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挿話『膝と録山晃之介』

 二、三日干された地面の埃が舞う、からっ風が強く吹いている。

 道の脇に広がる田圃には青々と成長した稲が揺られ、渡り鳥の鳴き声が微かに聞こえた。

 神田の外れにある道場にはその日、客が来ていた。突然の来訪だったが、一人鍛錬をしていた主の録山晃之介は堂々とした態度で受け答えをして、とある約束を交わしたのであった。


「承知致しました。必ずその刻限に参上致しますとお伝え願います」

「では、これにて……」


 会話を終えて晃之介は正座のまま礼をし、紋付袴を着た侍も返して道場から立ち去った。

 侍が二人、出て行く所を、稽古に着たお八が目撃して思わず近くの木陰に身を隠してしまった。立派な、彼女の呉服屋でも大名屋敷に届けるような袴である。それに二本を差した侍が二人、師匠である録山晃之介に一体何の用であったのか……

 遠くに去っていくのを見送ってから道場に駆け込むなり声を張った。


「師匠! どうしたんだあれ? 果たし状でも持ってきたのか?」

「果たし状か……」


 今だに座ったままの晃之介はようやく足を崩して、短く切った髪に手を当てながら唸った。


「果し合いならまだよかったのだが……」

「どうしたんだよ師匠らしくねえ。どーんと構えてろよどーんと」

「無理だ……どうしてこんなことになったんだ」


 事情を知らぬお八に答えながら、とりあえず事の発端を共有する友人に相談せねば、と思う晃之介であった。



 

 ****




 江戸の侍を騒がせた、刀を奪っていく辻斬り騒動は報告にあった被害者数よりも多く行われていた。


 なにせ武士の心たる刀が、不意打ちとはいえ斬り殺されて奪われたのだから表沙汰にされては恥だとするのも当然のことであった。

 奉行所や火盗改が辻斬りを探していたと同様に幾つかの大名家でも辻斬りへの追手が掛かっていたらしい。

 それを妙な縁で九郎と共に捕らえたのが晃之介であった。

 だが、九郎の面倒事を嫌う性格から辻斬り捕縛の功績は晃之介のみが貰っている。これに関してはお互いに、貰った報奨金を一晩で使い潰したので貸し借り無しとしていた。

 辻斬り捕縛とともに刀を京都や大阪に流して売っていた商人も捕まり、幾らかの刀は取り戻されたのだが……


 その刀を奪われた被害者に、柳川藩十万四千石・飛騨守立花家の御徒士が居たのだ。

 御徒士というと、大名行列を行う際には警護を担当する武士であり、それが辻斬りに襲われた挙句刀を奪われたとなると、武士社会の中ではとんでもない事であった。

 幸いにも内密に事は解決したが、それが参勤交代で江戸に来た柳川藩藩主・立花鑑任あきたかの耳に入ったのである。

 立花は部下の失態を叱ったが、見事に膝に矢を当てて賊を捕らえた録山晃之介という浪人に興味が湧いた。

 それでわざわざ部下を寄越して晃之介を大名屋敷に呼んでのである。


 晃之介はお八を連れて緑のむじな亭へやってきていた。

 暖簾をくぐり、中に入ると少しの客がたたみいわしなどで酒を飲んでおり、いつもの様に小袖に前掛けをしたお房が居た。

 二人に気づくとお房は、


「いらっしゃい、晃之介さんとお八姉ちゃん」

「ああ。そうだな、昼飯も頼もう。二人分こさえてくれ」

「大盛りで頼むぜ!」

「はーい」


 と、声を上げて厨房へ向かう。

 大体、蕎麦をやらぬ時期のむじな亭の定食と言ったら、米と汁に一菜と漬物である。

 その日は米が鯵飯だった。これは、米を炊く時に醤油を少し入れて塩気をつけ、炊き上がった米に鯵の干物を解して混ぜあわせて暫く余熱で蒸したもので、おかずが無くても飯が進むものである。

 作り方も簡単なので九郎が教え、時折これにしているのだ。客の評判もまあまあである。

 それに磯納豆をつけて出せば飯を何杯でも食える。納豆にしらす干しと海苔を混ぜた簡単なものだが、磯の香りが堪らない。

 基本的にこの店の料理は、店主六科の腕前の問題で混ぜるだけ等簡単に作れるものになっているのであった。

 

「ところで、九郎は居るか?」


 晃之介が腹ごなしをしながら、お房に尋ねた。


「九郎なら先生と江ノ島に旅行に行ったの。のんびり行くって言ってたから七八日は帰ってこないんじゃない?」

「なに!? あの野郎二人っきりで旅行かよ! ずっけえな! あたしも行きてえ!」

「江ノ島の海坊主だか海難法師だか、妖怪探しに行くって話だったからお八姉ちゃんにはちょっと……」

「よ、妖怪……は、ちょっと勘弁なんだぜ」


 張り上げた声が萎んでいくお八であった。

 彼女は、幽霊妖怪の類は大の苦手であるのだ。

 現代のようにスイッチを押せば家中の明かりがつき、外も街灯が一晩中灯っている暮らしではない江戸の時代においては、夜の厠や暗い細道などは大の大人でも恐ろしがるものが多かったという。

 一方でお八は暗闇はある程度平気であるのは、彼女が九郎と初めてであった時に夜歩きをしていたことからもそうなのだが──お化けという存在が格別に嫌いなのである。それも、両国にあるお化け屋敷で散々に脅かされたことがあって目を回してしまったことがあるからだ。

 そんな彼女の個人的事情はさておき……。

 晃之介は落胆したように顔を曇らせた。


「旅行か……九郎に相談しようと思っていたのだが」

「なにか言付けでもあるの?」

「そうそう、聞いてくれよお房! 師匠さ、飛騨守立花様の屋敷に腕を買われてお呼ばれしたんだ! 大名だぜ!? すっげえだろ!」

「あら、おめでとう。晃之介さん」

「ああ。めでたくはあるんだが……」


 何処か浮かれない顔つきで晃之介は、


「大名に呼ばれた事など無いからな、作法などまるでわからないんだ……」

「うーん、相談してもあの九郎が知ってるとも限らないの」


 礼儀などとは縁が無さそうな態度に見える、自分とさほど年格好の変わらぬ九郎を思いながら云う。

 お房は少し考えながら、


「むしろ、先生のほうが色々詳しそうだったんだけど……どっちにしろ居ないから仕方ないわ」

「そうなのか?」

「あの姉ちゃんなんでも知ってるからな。ひょっとしたら屋敷とかも行ったことあったかも」


 と、よくからかわれるからやや苦手にしている石燕のことをお八は称した。怖い話で脅してくるのには閉口する。

 ただ浮世絵師といえば今でこそ当時の世相を色鮮やかに描いた名画家達という印象が強いが、江戸の世に於いては『屑絵師』などとも揶揄される下に見られた職業であったために、大名屋敷に呼ばれるような事は無かっただろうと思われる。

 だが、元側用人の天爵堂や、高名な薬師安倍将翁とも付き合いのある鳥山石燕ならば作法に関する知識も持っていたかもしれない。

 どちらにせよ無い物ねだりだ。

 ひょんなことから思いもかけぬ大名相手と出会う事になった晃之介であるが、江戸のぶらぶらしている多くの浪人ならば怒りだしそうな幸運にも、どうも彼は胃のあたりが痛そうにしているのであった。

 生来の生真面目さから、余計に気負っているのだろう。就職活動もせずにフリーターをしていたら突然上場企業の社長に呼ばれたようなもので、大いに戸惑いを持っている。

 ふと、そんな晃之介に、厨房から出てきた六科が徳利を一つ持ってきて声を掛けた。

 家族と九郎以外には、話しかけられない限り唖のように黙っている六科にしては非常に珍しい事である。


「うむ。酒を飲むといいらしいぞ。お豊が云うには」


 駄目っぽいアドバイスをする六科であったが、それに気を抜かれたように晃之介は苦笑した。


「店主……気遣い、感謝する」

「二十文だ」

「……」


 別に奢りではないらしい。

 お八が晃之介をばしばしと叩きながら言った。


「まあ気にすんなって師匠。別に悪ィことして呼ばれたわけでなし、入り口まで行けばどうすりゃいいか向こうも指示出すだろ。どこそこで待ってろとか、後は適当に返事合わせておけば大丈夫だって」

「お八姉ちゃん……なんか九郎みたいな適当っぽさなの」

「ほっとけ」

「……そうだな、悩んでいても仕方ない。無礼をしなければいいだけの話だ」

「そうそう。ああ、着ていく物も変えたほうがいいな、師匠の見窄らしい服はちっと……」

「見窄らしいとか云うな。悲しくなるだろ」

「お八姉ちゃんの実家のお店で揃えたら? あそこはお武家さんも買ってるところなの」

「そうするか。頼むぞ、お八」


 お八は、言い出したからには後に引けず頷くのであった。



 

 ****




 お八の実家、[藍屋]に晃之介が訪ねて事情を説明すると主の良助は大層驚嘆したらしく、末娘の師匠である晃之介を、


「九郎殿からのご紹介からして並の御人では無いと思っていましたがまさか立花様に招かれる程のお手並みとは、無才我儘の娘などを預かって頂いて恐縮の限り……」

「止してくれ、それに、活躍の半分は九郎の功績なんだ。あいつはあまり表に出たがらないものでな……」


 と、謙遜するのだが、直接会うのは初めてである一介の浪人に対して素直に賛辞を述べるこの老舗の主は、武士を見る目があるらしい。そして、晃之介をそこらの浪人とはひと味もふた味も違うものだと見遣ったようだ。

 実際に立花家といえば武門で成り立った有名な大名である。外様であるが、こと西国においては比類なき弓取りの立花宗茂は百年前に活躍した武将であり、この当時既に講談や読本などで活躍が知られていたようである。

 その立花家から弓の実力を買われて呼ばれたのだから、これは相当に大したものである。

 同時に、素性の知れぬ浪人が来るということでその服装も藩士達の見る目は厳しいものになるだろう。

 良助は早速晃之介の採寸と、袴布の用意をした。この際だ、一番高いのを使ってしまおうと指示をだす。

 晃之介の希望も一応聞くがなんということのない、動きやすくして欲しいというだけだ。常在戦場という心構えを教えている六天流だから、正装といえどもいざとなれば戦える服が良い。

 ぐいぐい進んでいく晃之介の服のプランだったが、主人にか細い声をかけた。


「……主人。非常に悪いのだが、この服代はつけにしておいてくれないか。手持ちの金が無い」

「とんでもございません。うちの乱暴娘を躾けてくださる先生の御目出度いことだから無料で送らせてもらいます。ええ」

「そうか、ただか」


 晃之介は喜色を胸に隠しながら頷いた。

 相変わらず、金はないのだ。こうも金が無いと、


(若い時分から金を有り余らせるような生活をしていると心身の鍛錬にならぬ……)


 と、師でもある父に言われた──のように記憶を捏造してしまいたくなる。実際は言われていない。

 そう、俺は父の教えにしたがって貧乏をしているのだからこれも修行なのだと思えば多少は苦も楽に……


「ならないけどな」

「? 何がだ? 師匠」

「いや」


 ともあれ膝の皿に火がつくほどに生活が窮している訳ではないのだからいいか、と諦めた。

 しかし、


「立花様が俺を呼ぶとは、何の御用かは聞かなかったが……」

「録山先生のご活躍を耳にして、仕官の口でも利いてくださるのでは?」

「そうだろうか」


 仕官、となれば藩の一員。気楽な道場ぐらしは出来なくなるのではないか。

 それを思うと晃之介は少しばかり気の進まない思いをした。柳川藩程の大大名格への仕官となればそれこそ大出世なのであるが、


(道場を開き、六天流を人に伝えるのも父から受け継いだ役目だ……)


 と、思う。

 ようやく門下生が一人できた所なのである。それを畳みたくはない。

 ふと、お八を見れば彼女はただ純粋に、師匠である晃之介の出世を喜んでいる様子であった。

 取らぬ狸の皮算用をして気を悩む必要も無いか、と晃之介は成り行きに身を任せることにした。




 ****




 晃之介が藍屋で服を頼んでから、日を幾らか過ぎた。

 梅雨も終わって毎日夏と同じ日差しが江戸の街中に降り注いで、町人ら頭に手ぬぐいを巻いて汗を滲ませていた。

 さぞ旅心地も気楽だろうと今頃江ノ島近辺で遊んでいる友人を晃之介は思いやった。恐らくはせっかく江ノ島まで行ったのだから、近い大山詣りや鎌倉でゆっくりして帰ってくるつもりだろう。

 町を歩く人種が町人から武士の風体をしたものが多くなってきた。

 柳川藩の上屋敷は下谷御徒町にあった。現在の台東区のあたりである。ここは名前の通り、御徒……下級武士が多く住む土地である。そう遠くない場所の浅草にも柳川藩は屋敷を持っている。

 下ろしたての袴を着て腰に刀を差し、髪を剣術師範風に椿油で撫で付けて颯爽と歩く晃之介に、すれ違う者の中にはその堂々として涼しげな風貌に思わず振り向くものも居た。

 柳川藩は外様とはいえ大大名である。その屋敷も大きなものであった。幾つも晃之介を迷わすような小門があり、半周ほどぐるりと回ってようやく立派な御成門へと辿り着いた。

 門番に、


「私は録山晃之介と申します。立花様にお目にかかりにまいりました」

「録山殿でござりますな。御話は伺っております。まずは、入られよ」


 と、すんなり──ここですんなり行かなかったらむしろ問題なわけだが──中に通されて樒の間と呼ばれる部屋で待たされた。 

 暫く待つと、数日前に道場にやってきた御用人の西島詮房とであった。

 晃之介の亡き父程の年齢の、白髪がわずかに混じった初老の藩士である。

 

「よくまいられたな、録山殿」

「本日はこのようなお呼びを受けて恐縮の極みであります」

「そう固くなられるな。それに我が殿直々にそなたに会ってみたいと仰られてな」

「恐れ多くもありがたき事」

「鑑任様は武芸者を好んでおるからな、是非会ってみたいとのことだが……ところで録山殿」

「は……」

「突然で悪いのだが、今日は殿の前で弓を引いて的を射てもらう事になっている。弓矢はこちらで用意しておるが、大丈夫であろうか」

「承知致しました」


 突然の要求だが、当然断れるはずでもなく晃之介は口がすべるように承諾した。

 盗賊や獣を射る事はあったが、大名の前で射ることになるとは……

 何を悔やむかというと、


(忠告にしたがってここに来る前に酒を引っ掻けて来なければよかった……)


 ややぽわっとした頭は緊張のせいか酒精のせいか、わからぬまま晃之介は立ち上がった。

 彼は素直に人の云うことを利く男であったのだ。馬鹿正直とも云う。

 屋敷の廊下を進むと、大きな庭の隣接する本広間に通された。

 そこには重厚な雰囲気のある、紋付き袴の人物が座っている。周囲には家来も控えていてひと目で彼が殿様だとわかった。歳はそう老けているわけではないが、疲れた気配と陽気さを兼ね備えた妙な雰囲気を持っている。

 柳川藩藩主、立花鑑任である。鷹揚な声を出して晃之介を迎えた。

 

「おおっ! そなたが辻斬りの膝を射抜いて捕まえたものか!」

「はっ……録山晃之介と申します」


 晃之介が床に膝をついて頭を下げた。

 立花氏は疲労の色が濃い顔に笑みを浮かべて告げる。


「よいよい。我が藩の者の仇をよく討ってくれた。件の輩に斬られた藩士は先代より仕えていたものであったが……」

「は……」

「奴の形見だけでも取り返せた事を儂は嬉しく思うぞ」


 と、家来の中でも年若い男に目を配りながら云った。

 若い侍は頭を下げて晃之介を見遣った。彼はどうやら辻斬りに襲われた藩士の息子らしい。父が死んだとあり、柳川藩から急ぎ駆けつけたのだったがついてみれば仇は既にお縄に付いていたのだという。

 彼にしてみれば仇の一つでもとってやろうという意気込みだったのだが、拍子を抜かれたような……ともかく、彼は晃之介に頭を下げて礼を告げた。

 

「ところで録山は弓は何処の流派で習ったのだ?」


 と、立花氏に訊ねられたので晃之介は朗々と応える。


「父より学びました。私の六天流は剣のみでならず、弓槍なども使いますので教えこまれましてございます」

「ほう……」

「道場はなく旅の道中で指導を受けましたので、的は鳥や獣……動くものに当てる術を身につけました」

「なるほど、それで逃げる輩の膝にも矢を当てるも容易であったか」


 嬉しそうに頷く立花氏であったが、家臣団は冷静ながらもやや軽視した目で見ていた。

 当然である。

 江戸に来るまではあちこち旅などをしていた、いわば住所不定な何処のものかもわからぬ浪人相手に殿が自ら目通りするというだけで異例な事であるし、江戸に常駐している藩士にとっては藩の恥である辻斬りの身柄を、


「奪われた」


 という風に思われているのである。

 立花氏が、第一印象でそこと無く晃之介を気に入っている様子もまた家臣団の気に入らぬ要素であった。

 

「儂は武芸が好きなのだがな、どうも体を鍛える時間のないもので、すっかり見る方になってしまってな」

「はっ……」

「見せてくれぬか、お主の弓の腕前を」


 と、立花氏が合図を送ると、家臣がそれぞれに動き出した。

 一人が半弓と矢を用意して、もう一人が庭に降りて的の用意を始める。そこは練習場にもなっている広い庭であるようで、藩主が藩士の鍛錬の様子などを見れるようになっている。

 晃之介は渡された弓を確かめるのだが、問題は的の方であった。 

 というか的がない。なんかそれらしきものは家臣の一人が持っているだが……


「……あの、的は?」

「ふっふっふ」


 妙な含み笑いをしたのは的を設置する庭に立っている家臣であった。

 彼は何か、[く]の字にひん曲がった筒状のものを掲げて告げる。


「的はこれにござる」

「それは……?」

「これぞ、鑑任様の命によって作られた、西国最強の武将・立花宗茂様の膝を再現した張型──その名も『膝茂様』!」

「膝茂様!?」


 思わず全力で疑問の声を上げる晃之介だったが、意気揚々と立花氏が、


「さあ録山よ、放り投げさせるから空中で見事あの膝茂様を撃ち抜いて見せよ!」

「膝茂様を……よろしいのですか?」

「構わん。お主の、膝を射てる業前を披露せい」


 空中に投げられた膝茂を射抜くなど到底出来まい……家臣団の殆どはそのような目で晃之介を見ていた。

 だが、晃之介へ好印象である立花氏はいかにも期待した目で見ていた。彼にとってあちこちを旅した武芸者であるという経歴も、尊敬する祖父である立花宗茂も放浪し苦労したことがあるのでむしろ良い経験だとさえ思っている。

 晃之介は大きく深呼吸した。

 大丈夫、やれると己に言い聞かせて、立花氏に、


「では」


 と告げて肩を肌蹴て矢をつがえた。

 弓を下に向けたまま構えはそこまでで、


「御願い致す」


 と、短く告げる。

 膝を構えた家臣は、


(なにを……このような若造が膝茂様を撃ち抜けるものか)


 なんと、放物線を描くように放るのではなく、家臣は膝を思いっきり振りかぶって水平方向にぶん投げたのである。

 これには立花氏どころか他の家臣も驚いた。

 ぶん投げた家臣からすれば、


「かの宗茂様ならばこのような素早い膝のこなしをしてもおかしくない」


 と、でも主張するつもりであった。ずるかもしれないが、実戦で望んだ位置に膝が来るわけがない。予想外のことに対応できぬとは所詮二流よ……殿が見るべきほどの膝でもありますまい……と偉そうに言ってやろうとしていた。

 だが、冷静に晃之介は対応した。

 素早く、投げ飛んでいる膝を真っ直ぐに見据えて弓を引き絞った。


(そこだ……っ!)


 狙うというよりも膝に当たる場所に矢を刺すと云った本人の感覚だ。高揚した精神が拡張する視界の先で、不可視の射線が手を伸ばすように掴めた。

 得意の速射で遠くに投げ離れていく膝茂様を打ち抜く。飛び立つ野鳥を撃ち落とすよりは晃之介にとって容易である。

 宗茂の膝は矢を受けて地面に落ちた。

 やや、沈黙があり。

 おお、と家臣団のどよめきが上がる。


「宗茂様の膝に矢を……!」

「膝茂様が……!」

「見事!」


 立花氏が膝を打って晃之介を讃えた。

 九郎がこの異様な膝の熱気に包まれている空間に入ればいい感じにツッコミを入れてくれただろうが、江戸の妙な日常はツッコミ不在でも進むのである。


 ともあれ、この一件により晃之介の弓の腕前は柳川藩の藩士にも深く知れ渡り、彼を侮る声も藩士からは今後起こらなかったという。




 ****



 


「──で、俺はこの弓と褒美を貰ったんだ!」


 と、晃之介がその晩も遅く、緑のむじな亭でお房とお八を含む数名の客相手に膝を交えて手柄話を語っていた。

 客の殆どは常連の、長屋の衆である。既に酒もだいぶ回って晃之介に好き勝手に、


「そりゃすげえ! 酒おかわり」

「よっ、大将! 酒おかわり」


 などと声をかけて盃を交わしていた。

 晃之介が褒美に貰ったのは、立花鑑任自らが狩りで使う名工が作った半弓と、褒美に四十両であった。辻斬りを捕らえた活躍に二十両、目の前で見せた弓の腕前に二十両である。晃之介のような一般町人からすれば莫大な金額であった。また、一国の大名から拝領されたという弓も相当に名誉で価値があるものであることは言うまでもない。

 ところで、彼は弓はありがたく受け取ったものの、大金は使い道も見当たらず保管するにも田舎の晃之介の家では不安だったのでひとまず、柳川藩の上屋敷へ三十両は預けるという形にした。

 毎月十三日頃に、藩士への弓の稽古を手伝いがてら預けた金を受け取るようにするのだという。

 金に対しても謙虚な晃之介の態度に立花氏もより彼のことを気に入ったようである。

 こうして、仕官ではないが大大名との伝手が出来て当分食うに困らぬ金を手に入れた晃之介はとりあえず還元しようと、むじな亭でその晩の客には奢りで酒を飲ませているのである。

 奢りとあれば長屋の常連もやってきて、安酒には目もくれずに九郎が買っていた上酒を浴びるように飲んでいるのであった。

 

「師匠の弓の腕はすっげえって証明されたわけだ! ま、あたしは知ってたけどな。一番弟子だからよ!」

「ところでお八姉ちゃん、晃之介さんの所ではどんな練習をしてるの?」

「……まず度胸付けとかで木に縛られて頭擦れ擦れに矢を射掛けられまくって……ああああうううう」

「お八姉ちゃんの心に傷が残ってるわよ晃之介さん!?」

「ああ。俺も親父にやられたからな。同じように鍛えないと。ただ、これまで入門してきた連中は何故か最初のこれで逃げるんだ」

「普通逃げるわ!」


 アダマンハリセンでツッコミを入れると気持ちのよい音が晃之介の頭を叩いた。

 少女を木に縛り付けて矢を撃ちまくる男という怖ろしい噂が奉行所に行っていなくて良かったと思う。

 それにしても、


「投げた膝を射って落とすなんて、晃之介さんは本当に弓が上手いのね。九郎といつも遊んでるような印象だから意外なの」

「んー師匠が的を外したのは見たことねえな」

「そうだな。実は俺も、他人と比較したことが無かったからよくわからなかったのだが……結構やる方のようだ」


 晃之介は僅かな自尊心から出るにやけ顔を隠そうと猪口で酒を口に進めた。

 下手だ、と思っているつもりはなかった。修行を積んできて今では狙う的はだいたい当てられたのだ。九郎のように射ったのを見てから避けるような手合いでない限りは。

 それでも剣はともかく弓の腕を競う相手はこれまでの人生で格上の父親しか居なかったために、どの程度の使い手なのか自分自身を格付け出来なかったのだが、大名に評価されるとなると誇っても良い気がした。

 人に褒められるために腕を磨いているわけではないが、実力が認められるのは嬉しいことなのだと晃之介も初めて知ったような気分だ。

 故に今日ぐらいは多くの人に奢りたくなる快い気味合いであった。


「よし、どんどん持ってきてくれ」

「わかった」


 そして、酒を大量に振る舞い、常連のお雪も三味線を鳴らして店を盛り上げてむじな亭はいつに無く繁盛していたのである。

 だが水面下では問題が発生しつつあった。

 六科が日常勤務を大きく超える注文数に、つまみを一々作るのが面倒になったので台所にある多種多様のつまみの材料と、少なくとも朝方には鮮魚だったものをなるたけじっくり鍋で煮込んだものを出していたのだ。

 その暗黒の鍋も気づかずに酔っぱらいは食べていく。


(いざという時のために腹痛の薬も一緒に鍋に入れておいたから恐らく大丈夫だろう。うむ)


 食う連中は辛い辛いと言いながら更に酒を進めて盛り上がっていた。

 その鍋には唐辛子を大量に入れた為に、味がわからなかったようだ。

 



 ****





 翌朝早くに、暖簾をかけたままの緑のむじな亭の入り口をくぐる男が居た。

 高下駄を履いた狐面の男──安倍将翁だ。

 扉を開けると異臭に気づいて狐面を軽く押さえて中に踏み入った。



「おや、おや」



 鼾のような……うめき声が複数に聞こえた。

 店内には酸っぱい吐瀉物の匂いとひっくり返された鍋の中身が散らばっていて、腹を抑えうずくまった人が複数死体のように倒れていた。

 味見をした六科も厨房で倒れ伏している。どうやら、集団食中毒のようだ。六科の料理で。

 飛散した鍋の汁から漢方の匂いがするのを将翁の薬師としての嗅覚が捉えて、小さくため息をついた。

 一緒に煮込んだ腹痛薬は当然ながら効果がなかったようだ。



「やれやれ。膝っ子に目薬とはいうけれども」



 薬の使いどころが違う、という意味の諺を呟きながら、将翁は背負った薬箱を探りだすのであった。








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