17話『鳥山石燕秘説帳[天狗、或いは青行燈]』
蒸し暑い新月の晩のことであった。
月明かりも、町を照らす街灯も無い江戸の町はよりいっそう静まり返っている。生温い風と夜鳥の鳴き声が遠くまで響く夜だ。
神楽坂にある妖怪屋敷、鳥山石燕の宅では奇妙な色の明かりが灯っていた。
行灯の周りの紙を青色に変えているのだ。
中には大きめの油皿が置かれていて、灯心が放射状に百ばかりも並び、半分程小さな火を灯していた。上に鏡の置かれた行灯から薄暗い青色の光が部屋を暗く照らしている。
その周りを人が囲んで、一人ずつ怪談話をした後に灯心を消して行く。
本来ならば青行燈は別の部屋に用意するのが正式な形であるが、変則的に行なっているそれは百物語という怪談会であった。
明かりに照らされた面子は、場の代表でだいたい全体の九十話分ぐらい担当する石燕と、呼ばれた九郎にお房、お八と玉菊だ。見ようによっては妖怪先生が子供らを脅すために集めたようにも見える。
既に五十物語ほど語り終えているのだがお八の怖がりようは恐慌を通り越して錯乱の域に達しているが、離脱や帰宅を行える精神では既に無く気すら失えずに、九郎のお腹の当たりに顔を突っ込んで震えているだけであった。
もちろんお八が怖い話が出来るわけもなく、何故ここに来たのかというと九郎が子供らを連れて花火見物に出かけた帰りに全員そのまま連れて来られたのである。
お八とお房の家には弟子の子興を使いに出して泊まりになると言付けさせている。
青行燈に照らされた、玉菊が語っていた話が締めに向かうところであった。
「──明け方に起きたお客さんは、布団を見回すんだけど昨晩相手にした女郎の姿が無い事に気づいた。おかしいなと思ってた部屋に生ぬるい風が吹き込んでいて、窓と障子が開けっ放しな事に気づいた。
その時からいや~な感じがしていたんだけど、女郎が出て行っただけだと思って、しかし一応窓を閉めようと起き上がった。
すると窓から差し込んだ朝日が鏡に反射して目を眩ませたので、お客さんはつい部屋に備え付けられた鏡を見てしまった……」
おどろおどろしい声音でぼそぼそと雰囲気を出して玉菊が云う。
ほとんどの話は石燕が消化するのだが他の面子も時折百物語に参加して、一話話すごとに行灯の火を消すという作業をしていた。
「そう、まさにここにある鏡にそっくりの鏡だった……」
「見ない……あたしは絶対見ないぞ……九郎のへそしか今晩は見ない……」
「……いや、それもどうなんだ」
玉菊の話に震えるお八はもはや正気ではない。幽霊怖さが極まって妙なことを口走っている。
落ち着かせようと猫を撫でるようにお房と交代交代頭を撫でてやっているのだが怯えたままである。
玉菊は嗜虐的な笑みを浮かべたまま話を続けた。
「その鏡に見えたものに男は背筋を凍らせた……!」
「ううう……」
「紅でこう書かれていたのだ。『ようこそ淋病の世界へ』……! こんにゃく……!」
「ぎゃあっ!?」
「いや、ある意味怖い話だけどビビりすぎであろうハチ子……って玉菊、こんにゃくをハチ子の首にくっつけるな!」
とりあえず箸が転げても怖がりそうなお八が首元にぬるりとした感覚を覚えて九郎の浴衣の中に体ごと入れるように逃げ込んだ。
玉菊は満足そうに「うふふ……」と含み笑いを漏らしながら、濡らした箸で灯心を一本消す。
呆れて九郎が尋ねる。
「なんでこんにゃくなぞ持っておるのだ、お主」
「いざという時の為に人肌程度に温めてたのでありんす」
「どんな時の為だ!?」
ちなみにこの時代、こんにゃくの製造数が増加しており江戸でもちょっとした流行であった。いや、もちろん食用だが。
前に起こった富士山の大噴火により関東近縁に降り注いだ灰だったが、吸い込んだそれには体に害があり結核などの原因になると信じられていたために、体から塵などを排出させる健康食品として田楽などで食べられていたそうな。
ともあれ、怖い話を聞いてしきりに頷いているのは石燕だ。
「うんうん、オチはなんとなく途中で読めたけどその職業の人がいうと現実味があってぞっとするね。……玉菊君、君が飲んでる湯のみは持って帰ってくれたまえ?」
「わっちを病気持ち扱いしないでくりゃれ!? それにもっとこう石田三成みたいに病気持ちでも男同士の間接接吻大歓迎ぐらいの寛容さで!」
「大谷吉継との茶会の話は創作だよ? ふふふ私が書いた読本設定」
「おいこら歴史を塗り替えるな」
九郎は半眼で呻いた。
石田三成が業病のかかった大谷吉継と湯のみを回し飲みしたという逸話は有名であるが事実かどうかははっきりされていない。まあ、少なくとも九郎の記憶では鳥山石燕の流布した話では無かった筈だ。
未来を憂うが、ともかく百物語は進んでいった。
今度はお房が、
「これは実際にあった話なんだけど……」
「えっぐ……えっぐ」
「ハチ子が話の出だしだけでえずきだした!」
「お房まであたしを怖がらせる……口から肝が出そうだ……」
九郎が着ているのが、六科から借りた大きいゆったりとした浴衣なので、もうその内部に逃げ込んでいるお八と二人羽織しているような状態である。かなり暑くて顔を顰めているが、お八はそれどころではないようだ。
仕方なさそうに石燕は戸棚から薬壺を取り出して湯のみに注いで、お八の前に置いた。
「仕方がない。これを飲みたまえはっちゃん。気分が落ち着く薬だ」
「ううう……」
恐る恐る手を伸ばして、青行燈に照らされているのが原因ではない顔色のお八は湯のみに入れられた液体を一気に飲み干した。
口と喉に刺すような痛みが走り激しく咳き込む。吐き出そうにも即座に喉と胃袋の内側に染みこむような味だった。
涙を流して余計に吐きそうになっているお八の背中を慌てて九郎は撫でて、
「お、おい大丈夫かえ?」
「───あははー」
「……」
「いひ、おうーなんだ、平気平気」
「……酒臭っ! しかもきっつい臭いが! なんの酒を飲ましておるのだ石燕」
彼女は琥珀色の液体が入れられた小さな壺をくゆらせて、自分の湯のみにも注いで舐めてから応えた。
「うゐすきいという舶来の薬なんだがね。濃いからすぐに回る」
「なんでそんなもの持ってるのだ」
「抜荷……ごほんごほん! それより房の話を聞こうではないか!」
「密貿易って死罪では」
九郎が確認のように言うけれども、少なくともお八はアッパー気味な精神状態になってくれたのでまあいいかと決めた。
怖がりすぎて懐らへんで吐かれでもされたら余計困ることになる。
ともあれお房が話を再開した。
「あたいが生まれる前の頃、お父さんとお母さんが伊勢神宮にお参りの旅に出かけた事があったの。
その途中で寄った村で人を喰う、馬の化け物が出るという話」
「馬の化け物? 馬の幽霊ではなく化け物かね?」
「そこは重要なのか?」
疑問を挟んだ石燕に九郎は尋ねた。
彼女は酒で唇を濡らしながら考えるように、
「馬憑きという、死んだ馬が祟る話はあちこちに残っているのだが、それらの多くは馬を殺したり食ったりした人間に馬の幽霊が取り憑き、気が触れたりして死んでしまうという話の類型なのだよ。
馬というものは戦で華々しく活躍する名馬や神社に祀られる神馬などとあるが本来は他の動物よりも穢れに近い畜生だからね。その呪いや怨念も強いと考えられる」
「穢れに近い?」
「この国で馬が最初に出てきた時を知っているかい? 須佐之男命が皮を剥いだ馬の死体をぶん投げた所から始まりだよ。うん、厭な開始地点だね……
とにかく、馬の幽霊は人に取り付くが、馬の化け物が人を喰うというのはあまり聞いたことがない。草食だしね。だが人を噛むことは確かにあるし骨程度ならば噛み潰せる顎の力はあるが……」
興味深そうにお房へと視線を戻した。
「それで、その村では人肉の味を覚えた馬が夜な夜な歩きまわると畏れられていたの。
両親は一晩そこで泊まることになったんだけれど、用意された夕食の鍋に入っていたお肉を食べたら、窓から家の様子を伺っていた子供が『肉を食った! 肉を食った!』と騒ぎながら走り去っていった……
お父さんは変な子供がいるな、としか思わなかったらしいんだけど、お母さんが、
『あの子供、怪しいから捕まえて来るわ』
って言って出て行った。
その時にお母さんを止めておけば……」
お房は言いよどみながら、続ける。
「馬っていうのは賢い生き物みたいで、臭いなんかにも敏感らしいの。
鍋に入っていた、旅人へ馬を襲わせるための印みたいな肉を食べさせられたお母さんは外が暗くなっても帰って来なかった……」
「……ちなみに六科はその間なにを?」
「なんか家に猫が居たからお母さんが帰ってくるまでもふもふしてたとか」
「……」
妻が一人でその怪しげな村の夕闇に出かけて、その待ち方はどうなんだと思わなくもなかった。
「やがて外がすっかり真っ暗になった時に遠くから荒々しい馬の鳴き声が聞こえたってお父さんが言ってた。
そして暫くすると血生臭い空気が風に乗って流れてきた。何か引きずるような音が泊まっている家に近寄ってくる。
触ってた猫が叫び声を上げて天井へ逃げていった。お父さんが入り口に目をやったその時……!」
「ハチ子……! 己れの脇に顔を突っ込むな……!」
「あははだめだあたしは絶対顔を出さないぞ」
テンションは高めだったがお八の怖がりはそのままのようであった。
九郎は異様にくすぐったいのだがまったくお八が離れようとしない。後日散々おちょくってやろうと密かに心に決めた。
お房の話が終わりに差し掛かる。
「入り口が蹴り開けられるようにして開け放たれ、そこに居たのは全身血に染めたお母さん! 口をゆっくり開いてこう言った。
『六科さん、お肉の追加をとってきたわ。鍋に入れておいて頂戴。ちょっと井戸で体洗ってくるから』
片手に包丁を持ったお母さんは、襲ってきたけれど返り討ちにした人喰い馬の肉をお父さんに渡したの」
「普通に勝ってる!?」
「怖い話じゃなくて武勇伝だよねお六さんの!」
お房は首を振って、
「この話にはちゃんとこわい落ちがあるの。
その馬のお肉を次の日のお弁当用に煮付けにしたけれど、馬の食が偏っていた所為か肉が筋張っていて、それはもうこわくてこわくて」
「駄洒落か!」
「人喰い馬の不思議とか伝承は!?」
六科の話だと、あまりにこわい(注:硬いの意味)ので半分は捨てたらしい。それこそ馬に呪われそうな夫婦である。まあ、馬を返り討ちにしたお六は現在故人になっているのだったが。
石燕は溜息とともに頭痛をこらえながら、
「あの夫婦は風情がないというか、怪異があっても力技で解決しようとするから困るね。叔父上殿も前に野襖だか風狸だかを見つけたのに捕まえて食ったとか聞いたが」
「うん、臭かったから食べ残して捨てたって言ってたの」
「食べ物というか化け物を大事にしなすぎる……」
ちなみに、野襖や風狸はどちらもイタチかフクロモモンガのような姿をしている妖怪である。
もちろん実際の妖怪という訳ではなく野生動物だったのだろうが、捕まえる六科本人がそのような妖怪が居るという知識を持っているにも関わらず捕まえてとりあえず食ってみるのは怖いもの知らずというか何も考えていないというか……
小僧などの人間系妖怪らしいものを見た時はとりあえず離れるらしいが。なにせ、先制攻撃を仕掛けて妖怪ではなかったら問題である。だから六科が最初に九郎を見かけた時はさっさと逃げようとしたのだが。
ともかく、話を終えたお房が濡れ箸で灯心をまたひとつ消した。ほんの僅かに、部屋がまた少し暗くなっていく。
百物語は進む。その終わりに何が待っていようとも、滅びに向かい立ち向かうことこそが生き様だとばかりに。
****
「──それでその辻衆道に襲われて服を引き剥がされそうになった時に、侍は叫んだ。
『拙者は梅毒だぞ!』
脅してやめさせようとしたんでありんす。
すると辻衆道は笑いながらこう言った。『ああ、おれもだ』……! ところてん!」
「お主の怖い話性病ネタばっかりであるな!? あと、生温いところてんをくっつけるなマジで!」
「いざという時の為に持ってたでありんす」
「だからどんな時の為だよマジで!」
割と本気で気持ちが悪かったので怒鳴ったが、
「くろう、うるさーい……さけぶなよねむい」
「すっすまぬ……っていうか寝るんだったら布団にでも行けよハチ子! 暑い!」
二人羽織のままうつらうつらとしているお八を引剥がそうとするが、まったく動かなかった。
百物語が進行して部屋は大分に暗くなっている。お互いの顔が見えるか見えないかぐらいしか明かりは残っていない。
残る灯心は1つだけである。恐れるものを知らぬ石燕達は百物語を完遂しつつあるのだ。実際不吉な空気が漂っていた。
さて、と石燕が前置きをしてもはや表情も見えぬ暗さの中、声を発した。
「月並みに行われる百物語は、百話を全て終えると怪異が発生すると云うので九十九話で終わるのが常だ。
これは百という数字にはたましいが関係しているので、物語に魂が生まれ実在へと変わると云うことだね。器物百年に至り魂を得る、三つ子の魂百までといわれるようにね。
百は白でありこれは魂魄の魄を表す。白に鬼だね。さらに百に鬼となると百鬼夜行や百目鬼などとも関係してくる。ちなみに私は百鬼という言葉が好きでね。今後発表する作品に名付けたい程だよ。
まあともかく、百話終えて実際に何が現れるか見てみたいと思わないかい? 思うね。よし。最後の話を始めよう」
──これは私が実際に体験した話なのだ。
九郎は本当にそこに石燕が居るのかすらわからない、湿った暗闇に目を凝らしながら聞いた。
本当にこの空間に、今まで居た連中が残っているかわからない。音もなく出て行く事が可能ならば誰も居なくなっていてもおかしくはない。そう錯覚してしまうような異様な雰囲気だった。
「私が見つけた異境──『隠れ里』の話だ」
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昔、石燕が京都に旅をした帰りの事だった。
江戸よりもよほど歴史の古い京都には多くの妖怪話が残っている。それを探索する為に石燕が京都を訪れたのはこれまでも数回あった。
その時は旅の同行者として歴訪の本草学者にして薬師、安倍将翁も居た。日本中に彼の知り合いや薬を処方された者──土地の名士や有力な藩士なども多い──が居るために旅程を共にすると可也役に立つ。
特に京都では、陰陽道を司る陰陽寮の長官を代々務めており将軍就任の際には天曹地府祭を執り行う由緒正しい公家でもある土御門家と将翁はなにやら特別な関係があるようで、怪異妖怪調査の口利きに便利であった。また、彼自身も陰陽に関する知識が有るために、場合によっては呪い師としても土地を渡り歩いているのであった。
当時、陰陽師とは土御門家の許状が必要な職業であり、土地の普請の日取りについて吉日を決めたり、また占いに関しては専売特許であった。将翁は許状を持っている正当な陰陽師である。
ともあれ旅の途中の事。
数日続く大雨に旅籠に二人は足止めされていた。
実際に年若い女であった石燕と、少なくとも見た目は美麗な青年である将翁の二人旅であったが、まったく持って「おかしな」雰囲気にはなる様子は無かったという。
何処か浮世離れした性格の二人だったからだろうか。とにかく、数日の地面が削れるような大雨の後に江戸へ戻る旅を再開したのだが、今度は川の手前で再び足止めを余儀なくされた。
普段は棹で水底を押して渡る船が出ている浅く緩やかな流れの川なのだが、連日の大雨で酷く増水していたのである。
茶色の濁流を眺めながらため息をつく二人が、川の流れ溜まりに留まったあるものを目にした。
箸が浮いていたのだ。
恐らくは上流から流れてきたのだろう。だが、近くの宿で訪ねてみるがその川の上流に人里など聞いた事がないという。
むしろその言葉に興味を示し、川を遡り人里を探しに行こうと言い出したのが石燕である。
川の上流から箸や椀が流れて来て、見知らぬ里に辿り着くという話は東北から北陸近辺に伝わる迷い家と呼ばれる怪異に似ているし、古くは大和武尊の話にも似た説話が残っている。
不思議探求の欲求が特に強い石燕には大いに唆られる話であった。
一方で将翁の方も、他に交流のない里や村には特異な植物、民間薬が伝わっている事もあるので探しに行くことには賛成であった。
どうせ川の濁流で再び数日は渡れぬのである。
野外で不足しない分の食料を買って、翌日の朝早くから二人は隠れ里を目指し歩き出したのだった。
道無き道に見える場所を先行して進むのは安倍将翁だ。
続く石燕にはまったくの藪にしか見えないのだったが、
「人の通った痕がある」
「大雨の後で足跡も見えないが、確かかね?」
足跡どころか草を踏みつぶした跡も何も無かった。だが、
「敢えて──人の通らぬ道に見せかけたようで。人以外の獣が寄り付いていやしませんから」
「ふむ……ますます妖しげだね」
迷いなく足を進める将翁にやや遅れてついていく。山の中、おおよそ野外で身に付ける必要性が有るとは思えない狐面を被り高下駄を履いているというのに躓く様子もなく歩く姿はまるで天狗のようであった。
「さしずめ狐天狗……いや、確か日本書紀に於いては[天狗]と書いて[あまきつね]と読ませたのだったかね」
「ああ、確か空から降る光の帯を天狐のしわざとしたのでしたか」
「そうだね。日本国現報善悪霊異記にも化け狐の説話は残されているが、本格的な妖怪の形を得たのは九尾の狐の話が伝来してからだと私は思うよ。それ以前は山の神の化身か田の神の眷属という囚われ方が多かったのではないかな。
狐は[来つ][稲]と云う名だから狐面も豊作祈願の神楽で使われていたのが段々簡略化されて祭りのお面に……っと、いつも狐面の将翁には釈迦に説法だったね」
などと雑談を合わしながら進み、そのうちに開けた場所に出たので休憩を取った。
握り飯に味噌を塗って火でさっと炙ったものである。出掛けに旅籠で作ってきたものだ。それと、将翁は背負っている薬箪笥から小さな七輪と火を付きやすくした粉の炭を取り出して、手際よく湯を沸かす。
木椀に抹茶を解いて二人分の茶を用意し、啜った。茶のカテキンが食中毒を防ぎビタミンが体力を補う。茶は飲み過ぎるという事はない。ゆっくりと水分補給を行った。
だが、その間中ずっと、狐面を半分ずらして細長い目をしている将翁が、顔を動かさずに目玉だけで左右を探っている事に石燕は気づいた。
「どうしたのかね?」
「いえね、誰かに見られているような……そんな気配がしませんかい」
「ふふふ……いや、全然。むしろ、熊や狼ではないよね?」
「獣ならまだいい。熊避けの香を炊いてやれば逃げていく……ああ、それを使う時は風下には行かずなるべく離れてくれると目鼻が永遠に潰れないで済む」
「うん、絶対使う前には宣言してくれたまえ。っていうか香じゃないよね? 何が入っているか知らないがそれ毒煙玉って言わないかね?」
「それはともかく、獣の臭いを感じさせぬこの視線は……」
将翁は再び深く狐面を被り、薬箪笥を片付け始めた。
途中で話をやめた為に石燕は、
(人が見ているというのか……?)
と、周囲を憚ること無く伺い始めた。
肩をすくめて将翁が、
「……気付かれますぜ」
忠告するが、むしろ石燕は声を張り上げた。
「私は三千世界に名が響き渡る予定の妖怪絵師鳥山石燕だ! そこの君! 私を監視しているつもりならばその場所は既に割れているのだよ! 出てきたまえ!」
「こりゃあ、参った」
くくく、と見当もつかない方向へ呼びかけ出した彼女に、将翁は面の奥から笑いをこぼした。
こちらを隠れて見ているのが何者かは知らないが、理由もなく監視をするわけはない。呼びかけて出てくるような理由で監視するはずも。
やはり、返事はない。
石燕は頷いた。
「わかった、これはべとべとさんだよ」
「妖怪ですかい」
「うん。後ろからつけてくる系の山妖怪でね。悪さはしないというが後ろから人の後をつけるのはなんか気持ち悪いのだよ! つまり悪! さあ将翁よ、陰陽師的な退魔の御札とかを出して退治してしまいなさい!」
「いや……そんな便利なものはございませんが。ああ、大麻草なら効きのいいやつを用意できますぜ。大陸から渡ってきた抜荷の……おっと、こりゃ失言」
「煙吸ってらりらりしている場合ではない。しかしこう……御札を使って『破ァ!』とか出来ないのかね。以前寄った寺では跡継ぎ息子がそんな感じで凄いと聞いたことがあるが将翁はそういうことは」
「出来ません」
「陰陽師にはがっかりさせられるよ! 何を学んだというのかね!?」
期待をされても困る、とばかりに将翁は首を横に振った。
「占いとか。あと大麻と幻覚系の薬を混ぜて反魂の香を作ったり」
「幻覚と認めちゃってるよねそれ」
後に彼から詳しくそれを聞いて、漢の武帝が夫人の魂を煙に写した説話と共に[返魂香]として絵に残したりもしている鳥山石燕であったが、特に現在必要なものではなかった。
彼女は眼鏡をくい、と直してこれから進む先の方角を見ながら、
「まあいい。べとべとさんにはそれ相応の対応策があるのだよ。ふふふ地獄先生じごっくとか名乗ってる私にかかれば簡単さ」
「最初からそれでお願いしたかったですねえ」
「こう相手に告げればいいのだよ。『べとべとさん、ここは任せて先に行きたまえ!』」
「そこはかとなく、緊迫感のありそうな」
率直な感想を云うが、石燕は満足したように、
「さてこれで大丈夫だから探求の旅を続けようかね」
「……まあ、石燕殿がいいなら」
木の根に降ろしていた荷物を持ち上げて、再び行軍を再開しようと準備を始めたのであったが……
「──もし、そこの御方達」
声がかけられた。
地面から湧いてでたと言われても信じそうなほど自然に、何も居なかった場所に人物が現れていた。
暗い色の野良着を来た細身の、手足の長い男である。両手をだらりと下ろしたまま、こちらを見ている。
いや、本当に見ているのかは石燕にはわからなかった。目の前に相手がいるというのに視線を感じることは出来ない。
何故ならば、その男は顔に天狗の面をつけていたからだ。
不気味だ。そして何よりも、
「……少数派になった」
「おや?」
「なんでもない」
石燕は狐面を付けた将翁と天狗面を付けた男に視線をやった後にぽつりと呟いたが、どうでもいいことではあった。
それよりも天狗面の男は言葉を続ける。
「このような山の中で、もしかして迷われたのではと様子を伺っておったが」
「……いや、私達はこの道の先にあると思われる里を探しに来たのだよ」
男の雰囲気が、その言葉で変わった気がした。
ただでさえ山中だというのに面を被っている不気味な人物だ。黙っただけで厭な威圧感を感じる。
「──どこで、この先にある里の事を聞かれた?」
その言葉には焦りの色を隠した、返答次第では何らかの行動を起こさんと言わんばかりの質問であった。
石燕はなるべく余裕の有るように見える笑みを浮かべたまま、
「下流の川に箸が流れていたのだよ。しかし土地のものに聞いても誰も知らないと言うのでこの目で確かめにね」
「ほう──成る程」
「君はその里の者かね?」
逆に確認のように問いただすと、天狗面は小さく頷いた。
「山の薪拾いや落ち葉浚いをしている、[い]と申す」
「[い]? それだけとは変わった……名だね?」
「里の風習でしてなるべくわかりやすく、いろは順に一文字ずつ名付けられているのだ」
それにしても、もう少し捻った名がありそうな気がしたが石燕は言葉にはしなかった。
将翁は面を付けた不審人物を観察するように何も声を出さず、ただ狐面を向けている。
「その天狗面も風習かね?」
「これは……」
少しだけ言葉を濁して、
「もうすぐ里で開かれる祭り神楽の面だ」
「ふむ……」
石燕は、その天狗面に妙な違和感を感じていた。山の中で面をつけていることよりも、普段目にするそれとは違う印象を受ける。
そして気付いた。
(この天狗の面は、目の中まで真っ赤に塗られている)
普通に見かける天狗面の目は白眼に黒い瞳か、高級な作りになると金眼に黒い瞳で作る。だが、この天狗面の目は血の色のように真っ赤なのだ。面の他の部位よりも一層赤々しい。
気づいても、不気味さがより増すだけであったが意味のわからぬ奇妙さは解決した。そして新たな疑問が沸く。
(何故赤色にしている? 儀礼上の意味があるのか?)
思考を始めるが、天狗面は続けて声をかけてくる。
「この先の里に行くのなら案内をしよう」
「……そりゃあ、助かる」
石燕が一人何やら考えながらぶつぶつと呟いていたので将翁が応えた。
恐らくは里はここからそう遠くない場所にあるのだろうと将翁は考えている。だが、逆に里に近づいたからか森に残る人の通った跡があちこちに見える様になったので正確な道を探すのは一苦労だと思っていた所だ。向こうが案内してくれるならば早く辿り着くだろう。
山歩きに慣れた者を、散らばる道の痕跡で徐々に迷わせるような森の作りは、
(人を里に近寄らせない為か……或いは里から人を逃がさない為か)
将翁は面の中で皮肉げに嗤って、天狗面の後をついて歩みを進めるのであった。
一方で、二人は面を付けたまま道とも言えぬ森をすいすい進むのに対して石燕は男女の体力差とは別の理不尽な思いが今更浮かんだという。
****
そこは小さな、山の谷間の盆地になっている場所に作られた里だ。箸を拾った川の支流らしき小さな流れも見えた。
里に入った石燕と将翁は、里人に迎えられる。
余所者が連れられてきたのに予め伝わっていたようにずらりと並んだ里人が二人へ顔を向けていた。
そして、里人の顔には老若男女関わらず、赤眼の天狗面を全員が着用している。
その異様な光景と、顔を一斉に向けられている石燕は背筋に厭な感触が粟立つのを覚えた。
ぼそりと、
「将翁……何か予備の面を持ってなかったかね?」
「今は、ございません」
「仲間外れ感が半端じゃ無いね……!」
その里に存在する人物の中で唯一、面を被っていない石燕は悔しげに云う。
「こんなことがあるかもしれないから、あたしゃ面を付けてるんですぜ」
「こんな里が二つも三つもあるのかね」
「勿論」
将翁はおどけて、
「冗談、ですよ」
「うぎぎ」
やがて二人は里の中にある宿へ案内された。
宿とはいえこのような隠れ里。使われなくなった民家に泊まって良いと云う事らしい。妙に愛想の良い天狗面の[ろ]と名乗る老人に連れられて、
「疲れたでしょうからどうぞゆっくりと」
「ああ」
「後で何か食べるものを持ってこさせますので……」
と、[ろ]の老人が去っていった後に石燕は不審な目をしたまま将翁に聞いた。
「何故余所者の私達が歓迎されているのだろうね」
「さて。陰陽師や薬師として歓迎されたことはありますが、別にここであたしゃ名乗った覚えは無い」
「私は名乗ったが妖怪絵師や地獄先生という職業の者が歓迎される土地柄なのだろうか」
「まさか」
皆して天狗面を向けてくる村の者達に薄寒い妖しさを感じたまま、二人は宿の家に入った。
感じることのないが誰かが様子を伺っているような気がして、石燕は入り口の戸を閉めようとしたが将翁に止められた。
「閉めてはいけない」
「どうしてだね?」
「よく御覧なさい」
将翁は細い指を向けながら、警戒を声色に忍ばせて断定的に告げる。
「その戸──内ではなく外から閂で閉められるようになっている」
「……ぞっとしないね」
戸を開けたまま、石燕は家の中に荷物を置いた。
なんの変哲もない囲炉裏が部屋の中央にある一間の家である。だが、窓は高いところに格子がついたものがあるだけで外に繋がる勝手口も何もない。入り口以外からは出入り出来そうにない構造だ。
作りはしっかりとしているのか、或いは隙間風すらも通らないように作られているだけなのか淀んだような空気だ。そして、人が使っていない家をたまたま遣って来た旅人に貸したにしては、物は片付いており最近まで人が住んでいたか、管理はされていた雰囲気はあった。
どこまでも不気味さが消えない。
ふと、壁にかかったオカメの面が目についた。
「面がありますぜ」
「そうだね。オカメ……或いは乙とか猿女と呼ばれる面だ」
石燕は再び考え込んだ。人が将翁しかいないので明確に彼に聞こえさせ、呟く。
「そう、何故ここにだけオカメがある……? 里人らは女も老人も皆、あの天狗面だった。祭りにしても役目があり面の種類が変わる筈だ。天狗しか無い天狗信仰ならまだしも、オカメがここにある理由はなんだ……?」
「赤眼の天狗。さて、そんな天狗は居ましたかい」
「赤い目をした天狗……赤、紅、朱……朱色は血の色だ。天狗……そうか!」
大きな声を出した後に、彼女は周囲を見回して声量を落とした。
「天狗ではない。天狗面という存在だ。元は天狗面は妖怪・天狗を模ったものではなく、鼻は長くて目は赤かがち色(血のような鬼灯色の事である)をした神、猿田彦の面なのだ」
「となるとオカメは確か……天鈿女命」
「そう、国津神であった猿田彦に差し出された神だ。ここは天狗信仰ではなく、猿田彦信仰の里だ。猿田彦は瓊瓊杵尊が葦原中津国を平定しようとした際に先導役となった、元々土地に居た古い神と言われている。
つまり葦原の国に居た神の中で真っ先に瓊瓊杵尊に下ったか、土地を渡した神でもある。だが天津神に併合された国津神の中にはそれを良しとしないまま信仰を続けている土地もあるという。
そもそも猿田彦は葦原中を照らしていたという神だ。信仰があちこちに分散していたと考えるのが普通だろう」
狐面の将翁が顔をオカメに向けながら相槌を打つ。
「それで、里人は猿田彦でこの家が天鈿女命と云うわけですかい」
「天鈿女命は猿田彦と結婚して猿女と呼ばれるようになったとされるけれどもね、ある意味でこう考えられないかね? 天鈿女命は生贄の象徴だったと。
つまりこの里に於いて、私達は生贄だ」
「こいつはどうも……縁起でも無い事に巻き込まれたようで」
「どんな目に合うかは、できれば体験したく無いね」
「仕方無い」
将翁は元きた道を見遣りながら、一度鼻を鳴らして云う。
「面倒だが夜陰に乗じて帰りましょう。今出ても見つかる。日暮れまで少し、石燕殿はお休みになったほうがいい」
「むう……夜の森を迷わず進めるのかね?」
「そこは御安心あれ。香を道の途中に付けて来ましたので、見えなくとも匂いで道はわかります」
「一緒に歩いていてもそんな匂いはしなかったが……」
「薬師の鼻は特別、ですよ」
将翁は狐面の鼻を二三度小突いて、冗談のように言い放った。
****
夕食に出された乾飯を戻した粥と、山菜のつけ汁は将翁が毒見をして問題ない事を確認し、二人は腹に収めた。
虫の鳴かぬ夜だった。幸い、山からの風は殆ど無く、道標を散らされる事がない為に匂いを辿る将翁に有利である。月明かりはそこそこにあったが、未踏の地でも悠々に歩く将翁と違い多少旅慣れた程度の石燕には夜の森を歩くなど到底不可能である。
将翁は背中の薬箪笥に木材を組み合わせて座れるように細工し、石燕をそれに座らせるようにして背負い運ぶことにした
彼はさほど体格に優れているわけではないし、履物は高下駄だ。重心を崩してとても歩けないのではないかと石燕は不安になったが、ひょいと持ち上げて何も背負っていないかのように森を進んだ。
夜目が効くのだろうか。だが、狐面は被ったままだ。
(まるで天狗隠しにあった気分だね)
石燕は思いながら、振り向いた。
既に遠くに離れた里から、篝火が十以上灯されるのを見て彼女は眼鏡を落とさぬように様子を伺った。
その篝火が規則正しい動きで、里から放射状に離れていく。二人が走る方向へも走る速度で向かうのが見えて、再び視界は深い森に覆われて見えなくなった。
「天狗火……いや、山狩りか! 追ってくるつもりだ!」
「ほう」
「しかしあの組織だった素早い動きは、ただの隠れ里の村人とは思えない……」
うろうろとすること無く、迷いなく捜索網を広げていく里人の動きは、まさに[狩り]と言った気配であった。
幾ら将翁が道を覚えているとはいえ土地のものに追われるのは分が悪い。ただの里人ならば追いつけもさせぬかもしれないが、
(……赤かがち色の光る瞳で葦原を照らしていた猿田彦……神話通りならば暗闇など通用しない眼力だろうね)
不安を覚える石燕の胸中に応えるように。
半刻ほどすれば遠くから篝火の明かりが見え始めた。
一つではない。逃げた将翁の痕跡を見つけて連絡を取ったのか、複数の松明が近寄ってくる。
「こりゃいけない。一旦身を隠すため道を外しますぜ」
「大丈夫かね?」
「さて」
云うと将翁は身を翻して、下駄の歯痕を残さないように木の根を飛び石のように踏みながら進路を変えた。
暫く進むと巨木があり、二人はその裏側へと回る。
巨木から生まれる日陰の影響か、周囲には高い木は無かった。月明かりに照らされて巨木の幹が暗闇でも将翁の目に見えた。
そして息を飲む。
樹の幹に。
無数の藁人形が突き刺されていたのだ。
しかもそれが全て、手裏剣と苦無で。
「……そうか! 勘違いしていた……! ここは猿田彦信仰の里ではない、忍びの隠れ里だ!」
「左様ですか」
「それならば顔や名を隠すのも夜の森で自由自在に動けるのにも修行をしていたと納得が行く……全ては天狗なのだ!」
「ま、それはいいとして」
どこか将翁の反応は冷ややかであった。
やがて追手をうまくやり過ごした二人は改めて森を進んだ。
今度は追われる気配も無くうまく帰れると、空が白みだした頃に安心していた。
しかしこの隠れ里の事はなんと描こう。具体的な被害があったわけではない。危険を察知して逃げただけである。誰かに知らせるべきだろうか。だがそれになんの得がある……
結局は、そのうちにこういう不可思議もある、という解説とともに錦絵にしてしまおうかと石燕が思っていた時である。
それまでに比べて道らしい道。街道の外れに出た。
そこに、天狗面を被った手足の長い、[い]の男がこちらを見たまま、ぼうと立っていたのである。
将翁は石燕を背中から降ろして警戒の色を見せる。
逃げた相手は必ず元来た道の始まりに戻ると予測していたのだ。この道は、[い]に話した「箸が流れ着いた川」に面している。
言葉も無く、男は己の胸元に手を入れて何かを投げ放った。
十中八九、飛来してくるのは手裏剣だと石燕は咄嗟に察した。忍びの投げる手裏剣術は一発必中。将翁か石燕か、どちらかの致命的な所に刺さるのは火を見るより明らかだ。
だが瞬間の神業か。
投げ放たれた物体を、将翁が指でつまむようにして受け止めたのだ。
目を見開いた石燕が将翁の手をみると、そこには折りたたまれた紙片が摘まれていた。手裏剣ではない。
がさがさと音を立てて紙を開くとたどたどしい文字が書かれている。
それには、
『遊楽地[わくわく忍び村]、近日公開予定。本物の元忍び衆が盛り上げる楽しい里祭りに是非いらっしゃいませ。忍術体験会あり。君も手裏剣を投げよう。詳しい場所は……』
「……村興しか! ってもう居ない!?」
朝のかそたれ時に、天狗は消え去っていた……
****
「風土ホラーか忍者モノかギャグかどれかにしろよ! 話の筋がとっ散らかりすぎであるぞ!」
「真実とはなんとかより奇なりだね」
「あやふやすぎるだろ!」
九郎が話の途中に二度三度がくりと気を抜かれて首を下げながら、それでも最後まで聞いてからツッコミを入れた。
怖い話なのか何だったのか結局わからない謎の隠れ里であった。ちなみに、近日とは書いてあったが未だに公表された気配は無いらしい。
天狗面を付けた集団に監視されたり追われたりする時点で心象最悪とも思えるが。全員で出迎えたのも、わざわざ家を開けたのもどうやらテーマパークへの歓迎的応対だったのかもしれない。
石燕は闇の奥で笑みを作りながら、
「それにしてもこれで百話終わったわけだ」
「ああ。長かったのう。ハチ子は完全に寝てるが」
「あたいも眠いの」
「わっちはぎんぎんでありんす」
「聞いてねえよ」
「……わっちはぎんぎんでありんす」
「なんで二回言った!?」
玉菊の妙な雰囲気に九郎は音も立てずに闇の中こっそり移動して逃げた。胸元には寝ているお八が居て動きにくかったが、それでもなんとかやった。
声を怖めて石燕は云う。
「夜に鬼を語るなかれ。そう言われているが果たして何が起こるかね……?」
と、行灯の火を消そうとすると、家のどこからか「カチ、カチ」と音がなった。
不自然な音に九郎が、
「虫か?」
尋ねるが石燕は面白そうに、
「……家鳴りだ。害は無いが音を鳴らす妖怪の一種。これは面白くなってきた」
「まさか……」
そして、行灯の火を消した。
火を消すと新月の晩である。真っ暗の闇が訪れる筈である。
だが、不思議なことにぼんやりと青白い光が消えた行灯以外から発せられて部屋全体を薄く照らした。
「本当に出た……妖怪の[青行燈]だよ!」
「む……どこだ!? 異様な魔力を感じる……!」
九郎が張り詰めた声を出しながら警戒して立ち上がる。
「うわあ、ぬし様怖いでありんすー♪」
「声が怖がってねえよ!?」
ここぞとばかりに玉菊が飛びかかってくる声が届いた瞬間であった。
光が落ちてきたように見えた。
青白く灯された人間の顔。体に白装束を着て片手に青い光を出す提灯を持った化け物が天井から叫び声を上げながら降ってきた。
「あああああおおおおああああんんんんんどおおおおおんんんんん!!」
「えっそういう鳴き声なの!?」
「ぐぎゃっ!」
落ちてきたところに、偶然玉菊が居たらしく踏み潰されて絶息したようだ。突然上がった叫びに石燕とお房はびっくりして「きゃあ」だの叫びを上げて抱き合った。お八は九郎の懐で猫のように寝たままであった。
そして床に降り立った青行燈(仮)は百物語をしていた九郎らを睥睨して、膝立ちのまま声を出す。
「痛っ……! 足捻ったわ本気で!」
「なんだこいつ」
「うりゃー」
石燕がうずくまったままの青行燈(仮)の尻に竹槍を刺した。
「ぬああ!? なにをするんですか鳥山先生! ま、ま、ま、麻呂の尻にそんな残虐な事を! 尻から竹の子が生えたらどうするんですか! おめでたで祝いでもくれるんですか! おめでとうございます麻呂! そして生まれてくる全ての子供達へ……だれだお前」
「五月蝿いよ北川。人の家の百物語に文字通り飛び入り参戦してなにをやってるのだ貴様は」
「なにってそりゃあ先生を驚かせようとこっそりと屋根裏に忍び込んで二刻だか三刻だかじっと待ってたんですよ! この暑い中自主的に!
それにしても先生も『きゃあ』なんて声出すんですね貴重! あっ今顔色が冷静を装いつつ恥ずかしがってます? ますよね! 可愛い! 先生可愛い!
それにしても先生酷いなあ……あっ白装束借りましたよこれ。へへっ女の人の着物っていい匂いがしますね先生。食べろって言われたらぎりぎり食べれるぐらあ痛ァああ!」
引きつった笑みになった石燕に再び竹槍で突かれて飛び上がる青行燈こと石燕の門人の青年、北川何某である。
石燕が家を空けて花火見物の九郎らを迎えに行った隙に侵入していたらしい。しかも石燕の死装束まで勝手に着ている。それっぽくするために青い提灯を用意していた。先ほどのカチカチ云う音は、タイミングを見計らって提灯に火打石で火をつける音だったようだ。
文句を言いたげに手を上げて抗議する北川。
「麻呂を鯨漁みたいに刺さないでください! っていうかその竹槍はなんですか物騒な! 越南の民兵じゃあるまいし! あっ麻呂の仕入れた情報によると大奥の便所は竹槍仕込んでるらしいですよ盗まれないように! 厳重さを間違ってるだろ! ちなみに溜まったら埋め立て方式だから一度放り込んだものは何であろうと二度と日を見ること無くそのうち埋められるという……怖い! ところであれですか? 鎌倉幕府から滅びてない竿竹売り一族とかから買った竹ですかそれ!」
「……これはかの有名なかぐや姫が入っていたという竹槍だよ。京に行った時公家から高値で買ったのだけれど」
「それ騙されてるよ! 月の姫がそんな暴力的な兵器から生まれるわけないよ先生! 農民が明智光秀の尻とか刺すための武器じゃん! 自然に優しい天然素材をふんだんに使っちゃってる!」
九郎が、男の持っていた提灯から行灯に火を移して部屋を照らし、尻を抑えたままうずくまる北川に目をやって言った。
「それで此奴は誰なのだ」
「誰!? 今、麻呂の事を誰とかいいやがりましたかねええ少年! くくく麻呂こそ鳥山石燕先生の本当は一番弟子だけどなんか駄目っぽい性格をしてるから師弟の縁切られかかってるから超格下の北川様だ! 趣味と特技は淫らな絵とか描くこと!」
「ああ……なんか駄目っぽいな」
「ま、ま、麻呂を馬鹿にするなよ! 淫らな絵を描くぞ! 奉行所に訴えられても陰湿だから辻販売とかしちゃうんだぞ麻呂は! っていうかなんだよ『異様な魔力を感じる……キリッ!』って! 何をこじらせればそんな科白が出てくるんですかああ!? 感じねえよ! 麻呂だよ!」
「此奴うぜえ……!」
「痛ェー!」
空気に飲まれて口走った科白を繰り返されて恥ずかしくなった九郎が竹槍を受け取り再び刺した。
夜中だというにのに、ようやく出てこれたからかやけに北川のテンションが高い。しかしこれは彼の素である。相手にしていて疲れる、うざったらしいとは知人全ての感想であった。
これで居て彼の描いた美人絵はそこそこ人気に売れているのだから困る。
石燕は彼の肩に手を乗せて、
「ところで北川。いい所に来たね。ちょっと妖怪を調べに行って欲しい場所があるのだが。二、三年ぐらい」
「はあああ!? また八丈島ですか!? 閉じ込めようとしても無駄ですよ先生、てんじちゃんと麻呂はもう昵懇の仲なんですからね! 筏船とか作るの手伝ってくれるんですからね!」
「いや、今度は新島って知ってるかね?」
「うわああやっぱり島流しにする気だこの人! どんな強権持ってるんだよ!」
だらだら汗を流す北川に、恥ずかしめられた石燕が片道切符の島流し旅行プランを告げていく。
九郎はため息を吐きながら、懐で寝ているお八と、驚いた後気を失ったお房を布団に持って行こうとするが、お八が相変わらず離れなかった。
「おい、玉菊。ちょっと手を貸せ。玉菊……?」
倒れたままの彼に近寄って口の前に手を置く。
息をしていなかった。
「死んでる……」
なお、その九郎が慌てて術符フォルダから取り出した[電撃符]のショックで蘇ったという。
そんな喧しい夜の騒ぎを、のんびりと見ていたのは石燕の家で飼っている水槽の海星だけであった。
****
翌朝、早くに目覚めたのはお八であった。
夏場ではあったがさすがに涼しい。お八は寝ぼけたままぎゅっと布団らしきものを抱き寄せた。
しかしそれは温かい妙な肌触りのもので、枕も硬くない変な感じであった。
眠気に逆らい目を開ける。
目の前に、九郎の胸板があり、頭の上に彼の寝息を感じた。
九郎にしがみついたまま結局離れず、布団で寝ていたのである。
左右にはお房と石燕も居るのだがそれを認識出来るほど寝起き頭は冷静ではなく、お八は火が付いたように体を熱くした。
(うおおおおなにこれ凄い危なげ天満宮……!)
気がつけばもう、体中から九郎の体臭や温度を感じてしまうものの下手に声も出せず身動きも出来なかった。
そしてようやく、いつも寝ている藍屋の部屋ではなく、妖怪絵が部屋中に貼られた石燕の家だと周りを見て思い出した。
(そうか……あたしが怖くて眠れないからこうしてくれてたんだな……)
事実は寝て離さないお八を諦めたのだが、まあ良いように解釈するものである。
原因不明の頭痛はするものの昨晩の記憶はいまいち思い出せないまま、お八はもうしばらく、と自分に言い聞かせて九郎を抱いたままぼやっとした。
そうこうしているとぬめりに似たものが足のあたり感じて、お八は驚き、漏らしたかもしくは官能的な現象がアレでどうしたかと思ったが……
お八と九郎の隙間すらないようなところに、体に油を塗った玉菊がぬらぬらと滑りこんできた。鰻の如く。
「寝ているうちに椿油と昆布のぬらぬらを使った妙技を味あわせてあげるでありんす……!」
即座に目覚めた九郎と、良さげな調子から一転鳥肌が立つような嫌悪感を味わったお八に簀巻きにされて、江戸川に浮かべられた玉菊であった。
近頃よく流れている玉菊の姿を見て当時の俳人、夜半亭宋阿はこう詠んだと伝えられているかもしれない。
玉菊や 墨堤いとし 流し雛
朝は随分と涼しくなった。延々と暑さの続くようであったこの夏も、盆を過ぎれば暮れていく。
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ところで後日、石燕をおちょくった罪の私刑で島流しにされた北川から手紙が届いた。
このような内容である。
『前略鳥山先生へ。お元気ですか。麻呂は元気盛り盛りです。いえ、嘘ですが。
新島は右を見ても左を見ても入れ墨の罪人ばっかりで顔を合わせるのも嫌になります。
夜になれば海からは海難法師とかまむんとかいう妖怪が上がってきて山からは山姥やよべむんとかいう魔物が跋扈してる気がします。人間界というか大魔界島って感じです。詐欺で流された寺生まれの罪人仲間が「破ァ!」って感じで追っ払ってくれてます。
今日も漁師の人の手伝いで干物を作る作業をしましたが、干物に塗る液がどう嗅いでも控えめに言ってうんこ的な何か過ぎて手に染み付き死にたくなります。味は確かなのですが。いや信じて下さい。下手なもの作る度に指を折ると脅される程なので。
先生がいかな弱みを握ってここの船持ち達に、麻呂を本土に返さないように言い含めているかは知りませんが、どうか麻呂の作った干物でも食べて機嫌を直して下さい。麻呂の家族も心配しています。
あなたの大事な一番弟子より』
手紙と一緒に入っていた新島特産品の干物は異様な匂いのするものであったが、九郎と一緒に、
「これは成る程、臭やと云うだけある」
と臭がりながらも珍味であった。所謂、くさやである。手紙は臭かったので焼いて捨てた。新島では年貢の塩が不足となり住民に満足に残らず、干し魚に塗る塩汁を何度も再利用するようになったことからこれが始まったという。
美味いが江戸の庶民に降りてくる数は少ないくさやを、北川が新島にいれば今後も時折送ってくるものと思われるために、暫く帰らせるつもりは石燕にはないようであった。