13話『たましひ』
昨夜から雨が続き朝を迎えても薄暗い、むせ返るような湿気で冷えた空気の日であった。
これまでの夏のような真っ青な空と陽気は鳴りを潜め、何処かくすぶった五月雨続きの天気が続いている。
まだ梅雨は少し先であるが、雨季に入ると江戸の町は活気が無くなる。
単純に、外働きをする人間があまり働かなくなるからだ。雨に濡れてまでせせこましく金を稼ぐのはどうも粋ではないと考える男が江戸には多かったようである。梅雨の間、労働を少なく抑えるように金を貯めておく者も居たようだ。
その分梅雨明けには見違えるほど勤勉に働き、また八月の猛暑のあたりには夏休みということで仕事を止めるのだから暢気な暮らしである。
この頃、かの地獄先生鳥山石燕が体調を崩したというので様子を見に行こうと九郎は腰を上げた。
朝に緑のむじな亭でその日の仕込みを監督し──味見である。六科の味覚があてにならないので──竈に使う[炎熱符]の調整をしてから出かけた。
魔法の術符は込められた術式の構成を把握していなければ使えない。説明書の無い複雑な電気機器のようなもので理解には魔法の知識が必要だ。魔力の無い九郎も製作者の魔女に比べればあまり使いこなせているわけではなく、使える術符も単純な術式が込められているものに限る。
ともあれ、出かける予定がある時に九郎がいつも行うのは[炎熱符]のタイマー設定である。自動で夜営業が終わる頃には熱を止めるようにしている。また、通常で使えば水の中でも火を灯せる術符であるが、火事になったらまずいのでいざというときも湯水をかければ止まるようにすることも出来た。この辺りの設定も魔女が便利そうだからと作ったのである。
(いつ降り出すかわからぬ天気だな)
そう思いながら九郎は塗笠を持って出た。
途中にある酒屋で生姜酒を買った。これは切った新生姜を焼酎にふた月ばかり漬けた酒で、飲むと体の芯から熱くなる風邪ひきに良い酒である。
酒飲みの見舞いには酒を持っていくものと相場が決まっている。
三合徳利と盃を持って石燕の家へ向かった。
湿気て背筋を冷やす風が海から吹いていて、心なしか町を歩く人らも雨が降る前にと足早になっている。
一方で、
(梅雨になれば梅酒を作るのもいいかもしれん)
などと思っているとその梅酒の匂いがした為にふらふらと九段北の辺りにあった甘味処[とくや]に寄ってしまう。
店先で去年漬けた梅酒を玉子型の大きな猪口でぐい、と引っ掻けて、漬けた梅に砂糖をまぶして饅頭に入れた梅饅頭をかじると甘くて僅かな酸っぱさもあり、つい酒を一合ほどやってしまう。石燕への土産に四つばかり買っていくことにした。
神楽坂の石燕宅へ着いた。
不吉な烏が鳴きながら飛び立って行く、そんな雰囲気であった。
家の前を通った霊感のある町人が突然嘔吐したり、迂闊に敷地に入った子供が恐怖を感じ寺に逃げ込んだら「お前ら何をした!」と怒られたり、家の周りで後ろに何者かがいる気配がしても立ち止まったり振り向いたりしてはいけなかったり、怪しげな祠が破壊されていたりと洒落にならない程怖いという噂話が流れる家である。
尤も、それらの殆どは空き巣避け半分面白半分に石燕自身が流した噂であるらしい。
打ち捨てられた祠のようなのは壊れた七輪や家具を纏めて庭に放置していればいずれ魂が宿り[瀬戸大将]というがらくた変形ロボみたいな妖怪になるのを期待してのことだとか。
(石燕は兎も角、一緒に住んでいる子興の評判がマッハで下降だのう……)
哀れに思いながらも門をくぐり、家の戸を開けながら挨拶した。
「おう石燕よ、弱ってるところを笑いに来てやったぞ」
開けると石燕が布団から上半身を起こし、着物を脱いで子興から汗を拭かれているところだった。
少し沈黙があった。
最初に顔を赤くしたのは子興で、
「うわっ!」
と叫びながら石燕の裸を隠した。
隠されると己が羞恥的な姿であることを理解したのか、石燕もすうっと徐々に顔を赤くして、瞳に涙を浮かべてきた。
ひくついた笑みを浮かべようとしているが何も言えない彼女に九郎は小さく頷いた。
「ええと、お菓子食べる?」
「いいから九郎っちは出てけーっ!!」
枕を投げ付けられたので受け止めて、とりあえず戸を閉め家の外で待つことにした。
悪いことをしたかな、と九郎は思うものの、この江戸では湯屋は混浴で女体などは見慣れた為にあまり躰を見ても罪悪感が沸かない九郎であった。それに九郎自身、加齢による精神的な落ち着きというか性欲の減退で本人も過剰な反応が浮かばない。肉体年齢は若いのにすっかり歳のせいで駄目なのだ。
精々、
(胸は大きかったが腹や手は痩せておったな……酒だけでなく栄養を取ったほうが)
と、心配するぐらいであった。
暫し枕を抱えて、持ってきた酒をちびちびと飲んでいたが小粒の雨が降ってきたので彼は顔をしかめて、
「おぅい、悪かったなあ。ところでもう入ってもいいか?」
外から尋ねると子興の呆れたような、
「まだ居たんだ……」
と、呟きが聞こえた後に石燕から、
「どうぞ入ってきたまえ」
許可が降りたので特に気負いも無く戸を開けて入った。
先ほどと変わらず石燕は布団から上体を起こしているが、先ほどと違って着衣している。
いつもは喪服を着ているが、病床で臥せっている石燕の着ているのは、
「まるで死装束だの……」
と、真っ白な和服を着ている石燕を評した。ご丁寧に、左前を合わせている。石燕の顔は白かったが、先ほどの事があったからか頬だけ幾らか血色の良い色を残していた。
そうでなければ死人のようだ、と九郎は思った。
子興はうんざりしたように、
「趣味悪いでしょ? うちの師匠」
「年中喪服を着ている時点で相当だがな」
「そう褒めないでくれたまえ……うん? 九郎くん、それは……」
九郎が持ってきた徳利を震える指で差したので、軽く掲げて見せた。
「見舞いの品に、と持ってきた生姜焼酎だ。体が温まるぞ」
「さ、さささ酒! 酒だ! 助かった! く、く、九郎くん早く椀を持ってきて……いや、直接飲ませてくれ!」
「アル中だこれ!」
布団から這い出て九郎(酒)の所へ行こうとする石燕を子興が押しとどめる。
「駄目ですって師匠! 体弱ってる時こそ禁酒!」
「なななななにを云うのかね子興、この震えを見よ! これでは筆も握れない……恐ろしい寒気を止めるには体を温めねば……つまり酒だよ! 頭が痛むのも腹が痛むのも酒を飲めば痛みに耐えられるのだ!」
「涙を流しながら言わないでください! 酒を飲んでないと震える手は別の病気ー! もう、九郎っちも何とか云ってやってよ!」
九郎は呆れた顔で自分が飲んでいた盃に酒を注いだ。
「まあ少しぐらいはいいであろう。薬酒のようなものだからのう。ほら、石燕も泣いてるぐらいだから少しだけ……」
「ああもう、この飲兵衛を甘やかして……」
ため息と共に額に手を当てる子興であった。
本気で手が震えている石燕に盃を渡して零されても仕方ないので、彼女の口元まで持って行ってやると乾いた喉を潤す水のようにすっと口の中に焼酎が消えていった。熱い湯で割って飲ませようと思っていたのだがそれどころではないらしい。
するとピタリと震えが止まるのだから、
「末期的過ぎる……」
と、額に手を当てていた子興がその手を下にずらし目元を隠して嘆くのであった。
石燕も若い体なのに難儀なことであるようだ。
酒は好きだがすぐにほろ酔いになる石燕は、二杯も呑めば徐々にいい気分になってきたようである。生姜の作用が胃の腑からじわりと効いて体を温める。
目を背けたくなるほど嬉しそうな酒酔いの笑顔を見せて石燕は云う。
「ありがとう九郎くん。最高のお見舞いだよ。君は恩人だ!」
「休みだと思うていたお主の肝臓にとっては敵かもしれぬが……」
「ふふふ九郎くん、酷使されているのが常態となった労働者は休みを貰うと体調を崩す、とか英国人は言っていたと長崎で聞いたことがあるよ」
「それ明らかに駄目な状態だからな!?」
「教えてくれた和蘭陀人も英国は奴隷と資本家と魔女の婆さんしか居ないと言っていたぐらいだからね……」
黒い冗談のような英国の話に石燕はふう、と酒の匂いのする息を吐いた。
その吐息には薬湯の匂いも複雑に混じっており、九郎はそれを感じて、
(寝ていれば治るような病気では無かったようであるな……)
と、まだ陰の残る石燕の顔を見ながらそう思ったのである。
そんな九郎の心配を見て取ったのか、平気そうに笑いながら石燕は手を軽く振った。
「大丈夫だよ、将翁からも薬を貰ったからね。あれの見た目は胡散臭いけれども、腕は確かさ」
「なれば良いのだが」
「この前取れた生きの良い高麗人蔘を使った薬だとか……ええと、面白かったから絵に描いたけれど、こんな人の顔のような模様の在る人参だった」
「マンドラゴラみたいだなそれ」
と、怨念の篭ったような顔のような模様の在る足みたいに根が枝分かれした人参の絵を見ながら九郎は突っ込みを入れた。
異世界で見たことの在る人面根のマンドラゴラにそっくりだった。とはいえ、大自然の恵みは時に妙な形の根を作り出すためにたまたまそのような模様が付くこともあるのである。現代でも面白い形の大根などを写真やニュースで取り上げられるあれである。
マンドラゴラの伝承も、実在するマンドレイクという茄子の仲間の根が複雑な形であり、毒を含むために伝わったのである。
石燕は九郎の指摘には特に何も言わずに何処か面白げに指を立てて自説を云った。
「私が思うにこれは妖怪[たんたんころりん]の亜種だね!」
「なんだそのファンシーな名前の妖怪は」
「仙台藩に伝わる妖怪でね、食われなかった柿がおっさんの姿に変身こほっ……それで尻から、げほっ……」
「おい、その凄くどうでも良さそうな話はいいから寝ておれ」
咳き込んだ石燕の話を止める。おっさんの尻に関わる話で有意義な内容が思いつかない。
子興が心配そうに、石燕の上体を抱くように掴んで寝かせてやった。
本人も見た目よりは辛いのか素直に従って、それでも笑みを浮かべたまま弟子の肩に手をやって云った。
「子興。私の看病は九郎くんが見てくれるから今のうちに買い物にでも行ってきたまえ。ただでさえここは売り歩きが来ないのだから備蓄が少ないだろう」
「え、でも」
と、九郎の方を見るが彼も小さく頷き、
「うむ、任せておけ」
応えたので、子興も石燕の看病を任すつもりになったようであった。
準備をして子興が出て行った後にすぐである。
石燕が指を、部屋の一角に向けて九郎へ指示を出した。
「九郎くん、そこの隅……床板が外れるようになっているから、少し見てくれるかね」
「ああ、構わぬが……」
近寄り、床板に触れるとたしかにそこだけ正方形の床板が独立している。
九郎は指先を引っ掛けると意外に軽く蓋になっていた床は外れた。
床下には何個か小さめの壺が置かれている。
(梅漬けか?)
思って、持ち上げると中身は液体のようだった。なんとなく、予想がついた。
後ろから声がかかる。
「いや、酒が切れていたのだけれど子興がいると買ってくれないし隠していたのを飲めないしで困っていたのだよ」
「はにかんだように言うことか」
「ともあれ口煩い弟子は居なくなったのだ! さあ九郎くん酒宴と行こうではないか!」
はしゃぐ石燕を半目で睨む九郎に、やがて空元気もすぐに燃料切れして冷や汗を流しながら石燕は目を逸らして呟いた。
「……すぐ酔い潰れると思うので見逃して下さい」
「はあ……仕方ないのう。気分が悪くなったらすぐに言うのだぞ」
と、諦めて九郎は酒壷を持ち石燕の側まで持っていった。
柄杓はないかと見回すと丁度あったので取ったそれは、
「底が抜けている……」
「それは船幽霊対策だね」
「ええい、紛らわしい」
と、台所まで行って柄杓と盃を持ってきた。
石燕に酒を注いだ盃を渡すと、彼女はゆっくりと、だがそのまま喉に流すように一息で飲み込んだ。
九郎は彼女の酒好きには顔負けして自分も酒を汲んで頂くことにした。
「うう、効く……」
「本当に大丈夫かお主。余計に体を毀すで無いぞ」
「心配してくれるのだね」
「当たり前だろう。若い身空で早死などするものではない。年寄りが一番嫌なのは、早死する子や孫なのだ」
「九郎くんは子供が居たのかね?」
「いや、生憎と縁がなくてな。だが孫のような奴は居たからのう……まあ、其奴は風邪などひかなかったが」
話しながら、ぐいと石燕が酒をまた煽ると笑みのような苦痛に堪えるような歪んだ表情をしながら、胃の下──膵臓のあたりを抑えながら、
「あいたたた……」
などと云うものだからさすがに九郎も、
「本格的に危なくないか。もう酒は止めておけ」
「ふ、ふふふ。大丈夫だよ、九郎くん。と、いうかだね」
脂汗を浮かべて髪がやや顔に張り付いた蒼然な顔で彼女は云う。
「──酒を飲んで頭を誤魔化さないと、体中が痛くて堪らないのだよ。困ってしまうね」
「……お主、それもう風邪ではないだろう」
「風邪さ。知っているかね? 世界で一番死人が出ている病気は風邪なのだよ?」
彼女は儚い笑みを浮かべながらそう云う。
どうにも、本格的に体が悪そうなので九郎は周囲を見回しながら尋ねた。
「この前己れが売った薬は飲んだか?」
「……傷薬のようだったが、あれで病気が治るのかね?」
「さすがに内臓が痛むというのは毀れている範疇であろう。傷んだ器官を直して、養生していれば治る……と、思う。なにせ己れの居た世界ではあれを病気に使う人間など居らなかったから確信は無いがな」
「ふむ。便利な薬なら使いそうなものだけれど」
「薬の値段が高いからな。家が土地付きで買えるぐらいはするぞ、これは。そもそもあっちではまじないで治してしまえるものが多い。というか飲んでおらぬのか」
「いや、少しは飲もうかと思ったのだがね?」
言いながら彼女は枕の下に置いていた小瓶を取り出して、躊躇う表情を見せながら云う。
「──やたら独特の臭いがなんとも服用を拒んでしまってね。甘い蜜とかで割っていいかな、これ……」
「いや、子供じゃないのだから普通に飲め。安心せよ、催吐作用は無いぞ」
「ううう……はっ! そうだ。ふふふ九郎くんが口移しで飲ませてくれるのならいける気がするよ! さあいざ!」
軽いノリで誤魔化すように彼女は笑いながら手を広げるので、九郎は「ふむ」と薬瓶を取り上げて、
「ま、それぐらいならよかろう」
「え」
「ほれ、口移しで飲ませてやるから目を瞑っておれ」
「い、いやちょっとろくに旗も立ててないのにすっ飛ばして発生していいのかなこれ心の準備がしかしこれを逃すと二度こない気がする状況! 暗闇の中にこそ未来はある! 覚悟とは運命を越える行動だ! よ、よ、よし」
慌てたように捲し立てて石燕は薄い色の唇を突き出したまま目を閉じた。
九郎は無言で彼女の眼鏡を取ってやり、顎を押さえる手を当てた。彼が触れる度に怯えたように石燕の体が小さく跳ねた。
そして、
「──かかったな阿呆が……!」
九郎は蓋を開けた薬瓶を石燕の口腔へ無造作に突っ込んで中身を流し込んだ。欺瞞! 口移しをするなど嘘であったのだ。
「ぬあああ!」
口の中にぬるりとした薬液が染み込み、異様な不味さと風味に脳が不快感を示して涙と叫びが石燕から発せられた。
寿命が縮みそうな味だった。これが霊薬などとは絶対に嘘だ。こんなものを始皇帝に渡したら死んだ方がマシな刑罰を受ける。そう石燕は思ってしまう程である。
敢えてその風味を言葉にするならば、
「く、九郎くん……この薬……やたらおっさん臭いのだが」
「……ああ、思い出した。薬の名前な、[オッサンーヌの髄液]というのだった。そうそう」
「飲んだ後知りたくなかった! うう、気持ちが悪い」
あまりに気分が悪くなってきて石燕はふらりと布団に倒れこんだ。
九郎も彼女に布団を掛けて、
「もう寝ておれ。起きれば治っておるだろうよ」
酒も回ってきたのだろう。顔を赤くしている彼女は横になって気分が落ち着いたのかうつらうつらとし始めている。
布団の隣で座る九郎へ顔を向けながら目を細めて今にも眠りそうだった。
「ああ、眼鏡は枕元の木箱に入れておいてくれたまえ……」
言われて、九郎は持ったままだった彼女の眼鏡を専用のケースらしいものに入れる。
当たり前だったが現代のフレーム製眼鏡よりも重く、仰向けに目を閉じている石燕の鼻や耳元にメガネの痕が付いていたために、暖かくした濡れ布巾で拭ってやる。
眼鏡を外している猫のように気持ちよさそうな石燕の顔は、いつもより幼く、か弱く見えた。病人だから当たり前なのだが……。
「……九郎くん、……駄目だ、何か……今際の際に面白い事を言わねば……頭が回らない」
「もうよいから寝ろ。起きれば治っておる」
「宇宙とは……未来とは……進化とは……らぐーすとは……」
「妙な発言せずに寝ていろ……!」
「ふふふ、おやすみ、くろう……」
言いながら、すうと息を吐いた石燕の呼吸が寝息に変わるまで時間は掛からなかった。
九郎は石燕の目の前に手を二三度振って、完全に眠っていることをなんとなく確認する。
そして嘆息して呻いた。
「まったく……早く寝ておればこちらも対処出来るというに」
と、懐の術符フォルダを探り、体力回復の魔法が込められた術符[快癒符]を彼女の喉元に貼った。病を治す術符は持っていないが、これは体力……主に失われた各種栄養素や筋肉骨等の消耗疲労を魔力で補う符である。
ちょっとした病気ならば、内臓の不調を薬で癒して体力が万全の状態で休息していれば自然と治る筈だ。身体的回復の副次効果として睡眠も符によってもたらされ、一晩は起きないはずだ。
ただ、これを含む術符は何故か石燕に堂々と見せる気にはならなかった。他の者にはそうでないのに、不思議と忌避感を覚える。九郎自身にもわからぬことだし、石燕も深くは追求してこないが、
(此奴に貸したら悪用……というか悪戯に使われそうだからなあ)
と、九郎は考えている。
眠った石燕の額に浮かぶ汗を拭ってやりながら、次第に楽そうな呼吸になっていくのを見て、安心したように微笑んだ。弱った友人の姿を見るのはどうにも忍びない。
石燕はどこか苦手だが、嫌いなわけではないのだ。
(……こういう手合は魔女で慣れておるからのう)
魔女と過ごした無駄に傍迷惑だった記憶の扉が開きかけたが、よい思い出ばかりではないので心の御洒落小箱に仕舞ったままにすることに決めた。
時には振り向かないことも大事だと今までの人生から学んでいる。
(『過去とは椅子のようなものだ。ずっと座ると臭くなるので疲れた時にだけ頼るといい』という格言を残したのは確かヤク中で四本足恐怖症になり椅子を噛み砕いて自殺したハリウッド監督だったか……)
朧気な記憶も過去のものだ。さほど頼りにならないが、使いどころを間違いさえしなければ満足はできる。
さて……。
九郎は暇なので絵の多い本を読み、子興が帰ってくるまで時間を潰すのであった。
暫く経ち時刻は六ツ(午後六時)程だったがさめざめと雨を降らす分厚い雲のせいで随分と昏い。
九郎が行灯の蝋燭に火をつけて待っていると、頭に笠を被ってはいるがびっしょりと濡れた子興が帰ってきた。
情けない顔で涙声さえ漏らし、
「うええ、九郎っちー凄い雨で濡れたよー」
「蓑でも被ってくれば良かったのになあ」
「女が被るものじゃないってあれ……」
着物からぽたぽたと水を垂らす子興に手ぬぐいを投げて渡す。
「お主まで風邪を引くでないぞ。ほら、拭いて着替えよ」
「ありが……はっ。九郎っちそうやってまた着替えを見ようと」
「いや。一寸も興味が」
「断言されるとそれはそれで哀しいよ、もう! まあでもよく考えれば九郎っちぐらいの子供に見られてもどうってことは無いよね。あと出来ればお風呂でも沸かしてくれるとお姉さん嬉しいかな!」
「仕方ないのう」
と、九郎は子興が着替える間に浴場へのそのそと歩いて行った。
石燕宅の風呂場はやや浅めの木造浴槽で、外から火を炊いて温める部分は金属製になっていて熱伝導がよく作られていた。洗い場も二三人居れそうで立派な風呂である。排水機構まで考えられていて九郎は少しの間、風呂の構造をまじまじと触ったり屈んだりして観察していた。
大きな水瓶に水が溜まっている。子興が井戸から水を汲んで一杯にさせている風呂用のものである。
九郎はひょいと十貫(約三十七・五キログラム)以上はありそうな水瓶を持ち上げて浴槽に流した。九郎の体重の半分以上もある重さだが、重心が安定していてバランス感覚も妙に優れているところがあるのでよろけることもなく持つことができる。
腰まで浸かる程度の水の深さに入れて、水面に[炎熱符]を触れさせ発動させた。
「ん、しまった熱くし過ぎたか……まあいいか」
あっと云う間に湯を沸かし、温度を確認して部屋に戻るのであった。薪を燃やして温めるには外は雨模様で時間がかかりそうだったので……つまり面倒だったのである。
部屋の中では髪を解いた子興が着替えのゆるい単衣を軽く羽織って、
「うへえ……」
と呟きながら濡れた服を玄関近くに干していたので、
「子興や、湯が沸いたぞ」
九郎の声に胡乱げに子興が返す。
「え? 嘘でしょ? 早すぎないかな……くしょん」
「いいから入って来い。見ているだけで寒そうだ」
「はぁい」
九郎の言葉に従い、さむいさむいと呟きながら身を縮めつつ風呂場に向かっていく子興であった。
湯気の立つ風呂を見て嬉しそうな声を上げる。
「わあ、一番風呂なんて久しぶり……熱う!?」
上がった叫びは、とりあえず無視した。
雨は上がらなそうであった。
****
夢の中でも彼女は仰向けになり布団で寝ていた。
ぼやける視界に何かが動いているが、眼鏡をかけていない為か人物だということしかわからない。
額に濡れ手拭いが乗せられている。妙に天井が近く視線が高いことに気づいて、どうやら床に敷いた布団ではなく寝台に乗って寝ているのだと気づいた。
「お主でも風邪は引くのだな」
聞いたことのない声が聞こえて、返事をしようとしたが声は出ずに口だけぱくぱくと動いた。
「喉が乾いたか? ほら、水差しだ」
寝ている体勢のまま、急須の口のようなものを差し出されてこくこくと中の冷たく、わずかに甘い水を嚥下した。
「あいつを呼んできてやるから今は寝ておれ」
そう言って、目の前で動いていた誰かが立ち去ろうとしたので咄嗟にその袖を掴んだ。
すると誰かは振り向いて、困ったように頭を掻きながら寝台の隣にある椅子に座って何処かへ行こうとするのを止めた。
何故か彼が遠くに行くことが寂しくて堪らなかった。
(一体誰なのだろうか)
考えて確認するために滲んだ目を凝らすと、やがて輪郭がはっきりと見えてきた。
そこに居たのは──知らないおっさんだった。
****
……雨の上がった翌朝のことだ。
未だ外の景色は青さが残るほど日が出て浅い時間であった。夕暮れのたそがれ時に対して、同じく薄暗く相手がわからないという意味のかはたれ時とも人に呼ばれる。
妖怪の時間でもある。
朝河岸に出かける魚売や朝まずめを狙う釣り人などが、神楽坂を通ると怪鳥のような叫び声を時折聞くという……。
じっとりと湿った布団で魘されていた子興は目覚めの衝撃を受けた。
「──誰だあのおっさーん! ふふふ遅い遅い喰らえ私の弟子よ!」
「ごえーっ! ……しまった、師匠寝込んでたから油断したっ!」
と、師である石燕よりも遅く寝ている子興は、布団の上からボディプレスを仕掛けられるのも珍しくなかった。
死装束を着ている石燕が元気に跳ね起きてちょっかいを掛けているのである。
子興は掛け布団の上から伸し掛かられて眠気と圧迫感にさいなまれたうめき声を上げる。
優雅に子興の上に座り直して、石燕はきょろきょろと見回しながら、
「あれ? 九郎くんは何処だね? あの状況だと、
『雨が強くなったので家に泊まっていきなよ九郎っち』
『仕方ないのう……ではこの巨乳のあたりに寝かせてもらうか』
と、私の布団で寝ているはずではないのかね子興! どうなってるのだね! 説明を要求する!」
「九郎っちの性格上そんな事いいませんよ!? 普通に雨の中帰りましたってば!」
「なんだって? ……気の利かない弟子だね!」
叱責した後にひょいと跳ね上がるように立ち上がった石燕。
そして改めて伸びをして──違和感に動きを凍らせた。
体を四六時中釘打たれているような痛みも、抑えねば血を吐きそうな嫌悪感も、腐り落ちる寸前に感じる熱を伴う目や手足の痺れも消えていて──くすぐったく感じるほどに健康的な目覚めだったのだ。
膝をついた。
「師匠どうしたんですか!? 病み上がりに暴れるから……って泣いてる!?」
「子興。健康って素晴らしいね……」
当然のことだったが、失くして、取り戻して、すると涙が出るほどだった。
常に痛み続ける体は呪いの毒に蝕まれているようだったし、それに耐える人生など地獄のようなものだったのだが。
「師匠……」
子興にはその感覚を共有できないが、病弱だった師が良くなったということだけは把握できた。石燕は顔をばっと上げて、
「快癒祝いだ! 子興! 酒を持ってきたまえ!」
「ああもう治ったら治ったで駄目だなこの人!」
早朝から飲酒の要求を行う師に呆れるのであった。
「それにしても九郎くんには礼をしないといけないね。そういえば何か尋ねようとしたことがあった気が……それに妙な夢を見たような」
起き上がってぴんしゃんと動く足で部屋の中を歩きまわり思い出そうとするが浮かんで来なかった。
思い出したい内容を忘れることは石燕にとって稀だった為に自身でも不思議そうにしている。その気になれば十年前に読んだ草双紙の文章を一言足りとも間違えずに思い出せるしその日の夢日記も書ける程なのだが……。
やがて諦めたように背伸びをして、
「思い出せないと言うことはあまり大したことでは無いということだね」
「多分そうだよ師匠」
「ちなみに、こんな科白を言ったことに限って異様に大事なことだったりするのだよ」
「じゃあ思い出そうよ師匠!?」
「ふふふ無理なものは無理なのだ、さて」
と、日課の飼っている海星に餌のあさりを数枚水槽に入れてやる。水は二日に一度ほど変えているが、それは子興の仕事だった。
徐々に上がってきた日が江戸の町を照らし始め、家の窓からも差し込み始めた。
「具合も良くなったし、風呂にでも入って──今日も九郎くんのところへ遊びに行くかね。子興、準備を」
「はぁい」
死人装束にしては随分と健康的な気配になった石燕は意気揚々とそう告げた。
雨上がりの匂いが日を浴びて地面から上がってきている。
本格的な夏も近い。
「おはよう九郎くん。ふふふいい天気だね江ノ島にでも旅行に行かないかねー!」
意欲満々な雰囲気でいつも通りの喪服を着た石燕が、高く声を張りながら緑のむじな亭へ突入した。
朝酒の効果もありやけに気力に満ちあふれている。すっかり健康体になった体力を持て余しているようにも見えた。
緑のむじな亭は、あいにくとその日はまだ客入りが無かったが看板娘のお房が石燕へ対応する。
「おはよう先生。病み上がりなんだからもっとゆっくりしてればいいのに」
「房よ、人生は短く儚いのだよ。ぐずぐずせずに胸の宴陣に火をつけてためらわないことさ! という訳で九郎くん遊ぼう! ……あれ? 突っ込みが来ないと思ったら居ない……」
石燕は店の中で推定、朝から飲酒している筈の九郎を探した。
しかしながら九郎は酒好きであるものの朝飯はしっかり白い飯を食べるようにしているので石燕の見方は偏見とも言える。飯の代わりに酒だけ飲むようになったら相当危険な状態だ。
お房が二階を意識しながら、
「九郎だったら朝ごはん食べた後に布団へ出戻りしたままなの。基本的にぐうたらなのよねあいつ……」
「ふむそれは……面白い」
もしかしたら自分の風邪を移してしまって寝込んでいるのかもしれない。
どちらにせよ、石燕は眼鏡を光らせて、にぃ、と笑った。
「看病の必要があるね! 待っていたまえ九郎くん!」
と、履物を脱いで二階への階段を登ろうとした。
だが慌てていたのか急な動きで鈍った体がついて行かなかったのか、思いっきり滑り踏み外して側頭部を階段のへりで強打するのであった。
がつっ、と鈍い音がして、苦痛の息を吐きながら石燕は頭を抱えてうずくまる。
「うごごご……むむむ……無とはいったい……」
「せ、先生大丈夫なの!? 凄い音がしたけど!」
「はっ、すべて思い出した。大予言によれば江戸は滅亡する!」
「ふう……大丈夫そうなの。いつものいかれっぷりだから」
施す治療も薬もないと云った様子でお房は店の掃除に戻った。
真面目な顔で頭を抑えている石燕が、
「早く九郎くんにこの危機を伝えなくては……!」
と、再び二階へ走り向かった。
障子で遮られた一室の扉を開けると、
「……あっ」
仰向けに乱れた布団に寝ている九郎の隣にひっついて──陰間の好色少年・玉菊が居た。
石燕は状況を察して、懐から紙と筆を取り出して凄まじい勢いで筆を走らせ状況を描く。
さらさらと見事に少年と男の娘の絡みを描いた危絵を作成したのだ。
彼女のもう一つの名──同性愛から触手系などの特殊性癖までカバーする春画師[ぬらぬら☆うひょん]は満足が云ったように頷いた。
「……さて、なんか伝えるべき事があった気がするがとりあえずこれを版元に持っていくか」
その呟きに九郎が眠そうな呻きを上げながら目を覚ます。
「む……石燕か……? 具合はどう──」
そこまで言って、自分の布団で寝ている玉菊に気づいた。
即座に首根っこを掴んで窓から放り投げる。ここは二階であったのだが。
「いやあああ!? 陰間秘技[二つ巴]!」
叫びながら猫めいた動きで空中で体勢を変えて地面に安全に着地する玉菊に九郎が窓から不機嫌そうな半眼で見下ろしながら云う。
「何故ここにおるのだ」
「投げる前に聞いて欲しかったでありんす!? 深い訳があって布団に入り込んでいたというのに!」
「言ってみろ」
「出来心でした。てへっ」
九郎が荷物袋から散弾銃を取り出して窓から構える。鳥銃を持ちだされたと思った玉菊は振り向かずに逃げ出した。 後ろ姿を見ながら九郎は舌打ちをする。
そんなやりとりを朗らかに石燕は見ていて、
「やれやれ、九郎くんの周りは朝から賑やかだね。さて、私はこれで。版元に用事があるのでね」
「? お主、何をしにきたのだ……いや待て。その絵はなんだ。おい」
「表現の自由! 表現の自由だよ!」
とりあえず、九郎が己を描かれた春画を取り戻して破くと石燕がマジ泣きした為にそれを目撃したお房にきつく叱られたという……。