3話『喪服の女』
料理の味付けは土地と時代によって大きく変わる。
現代で食べた記憶のある蕎麦と、それよりも三百年程度過去である江戸で作られたそれはまったく異なる味付けであるに違いない。
それは分かるのだがもったりとしてコシの無い、ぼそぼそという表現すら褒めている気がしてくる蕎麦の麺と、醤油をお湯で薄めたような汁につけた蒸せる味のそれは間違いなく、
「不味い……」
のであった。
無論、そのようなことをあろうことか他の客がいる前で店側の人間が憚らずに口にするなどお房には、
[許しがたいこと]
であった。一宿一飯の恩義を忘れてこの暴言である。彼女が箒を持ちだして九郎を追いかけ回すのも当然の成り行きだ。
九郎は仔猿の如き器用さで店内を駆け回り、入り口から外に出た。敷居に箒を逆さに立ててお房は狼狽する九郎を睨み上げる。
「し、しかしだなフサ子よ、不味いものは不味いのだから仕方無いではないか」
「うちの蕎麦がそんなに不味いわけないじゃない!」
「嘘をつけ嘘を! もう一度己れの目を見て言ってみろ!」
お房の両肩を掴んで九郎は問う。
ややあって、お房は口を半開きにして顔を背けながら、
「ま、不味くても愛があれば関係ないよね」
「らのべたいとるみたいな主張で誤魔化すでない」
本気でこの少女は味覚があれなのかと思って不安になったが、一応不味いという自覚はあるらしい。
自分で料理を作り出すまでは彼女も親である六科の料理を食べていた為、慣れのようなものはあるのだが矢張りいとこの家で食べる手料理や祖父の作るお菓子などを食べた時の美味と比べればまさしく父親は料理の腕がまずいのであった。
元々亡き妻のお六が腕をふるって蕎麦を打っていた緑のむじな亭を、六科が受け継いだのだが別段蕎麦作りの手伝いをしていたわけもなく、蕎麦の打ち方もつゆの作り方も自己流である。妻が働いている間彼は鳶と火消しをしていた。
更に味覚がいまいち鈍く性格も大雑把な為に彼の腕前はこれといって上達しないのだった。
「そ、蕎麦ってこんなもんよ! 多分……」
「お主、他の蕎麦屋に行ったことは?」
「……無いけれど」
「ううむ」
呻く。幾ら何でも、この蕎麦屋の味が江戸時代の標準だとは思いたくはない九郎である。
ならば、第三者の意見をと思い、丼を持ったまま此方を見ている同心の利悟に伺ってみるが、
「不味くても愛があれば……」
と、やはり当てにならぬ意見だった。ちらり、と気色悪くお房の方を見ながらの言葉に、厨房から竹串が二本飛来してくる。
余人の放った竹串ではない。
深々と壁に突き刺さった竹串を一目し、利悟は席に座り無言で不味い蕎麦を啜り続けた。
そもそも流行ってない店の味などという事実が不味いと告げているようなものだ。
とはいえ、味を変えようにもこの時代の江戸で流行している味は見当もつかない。
「なれば、蕎麦を食い歩きに……」
「どこにそんな銭があるのよ」
「……おい六科。小遣いをくれ」
「情けないな、この自称年寄り小僧!」
にこやかに金の無心をする九郎であったが、六科はごく平静に「駄目だ」と短く返した。
単純に貧窮していたからだ。
当面の親子の食事代はあるがそれっきりで、店にしている表長屋の店賃分が全くないのである。貯めていた僅かな貯蓄は六科の父への見舞金に包んでしまった。
長屋の家主とは縁があり、長屋の差配人を引き受ける代わりに表店の店賃を一分四朱にまで安くしてくれている恩があるのだ。家守として裏に住む日雇等から店賃の回収も行う立場としても、滞納などは到底できないのであった。
なるほど、これでは初期投資に金が掛けられぬわけだ。
九郎はさて、どうしてある程度の金を手に入れるかと考える。古道具屋に無駄なほど上等の作りのアカシック村雨キャリバーンⅢを売り飛ばすという事も考えたが、出自を問われ妙な疑いを持たれるかもしれないと止めておくことにした。
蕎麦を手早く食い終えた利悟が懲りずに近寄って声をかけてきた。
「それならば拙者の奢りで何件か寄ってみるか?」
「目つきから疚しいものを感じるのでお断り致す」
「ぶ、無礼だな最近の子供は! 昔は皆、飴一つで路地まで付いてきてくれるほど純朴だったのに!」
お房が店の前で騒ぎ立てる利悟に対して、岡っ引きでも呼んでこようかと思った時であった。
「この世には──」
よく通る声がした。
****
突然此方に向いゆるりと歩みを寄せてきた黒い影のような女に九郎は視線を向けて、九郎は自身でもよくわからぬがそれから嫌な気配を感じ取った。
影のような、と評したのは喪服のような真っ黒の着物を着ていたからだ。年の頃はわからぬが、年増という程ではない。髷を結わずに癖毛のまま流していて、申し訳のようにつけた櫛も簪も黒檀のような色をしている。にたり、と妖艶な──或いは人を小馬鹿にしたような──笑みをした顔にはこの時代に珍しく、眼鏡をつけていた。
女は嗤いながら近寄る。
「この世には目には見えない闇の住人たちがゐる。奴らは時として牙を剥き君達を襲つて来る」
視線を少なくとも可視化している利悟向けながら、続けた。
「私はそんな奴らから君達を守るため、地獄の底からやって来た正義の使者なのかもしれない……」
妙な名乗り文句に益々顔を顰めた九郎は顎に手を当てて「どこかで聞いたことがあるような」と呟く。
すると顔見知りなのか、利悟が腰を引かせて叫ぶように口を開いた。
「あ、あ、あんたは」
容赦はなかった。
「喰らえ必殺鬼人手」
「ぐわーっ」
どこからか取り出した、5つ手の大きなヒトデ……鬼人手を利悟の顔面に投げつけるのだから、到底彼はそのヒトデの棘に、
「敵わぬ」
と這々の体で逃げ出す他無いのである。
鬼人手は東京湾に生息するオニヒトデ科の生物で大型のヒトデである。その全身を覆う棘に激しい痛みを起こさせる毒を有しているのだ。
逃げていく同心(もちろん、町人に疚しく言い寄って撃退されたなどと彼がお上に訴える事はできない)をどうでも良さそうに見送る喪服の女の事を九郎はお房に尋ねた。
「この人はお豊姉ちゃん……じゃなかった、鳥山石燕先生。あたいの従姉妹で、絵とか勉強の先生をしてるの」
「ふふふ江戸に名高き地獄先生、鳥山せきべ~とは私のことだよ!」
「なんか色々待てよ!」
九郎は思わず頭を抱えながら怒鳴った。何か既視感というか、似たような語感の創作物がはるか未来の日本であったような気がしてならなかった。
数十年の月日は明確な記憶をぼかしてしまって思い出すには至らないのだが、未来のネタを過去の人物がパロディしているという尋常ではないことが有るはずはない。
お房からすれば得体のしれぬことで悩んでいる九郎を見て、彼の叫ぶ突っ込み声に少しわざとらしく驚いたような態度をしたあとに、にやついた笑みのまま女は声をかける。
「おっすオラ鳥山石燕。いっちょやってみっか」
「それもなにか聞いたことが有る気がするが微妙に違うぞ!? 主人公じゃなかったよね鳥山先生は!」
「やれやれ、この少年は何を喚いているのだね? 房よ」
「えっと、きっとばかなんだよ」
とりあえず的に応えるお房。肩を竦めて含み笑いを漏らしながら、何か悔しそうにしている九郎を女は見るのであった。
女は本名を佐野豊と云う、六科の姪にあたる女だ。彼女こそが、狩野派の門人としてめきめきと頭角を表している絵師、鳥山石燕その人であった。これより時代を下るが、後に『図面百鬼夜行』等を刊行して妖怪絵師の中でももっとも有名な1人となる画家である。
店の財政難から寺子屋にも行けぬお房に、文字絵描きから算術や家庭の仕事まで暇つぶしに教えている先生役でもあった。本人は金貸しの夫を早くに亡くした後、新しい夫を探すでもなく残った財産を食いつぶし趣味に生きているのだったが……
「見ない顔だが房の友人かね?」とお房に尋ねる。
「友人というか居候というか……妖怪?」
「ほう!」
妖怪、という言葉に食いついた石燕は屈んで九郎の目を観た。
「……初めましてだね妖怪の少年。ふむ、童子の妖怪とは珍しく無い。さ、豆腐でも出せ」
「人を豆腐小僧扱いするでない……というか、なんでこの時代にそんな眼鏡をつけておるのだお主は」
眼鏡自体を販売する店は江戸の町にもいくつかあるがその価格は庶民には手が出せぬような高価であり、まだ普及するには時代が降らねばならないのだったが、その希少性よりも意匠が気になった。
江戸時代にあった眼鏡など、かつて現代に居た頃に資料で一二度見たような気がするが……少なくともアンダーリムの御洒落装飾ではなかったはずである。
矢鱈と現代風なそれを身につけた彼女は事も無げに応える。
「これかね? 和蘭陀で流行している意匠だと聞いて、職人に頼んで作って貰ったのだよ。軽くて良い」
「むう……」
当時の江戸幕府とほぼ唯一商売をしていた外国がオランダであった。石燕は絵について学ぶために長崎を訪れた際に、僅かな時間だがオランダ人と会話する機会があったのである。
珍しい意匠の眼鏡に、一年中着ている喪服。否応でも目立つ風貌をしている鳥山石燕であるために、知り合いの町人らは、
「石燕先生は妖怪に取り憑かれている」
と専らの評判であった。
怪しげな言動に人を喰ったような余裕の態度にはどうも苦手意識を持ってしまう九郎である。
相手は二十をとうに越えてはいるが、九郎の実年齢からすれば孫のような年齢の娘だというのに、本能的というか経験的に恐れる態度をとってしまう。
その石燕の言動もそうだがその容姿が、
(魔女に似ている……)
気がするのが原因であるのかもしれない、と九郎も思うのであった。
異世界で暮らすこと数十年、老齢で平和な学校の用務員としてほのぼのした老後を送っていた彼を強制的に若返らせて使い魔とし、散々好き放題連れ回して苦労させられた魔女のことはもう会うことはないとはいえ、鬼門の如き存在だと認識している。
兎も角、目の前に居る石燕から九郎は不信そうに距離を取った。そんな態度をされても矢張り「ふふ」と含み笑いを漏らすだけであったが。
石燕は開き離しの店の入口に立ち、厨房の六科へ尋ねた。
「やあ叔父上殿、川越の爺殿は息災だったかね」
「『鳥山石燕など知らん』だそうだ」
「やれやれ、寝ている間に部屋中の壁紙に妖怪を描きまくった事を今だに恨んでいるようだ」
困った困った、とまったく困っていなそうに云う。
朝起きて部屋全面を埋め尽くす妖怪を想像して九郎は半眼で睨んだ。
「それは起きた時マジホラーすぎるぞ」
「俺もやられた」
「あたいもやられた」
「爺殿は心の臓が僅かな時止まった」
「迷惑すぎる!」
思わず佐野一族に突っ込み苦言を呈した。
その後、六科は実家から預かってきた佐野豊宛ての菓子を無造作に渡した。妖怪画家、鳥山石燕は嫌いだが孫はいつまでも可愛いものである。
ところで、とふと気になった九郎が尋ねた。
「お主はこの店の蕎麦を他の店の蕎麦と比べてどう思うであるか?」
「ふむ? この店の蕎麦? ああ、ここの細長いそばがきを暖かな醤油に浸すという変な食べ物は蕎麦だったのか。初めて知った」
「同じ土俵にすら立っていないとは」
落胆する九郎だ。つまりは明確に、他の店に比べて不味い六科の料理の腕をどうにかする必要があるのだからである。
お房から何やら事情を聞き、面白そうに石燕は囁いた。
「ほう、この店の改革をかね。成程酔狂な事を始めたものだ」
そして、
「そうだね、手本として私が本当の蕎麦屋へ連れて行ってあげよう。暇だから」
「むう、助かるは助かるのだが……」
九郎の経験上、あまり貸しを作りたくない類の相手ではあった。だが他に金を借りる宛などあるはずもない。
もとより此方の意思を聞くつもりは無いのか、勝手気ままに彼女は話を進めた。
「房もおいで。店番などしててもどうせこの店に客など来ないよ」
「えー……」
石燕の発言に対して不満そうな色を目に浮かべたが、父親の「構わん」という短い許可の声が上がり、仕方なくお房もついていく事となったのだった。
季節よりも早い、郭公の鳴き声が緑のむじな亭に聞こえた。
****
江戸の人が行き交う街を三人が歩く。きょろきょろと周囲の珍しい、時代劇のような光景を眺めている九郎はまさに田舎者のようであった。そんな彼の様子を肩越しに見て苦笑したような顔をしている石燕は、片手をお房と繋いで歩いている。
年の離れた姉妹のようである、と九郎も微笑ましく思う。だが喪服姿に髪を腰まで伸ばした、眼鏡の女は矢張りどこか注目を受けているように見える。それを気にする石燕ではなかったが……
三人は船着場までのんびりと移動して大川を渡す船を頼んだ。
「何処に行くのだ?」
「なに、折角食べに行くのだから名店と呼ばれる場所でなくてはね」
そう告げて大川の流れを進み蔵前橋のあたりで降りた。
第六天神社に立ち寄った後に、近くにある大きな店を構える蕎麦屋『逆木屋』へと立ち入った。表長屋を利用した緑のむじな亭と違い、立派な店舗である。店の中に三十人は入れるだろうか、二階にも多く部屋があるようだった。
(成程、流行ってそうな店だ)
見ると客の町人らも整った格好の者が多く、武士も見受けられた。それが店に満員と入っているのである。
石燕は慣れたように暖簾を分けて店内に入って行く。心なしか気圧されていたお房もそれに続いた。
「いらっしゃいませ、おや、鳥山先生じゃないですか」
「やあ。空いているかね?」
「へへえ、どうぞどうぞ」
とにこやかに下男が二階の部屋へ案内しようとするが、彼女は手で制した。
「いや、今日はそんなに飲んで行かないから一階で良い。うちの生徒らと蕎麦を食べに来たのでね」
「なんですって、こりゃあ大変だ。旦那ぁ! 今日は鳥山先生、蕎麦を召し上がるそうですぜ!」
「やっとか! あの飲兵衛におれの蕎麦を味合わせる時が来たか! 待ってろすぐに出してやる」
「ああ、生徒に食べさせるから二枚でいいよ。それと酒と田楽」
「ちくしょう!」
やる気を出した板前に水をぶっかけるような言葉である。どうやら常連ではあるが、いつも酒とつまみばかり注文しているようである。
そんな彼女の様子をじとりと九郎は半眼で睨んで、
「本当に蕎麦の名店なのか?」
「安心したまえ。ちゃんと私だって食べての評価だよ。だが酒とつまみも絶品でね?」
悪戯っぽく嗤う石燕であった。
暫くすると三人の着いた席に蕎麦と酒、つまみが運ばれてきた。
逆さにして水切りをよくした笊の上に盛られた、井戸水で洗いたてのぴんとした蕎麦である。所謂むじな亭で出される掛け蕎麦ではない盛りの形だが……
九郎は箸を手に蕎麦を摘んだ。余計なぬめりはなく、つるりと蕎麦が離れる。さて、これを……と食卓を見回すと蕎麦猪口を見つけた。ううむ、これに浸して食べるのか、と彼は感心する。あまり現代でも蕎麦専門店等は入ったことが無かったのである。
冷えた蕎麦つゆに蕎麦を半分ほど浸して啜る。蕎麦の香りがまず口に広がり、そして濃い目のつゆの味がした。昆布と鰹節で張った出汁で割られている蕎麦のつゆに感じる甘味は、
(恐らく黒砂糖で味付けしている……)
と九郎は感じた。
隣に座るお房は蕎麦の味に舌鼓を打って止めどなく、つるつると啜っている。
昼間から徳利を傾けている石燕は愉快そうに見ていた。共に食べる田楽は豆腐ではなく、戻した椎茸を串に刺して、胡麻と甘味噌を塗りつけてさっと火で炙ったものだ。
「美味いだろう?」
「うむ……」
なるほど、箸が止まらない。これが久しぶりに食べる蕎麦か……と感心する。
勢い、蕎麦一枚を食べ終えてそば湯が出された。九郎がつゆを薄めて味を確かめる。
出汁に感じる深い味わいは何だっただろうか、と思案して目の前の石燕が酒の肴にしている田楽を見て、気づく。
「成程、椎茸の出汁か」
「そうだね。大阪下りの本鰹節と江戸前の昆布、そして冬菇とまあ出汁だけで叔父上殿の蕎麦より金がかかっているのではないかね」
「矢張り値段も高いのか、この店」
「蕎麦が一枚三十文、酒が六十文、田楽一本十文といったところかね。これでも良心的な価格設定だね」
「……その酒、六科の蕎麦五杯分か」
「少し飲んでみるかい? いい酒だよ」
と猪口を回して来たので味わってみると、確かにむじな亭の甘みを抜いた味醂のような酒とは比べ物にならぬ、清涼にして甘口の上酒であった。
九郎はなにやらしきりに頷いて感心していた様子である。
****
『逆木屋』の板前兼亭主と石燕が軽口のようなものを言い合い店を辞して、一行は次の場所へ向かったのである。
次の目的地は鳥越近くにある蕎麦屋であった。『件屋』と書かれたその店の前では、同じ屋号の屋台が天麩羅を上げていた。
「この店では天麩羅蕎麦が食べられるのだよ」
「ほう……」
室内で揚げ物を作り油が燃え移っては一大事ということも有り、当時は炉端の天麩羅屋が多く見られたようである。
店に入ると活き活きとした店員の声が響き、客も若い衆が多く見られるようだった。つゆと油の香りがつん、として先ほど蕎麦を食べたばかりだというのに、食べる気力が湧いてくる。温かい蕎麦つゆの食を促す力は、
(侮れぬ)
と九郎は思った。
若い店員が元気よく聞いてきた。
「らっしゃい! おっ石燕先生、またいつものかい?」
「いいや、今日は蕎麦を二杯頼むよ」
「なんと? おい親父ぃ! 石燕先生が今日は蕎麦だってよ! すげえ!」
「お、落ち着け! 人を化かす狐狸妖怪じゃねえだろうな! 確かみてみろ!」
「石燕先生、ちょっと尻を拝見」
覗き込もうとした手代の若衆に頭にどこから取り出したか鬼人手が叩きつけられた。
「ぬわーっ!」
「まったく失礼な。いいから酒と稲荷も持ってきたまえ」
「い、いつもの先生だ……」
憮然として席につく石燕に、矢張り九郎は半眼で呻いた。
「普段どれだけ酒を頼んでおるのだ、お主。たまには蕎麦も食ってやれ」
「ふふふ」
「目が笑っておらぬぞ」
とりあえず出された冷酒をちびりちびりと飲み始める石燕。酒を好むがそれほど強くはないのか、二合目で頬に赤みがさしていた。
付け合せに出されている薄揚げを甘辛く煮た稲荷は油で揚げていながら上品な味付けであっさりとしている。
「ここの酒は関西からの下り酒でね、私のお勧めだよ」
「どれ、一献」
「あんた子供なのにお酒飲み過ぎじゃない?」
「フサ子よ。己れの中身はもう老人なのだ。酒ぐらい好きに飲ませておくれ」
「ほう、そうなのかね?」
「誰の仕業だと……いや、お主ではないのだが」
楽しそうにしている石燕と魔女をつい重ねてしまって言葉を噤んだ。
石燕から差し出された酒を口にして驚いた。先ほどの酒と違い辛口なのだが、濁りの無いすっきりした味わいで、豊かな酒の香りが楽しめる。甘辛の稲荷の味を増して、すっきりと流していく効果がある。
異世界でも様々な酒を飲んできた九郎をして、
「これは……」
と呻くような酒であった。
一口で気に入った様子である九郎を見て、石燕は先程の若衆を呼んだ。
「どうしやした、先生」
「いや何、いつも飲んでいるこの下り酒だが銘柄を知らなくてね」
「へい、神戸の灘からきた嘉納屋の酒でさぁ。材木商の副業らしいんですが、ここの酒がまた美味い。特にこれは西宮で作られた上等品なんでやして」
「うむ、うむ」
頷きながら酒を舐める九郎であった。
実はこの酒、いや酒造会社が現代にまで残り『菊正宗』や『白鶴』と云った日本酒を作り出しているのだが……流石にそれは九郎も知らなかったのである。
ぐいぐい、と飲んでしまった九郎に呆れたような笑いをこぼして石燕はもう一本頼んだ。
この時点で九郎は、緑のむじな亭にこの酒を置きたい、と強く思うのであった。主に、自分のために。
そうこうしていると注文していた蕎麦が出された。
上に天麩羅の乗った暖かな掛け蕎麦である。おや、と思ったらつゆの色が薄く、関西風のようであった。
「この下り酒もそうだが関西風の味付けの料理を出す店なのだよ」
と、説明されて成程と頷く。
初めて見る天麩羅蕎麦にお房が戸惑っている為に、九郎は声をかけた。
「よいかフサ子よ、まずは揚げたての天麩羅をつゆに浸して食べるのだ」
「う、うん」
と箸で上に乗った天麩羅を摘む。天麩羅はかき揚げのようなものだった。小ぶりな芝海老を四匹ばかり、小麦粉のつなぎでくっつけて揚げているものだ。魚のすり身を使ったさつま揚げ風の天麩羅もこの時代は多いが、この店は穴子や鱚などの魚介を切り身で揚げているのである。九郎は一番端の海老に狙いをつけて、蕎麦つゆに浸しかりかりした天麩羅を食べた。
菜種油の匂いがぷんとして、食感もよく小ぶりながら甘い海老の身に塩っぱいつゆが絡んで美味である。
「次に天麩羅を蕎麦の下に沈める」
「よいしょ」
ぐるりと蕎麦の麺と入れ替えるようにすれば一旦天麩羅は丼から姿を隠した。
そして縁に口をつけてつゆを一口啜った。この時点では清涼な雰囲気のある関西風のつゆである。
蕎麦を手繰ってずるずると啜る。濃い関西風の味付けではなく、醤油の気配が薄い淡口が使われている。また、出汁は昆布からとってあるが、もう一つの魚介系の香りはどうも鰹節ではないようだ。清涼な気配からおそらくは血合いの少ない白身魚を使っているところまでは検討がつくのだが……
「ううむ……なんであったか」
「ふふふ。秘訣は京都名物だよ」
「……そうか、棒ダラか」
九郎が看破したその出汁には確かに棒ダラが入っているのである。煮て戻した棒ダラは味付けして他の料理として提供しているようだ。しかし妙な所でこの九郎という男、
「味覚が鋭い」
ところがあるようだ。それもこれも、異世界で魔王城に住んでいた時期、魔王と侍女手製の料理漫画再現料理などを食べていた経験があり、舌が肥えていると同時に隠し味のようなものに気づきやすくなっていたのであった。
煙草の匂いつき鯉の洗いなどを作った時には流石に怒ったものだったが……
そうしていると蕎麦つゆに油が浮き始めた。
丼の底に沈んだ天麩羅が崩壊しだしたのである。
天麩羅の油が浮いている蕎麦つゆは味が変化して楽しめる。
そうして再浮上した天麩羅はつなぎがもろもろと柔らかくなって居て、それをつゆと一緒に啜り込むとこれがまた、
「うまい……」
のである。
本日二杯目の蕎麦だというのに、九郎とお房の胃袋にも蕎麦はすっ飛んで行ったのであった。
****
体つきより大食漢である九郎は兎も角、普段から腹一杯に食べることのない九つのお房は満腹ですっかり動けなくなってしまった。
茶屋の店先で休憩しながら甘酒を石燕が飲んでいる。そして九郎に尋ねた。
「もう一杯ぐらい入るかね?」
「問題はない」
と応えたので彼女は彼に十六文持たせて、路上にある小さな持ち運びのできる屋台のようなものを指さした。
「あれが二八蕎麦といわれる蕎麦屋台だな。つまりは、最下級の蕎麦屋と思って良い」
「あれと六科のやつの味を比べて来い、ということか。よし」
と彼は屋台に駆け込んでいった。
「らっしゃい! お、坊主。蕎麦か?」
「ああ、頼むぞ」
と勘定台に十六文置いた。
二八蕎麦の名前の由来はつなぎと蕎麦粉の割合が二対八なこととも、二かける八から蕎麦の値段の一六文になることからとも言われている。
今で言う立ち食いそばのようなもので、湯で置いた麺を再度湯の中で解し、つゆをぶっかけて出すだけだ。屋台の薬味を入れている引き出しから葱を取り出して盛り付け、一分もまたずに出された。
食べる方も一分もかからずに食べ終え、ご馳走さんと声をかけて石燕のもとに戻った。
「どうだった?」
「六科の負けであるな……」
「だろう?」
「むう……」
九郎の感覚からすれば屋台の二八蕎麦は「食えなくはない」といった程度の味だ。味付けも濃いし麺も伸びてぼそぼそしている。だが、腹を満たすために急いで食うには充分である。
一方で六科の蕎麦は彼が騒ぎ立てたぐらい不味い。悲しいぐらいだ。
だが先行きは暗いわけではない。
並程度の味を上達させることは難しいが、圧倒的に不味い味を並程度に戻すのは簡単だからである。つまりは、調理法がどこか間違っている可能性が高いからだ。
それを指摘すれば二八蕎麦程度には戻せる。そこから先はまた考えればいいのだが……
「ふう、流石に腹が膨れた。今日はもう蕎麦の事など考えたく無いな」
「ふふふそうだね。それじゃあ私は寝付いてしまった房を、籠で私の家まで連れて行くことにするよ。ついでに湯浴みもさせなくてはね」
「ほう、家に風呂があるのか」
この時代、火事が起きれば火元の責任者は重い処罰を受けるので風呂などは町人は持ちたがらず、湯屋に通うのが普通であった。また、多くの長屋には風呂もついていないのである。
だが金貸しの亭主が残した立派な家なれば、火事が起こらぬように工夫してある風呂があり、よく房も入浴させているのであった。
「後家の私が湯屋で見ず知らずの他人に肌を晒すものじゃないよ」
「そうか。では己れは六科のところに戻るとしよう」
「おっと、そうだね。これをあげよう」
と再び十六文を九郎に渡した。
「九郎君と叔父上殿の風呂代だ。とっておきたまえ」
「随分気前がいいのだな」
「亡き夫の遺産でね。まあ緑のむじな亭をあそこまで寂れさせたのは叔父上殿の責任だから、叔父上に直接貸したりはしないがね」
彼女が云うには六科の妻であるお六が調理をやっていたころはそれなりに流行っていた店らしい。今では見る影もないが……
眠った房を抱きかかえて籠で帰っていく石燕を見送りながら、九郎は呟いた。
「さて……緑のむじな亭は何処だったか」
未だ涼しい風が、食事で暖かくなった体に心地よかった。
****
昼七ツ(現代で云うと午後四時頃)過ぎであった。
とある江戸の湯屋で顔を腫らした男が、湯で蒸かした手ぬぐいを顔にかけて狭く混みあう湯船に浸かっていた。この時代は男湯と女湯という区別はなく、江戸の町人らは男女構わず混浴のまま湯屋に通っている。
特殊な逢引を目的とする湯屋もあるにはあるが、大抵の人らは湯屋の中がやや薄暗く湯気で濃いこともあり、混浴を何とも思わずに(少なくとも表面上は)入っているのであった。
この男も隣に近所で有名な美人妻の豊満な体がくっついているというのにぴくともしなかった。
むしろ、
(忌々しい……)
とすら感じる。
そう、彼は稚児趣味で有名な同心の利悟である。鬼人手の毒にやられた傷を癒すために長風呂をして顔を暖めているのであった。
ついでに手ぬぐいで顔を隠すふりをして入ってくる年頃の少年少女らの体を眺めて悦に浸っている。そういう趣味であった。
湯気でやや霞んだ視界に、見知った顔と謎の物体が映った。
「むう、これはとんでもなく混んでおるぞ、六科」
「そういうものだ。九郎殿」
幼い顔立ちにざんばらの髪をした少年九郎(範囲内)と背中に刺青を入れている大男の六科である。
思えば九郎と関わって痛い目にあったのだ。
復讐のために散々その体を見ていい気分になってやる。
サイコ系の復讐を考えてた利悟であったが、
(なんであの小僧は股に海鼠を挟んでるんだ……?)
とのぼせ上がった頭で悩んだ。
他の客も小声で「おい、あれ」「なんだと……」「まあ……」と呟いていた。女人などは目を背ける程だ。
「しかし、お主の刺青変わってるなあ。格好はいいが」
「そうか?」
と桶を持って流し湯に近寄っていくあどけない顔をした少年の股間に、歩く度にぼるんぼぬるんと大きく揺れる海鼠のごとき黒く大きなモノが付いているのだった。
男衆はみな一斉に己が武器を確認して──小さく項垂れた。ぐったりとして上がり場に立ち去るものも居た。
それ程に、
「大きな」
モノを持っていたのだ。
これは彼が元々その大きさであったと同時に、魔女に若返らせられた際に何故かそこだけは最盛期状態だったため、年齢に不釣合いなモノを持っているのである。
当人らは気にせずに他愛のない会話をしていたが、夕暮れの湯屋に、ため息の合唱が聞こえた。
「ところでその刺青の動物はなんだ? 虎か?」
「鵺だ。俺の好きな妖怪でな」
「鵺とはまた微妙な……うん? この『雷倍』という字が彫ってあるがこれは?」
「雷属性の攻撃力が倍増する」
「攻撃力!?」
今の九郎には、刺青同士で攻撃力を競わせるルールがさっぱり理解できないのであったが……。




