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14話『閑梅雨』

 九郎はいつも通り緑のむじな亭で昼飯を食い終わって満足そうにこう云った。


「うどん美味い」

「……蕎麦を食えなの!」


 すぱん、と突っ込みのアダマンハリセンが九郎の胸元に当たる。さほど力が篭っていないところを見ると、お房も無理があるとは承知なのだろう。だが、蕎麦屋でうどんを啜っている九郎に突っ込みは入れずに居られなかった。

 梅雨の時分である。ここ毎日、外はしとしとと雨が続いて客足も長屋の連中以外ばったりと途絶えていた。

 六科はその日使う分の蕎麦の麺を朝に打つのだったが、さすがに注文する客が居ないとなると作る麺の量は少なくしなければならない。

 蕎麦粉の消費量も減り、ついには保存しているそれに黴が生えて大部分は捨ててしまったので蕎麦が出せないのである。

 更にいつも緑のむじな亭が蕎麦粉を頼んでいる粉屋も在庫が薄く、値段が上がってしまっていた。

 とはいえ例年通りのことではある。現代では夏に食べるような印象のある蕎麦だが、その収穫時期は秋から冬である。夏となれば去年の蕎麦を挽いたものの保存状態も悪くなり値段も上がるのあった。

 実際、六科は特に気にせず、


「少し早いが、暫くは蕎麦無しで行くか」


 と、物事に頓着せずに考えを切り替えているようであった。

 蕎麦の名店と呼ばれる所は、保存の方法や打ち方、つゆの味などを季節ごとに工夫して出すのだがこのような小さな店、ましてや六科に出来ることではない。

 それでもお房は、


「せっかくお父さんの蕎麦作りの腕前が底辺から上達して来たのに……」


 顔を落として残念そうにした。 

 九郎は「そうであるな」と微笑みながらうどんの器を退ける。うどんの歴史は蕎麦よりも古く、江戸でも親しまれているものであった。こちらのほうがやはり江戸時代に蕎麦切りとして流行りだした蕎麦よりも保存しやすく、すでに乾麺を茹でるという形態で食べることが出来ていたという。

 茹でたうどんに醤油と卵をぶっかけただけのものであったが、単純故にそれなりに美味かった。

 その日も雨なので外に出かけるのも特別理由がなければ行かないだろう。

 九郎は徳利を傾けた。


「またお酒飲んでる」

「気にするでない。それよりこの竹の子を食ってみろ、絶品だぞ」


 と、茹でた竹の子と塩漬けにして解したらっきょうを混ぜた小鉢に手をつけながら酒をやるのである。この爽やかなメニューと昼酒こそが雨の日の楽しみなのだ。

 そうしているとやがて雨を掻き分けるように客入りがあった。

 笠に蓑を被って、なにやら包みも濡らさぬように持っている。


「ああもう、参った参った」


 そう言いながら塗り笠を脱いで店の中を見回して、空いている席についた。

 丁寧に髷の結われた侍風の男である。何処かで見たような気がして、九郎は顎に手を当ててじっと見つめる。

 男は酒と小鉢を注文して、九郎の視線に気づくと声をかけてきた。


「おや? 君は石燕先生と一緒に居た子供じゃないか」

「……ああ、版元の田所氏であったか」


 と、言われた関連人物で思い出した。

 前に事件で少しだけ関わり合いのあった元侍の男で、今は石燕や天爵堂の書く黄表紙作品の版元に務めている田所無右衛門である。

 そう長々と会話をしたわけでもないし、夜分だったものだったからすぐには思い出せなかったのだ。脳の老化だとは、九郎は思いたくなかった。

 田所は回りを見ながら云う。


「石燕先生……来てないよね?」

「来ておらぬが……どうしたのだ?」

「いや、石燕先生の危絵(あぶなえ)の一つが縁起が悪い上に不謹慎だって奉行所に怒られてね? あちこちの売り場で回収してたんだ」

「何を描いとるのだあやつは……」

「うん。其れがしもどうかと思ったんだけどね、この『僕の名前は嬰児(えいじ)。子宮は狙われている』ってやつ」

「凄まじく不謹慎だな! 刷る前に気づけよ! あと絶対歴史に遺すなよそれ!」


 ある意味危なすぎるその春画の一枚を、濡らさぬように持っていた包みから取り出して見せながら田所はため息をついた。

 むしろ鬼婆が妊婦のはらわたを取り出しているとでも題を付けたほうが良さそうなそれは、確かに眉をひそめるような作品だ。

 このような背徳感の強いエログロした春画は持っていると有らぬ噂すら立てられるのでむしろ口止め料を込みに高値で取引されていたようである。

 田所は湿気でたわんだ紙束をうんざりと見ながら云う。


「役人の目の前で焼却処分しないと許してくれないらしくてね……運が悪かった。この前の、新井先生の件で奉行所の出入りがあったからなあこっちにも……」

「そうなのか?」

「うん。旗本三男も打ち切りにさせられた……あの時、近い南町奉行所じゃなくてわざわざ遠い北町奉行所にやらせたから、地味な嫌がらせが南から来てねえ……でもうちの先生と南の大岡様はちょっと引くぐらい仲悪いし……」

 

 ぼやく田所であった。むしろ石燕のそれは、天爵堂に圧力をかけるついでと云ったようなものであるらしい。

 九郎は遠い記憶を探りながら、


「奉行所の大岡様というと、大岡裁きで有名なあの大岡越前のか?」

「大岡裁き? っていうのはどれのことかわからないけど、大岡越前守忠相様のことだよ。吉宗公の片腕で怖ろしいぐらい堅物なんだ」

「それがどうして天爵堂と仲が悪いのだ?」

「元から馬が合わなかったんだろうけどねえ、酷くなった理由の一番は、先生が神田小川町にあった屋敷を大岡様に召し上げられた時に、大岡様が引渡しの書類受け取りを二日ばかり渋っていたら屋敷が火事で焼けてね。

 おまけにその直後大岡様が町奉行に転属したものだから、先生に代わりの屋敷を手配する約束も反故にされた上に屋敷代も返って来なかったんだ。あの時は先生、むっつりと怖い顔で黙って恐ろしかったよ」


 思い出して身震いし、体を温めるようにぬる燗を口にする田所である。


 事実、享保二年の一月二十三日に小石川から起きた火事が武家屋敷を焼き、風で延焼が広がり100人以上の死者が出ている。それに天爵堂……新井白石の屋敷も巻き込まれたのであった。

 天爵堂自体は屋敷が焼けたことよりも約束していた期日に書類を受け取らなかった大岡越前に対して日記に、


「不審の至り也」


 と書き残していることから怒りが伝わる。屋敷代を払われないまま召し上げられたも同然であった。

 なお、現代に伝わる大岡越前の所謂[大岡裁き]の多くは創作であり、この時代に彼が行った裁きにあまり華々しいものはない。むしろ、政策関係のほうが知られていただろう。

 彼の奉行所での名裁きと呼ばれる働きはこの後、吉宗の落胤だと自称し散々に詐欺を働いた巧妙な悪党天一坊を追い詰める[天一坊事件]であろうか……

 ともあれ、新井白石である天爵堂と南町奉行所の大岡忠相は大層に仲が悪いそうであった。


「先生、今度は連載終了させられた嫌がらせに『無痔奉行(ムヂブギョー)』って話を書くとか言い出すし……目安箱によって作られた架空の奉行所で痔持ちの奉行らが痔と戦うというもはや何が面白いのか。大岡様が痔だからって」

「多分石燕の入れ知恵だぞ、その題名」


 げんなりと九郎は半目で呻いた。それも歴史に残して欲しくないのであるが……

 落ち着いて枯れた雰囲気の老人であるが、天爵堂も子供じみた嫌がらせをするものである。

 ところで大岡越前が痔持ちであるのは事実らしい。なにせ、東照宮へ参拝する幕府の公式行事で、徳川家重(当時右大臣)と徳川家治(当時大納言)が社参するので参列するように、という命令を、


「痔が切れたので無理である」


 と、断ってしまった程である。

 無論、痔ごときで参列断るなよ……と大目付に言われ、再三来るように言われたのだったが当日に大岡越前は家に閉じこもってしまったのでどうしようもなかった。他の政治的理由があった可能性もあるが、特に断っても彼にメリットが無かった為にやはりただの凄い痔だと思われる。

 感情的になったところを側近がまったく見たことがない、如何なる時も冷静沈着であったという大岡越前がこの時の大目付相手にはマジギレして行かない意思を伝えたほどであった。ちなみに、マジギレの語源こそがこの時の、[真に痔が切れている]の真痔切れであることはあまり知られていない。嘘だ。


 さて……。

 兎も角、田所と九郎は暫し席を共にして手頃な話題を続けていた。


「石燕の読本もよく回収になるものだな。確かあやつの家でも何冊か置いていたぞ。『魔界お歳心中』とか」

「心中物の芝居が禁止されたもんで本にまで手が伸びたからねえ。そのうち規制も緩むのを待つしか」


 苦笑して告げる田所である。江戸の幕府が続いていた期間、幾度も危な絵や読本を焚書・規制されたことはあったが奉行所も毎年何千枚と出される出版物すべてに目を通せるわけではない。ペンネームを変え出版社名を変え、役人のお偉いさんの性癖を調べて特別なドハマリ春画をこっそり渡すなどして乗りきれるのである。

 気のいい田所と話を弾ませたが、半刻ほどして彼は再び石燕の危絵回収に戻るのであった。




 ****




 田所と入れ違いのように入ってきた客があった。

 陰間の玉菊である。

 大きめの笠を被って足回りの裾をたくしあげ、足早に駆け込んできた。

 

「ふう……まったく、雨で濡れてびしょびしょ美少年でござんす」

「濡れるぐらいなら出歩かなければいいのに」


 いつの間にか常連になりすましている玉菊に冷たい言葉を浴びせたのはお房だ。

 それでも客であるので仕方なく茶の用意をする。玉菊は九郎の近くの席に座って疲れたようなため息を付きお茶を啜った。


「はあ……お茶が美味しいでありんす」

「いいから食べるものも注文してほしいの。特に希望がなければ朝ごはんの残りを二十文ぐらいで」

「うう、じゃあそれで……」


 およそ定食とも言えぬようなメニューだったが、玉菊は渋々頷いた。

 温めなおした味噌汁と米と竹の子の小鉢に芋の煮っころがし。芋にはベッタリと味噌が塗られているのでこれが飯のおかずになりそうである。

 それを目の前にしながら、やはり草臥れた目で箸を進めだした玉菊に九郎の方から声を掛けた。


「なんというか今日は元気が無いなあお主」

「不気味なの」

「えー? わっちの疲れてる感じが心配でありんす? 事情聞きたいでありんす? いやー心配させちゃって若干申し訳ありんせん」

「うぜえ……」


 いつもの調子でそんな言葉を言ったが其れも長続きせずにやはり少し曇ったような笑顔に戻った。


「実は最近、わっちら陰間とか他の芸者さんを纏めてる岡場所の親分が代替わりして……これがまた厭な男で酷いのでござんす! わっちなんて三回は井戸に吊り下げられたでありんす!」

「うん、いや……まあ」

「わっちだけならまだしも、女郎さん達が叩かれたり売上全部取られたりするのは可哀想で……」


 ほろほろ、と涙を流しながらばくばくと飯を喰らってお代わりを要求した。

 岡場所とは幕府から許された遊郭である吉原に対して、それ以外の自由業としての娼婦を取り扱うところの事である。

 金貸しの副業として岡場所にある女郎宿の主人をしている男、万事屋勘兵衛という男は借金の形に雇っている女郎ごと玉菊らの胴元となったのであったが、これが酒乱の気がある横暴な男なのであった。

 稼ぎの少ない女郎などには食事を与えず、自ら慰み者にしては暴力を振るうという有様である。

 数少ない陰間として働いている玉菊は、同僚の女郎達のことも男の意気地として庇い、とばっちりを受けることも多々あるようであった。

 玉菊はぐっと口の端に米粒を付けたまま拳を握り、


「それでもわっちは負けないでござんす。姐さん方が我慢しているのだから、わっちも勘兵衛様がわかってくれれるまで耐えるでありんす」

「おう、なんだお主……前から思っておったが、性格はともかく根性だけは男前にあるなあ」


 九郎が感心して褒める。

 無駄に自分に迫ってくることに関しては全く理解を拒む九郎であったが、投げ飛ばしても川に流しても突き落としても、諦めずに笑って飛びかかってくる玉菊は鬱陶しくもあるがひたむきだ。

 自分と関わっても一文も得をしないというのに、


「好い御人」


 と、云うだけで時間を作って会いに来るこの陰間の、執念にも似た気概の強さだけは認めないでもない九郎であった。

 珍しく褒められた玉菊は恥じらいながら言った。


「笑顔はわっちの処世でありんす。捨て子だったわっちを拾ってくれた、もう死んだおとっつぁんも『笑顔は百難辛苦に対する強さ』だって言ってたから、わっちは皆と一緒に笑えるように頑張りんす!」

「そうか……」


 十代前半程度の年齢だというのに体を使った労働に従事し、それでいて芯が通っている玉菊に好感を持たなくもないのだが……


「という訳で今晩あたりぬし様、うちでわっちわっちせぬか」

「しねえよ」


 衆道には踏み込むつもりは全然無い九郎であった。

 玉菊は苦笑しながら肩を落として、


「そういえば石燕先生なんかに営業声掛けしたら、『ちょっと包丁を研ぐから待ってくれ』とか言われて恐ろしくて逃げたでありんすが……」

「ああ、あいつのこれくしょんの一振り、安達ケ原の鬼婆の包丁だな。土産物だと聞いているが」

「八丁堀の旦那こと、利悟さんは超童貞野郎すぎて誘っても本番までいかずに終わるし……お金は貰うけど」

「うわぁ、あの男女問わぬ稚児趣味野郎……むしろそこまで行ってヘタレてるのが気持ち悪い」

「春画描きの北川さんなんかは……、


『はいそこもっとド助平には肌蹴て! 首首うなじ首ぐらいの割合──って首多いよね見世物小屋のろくろ首か! そうそう、鎖骨を気合で浮きだして気合で! いいねそこの肩甲骨! いっそ肩から下全部肩甲骨になればいいのに! なれよ人類! 畜生! 進化の袋づまりか! 助平さをもっと出すには……豆腐!? すげえ発想だなおれの右脳。今度摘出するわアブねえ……ともかく豆腐持ってきてー! そうそう程よく着物がうぇっと濡らしてめっしゃーっと汚すからね! うわ絵として良意な構図に! 特殊性癖! 絵・良・意! エリョイよー玉菊きゅん!』


 とか、異様に張り切った意気込みで絵のひな形役をさせてくりゃれて割りと日当弾んで嬉しいのです。豆腐押しつけられたけど」

「ニッチな春画が江戸の世に溢れるわけだ」


 実際に春画絵師が遊郭に入り浸り、絵の参考として買いや覗きをしていた事はあったらしい。

 その点玉菊は仕事を選ばずに様々なプレイに答えてくれる、毛も生えていない白い肌の美しい陰間なので割りと売れっ子なのだ。普通の客ならば一人五百文は取れるのである。豆腐プレイはもちろん追加料金だが。

 九郎は頬杖を突きながら、


「お主とあれこれはせぬが、どうしても困ったことがあれば話しぐらいは聞いてやるから頼るがよいぞ。変態だがまだ子供なのだからな」


 と、言ったら玉菊は目をぱちぱちさせて、お房を呼んで耳元に囁くように、


「ひそりひそりとお房ちゃんに話しかけるに、ぬし様は多分誰にでもあんな甘ぁい言葉を囁いている気がします」

「そのうち、お八姉ちゃんが先制心中攻撃しかけて来るまでの命なの。ああ見えて思いつめる性分だから姉ちゃん」

「お主ら……人をじごろか何かのように言いおって。単に老爺心だというのに」


 九郎はつまらぬように言って酒と竹の子に向き直る。

 それでも、玉菊は若干の元気が出たようであった。

 まだ子供が春を売って生活をしているという事情や時代については九郎は何も言えない。ただ、そういう社会で生きる知り合いが、せめて笑って過ごせれば良いと九郎も思うのである。


(しかし己れは、そんな子供相手に川に沈めたりしたような……)


 一瞬、反省のようなものが浮かんだが気の迷いだろうと思って酒と供に飲み下した。

 




 ****



  


 玉菊も帰って行き、客も居らず暇だったので座敷の畳から這い出てくる蚤を退治しているといつの間にか八つ刻(午後三時頃)になっていた。

 お房が盆に灰色の饅頭と出がらしの茶を二人分持って来た。八つ刻の間食だからおやつである。

 九郎は暖かく蒸された饅頭を手に取りながら、


「む? これは?」

「お父さんが中途半端に残った蕎麦粉で作ったそば饅頭なの」


 と、言われて訝しげに齧りつくと、わずかに砂糖を入れて蕎麦粉と小麦粉だけで作った単純な饅頭であったが、素朴な甘みともっちりした歯ごたえのある普通に美味い饅頭だった。

 わずかに色の付いた出がらしの茶がよく合う。

 九郎は咀嚼しながら厨房の六科に、


「……菓子作りができんから実家から出たのではなかったのか?」

「できない訳ではない。美味いと感じないだけだ」

「蕎麦は?」

「しょっぱいと感じる。いい食べ物だ」


 真顔で告げる六科であったが、世間一般では甘い菓子を子供は好むという理屈はわかっているらしく、目分量で菓子を作ったのである。

 なんで好かないものの方がまともに作れるのか不思議ではある九郎であったが、ともあれ饅頭を喰らうことにした。

 そうこうしていると、


「六科様は居られますか?」


 と、裏口から女が入ってきた。

 火傷痕の残る目元を閉ざした盲の女按摩、お雪だ。

 彼女は声の反響と匂いで厨房の六科へと向いてにっこりと微笑んだ。


「お雪か。どうした」

「実は一寸、うちに普請の事で……雨漏りが酷くなって困っていまして」

「そうか。大工の助次に直させておく」


 同じ長屋に住んでいる大工の名を上げて応えた。 

 六科は大家として長屋の維持管理や家賃の徴収もやっているので普請のことも対応している。

 大家というと正確には当時家守と云い、江戸の小役人である町名主から雇われて土地代を徴収する役目であったのだが、多くは代理人を立てて代わりに家守業務を行わせていたようである。代理の家守のことを通称、大家と呼んだ。

 この場合、家守は六科の亡妻の父、藍屋良助が六科を雇っている形になる。親戚の縁から表店の家賃も可也割り引いてもらっているのである。また、共用している厠に溜まった肥は専門の買取業者が居て、その収入は大家が貰うのが習わしである。

 その代わり大家は、家賃の未払いを防いだり、空き部屋を作らぬようにしたり、店子の頼みを聞いたり喧嘩を仲裁したりと云った役目もしなければならないのだ。

 六科はお雪を店に入れて、お房に茶と饅頭を出させた。

 お雪の好物である。匂いでわかったように、嬉しさを顔に出して、


「いつもすみませんよう、六科様」

「謝るな。俺は当然の事をしているだけだ」

「うふふ、六科様は当然で助けてくださるのですねえ」

「ああ。今日は助次も仕事をせず部屋に居るはずだ。声をかけてくる」

 

 と、出て行った。

 

 雨の日なので内装細工などでない限り大工は休みなのである。

 尤も、声をかけたら大工の助次は雨の中ではしごをかけて屋根に登り、雨漏りを直しに行くだろうが。

 なにせ、同じ長屋に住む『美人女按摩のお雪さん』である。

 礼に腰でも揉んでもらえば他の長屋の独身男衆から袋叩きにあっても帳尻が合う。男ならば誰しも羨ましがるだろう。

 なにせお雪、武家の奥方などが主な顧客であり、大名屋敷にも呼ばれることのある按摩師なのだ。長屋住まいがそう頼めるものではない。

 あまりに安い町人向けだと、それを呼んだ奥方の恥になるというので普段から高い値段を取らされているのである。盲には組合のような互助組織が在るためにお雪も決められた値段をそう変えられないのであった。

 ただ、それでも長屋の誰が見ても六科に惚れているとわかるお雪さんには積極的に手をつける男は居ないのであるが。『鵺の六科』と言えば少し前まではちょっと知れた火消しの荒くれなのだ。

 ともあれ。

 九郎とお房と同じ場所に座って出された温めのお茶を行儀良く飲んでいるお雪に、お房が声をかけた。


「ね、ところでお雪さん。お父さんの何処が好きなの?」

「だー……」

「うわっ、口元からお茶が駄々漏れしとるぞ!?」


 慌てて手ぬぐいをお房に渡して、お雪の口元を拭わせた。

 お雪は軽く咳き込みながら、驚いたように口元を抑えて、


「まさかお房ちゃんに気づかれているなんて……」

「うん、そんなことで驚かれると自分が低能の駄阿呆だと思われてた気がして逆に腹立つの」

「お主がそれを云うと六科の奴が低能の駄阿呆だということになるから云うな……気持ちはわかるが」


 幾らか九郎も六科と酒を酌み交わして女の好みなどを聞いたことがあるが……

 だいたい彼の情緒は、


「若干心が目覚めたマシーン人間」


 程度しか無いので、女性関係は絶望的であるように思えた。むしろ、よく前の妻と結婚できたものだと思ったが、なんでも気がついたら結婚してて問いただしたらその妻に腕力でねじ伏せられたらしい。

 怖ろしい話だと思った。

 耳に手をやり、周囲に六科の気配がしない事を確認して声を忍ばせて、


「実は雪は、六科様の事を好いているのですよう」

「いや知ってるから」

「話進んでないから。どこが好きか聞いてる段階なの」


 半眼で揃って突っ込む九郎とお房に、少し身を引かせるお雪。


「お二人とも厳し目……! と、とにかく。六科様は声は低くて落ち着きますし、匂いは干し草のようですし……」

「ああ、それお父さんが敷き布団の代わりに藁蓙で家畜のように寝ているからなの」

「何事にも動じない御心と、何事でも受け入れる包容力がありますし……」

「無頓着で不感症気味も言い様であるな」

「……好きなんですよう。本当は理由なんかどうでもよくて、六科様が好きなだけで……」


 困ってしまって頬に手を当てながら軽くうつむくお雪に対して、九郎とお房は顔を見合わせた。


「参ったな、これは純情だぞフサ子よ」

「うん」

「もう大分昔、お房ちゃんがまだ生まれていなかった頃の話なんですけれど……」


 と、お雪が語りだす。

 もう十年近く前だろうか。お雪もまだ小さかった時だ。

 火事の怪我も治って、お礼をしに親類のものに連れられて当時、お六が経営していた緑のむじな亭に来たのである。

 その時もそば饅頭を出されて食べた。お六は菓子作りなどやろうとしなかったので六科が作ったものである。六科は蕎麦が好きというよりも、蕎麦好きなお六が妻だったために蕎麦が好きということにしているのだ。

 中に何も入っていない素朴な味の饅頭と温めの茶は盲にも嬉しかった。

 その後、六科とお六に連れられて夕涼みに出かけたのある。

 右手をお六に、左手を六科に握られて親子のように歩いた。

 大川のほとりの何処にでも在る、柳の垂れた川端の長椅子に並んで座って、海からの涼しい風を受けてなんてことのない時間を過ごした。

 気がつけば眠っていて、六科の背中におぶられ、預けられている家に帰ったのであったが……

 それ以来、六科をより意識するようになったのだという。

 はじめは亡くなった兄か父のように。だが、次第に変わって、


「……すっかり好きになってたんですよう」

「そうなのー」

「反応が乾いておるのう、フサ子は」

「だってよくわからないから。まあ好きなら好きでいいんじゃない?」


 首を傾げながらお房は応える。

 なにせ、早くに亡くした母親との思い出はあまり無いので夫婦というものへの理解に乏しいのだ。なんとなく、母に抱かれたこととか頭を撫でられたこととかは覚えているが顔も朧気で、想像上の母としてしか思い出せないのだ。

 むしろ一時期は時々やってきて遊び相手になった石燕を母かと思っていたぐらいである。

 お房の言葉になにやら奮起したお雪は、


「よぅし! 雪は頑張りますよう!」


 と、握りこぶしを作って張り切るのであったが、直後に六科が裏口から帰ってきたので、


「六科様! す、す、好いておりますよう!」

「即座に告った……!」


 九郎が驚きの声を上げるが、


「そうか。それより板材が足りないらしいから買ってくる」

 

 と、あっさり流して一瞥もせずに表口から笠を被って出て行ったのであった。

 

「……」

「……」

「……」


 一同、無言であった。

 お房がぽつりと呟く。


「なんというか、そこはかとなく頑張ってねお雪さん」

「心がメカで出来ておるからの、あやつは」


 一子相伝の拳法を受け継ぐために愛を失った男、佐野六科の心をお雪が名前のように、白く柔らかい雪で包んでやることは出来るのだろうか。無論、拳法は嘘だが。









 ****













「──時は満ちた」



 黄昏の闇に沈む室内を一瞬だけ稲光が照らし、不吉な黒い影を映しだした。


 手元に、ある男の詳細なデータが書かれた紙片を摘んで掲げながら、言葉を紡ぐ。



「仕込みは十全。後は役者に舞台へと上がってもらわなくては……」



 ふふ、と暗影を投げかけるような笑みを零して薄く目を閉じた。



「どうあっても、付き合ってもらうよ。ここから始まるんだ、君の旅が──」



 再び雷鳴が近くで鳴り響いた。

 紫がかった閃光に室内の妖怪絵が輝くように部屋の中心にいる人物を睨む。

 深い深淵の玄水に飲まれるように体をゆったりとしながら、鳥山石燕は嗤った。




「──ふふふ、精々楽しませてくれたまえ……九郎君」

 







「師匠、九郎っちと江ノ島に旅行に行く準備が出来ただけでなにを言ってるの?」

「いや……只の無意味な雰囲気作りだが」

「なんでそれをする必要がっ!?」


 九郎と遊びに行くのを楽しみに、雨が上がる日を待っている石燕も居た。

 梅雨が明けるのは近い。何処かで、蛙の鳴く声がする。

 

 

 

 

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