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15話『鳥山石燕異行譚[海坊主]』

「海坊主が江ノ島に出たという話だ。

 江ノ島は当時でも有数の人気観光地であった。江戸からも鎌倉からも近く、景観が良い江ノ島には多くの人が訪れ、弁財天を参拝していったという。 

 特に江ノ島・大山は江戸から出発した場合でも関所手形が不必要な圏内であったためにより行き易かったのである。

 川崎方面から上がってきた、江ノ島帰りの旅人達の噂話で海坊主が現れたという目撃情報が複数囁かれたのでこれは本物だと意気込んだのは江戸の妖怪絵師・鳥山石燕である。

 彼女はここ暫くあいにくの体調不良で伏していたが、すっかり快癒して旅の準備を整えだした。

 いつもならば弟子を連れたって妖怪見物に出かけるであったが、今回は子興以外の弟子が捕まらず、家の為に彼女は留守番をさせねばならない。

 女の一人旅となれば、行き先は関所を通らぬ近場とはいえ、普通は気安く行えるものではないのだ。

 ならば、と彼女は腕っ節の強くて暇そうにしている蕎麦屋の隠居、九郎に旅の友を頼むことにした。

 彼は快く了承して二人は海坊主の待つ江ノ島へ向かうこととなったのだ……」


「……」


 鳥山石燕は、目の前の布団に座り虚ろな目の九郎相手にそう語り、笑顔を作って頷いた。


「じゃあ行こうか」

「凄く説明的な誘いっていうか確定してるのかよ行くのは!」


 このようにして九郎は夜も明けてない朝一番に現れた石燕に連れられて江ノ島まで行くこととなったのであった。




 ****




 旅は道連れ世は情けという言葉は旅人を狙う盗人が作った言葉であるので注意せよ。


 そのような書き出しで始まる当時の旅行ガイドブック、『旅行用心集』という本を手にしながら、九郎はやたらと大きな背嚢を背負って石燕と大山街道を歩いていた。

 行き先は江ノ島である。

 石燕もいつもの喪服から旅のしやすい着物に着替え、足袋に結いつけ草鞋という旅用の草鞋を履いて杖を持っている。長々とした髪は垂らしたまま、頭に手ぬぐいを巻いて笠を被っていた。

 九郎も脚絆を履いて笠を被り旅装束だ。腰には地面につかぬようにアカシック村雨キャリバーンⅢが佩かれていて、一見すると二人は巷説にでもありそうな、仇討ちを探し旅をする女と子のようであった。

 

「しかし用意がいいというかなんというか。己れの分の切手まで用意しているとは」

「ふふふ金を積めば世の中どうとでもなるのだよ」


 と、九郎の呆れたような発言に応える石燕。

 切手というのは金券ではなく、今で言うパスポートのようなもので、当時旅をする際に必要であった。内容に「これを持つ何某という名のものは何処で生まれ、住まいは何々で、之々の宗派である」と記載された土地の名士や寺の住職が発行したものだ。

 これにより行き倒れで死体になってもその土地で宗派に沿った供養がさせられ、家族に報告が行くというシステムである。もちろん、確実にそのようにしてくれるというわけではないが、持っていると居ないとでは旅先の信用が違う。

 九郎の場合、異世界から帰ってきて戸籍も無い無宿人状態であったが石燕の手管と金の力でいつの間にかしっかりとした身分を手に入れてさせられていたのである。

 これは下手に奉行所や火盗改などに取り調べを受けた際に非常に有効──というか無いと致命的なのでありがたいことであった。

 なお、今回は用意していないが関所手形は之に加え人相書きなども必要である。関所の前では皆人相書き通りに顔を洗い髪を整えた。今回は関所を通らぬ近場の旅だ。


「ええ、何々。旅をする際に近寄ってくる輩は大体スリか盗人であるので旅費などは数カ所に分散して持っているが善し……」

「なので九郎君、私に近寄ってくる輩には注意してくれたまえ」

「しかし見よ石燕よ。図で金の隠し方を解説しておるが、柄だけしか無い刀の鞘に並べて隠すって格好良くないか? こんな武器を十傑衆が使ってたような」

「銭剣の事かね? 風水では儀礼に使われるようだがね」

「男の子心をくすぐる……」


 などと会話しながら進む。

 旅ではそうそう身分を問い質されないために帯刀していても問題が起こることは少ない。侍以外も盗人避けとして竹光や刀身のない刀を差して旅をしているものも居た。

 しかし九郎のように背中にどっさりと大きな荷物を担いで歩くものは珍しかったようである。大抵は風呂敷に軽く包む程度か、小さなつづらを二つ結んだものを肩にかけて持つ程度である。

 荷物の大半は石燕の着替えと絵の道具だが、九郎もこの時代の旅というものがあまり想像できなかったので野宿できそうな道具すら無駄に持ち込んでいるから荷物が大きくなっているのである。

 重いわけではないが、他から見れば奇異にも見えるだろう。

 ところで、と石燕が言った。


「今日は江田の旅籠まで行く予定だが、道中の宿は姉弟だから同じ部屋で、という設定でいいね?」

「なぜそうなる。別に金が無いわけではないのだから己れが弟にならんでも別の部屋でよかろう」

「いや、他人同士で旅をしているということにしても私はいいのだが……」


 石燕は髪の端をつまみながら、面白がるように九郎を見やって、


「男の旅だと飯盛女が必ず九郎君の部屋につくよ? 多少断っても無理に迫るだろうね、向こうも商売だから。いや、全部抱いてやるとかすごい勢いで迫る相手を毎晩退ける意思があるのなら煩くは言わないけれども」

「むう……それは確かに面倒くさい」

「だから姉弟か夫婦ってことにしておけば面倒事が避けれるわけだよ。歳の差夫婦の方にしておくかね?」

「……やむを得ん、じゃあ姉弟で行くか。己れが兄には見えんだろうから」

「ふふふ! もっと弟っぽく言ってくれたまえ! 『姉ちゃん寝る時は離れて寝ろよな! 寝相悪いんだから』みたいなちょっとツンとした生意気系でっ! でゅふふふ」

「よだれを出しながら気味の悪い声を上げるなよ姉ちゃん……」


 妙な喜び方をする石燕に気味が悪そうに返す九郎であった。


「しかし、江ノ島に行くには海沿いの東海道でも良かったのではないか?」


 この時代の旅はよく知らないが主要道路として当時からあった道について尋ねる。

 石燕は解説したそうないつもの顔つきで、


「もちろんそちらからでも行けるとも。だがね、東海道は大山街道よりも賑わっている道なのだよ。つまり、旅籠や遊び場が多くて時間を取られやすい。

 そのようなところよりも先に海坊主を見に行きたいからね。帰りは東海道からゆっくりと上がっていくことにしよう」

「うむ……まずは海坊主か」


 九郎はつぶやいて、疑問に思った。


「いや待て、海坊主が普通に出現することになっとるがどういうことだ」

「ふふふ詳しくは話していなかったね。まずは海坊主の解説から必要かな?」

「それぐらいは知っておる。あれであろう? 海からざばーっと一つ目の巨人が出てくる感じの……」

「そういう風に描かれている図もあるね。或いは真っ黒の影のような姿に描かれることも多い。さて? 九郎君。そのような巨人や影のどこが『坊主』……つまり僧なのだね?」

「む……? いや、わからんが僧衣を着ているとか?」

「まず解説しておくと海坊主と云うのはこれといった決まった形の在る妖怪ではなくてね。地方によっては黒坊主、海入道、海座頭、海難法師など様々な妖怪と同一視されている、いわば海の怪異そのものなのだよ。

 だがやはりその呼び名にも、入道や法師と言った名前があるね。座頭だって僧体をしている。では海のあやかしと仏僧が何か関係あるのかと言うことになるね」

「あー……えーと知らん」


 九郎はさっぱり思いつかなかったので頭を掻きながら応える。

 彼女はそれに失望していないような、話す順番を決めていたように流暢に続けた。


「海難と僧の因果を考えると大陸から船で渡ってくるのに五度も失敗した高僧・鑑真がすぐに思い出されるが、最終的に彼は成功したのだから関係ないだろうね。

 まあぶっちゃけた話、海と僧は関係ないのだよ。では何故海に僧の名を冠した妖怪が多くいるのか。私はね、僧と関系あるのは土地ではなく視覚だと思うのだよ」

「視覚? 目か」

「そう。目は世界中の多くの宗教に置いても重要なものだ……当然だね? 視覚というのは世界を自分に入力する最大の端末なのだから。逆に目の力によって相手に害を為すという話も多く残っている。清の古来の話にもあったと聞くし、和蘭陀人から聞いた話によると英国の古代神話でも呪いの目の神が居たそうだ。

 とりわけ仏教では目が象徴的だと言っても過言ではない。君も仏像を見る時には無意識に、半開きになったお釈迦様の目などを見てしまわないかい?

 なにせ仏教の開祖であるお釈迦様は[『目』醒めた]人と呼ばれているのだから目が重要なのだよ。だから海入道は一つ目か、体は光を映さぬ真っ黒で、海座頭は盲目で、海難法師は見たら死ぬという目に関する性質を持っている。

 海は古来あまり覗きこんではいけない領域だった。別世界だ。[見てはいけない]という性質が目……仏教関連へと繋がり、坊主類の名がついたのではないかと私は思う」


 そこまで言って、石燕は水筒の竹筒で軽く口を潤して、


「大きな目……或いは見る事に関する妖怪で僧の名を持つものは多い。[一つ目入道][眼張り入道][見越し入道][手目坊主][青坊主]などだね。

 兎も角、それらの陸の僧職系妖怪と海の僧職系妖怪には違いがある」

「違い?」

「簡単さ。海の坊主はね、人をやたら襲うのさ」

「……」

「海坊主も海座頭も現れては船を沈没させてくるという怖ろしい性質を持つのだ。中でも酷いのが海難法師。先ほど言った通り見たら死ぬ系の妖怪だ。随分と酷いね? 眼張り入道なんて厠を覗くだけだというのに」

「海難事故は死亡率も高いからなあ」

「その通り。私が思うにね、最初に現れた海坊主の正体は『鯨』だったと思うのだよ。あの黒い巨体が海面に現れ何らかのはずみで船を転覆させる姿に人は妖怪を見た。或いは、海岸近くまで上がってきて波で人を攫ったかもしれない。

 ある土地の古老に聞いた話だとずっと昔はこう読んでいたらしい。[黒亡津]……津は港の事。港を荒らす黒い海妖怪、くろぼうづだ」

 

 石燕は手紙に取り出した筆で文字を書きだして九郎に見せた。

 人の手に負えぬ力を古来の人は、神や妖怪と呼んだのだ。

 話題を戻して九郎は軽く汗を拭いながら、


「では、江ノ島に現れた海坊主は鯨か?」

「大勢の人が実際に目撃している証言がある。大波や、時化による事象ではなく海坊主そのものをね。しかし、一日だけならばまだしも二日も三日も鯨が同じ場所に留まって目撃されるものかね?」

「普通はされないだろうな。鯨はあの巨体を維持するために常に回遊して餌を求めている。頭を出す事はあってもずっと居るのはおかしいであろう」

「うん、鯨だとしたらおかしい。では何が正体かという話は面白いのだが……これが本当に鯨で異常な行動をしているのだとしたら」

「だとしたら……?」


 石燕は眉根を寄せて記録を思い出した。


「この前の、元禄にあった大地震。九十九里浜で地震の前触れとして鯨が浜に打ち上がっていたそうだ。その他にも地震の前には鯨や海豚が異常行動をすると言われている。もし、今回の海坊主が大地震の予兆だとすれば……」


 わずかに、歩いてきた道の先にある江戸を振り向いて石燕は告げた。


「……江戸は今度こそ壊滅する」




 ****





 その後も大体六パターンぐらいの江戸滅亡予報を聞かされながら道中の茶屋で休み休み九郎は石燕と歩き、日も暮れてきた頃にようやく江田の宿場町に到着した。

 その時点での石燕の高説は隕石が衝突して江戸が消滅だった。九郎も段々適当に流すようになった。

 江田は大山街道を歩き、江ノ島や大山に参拝する旅行者が江戸を出発してだいたい一日目の宿場町とする地点である。

 現代にその町並みの名残は見えないが、道沿いに数多くの旅籠が並び飯盛女が旅人を呼び込んでいたようだ。飯盛女とは宿客の接待をする遊女のたぐいであり、当時の宿場には何処にでもいた。

 例えば三人以上の団体客などは、一番気の弱そうな人に狙いをつけて無理やり宿の中に女が引き込んでしまうので残りの仲間も仕方なくその宿に決めるなど、強引な客引きも当時はあったという。

 まるで人攫いを警戒するように九郎は石燕の影に隠れなければ、手を捕まれてしまっていただろう。

 

「ある意味江戸より盛況しておるな……!」

「ふふふ、きょろきょろしてるとスリに会うから気をつけたまえ?」


 忠告する彼女に飛脚風の男がぶつかって走り去っていった。

 そして一瞬よろけて、朱金を入れてた袋が消え去った胸元を開けて九郎に見せながら、


「こんな感じにスられるからね!」

「お主がやられてどうする!?」


 九郎が慌ててスリを追いかけて背後から蹴倒し動きを止める。


「泥棒だ、泥棒!」


 男のスッた財布を取り戻して踏みつけながら怒鳴ると、すぐに番のものが駆けつけて来てスリを縛り上げた。

 素早くスリを取り押さえた九郎を見て、今度は彼を捕まえようといい笑顔の飯盛女がにじり寄ってきた。威勢のいい少年など絶好の餌食である。

 獲物を狩る兎のような目をした女に囲まれて九郎は、


(目立ったか……? さっさと退散せねば)


 と、思っていたら背後から小走りで石燕が駆け寄ってきて九郎の手を取った。


「やあご苦労だったね弟君。なにかご褒美をあげよう。ええと世界の半分とか」

「わあ姉ちゃんなんかスケールでかい。ようしあの夕日にそこはかとなく向かって競争だ」

「ふふふ」

「はっはっは」


 と、誤魔化しながら手を繋いで走り去るのであった。

 適当な距離を逃げて、石燕が予め目をつけていた高級な旅籠に二人で入ることにした。

 止まる客も武士などが多く、遊女も高級そうな店である。部屋を一室借りて、姉弟なので気遣いをしないように番頭に言付けをしておく。

 部屋で荷物を下ろしてゆるりと、軽く湯浴みなどもして過ごしていると晩飯と酒が運ばれてくる。

 一日の疲れで半ば寝かかったように、うつ伏せで軽く目を閉じていた石燕は喜んで跳ね起きて酒と肴を手にした。


「ふふふこのわさびは最高だね九郎君」

「ううむ……辛いなこれ……だが酒に合うぞ」


 鼻に抜ける辛さに耐えながらも酒をぐいぐいと煽って銚子を空かしていく二人。

 この時代のわさびは主に静岡で栽培されており、そこから江戸に運ばれていく街道の途中である江田でも宿で出されているのであった。

 山芋の刺身に摩ったわさびが乗せてあり、しゃっきりした食感に強烈な風味が相まって、これがまた酒が進むのである。

 また、粉にしたわさびと塩を混ぜた山葵塩が盛りつけられている岩魚の焼き魚も焼きたてで美味であった。

 女と子供が泊まっている部屋だというのに、酒が一升も二升も減っていくのを宿の者らは狐に摘まれたような顔で出していたという。

 結局、夜中まで酒が終わらずに翌日の日が高く登るまで、宿を出発しなかった二人であった。




 ****




 二日目はさほど進まずに大和のあたりでのんびりと過ごして、三日目に藤沢街道を歩いて江ノ島に着いた。

 梅雨明けを狙ったのか二人以外にも観光客で賑わっており、とりあえず江島明神に参拝する。

 

「そういえば九郎君、江ノ島の弁財天は夫婦で参拝してはいけないという話があってね」

「確か縁起の良い神様だか仏様だったと思うが」

「ふむ……弁財天の元になったのが[そらそばていえい]という印度の神でね。元は河の流れを司る神なのだ。そのことから考察するに……」

「するに……?」

「あー、えー……別に妻に祟る要素のないと思う神なんだ。印度の神に珍しく勝利の踊りで天地を破壊したり敵の生首を首に下げたりしない、おとなしい女神で……山の神のように女を連れてくると嫉妬するとかではなく、絶世の美女設定だから……

 恐らくは、江ノ島参りをしてその帰りに精進落としするのに妻が邪魔だからそういう話を流したのだろう」

「精進落とし?」

「遊郭に寄って旅の疲れをなにすることだよ」

「ああ」


 納得して九郎は頷いた。

 旅をして羽目を外すという行為は昔からそうであるようだ。計画性のない旅だと、旅先へ行く途中で金子を遊び使い果たして江戸に戻るものもいたらしい。

 江島明神を出て多く店の並ぶ通りを歩く。

 江ノ島は古くから観光地として有名だったが、江戸時代になると弁天信仰が盛んとなりより栄えて寺社の改築や建立なども何度か行われたようである。

 遅めの昼飯として、あさりを茹でた汁で飯を炊いたあさり飯を食った。いい塩梅に塩加減がついており、石燕は頼んで四つばかり握り飯にして貰った。

 

「さて、今晩は海を見張るのだから準備はしておかねばね」

「え? 宿に帰ってエビとか食べるのではないのか」

「何をしに来たと思ってるんだね。海坊主を見つけるのだよ」


 そう言って、今度は雑貨などが売っている店に寄った。


「海坊主対策の道具も買わなくてはね。九郎君、何がいいと思うかね?」

「うーん。塩とか?」

「外れだ。塩は海にいくらでもある。海系妖怪の弱点は木灰、真水、酒だよ。底の抜けた柄杓は道具袋に入れているから大丈夫」


 そう言って道具を買い集める石燕を見ながら、海坊主は鯨だとか自信満々に言っていたではないか、と九郎は思わなくもなかった。

 だが本当に幽霊だったりした時の為の対策なのだろうか。或いは単に雰囲気作りの退治道具なのかもしれない。

 楽しんでいる石燕に水を差すのも無粋だと、九郎は特に文句を言わずに重量が増えた荷物を持って石燕の後から海へ向かって歩いて行く。

 高さはあるものの海に程近く、よく見渡せるところにあった岩屋で立ち止まり、


「ここにしよう」


 と石燕が言ったので九郎も荷物を置いて敷物を出し並んで座った。

 さざ波の立っている海からはわずかに湿った風が岩屋に吹き込んで、石燕は手櫛で髪を整えて、じっと海面を眺めた。


「さて、鬼が出るか蛇が出るか」

「出るのは海坊主であろう」


 海には今のところ異常は無い。何隻か、地元の漁師の小舟が漁をしているぐらいでおとなしいものである。

 鳶が鳴きながら飛び回っている。 

 九郎は小さく伸びをして荷物から読み物を取り出して読み始めたが、石燕は特に何も言わずに海を見ていた。

 特に言葉はないまま、二人共ゆったりと時間を過ごしていた。




 ****




 

(まさか本当に夜になっても帰らぬとは)


 と、思いながら九郎は月明かりで照らされている海に、早く海坊主でも現れぬかと目をやった。

 近くには行灯を灯しており、岩屋では虫よけの煙が漂っていた。江戸の頃は蚊取り線香などは無かったために、除虫効果のある青葉や木片を燃やしてその代わりとしていたのである。

 持ってきた酒を二人でちびちびと飲みながら、今だに現れぬ海坊主を待っている。


(まさか何日も待ったりはせぬよな……?)


 不安になりながら石燕の顔を眺めた。

 ずっと海を見続けているというのにその顔には飽きの色は見受けられない。

 

「暇かね?」


 不意に話しかけられたので、一拍、呼吸を置いて応えた。


「そうだの」

「ふふふならば弁天様にならって琵琶でも演奏してみるかね。案外、誘われて出てくるかもしれない」


 と、土産物屋で購入した琵琶を持ち出して、ばらん、と音を鳴らした。

 音は拍子をとって続け、ばちで引っ掛けるように規則ある音楽として鳴らされている。

 ゆっくりとした落ち着いた曲調だ。

 目を閉じた石燕の口から唱えるような声が漏れる。

 唄だ。


「───。」


 正確な旋律を鳴らしながら、目を瞑った石燕が物語を語るように、歌を奏でる。

 これまで石燕が楽器を扱っているところなど一度も見たことはないのだが、当たり前の手付きで美しい音楽を刻む。

 行灯に照らされて琵琶を鳴らす彼女の姿は、弁財天が取り憑いているような錯覚を覚える。


「───。」


 暫くは海の音も消えたように九郎は石燕の演奏を聞き入っていたのである。

 そしてやがて琵琶の音は止まる。

 九郎は感嘆の声をかけた。


「お主、凄いなあ。妙な才能ばかりあると思ったらこのようなことも出来たのか」

「ふふふ、別に琵琶の才能が有るわけではないよ」

「謙遜するな。良い演奏だったぞ」

「私が以前に見た事がある良い演奏を、記憶のまま琵琶を弾く動きを真似しただけだからだよ。練習した訳ではない」

「それでそこまで弾けるのか!?」


 目の見えぬ座頭に口伝で伝えられる琵琶だというのに、目の見える石燕が見たままコピーしてしまったのである。

 記憶力が異様に良い石燕なればこそ、動きとリズムを覚えればある程度の再現は可能にしてしまう。

 石燕は今度は適当に琵琶を掻き鳴らしながら言った。


「そういえば海坊主の中には、船乗りに『怖ろしいものはあるか、俺が怖ろしいか』と、問いかけてくる話がある」

「ほう」

「船乗りはこう応えた『これから先の人生、何があるかわからぬことに比べればお前など恐ろしくない』とね。目の前に海坊主が居るというのに将来の不安とは……! かなり余裕だね……!?」

「ちょっといい事言おうとして失敗した感あるな、それ」


 率直な感想を言って酒を飲んだ。

 石燕は少し細めた目で海を見張り続けながら、


「九郎君は、怖ろしいものはあるかい?」

「怖ろしいものか……そうだな、死ぬのが怖いのう」

「……意外と普通だね」


 九郎は苦笑しながら、


「この歳になるとな、随分たくさんの人に出会って、多くの思い出が出来てしまってなあ。良い事や悪い事もたくさん詰め込んだ思い出が死ぬと全部無意味になってしまうと思うと、勿体無くての。

 永遠に生きたいとかそんなわけじゃないけど、あんまり死にたくはねえって思ってしまうのだ」

「そうだね……普通、人は死ぬのが怖い」

「石燕?」


 彼女は琵琶を止めて若干俯いたあと、いつもの人を喰った顔で応える。


「その点私は何も怖いものなど無いがね! 焦熱地獄先生鳥山石燕にかかれば怖いものなど何もない! かかってきたまえ海坊主!」

「この前姑獲鳥が出たとか何とかで大騒ぎしていた気が」

「ふふふ……突発的な事態というのは面白くて困るね!」

「まあ別にいいが」


 石燕は九郎を見たまま、微笑んで云う。


「これから先の人生、何があるかわからないのは怖いのではなく楽しみでしかないね。誰と出会い、誰と話し、誰と別れ、いつ死んで、いつ戦争が起こり、いつ国が滅び、いつ星が壊れ、いつ宇宙が消えるか……全てを知るのは幸福ではなく退屈と絶望でしか無い。何があるのか確定された未来は、楽しくも無い」

「……石燕?」

「……はっ! まずい九郎君それどころではない! 急いで立ち上がりたまえ!」


 ぼそぼそと呟いていた石燕が急に九郎の手を握って引っ張った。

 慌てて立ち、荷物も置いたまま岩屋から行灯を持って出る。


「どうしたのだ石燕!」

「お花を摘みに行かないといけないけど暗くて危ないからついてきてくれたまえ! 漏る!」

「この流れで便所かよ! 一人でいけよ!」



 

 ****





 その後も一晩中二人は雑談をしたり、暇な九郎が夜釣りを始めたりしながら過ごした。

 やがて空が白み始めた。日はまだ登らぬが、海の果てから深蒼色の空が広がってくる。

 薄暗く彼も誰もわからぬ、妖怪の時刻。かそたれ刻だ。 

 海岸近くまで寄り、九郎と並んで夜明けを石燕は見ていた。


「夜が明けるね」

「ああ」

「朝が来る」

「うむ」

「また今日も九郎君と一日、遊んで過ごせる」

「そうなるな」

「私はそれが楽しい」

「そうか」

「こんな日が続けばいいと思うよ」

「そうだな……」

 

 白い光を反射させ始めた海面を見て、九郎は口を開けた。

 そこから、黒い頭を出しているものがいたのだ。自分らが居る海岸から近い。暗くて気づかなかったのだろうか、ずっとこちらを見ていたような位置である。

 黒い、坊のような頭。黒坊頭。


「石燕! あれだ、海坊主だ!」

「なんだって!? ……」

「……」


 それは、随分と小さな海坊主だった。

 拍子抜けして二人共思わず言葉を失う。

 鞠ほどの大きさのつるりとした頭に黒い瞳。猫のような髭をもじゃもじゃと伸ばしている。

 すっと海面から生えるように首まで出していた。

 九郎は、夜釣りで獲った魚を近くに投げたら、うまい具合に口で咥えて食べた。



「……アザラシかよ!」



 案外、妖怪なんてそんなものである。

 使わなかった木灰を九郎は投げ捨てた。なお、水と酒は飲んでしまった。





 ****


 



「『海坊主 正体見たり 毛饅頭』と」

「毛饅頭はやめろ。まあそんな見た目だったが」


 翌日は一日中江ノ島に滞在して疲れを取ることにした二人は、宿で改めて休みながらそのような事を言い合っていた。

 石燕は筆を置いてごろりと寝転がりながら言った。


「いやしかし、一晩で見れてよかったよ、海坊主。なんてことのない野生動物だったがね」

「魚をやると懐くという噂でも流しておくか」

「ふふふ、この世には不思議なことなど何もないのだよ九郎君」


 九郎は心底にため息を付いて、


「お前の存在が己れにとっては一番の不思議だよ、石燕」


 そう言っても、にやついた笑みのまま彼女は何も応えなかったが。

 








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― 新着の感想 ―
[良い点] 石燕さんと二人で行く江ノ島旅行のお話とても良かったです。
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