18話『六』
今だ暑さも厳しく残る盆の頃である。
盆になれば江戸に出稼ぎに来ていた町人たちも故郷へ帰省するのは昔から変わらぬことであった。
それ故に江戸の土産屋ではこの時期、土産物が多く売れ市場は活発な程だ。漢方薬のたぐいから錦絵、菓子など様々なものを地方へ持ち帰っていた。
この日、六科とお房、それに九郎は墓参りに出かけていた。
お房の母、お六の墓だ。浅草にある共同墓地の一つに彼女の墓はある。
墓石がのっぺりと立っていて、地面に直接竹の花生けと湯のみが置かれているだけの簡素なものだ。裕福でない蕎麦屋の立てた墓とはいえ、お六は豪商の出だというのに随分と寂しい作りであった。
だがこれも、生前にお六が予め「墓や葬式なんてお金がかからないようにしてくれればいい」と六科に言い含めていた為に、彼は諾々と従ってこのような供養にしている。恐らく死んだほうが六科でも、お六は同じように簡素な墓に入れるようにしたであろう。夫婦の取り決めであった。
「俺は水を汲んでくる。お房は花を変えて、九郎殿は草でも抜いていてくれ」
「わかった」
「はあい」
指示に従ってお房は夏の暑さですっかり枯れた竹筒の花を、今朝買ってきた瑞々しいものに入れ替える。
九郎は汗を拭いながら墓の周りに生えた雑草を抜いて一纏めにしていた。
「墓の掃除など久しぶりだな……」
「そうなの? でもちゃんとお墓参りはしたほうがいいのよ」
「ううむ……時間軸のずれで両親を弔うべきなのか悩みどころであるな」
自分の体感時間からすれば両親はとうに老いて亡くなっているのだろうが、この時代では生まれても居ない相手だ。そもそも親の死に目に会えていないのでいまいち実感が無い。
「まあ、かく言うあたいもお母さんの事はあんまり覚えてないけど……」
「幼い頃に亡くなったのだったな」
「うん。なんでも鉄砲に当たって死んだって話だけど記憶が朧気で」
「町人がどんな死に方してるんだよ!?」
普通に江戸で生きててどういう状況になれば銃殺されるのか九郎には理解できなかった。
お房は難しげな顔をしながら、
「お母さんの事をいろんな人から聞くに、弁慶を美少女にしたような強者だったらしいから鉄砲で狙われる事もありえるの」
「母親の事を弁慶とか美少女とか形容するの初めて聞いた」
「あたいのお母さんだから美少女に違いないの」
「はっはっは」
「……そこは笑いどころじゃないの」
乾いた笑いを上げる九郎の脇腹をアダマンハリセンで突いた。
そういえば暴れ馬をマジックカット感覚で切り殺してくるという怖い話を聞いたことがある。九郎の想像の中では以前に見た芝居の、ゴリラみたいな弁慶が女装しているのを想像しかけたが即座にやめた。まあ見た目は、お八の姉なのだから似たような感じなのだろうと思うようにする。
九郎が取り留めのない考えを打ち切ると、近くの井戸から水を汲んできた六科が墓掃除に加わった。
生温い水で浸した手ぬぐいで墓を拭いている六科に訪ねてみる。
「のう六科。このお六さんとやらは鉄砲で死んだとか……」
「ああ。直撃だったな」
「直撃かあ……」
「強い女だったがやはり鉄砲には敵わなかったな。一緒に居た俺も危ないところだった。どちらが死んでもおかしくない……そんな状況であいつだけ運悪く死んでいった」
「まったく状況が想像できん」
「いいやつが先に死んでいく……残るのは俺みたいな悪党ばかりだ」
「それっぽい科白を言うな!」
真顔で云う六科に九郎はツッコミを入れた。
「しかしこの時代の鉄砲というと火縄銃か? よく知らんが」
「む? 火縄で死ぬ女ではなかったが。多分飛んできても避けるから」
「うん? では鉄砲とは」
「ああ……言い方が悪かったな。お六はフグに当たって死んだのだ」
「食中毒かよ!?」
当たると死ぬことからフグ料理の事を[鉄砲]と呼ぶ。それこそ縄文時代から日本人が食中毒者を数えられないほど多く出し続けながらも食べている食材の一つである。
江戸時代でも町人の妙味、度胸試しのような目的でも多く食べられていて死人もまた多数記録に残っている。特に、[鉄砲に当たる]という言葉が縁起が悪く、また危険だというのに自ら当たりに行って死ぬような阿呆は大変不名誉で厳しい処分が下されることがあったので武士はフグを食べることが少なかったという。
お六も自慢の包丁さばきでフグを捌いて六科と二人で食べていたのだが、箸を付けた部位が悪かったのかお六の方にだけ毒が当たって死んでしまったのであった。
「料理は上手いが食い意地は悪かったからな、あいつは」
「お主も相当あれだがな。腹を壊してフサ子をあまり心配させるなよ」
「気をつけてはいる」
憮然と言うが、時折腐ったものを食ってしまう六科はどうも信用が無かった。
墓の前に置かれた湯のみを水で洗い、水垢を取ってから竹筒に入れた茶を注いだ。そして線香を立てると手を合わせる。
九郎とお房もそれにならった。
念仏も唱えなかったがきっかり三秒瞑目して六科は礼を解く。
「茶の好きな女だった」
「左様か」
「昔はあいつに連れられてあちこち茶屋に顔を出していたが……むう」
「どうしたの? お父さん」
六科が急にうなり声を上げたのでお房が問うと、
「いや、お六が生前常連だった茶屋にツケがあったのを忘れていてな」
「そんなん忘れておいてよお父さん……」
「金が無いから行かなくなってそのままだった」
腕を組みながら六科は懐かしそうに思い出しながら言った。
若い頃からお六に連れられてよく通った茶屋の名前は[奥屋]といった。水出しで淹れた茶を出すそこそこ繁盛している店であったが、あまり人気がない品目である青臭い[どくだみ茶]をよくお六に飲ませられた事があった。
鉄面皮で通っている六科だが、さすがにその形容しがたい苦味と匂いには渋面を作るので面白がってお六は笑っていた。
しかし思い出すと不味かった記憶しかないのに、不思議と、どくだみ茶が飲みたくなって……
(いや、別に飲みたくないな)
彼にとて多少の好みはあるようだ。
むしろあの店の普通の冷茶が飲みたくなった。特に、冷えた飯に梅干しを乗せ、冷茶をかけて食う飯がうまかった覚えがある。
九郎は呆れた様子で、
「思い出したのなら払ってやれ。お主も、店商売をする身となればツケを踏み倒されればどう思うかわかるであろう」
「うむ。俺なら相手の鎖骨をへし折る」
「やりすぎだ!」
六科はやや考えて、
「鎖骨に……ヒビを入れる?」
「どれだけ鎖骨にこだわってるのだ!」
「まだ手ぬるいほうだ。お六なら鎖骨割りから屈み弱打撃に繋げて止めに回転蹴りを叩きこむ」
「格闘家か!」
どれだけバイオレンスな女だったのかと九郎は思わざるを得なかった。
事実、小柄ながら喧嘩が滅法に強いお六は界隈でも有名であったようだ。実家の呉服屋で培った技術を持って、わざわざ喧嘩がしやすいように動きやすく作った着物を作って着用していたという。
それにしても、
「久しぶりに寄ってみるか。冷たい茶がある」
「いいけど……お父さん、ツケを請求されたら大丈夫なの?」
「うむ。この前、長屋の連中と肝試しをしてな。一番肝を冷やす場所に連れて行ったものにそれぞれから一朱という賭けをして、勝った。合計三分もあれば茶代のツケぐらいはなんとかなるだろう」
「ちなみに何処に連れて行ったのだ?」
「夜中、火付盗賊改方の前を全員で黒ずくめで頬かむりして通ってきた」
「よく捕まらなかったな!」
「なんで進んで馬鹿な事をするかなこのお父さん!」
折しも九郎らが百物語をしていた晩であったが、違う意味で怖い場所であった。
江戸の町人達にとって逮捕されて拷問を受けてもおかしくない危険な秘密特高警察みたいな認識を受けているのが火盗改である。実際の活動で誤認逮捕や冤罪もあったとされているが、いざとなれば事実を葬り去れる事も可能な組織であるために恐ろしさはいや増す。
というか泥棒のふりをして警察の前を通るのは普通に迷惑行為である。
六科はいつも通りの何事にも動じぬといった顔のまま、
「気にするな。さて行くか」
と、墓を後にするので二人は顔を見合わせて仕様が無いと言わんばかりについていくのだった。
盆で多くの線香の煙が墓場から立ち上り、空に溶けて消えている。
****
堀切の辺りに[奥屋]という茶屋はあった。青梅に茶畑を持っていて、濃い味の冷茶が夏はよく売れるのである。
九郎ら三人がその店に着いた時、何やら店内で騒動が起こっているようであった。
入り口から様子を伺うと、いかにも旗本のぼんぼん風な若侍が顔を赤くして怒鳴っている。
「茶漬け一杯に四両も取るとはどういうつもりだ爺め!」
「へえ。お侍さんがこの店で一番高い飯を食わせろ、との事だったので」
「値段を上げればいいってものじゃあないだろう! 散々待たせた挙句に出したあの茶漬けの何処に四両もかかるというのだ!」
目つきがぎょろりとした初老の店主に、値段について侍が文句をつけているのである。
お房が声を潜めて六科に告げる。
「お父さん。ここ高いわ。帰りましょう」
「むう……? お六と通ってたときは普通の値段だった気がするが」
少なくとも茶漬けに四両などと暴利を取る店ではなかったが……
その値段だと少なく見積もって普通の茶漬け二千杯は食えそうだ。
店主は興奮した侍に朗々と告げる。
「うちの店の茶に合うように青梅の山奥に湧く岩清水を、注文があってから飛脚に特急で汲んでこさせました。梅漬けも天領で作られたものを特別に出している店から改めて取り寄せまして米は新米。炊く時に赤穂の塩をわずかに混ぜて味付けをしています」
「ぬ……」
「お侍さん用に出した茶碗は伊勢国の窯で焼かれた一級品で、箸は大阪でも滅多に出回ってない屋久杉で作られてます。茶漬けの材料費だけではなく人足費、食器の価値を含めて四両でして」
「うぬ……」
言葉をつまらせる侍である。
いかにも世間を知らぬ、顔が脂でてらてらしている坊ちゃんといった感じの男であった。少しばかり遊びに困らぬ金を持っている為に、小耳に挟んだ美味い茶屋に来て、
「とりあえず一番高いものを持って来い」
と、注文したのである。これが、普通の値段の品しか普段出していない店主の癪に触ったのだろう。こんな茶屋での高いものなどたかが知れていると思われた上に味も碌にわかりはしなそうな若造である。
結果、座敷で一刻あまり待たされて茶漬けを食ったのだが、もとより微妙な味の善し悪しなどわからぬ上に怒りで茶漬けだか粥だかも確認しない勢いで口に流し込んだ。そして苛立ちながら勘定を申し付けると法外な値段を告げられたのである。
「そ、それにしても四両などということがあってたまるか!」
「……なんだ、文無しでございますか」
「持ってないとは言っておらぬ! 無礼な!」
いっそう腹立たしげに叫ぶこの男は、二千石取りの大身旗本の息子であるので四両払えぬわけではない。だが、安い額でもない。懐の四両があれば料亭にだって行けるし良い女郎も買える。それをみすみすたかが茶漬け代に差し出すのは悔しいのである。
しかし、店主の老人の、
(なんだケチ臭ぇ……)
と云った顔に腹を抉られるような苛立ちを覚えていた。
金に不自由をしたことのない自分がけちけちとしていると見られるのが我慢ならないのである。
彼はややあって、
「ええい!」
と痰を吐き散らすような声とともに床に小判四枚を叩きつけて踵を返した。
「二度と来るか! こんな店!」
「どうも」
短く店主は返して小判を拾い上げる。
地面を踏み潰すようにして去る侍を店主は鼻を鳴らして、
「阿呆旗本が、威張り散らした注文をするからこうなるのだ」
小声で呟くのであった。
店主は軒先で見ていた九郎らに気づいて、「おや」と声を掛けた。
「ああ、お客さん達。普通の茶漬けは一杯八文ですからどうぞ……って」
店主はじろじろと六科の顔を見て、
「あんた、六科じゃないか。お六さんの連れの」
「そうだが」
「……久しぶりの客が来たもんだ。入っていきな」
店主は三人を店の座敷へと案内した。
窓が開けていて涼し気な庭が見える開放的な席である。とりあえず冷茶と茶漬けを三人分注文した。
ここの茶漬けの飯は、炊いた米を水で一度さらして滑りを取ったものを使っているので、茶をかけるとさらさらと米粒が離れて食感が良い。
それに刻んだ小梅漬けが時折歯に当たって酸味と塩っぱさを出し、だるくなるような暑さの中でもするりと胃に収まるのである。
「さっぱりしてて旨いのう」
「ああ。食いやすいからいい」
「お父さんの感想はいつも実用的で困るの」
お房が茶を飲みながら云う。六科は食品の感想として「うまい」「食いやすい」「食い難い」「どうやら腐っていたらしい」ぐらいしか主に使われることがない。
お代わりを入れた急須を持ってきた店主がお房の茶を飲む姿を見て、六科に尋ねた。
「六科、このお嬢ちゃんはお六さんの娘か?」
「そうだ」
「成る程、そっくりだ」
店主はしきりに感心したように頷く。
「で、そっちの坊主は息子か?」
「違う」
「ふうん……で、お六さんはどこでい?」
「死んだ」
「……なんというか言葉が少ないというか愛想がないのも相変わらずだな、お前」
呆れたようにものを云う店主であるが、九郎とお房は何時もの事、と冷えた茶に大根漬けをかじっていた。漬け具合が丁度良く、ぽりぽりと音のなるうまい漬物であった。
店主は懐から帳面を取り出して、
「それはそうと、お六さんのうちで飲み食いしたツケは払えよ、今日」
「ああ。幾らだ」
「ええとだな。全部合わせて『茶:二百五十二杯。茶漬け:百三十三杯。冷酒:十二升。漬物:一樽。煎餅:六十三枚。雪餅:四十二個……』」
「お房。ちょっと墓に戻って茶漬けを墓石にぶっかけてこい」
「なんの弱みを握ればお母さんはそれだけツケで飲み食いできるの!?」
どんどんと続く目録に六科は苦々しげな顔になった。
お房は心配そうに、
「お、お父さん本当なの? ぼったくられてるわけじゃないのよね?」
「あいつならそれだけ平気な顔でツケを溜め、飲み食いするだろう。面の皮が厚いからな」
「端数を切り捨てても二両になるが……うちでもこれだけ未払いの額を溜めてるのはお六さんしかいない」
「むう……」
六科は天井を見上げて唸った。多少のツケだとは思っていたがお六がそこまでツケているとは思っても居なかったのである。
三分持っている今が彼にとって有頂天な懐の温まり具合といっても良い生活な為に、二両都合をつけるのは難しい問題であった。お六のツケなのだから、彼女の実家である藍屋に頼めば出してくれるかもしれないが、
(それも面倒だな……)
と、気が引ける。亡き妻の借金のために彼女の実家に頼るというのも、甲斐性がないものである。
だが袖を振っても金が出ない。己の店の売上は、赤字が出なくなったというものの微々たるもので、長屋の大家の副収入で暮らしているようなものであるからだ。だいたい、儲けが出たら問屋にしている借金を優先的に返している。
六科は、何かいい案がないかと九郎に尋ねることにした。
「九郎殿」
「うむ……己れが払うわけにはいかんしなあ……お主の借金には使うなと石燕に言われておるし。む、そうだ店主」
「へい?」
九郎が冷茶を飲み干しながらいいことを思いついたように店主に云う。
「さっきの侍に出した茶漬け……青梅の岩清水を使っていて四両と言っておったな」
「はあ。うちの茶園の裏山に湧くもので」
「よし、じゃあ六科よ。それを急いで樽いっぱい汲んでくれば二両ぐらいにはなるであろう。行ってこい」
「えっ……」
店主が面食らったように問い返した。
九郎は湯のみを机に置いて、
「その水を使っての茶漬けで四両取るのならば問題あるまい」
「いやしかし……」
「なんだ? 青梅まで重い水樽を持ってこさせる人足賃としてなら安いほどだ。お主が選んだ、店の茶に一番合う水なのであろう?」
「むう……」
妙に偉そうに云う小僧に返事を窮する[奥屋]の店主である。
侍をからかい追い払う為に一杯四両の茶漬けを出したところを見られている以上、その材料を大量に提供する相手の提案を無下もなく断れば「物の価値を偽って出した」と見られてもおかしくない。
それにもとより、裕福でない六科に支払い能力があるかどうかは店主も疑問に思っていた。
ツケをお六に許してこちらから請求に行かなかったのも、昔に深川の方で店主が[畳針の次郎兵衛]という土地のならず者の頭たちと喧嘩を起こした時に通りすがりのお六に助太刀を貰った恩があったのである。
まあ恩とは云え、店主らが喧嘩騒動をしていたら、何やら虫の居所が悪かったお六が発作的に近寄ってきて持っていた土鍋でごろつき共を殴り倒した挙句、血の着いた土鍋の弁償代まで逃げていった相手の代わりに[奥屋]の店主に請求するという通り魔的犯行であったが恩は恩である。そしてお六は恩を着せたらやたらたかる性格だった。
だが正直ただで食い過ぎであったが、
「ツケは私が死んだら六科さんが払うわ」
とまで言い残していたので実際に彼女が死んだ以上六科に請求するのが筋である。
店主は九郎の提案に肯定の意を示して、
「だけれどもあの茶漬けに出した水には特急料金も入っていてな。今日中に水樽を汲んで持ってくるのならツケはちゃらにしよう」
「だそうだ六科」
「わかった、行ってくる。お房は先に帰っていろ」
「ちょっと待て。そのままお前も水を汲みに行ったきり、帰ってこないって事は無いだろうな」
疑わしげに店主が目をやるが、あくまで六科は真顔で企みなど無いように見える。
それでもツケを踏み倒していた相手であるので慎重に、
「この坊主は店に置いていけ」
「むっ……卑怯な」
「ああっ! 逃げる気満々だった臭ぇ!?」
「九郎殿……自分で言い出したことの責任だから諦めてくれ」
「それでも逃げるつもりだこいつ! 最悪だ!」
「冗談だ」
きっぱりと告げる六科に店主は気を抜かれ、うなだれた。
九郎は引きつった笑顔で六科の肩をがっしり掴んで、
「……逃げるなよ?」
「うむーん」
「どんな返事だよ!? いいか、帰ってこなかったら酒に酔わせたお雪をお主の寝室に放り込むからな!」
「報復手段の意味がわからんが安心しろ」
彼は頷きながら、
「供養と考えればあいつのツケを精算するのも吝かではない。あいつの迷惑に振り回されるのは慣れていた」
「そうか……なら行ってこい」
「ああ」
「よし、待ってる間に……おうい店主。冷たい酒をじゃんじゃん持ってきてくれ」
「また昼酒を飲み始めたのこの男……」
呆れたお房は、六科の持っていた墓参りの道具を受け取り、草鞋を履き出した彼に言葉をかける。
「お父さん、寄り道とかしちゃ駄目だからね」
「任せろ。夕飯に間に合うかは知らんからお雪かお豊の所に行け」
「はぁい」
そう言って、六科は岩清水の場所を描いた紙を店主から受け取り、空の水樽を持って出て行くのであった。
(あやつとて約束を破る男ではあるまい……)
九郎は出された酒を飲みながらその後姿を見送った。
店で出された伏見からの下り酒は上質の水のように九郎の五臓に染み渡り、心地良くて笑みがこぼれた。
のんびりと涼しい茶屋で昼酒を飲みながら過ごす午後も良い。
だが、日が暮れても六科は帰って来なかった。
****
夜五ツ(二十時頃)にもなっただろうか……
夏の夜は遅くに来るとはいえ、とっくに日が沈み江戸の町は夜闇に包まれていた。
[奥屋]の座敷で居心地悪そうに酒を舐める九郎と、それをじろじろと見る店主の姿がある。
なんかもう九郎も正座して酒を飲んでいる。いい加減六科のツケも自分で払ってしまおうか思うほどであった。
「来ぬな……」
「……」
「あ……一応己れの飲み代は先に払っておくから……」
「……」
店主はむっつりと押し黙っている。
九郎は冷や汗を浮かべたぎこちない笑みで多めに金を払いながら言い訳がましく云う。
「言っておくが己れは別に六科の息子でも親戚でも無いので……」
「ほう……」
「い、いや六科が逃げたから己れも帰ろうというわけではないぞ? あやつも道に迷ったかどうかしているのであろう。青梅は田舎だからなあ」
「……」
ははは、と白々しい笑い声を上げて九郎は目を逸らした。
(おのれ六科め……月の無い晩は盲が有利だとお雪に吹き込んでやる)
などと怖ろしい計画を考えていると、やおら入り口が開く音がした。
店の中に獣臭い匂いが夏の夜風と共に吹き込み、店の行灯に照らされた軒先に居たのは体を水で濡らしたような姿の六科であった。
ようやく戻ってきた。
九郎と店主が安心の吐息をつく。
彼はずい、と中に入って手に持っていた袋から何やら黒いものを取り出して告げた。
「待たせたな。ツケの代わりの、熊の手を持ってきた」
「違ったよなあ!? 確か違うもの持って来る約束じゃなかった!? 頼んだのはこんな盆に相応しくない生臭いものじゃなかったぞ!?」
「狩ったのかよ! 遅いと思ったら熊を狩ってたのかよ!? どういうことだよ!」
断面の生々しい熊の手を差し出した六科に全力でツッコミを入れる二人であった。
ずぶ濡れなのは、血や泥を取るために川で体を洗ってきたらしい。
六科は豪然な態度のまま頷いて、
「安心しろ。水も汲んできた」
と、背中の水樽を下ろした。
熊の獣臭さが水に移ってないか、六科をのけて店主が嫌そうに匂いを嗅ぐ。
九郎は残った酒を銚子から飲み干して彼に訊いた。
「しかしどこで熊なんぞ……」
「帰り道の途中で熊狩りをしている晃之介殿と偶然出会ってな。手伝いを頼まれて報酬に貰った」
「あやつも何故盆に熊狩りを」
「なんでも熊を生贄に捧げて先祖の霊を祀るとか何とか言っていたが」
「どこの山の民だよ!」
友人の妙な一面を聞いてしまった九郎である。
一方で、微妙に穢れた感ある水樽を受け取った店主はうんざりした顔をしながら、
「まあ……約束は約束だからツケはこれでいいけどよ」
「熊の手は?」
「縁起が悪いから持って帰れ、そんなもん」
店主は追い出すように手を振りながら見遣った。
六科が帰ってきた以上、飲み過ぎの感もあるが九郎も場を後にしようとやや足元をふらつかせながら座敷を立つ。
そして帰ろうとする二人に店主は再度声をかけた。
「おい、六科」
「む?」
「持っていけ」
と、小さな麻袋を投げて渡した。
受け取ると軽く乾いた感触の麻袋から濃い茶の匂いがする。茶葉が入っているようだ。
店主は腕を組んでそっぽ向きながら、
「お六さんの墓にその茶を淹れて供えてやれ。あの人は客と言えねえ程ツケを溜める女だったが、茶を飲んでる姿だけは様になったからな。手向けだ」
「わかった」
「ふん。礼の一つも言わねえお前さんは生け好かねえがな」
そう言って、店の奥に引っ込むのであった。
六科も何も言わずに、熊の手をそっと入り口に置いて去るのであった。
「いやこれ持って帰れって! 変な気を効かせるな!」
慌てて奥から店主が走ってきて六科の背中に熊の手を投げつけた。
二人は夜の町を歩きながら、
「腹が減ったな」
「フサ子も、お雪か石燕のところに行っているであろうから何処か晩飯を食って帰るか」
「ああ。まだ三分は残っているしな」
「……そういえばあの店で今日飲み食いした分、お主払っておらぬのではないか」
「そうだな」
「……」
「この時間にやっている店といえば……むっ、そういえば」
「どうしたのだ?」
「いや、夜遅くまでやってる飯屋でお六がツケを残したままのところを思い出して」
「絶対そこ行かないからな、おい!」
などと会話をしながら進むのであった。
何処かで鈴虫が鳴いている音の聞こえ、盆の夜は更けていく。