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外伝『大奥のオーク』

 江戸城の建物は本丸を中心として、西の丸、二の丸などに分かれている。

 そのうち本丸は将軍が住まい、また公的な行事を行う場所であり、これも大きく分ければ表、中奥、奥と分類される。

 奥、というのが巷に広く言われている大奥であり、いわば徳川将軍の権威を示す為に子女が集められた場所だ。

 ここには将軍以外の男は火事などの非常時以外出入りが厳しく禁止されており、大奥に繋がる部屋には検問としての役割である御錠口、そして大奥での事務仕事を行う男が働く御広敷が出入りを見張っている。


 さて、時代は徳川吉宗が改革に乗り出す享保の頃。

 御錠口に寝泊まりすることを決められた無役の男が居た。

 冷たい板間に座布団を並べて廊下を遮るように眠っているのは、身の丈七尺を超えて体つきもでっぷりとしつつ腕や胸には着物の上から見て取れるほど筋肉の付いている相撲取りのような男だ。

 そして、顔つきはまるで──というよりも、そのまま猪を少しばかり人間に近づけた顔をしている。


 オークである。


 なにやらいい夢を見てるのか、すやすやと笑みを浮かべたまま剥き出しの腹をぼりぼりと掻いていた。


「これ、いつまで寝てるのじゃ!」

「痛っ!」


 廊下の敷居がある向こう側から竹竿でオークの腹は遠慮無く突っつかれた。

 一瞬でうたた寝の幸せから現実に引き戻されたオークは、むくりと起き上がってしかめっ面を相手に向ける。

 御錠口の先、大奥からこちらに近づかないようにして彼を起こしたのは、華を散りばめた紫色に染められた豪華な着物を着ている、女性というにはまだ幼い顔立ちを残した小柄な女である。

 オークは軽く会釈をしながら挨拶をする。


「……お早う御座います、深心院様」

「うむ。ってこれ! お前が御殿様より先にわらわに挨拶をするでないわ!」

「挨拶しなかったらしなかったで怒るじゃないですか、狗風情がって」

「ええい、口答えするなー!」

「ああ痛い痛い」


 オークの頑健な肌からすれば女の振るった竹竿など痒くも無いのだがとりあえず相手のされるがままにする。

 彼女は大奥の中でも権威高い、吉宗の側室である。正室であり、御台所となる理子女王は既に亡くなっているので実質はこの少女が一番上だろうか。

 今朝は──と言うより毎朝なのだが、吉宗が大奥に朝の挨拶をするのを迎えに御錠口まで来ているのだ。彼女の後ろには部下である御年寄(年配ではなく、役職である)や御中臈の女性もついてきていて、面倒そうに少女の癇癪を受けるオークの姿を見ながら笑いを忍ばせている。

 木の戸で遮られて施錠までされるのが本来の御錠口なのだが、このところはオークが門番代わり鍵代わりになっている。開けっ放しでもオークが寝ていれば通り抜けることなど出来ない。それでいいのかとオーク自身も思ったが、将軍の指示であり特に問題も起きていないのだ。

 いや、敢えて問題があるならば深心院が来るよりも遅くまで寝ていると大抵竹竿で突っつかれることか。寝てなくても突っつかれるが。

 これはオークが怠惰であるというより、この体温高そうな少女が毎朝決まった時間ではなく急に早く来たりするために時折対応出来ない。早くに来ても吉宗が来る時間は決まっているのだからまたねばならぬというのに。

 オークだって夜遅くまで御広敷用人の仕事を手伝っているのだから眠いのだ。

 彼女はふんす、と鼻息荒く竹竿を将軍の見えないところに仕舞って、


「まったく、阿呆面を晒して『おーくっくっく』などと笑い声を出しながら寝おって」

「そんな笑い方しないですから」

「だいたいお前がそんな見える場所で無防備に寝ているから、女中や部屋方が集中して仕事出来ぬのじゃ。夜中に歩きまわって見に来ているのじゃぞ」

「うわあ……それは嫌だなあ」


 オークは顔を歪めて身震いした。

 彼は自分が大奥の女性から性的な目で見られている事を知っている。これは、大奥では将軍以外の男は入れない環境で過ごし、また将軍と相手になるのは数えられる程にしか居ない為に、ずっと男日照り生活なので溜まっている女が多いのだ。

 川柳にも


 [七ツ口男をおいしそうに見る]


 と、読まれるほどだ。七ツ口とはまさにオークのいる御錠口を意味している。また、ここに務める男は大抵が枯れ切った老人であることが多いのだが、それでも舐め回すように大奥の女は目線を送る。

 これがいかにも男盛りで相撲取りの体型をした、荒々しく野獣の如き性欲を持ち合わせていると全身で主張しまくっているオークだったら言わずもがなの感情であった。

 御宰(買い物のお使い)の少女が恥ずかしそうに、伝えていた買い物の(オークが買いに行くわけではないが)牛の角を受け取った時などそれの使用法など想像はしたくなかった。

 しかしながらオークは、


(本物のオークなら喜ぶのかもしれないけどなあ……)


 あるいは手が出せない状況に余計ストレスが溜まるか。

 うんざりした気持ちを隠しつつ、滔々と朝っぱらから説教してくる深心院に気付かれないように胸中でため息をついた。

 この日本式ハレムとでも云うべき大奥であるが、この徳川吉宗の時代では特徴がある。

 醜女が多いのだ。 

 これは、吉宗が将軍位に就いた時に大奥の改革で、


「美女は大奥でなくとも引き取ってくれる場所があるだろうから、ここで過ごす事はない。貰い手のない女は残りなさい」


 と、綺麗どころを大奥から放出したのだ。それにより吉宗の代では大奥の顔面指数は低下している。女は貞節で嫉妬深くなければそれでいい、という考えだったのだ。

 元から吉宗の側室であった深心院や、新しく入ってきた年若い少女はまだ綺麗というより可愛いのだが……。

 生憎と彼はブスでもロリでも食っちまうオークではない。

 元は耳の長い長命種エルフで、ある呪いを受けてオークに変化させられ、また異世界から江戸に拉致された哀れな男なのであった。




 *****




 異世界ペナルカンドにて。

 エルフの社会で少子高齢化が進んでいる。

 その理由について、エルフの男は性欲が薄く生殖能力も低いためだ、と書かれた本が世界中でやけに売れた。

 これは別段真面目な考察が書かれている論文ではなく、単に様々な種族に対するブラックジョークの類を纏めて、適当でそれっぽいインチキ解説文を付けた娯楽本である。

 他にもゾンビの体は蝋化しているので石鹸無しで泡立つとか、デュラハンの首には小人が乗って操縦しているとか、無我王プナナレントリスラーチェがインスタント食品を食べない理由とか、そんなどうでもいい内容が書かれていた。

 少子高齢化したのは文明が進んで、子供の死亡率が減った為に多産しなくて良いしエルフは寿命が長く世代交代も緩やかだからなど、その本を読んだエルフは少し議論の種になる程度であったのだが。

 

 しかしその本に目を付けた阿呆な災害存在が居た。

 放浪する災厄Ⅱこと、極光文字の魔女イリシアである。ちなみに災厄Ⅰは魔王だ。

 考えたら即実行して責任は持たないまま逃げることで有名な魔女は、


「それならばエルフの男を種の強いオークに変身させてしまえば少子化問題解決ですね」


 などとパーな事を言い出して、有無を言わさずに付与魔術で広域に変身魔法をかけた。魔女的には良い事とか悪い事とかの分別以前に、思いついて出来そうだからやってみたという非常に適当な理由で。

 それもエルフが世界一集まっている大都市で、である。

 結果的に数百人のエルフ男が、意識や人格はそのまま姿だけをオークに変身させられたのであった。しかも効果は死ぬまで永続する。

 ついでに女エルフに催淫魔法までかけてからお供の騎士を連れてダッシュで逃げた。


 そこからが阿鼻叫喚で、オーク化した男衆に発情した女エルフ。意識までオークになっていればともかく、草食系男性が多いエルフとしては顔色を変えてにじり寄ってくる女はもはや恐怖であった。

 次々と犠牲が出る中、集落から脱出できたのは約半数のオークだったという。その後生まれてくるのはエルフの割合がかなり多かったので、少子化問題は一応解決したとか。

 なお、男オークと別の種族間の配合では相手側の種族が生まれやすく、これは[オークックお前の娘まで犯してやるでオーク(語尾)の法則]という名で論文が出されて人権侵害だとかオークに対する侮辱だ差別だとか様々な社会問題へと発展したことがある。


 そして仲間とも別れて名も捨てて、一人草原で生きることにしたオークが居た。

 草を枕に眠り、雨が降れば木陰で過ごし、腹が減れば甘い草と小川で魚を釣って家もない一人暮らしを楽しんでいた。

 食欲はエルフの時と同じ程度の少食で満足でき、不思議とそんなに沢山食べなくてもオークのでかく太い体型は維持された。魔女の呪いの効果かもしれないが。

 平穏なネイチャー生活を続けて何年経っただろうか。

 彼がふと気づくと、目の前に虹色の髪と目をした少女が立っていた。片腕に特徴的なロケット念動射出式ガントレットをつけているが、オークには妙にゴツイ篭手にしか見えない。

 何の用かと尋ねたら、


「いやー実はちょっと実験に手伝ってくれる人探してるんだよね」

「実験?」

「ある異世界へ転移して貰ってその世界と繋ぐアンカービーコンになって欲しいんだ。理論上この世界の人だと720分の1ぐらいしか成功しないんでもう何百人も試してるんだけどさー」

「異世界……? 真逆お前、魔王ヨグ──!?」


 異界物召喚士であり、世界を滅ぼす一角として指名手配されている魔王こと外法師ヨグの事は広く知れている。

 気まぐれに混沌を世界に振りまき、指一つゲーム感覚で国を滅ぼし神殺しにして最悪の災厄。

 にたあ、と狂気を付与する笑みを浮かべながら彼女はこちらの都合など一切考慮するつもりもなく、


「ミスったら何処の亜世界に飛ぶかわからないけど、生存可能世界に限定してるし知性体がいたら一応言葉だけは通じるから許してくれるね? ありがとう。転異術式『グッドトリップ』発動」


 彼女がそう告げると、虹色の召喚陣がオークの周囲で輝きだした。声も出なく、抵抗する暇さえ与えられなかった。

 周囲の景色が絵の具をぶちまけた泥に包まれたように七色に歪み、吐き気を催す無重力感と共に逆さまに堕ちる感覚を覚える。


 そうして、気がつけば知らない林だったのである。

 オークは立ち上がり周囲を見回し、のそのそと歩いていると突然銃撃された。


「うわあ!? 危なっ! 何処の世紀末だここは!」


 銃弾は当たらなかったが、彼は近くに馬に乗った人間と彼の護衛騎士らしき、長銃を構えた兵士二人を見つけた。

 とりあえず再度銃撃される前に銃を奪ってしまおうとオークは慌ててそちらに走る。相手を害しようとは決して思わないが、このあたりの土地の事もできれば聞きたい。


「あの! ちょっといいですか!」

「しゃ、喋ったー!」

「化け猪だ、上様、お下がりくだされー!」


 兵士はオークを見て恐慌状態になるのだが、馬上の男はびくともせずに頑丈に作らせた火縄銃の銃身を持った。

 オークが両手を上げながら武器を持っていないアピールをして近づいたところで、男は思いっきり銃床でその頭を殴りつける。

 凄まじい衝撃であった。

 脳震盪を起こしたオークは昏倒して倒れ、馬上の男──徳川吉宗は、


「運べ」


 と、お付の者らに命じた。

 こうして喋る猪人間のオークは吉宗と出会い、またその巨躯と妙な顔形から気に入られて、紆余曲折あり何故か御錠口で働くことになったのであった。

 恐らく、身分や種族を聞かれた時にうまく伝わらずに「オーク」がどうとかばかり言うので、大奥関係にさせられたのではないだろうか。そんなものでいいのかと思われるかもしれないが、こういうのはコネでなんとでもなるようだ。

 

 

 

 *****




 オークが御錠口を軽く掃除したり早朝勤務の御広敷用人と挨拶したりしていると、大柄な体によく似合う着物を着ている吉宗はお付の小姓らを連れて御錠口へ参上した。

 本丸の表や中奥では公務を行うのであるが、大奥となるともはや完全な私邸であるために幾らか将軍も気安く接してくる。吉宗だけかもしれないが。


「今日も良い筋肉をしている」


 そう言ってオークの上腕二頭筋をぺしりと叩く吉宗。

 武芸を推奨しているだけあって、彼は力持ちであるオークを気に入っている。大抵は毎日が忙しいのだが、時間があるときはオークに米俵を投げさせたりするのを見物するのが最近の楽しみであった。

 異世界に来たことを戸惑っていたオークだったが、吉宗がこの世界の王であると告げられた時は驚いたものだ。それ故か、こちらから話しかけるという恐れ多いことは殆しない。吉宗も無理に会話をしようとすることはなく、一言二言オークを褒めるぐらいであった。

 深心院が口を尖らせて、


「御殿様はまた妾よりおーくに先に……」

「拗ねるな」


 優しい声で言いながら吉宗は彼女らを連れて、大奥へ入っていった。入り口から五百メートル程先の、御台所の位牌へ向かうのだ。

 小姓が小さな声で、


「最近の上様は本当に御壮健だ」

「そうだなあ」


 と、会話をしながらオークの腹の肉を摘んだり腕にぶら下がったりしようとするのには、オークも困るのであった。

 吉宗を出迎えたら大奥内での仕事(エロい意味ではない)で半刻は出てこない為にオークもこの間に食事を貰いに行く。

 御広敷の者が使う休憩部屋に入ると一汁三菜の質素な食事が用意されている。江戸城では当時、務めている者も朝と夕の二食のみで一汁三菜が守られていた。

 これは将軍である吉宗が、


「一日働くために食うは二食で充分である。飽食に慣れるといざというときに動けぬようになる」


 と、自らこれを戒めていたので城の者も倣う他無かった。中には腹が減る者も居て、そういう時はこっそり弁当を用意していたという。

 オークなどは御広敷の者に、


「そんなに体が大きいのに足りるのか?」


 などと不思議がられる事もあるが、まったく問題は無かった。飯と味噌汁、漬物に焼き魚の組み合わせをばくばくと食べる。


「うまいうまい」

「なんていうか、そのごつごつした手で器用に箸を使うもんだなあ」

「中々素敵な食器ですよね、箸。木の精霊力を感じて。なんでうちの集落では流行らなかったかなあ」

「せいれいりょく……? お前の故郷じゃ箸使わなかったのか?」

「まあ、木の匙か殆ど手掴みで食べてましたよ。こうナマの川魚を頭からバリバリ」

「虫に腹やられそうだな」


 などと同席した人と会話する。エルフが好むのは生の魚や野菜なのであるが、こうして火を使った料理も慣れると旨い。海魚の刺し身も前に出たので食べたが、川魚と違った味わいで生命素が多く好みだった。

 これは調理をすると食材自体に含まれる精霊力が火属性に偏り、また火とは属性の相性が悪いことが多いエルフとしては合わないからだ。

 とは言え、オークの姿になったら精霊魔法は殆ど使用不能になってしまったのだが。

 今の彼に出来るのは自己治癒魔法か身体能力強化のような己の体に作用するものを少しだけである。


 食事を終えたら再び御錠口に戻って大奥の番をする。

 暫く待つと吉宗が深心院らと一緒に出てくるので、オークも傅いて見送った。

 去り際にやはりオークの上腕二頭筋を揉みしだいて行く吉宗。もはや慣れたものだ。

 立ち上がると、深心院が目尻を上げてこちらを睨んでいた。機嫌が悪そうだ。


「おーく! ちょっと近う寄れ!」

「やですよ」

「大声を上げるぞ!」

「多分上様が聞いても爆笑するだけです」

「寄ーるーのーじゃー!」

「はあ……」


 仕方なく、大奥の中に入らぬ境界までオークは近づき、目線を合わせるためにしゃがみこんだ。

 ただでさえ六尺(百八十)はある身長の吉宗と並ぶと深心院は親子のようなのに、もはや七尺を超える巨漢のオークと並ぶと小動物だ。

 彼女は憎々しげにオークの脂肪の鎧と筋肉がバランス良い腕を両手でぐにぐにと揉んで、


「ふん!」

 

 と踵を返した。

 そして付いている御年寄たちにも、


「揉んでやれ!」


 指示を出すので戸惑ったような興味深いような顔をしつつオークは二十人あまりに腕をまさぐられることとなるのだった。

 

「わけがわからないよ」


 オークは世の理不尽を嘆く顔で、呟いた。

 

 実のところ大奥で一番忙しいのは起きた時と寝る前で、将軍を朝送り迎えしたら後は着替えを何度か儀礼的にしなければいけないぐらいで夕方までのんびり過ごすことが多い。

 勿論、働き手として大奥に居る女中は忙しく動きまわっているのだが、昼過ぎには女が集まって歌を詠んだり菓子を作ったりと楽しんでいたようである。

 オークがぼけっと番人をしていると大奥から差し入れがあった。

 最近入ったお咲という名の御宰の少女──見慣れぬ巨人のオークにいつもビクビクしているので記憶に残る──が小さな紙包みを持ってきたのだ。

 背が四尺四寸程しかなく、まさに子供であり、顔立ちも仕草も幼い。

 

「あ、あの、おーく、これ……」

「うん? ああ、練り菓子か。くれるのかい?」


 お咲は俯きながらもじもじとしつつ、


「み、皆さんが作ったからって……」

「ありがとうって伝えて於いて」

「はい」


 本来ならば御錠口の者が大奥で作ったものを受け取ったら駄目なのだが、前に吉宗に相談した時に、


「大奥で飼っている猫や狗に餌をやるのを咎めるものは居ないから大丈夫だろう」


 と、許可されているので大奥の女性たちはオークを餌付けしようとしてくる。

 然し乍ら一年中ここに住んでいると甘いものなど大奥からの差し入れ以外では食べられないので素直にオークは貰っている。

 それと、と言ってお咲は目録のような紙を渡してきた。


「か、買い物の小間物を、お願いします」

「受け賜わった」


 こうして大奥で必要な小間物は御錠口の者が受け取り、御広敷の物品管理を専門とする役人に渡されて決済されるのだ。

 これには例えば割れた茶碗や折れた針の交換なども一つ一つ記録しなければならず、壊れた破片や針先まで提出が必要だった。

 オークは元が聡明なエルフであったためか、すっかり文字も読めるようになったので目録を確認すると、


『壊れた牛角の交換』


 と、あった。

 

「……」


(壊したのか)


 思わず目の前の少女を見やると、彼女は思い出したように、


「あ、こ、これでした!」


 そう言って欠けた牛の角を出して、それから急にのぼせたように顔を真赤にする。


「ちが、違うんですよ!? そんなに激しく使ったとかそういうわけじゃなくて、ちょっとした事故だったんです!」

「何も言ってないから。説明しなくていいから……っていうか使ったの君なのね……」

「え、ああ!? わ、わたしじゃなくて……う、うあああん!」


 とうとう泣きながら走って戻るお咲をぽつんと佇んだまま見送るオーク。

 ニヤニヤした女どもが一斉に隠れていた戸や廊下の影から顔を出して、


「あーあ泣かせたー」

「まったく、おーくは最低だな」


 などと口々に言うのだからオークも泣きたくなる気分のまま御広敷にとぼとぼと向かうのであった。それでも涙は流さなかった。男だから、エルフだから。

 このように日々女どもからからかわれたり同僚に慰められたりするのもしょっちゅうだ。

 女集団の玩具となるなど男として最大に情けない思いがあるし、おまけに大奥に彼好みの女性でもいれば気が安らいだかもしれないが見事に好みのアウト方向だったので余計悲惨である。

 元の感性がエルフなだけあって、エルフのような女性が好みなのだ。だが日本にそんな女性は中々居るはずもなく、ブス専大奥となればなおさらだ。

 それが異世界からやってきたら江戸なのであった、大奥の前で暮らすオークの日々である。

 



 *****




 ある日の事であった。

 週に一度か二度、医者が大奥を訪れる事がある。健康診断を行う為であり、こればかりは将軍も例外として出入りを許している。

 オークもすっかり顔なじみになった医者が、もう一人連れてきた相手を見た瞬間である。


 心臓に恋の天使からヴァリスタを連射で撃ち込まれたかと思った。体感的に数万回は死んだ。


 医者が連れてきた女按摩。

 流れる結っていない緑の黒髪、ほっそりとした躰、顔は柔らかに綻んだ口元に初雪のように白い肌をしていて、目元に大きな火傷痕があるがそれすら儚さと美しさを感じる。

 エルフの姫と雪の妖精を錬金釜に突っ込んで合わせたようなとんでもない究極存在だ。

 本人は盲目なのだから、己を美しく見せる工夫をしたわけではあるまい。天然自然が生んだ奇跡の美貌、すなわち地球意志だ。そうとすら、オークは信じてしまう。

 一瞬で恋の病が末期症状まで進行して心臓と脳髄が即死した気がして、オークは幽体離脱を感じ、慌てて己の体に戻った。

 

「あの……」


 妖精さんが話しかけてきた。オークは凄い勢いで蘇生して身を震わせ、直立して答えた。


「は、はい!? なんでございましょうか!」

「きゃっ」


 しまった。

 オークは己の失策を悟った。相手は見ればわかるが、目が見えない。

 盲目の者からすれば急に裏返った声で叫ばれたらどれだけ驚くだろうか。オークは己を呪い殺して即死しつつ即座に愛の力で蘇生する。それほどまでに混乱している。

 身を強張らせた妖精さんは少し歪めた顔を、再び天使が嫉妬して奪いに来るほどに美しく微笑んだ。(そして僕は彼女を助けるために命をかけるんだ、とオークは妄想した)

 

「いいえぇ、少し心の臓の音が止まったり激しくなったりしてましたので……御身体の調子が悪いのかと」


(それは貴方のせいです可憐な御方)

 

 オークはシャイなので口には出せなかったが心のなかでそう唱えて、そしてそんな事を心配してくれる彼女はなんて優しいのだろうマジ妖精さんだと思った。

 ちなみに、異世界では綺麗さや純さを表現するときはよく妖精を引き合いに出す。天使とは言わない。天使は性格悪いのが多いからだ。なにせ、天使階級一位だった[縮退天使]がまさに神殺しで堕天して人間に転生し続けている青髪の魔女なのである。

 奥医師の小川秀全という老人が心配そうにオークを見やる。


「おーく殿。具合が悪いのならば座薬を処方するが」

「何故心臓なのに座薬を……いや待って小川先生。その破城杭みたいなのは座薬って大きさじゃない」

「ほほ、お主用に作っておるから具合が悪くなったら言うのだぞ」

「絶対ェこの人の手に掛からないようにしよう」


 軽く頭痛を憶えて頭を振る。

 そうしながらもオークはちらちらと女按摩を見て、


「その……そちらの妖精さん」

「妖精?」

「いや、御嬢様はどちらの方です?」

「ああ、彼女は按摩の座から紹介を受けた娘でお雪さんと言う。四日ほど大奥に泊まりこみで按摩をしてもらうことになっていてな。おっと遅れては叱られるわ。さ、行きますぞ」

「はい。それでは、ええと……おーくさん?」


 秀全に連れられて、大奥へ入っていくお雪を瞬きもせずにオークは見送った。

 後ろから見ても細身だが形のよい腰や、揺れた髪の隙間からうなじが見えてオークはどきりとしたがそんな厭らしい目で見てしまった自分に嫌悪と呪いを込めた拳で己の頬を殴った。ここまで自分に死ねと思った。のは初めてだ。

 そして、最後に、


「おーくさんて呼んでくれた……お雪さんっていうのか……まさに雪の妖精だ……」


 と、誰にも聞こえないような声量で呟いた。


 それから、オークは四日の間そわそわと御錠口の前で落ち着かぬようにウロウロしていた。

 もしかしたらお雪が通りかかるかもしれないと期待があったのかもしれない。

 しかし当然だが、按摩の仕事として大奥に入ってきているので彼女は一日中様々な女性に押し按摩を行う必要があり、その腕も相当に良かったと見えてオークに関わる暇はとても無かったのだ。

 それでも出て行く時に、再びお雪が小川秀全に連れられて御錠口を通り、オークに軽く会釈をしただけでオークが心を奪われるどころか無料で押し付けたくなる衝動を抑えるのに必死なほどであった。

 そして夜な夜な、


「別の場所で出会いたかった……」


 などと声に出して呻く。

 この世界では彼はここ以外では暮らせない。逃げ出したりすれば、怪物として追われて討たれる身だろう。従順に過ごしているから異分子としてのオークは認められている。

 仕事なども他にあるわけはない。隠れていてもこの姿だ。すぐに見つかる。


「元の世界で出会ったなら……」


 そう考えて、頭を抱えた。元の世界で出会ったからどうなるというのか、この醜いオークがあんな美しい人に近づける筈もない。

 ましてや親しくしていたのなら、盲目の女性を手篭めにする邪悪なオークと思われるに決まっている。


 この恋はどうせ実らない。


 そうわかっていても、オークは妄想せざるを得なかった。

 相手のことなど、名前と優しいところと少しおっとりとした伺うような声と、傷の面積肌の白さうなじの細さ髪の長さ残り香と足音ぐらいしか知らないというのに。

 オークの姿ではなく、昔のエルフのまま彼女と出会うところから、考えてしまうのであった。

 

 それから、また女按摩としてお雪が訪れるかと思っていたが次に現れたのはまた別の女按摩で、お雪が来ることは無かった。

 按摩を斡旋する座としても、大口で儲けも多い顧客に行かせる人員は希望者も多く、平等に回さなければならないので一度訪れた彼女はそう来ないだろう。

 



 *****




 ある日、吉宗に呼び出された。

 深夜のことである。彼の寝室で、酒の相手をする事となった。部屋には二人の他は小姓しか居ない。そのようなところに、彼のような怪物オークを連れ込むなど通常はありえないのだが、この吉宗という将軍は少しばかり変わっているようだ。

 そもそもオークからしても、銃床の一撃で鉄よりも固いオークの頭蓋骨を揺らして昏倒させる相手に挑んでも勝てる気はしなかったし、彼は人と争うことは苦手な性格だ。

 倹約家で食事も一日二食しか食わない吉宗だが、酒は好んで呑む。

 とは言え飲み過ぎるという事は無く、何本まで呑むと予め決めた量以上は呑まずにきっぱりと止める。

 予め決めていれば良いのだ。

 二人の間に一斗樽が置かれている。


「遠慮せずに飲むが良い」

「多いですよね明らかに」


 決めた量は約十八リットルである。二人で呑むには明らかに多いのだが、オークに期待しての量であることは吉宗の眼差しでわかった。また、小姓からも、


(上様が呑み過ぎにならぬように貴様が呑めよ……)


 と、脅迫めいた心の声が直接脳内に聞こえた気がした。

 仕方ないので升に注がれた酒をとにかくぐいと煽り飲み干す。京伏見の銘酒でこれは水のようでありながら、ぐ、と胃にそのまま染みて消える味わいがなんとも言えない。

 暫く無言で酒を呑みあった。

 酒が頭に回ると、ここのところ毎晩お雪のことばかり考えていたオークはなんとなしに思い出して少し苦い顔になってしまう。

 吉宗がぽつりと呟いた。


「……失恋でもしたか」

「え!?」


 鳩時計からビームが出た気分だ。それぐらい珍妙だった。

 真逆このグッドルッキングジェネラルから失恋という単語が飛び出すとは思っても居なかった為、[シツレン]というのはこの世界でコマすか前後する事を表すなにか高貴な言い回しなのかと疑ったぐらいだ。

 彼は渋い顔で頷きながら、


「ここ最近様子がおかしいことは大奥でも噂されている」

「あー……そうですか」

「儂に話してみよ」


 と、催促されるので断ることなど出来ぬ為、オークは仕方なくぽつりぽつりと言葉を漏らす。

 女按摩に一目惚れした事。名前がお雪だと知っているだけで、一言会話した程度の仲だという事。そして障害も多くまた片思いである事から、どうせ実らないという事。

 吉宗は煙管を喫みながら、酒に顔を赤らめつつ語るオークの話を聞いた。

 将軍という立場にあるが、それ故にか他人の愚痴や恋話などを聞く事は全く無い。そもそも将軍に愚痴を言う幕臣など居ない。だがこの、人でも怪物でも無い男には禄を与えていないゆえに幕臣でもない。妙な付き合いのある、只のオークである。

 だから、珍しく誰かの愚痴を聞いて吉宗はそれに答えた。

 煙管を頭に振り下ろす。


「痛っ!」


 がん、と音を立てて銀製の通常よりも大きな煙管がオークの額に直撃した。将軍だというのに喧嘩煙管のようなごつい作りだ。

 吉宗は涙目になっているオークに言う。


「愚か者。失恋も何も、相手に一切伝えていないではないか。めそめそと巨体を抱えて悩むのは振られてからにしろ、馬鹿」

「ううう」

「女を逃すなど誰でもすることだ。儂だって振られたことがあるが、しっかり相手に伝えた。それもせずに喚くな」

「上様が振られたって……ええ!? 誰に!?」

「お前がしっかり振られて来たら教えてやるわ。おい、城の出入り切手を用意しろ」

 

 吉宗は小姓に指示を出した。

 小姓は、時々この上様は困ったことを言い出すんだよなあと思いつつも従わざるをえない為に準備をする。

 いつもは冷静どころか、醒めたような性格の吉宗であったが変人と付き合う事を好んだ一面がある。例えば、旅の本草学者・安倍将翁と薬の談義を行ったり、穢れ仕事を行う首切り役人山田浅右衛門と会ってみたりとその時は周りに、


「わがまま」


 のような事を言って融通を効かせる。普段から精力的に政務をこなし改革を行っている将軍だけあって、このようなことぐらいさせてやろうと周りも従うのである。

 恐らくは自由奔放に暮らす彼らの道を己がもし歩めたならばと思い楽しんでいるのだろう。

 オークを連れてきて城で働かせているのも、それなのかもしれない。

 

「明日一日だけ休みをくれてやるからさっさと会って振られてこい。町中では笠を被るのだぞ」

「上様……」

「一日だけだ。朝に出て、夕までに帰ってこなかったら城には二度と上げぬからそのつもりで行け」

「ありがとう御座います……!」

「馬鹿。振られに行けというのに礼をするやつがあるか。それより、もっと呑め」


 そう言って、吉宗はオークに酒を飲ませるのであった。

 




 *****

 

 

  

 

 翌朝、江戸城の大奥にも近い裏門の平川門から出るように指示と切手を渡されたオークは江戸の町に初めて出た。

 服装は僧侶の格好をしていて深く笠を被り、笠の下の頭にも手拭いを巻いて耳などを隠しているが、見上げるような巨漢の為に目立つことは仕方なかった。

 笠を被ったまま門を出入りすることは通常できないのだが、門番からは、


「一町先からでも見間違いしねえな」


 と、呆れたように言われたという。

 ともあれ彼はなるべく人の多いところを目指して進む。

 お雪の居場所など知らないが、彼女の匂いは覚えていた。人間よりも遥かに嗅覚が優れているこのオークの体に今だけ感謝しつつ、それを探して歩きまわることにする。

 足早に歩きまわる巨体の入道を見て、


「見越し入道ではないかね?」


 と思う者が居るぐらい目を引く体だったが、気にしない。

 探して、見つけて、何を言うのかも決めていなかった。言われて相手が迷惑に思うことを恐れた。

 この恋が実らなくても、せめてお雪が幸せに暮らしているところを見るだけでも満足だ。

 だから、オークは探した。

 

 そのうちに、お雪の体から僅かに匂った穀物の香りが[蕎麦]というものだとオークは気付き、蕎麦屋を重点的に探すようになった。

 彼女が蕎麦屋と関係あるのかはともかく、それぐらいしか当ては無い。

 八百八町歩きまわる積もりでひたすらに探して探して、やがて[緑のむじな亭]という店に辿り着いた。

 店の中から、お雪の匂いがする。

 彼は店の前で深呼吸をして、何も考えつかない頭をひとまず無視し店内へ入った。

 店の客入りはそこそこだ。飯時で、同じ長屋の客が多く見える。


「いらっしゃい──ませ」


 一瞬間が開いた。丁稚の少年タマが、オークを見上げて驚いたように言葉を止めたのだ。

 オークは店内を見回して、目的の相手を見つけた。

 久しぶりに──三度目に見た彼女は、これまでよりも数倍輝いて見えた。そして、それは思い出の補正があるからではない。


「六科様、座敷のお客さん、おろし蕎麦と板わさの注文ですよう」

「わかった。む、大根おろしが切れたな。お雪、出来るか」

「はいなぁ」


 嬉しそうに。

 それはもう幸せそうに、店主の佐野六科に従って、寄り添い仕事をしているのだ。

 ひと目でオークは完全な失恋を悟った。

 もう泣いて帰りたかった。

 彼女が幸せなところを確認したからいいじゃないか、と己に言いたかった。自分がどうより、あの妖精のように清らかで純な人が幸せに暮らしているのが一番ではないか。

 でも多分なにもしないで帰ったら、吉宗に怒られる上に悔いが残る。

 それでも生きていけるだろう。ひと通り怒られた後、また大奥の前で番人をする生活に戻る。時々女衆に誂われながら、あの時に告白してればなあと思ってそれは二度と叶う事無く過ごす。

 オークは悩んで、選んだ。自分が動くべき時は今なのだ。運命に流されっぱなしな自分でも、選択を出来る時がある。

 振られる事は確実だ。だが、救いがある。


(僕を振ったところで、彼女の幸せは揺るがない)


 むしろ受け入れられることなど、あってはならない。

 どうせ彼女は自分など覚えていない。目の見えない女性が、急に言い寄られても怯えるだけだろう。それでいい。拒絶をオークは欲しがった。

 だから彼は、


「あの、お席は」


 と言ってくるタマを無視して厨房へ大股で歩み寄る。

 彼の足音に気づいたのか、お雪が顔を上げて、口を小さく開いた。

 

「あら? 貴方は確か大奥の……」


 彼女が一発でオークの正体を当てて呼んだ為に意気を挫かれて、足を止めた。

 笠の下の顔は驚愕に歪み、冷や汗がだらだら出る。振り返って逃げたかった。その綺麗な顔を向けられるだけで、もうオークは心が砕けそうだった。

 彼女は悪戯っぽく小首を傾げて(オークはそのあまりの可愛さに片目が痙攣を起こして機能不全に陥った)、


「──驚きました? わたし、心臓の音で人が誰かわかるんですよう」

「え、ええ……ちょっと驚きました。はい」


 違う。

 言うのだ。震える唇を動かし、激しく蠢く肺から息と共に意志を口にする。




「おっく、おくおく……僕と付きあってください!」




 思わず変な笑いが出た。今度から深心院の言う事は信じようと思った。

 そして、突然の告白にも驚かず怯まず、彼女はぺこりと頭を下げて、言い淀みもせずに応えた。


「ごめんなさい、私は心に決めた人がいるのです」 


(ですよね)


 当たり前の、予想していた、誰にでもわかる結果だったが、オークは笠の下で泣いていた。

 鼻を隠す為に口元に巻いた手拭いが涙を吸って、有りがたかった。そして彼女の断った仕草すら美しくオークは五感の半分が消失して新たなコスモだかチャクラだかを感じるほどだった。

 オークの告白をぽかんと見ていた店の男客達は口笛を鳴らしながら彼に近寄り、昼間から赤らんだ顔で笑いながら彼の背中をばんばんと叩いた。


「振られちまったなーこの生臭坊主!」

「気にすんなって、長屋の男達みーんなお雪ちゃんに振られてるから!」

「こないだタマも振られてたぜ! あと九郎の若旦那が振られれば本命以外全部なのにな!」

「まったく……本命は何をやってるんだか……」

「クソが……」


 恨みがましい視線を特に気にすること無く調理を続けていた六科に向ける男共であったが、六科が注目されているのに気づき、


「む? 埃が立つから席に戻れ」


 と、至極真っ当な指示を出された為に、舌打ちをしながら戻っていく。逆らうと無表情のまま「そうか」と言われて竹串が飛んでくるためだ。

 そして断りの言葉を言った以外は、お雪はそれ以上オークに言葉をかける事はしなかった。言えば、彼が惨めな気分になると彼女も知っているのだ。

 その優しさがまた嬉しくも愛おしいが、これでオークはきっぱり諦めがついた。彼女は幸せな結婚をして終了する未来を持っている。それだけで満足だ。

 あふれる涙は、その喜びと将軍の優しさを感じての事なのだと、オークは思った。男でも、エルフでも、涙を流す時はあるのだ。


「ほれ」


 立ち尽くすオークの胸元に、蓋付きの徳利が渡される。中には酒が入っているようだ。

 滲む視界を足元に向けると少年のような老人のような、妙な感じのする男が見上げていた。


「奢りだ。ここで呑むもよし、辛ければ持って帰って呑め」

「……ありがとう。僕は、告白の失敗を信じて待ってくれてる人が居るんだ」

「そこは成功を信じてもらえよ……」


 呆れたような相手に、泣き顔を笑顔に無理やり変える。

 優しい将軍だ。成功しても失敗しても、城に帰ってくる理由も城にもう帰らなくていい理由も作ってくれた。自分に選択肢を与えてくれた恩人だ。だから、


「だから、その人と一緒に呑むことにする」

「そうかえ」


 言って、オークは踵を返して店の入り口へ向かった。

 一度だけ暖簾の手前で立ち止まり、何か言おうとしたが、結局は無言を通してオークは帰っていった。

 江戸城でまた吉宗と酒を飲もう。振られた話を肴に一斗飲み干そう。

 大奥の女達にもどうせ知られるが、馬鹿にされるのもいいさ。きっと自分は馬鹿だったけど、それでも自分で選べた道だと笑い飛ばしてやる。

 そう決めて、オークの足取りは軽かった。

 そしてふと、徳利をくれた男の顔を思い出して首を傾げる。また、九郎も見上げた巨漢の顔つきを変に思った。


(なんか、指名手配されてた魔女の騎士に似ていたような……でも、見たの大分前だし、この辺の人似た髪の色多いし)

(なんか、ペナルカンドのオーク族に似てたような……いや、豚っぽいからといってあまり人の悪口を言うのもなんだ)


(だいたい、この世界に居るわけないだろうからな)


 と、お互いに思い合うのであった。






 *****




 それから。

 吉宗にもまたあっさり振られた話の顛末を話して、笑われた。

 逆に吉宗が振られた話をせがんだら、それを恥ずべきことと思っていない彼はあっさりと話してくれた。

 大奥の改革を行い、醜女を残して美女を解雇する際に気に入った女性が居たらしい。

 吉宗は直接会ったことは少なく、名前も知らなかったような相手だ。ただ、気になって評判を調べさせたら身分は低くとも唄も踊りも習字も料理も学問も、必要な技能は大奥の中でも最上級であったようだ。

 それだけの能力となるといらぬ恨みを買うのが通常であるのだが口も立ち相手をやり込める事もまた得意としていたようで、身分関わらず一目置かれていたという。

 出て行く意志を見せたので引き止めたのだが、


「決められた相手がいる」


 と、きっぱり断られた。将軍の命に従わぬというのは普通ならば大層に恐ろしいことなのだが、吉宗はむしろここまで気後れせずに拒否する相手に感じ入るものがあったのだろう。望み通りに暇を与えて、更には祝い金三百両まで渡したと実際に『徳川実記』には書かれている。

 妙に気に入ったのだったが、今になって思えば名前も知らない──記録にも残っていない──相手で今どうしているかもわからぬ。

 それだけの話しだったのだが、確かに将軍を振った女とは面白い人間も居るものだと、オークは感心して頷くのであった。そして将軍でもオークでも、振られる理由は似たようなものなのだと思うと可笑しくなった。


 語りながら、九郎に渡された町の酒を美味そうに吉宗は飲んでいたという。



 その後。

 再びオークは御錠口の番人となり、日々その肉体を揉まれたり熱い視線を送られたり、吉宗が輸入した象と力比べさせられたりしながら過ごして行く。

 それからも何度か江戸の街に吉宗の命で降り立ち、事件に巻き込まれたりもするのだが、それはまた別の話。


 やがて月日が流れ、吉宗が将軍を辞し、大御所となって政治を助けるようになってもオークは名物番人として江戸城本丸で過ごし──。

 そして、吉宗が享年六十八歳で亡くなった年に、いつの間にか大奥の前から姿を消した。



 ──その後の彼の行方は知れない。


 


 


挿話は九郎が主役じゃないけど流れに関わりがある話

外伝は殆ど関係ない話です

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