2話『蕎麦の味』
江戸の朝は煮炊きの煙で薄く淀んでいる。
大抵の長屋等はその日に食べる米や汁などを朝に全て作ってしまうのである。
特にこの時代、享保の将軍徳川吉宗が命により江戸の町民らの間でも節制を行う令が敷かれていたことでもある。
これも元禄・宝永と続いた地震や噴火の自然災害、または五代目将軍綱吉による神社仏閣の修繕・建設費用が幕府の収入を大きく超えて未だ財政が苦しかった事によるものであった。
吉宗就任時には江戸の国庫に収められていた金は徳川三代までの時の三割未満とも伝えられている。これを享保の改革により財政再建を行なっていくのであるが、倹約令もその一つだ。
同時に煮炊きの時間を朝に集中させることにより出火の時間帯を限定させ、火消しを容易にさせる狙いもあった。四代将軍家綱の時代に起きて江戸城を含む江戸中心地の大半を焼き払った明暦の大火のみならず、先の地震に依り江戸で発生した火災に依る被害者は一万とも二万と言われている。後の明治新政府に解体されるまで名を馳せた『江戸の町火消』もこの時代に組織され、活躍していくこととなる。
故に料理屋や風呂屋など日中竈を使用する店舗は届けが必要である。
その日、朝五ツ前(午前七時ごろ)佐野家の朝飯は九つになる佐野房が作っていた。包丁こそ危うく握らせて貰えないものだったが、料理の基本は彼女の従姉妹になる後家から手習いさせられているのである。
とは云え裕福でない佐野家の朝飯は簡単なものだ。腹を壊した父に合わせ柔らかめに炊いた飯と父が切った深ネギをたっぷり入れた根深汁、それに梅漬けがあるだけであった。
湯気の立つ味噌汁を啜る。異世界では味わえない米味噌の風味に、辛味が目立つ葱が良い刺激となって久方ぶりにこの和食を食べる九郎に取ってはこれがまた、
「うまい……」
のであった。
感慨深げにため息を付き、わしわしと米をかき込むようにして食い、表面に塩が浮かぶほど塩っぱい梅漬けを潰して口に含むとまた「たまらぬ」と言った様子で破顔した。
それを胡乱げに見ていたお房は、己の支度した食事を美味そうに食われることよりもいっそ、
「この人、余程いいものを食べてなかったの?」
と父に尋ねる程であった。
味噌汁に飯を入れて食っていた六科は真顔で、
「ふむ、仙人は霞を食うと聞いた気がするからな。味が濃くなって感動しているのだろう」
「霞と比較されて美味いって思われても嬉しくないなあ……っていうかお父さんその設定まだ信じてるんだね」
むしろ呆れたように朴直とした父を見るお房。やはり六科は気にせずに背筋を伸ばして座ったまま、バクバクと飯を食らう。昨日壊した腹などは既に快癒しているようである。
質素な食卓だが九郎と六科はそれぞれ三杯飯をお代わりした。お房はいつも一膳しか食わないため、倍近く米の消費が増えているとも言える。悪びれもせずに三杯目の椀に飯を盛る九郎にやはり邪魔そうな感情を浮かばざるをえない。
食事を終えると盆に食器を一纏めにして六科は厨へ引っ込んでいった。今日の昼から蕎麦屋を開けるらしく、急いで仕込みをしなければならないのである。
残された九郎は「さて」と言い、
「天気も良いし、散歩にでも……。」
行こうか、と呟きかけたが、お房の睨みによって中断した。まだ九つだというのに尖った目をするものだと思わず感心するほど睥睨してきたのである。不審感の募る彼女を無視するのは今後の生活に良くない。
そう判断した九郎は手のひらを向けて安心させるように告げる。
「まあ待てフサ子よ。名高き鬼ヤバ戦闘集団ジグエン騎士団の料理番も務めた己れがこの潰れかけ蕎麦屋をこんさるとしてやろうぞ」
「潰れかけ言うな。っていうかあんた、料理とか出来るの?」
「……まあちょっとは──少なくとも十五年前ぐらいまでは作ってたが」
「口だけじゃない……十五年ってあんた何歳よ。元服してないように見えるけど」
「むう。言うて置くが六科より年上ぞ、これでも」
告げるがまったく信用してなさそうな眼の色であった。むしろ不審感はいや増したかもしれない。
確かに最近料理などはご無沙汰であった。適当なサバイバルで煮込んだものを作れる程度は余裕だが、レシピなどほぼ忘れている。傭兵時代や騎士生活時代はまだしも、魔女と仲間になってからは彼女が作ってたし魔王の城に来てからは侍女が完璧な料理を作っていた。時々魔王も料理漫画片手に作っていた。
緑のむじな亭は蕎麦屋である。九郎が蕎麦を打ったことがあるかというと──皆無であった。蕎麦のつゆも作ったこともない。扱ったことがないのならば蕎麦に関しては素人以下とも言えよう。現代日本人で本格的な蕎麦作りを体験した者など限られるので当然といえばそうであった。
だが店というものは商品の品質だけで成り立つものではない。
売れてないのならばその理由があり、それを直すのが総合的な『こんさるたんと』といったものである──と己の無知を一旦隅に置いて考えた。
「まずは店の外観から確認しよう。いくら味が良くとも客にそうと知られなければ店は流行らぬからな」
「……別にいいけど、そんな珍妙な格好であんまり店の前をうろつかないで欲しいの」
「む? 確かに江戸の世にはそぐわぬかもしれぬな」
己のショートパンツとジャケットの格好を見なおして頷く。
悪目立ちするのも好くなかろうと考えた彼は己のリュックを引き寄せて中を漁る。確か、服のたぐいが何着か入っていたはずである。とはいえこれを用意したのは魔王と魔女な為、何を入れられているかは知らないが。
布の固まりを引っ張りだして開いた。
メイド服。バニースーツ。全身ラバー。
九郎は無言で火属性を付与された呪符で燃やした。
「ああー!? なんでいきなり火を炊いてるのよ大馬鹿!」
凄まじい声量で文句が飛んできた為、九郎は耳を抑えながら言い訳がまい言葉を言おうとしたが、
「火付けの罪が火炙りにさせられるって知ってるの!? 馬鹿じゃないのあんた!」
「む……」
と言われれば口をつぐむのであった。
現代とも、異世界とも比べれば江戸の街の火事に関する警戒と罰則は非常に大きなものである。木よりも石造りの家屋の方が多く、また火属性魔法使いが突然発火することもあった異世界の常識のままではいけない。
お房が火の付いた衣服をはたいて鎮火し、没収した。罰が悪そうに九郎は短冊型の魔法の術符──[炎熱符]と名付けられたそれを直す。
「で、それは何なの? 燃える紙」
「これか? 極光呪文の魔女が得意とする付与魔法で作った簡単な魔法道具でだな。術式の込められた呪符に封じられた魔力の炎が……」
「そうか何言ってんのあんた」
「……高僧の作った有難いお不動様の御札だ。山姥とかに投げつけるといいぞ」
顔をしかめていっそ投げやりに適当な説明をせざるを得なかったのである。
ところがそう告げると途端に目を輝かせて、
「欲しい!」
などという。山姥に追いかけられる予定でもあるのだろうか、と疑問にすら思えた。
「駄目だ駄目だ、子供が火遊びするには一寸早い」
「ぶう」
「屁を垂れたような声を出しても駄目」
何が屁よ、と噛み付くように突っかかるお房を猫をじゃらすようにあしらう九郎であった。
****
大川の支流を挟む江戸の大通りに出る。店舗よりも住宅のほうが多いような地区ではあるが、人通りはそれなりだ。見回すだけでそれとなく宿のような看板と、店先に傘と卓を出している茶屋のようなものが見受けられる。
九郎はハーフスパッツの上から、小さく折り曲げた六科の袖なし羽織を着ただけの簡素な姿であった。無論体格が違うのであまり似合っていない。
背中に担いで居た名剣『アカシック村雨キャリバーンⅢ』は置いてきた。江戸の町に置いて町人の帯刀は禁止されており、またあのような大太刀を持っていると一昔前の『かぶきもの』のように思われるかもしれないと六科に注意されたのである。
かぶきものと云うと何か心躍る響きを感じた現代人の九郎であるが、謂わば江戸の空気に馴染めぬ狼藉者の事を指し、日頃の鬱憤を晴らすために乱暴や放火も行う賊と見なされ法で厳しく取り締まられているのだ。正保の頃に出されたお触れには、
[一、町人、長刀并びに大わきざしを指し、奉公人の真似を仕り、かぶきたる体をいたし、がさつ成る儀并びに不作法成るもの、これ有るに付いては、御目付衆御廻り、見合わせ次第御捕へ、……]
と、ある。町人が目立つ大太刀などを装備しているだけで逮捕対象になるのが江戸の常識である。
実際に慶長の頃より数百人のかぶきものが処罰を受け、市中引き回しなどにも合っているというのだから流石に九郎も身なりに気をつけようと思ったのであった。
ともあれ、改めて通りに出て緑のむじな亭を観察する。
何処にでも有る長屋の店頭を借り、改造して店にしただけである。外からは緑色の暖簾がかかっており、まあそれだけでもあった。
「……いや、ありえぬだろ。店かどうかすらわからぬぞこれ初見では」
「えっ……あ、うぅんと、実はあたいも薄々気づいていたの」
「アホめ」
一言で切り捨てた。
いかな節約質素をお触れと出しているからといってこれでは商売は成り立たない。
通りにある緑の暖簾のかかっただけの店にだれが何の目的で入るというのだろうか。むしろ今までやっていけたことのほうが驚きである。
九郎は腕を組みいくらか店の装飾を考えた。
「兎にも角にも、何の店かはっきりさせることだろう。紙と筆はあるか?」
「うん、先生から貰ったのが」
そう云い、店の中へ戻っていったので九郎もついていった。
自宅の書道箱からお房が筆と硯、半紙を持ってきたので九郎は何となくその江戸時代の半紙、というものを珍しそうに手に取る。手にとって、彼が現代で使ってた工業生産したものと品質がさほど変わっていないことに気づいた。おおよそ三百年も前の紙なのに、である。故に疑問に思い口に出した。
「む? これは良い紙なのではないか?」
「越前五箇村の紙座で作られたやつだって言ってたの」
「ほう」
「五枚でうちの蕎麦より高い……」
「……」
貰い物とはいえ……とげんなりした表情のお房であった。
ちり紙以外の用途で他に紙を使うこともない為に、字の練習にと渡された上物の和紙しか持っていないのであった。
江戸の元禄から正徳にあたり、九州や四国などでも紙が大量に生産されるように為り、紙座として今までの隆盛を誇っていた越前の五箇村だったが紙の価格は一時的に大きく減じた。とはいえ、より当地で作られる紙のブランド性を喧伝することにより通常の紙ではなく高級和紙として売値を吊り上げ、現代に至るまで産業を続けていくのである。
練習なのだから当時の江戸で回収、精製された再生紙である浅草紙で充分なのではとお房も思うのだが、いいものを使わねば気が抜けて上達せぬという先生の教えには従わざるをえないのである。そもそも授業料も只で紙代も出して貰っているのだから文句の付けようがない。
「それより、これに蕎麦と書いて店頭に張り出せば阿呆でもここが蕎麦屋と知れ、新規客開拓となるのだ」
「成る程」
そう云って九郎は硯を擦り、筆に付けて腕まくりをするような仕草をわざわざしてから紙に文字を書いた。
『喬妻』
「……」
「……ううむ我ながら、なんかちょっと字が違う気が……」
「ばーか」
「だ、黙れ。何十年も書いてないのにこんな漢字を覚えてるわけなかろう!」
しかもお世辞にも達筆と言えず下手くそな字であった。
誤魔化すように声を荒げる九郎から筆を取り上げるお房。彼女は失敗した紙は裏を練習用に使おうと横にやり、新たな紙に文字を連ねた。
『そば』
かなではあったが、明らかに九郎よりもしっかりとした字体である。
孫どころかひ孫のような年齢の娘にどやぁって見せつけられると微笑ましさすら感じる。そう、敗北感など感じていない。断じて。
「それはそれでいいとして。ふむ、次はあれだな」
「あれ?」
「ますこっときゃらくたあだ」
「……? ばーか」
「己れがわけわからんこと言ったらとりあえず的に莫迦にするの止めろよ! 傷つくんだぞ!」
「ごめん」
素直に謝ったので許してやる九郎であった。
この世界に未だ存在しない横文字ばかり使う彼も大概なのではあったが。
「とにかく蕎麦という印象だけではここは単なる『蕎麦屋』であって蕎麦屋の『緑のむじな亭』ではない。そこをアッピル……ええと、強調せねばならん」
「どうやって?」
「そうさな──狸だな」
彼は指を立てて思いつきをさも立派な考えのように語った。
いわく、狸は他を抜き去るという意味から商売を繁盛させるのに縁起がいい。屋号の緑、は古来では青色に通じており青狸とすると大ヒットするキャラ要素がある。ムジナは無品とも読めるため表に出すキャラとしてもタヌキのほうが相応しい、などと。
九歳の童女を化かすには充分であった。
しかし大商家のように狸の信楽焼を用意するのは金銭面で難しい。だが、お房が習っているのは字だけではなく、絵もそうであったため彼女に描かせてみたのだが……
「……できた」
「おい、なんだこの六科のやつをリアル等身ケモ化したような気色の悪い絵は。九歳にしては異様に上手いが気味悪すぎであろう」
「妖怪画といって欲しいの」
「だれが妖怪の絵を描けと言った駄阿呆。デフォルメに可愛く描け」
と、再度描き直させ、なんとか目元が黒く眠そうな半目で三等身程の直立した狸が前掛けをしている絵を描いたのだった。
「ううむ、何やら無性に金が払いたくなってくるなあ」
と描かせた九郎も云うのであった。
****
店頭にそばと書いた紙と店名を入れた狸のイラストを飾り、外観を綺麗に整えた。
余った布が無いかと家の中を探ったところ程よい長さの多少汚れた布を発見し、これを幟にしようかと思ったがよくよく観察してみれば恐らくお房の昔使っていた布御襁褓のようで、さすがにそれを店頭に飾るのは一寸どうかと思って思いとどまった。
また、厨房に行き換気のために開けている窓に木板を嵌めこみ塞いだ。何事かと六科が胡乱な眼差しで見てきたが、そうすることにより蕎麦つゆの匂いは店内へ流れ、また開け放しにした店の入口と窓から通りに香る。特別蕎麦を食べようと思っている客でなくとも、腹が空いた時にその香りを嗅げば吸引されるものである。
飯時になるまでに簡単な大工仕事で山状に板を張り合わせ、地面に置く看板も作成した。そこには『そば:一六文 さけ:二五文』などとメニューと価格も書きわかりやすく。やはり墨で直書きな上に米粒で板をくっつけているので雨が降ったら仕舞わなくてはならないが。
とにかく、半日で出来るだけのある程度の改良を行ったと店頭で汗を拭う九郎であった。
それを通りの影から不審そうな顔で眺める男があった。
身なりは町人風の何処にでも居そうな男であるが、どうやら九郎を見張っているようである。というのもこの男、昨日背中に異様な大太刀を担いだ小僧が大人を担いでいる、という現場を目撃した町方同心であった。
一目見ただけで、
「ありゃあ相当な業物の刀。蕎麦屋の小僧が持っているはずがない。そもそもあの蕎麦屋にはお房ちゃんしか子供は居ないはずだ」
と見ぬいて怪しげな九郎を監視していたのだ。
何を隠そう江戸の同心の中でも二十四衆だとかそんな称号で呼ばれる、一部で有名な同心の1人である彼は、通称『青田刈り』の菅山利悟と呼ばれる男であった。
江戸百万居る人の中の十三歳未満の子供は全員把握している、と豪語する。性癖は歪んでいるが腕は確かだと評判で彼自身奉行所にマークされているほどだ。
とまれ、江戸の子供の安全を真に憂うこの男は新たに出現した奇っ怪な小僧である九郎を警戒と毒牙の眼差しで監視しているのである。
「しっかし奇妙な事をやりはじめやがったな、奴さん。あの売れない蕎麦屋で超無名な佐野の親父の店を建て直す積もりか」
なんの得があるのやら、と神妙な顔をして胸中で呟いた。
緑のむじな亭には何度か足を運んだことがある。何よりもお房が給仕をしているというのが彼にとってはかの店の美点であるからだ。小さい少年少女が働いている姿を見れる店はだいたい網羅している。金払いのいい稚児趣味野郎として商人の間で囁かれているほどであった。
そのような性癖にもかかわらずこれまでに押しこみの現場を押さえる事二度、浪人の乱暴狼藉を諌め町人を救うこと無数と薄給ながら事真面目に職務に取り組んで居るのだが人々からの評判は良くもあり悪くもありなのであるが……。
一方で九郎は同心からの視線には気づかずに、店の前で腕を組みながら「ううむ、チラシを作るには紙が無いな。やはり初期投資を掛けねば」「六科に交渉してみるか……? いや、あまりに店の金を使うのもフサ子に文句を言われる」などと呟いていた。
見ていても埒は開かぬ。いや、見守るのは大好きだが。
後ろ指さされぬ栄えある同心として、利悟は悠然と歩みを進めた。
「おい、小僧」
「む」
呼ばれて利悟へと振り向いた少年は一瞬憮然とした顔をしたのちに、営業微笑を浮かべてへりくだった態度で応えた。
「なんで御座いましょうか」
「見ない顔だが、佐野屋の丁稚か何かか?」
「はあ、上方の方から江戸に越してきまして。遠縁の六科の旦那を頼り住まわせて貰うことにしたのです」
「お主のような小僧が、一人で来たのか? 大変だな」
わざとらしいぐらい揉み手をするような仕草で和々している九郎に問うが、彼は適当にでっちあげた設定をさも当然のように語りだすのである。
今より数十年前、着の身着のままで幻想系異世界に迷い込んでしまった時も似たような感じで周囲から出自を誤魔化した記憶がうっすらとであるが、思い出された。
現実は創作よりも奇なりと云うことを体感している九郎であるが、奇をそのまま伝えても、
[気が違っている]
としか思われないことは重々承知しているのである。
「そうか……実家を押し込みにやられて家族を失い江戸に流れ着いたとは、苦労しているな」
「いやあ六科の旦那が良い御人で助かっての」
適当に創った事情に対して何やら感じ入ったように利悟は頷いている。
自分で言っておきながらふと押し込み強盗の図に、異世界で彼の住処だった魔王城に攻め入ってきた三人組、数百万力の蛮人戦士と不死鳥殺しの召喚士、闇魔法使いの老吸血鬼が長屋に押し込んできたのを想像してシュールすぎて噴飯物だったが。あの連中押し込みって云うか、大量召喚した何故か爆発する鳥に依る執拗な爆撃と闇魔法での広域物質崩壊と百メートルはありそうな鬼棍棒で魔王城の地上施設を即効で破壊し腐ったのであったなあ。地下施設に隠れながら映像で見てマジで何あれって魔王と一緒にがたがた震えていた事を思い出して……。
「おい、おい、坊主、どうしたしっかりしろ」
「どこでもドアは何故肝心な時には故障しているのであろうなあ……」
「悪い事を思い出させたか、ううむ」
すると、丁度店の戸を開けて小袖を着たお房が出てきたので利悟はとりあえず声をかけた。
「お房ちゃん、もう店はやってるのかい?」
「こんにちは稚児趣味のおじさん」
「はっはっはそうはっきりと言われると途端に自刃したくなってくる」
「先生からおじさんは質の悪い妖怪系だからなるたけ口を利くなって言われてて──まあ、そのお愛想様です」
「よし、君の先生には拙者からきっちり話をしておかねばならないな」
米噛みをひくつかせながら引きつった笑みを浮かべた。
質の悪い稚児趣味の男でも客は客。それも数少ない常連でもあるから無言で店内へ案内した。
その現代ならば声掛け案件になりそうな男は悪い白昼夢を見ているような状態の九郎の手を引き共に席に着いた。
「拙者のおごりだ。蕎麦でも食って元気を出せ小僧。お房ちゃん、蕎麦二杯な」
「はい」
その注文を大声で復唱して台所の六科へ伝える。そんなに叫ばなくても、客が独りしか居ない店内では伝わるだろうが童女が一生懸命仕事をやっているような初々しさが彼のような男にはまた、
「たまらぬ……。」
のであった。岡っ引きを呼ばねばならぬ。
一方で九郎はそう云えば蕎麦を食うのも久しぶりだと少し明るい表情になっていた。異世界には蕎麦は栽培されていなかったために最後に食べたのは異世界に行く前……正確には分からないが数十年も昔のことだ。うどんは何故かあったのだが。異世界では手打ちどころか製麺機すら開発されていた。
緑のむじな亭の蕎麦は暖かいつゆを茹でた麺にかけて手早く食う、所謂掛け蕎麦である。もっとも、盛り蕎麦を売っている店のようにつまみや酒も売っているあたりあまり店主に拘りがないのかもしれないが。
暫く待つとよたよたと二つ湯気の上がる蕎麦を載せた盆をお房が運んできた。一度に二杯などこの店では滅多に出ないので少々運び方に危なっかしい。
さっと紳士的行動で手伝うように優しく受け取る利悟。その際に僅かにお房の手と触れたが、お房はさっと手紙(洟を噛んだり、汚れを拭き取るのに使うちり紙である)を取り出して触れたところを無表情で拭った。笑顔を崩さずに利悟の心は傷ついている。過去に勘違いで番屋にブチ込まれて、部下だった岡っ引きに「調べりゃ分かるんだこの稚児趣味野郎」と罵られた時に比べれば傷は浅い。奮起せよ利悟。
蕎麦のつゆのように心が真っ黒になった利悟は置いて、ともかく九郎は目の前に置かれた丼一杯の蕎麦を見下ろした。江戸の庶民に好まれた軽食であり、値段は江戸のどこでもほぼ一六文と相場が決まっている。現代の価格で云うと二百円から三百円程度の、葱の入った簡素なものであった。
箸を突き入れて麺を掴む。ややふにゃりとしているがしっかりと蕎麦の香りがする。久方ぶりの香りでにんまりと頬が緩んだ。
それをよくつゆに絡めて九郎は音を立て啜った。そして、
「うわ不っ味! なにこれ超マッズ!」
お房が全力で振るった盆の角が九郎の頭にめり込んだのであった。