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5話『玉菊』

 春らしからぬ寒さに合わせたような、小粒のあられすら交じる雨の日であった。

 神楽坂にある大きな一軒家に薄暗い室内を照らすための明かりがつけられていた。行灯には当時は高価な蝋燭が惜しげも無く使用されている。家の主は化け猫を呼ぶために鰯の油を使いたいのだが、煙と臭いが仕事道具である紙に移るのはどうしようもない為に断念しているという。

 鳥山石燕の自宅である。

 部屋の壁には妖怪画として描いた絵が幾つも貼られて部屋の中を見張っている。仕事道具以外にも書籍や茶器なども整頓して置かれていた。隅の灯火の側には、小さな水槽が置かれていて海星が眠ったように鎮座していた。飼っているものらしく『唐枇杷』と達筆な名札が水槽に掲げられていた。

 そこに招かれた客と石燕が対面して居る。


「ほう……」


 意識したと言うよりも本当に開けた口から漏れたような吐息だ。

 男は小瓶から一滴、小皿に移した暗い暗い群青色の水銀のような薬の雫を見てその音を立てた。

 顔中に白粉を塗った肌色に、細い眉をした狐目の奇妙な男だ。旅装束と着物の折衷案のような衣服を着ていて座っている隣にはいくつも引き出しの付いた薬箪笥の背負子を置いている。そして何より、顔の片方を祭り神楽にでも使いそうな狐の面で隠しているのである。

 異形とも見えるが面の販売を行なっている香具師のようにも見える。

 正面に座っている喪服の女、鳥山石燕は悪どい笑みを浮かべながら言う。


「どうだね、珍しいものだろう」

「成程、成程。こりゃあ確かにあたしでも」


 言葉を切って、半月形に口を笑みの形にした。犬歯が端から尖って見える。


「見たことが無いものですよ」


 整った顔つきだが声と仕草がどうやっても胡散臭く見える男は囁くような声音で告げる。

 狐目の男は薬師である。

 かつて大陸に渡り清で本草学や漢方について深く学び、日本に戻ってからも国中の薬草を探し集め、その効能を全て知っていると噂され将軍からも覚えのある程の人物であった。

 名を阿部将翁(あべ・しょうおう)と云う。

 見た目こそ青年のようだが年齢は知れぬ。百年以上も前の事を見てきたかのように話す彼を、


「あやかしの類」


 と呼ぶものもいるという。

 今日は珍しい薬を手に入れたという知人の鳥山石燕を訪ねてきたのであった。

 彼女が九郎から譲り受けた薬は、天然自然の材料で作る薬ではなく、異世界の魔力を秘めた液体は神農本草経における仙薬のような物であると将翁は考える。

 傷が瞬時に癒える効果の程は石燕から聞いたが、それも信じられるほどに異質な液体である。

 

「名をなんと言いましたか、この薬」

「さて、本人も忘れたらしいね。なんとか云う生き物の髄液とだけ呼ばれていたようだよ」

「それは、それは」


 このような液体を骨の髄に流す生き物がいるのならば見てみたいものだ、と彼は薄く目を瞑って呟いた。

 

「これ自体は見たことはないが、似たようなものは何処かで見たことがあるような……」


 将翁は思い出すように指先で頭を軽く小突いた。


「……ああ昔に大陸で見た、[はおま草]を絞った汁に少し似ている……ような。どちらにせよこいつは珍しい」

「そうだろうとも。良い買い物をしてしまったね」

「お幾らで購入したんですかい」


 石燕が素直に一両と当面の援助だと告げると将翁はため息を吐いた。

 目を開き、周囲を見回して棚に飾られている小さな茶碗を指さして告げた。


「あたしだったらあの一口と交換でもお断りしますがね」

「……あの長次郎の茶碗より価値があるのかね?」

「恐らくは二度と作れない、使い切りの霊薬ですからねえ……幾らでも金を出す者は居りますよ」

 

 少しばかり暴利を振りすぎたのでは、と非難するような目で見てくる将翁に石燕は「ふふふ」と誤魔化すように笑って視線を背けるのであった。

 そもそもこの時代、庶民などは滋養のある食事と休息で病を治す為に、必然と薬は金持ちに需要がある高級品なのである。このような妖しげな魔力と絶大な効果を持たない、武家用の薬でも一両以上値段がはるものはざらにある。

 九郎が貨幣価値と経済についてはまだ良くわからないから交渉も少なく破格で譲ってもらったのである。


 それに石燕の亡き夫は高利貸しをしていて金子もそうだが価値のある骨董も所蔵している。

 彼女が嫁入りした時に既に七十を越える老人であった亡夫は、悪どい金貸しとして知られていて、借金のかたに下帯すら売り飛ばすと云うほどであった。

 溜め込んだ財産も相当で美術品も多く買い漁っていたのである。もっとも、石燕と祝言をあげて一月もしないうちに急死したのであったが……

 莫大な遺産を残された若い後家の石燕を、遺産目当てに手をかけた鬼女だの魔女だのと噂が流れたが、借金の証文を全て焼き捨てて奉行所や同心御廻りに多額の賄賂を渡すことで悪言はそのうちに立ち消えたのだった。

 いつまでも喪服を着て髪も結わぬ妖怪絵師を変人奇抜だと云う声はその通りなので本人も気にしていない。

 ともあれ、長次郎作の茶碗……石燕の記憶によると三百両ばかりの価値があるそれよりも貴重な薬を、一両そこそこで買ってしまったことには若干の罪悪感のようなものを感じ始めるのであった。

 

「……今度嘉納屋の酒を持って行ってあげようかね」

「ほう、あの材木商の」

「知っているのかね?」

「この前に大阪に行った時に少しばかり縁ができましてね。なんでも酒に使う水を汲んで灘と行き来する舟が度々船幽霊に襲われると来たもので」

「──詳しく聞かせてもらおうか」


 感興をそそられたような笑みを浮かべて石燕は将翁の話を聞き入った。

 なにせこの安倍将翁、幕府に知られる高名な本草学家であるというのに、年がら年中旅をして土地土地の薬草や民間医薬を調べて回っているというフィールドワーク型の学者にして薬師なのだ。

 固有の怪奇伝承の残る土地にも赴く為に妖怪話には事欠かない。

 石燕はそれを聞くことを楽しみにしているのであった。近場であれば旅をしてでも怪奇探しに出るのだが、江戸に住を構える以上そうそう遠くへはいけない。

 二刻(四時間)程も長々と、各地であった奇怪な出来事や田舎に残る山姥や天狗などの伝承を語りまた石燕も考察を口にしたりなどして過ごした後に、将翁は雨の降る中、石燕宅を辞去することにした。

 江戸に住む他の知人らに顔を合わせに行くらしい。特殊な薬草畑の管理を頼んでいる者や薬問屋、大名・旗本などとも様々に縁のある男である。

 石燕も特に引き止めなかったが、蛇の目傘を手に取り高下駄を履いた将翁に尋ねた。


「例の薬を持っていた九郎君の事は聞かなくていいのかね?」


 貴重な、彼のような本草学を学ぶ人間にとっては喉から手が出るほど欲しがりそうな薬を持っている九郎に会わなくてもいいのか、という問いかけだ。

 彼は肩越しに石燕を見ながら、薄く口を開けて告げた。


「縁があればそのうち出会うでしょうぜ。しばらくは江戸に留まりますので」

「そうかね」

「では──石燕殿も息災で」


 狐面を顔全体を隠すように被りながら言った。

 将翁は雨で灰色に烟る江戸の通りを高下駄の音を立てながら歩み去っていく。

 彼が去ったのを確認してか、奥の座敷とつながる障子がさっと開いてほっとした顔をした若い女が出てきた。


「はあ、やっとお帰りになったぁ」

「おやおや、客が来ているというのに茶の一杯も出さない不肖の弟子じゃないか」

「うっ……」


 言葉を詰まらせる。

 女は鳥山石燕から絵の稽古を受けながら、彼女の家に泊まりこみで下女のようなことをしている。

 名を百川子興(ももかわ・しこう)という。元は武家の娘だが家が取り潰しになりあちこちの伝手をたらい回しになった挙句、絵付け師を目指して石燕に弟子入りしたのであった。今年で十七になるが近所では地獄先生の手下だと思われていて碌に嫁の行き先が無い。

 がっくりと項垂れて子興は呻く。


「だって師匠、小生はあの御人苦手なんですよ。顔は綺麗なんだけどなんか怖いから」

「確かに胡散臭いまじない師のようではあるね」

「というかあの人何歳? 聞いた噂によると少なくとも五十は越えてるはずなのに」

「私の聞いた話だと百は越えてるらしいね」

「……」


 気味が悪そうに子興は雨の中に消えていった安倍将翁を目で探したが、既に見えなくなっている。

 妖怪に詳しい師匠に尋ねた。


「師匠……あの人こそ妖怪なのでは? 狐の化身とか」

「はっはっは莫迦だなあ子興君は」


 心底見くびったような目で呆けている弟子を見やり、高らかに宣言する。




「この世には、不思議なことなど何もないのだよ子興君」




「……師匠がそれ言っちゃう?」



 石燕の目に冗談のごとき光が灯っているのはわかるが、あんまりな断言に愕然とする子興であった。

 彼女の云うには安倍将翁と云う名を恐らく二代以上受け継がれているので見た目こそ若いのだが不思議な程年を重ねた安倍将翁が居るのであって、代替わりした事実を他に告げなかったりすれば後は化粧と異形の面で誤魔化せるのだという。

 禄を食んでいる武士ではないし、旅烏で財産も無いので代替わりしようと誰も気にしないし問題はない。

 石燕の推察であって、それが本当かどうかは知れぬが……。

 ただ、この後に客に茶を出さなかった罰として雨の中外に出されて風呂を沸かさせられる百川子興だった。弟子と言うよりも、今は只の雑用のようである。


「師匠、滅茶寒い! 痛ぁぁぁ! 雹が降ってるって!」

「いいからもっと沸かすのだ。風呂がぬるいよ」


 夏は、まだ遠い。湯に胸を浮かせながら寒気の入る窓を見つめて石燕は思った。




 ****



 二、三日降り続いた雨が止んだその日に九郎は伸びをしながら緑のむじな亭から外へと出た。後ろにはお房も付いてきている。

 雨となれば客足も鈍るかと思えば、雨宿り代わり、或いは冷雨だったために熱い蕎麦と酒で暖を取りにと平常よりも僅かに人入りのあったのである。六科が大家を務める長屋の店子達も、出かけられないとあればやむを得ず表店に食いに来た。お雪も按摩の仕事が雨で無いというので、六科の隣に寄り添い蕎麦打ちなどを手伝ったのであった。

 ところが雨が上がり今では、以前の蕎麦打ちの練習に使った分もあり緑のむじな亭は食料の在庫が殆ど無かった。

 故或り九郎とお房が買い物へと出かけることにしたのだ。


「大きな荷物は問屋さんに頼んでここに運んでもらうからいいとして、荷物持ちちゃんとするの」

「おう、わかっておる」


 と彼は細く白い腕に力こぶを作って快活な笑顔を見せた。

 父親の硬い二の腕に比べて全く頼りのない肉付きだが、一応は信頼しておくことにするお房である。何せ九郎、体こそ小さいものの力は魔女の呪符によって体の全盛期と同じだけ発揮できるのであった。その筋力は江戸の町民の中で体格の良い部類に入る六科よりも強いほどである。

 ともあれ最初は、


「お雪さんに聞いた両替商のところで一両を崩して貰うの」


 と住所を聞いた店に向かって歩きはじめた。

 現在九郎の持つ全財産が一両であるが、細々とした買い物に使うにはあまりに大きな額である。

 これを崩すのが当時江戸には多く居た両替商である。江戸や大阪で使われていた通貨は金貨五種類、銀貨五種類と銭をあわせて十一種類あったのだ。町民達が主に使うのは銭である為にそれに換金しなければならない。

 悪どい両替商も多く居たのだろうが、お雪に紹介されたのは座頭が営む金貸しと両替商を兼ねた処である。当時、幕府は目の見えぬものの仕事として金貸しを許可していたのであり、お上に許されているからこそ評判を気にしている為に町の金貸しなどより、


「余程信用ができる」


 とのことであった。

 前を行くお房に付いて行きながら気分良さそうに九郎は云う。


「いやあ楽しみであるな。雨の間、何を買うか熟慮しておったからなあ」

「うん、店の手伝いでもすればよかったのにね」

「はっはっは。手伝うほど繁盛はしておらぬではないか」


 笑いながら言い、お房に小突かれるが好天でいい気になっているらしく特に気にした様子はない。

 アダマンハリセンで殴られなければ九つの少女の攻撃など意にも介さないのだ。例のハリセンは使い方次第で少女でも大人を吹き飛ばす威力を持つ魔法道具なので扱い慣れていないお房には使ってほしくないのだったが、ついに彼女に取られてしまった。さすがに出かけるのには持ってこないようだが……

 むじな亭から六町程歩いた先にある両替屋『百鳴や』と云う店に二人は入っていった。

 店作りはこじんまりとしているが世話役の下人が二人ほど帳簿を調べていて、居候か用心棒らしき侍が金の方に預けられた差料を手入れしている。

 番台に座った禿頭の座頭が声をかけてきた。


「どうぞいらっしゃい」

「お主が藤川仁介(ふじかわ・じんすけ)殿であるか? 両替に参ったのだが……」

「あ、あの、あたい達按摩のお雪さんに紹介されて」

 

 と声をかけると上向きだった座頭……藤川仁介の顔がしっかりと小柄な九郎とお房を見据えた。


「おや、小さなお客さんとは珍しい。ああ、貴女がお雪さんの言ってたお房ちゃんかい?」

「うん」

「まあ上がって置いき。お茶とお菓子でもだそう。そちらの御老君もどうぞどうぞ」

「御老君……」


 老人扱いを受けている九郎に信じられぬものを見る目を向けるお房である。

 下男の一人がそっと仁介に九郎の容姿を囁き伝えるのが見えたが、


「莫迦を云うな。儂がこれまで一度足りとも、客を間違ったことがあるものか」

「しかし……」

「いいから下がって茶を持って来い!」


 と口答えする下男を厳しく叱責するのであった。

 確かにこれまで、店にやってくる客は老人だろうが青年だろうが町人、侍、無宿人と誰が来ようが見えない目に頼らずに把握してきた仁介だけあって、何故か小僧の事を勘違いしているのは不思議であった。下男は狐に抓まれたような顔で奥へと引っ込んでいく。

 仁介は怒鳴ったことを誤魔化すように笑みを作って座敷へ招いた。


「あいやすみません。至らぬ言葉を」

「よい、よい。己れも歳相応に見られる事は少なくてな」


 どこか皮肉げに九郎は応える。

 出された茶と小ぶりの饅頭を九郎が早速手をつけているのを見て、おずおずとお房も取った。

 塩っぱい桜の葉の塩漬けでお萩を巻いたそれは驚く程甘いのに塩漬けの葉と渋茶にとても合い、お房は口元を汚すようにぺろりと食べてしまった。苦笑しながら九郎が手紙でお房の口を拭う。

 

「お雪さんの紹介とあっちゃあおまけしないわけには行きますまい。おい、饅頭を客人に包んでくれ」

「へい」


 とあまりに美味そうにお房が食べるものだから仁介は土産を用意させている。目には見えなくとも、仕草で分かるのだ。

 九郎がとまれと話を切り出す。


「仁介殿、これを崩して欲しいのだ」


 と懐から出した一両小判を畳の上に置いて、寄せた。

 仁介はそれを両手で受け取る。手触りと重さで間違いない事を確認する。江戸の小判の質と重さは改革が行われる度に変動しているが、もちろん座頭で金貸しをしている仁介は全て手の感覚で記憶していた。

 実際に両替商の必需品である秤がこの店にはない。


「はい、確かに。どのようにしましょうか」

「む……そうだな、己れは最近江戸に来たばかりでいまいち知らぬのだが、店の買い出しにこれから向かおうと思うので良い風にしておくれ」


 そう告げると幾らか仁介は考えた後、銭一貫文と一朱金、二朱金に分けて渡すのはどうかと告げた。

 一両を銭換算にしたときのレートを確認して慣れぬ四倍数の銭計算を九郎が筆算して確認し、それで話は纏まったのであった。



 ****



 ずしりとする貫文銭を腰帯の内側に結びつけた九郎とお房は商店の並ぶ通りへ向い歩いていた。

 九郎が思うに、


「驚くほど運びにくいなこの時代の金は……」


 と愚痴を零してしまう。

 何処に持つかと試行錯誤した挙句、腰に回すようにした銭であるがこれがまた重いのである。

 百文銭を一纏めにしたもの(実際は両替賃で減らされて九六文になるのが慣例であった)が十並んで付いている一貫文そのまま運ぶものなど普通は居ないが、実際にやってしまっている九郎からすれば邪魔この上ない。何せ重さが銭千枚で3.7キロ程もあるのだ。そんな重いものは財布に入れられない。

 

(さっさと使ってしまわなくては)


 と思うのであった。


「ところで何を買うつもりなの?」

「普通に使う蕎麦粉や小麦粉、醤油などはともかくだな、店で出せる酒のあてを増やそうと思うてな」

「言ってはなんだけれど、お父さんに多くの料理を覚えさせようとするのは……」

「そんな無理はさせん。せいぜいが火で炙ったり、盛りつけるだけでそれなりに食える物を揃えれば良かろう」


 九郎の手元の紙には、売っているかどうかは知らないがとりあえずメニュー候補の文字が並んでいた。焼き味噌、焼き海苔、佃煮、板わさ……自分がつまみにしたいものを並べただけとも言える。

 酒も買い足さねばならない。どうせ店に置いていた酒も不味いのだ。さらに安い焼酎を買って適当に混ぜても気づかれまい。後は上酒も買っておきたい。売れなくとも、自分が飲める。

 晩酌を思っただけで気分が良くなってきた九郎だった。

 その時、近くの通りから怒鳴り声が聞こえた。

 九郎が騒動事かと、隣を歩いていたお房の肩に手を当て周囲を警戒しつつ声の方向を向く。


「どうしたの?」

「む……喧嘩か?」


 怒鳴り声に混じってか細い声も聞こえ、近くを歩いていた町人達が足を止めて遠巻きにそれを見る。

 九郎はお房に「ちょっと待っておれ」と指示して近寄っていった。

 すると小路に数人が揉め事を起こしているようであった。


「てめえ、おとなしくしやがれ!」

「早く連れて行くぞ!」


 だの脇差を差した侍が二人がかりで細身の遊女風の着物を来た少女を襲っているのだった。

 少女は「きゃあ」だの悲鳴をあげようとしているが侍から口元を手で抑えられて叫べぬ様子だ。

 そして遠巻きに見ている町人をけん制するように仲間らしい大柄の侍が腕を組んで邪魔されないように見張っていた。

 白昼からの狼藉者だったが、町人は大柄な侍に気圧されて何とも言えなかった。足早に同心や岡っ引きを呼びに行く人も居たが、来るまでにどれほど時間がかかるかわからぬ。

 九郎が舌打ちにして群衆から前に出て近寄った。大柄な見張りの侍が阻むように侮った笑みを浮かべて刀に手をかけて威嚇するが、


「よさぬかっ!」


 凄まじい気迫が九郎から発せられた。元服にも至らぬ小僧から出される声ではない。

 大柄の侍が怯んだと思ったら九郎は速やかに当て身をその腹に入れた。 


「ぐむう……」


 と細腕から繰り出されるとは到底思えぬ打撃により油断していた侍は倒れ伏したのであった。

 侍を通り越して少女に狼藉を働く侍に近寄る。片方が近寄る小僧に向けて、


「おのれ!」


 と刀を抜こうとしたが目にも留まらぬ手付きで投げ放たれた貫文銭に、顔面をしたたかに打ち付けられて鼻血を流しながら顔を抑えて少女から離れた。

 相方がやられたのを見て呆気に取られたもう片方の侍はその隙に一瞬で近寄った九郎に両手を捕まれ、


「それっ」


 とばかりに投げ飛ばされて近くの壁に背中を叩きつけられた。

 鮮やかなまでの九郎の襲撃に見ていた町人らから感嘆の声が上がった。

 中には小僧にあっさりとやられた三人の侍を罵る声も少なくない。

 九郎は気にせずに乱暴を受けていた遊女風の少女を見やった。年の頃は十代の半ばより若いだろうか、幼さの残る顔に化粧を整えているあたり、やはりそのような商売に付いていることがわかる。

 顔立ちは可愛らしいと素直に九郎が思うほどである。怯えたような表情から驚いたような何があったかわからぬと言った様子で九郎を見ていた。


「ほら、大丈夫か。何があったかわからぬが、大変な目にあったな」

「う、う、ありがとうござんす、わっち、あのままではどうなっていたか……」

「よし、よし。泣くでない。化粧が落ちるぞ」


 とあやす九郎であった。

 その時、町人らからの叫びを聞くまでもなく九郎にも先ほど銭を投げて倒した男と、投げ飛ばした男がよろよろと立ち上がるのが見えた。最初に九郎に当て身を食らった男は泡を吹いたまま起き上がる気配はないが。

 敵意を灯した目で九郎を睨みつけ、九郎は手元にいる少女を男たちとは反対側、町人らのところへ押して離した。


「この小僧め!」

「許さぬぞ!」

「なんとまあ、小僧にやられただけで醜聞だというのに更に恥の上塗りをするか」

「黙れ!」


 刀を抜いて乱雑に構え、血走った目で見るが九郎は落ち着き払っていた。

 そんなことより投げた銭を回収せねばと思う程だ。すたすたと軽い足取りで刀を構えた男へ近寄る。

 躊躇ったような叫びと共に振られた刀を避けてすり抜け、しゃがんで銭を回収する。幸い紐は解けておらず、銭は零れていなかった。

 あっさりと太刀筋を掻い潜られた侍に見物客から笑い声が浴びせられ、顔を真赤にして怒鳴りだした。


「勘弁ならん!」


 これは完全に気絶させるなりせねばならないかと九郎が覚悟したあたりで大声が聞こえた。


「その方ら、何をしているかっ!」


 怒りが篭った叫びである。

 町人らも道を開けると同心の服を着た武士が十手を片手に大股で歩み寄ってくる。

 血迷ったか、怒り狂った侍は鼻血を流しながら奇声を発して同心に斬りかかる。

 一瞬であった。

 同心の持っていた十手が侍の刀を横から殴りつけ文字通りに打ち砕き、米噛みに鋼鉄の一撃を与えて沈黙させた。

 容赦の無い攻撃だ。殴られた侍は眼球をひっくり返してびくりともしなかった。

 十手をもう一人の侍に向けて怒りやまぬ声で云う。


「女子供に狼藉を加えた挙句奉行付に刃を向けるとは何たることかっ! 神妙にお縄を頂戴しろ!」


 怯えた侍は刀を落としてしまう。

 この同心、江戸でも有名な一刀流の道場で目録を与えられるほどの腕前である。侍もどう抵抗しても、


「敵わぬ」


 とわかってしまった。

 そう、この同心こそが江戸の少年少女を守る正義の同心『青田刈り』の利悟であった。


「特に拙者の大事な子供に刀を向けたあたり容赦ある沙汰が降りると思うなよ芋侍共! 拙者証言の捏造が大得意だから散々盛ってやる!」


 子供の敵は絶対に許さない利悟であった。侍らは顔面蒼白になる。

 そして彼は汗を拭うような仕草をして振り返ると、


「やあ少年、奇遇だなあ。よければこれからそのお嬢さんを連れて拙者と一緒に茶屋にでも……」


 と声をかけたのだが九郎はさっさと来た道を帰っていく。その腕にしがみつくように少女も利悟の事など気にもせずに去っていくのであった。

 ひそひそと町人らが利悟へ視線を向けて声を忍ばせる。「ほら、あの稚児趣味の……」「帰ろうぜ……」などと聞こえた。

 利悟は打ちひしがれたようになったが近くの岡っ引きが到着したと見るや、とりあえず指示を出した。この無頼漢共を捕らえなければならない。



「よし、お前ら。縄を打て! この稚児趣味野郎共を番所へ連れて行くぞ! ……あれ? なんで拙者も縛るの? おい、やめろ! おい!」

 


 町人らから止める声は出なかった。




 ****




 騒動の現場から少女を連れ、お房と共に離れた九郎は船着場近くの階段に三人で座っていた。

 九郎が銭紐を解いて近くの店から、甘酒を三人分買って振舞った。

 それにしても、とお房が言った。


「案外強いの九郎って。お侍三人に勝つなんて」

「昔とった杵柄だ。あのような珍平崩れなど怖くもないわ」


 笑いながら応える。

 もとが現代の日本人とはいえ時はまさに世紀末な異世界で過ごした数十年の経験は余程に九郎の胆を太くしているらしい。

 目の前で竜の爪が唸りを上げても冷静さを失わない心を持っていればこそ、刀を持っただけの侍など恐ろしくも無かったのである。

 

「あのう、改めなすって、助けてくださいましてありがとうござんす」


 と少女が言うので、九郎は手を振り云った。


「よい、よい。子供を助くのは大人の務めぞ」

「九郎様は大層立派なお方でありんすね」

「褒めるでない」


 と照れたように云う九郎。

 少女はしなを作ったように九郎に体を許して、白粉を塗った頬を染めるほどに紅潮していた。もじもじといじらしく指を動かしているあたり、どうやら危機を助けてくれた九郎に岡惚れしたようである。襲われた時の緊張がそのまま助けてくれた九郎への好意に変わったのであった。

 好意を向けられている九郎は小さな子供が懐いた、といった程度にしか気にしていないのだったが……。

 それも彼の実年齢では老境も良いところなので十代前半の少年少女など孫のようにしか思えぬのだ。

 顔を赤くしている少女に九郎は訪ねる。


「ところでお主の名は?」

 

 少女は微笑みなれたような可愛らしい顔をして応える。


「わっちの名は玉菊たまぎくでありんす。陰間をしているんでござんすが、前にお客だったお侍さん達が無賃で『流血を伴う激しい行為』とやらを無理やりやろうとして……」

「ううむ、なんというか逮捕されてよかったなあやつら。遠島にでも流されれば良いのに」

「なんか利悟さんもついでに流されてるような想像図が浮かんだの」

「はっはっは。一件落着であるな」


 吉原の遊郭で保護されていない、フリーの夜鷹や湯女などの性風俗に関わる女性に対して無頼を働く者は当時、実際に多かったようである。

 窮地を助けられた玉菊は九郎の裾をつまみながら体を寄せている。そのまま何処かへ押し連れて行くような雰囲気であった。

 気にしていないし気づかない九郎は「ところで、」と尋ねた。


「陰間とはなんだ?」

「ええと、豊姉ちゃん先生からわかりやすい表現を聞いた気が……」


 お房は少し考えて手を打って答えた。





「そう、『男の娘』って云うらしいの!」




 九郎の表情が凍りついた。

 ひっつく玉菊の股のあたりに、硬いスティック状の物が自己主張していた。

 背筋におぞましい寒気が奔る。


「さあ九郎様、わっちとそこの船宿にでも行きませ! 夜の仕事時間までたっぷり大丈夫でござんす! 人呼んで『玉枯らしのお菊』と呼ばれたわっちの名妓を味わうでありんす! ああこの場合の菊ってのは」 



「説明せんでええわ呆けっ!!」 


 

 山田風太郎の小説に出てくるクノイチのような二つ名を聞いた九郎は思いっきり近くの川に玉菊を投げ飛ばしたのであった。

 連日の雨で冷えた川に流れていた黄色い菜の花が、水しぶきを浴びて沈んでいった。








 

 

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