4話『動じぬ佐野六科』
明け六ツ(午前六時ごろ)の時間に九郎は棒手振りの声で目覚めた。
この時代の江戸においては訪問販売が多く、特に飯前の時間帯になるとその日卸した野菜や魚を持って棒手振りらが歩きまわるのである。
起きだした九郎は昨日の湯屋に使った小銭の残りを確認して棒手振りから小魚をいくらか購入した。はぜは江戸でも一番安い魚の部類で、暇つぶしに町人が釣りに行けば一日に百も釣れるほどだったという。
その場で頭と腸を取り除いて貰い、それを持って台所に行くと、六科が既に飯を炊き始めていた。
あくびをしながら小さな鍋を借り目分量で手早く生醤油を一、酒を三入れてさっと火が通る程度に小魚に絡めて火を止めた。冷えていく過程で醤油の味が染み込み、これがまた朝食の白い飯に合うのである。
煮付けに使った醤油を絡めた鰹節を白い飯の上に乗せ、ばくばくと食う途中でこの小魚の煮付けを口に追加すると、殊の外味が濃く飯をぐいぐいと口の中に押し込んでしまうような旨さなのだ。
今日も飯を男で三杯、お房も二杯おかわりして一日が始まったのである。
「それでは六科よ、蕎麦のつゆを作ってみよ」
「ああ」
九郎の言葉に従うわけではないが、いつも通り佐野六科はつゆを作る作業を開始するのだった。
他の店、屋台の二八蕎麦に比べてさえ六科のつゆは不味かった。それは問題である。麺がいかにぼそぼそのそばがき変異体の如きものであれ、浸けるつゆが不味いほうが台無しである。
火を入れた竈に鍋を置いて平静な態度で始めた。
「まずは火をかけた鍋に醤油を張る」
「……」
どばどば、と無造作に醤油瓶を傾けた。
「次に酒を入れる」
どくどく、と煮えた鍋に酒を流し込んだ。
「砂糖だ」
砂糖壺から適当に匙を突っ込み、大盛り一匙鍋に入れた。
そしてそれをよく混ぜて、
「湯で割る」
と沸かしただけの湯で薄めた。
椀に注いだ今日出す蕎麦のつゆとなる液体を一口六科は飲んで力強く頷いた。
「……うむ!」
「うむ、じゃねえよ!」
異世界から持ち込んだアダマンハリセンで快音を鳴らしながら六科の頭を叩いた。
叩かれた首を傾けたまま真顔で云う。
「痛いではないか」
「ええい、ちょっとその椀を貸してみろ」
と彼の調合した蕎麦つゆらしきものを少量口に入れてみるが、刺々しい醤油味と鼻につんとくる酒の匂い、薄い砂糖味をぼんやりしたお湯で薄めただけのどぎつい代物であった。
「明らかに不味いつゆであろう! どこに有無を言わせる要素があるのだ!」
「むう。塩っぱければ同じでは……」
「ない! かえしを作る順番も分量も雑だし、せめてお湯じゃなく出汁で割れ!」
「出汁……?」
不思議そうに問い返す六科に、力を亡くした如く九郎は肩を落とした。
「……というか今日の朝飯も、フサ子が味噌汁作る時鰹節を湯に入れていたであろう」
「ああ。あれは……まさか茹でた鰹節を醤油に絡めるためではなく鰹節の味を湯に溶かして……?」
「なんでこんな小学生の家庭科みたいなところから説明しないといけないかな!」
悲しくなってくる九郎である。
六科というこの男、味が濃いか薄いか、甘いか辛いか程度の違いしか頓着しない性質であるようであった。
そのような成でよくもまあ、蕎麦屋などやっているものだと逆に感心するほどだが、そもそも亡き妻の店を引き継いで営業しているだけであるので別段料理が得意なわけでも無いのだ。せいぜい実家で菓子細工の類は手習いさせられたので包丁を、
「使える」
程度ではあるのだが……
六科を押し退かして九郎は台所に立った。
「よいか、蕎麦のつゆは……まあ己れも詳しいわけではないが」
と前置きして鍋にまず酒を張ってふつふつと沸かした。六科の作ったつゆにはやけにアルコール臭さが残っていたために、まずはこうやって成分を飛ばすべきだろうと考えたのだ。
つゆの作り方の正しいレシピなどは知らないが、六科の用いた材料だけは恐らく間違っていないはずだと判断する。単純な材料だが必要最低限はありそうであった。
酒精を飛ばした酒にそろそろと醤油を注ぐ。少なめに入れては味を見て調節した。後は醤油の刺々しさが紛れる程度にまた少しづつ砂糖を入れ、混ぜ合わせる。
そしてできた返しを鰹節を荒っぽく削って湯通しした出汁で割り、また少量砂糖と醤油で整えた。
「むう、屋台の二八蕎麦の味には近づいたか。素人仕事にしては充分と考えるべきか」
「そうか」
不味い醤油汁から、蕎麦つゆだという意図は分かる程度の味に進化したのだったが六科の反応は薄い。
本当にわかっとるのか……と半眼で見るが、相変わらずの仏頂面で何を考えているかはわからなかった。
「まあよい。では次に蕎麦を打ってみるのだ六科よ」
「承知した」
「なんか妙に偉そうなのよね、九郎って」
洗った朝食の食器を片づけながらお房が云った。
見た目は十二、三の少年に顎で使われているような父親の姿には違和感しか感じないのである。
やはり六科は無頓着振りを発揮して、
「気にするな。俺は気にしていない」
とだけ告げるのであった。
そして蕎麦粉を用意する。高級店などは蕎麦の実から殻を取り蕎麦粉を作り出す道具を使い挽きたて、打ちたてを提供しているところもあるが、多くの蕎麦屋は問屋から蕎麦粉を買っているのである。
淀みない手付きで六科は作業を開始する。
「まず鉢の中に蕎麦粉と水を入れて練る」
一塊になるまで練り、それを蕎麦粉を薄く敷いたまな板の上に映した。
「棒で伸ばす」
と麺棒で薄く広く伸ばしていく。だが、薄く広げた先から蕎麦がぼろぼろと崩壊していくような光景に九郎は目を剥いた。
「重ねて切る」
伸び広げた蕎麦を折り重ねて包丁で端から切っていった。その包丁さばきだけは中々に上手ではあるのだが……
「茹でる」
無造作に、既に千切れかけているような麺を湯に突っ込みほぐした。
それを先ほど作った蕎麦つゆに浸し、啜る──というほど麺の形を成していなかった為にもぐもぐと食べた。
「うむ!」
再びの快音がアダマンハリセンから響いたのであった。
****
蕎麦粉十割で蕎麦を打とうとした六科に突っ込みをいれて、見本という形で蕎麦を打つこととなった九郎だったが、小麦粉の貯蓄はなかった為に異世界から持ち込んだ『カナニカーダ』という品種の異界チック小麦粉を使う事にした。たまたま道具袋に入っていた、料理以外にも仕える多目的アイテムである。しかし今後のためにも問屋に行き買っておかねばならないと予定を入れておく。
しかし九郎がつなぎの小麦粉を入れて打った麺もいまいち、
「美味しくは無いの」
とお房の評価であった。お前の親父よりマシだと言ってやろうかと思ったが九郎は大人なので止めておいた。
形は麺の体をなしているのだが、練りだか捏ねだかが足りないのであろうか、若干粉っぽくもあるしコシも弱い。
早くも座礁に乗りかかった蕎麦作りである。
「ううむ、練る技術となるとなあ、一夕一潮とはいかぬ」
「あ、そうだ。お雪さんならこういうの得意じゃないの? お父さん」
「む?」
六科はやや考えるようにして「そうだな」と肯定の意を示した。
「お雪とは?」
「長屋に住んでる按摩屋さんなの。うちにも時々食べにくる」
「ほう、按摩か。確かにこねる技術は高そうであるな」
九郎も納得したので、六科が「呼んでくる」と勝手から外に出た。
何となしに九郎とお房も続く。狭い裏木戸を歩き進むが、前は大柄な六科の体で見えぬほど細い通りであった。六科が歩いていては他の者はすれ違えないのではないか、と思いながらも裏店を初めて見る九郎はまたしても目を右左に動かして物珍しそうにするのだった。
四件奥の障子戸の前に、恐らくお房の文字で『ゆき』と表札が掛けられていた。
六科が声をかける。
「お雪。居るか」
「はい、はい。居りますよう」
と声が返ってきた。若い女の声だ。
戸を開けると着物を着た長い髪の女が座って裁縫をしている。年の頃は十代の後半程度だろうか。その肌は名前の通り雪のように日に焼けていなかったが、顔に大きな火傷の痕が残っていてその両目は閉じられていた。
当時は按摩の仕事が盲人の専売である。この女按摩師であるお雪もその目は光を映さないのであった。
「相変わらず器用だな」
と六科が声をかけたのは、目が見えなくても衣服を針と糸を使い器用に縫い合わせているのを見てである。
はにかんだようにお雪は白い頬を赤くして、
「つい躓いて裾を破いてしまって……でも手に染み付いたお裁縫は、見えなくても大丈夫ですよう」
「そうなのか」
「そうなのです」
うふふと口元を隠しながら楽しげにお雪は笑った。
「それで六科様、今日はどのような──」
「六科様!?」
驚いて思わず叫んでしまう九郎であった。
突然上がった大声に身を竦ませるお雪に、九郎はとりあえず、
「あ、ああすまぬ」
と声をかけて声を潜めてお房に尋ねた。
「いやいきなり六科が様付けで呼ばれているから驚いたのだが、何なのだ? 盲目系美少女に様付で呼ばせるけしからん取り決めでもあるのか?」
「あたいのお父さんに変な性嗜好をつけないで欲しいの。お雪さんは、昔火事の現場からお父さんに助けてもらった恩でそんな呼び方をするようになったの」
「何処の主人公だ六科め」
六科の鉄面皮を見ながら小さく呟いた。
もう十年も前になるか、お房が生まれていない頃に外神田の外れで起きた火事があった。長屋二棟が既に燃え上がり多くの火消しが集まって消火活動を行なっていたのである。
だが当時の江戸の消火は火を消し止めるのではなく、建物を破壊して延焼を防ぐのが主な方法であった。故に燃え上がった建物の外壁を崩しに行く火消しはそのまま帰らぬ人となることも多く、血気盛んな鳶職などが家族に別れを告げて飛び込んで行ったと伝えられている。
故に火中に取り残された人の救出などは二の次三の次と後回しどころかまったく考えている暇など無い。
盲ていて取り残された幼い少女であるお雪が助けだされたのは、偶然助けられる場所に居たこともそうだが、火消しに参加していた六科の、
「命知らずの勇気」
あってのことなのは言うまでもない。
彼からすれば「やれそうだからやった」とだけ簡潔に言うであろうが、それ以来お雪は六科に命を拾ってもらったと考え、按摩師として仕事を教えてくれた師匠よりも彼を兄のように慕うようになったのである。
話を今に戻すと、九郎とお房の声がした方向へお雪は顔を向けて言う。
「あら、お房ちゃんも一緒だったんですか。そしてもう一人は、九郎殿でしたか」
「む? 己れの名を知っておるのか」
お雪は小さく頷き応える。
「はい、昨日一昨日、六科様の家を盗ちょ……ごほん、大きな声で話していたものですから、ここまで聞こえたんですよう」
「いま何か不穏な単語が出かけなかったか。あとここ部屋四ツ分離れてるような」
「盲の者は耳が善いのですよう」
うふふ、と笑う言葉に何やら誤魔化しを感じたが九郎は放っておくことにした。
それにしても、とにこやかな笑みを浮かべたまま九郎へ告げる。
「随分と声の若い、お爺さんなのですねえ」
「……」
「ぶはっ」
吹き出したのはお房だ。九郎を突っつきながら彼女は面白がって囃す。
「よかったね九郎、あんたの実は爺さん設定、目の見えないお雪さんには通じるみたいなの」
「ええい、間違っとらんわ阿呆め。お雪さんの感覚が訴えかける事実こそが真実だというに」
しかしこの姿で爺さん扱いされたことは、異世界でもこの世界でも初めてなので何かむず痒くなるのであった。
「それで六科様、どのような要件でしょうか……あ、すみませんお茶も出さずに。どうぞ上がって下さいよう」
「いや構わん。お雪に頼みたいことがあってな」
「頼みたいこと……按摩ですか? うふふ、待ってましたと言わんばかりに張り切っちゃいます」
「違うが」
「……そうでしょうよう」
意味ありげに照れたように告げてみるが、無表情を崩さずに否定されて自嘲の笑みをため息と共に浮かべるお雪である。
按摩師としてそれなりに腕の良く、彼女が担当する顧客もそれなりに居るお雪であるが、一度足りとも六科を按摩したことは無いのだ。彼はあまり疲れなどを残さない体質なのか、
「その必要を感じない」
と長屋の店子とあれば家族も同然なのにお雪に肩の一つも揉ませたことが無いのであった。
いつかは絶対、しっぽりと按摩してやると決意を固めるお雪だったが、ともあれ蕎麦を練って欲しいという案件が伝えられた。
お雪自身蕎麦を練ったことは無いものの快諾して緑のむじな亭の厨房に戻る。長屋の移動に関しては杖を使わなくても常人と同じくすたすたと歩くお雪であった。
そして蕎麦鉢の前に立って軽く着物を腕まくりした。ほっそりとした白い腕は六科の固く締まった腕に比べていかにも力不足に見えるが……
「小麦粉と蕎麦粉を混ぜたものだ。それに水を加えて練る」
「はいな、頑張りますよう」
と彼女は隣に置かれた椀の重さを手で計って水を半分入れて、蕎麦粉を練り始めた。練った硬さを手で感じて水を追加する。
片手で鉢を抑えて、もう片方の手を使い身を乗り出すようにしながらぐいぐいと鉢に押しつぶし、揉みしだいて生地を作っていく。僅かな粉部分も残さずに指先で感じては力強く捏ね上げる。
丁寧であり力感に溢れた練り具合に、明らかに素人仕事とは違うと感じた六科と九郎は感嘆する。
充分に練った蕎麦を饅頭のような形に丸めて、まな板に移した。そして麺棒を使いこれまた、板に張り付け潰すように力を込めて広く伸ばしていく。蕎麦の向きを時々変えながら、均等な厚さになるように形を整えつつ伸ばすのはとても蕎麦打ちの素人には見えない。
それも目が見えないから手と指先の感覚で執り行っているというのだ。
そして折り紙を折るように丁寧に蕎麦を折りたたんで一尺五寸程の蕎麦の固まりを作り出した。
「はい、六科様。切って下さいませ」
「む……ああ」
明らかに本職の自分よりも上等に作り上げた蕎麦に一瞬気を取られたのだったが、六科は蕎麦切り用の包丁を取り出した。流石に目の見えない相手に包丁を持たせるのは危ない。
包丁さばきだけは堂に入ったように蕎麦を切り割っていく。
打ちたての蕎麦をたっぷり沸かした湯で茹でる。ちなみに火元は九郎の炎熱呪符を使っている為に湯を沸かしたりつゆを温めたりと薪代を使わずに自由に出来るのであった。紙製の呪符であるが熱効果を長く保つ。それも類稀なる魔力持つ魔女の御業あっての呪符だからだが。
茹でた蕎麦に、敢えてつゆではなく麺自体を味わうために醤油を薄く絡めて食べると、蕎麦の味が生かされたもっちりとしてコシのあり、蒸気と共に感じる醤油の香りに負けていない、麺だけならばそこらの店でやっている蕎麦屋に負けていないものができたのであった。
「なんと、予想より余程見事であるな」
と感嘆の声を九郎が上げると、お雪は頬を抑えながら、
「やぁですよう九郎殿。素人芸を褒めすぎですよう」
「いやいやこれは立派なものだ。六科、お主も見習えよ」
「そんな……六科様の作るお蕎麦もその……味は愛があれば関係ないですよう」
「この店のきゃっちふれえずか何かか、それは」
「?」
残念そうな人を見る目で、お雪と己の味のわからぬ六科を見やる。身内びいきにしても不味いだろうに、よく我慢して食べていたものである。
「つまり今のお雪のような打ち方をすれば良いのだな」
「そうなりますねえ。六科様、わたしが手取り足取り、教えて上げますよう……」
と再び蕎麦生地を作るように準備された鉢の前に立つ六科の後ろから、手を補助するようにそっとお雪は指導へ回るのであった。
盲目系美少女に後ろから抱きつかれるような形である。
六科は依然と動じておらず、背後から抱きつかれるのがおんぶお化けでも死体でも変わらぬ、と云った仏頂面だ。
それを見て苦々しげな顔で九郎は六科の肩に手を置いて云った。
「六科」
「なんだ」
「なんというかなんだお前……なんなんだ!?」
「……?」
「色んな意味で鈍いぞこの男……」
思わず唱えて彼に背を向け、特訓を始めた厨房から立ち去る九郎であった。
緑のむじな亭、本日は修行のため休業である。
****
むせ返るリア充臭から思わず店を飛び出したものの、特に行く宛のない九郎はさてどうしたものかと考えた。
金はなくとも物見遊山は出来るか、と適当にぶらつく事にしたのだが……
同じような長屋に細い小路が無尽に走る江戸の町を道を忘れないように進んだ先に、路肩に座席を設けている団子屋があった。
紅白の暖簾を出して、外に出した座席と傘も紅で染めた明るい店構えに明らかに不吉臭い影が鎮座している。
黒い喪服に癖毛が目立つ長髪。葬式をはしごしてきたような格好をした眼鏡の女……鳥山石燕であった。
紅白団子を食いながら酒を飲んでいるようである。既に空けた一合徳利が見える。
江戸の町に置いて数少ない知り合いである石燕に九郎は声をかけた。
「お主、何時見ても酒を飲んでおるな」
「おや? 九郎君かね。ふふふ、まあ座りたまえ」
自らの横の席を軽く叩いて招いたので、九郎は特に用事もないから従い座った。
上機嫌に石燕が新たな団子と銚子を注文する。作り置きと冷酒だからか、それらはすぐに持ってこられた。
「私の奢りだ。ここの団子は粉砂糖が振ってあって甘みが強いのだけれどね? 酒が辛いから乙なものだよ」
「団子をつまみにしたことは無かったがな」
言いながら串団子を手にとって、ぐいと噛んで串から引きぬいて口にやった。団子の表面に残り雪のようにわずかに振られた砂糖が甘く、団子自体も丁寧な作りで歯ごたえが良かった。
団子というのはこの串が大事なのだ。ぐい、と引きぬく動作がなければ味は半減してしまうだろうと九郎は思い高説を口にしたが、
「ならばお汁粉の中に入っている白玉はどうなのだね」
と石燕から返されたので、
「あれはあれで別ジャンルなのでノーカン」
と誤魔化すように横文字を使って言い訳するのであった。
そんな彼の言葉にも疑問を挟まずに面白そうにしている石燕の視線がどうにも気になるが無視をして、酒を飲んだ。
春先とはいえここ今日は日も好く、ともすれば汗ばむ陽気であった為に冷えた酒はうまかった。うまそうに飲む九郎を見て石燕はもう一本銚子を注文した。
「そう言えば一人で何をしているんだい? お遣いかね?」
「只の散歩だ。六科の蕎麦打ち修行には己れは役に立たんからな。面倒であるし。お雪さんに任せてきたわ」
「ああ、あのお嬢さんか」
面識があるようで納得した後に何故か意地が悪そうな笑みを浮かべ、再び酒を飲んだ。
「人間無骨の叔父上殿の事はどうでもいいか。ふふふ、私は九郎君のほうに興味があるしね」
「用事を思い出した」
「只の散歩なのだろう、待ちたまえ」
発作的に帰りたくなった九郎だったが立ち上がる前に軽く指先で額を抑えられた。
上体を後ろに反らされると座っている状態から立ち上がれなくなる。彼は苦々し気な顔で離席を止めた。
「少々房から事情は聞いているがね。なんでも仙人の弟子であったとか?」
「……それは嘘だ。言うても信じられぬ事なので適当に説明しただけでな」
面倒臭げにかぶりを振りながら云う。
だが石燕は興味深げな色を瞳に映して真剣な様子で告げる。
「言ってくれたまえ。何せ私は妖怪などと目には見えぬ物を絵に写す事を生業としている地獄先生鳥山石燕だよ? いかな怪奇不思議を信じられぬことがあろうか」
「……」
純粋に、本心から九郎の話を真摯に受け止めようとしているらしい、いつもの巫山戯た笑みを止めた誠実そうな顔の石燕は……
どこまでも本気で胡散臭く九郎は感じた。
あれは魔女が綺麗事を吐いてこっちを騙そうとしている時の顔だ。九郎は苦虫を噛み潰した顔をした。
「……次に己れが真剣に語り出したらどんな内容を話してもまず大笑するつもりであろう」
「ふふふ……なんでわかったんだい?」
「経験則だ、小娘め」
吐き捨てるように云う。
石燕は拝むように手を合わせて猫撫声で謝罪をしながら頼み込んできた。
「誂おうと思ったことは謝るよ、すまないね九郎君。でも君の話に興味が有ることは本当なのだよ」
「……ええい、どうせ言うてもわからぬだろうが聞かせてやる」
と九郎は掻い摘んで事情を話しだしたのであった。
****
酒を飲みながら一刻半程話しただろうか。特に茶々を入れるでもなく、だが的確な頻度で相槌を打ちながら聞いていた石燕は一段落ついたのを確認して疑問を挟んだ。
「ところでその異世界には妖怪は居たのかね?」
「興味はそこか……ゴーストやゾンビやスケルトンに変化し死霊になっても生活してるものならいたが……後は種族としての吸血鬼や亜人などは見た目ならば怪物のようであった」
「生物としての分類と妖怪かどうかは違うよ。私が怪談に出てくる『むじな』という妖怪は好きでも六科という名の叔父上や穴熊はよく思っていないようにね」
「嫌っておるのか、六科のことは」
「嫌いというほどではないが……塵塚怪王のほうがましだと思う程度で」
「誰だよ塵塚怪王」
いまいち知名度の低い妖怪の名前についていけずに問い返すと、意を得たりとばかりに石燕は懐から髪と筆、墨入れの小瓶を取り出した。
「ふふふ塵塚怪王を舐めてはいけないよ九郎君。塵塚の怪……すなわち付喪神は知っているね? 器物百年に居たり魂生ずる。人が生み出したあらゆる物は神になり得る素質を持つのだよ。そしてその無数とも言える神々の頂点に立つ王こそが塵塚怪王なのだ」
言いながら鮮やかな手付きですらすらと紙に筆を走らせる。
一点も躊躇なく流れるように描き上げた絵を九郎に見せてきた。
そこには、蓙を片手に持って襤褸を纏い、蓬髪垢面で破帽を被っている薄汚れた老人が描かれている。
「……塵塚怪王!」
「どう見ても無宿人の長老か何かであろう! 嫌だぞこんな王は!」
「ふふふ、これは仮初の姿。まだ二回の変身を残しているのだよ」
「どっか未来で聞いたことのあるような事を口走るでない!」
「多分臭いから近寄りたくはないね」
「これ以下な扱いか六科は」
僅かに可哀想にすら思うのであった。
彼女からしてみれば毛嫌いしているわけではないけれども、どうも誂い甲斐の無い、面白味と人間味にかける六科は苦手な性質なのである。娘のお房は可愛がっているのだが……
見ていたまえ、と石燕が部下付喪神である鞍野郎アーマーと古空穂アローを装備し朧車チャリオッツに乗ったフルアーマー塵塚怪王を描き始めたのを見ながらため息混じりに九郎は尋ねた。
「というかお主、異世界がどうとか疑わぬのだな」
「うん? ああ、あるのではないかなとは思っているよ。三千大千世界という言葉を知ってるかね?
仏教における世界全ての総数を現しているのだが、我々の住むこの地と神仏の住まう天上から地の底までを一つの世界と数えよう。それが千世界集まって小千世界。小千世界が更に千集まり中千世界。中千世界がまた千集まり大千世界というのだね。
勘違いされやすいが大千世界が更に三つあるから三千大千世界ではなく、小世界・中世界・大世界の三つを表し三千大千世界というのだが……まあとにかく、数にしてみれば十億も世界もあるということになるのだよ。
それだけ数があれば君の言う世界だってあるのだろうし、何らかの方法で移動できる術もあるのではないかな」
九郎は己の話した事を大体に置いて理解し、信じている様子の石燕に胸中で感嘆するのであったが、説明が長くいまいち頭に入って来なかった。解説好きなのか? と妙な感想さえ浮かんだ。
しかし九郎の現状を話しても、普通は頭おかしいか子供の妄言としか思われないであろう事なのだが、おおよそ石燕の思考が尋常ではないので逆に言葉に詰まってしまう。
とりあえず酒を飲んだ。何はともあれ酒である。
銚子のお通しとして出された小梅の梅漬けは程よく酸っぱくて飯よりも酒に合うようにされていて、その梅肉や梅紫蘇を一口入れるとこれまでの甘味で慣らされた口から洪水のように唾液が出るほどで、それを酒でくぴりんこと飲み込むのがまた良いのであった。
舌鼓を打っている姿をにやにやと石燕に見られているのを察知して、体裁を整わすように咳払いをした。
「ところでその異世界から何か持ち帰った珍しいものは無いのかね?」
「珍しいもの、か。この世界からすれば存在しない物はいくらかあるが」
「ほう」
眼鏡を光らせ目を細めて笑い身を乗り出してきた。
「気になるね。良い物があればそれなりの値段で買い取らせてもらうが?」
「む……」
と交渉を持ちかけられて九郎は少し考えた。
確かに自由になる金は欲しいし、異世界から持ち込んだ物品の中には今や不要なものもある。真っ当な商人でない個人の相手が金に変えてくれるというのなら有難いのであるが……
鳥山石燕という怪しげな人物に与えて良い道具かどうかを選別しなくてはならない。
更にあまり文明から逸脱したようなオーパーツを売り飛ばすのも、タイムパトロールの介入という結果を招きかねない。時間犯罪者として脳細胞破壊銃で記憶を消去されてパーにはされたくない。よく覚えていないが確かそんな組織だった気がする。
考えた結果、薬の類なら構うまいと服の内側に縫いつけた小物入れに入れた小瓶を取り出した。幾らかの小物と、魔法の術符を纏めて収めた小サイズの術符フォルダは持ち歩くようにしているのである。
石燕は眼鏡を正しながら言う。
「これは?」
「なんと云ったか……思い出せんがなんとか云う生き物の髄液を加工した最高級の薬でな。飲むだけで外傷を驚く程塞ぐ霊薬なのだ……と云うだけではわからぬな。こうやってだな」
九郎は近くにあった竹串を軽い手付きで取ると、尖った部分を引っ掛けるようにして己の親指をざっくりを引き裂いた。
赤い線が出来てぶわりと溢れるように血が膨れ出てきて流れだす。
「九郎君!?」
と驚いたような声を上げる石燕に九郎は笑いかける。こういう余裕ぶった手合いをびっくりさせるのは少し楽しいと悪戯っぽい感情が浮かぶ。
「見ておれ」
と回復薬の蓋を開けて、蓋の縁についていた僅かな量を指で拭って舐めた。
すると何も無かったかのように指の傷は痛みと共に消えてなくなったのである。
手のひらを向けて何事無いことをまじまじと石燕に見せる。
「どうだ、この世のものとは思えぬ効能であろう」
「……これは……やはり……」
「?」
「あ、いやなんでもないよ。いいね、気に入った。言い値で買わせてもらおう」
「全部はダメだぞ。半分で……ううむ、いまいち金銭の正常な価値がまだ把握してないので価格がつけにくい」
困ったように言う。九郎にとっての金銭の基準は今のところ、蕎麦一杯十六文と風呂屋一回五文(子供料金)ぐらいしかものさしを持っていないのだ。
真面目に考えている彼に石燕は笑いかける。
「わからないなら百両とでも言えば良いのに真面目だね。言い値とこちらは言っているのに」
「莫迦を申すな。己れは別にこれを売って大儲けしたいわけではなく、当座の資金が必要なだけなのだ。それに女子供を騙して金をせびるなどはしない」
当座の資金、という言葉に石燕が反応した。
「というと──叔父上殿の蕎麦屋を立て直す資金かね?」
「ああ。蕎麦自体は兎も角、店に出す酒やさいどめにゅうなどを豊富に展開すれば蕎麦も食える飲み屋、と云った程度にはなるのではないかと思ってな。あやつの店が繁盛すれば堂々と寄生隠居できるというものよ。だが新たな材料を買うにも金が無くてな……もちろん己れがあちこちで飲み食いする小遣いも必要不可欠なのだが」
「ふむ……」
百両あれば好きに暮らせるだろうにとも思う石燕であったが、九郎の今の目的はあくまで六科の支援なのである。
大金を持って売れない蕎麦屋でも維持だけはできるようにするのではなく、蕎麦屋として普通に金を稼げるようにしてやらねば意味が無い。
それに結構他人の営業に口を出してみるというのも面白いものだと思っていた。ほんの数日の付き合いだが、緑のむじな亭に、
「愛着が湧いた」
ようであった。
若干考える仕草を見せた石燕であったが、彼女はこう提案した。
「ならばこうしよう。九郎君が緑のむじな亭に必要な物資を買う時は私が資本金を出させてもらうよ。それと外で酒や飯を食べるときは私のつけにしておいて構わないし、其のためのお金も随時援助しよう。どうだね?」
「ううむ、有難いが……」
「不満かね?」
「何かお主の、ひもになったような気分がどうも良く無い」
九郎の言葉に一瞬きょとんとした石燕だったが、堪え切れぬとばかりに笑い出すのであった。
その日はそこで、九郎に前金の一部だと薬半分と交換に、一両小判を渡して別れた。
緑のむじな亭アドバイザー九郎、スポンサーを手に入れたのである。
****
緑のむじな亭へ戻ってきた九郎を待ち構えていたのは心なしか疲弊した六科と、笑顔でいつの間にか割烹着の前垂れを着用しているお雪とお房であった。
謎の出迎えに一瞬怯んだ九郎は声を出す。
「ど、どうしたというのだお主ら」
「俺の蕎麦が完成した」
と六科が差し出すのは一杯の丼。
手助け助言あれども、彼が作ったかえしを彼が取った出汁で割り、彼が打った麺を使って作った六科の蕎麦であった。
さんざんの練習の末にとうとう完成したのだ。厨房では材料が散らばっている。恐らくは在庫の蕎麦粉や砂糖、醤油なども相当減ったであろうことは想像がついた。買い足すのはこの金なんだよなあ、と九郎は胸元に感じる一両小判の重みを気にした。
「左様か」
と声をかけて丼を受け取り、席につく。
「お主の修行の成果、確か観てみよう」
と箸を取り蕎麦へ向かう。
見た目はまともな掛け蕎麦であった。
シンプルな魚介系出汁(鰹節)の香りの聞いた暖かい蕎麦つゆに使った麺をつまみ、しっかりと麺の体をなした細めのそれをすすり込む。
続けてつゆを一口飲んで、彼は頷き嬉しそうな顔で呻いた。
「喜べ、六科よ」
「うむ」
「普通に不味いぞ!」
お房の振るったアダマンハリセンが轟音を立てて九郎を物理的にぶっ飛ばしたのだった。