているわけでもなかろう。話しやすいようにしておくれ」
叱る母親に九郎が窘めるようにする。
九郎殿が言われるのなら……と母親も娘の言葉遣いに関してはとりあえず棚に上げること決めたようだ。
「だからだな、週に一度か二度程度でよいからお八の好きなようにさせるのもよいと思うぞ。剣の道は礼儀や心を鍛えることにもなるからな」
「……しかし九郎殿、女が木剣を振るうのは兎も角、わたくしはこの末の娘が、むさ苦しい男ばかりの剣術道場で叩かれたりするのが心配で堪らないのですよ」
「ううむ」
確かに、少女が剣術道場などに通うのも珍奇な目線を向けられるし、乱暴な男のいる道場などに行くのはいささか怖ろしい気はした。
お八がやりたいことは応援したいが、少女を危険な目に合わせるのは……と考えた九郎がふと思いついた。
むさ苦しい男など居らずに、少なくとも信用のおける主が居て、周囲から嗤われないような道場をだ。
「そうだ、己れの友人がやっている道場があるのだが、そこは道場主以外門人は居らぬような寂れたところでな。主の腕前と人格は己れが保証する確かな男だが……」
「ほう、それは……あ、もしや九郎殿と同門の方で?」
「いやいや、己れのはジグエン……ええと、薩摩示現流の荒っぽいのを習っておるからな、女子供には全くお勧め出来ん。一方でその男は剣から弓や棒までなんでも使える見事なわざまえでの。己れが紹介できるのはそこぐらいだなあ」
以前に勘違いされたように、適当に薩摩示現流を習ったことが有るという設定を前に出す。
実際に習っていたわけではないのでとても指導はできない。それに女のやる流派ではない。なにせ本場である鹿児島で、未婚の薩摩男児は家族以外の女人を自ずから目にしただけで私刑に合うような怖ろしい世界だと九郎は思っている。
お八は顔を上げて、声を絞り出して言った。
「あの、父様、母様……っ」
そこで声が詰まってしまって、一瞬九郎の顔を見たが彼は優しげな顔で頷いた。
後押しされたような気持ちになってお八は続けた。
「そこに通いたい……です!」
「……」
母は苦々しい顔をしながらも判断を夫に任せたように彼を見やる。
腕を組んで難しい顔で考え込んだ良助だったが、やがて破顔して告げる。
「そうだな、九郎殿に免じてその道場に行ってみろ」
「やった!」
おおよそ見るに人のよさそうな主人は、孫のように年の離れた娘の要求を頭を掻きながら受け入れるのであった。
「ただし、しんどいだの辞めたいだの一言でも云うたら二度と行かせんからな。それ以外でも家で針仕事も算術も確りと学ぶことが条件だ」
「うん、わかった! あんがとな親父!」
「おーはーちー……」
「うわっご、ごめん」
睨まれてすぐに謝るお八を見て九郎は小さく吹き出し、口を隠した。
奥方は意地悪そうな顔をしてお八に云う。
「そんなことでは何時まで経っても、九郎殿に差し上げる服は出来上がりませんからね」
「ちょっ……! そ、そ、それを言わないでくれよ!?」
密かに。
呉服屋の娘として九郎に服を作ってやろうと思いながらも持ち前の不器用さで中々にそれが出来ないお八は顔を赤らめて母の発言を遮る。
特に頓着せぬ九郎はむしろ、お八が感謝の気持ちを服にして渡そうとした意気を思って、
「なんだ、お主。意外に義理堅いおなごだの」
などと孫ほども年の離れた年若い少女のいじらしさに笑みがこぼれる。
九郎と微笑ましそうに見る父母の視線を受けて、頬に朱を差したようになったお八が、
「う、うるせえ!」
と、九郎を小突いて照れを隠すのであった。
****
一刻半程も藍屋で過ごしただろうか、帰るときにはまたいつでも来てくれと主人に言われ、気分よく出て行った。
江戸の町は既に夕焼けに染まっている。仕事を終えて家に帰る人らが町の通りに多く見られた。
九郎は懐に入れた十両を、さてどうしようかと考える。正確な金銭感覚はまだ無いものの、一両を使って様々な買い物をした経験から十両は大層な大金だということは知れた。
(例えば時代小説の人物ならば馴染みの岡っ引きへの礼金などに一分だの一両だのぽんと使うのであろうが……)
と様々な事件の解決のために気風よく金子を都合する時代小説などを思い出すが、九郎に何か物事を頼みたい岡っ引きの知り合いなど居ない。
知っている同心は[青田狩り]の利悟ぐらいだ。何も頼みたくない。何も。
基本的に蕎麦屋に住み込み居住は確保されていて、あとはせいぜい上酒を買う程度にしか大きい金を使う機会の思い当たらない九郎は、むしろ大金を貰っても使い方に困るのであった。
(銀行等は無いだろうしなあ……)
床下貯金でのしておこうかと悩みながら歩いていると、声をかけられた。
「ちょいち! 一寸待ちなぁ。おいおい、奇遇だな坊主」
「む? ああ、お主か……」
気さくに手を上げてどこか剣呑な眼の色をしたまま笑顔を作っている、着流しで髭の生えた浪人風の中年だ。
[切り裂き]同心、中山影兵衛である。
同心と言えばひと目で分かるような紋付袴を着ているものだが、何時見てもこの男は無頼か破落戸の類のごとき服装をしている印象であった。無論、職務中ではなく非番なのだろうが……
「いやあ、実はこないだの藍屋の事件で殺しすぎて謹慎喰らってよぅ」
「謹慎してろよ」
「んなこと真面目にするわきゃねぇだろ? 今の拙者ぁ流れの浪人、まあ適当に三郎とでも名乗ってるわな」
肩を竦めながら云う影兵衛であった。
生家である中山家でも影兵衛は三男にも関わらず自由気ままに家人を言いくるめているようなのである。特に当主である彼の兄などは、一度御前にも上がった剣術勝負で代役を務めて貰った弱みがあったため、この個人武勇の矢鱈と強い男に融通を効かせているのであった。
「てめえに声を掛けたのは他でもねぇ。藍屋には行ったかよ?」
「うむ……十両も渡された」
「実は拙者もだ」
彼は懐から小判の束を取り出して広げると「へへ」と笑った。
「だがしかぁし! 十両の使い道に困っていると見たぜ」
「……いや、貯金しようかと」
「甘い、甘い。いいか坊主、宵越しの金を持たぬのが正しい江戸の生き方ってもんよ」
「ふむ……」
九郎は微かに覚えのある江戸の知識を喚起させた。
火事が頻繁に起きて財産全て焼けてしまう危険性のある江戸の町では貯金などは流行らなかったらしい。少なくとも年内には稼いだ金は使い切っていたとか……
郷に入れば郷に従え。
影兵衛が云う。
「救った善意から貰った金は世のため人のため使うのが同心つぅか、幕府から石高貰ってる役人の立場だとは思わねぇか?」
「まあ……確かに」
「つっても拙者ぁ謹慎中で役人じゃなく浪人の三郎だもんなぁ! 同心じゃねぇし可愛い子ちゃんと飲みに行って賭博でぱぁっと使おうぜぇ!」
「おいおい、そんな不謹慎なこと……まあ構わぬか」
と、二人は礼金を浪費することに決めたようであった。
予め言っておくが十両は節約すれば数年は一人暮らしの町人が暮らせる額である。
****
スッた。
可愛い子ちゃん高級女郎相手に大いに飲んだ後に、影兵衛の案内で寄った違法賭博場で容赦なく二人共無一文になりながら夜中に褌一丁で道を歩く。服まで担保に剥ぎ取られたのである。ぎりぎりで刀は残っているが。
当時の賭場は入場料はもちろん出る際にも金を要求する場も少なくなかった。身ぐるみを剥がされる、という言葉もそのまま行われていたようである。
冬は過ぎたとは言え夏には遠い夜の涼しい風が肌を冷やした。身を縮こませながら麹町の外れを下駄の音を鳴らし歩いているのである。
背中に刺青を入れている影兵衛が苦沙弥をしながら愚痴を零す。
「ええい畜生! なんだってんだ馬鹿野郎め! ここ一番の大勝負で胴元の総取りとかふざけやがって!」
「場賃を払えなくなるほど突っ込むなどと……熱くなりすぎたわ」
江戸では珍しい、賽子を三つ使った賽子賭博だったのだが三つの目が全て揃うと掛け金が全て振るった胴元へ没収されるという、現代で云うチンチロリンに近いルールだったのだ。その代わり一度ごとに払う場賃は安く抑えられているのだったが……
のめり込んで一晩で大金を全部溶かしてしまった九郎と影兵衛である。
「むしろ己れはお主が大負けして暴れださんか心配だったが」
「あん? そんな負け犬の小物臭ぇキレかたしねぇよだっせぇ。ま、賭場荒らしでも現れたら拙者が憂さ晴らしにそいつを切りがてら胴元が巻き込まれるのは……へへっ、なんだぁ自由だとは思わねえか?」
「思わぬが」
「ま、手前も大人になりゃわかるってこったな!」
かか、と影兵衛が笑うのを見て嫌そうに顔を顰める九郎だった。
馬鹿話をしながら帰り、道の途中で別れるときになって、にわかに月にかかっていた雲が取り払われて褌姿の影兵衛の背中がまざまざと見えた。
真夜中の月明かりに照らされる影兵衛の体には、背中に彫られた黒い昇り龍の刺青が彫られていた。
「しかしお主の刺青強いなあ……」
「おうよ、男の勲章よ」
そう、またしても隅の方に能力らしき文字が彫られているのであるが、[物半][水倍][二回行動][防御貫通]と非常に多い。ここまで来るともはやボス級である。何人か刺青の男は見たが、多くは何も追加文字無しか、六科のように一つだけだというのに。
この九郎はまだルール等は理解していない系統の刺青、どうやら一部で流行っているようであった。勿論、彫ったところで何ら御利益は無いのだが。
「ところでここに彫られた物半とはどういう意味だ?」
「相手からの物理攻撃半減だ」
「大人げない程の性能だなお主の竜!」
夜風の吹く江戸の街を、半裸の男が家に向かい歩いて行く。
組屋敷に一人暮らしの影兵衛はともかく、この後服を無くしたことで九郎はお房に怒られるのであった。
夜雀の鳴き声が響いている──。