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7話『妖怪の仕業/九郎の金稼ぎ~朝顔売り編~』

 闇夜に蝋燭が一本。ゆらゆらと、橙色の火を灯して揺れている。

 随分と夏らしい気候になってきた近頃、戸は締め切られた屋敷の中だが得体の知れぬ涼しさに部屋は満ちていた。

 灯りに顔を照らされて、不気味に眼鏡を反射させている幼女が告げる。


「──これは、知人の知人が聞いた話だがね」


 語り手──石燕はそう切り出した。

 

「最新の怪談──つまり、実際に最近起きた恐るべき出来事だ……」

「はぁーっ……はぁーっ」

「ぬあ!? ハチ子、いきなり抱きつくな!」


 顔を真っ青にしたお八が、過呼吸になりかけて震えながら九郎の背中に抱きついた。


「相変わらず怪談苦手なのか……フサ子の妖怪探索とかに付き合っていたのではなかったか」

「それはあれよ」


 豊房が頷いて応える。


「お化け屋敷とかでも、自分より死ぬほど怖がってる人が隣にいたら何か冷静になるじゃない?」

「そういう目的で連れ回しておったのか……」

「でも時々暴走して妖怪を半殺しにしたりして困ったわ」

「半殺しにされた妖怪がおるのか」

「ええ。芝雑魚場に出てきた妖怪魚市ようかいウォィチこと、シバにゃんとか名乗ってた猫風の中年。お八姉さんが恐慌状態でボコボコにしたわ」

「まだ出没しておるのかあれ……」


 以前に、芝雑魚場で暴れていた自称化け猫の変質者を九郎は退治してひっ捕らえたのだがまた活動を再開しているようであった。

 そもそもの罪が売り物を荒らし、人糞を撒き散らすという非常に迷惑だが死刑や追放刑になるほどではないので釈放されたのであろう。

 

「芝にゃんのことはどうでもいいよ! 私の怪談を聞きたまえ!」

「わかったわ。──それで、いつ坊主は出てくるの? お前たち何をした!みたいな」

「出てこないよ!」

「悪霊退治に駆り出される坊主も大変よね」

「ところで寺は悪霊退治をやっているでありますか? 以前に檀家の寺に聞いたらやってないと言われたでありますが」


 夕鶴の疑問に豊房は適当に応える。


「宗派に依るんじゃない? 別に仏教が悪霊を否定しているわけじゃないもの。だって葬式ってあれよ。やらないと現世にさまよって悪霊になるぞって脅しよ元々」

「ほほーそうなのでありますか」

「大体設定がばらけてるのよね。有名な怨霊の平将門ってあれよ。死後に須弥山に行って弥勒菩薩の従者になってるのよ。なのに怨霊が出るぐらいだもの。曖昧よね」


 夕鶴が「ほへー」と感嘆の息を吐いた。

 彼女も怖いものは苦手な方であるのだが、さすがにお八ほどではない。というか、これもお八がビビリ腐っているので恐怖感が緩和されているのであろう。

 解説をしている豊房の方を苦々しく見て石燕は云う。


「いや、だからね。まずは私の話を」

「他にも餓鬼っていうのは地獄に居るみたいな地獄図がよく出てるけどあれは間違っているの。餓鬼は地獄に居ないわ。餓鬼道に落ちて現世に出てくる悪霊の一種なの。供養されなかった悪人の霊がなると言われていて、天竺では四天王の一人広目天がその管理を──」

「誰に似てこんなに理屈っぽくなったのだろうね!?」

「お主だ、お主」


 長々と話をぶった切って解説を始めた豊房に嘆く石燕だったが、どう考えても彼女の影響である。 

 咳払いをして石燕は話を戻した。


「江戸城の大奥で広まった怪談でね? 出入りの女按摩の人が聞いてきたという」

「お雪か?」

「いや、彼女の知り合いの。妊娠していると大奥にはいけないからね……で、それはこういう話だという」



 江戸城に勤める、将軍の護衛や番をしている者がある夜に酒の付き合いをしていた。

 すると、窓から歌声が聞こえてくるという。それは天守閣の方から響いてくるようであった。

 将軍にそれを伝えると、様子を見てくるようにと指示を出されて彼は向かっていった。

 屋根へと梯子を掛けて上り、歌の聞こえたあたりを見回すがそこには誰も居ない。

 いったい、歌声はどこから聞こえてきていたのか……



「……」

「……」


 九郎とスフィが顔を見合わせた。思いっきり心当たりがあったからだ。

 というか間違いなく自分たちである。豊房が感心したように考察をした。


「ふーん……小豆洗いとかそのたぐいかしら。あれも小豆洗う音だけじゃなくて歌が聞こえるのよね。『小豆洗おうか、人を取って喰おうか』……って」

「うひぃ……! 聞こえない聞こえない!」

「これハチ子。噛みつくな。しかしなんだその二択は物騒だのう」

「エルフ民謡そんな歌じゃないもん」


 やや不満そうにしているスフィであったが、石燕は「まあまあ」と手を向けながらにやりと悪い笑みを見せる。


「身の毛もよだつのはこれからだよ……! それで、その歌を聞いた男は部屋に戻って他の小姓や殿様に『天守閣に行ったけれど誰も居なかった、聞き間違いだったかもしれない』と報告したそうだ。

 一応はその場の皆も納得して、そそっかしいなと笑い合っていた……だが、おかしいと思わないかね?」

「……何がだ?」

「それに気づいたのは将軍だったという。極自然に話が進んだのでつい話を流したが、どう考えてもおかしい点があったのだよ。

 将軍は難しい顔で見に行った男を、そして周りの者を見回して告げた。


『待て。天守閣から聞こえてきて、天守閣に確認に行ったのだな?』

『ええ、そうです』



『江戸城の天守閣は、何十年も前に[明暦の大火]で焼け落ちたまま存在しないというのにか……?』」



 九郎はむせた。無えのかよ天守閣、と妙な焦りさえ覚えた。


「恐るべき二段構えの妖怪だ……! まさか歌声のみならず、消えたはずの天守閣さえ幽霊となって出てきたとはね……!」


 身震いをする石燕である。まさか土台から崩されるような妖怪が現れるとは思っても居なかったのだろう。

 船幽霊が井戸端で柄杓を要求していたり、雪女が薩摩に出現したり、千葉に東京ドイツ村があるようなものだ。


「ま、まあおい。そんなに深く突っ込むでない。多分──えーと、江戸城で一番高い屋根を天守閣と間違えたのだろうて。その見に行った」

「富士見櫓をかね?」

「そうそれ」

「しかし地の文にも天守閣と……」

「この世に地の文など無い。それこそ妖怪に惑わされたのだ。妖怪の多くは錯覚や勘違いというものだろう。いやあ恐ろしい」

「なんで九郎、怖がってるのに体温上がってるんだぜ?」

「気にするな」

 

 ドヤ顔で「ここが天守閣というものだ」とスフィに説明したようなしていないような羞恥感から九郎は目を背けた。

 石燕は指を立てて情報を追加する。


「更に五年ほど前に、江戸市中で起きた同時多発火事の際には天守閣で仮面をつけた集団が争っているのを見て、やはり天守閣の幽霊があるのではないかと続くのだが……」

「よし。怖い話だったな。今日は疲れたからもう寝るか」

「妙に九郎が話を切り上げたがっているわね」

「大人の事情じゃのー」


 九郎は自分でもよく知らない過去の土地で観光案内をするのは気をつけよう、と心に誓うのであった。

 





 ********






 かつて江戸は武士の都市であった。

 武士とは即ち戦士であり、公務員である。つまりは生産能力を持たない仕事に多くはついていた。

 彼らの生活の糧は概ね、幕府か藩から支払われる。それは現金であったり現金相応の米であったりする。

 しかしながら人は米のみで生きるにあらず。

 金があろうと米が溢れようと、他のものを生産できない武士はそれだけでは生きてはいけない。

 なので彼らの需要に供給するという形で、武士以外の民衆が江戸には集まった。飯、酒、女から借金の手立てまで、武士の生活は自分たちでは行えないことを、町人商人によって支えられている。

 しかし江戸中期にもなると、武士と町人の人口比は逆転し始める。将軍吉宗の調べたところによると享保6年には町人の数が501394人。これは戸籍を持っている者のみで、かなりの数が居たとされる無宿人は含まない。

 こうなれば武士から搾り取るだけではなく、町人向けの商売も手広く行われる。元禄文化などと云い江戸の文化が栄えだすのも、商売の相手が主に町人に移ったというのが理由の一つでもある。

 文化と商売は繋がっている。

 いかに豊かな生活をするかは、その生活を支える商業活動──即ち労働があってこそだ。

 それ故に江戸は労働者の街へとなりつつあった。


 さて。

 江戸の街で一人暮らしをするには、戸籍さえしっかりしていればさほど難しいことではない。

 労働者として様々な仕事がある江戸は思いついたその日に適当な労働が始められるし──ただし、許可制のものは除く──週に三日も働けば一人食っていくには十分であった。

 実際江戸には独身者が多い。先ほど述べた享保の人口約50万人の内訳も、


 男:323285人

 女:178109人


 になっている。労働者が地方から集まったので女よりも男の比率が高いのだ。

 単純に考えて町人の男のうち15万人は独身というか、相手は永久に見つからないと云っても過言ではないだろう。残念なことに。

 とはいえ独り身ではなく、女房子供ができればその分を養うためにも一生懸命働かねばならないのだ。

 そのような中で。

 女五人に男一人の共同生活を送ることになったある家では。


「──はい、それでは私の絵を高値にする絵描き収入向上会議を始めるよ!」


 幼女の姿をした石燕が、弟子である二代目石燕豊房と孫弟子にあたる歌麿を前にそう宣言した。

 屋敷の八畳ほどある仕事部屋。これまでの石燕の出版物や、購入した怪談本に巷説本などが綺麗に整理されて積まれている。石燕が使っていたときは乱雑な雰囲気だったのだが、豊房が部屋の主になってからはどれも丁寧に整頓されるようになった。

 部屋にある脚付きのボードめいた板書用の道具は色々と便利なので彼女の解説によく使われたものだ。それを見上げて、座った二人の弟子らは「はーい」と返事をする。

 ついでに部屋の入り口近くに九郎が座って様子を見ている。屋敷の無職仲間であった石燕が再び手に職を得るのを羨ましげに眺めているのかもしれない。

 

「さて私が天下に名高き幽玄鬼才の絵師鳥山石燕であったのは過去の話……」

「……本当タマ?」


 疑わしく歌麿が豊房を見ながら聞いた。彼はまだ知る人ぞ知るレベルの経歴が浅い絵師であって、石燕が活動していた頃はあまり絵師の世界に関わらなかったのだ。雨次の書いた本の挿絵をして二人で同人誌みたいなのを作ったりはしていたが。

 豊房が、すっかり威厳のない幼女姿になっている師匠を見て肩を竦めた。


「多少アレだけど、一応はそうみたいなのよね。後を継いだわたし的に面倒なのは、絵だけじゃなくて歌会にも呼ばれるし浄瑠璃の脚本にも呼ばれるし……」

「そうだろうそうだろう。弟子は苦労して師匠の偉大さに改めて気づくものだ」

「まあなんとかやれてるけど」

「……やれているのかね。こう、大変だったりは」

「大変というか面倒なだけかしら」

「……」

「ああっ先生が微妙に落ち込んでるマロ!」


 彼女には割りと多方面に才能があるという自負があり、それが周囲に対する尊大な態度にも繋がっていたりしていたのだが。

 まだ小さかった妹分の弟子が普通に自分の役割をこなせていると云われれば、そこはかとなくへし折られる気分であった。

 なんとか頭を振って話を戻す。


「とにかく! 今の私は幾ら絵が上手かろうが、無名絵師の一人であって版元も客もそう簡単には絵を手にとってくれないだろう。世間は流行に載せられやすく、新規参入は大変なのだ」

「まあ……そうよね。実際、私でも妖怪画以外となるとそこそこだもの。はなぶささんのところか、鳥居さんのところの絵師の方が広く絵が売れているわ」

「ボクは吉原で微妙に非合法っぽい版元から依頼されてるのが多いから世間的な知名度は問題外マロ」


 なお石燕が所属する狩野派は大名御用達の高級絵師であって、町絵師的なものを描くとなると品性の問題から破門を受けたりもする。

 ただし体面的なものであり交流は続くことも多いのだが。

 石燕はきらりと眼鏡を光らせた。


「歌麿くんの目の付け所は間違っていないよ。無名絵師が成り上がるには三つ。売れている師匠の作品の模倣から入るか、版元の猛烈な押し出しを受けるか……或いはとにかく絵を売ってしまって、世間から評価を得るかだ」


 版元として仕事を行うには奉行所に許可を得なければならない。そしてその正規のルートでは無名絵師は相手にされない。

 そうでない非合法な出版をするには二つ。一つは瓦版として配るか、或いは権力の手入れがされにくい吉原にあるモグリ版元にツナギを取るかだ。

 瓦版の手工業では絵を版画にする際にいかにも素人の作業となると、字ならまだしも絵は難しい。版木職人は職人と呼ばれるだけあって、非常に細かな作業で時には絵師の肉筆以上に板木を削って作り上げるのだ。一朝一夕で身につく技術ではない。

 例えば、美人画の髪の毛。完成された版画を見ると、微細で流れるように髪の毛の筋が浮かんで一本一本が分かれているかに見える作品がある。

 だが絵師が実際に描いたところでは、髪の毛は輪郭線しか描かれておらずにその内部の表現は完全に版木職人任せだったりするのだ。

 名前も残らぬ版木職人だが中には絵描きの評価を左右する超絶技巧の持ち主が何人も居たという。


「歌麿くんの絵を見るに……」


 と、持ってこさせた歌麿の描いた吉原の太夫を描いたものを見て、


「中々腕の良い職人を吉原の版元は持っているらしい。これならば新規参入も可能かもしれないね」

「……ところでマロや」


 九郎がふと気になって歌麿に尋ねてみた。


「お主の姉貴分であった紫太夫は──」

「うわーうわー!」

「頭を抱えて転げまわった!?」


 げっそりと青い顔をしながらも、核シェルターの外で死の灰を浴びた拳法家のような儚い笑みを見せて歌麿は云う。


「幸せにしているマロよ……? ボクが行く前に吉原抜けたけど! 真面目が取り柄な貧乏幼馴染と祝言上げたけど! やっすいボロ着物で化粧も出来ない食事も貧相な生活してても子供作って幸せそうにしてるけど!!」

「お、おう……」

「むきょきょー!! 姉さんが吉原に身売りされる前にちょっと仲よかった関係だっただけの男め! ちくしょう! お幸せに!」


 金を稼いで、太夫をしていた頃に世話になっていた相手を抱きに行こうと考える歌麿も相当アレだが。

 結局それは果たせなかったようであった。彼が吉原から抜けたときにはもう、紫太夫も二十を越えていて借金も払い終えていたから順当な引退だろう。

 今は目黒の農家で嫁入りをしている。彼女の実家もそのあたりにあるそうで、昔馴染みの男と一緒になり泥まみれになりながら働いている姿は、太夫として吉原を練り歩いた姿とまったく一致しないであろう。ただし、彼女は今とても幸せそうであったという。

 憧れの姉が幸せならばそれは嬉しいという感情と。

 寝取られたような後悔によって歌麿にとっては非常に複雑な心象であるようだった。


「ううう……兄さんは紫太夫のところ通ってたのに。堪能したんでしょう? ずるい」

「ほう」

「へえ」

「おいこら待て。確かに何度か足を運んだが、お主の様子を報告と世間話にだな……よし。この話題終了」


 九郎は無理やり打ち切った。言い訳をすればするほど立場がまずくなる気がしたのだ。

 男は常に引け目を感じるぐらいが丁度いい。

 意味は不明だがそんな言い訳が思い浮かぶ九郎である。


「歌麿くんの初恋消滅はひとまず置いておくとして、絵の売り出し方だよ」

「売り出し方?」

「まず漠然と絵を並べていたところで客は手に取らないものだ。その絵に対する何らかの属性を明らかにしなければね。吉原で売られている美人画だって、例えば店ごとに分かれていたり、年の若い遊女や年を食った遊女など売り場を分けたりしているだろう?」

「『もっと若いの、十歳前後の子が脱いでるの無いの?』とか注文をつけてくる同心が居るとか居ないとか聞いてるマロ」

「居るな。二人ぐらい」


 よりにもよって見廻り同心なので入っても不自然ではないという立ち位置に。

 しかしながら利悟は吉原どころか、深川や品川の色街でも気分が悪くなるというのに大丈夫だろうかと九郎は無駄に心配をした。

 とはいえ、最初からベテラン揃いの岡場所とは違い吉原は十代前半から見習いとして入り、二十過ぎには年季が明けるので遊技の平均年齢はずっと若いだろう。

 

「とにかく、絵を描いてそれがどのような種類の絵なのかを示しておくことを業界用語では、欲しい物を手繰たぐるという意味から[手繰(タグ)]をつける、と云うのだよ」


 初耳だ、と豊房も歌麿も感心したように、自分らよりずっと絵師経験の長い幼女を見遣る。九郎のみ胡乱げな眼差しだった。

 石燕は取り出した妖怪画をボードに貼り付ける。米粒か何かが裏についているのだろう。

 墨一つで描かれているが濃淡の味わいが深く、線も迷いがない素人の九郎から見てもよく出来た[ろくろ首の女二人が向かい合っている]絵であった。慣れない手指の動作もあって単純な腕前は豊房に残念ながら一歩先を行かれているが、それでも石燕は絵が達者である。

 妖怪でありながらもろくろ首の振り向き顔はハッとするほどに美人であり、伸びたうなじの白さも光るように白黒二色だというのに表現されている。

 

「例えばこれに手繰をつけてみよう。さしずめ、[妖怪画][石燕風]と云う風にすればすぐにああ妖怪の絵だな、鳥山石燕っぽい画風だなと興味がある人が手に取るだろう」

「そこまではひと目でわかる情報よね」

「ならば手繰を増やそう」

 

 石燕は貼り付けた妖怪画の隣に白紙を貼り付けて、細かな字で手繰を書き加えた。

 [妖怪画][石燕風]と続き、


「[女同士][妖怪姦][評価者百人]……」

「いや待て。誰だその評価者の百人」

「いいんだよどうせ確かめられないのだから。ええと他には[もっと評価されるべき][この発想はなかった]」

「自分でつけることか!? そのタグ!」

「[作者は鬼才][←変態の間違いでは][ご褒美です]」

「自演はよせっ!」


 次々に変なタグをつけ始める暴走石燕を止めた。何か触れてはいけない問題に関わりそうだったからだ。

 体が小さいので九郎に抱きとめられると抵抗もできないが、ジタバタと蠢く。


「そのようなことをせずとも石燕の絵は評価される!」 

「いい物なら何もしなくても評価されるなんてのは素人の考えだよ! できるだけの宣伝はするのだ!」

「ま、まあいいじゃないですか兄さん。手繰をつけるのはボクがやれば」

「そうよ。まずはとにかく売れるのが一番だもの。……ところで先生。画号はどうするの? 石燕はやめてよね」

「それはさすがに名乗らないが……はて、どうしたものか」


 弟子に譲り渡した石燕の名を使うのは憚られる。

 ちなみに歌麿の場合は画号を[豊章]、俳号を[木燕]としていて師弟関係である豊房石燕からとっているのが伺える。


「そうだな……では若燕ちゃんということにしておこう」

「適当だのう」

「なあにこういうのは本来の名前にもじったものを付けるものさ。そして読者が気づくかな? 気づくかな~?ってチラチラ反応を確認するのが楽しい」

「それで気づかれるのわたしじゃない」


 不満そうに豊房が云う。


「はい! はい! ボクも自分の名前にもじった春画号を考えてるマロ!」

「どんなだ?」

うたまろ(・・・・)をもじって[むだまら(・・・・)]!」

「普通に最低だ!」


 ※実際に使われた。

 その後も三人で、どうやって石燕をデビューさせるかや絵師としての収入増加会議を続けていたので九郎は今の段階では手を貸せることも少ないかと判断し、部屋を出た。

 表の出版業界は豊房のコネが強く、モグリの出版には歌麿が詳しい。吉原出身だけあって、元玉菊太夫だということを隠してはいるがそこはかとなく色街に馴染む立場なのだという。

 屋敷の廊下を進みながら、午後の茶と菓子でも食おうかと相手を探す。


「おーいスフィ。茶でも飲まぬかー……って居ないのか?」

「おや? 九郎君。周布すふさんはお八ちゃんと出かけたでありますよ?」


 風通しの良い縁側で干したわかめと紫蘇、胡麻に塩を調合していた夕鶴がそう応えた。

 一応訂正したものの、彼女はスフィのことを呼びやすく国元の人である[周布]さんと呼ぶことにしたようだ。


「そうなのか」

「なんでも、三味線を覚えたから試しに路上で演奏してみるとかで。お八ちゃんが知ってる、大道芸の簡単な許可の取れる寺に向かったそうであります」

「そうか……遊びに出たのではなく仕事か……」

「では自分も、午後のわかめしそ販売に出てくるであります! あ、お菓子は台所に置いてあるでありますから好きなだけどうぞであります!」

「ああ、気をつけてな」


 送り出して九郎は台所から小玉で無地柄の西瓜を一つ取る。残りは[氷結符]で桶に氷水を作り、中に入れておいた。

 それを四等分にして冷えた茶も用意し、誰も居なくなった縁側に座ってしゃくりと齧った。

 少し甘みが足りない。塩を振って調整し、また食べる。

 じりじりと夏の日差しが降り注ぐ中、どこからか野菜売りの声が響いていた。

 屋敷の中では絵師三人が打ち合わせをして、外では歌い手と手伝い、ふりかけの販売に女達が出ている。

 そんな昼下がりのおやつタイムに、九郎は一人でスイカを齧っていた。


「……己れも仕事を探すか」


 誰しもがそうだけれどヒモだとて仕事をしたくなるときはあるのだ。

 しかしながら、すぐに仕事を探すにも誰かの部下になるのも面倒で自分のペースで働きたい。

 つまりは企業だが、九郎が売れるものとなると例えば術符の能力がある。

 綺麗な水と江戸では希少な氷がぱっと思いついたが、


(水は確か一杯4文で、氷は大々的に売るには問題があるな……)


 水売りも居るには居るのだがさすがに安い。他人にやらせるならまだしも、自分で売り歩くとなると苦労多くして益が少ないだろう。

 氷などはもはや将軍などしか手に入らないものだから、市中で売っていたらわざわざ氷室から運んでくる加賀藩などから睨まれること請け合いだ。


「日雇いで出来る仕事に詳しいものは……」






 ********





 翌朝早くに。

 屋敷に迎えに来た、日雇いで即日できる仕事を与えてくれる相手と九郎は会っていた。

 他の者にも彼を紹介する。


「こやつは仕事を転々とさせたら江戸で随一の男、朝蔵だ」

「へへっ朝蔵でやんす。ざっと三桁は転職をしている専門家とはおれのこと!」


 自慢気に胸を叩く、江戸のどこにでも居そうな町人風の顔に髷、服装をした男である。まったく特徴というものが無いのが特徴とでも云うように平凡な雰囲気を出しているが、目つきは少しばかり自嘲の色が見えた。

 朝蔵という、まさに江戸に住む独身者を平均したら生まれそうな男であった。

 その仕事ぶりも、野菜売り魚売り水売り瓜売り蕎麦売り甘酒売りお面売り煎餅売り箒売り唐辛子売りなどから、茶碗買い灰買い古着買い空樽買い草履買い破れ鍋買い古傘買い蝋買いなど多岐に渡る。

 それらをスッと始められるのも、実のところ朝蔵が忍びの生まれであってどの街でも商売で入れるようにしたという訓練の成果なのであるが。

 

「ああ、何度か見かけた……ことがある気がするぜ?」


 お八が思い出しながら云う。

 この朝蔵という男、普通の仕事のみならず辻斬り強盗の真似事までしたことがあり、その相手として迂闊にもお八の師匠である晃之介へと襲いかかって捕まったことが晃之介や九郎との縁であった。   


「録山の旦那はお元気で?」

「ああ。弟子が集まらなくて困ってんだと。あんた月謝払って来たら喜ばれるぜ」

「そいつはご勘弁を! とてもおれなど身につくものではない」


 ぶるる、と身震いをしながら朝蔵は笑った。

 普通に考えれば、町人として日雇いで日々過ごしているいい大人が今更あの厳しい修行を行えるものではないから断った──とお八は納得した。

 実のところ晃之介の武名は道場の寂れ方とは反比例して、江戸の裏ではかなり浸透していたりする。

 この朝蔵も遠目にだが、晃之介が山を崩し木々をなぎ倒して悪霊に憑依された九郎に打ち勝つところを目撃しているので、とても自分がやるような武術ではないという思いであった。


「ともかく、今日は朝蔵から仕事を分けて貰い真っ当な仕事で働きに出てくるからのう」


 九郎がそう宣言すると、女達は顔を見合わせて頷いた。


「そうなの。偉いわ九郎」


 にっこりと笑った豊房の顔から九郎は何故か目を背けた。


「お弁当持っていくぜ? 握り飯ならすぐ作れるからよ」


 お八の励ますような口調には何も含むところは無いというのに、思わず九郎は首を横に振る。


「クローの勤労意欲には頭が下がるのー、大したものじゃ」


 素直に感心している様子なスフィの言葉から耳を塞ぎたくなった。


「疲れたら休憩に戻ってきていいからね?」


 優しく云う石燕の誘いには頷けず、


「今晩は御馳走を用意しておくでありますよ」


 夕鶴の言葉で九郎の罪悪感は膨れ上がった。


「よせっ……たかが働くぐらいで優しくするな……!」


 逆につらい気分になるのはなぜだろうか。朝蔵が凄まじく生暖かい目で見てくるのを、九郎は振りきって背中を向けて屋敷を後にするのであった。

 厳しくされては後ろめたく、優しくされては泣きたくなる。難しい立ち位置の九郎である。

 朝だというのに外の日差しは強く、早くも九郎の心の中には勤労意欲がめげてくる。

 女に同情を買うために働くのではなく、働こうと思ったから働きに出たというのに。

  

「……もう九郎の若旦那はまったく儲からない助屋を看板あげれば?」

「うるさいわい」

「別にそこまで気にしなくてもいいと思うがなあ……」


 朝蔵は仕事に詳しいだけあって様々な生き方を見ているので──。

 江戸の世間には普通に、女に養われながらも周りから細長いアレだと云われない仕事はあることを知っている。

 それが同心の岡っ引きであり、影兵衛に頼めばすぐに戻れるはずなのだが。

 岡っ引きは同心の都合であれこれと町中に密偵の如く動きまわったりしなければならず、定職を持っていては難しいので嫁が働きに出て生活費を稼ぐことが多い。同心から岡っ引きに渡される給金はほんの僅かだからだ。

 それでいて周囲には尊敬される立場なのだから、九郎も堂々とそう名乗ればいいと朝蔵は考えるものの……


(まあ……このご時世、五人も女を囲ってるとんでもねえ独身者の敵だ。少しばかり実生活が大変なぐらいがいいだろ)


 十五万人居る江戸の独身者代表として、朝蔵は冷たくそう考えた。





 *******





「さて、今日からでも始められる商売と云やあ、棒手振り商売だ!」

「うむ」


 棒手振りはその字の通り、時代劇などでもよく登場する棒の両端に商品を載せた籠や桶などを吊るして訪問販売する営業職である。

 特に許可制があったわけではないので道具さえ揃えればすぐに始められる。

 

「とは云っても、野菜や魚なんかは年がら年中棒手振りがやってるわけで、良い商品の目利きや販売場所の順番なんかは向こうが先にやっちまうからとても敵わない」

「まあ……もう魚を買った長屋に持って行っても誰も買うてくれぬのは当然だからのう」

「そこで狙い目は季節の物売り。年にその季節でしか売れないものだから、あまりこだわる業者も居ねえもんでやりたい奴が十分に参入できる。今回は九郎の若旦那に[朝顔]を売ってもらう」

「朝顔か」


 江戸の住民は園芸趣味を持っている者が多い。海外から来た南蛮人が、街には庶民が花を育ていてとても驚いた記録が残っているほどだ。

 夏場によく育てられるのは茄子などの実用的な野菜と、朝顔である。


「特に朝顔は子供にも大人にも人気。最近は育てた朝顔の品質を競う[格差性(アーサー)]とか云うのが流行っているとか」

「なんでも勝負事に発展するのう、江戸は」

「まずは売る前に商品の仕入れからだな」


 朝蔵はついてこいとばかりに、九郎にもまず棒手振りの棒と籠を渡して浅草方面へと早歩きで進み始めた。


「朝顔自体は既におれが育ててるんだけれど、売るとそこで無くなっちまうから売る前に仕入れて、苗を植えておくんだ。上手くいけばひと夏で何度か育って売れる」

「これから向かうのは苗屋か?」

「いや、まずは鉢を買って土を入れて持っていくと、苗屋はその値段分割引してくれるって寸法だ」


 云いながらもさっさとした動きで街を歩いて行く。

 朝の江戸は忙しなく歩いている者が多い。それこそ、棒手振りからすれば市場が始まり先に物を売ったもの勝ちなのだから急ぐ事情があるのだろう。

 朝顔の場合はそこまで焦る必要が無いが、やはりこれも朝から昼までの間に売るのが普通であった。


「場所は浅草?」

「浅草の溝土を使うのが朝顔売りの常識なんだ。何せあそこは溝さらいをする鳶職が少ないから、土を持ち去っても誰も文句を云わないので苗売りが持って行っていいことになってる」

「ふぅむ考えられておるな」


 そして浅草にはその土を持って帰るようの鉢を専門で売る店もあった。

 店頭に並べてある鉢は、かろうじて鉢と云えるかと九郎が思うようなすり鉢状の簡単な作りで、陶器ですら無く天日乾燥させた土器であった。雨で濡れれば溶けそうというか、この鉢ごと庭に植えられるようになっているのだろう。

 店の名は[闇の土器]である。


「……闇の!?」

「おうすまんね。朝顔用の鉢をくれ」


 何が闇なのかは不明だが、片目が潰れていて長い棒を持った店主に話しかけて、頑丈そうな土器を選んで籠に並べ始める。

 九郎もそれに習って、片目が潰れていて七節棍のような長い棒を持ってこちらを見ている店主を気にしながら鉢を選んだ。

 鉢は一つ4文。九郎と朝蔵は二人で50個購入した。多いように思えるが、前後の籠一つに十二、三個ずつ並べると考えればそのぐらいは持てる。朝蔵の仕入れなのでここは彼が200文払った。

 そして二人して浅草の古溝へと向かい、竹製のヘラで溝土を浚った。

 朝だというのに日がじりじりと身を焼き、俯いて作業をすると目の前に汗の粒がぽたぽたと落ちて何度も汗を拭う。

 生活用水がいつも流れ出る溝は土も水っぽいので朝顔の土には使いにくいから古溝を選んでいるが、それでもむわりとしたやや腐ったような水の匂いで息苦しいほどだった。

 足まで溝に浸かり、手を黒くしながらも二人は手早く土を取り終えた。


「よし、次は苗屋だ。本当は種から育てたほうが安くつくんだけれど、苗を買った方が早いでゲス」

「ゲス!?」

「実際、花が咲いていない苗だとそこそこ安いし」

 

 やはり他にも朝顔の苗を買いに来る客の規定コースなのだろう。浅草近くには朝顔の苗を売ってる店があった。

 [激動河原咲かわらざき]という店はその名の通り、川沿いの今戸町にて苗を並べている。別に激動はしていなかった。髭をたっぷりと蓄えた店主が出迎える。

 ここでは持ち込まれた土を改めて肥と混ぜあわせて、朝顔の生育に良い土に変えることもやっている。

 鉢と土を苗と交換すると苗代も4文だった。安く感じるが、店主は持ち込まれる土を混ぜて鉢に戻し、タダ同然の種を植えて水を入れるだけで一日に何十個も苗が売れるのだからボロい商売である。材料まで持ち込ませるという方法で、人手を使わずにやっていけるのだ。

 そして二人はえっちらおっちらと苗を担いで一旦朝蔵の長屋に戻った。

 庭があるわけでもない小さな長屋だが、部屋か裏長屋の一番後なので少しばかり広く外を使える。そこに彼は朝顔の苗を並べて育てていた。

 

「おお、しっかり花が出来ておるな」

「だろう?」


 支柱の添え木もついていて蔦を巻きつけ、二つか三つほど花をつけている朝顔がやはり五十並んでいる。

 それとまだ苗の物を籠へと積み替えた。

 そして朝蔵は販売の説明をする。


「さて、九郎の若旦那。あとは自分で売れそうなところへ向かって売るだけだが……まずこの朝顔は仕入れの最低値として8文掛かっているよな?」

「ああ」

「他にも諸々育て賃も考えて、おれは一鉢30文で売るわけだ。そうすれば50個売ったとして、400文の仕入れで手に入る金が1500文。儲けが1100文ってところだ。単純に計算してな」

「中々の儲けだのう」


 1文20円で計算すれば22000円となる。

 例えば野菜売りの一日の稼ぎが200文から300文であることから考えれば中々の収入だ。少なくとも、この朝顔だけで独り身のメシ代には一ヶ月は困らないだろう。


「ちょいと良い色の花や形がいいのがあれば、武家の方で40文とかで売ったりもするけどな。何せ幾ら金無し侍とはいえ、嫁は少しぐらい彩りが欲しいと思っているところが多い」

「ふむ。値段の相場は決まっておらず、好きにしていいのか」

「少なくとも文句を云われたこたあ無い」


 それで、と朝蔵は云う。


「今日は若旦那の分け前の方だが。一つ朝顔を売る度におれに10文で、残りはそっちの取り分でいいぜ」

「ふむ……」


 それが九郎が売る朝顔の仕入れ値ということになる。

 実際九郎が育てたわけでもない朝顔なので、10文は破格のサービス料金だ。朝蔵も少しばかり九郎に引け目を感じることがあったので、勉強と思って商売道具を分けているのだろう。

 つまり二人が仕入れた分を売るとなればその儲けは、


 通常の場合:朝蔵が50個販売→1500文の売り上げ引く400文の仕入れ値=1100文の朝蔵の儲け。


 今回の場合:朝蔵が25個販売→750文の売り上げ引く200文の仕入れ値=550文の朝蔵の儲け。

       九郎が25個販売→750文の売り上げ引く250文の仕入れ値=500文の九郎の儲け+50文の朝蔵の儲け。


 と、なる。

 半分を売りさばく労力を得ずに50文儲けると云えば楽だが、自分でやれば550文の仕事を人に譲るのだからお人好しでもあった。

 とはいえ、これは朝蔵だけではないのだが江戸の住民は基本的に真面目に働かない。怠けるのは普通で、金に余裕があればあらゆる仕事を他人に手伝わせて駄賃を支払う。

 なので、「ここで頑張って一ヶ月分の生活費を稼ぐぞ!」という感覚は無くて「適当に稼いで無くなったらまた商売すればいい」と思うのが江戸フリーターの生活だった。


「あとその刀は朝顔売りにはふさわしくないので外していくように」

「わかった。お主の部屋で預かっても良いか?」

「こんな普通の町人の長屋に、そんな業物が置かれてたら事件ですぜ。……ここの隠し扉の中に」

「あるのかよ隠し扉」


 そして笠を被って籠を担ぐ。

 鉢を落とさないように腰を落として揺れを少なくした。二十五個の土製の器に入れられた朝顔はずしりと重い。


「それじゃあここで別れてそれぞれ売りにいくでゲス。ここは!といった売れる場所は無いんで適当に探してくだせえ」

「うむ。わかった。それではな」

「昼過ぎぐらいには多分長屋に戻ってるんで」


 そう云って手を振って別れた朝蔵を見送り、九郎は「さて」と考えた。

 

「漠然と売っていても利益は見込めまい。己れは素人だしな。まずは詳しい者に話を聞きに行くか」


 花に詳しい商人。

 となると真っ先に浮かんだのが薩摩の[鹿屋]であった。

 武士は花の栽培・販売をよく行っていて薩摩藩でも奨励されていた。育てた武士がそのまま売るわけではないので、必ず商人を通していたと見れば畑違いといえども鹿屋が詳しい可能性は高かった。

 実際、武士の仕事と見られていた花の栽培・販売を朝顔とはいえ町人が行っていたことに関しては「これは花を売っているのではなく鉢植えを売っているのでして。たまたま何らかの草が生えていますが」という言い訳によって許可されているのである。


「花屋……といえば随分と懐かしいのう」


 日本橋へと鉢を運びながら、九郎は思い出に浸った。

 記憶にあるのは少年時代から幼馴染であったとある少女。どうしても地味な感じが拭えないが実家がヤクザという娘。

 彼女が大学を卒業した後に都内で花屋を始めたのであった。


『く、く、九郎、くん。ほら、お花、海外のを取り寄せて、売るんだ、よ? アフガニスタンから輸入した芥子ポピー、綺麗、だ、ね?』


 露骨に怪しい花を見せてきたことも今では懐かしく思う。まあその後彼女はムショにぶち込まれたのだが。





 ********




「チェ────ェイッ!! 九郎どン、どげンしたとかチェ──イッ!!」


 ぱりん。ぱりん。鉢が二つ割れた。


「エエエーイ! 花ば売っちょっとかチェ、チェエエエイ!」


 ぱりん。ぱん。ぱん。三つ割れた。

 薩摩人の気合の声で脆い鉢はひび割れていく。

 実際、江戸時代に薩摩にあった示現流の道場では稽古が始まると湯のみなどを戸棚に直さなくては破損したという。


「やかましい! 朝っぱらから意味もなく叫ぶな! そして割るな!」

 

 スフィの衝撃音波に似た効果を出す薩摩人はやはり異世界人に近いのではないだろうか。

 そう思いながらも九郎は叫びを止めさせた。

 以前訪れた九郎の助言により鹿屋は再び活気を取り戻しつつあり、[波布銘腎]企画を進めつつ通常営業が戻っている。


「ややっこれは九郎殿。今日はどうなされましたか」


 すっかり元気になってきた鹿屋黒右衛門が九郎を出迎えたので、座敷に上がり鉢を見せた。

 破損した鉢は店の者に頼んで簡易的に修理させている。


「お主はこれの値段をどう見る?」

「ふむ……普通の朝顔ですな。私が売るとしたら三十六文ぐらいまででしょうか」

「やはりそれぐらいだよなあ……薩摩では花の栽培をしているとか?」

「ええ。朝顔もありますとも。琉球朝顔と云いまして、青が美しいものが。とはいえ藩内では武士の仕事ですので江戸に持ち込むには少し手間が掛かり、その手間と儲けを考えるとあまり気乗りはしませんが……」

「いやな、売れる花というのはどういうものがあるかと思って。同じ種類でも値段が変わったりするものか?」

 

 九郎の質問に鹿屋は暫し考えて、


「そういえば……薩摩で植えた朝顔で、綺麗な丸に十字の模様ができましてな」


 指で簡単にそれを描きながら云う。非常に覚えやすく描きやすいその形は、


「島津の殿様の家紋です。それはかなり高額でお殿様に召し上げられたと聞きましたが……」

「なるほど、模様か……うむ? 似たような話を世界史で学んだような」

「参考になりましたか?」

「ああ、わかった。ありがとうよ。なるほど、ならば意外と……」


 九郎は鹿屋を出て朝顔を持ち、武士が多く住む番町へと向かった。

 

 番町は旗本屋敷街であり、道が入り組んでいてみっしりと多くの武士が住居を持っている。

 それらの多くは個人の持ち屋敷ではなく役宅であり、幕府の人事異動が行われる度に引っ越しの騒ぎとなった。

 故に、庭に花を植えるにしても屋敷を変えるとなれば掘り返すわけにもいかないので、鉢植えの花が売れるのである。

 そして九郎は売り歩く前に、ひと目のつかぬ路地裏に腰を下ろして鉢植えを一つ取り上げた。


「さてと、やれるか……?」


 手に小さく取り出したのは極小の黒い虫が集合したような不快さを持つ、ぞわぞわとした漆黒の霞がかった鎌。

 病毒鎌ブラスレイターゼンゼである。

 江戸を軽く滅ぼせる疫病を持つその鎌を使って、慎重に朝顔の花に触れた。

 そして、中にウイルスを送り込む。

 即座に発症した病気は鎌の能力で効果を発揮する……!


「……よし、こんなものだろう」


 九郎は出来上がりを見て満足気に頷いた。

 紅白色をした朝顔の花が、赤と白のマーブル模様に変化していたのである。

 [ウイルス病]或いは[モザイク病]と呼ばれる植物の病気のそれは、掛かれば葉が黄色くなったり斑点が出来て醜くなるのが普通だが──稀に美しい模様を作り出すことがある。九郎は鎌の能力を調整して、人工的にモザイクを作り出したのである。

 

「確かオランダではモザイク病のチューリップが高値になったのだったな。朝顔ならばチューリップと違い、球根が残らぬし一代限りだから広まる問題もあるまい……お、この瑠璃色を螺旋柄にしたのもいい味だぞ」


 十七世紀、八十年戦争の後に独立したオランダで一大ブームになったのがチューリップ・バブルだ。

 老いも若きもチューリップに投資して様々な品種を買い求めたのだが、その中で最も高額だったのがモザイク病が美しいチューリップで、球根の値段は金貨1000枚にも上がった。

 江戸での朝顔ブームはバブルとまでは行き着いていないからそこまでは高値にならないだろうが、


「こうすると幾らで売れるのかまるでわからんな。まあとりあえず十倍の300文ぐらいで売るか」


 売れなかったら値下げをして様子を見ればよいと判断した。

 一種異様なまでに模様が変質した、紅白、瑠璃色、柿色、浅葱色など様々な朝顔を持って九郎は通りを歩き始める。

 

「あーさーがーお~現物限りの珍しい色だよ~♪」


 九郎が設定した値段は300文。

 そして売るのは、およそ江戸では誰も見たことがないような特殊な模様をした朝顔である。

 武士の嫁というのは身分が低くても他家の女に侮られてはならないし、自慢できるものは一つでも欲しい。珍しい花など話の種に持って来いだ。

 そして値段の300文。十倍にした九郎はそれでも結構高いと思っている。何せ元手が殆ど無いのだから当然だし、普通の長屋に住んでいるのならば二つも売れば一月分の家賃になる価格だ。

 しかしながらそれは庶民の感覚であり、高い飯屋で鰻飯と酒の二合でも店で頂けば300文ぐらいにはなる。それぐらいを節約して、限定品の花を買う金は旗本の奥方には十分あった。

程々の高値も、逆にその朝顔が真に珍しいものだという説得力を生んだ。これがもし安売りされていたら、むしろ怪しまれただろう。

 

 つまり昼前には九郎の持つ限定品の朝顔は全て売り切れたのである。


 売り上げ:300文掛けるの25個で7500文、マイナスの仕入れ値が250文=九郎の利益7250文(一両と三分と一朱)


 ウイルスを使うというずる(チート)によって、かなりの利益になった。

 あまりにも儲けすぎる上に他人の商売に乗っかったものだから気が引けた九郎は、とりあえず朝蔵には彼が得るはずだった利益の550文をそのまま渡した。


 余談だが。

 江戸中後期から江戸の朝顔は大流行を迎えて、様々に品種改良が行われたりする。

 そして変異種の美しいものには五両十両といった値段がつくようになるのだが……

 どこかの金持ちが、どこかで見かけた変異種の朝顔を求め始めて流行を作り上げたとも云われている。





 ********





 そうして九郎は稼いだ金を家に入れて、少しだけ豪華な夕飯を皆と食べた。

 労働によって得た正当な収入で食べる食事は旨く、程よい疲れを風呂でゆったりと癒すのは気持ちがよかった。

 皆も九郎を見る目が少し変わったように思える。


「皆! しっかり味わうのだよ! 九郎くんが……っ、花を売ってでも稼いできたお金なのだから! ううっ」

「誤解を招く表現をするな! 朝顔だ朝顔! 石燕お主、後でお仕置きだ!」


 ※ちゃんと誤解は解いた。

 そして風呂にゆったりと入り、一日の感想を思い浮かべる。


「暫くは働かなくて良いな……」


 湯船で体を伸ばして、染み染みと呟いた。とりあえず営業をしてみたものの、毎日やりたいとは決して思わなかった。

 明日からまた細長く生きる彼の日常が続く。時折、発作的に働きながら……。




今日の布団ガチャ


石燕「……」

九郎「何をしておるのだお主」

石燕「いやだって、あとでお仕置きって言ったではないかね……!」

九郎「」


この後尻を叩いてみたところ、被虐気質なのか案外喜んだことに九郎は軽く引いたが、哀れなので一緒に寝てやった。

おねしょはされた。

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