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12話『お房と九郎のぶらり街歩き』

 九郎がお房を連れて遊びに行くのは週に一二度ある事だった。

 店の手伝いをしているお房を九郎が己の遊行に付き合わせるのは、まだ九つの子供ならば遊びもまた子供の仕事のうちだと考える老爺心からくるものである。

 店もそこまで繁盛して居らず、六科はいつも「構わん」と許可を出すので、お房は無理やり付き合わされた体を見せつつもそれなりに楽しんでいるようであった。

 お房が一生懸命店のために働いていることについて、六科と酒を飲みながら話し合ったことがあるが、


「あれに『遊びに行こう』と言われるたびに『待ってろ。すぐ店を閉める』と答えているうちに遠慮するようになってしまった」


 と、六科自身もお房を遊びに出かけさせたいのだが、生活費を稼がないといけない店との両立は難しく、またその事実に幼いながらもお房が察してしまっているのである。

 幼い娘を一人遊びに出かけさせるのも、


「危険だ」


 と、六科はいつものむっつりとした顔で云う。

 確かに迷子になったり、どこぞの稚児趣味の同心に引っかかったりしては危ない。江戸は当時の世界でも有数に治安の良い都市であったが、現代とは比べるべくもなく危険は多いのだ。

 そのような事情もあり、九郎が遊びに連れて行くのも六科から直接頼まれたわけではないが、六科もありがたく思っている。

 感情の起伏が薄い彼でも娘は一番大事に思っているのであった。



 其の日も九郎とお房は浅草寺で浅草餅をもっちもっちと食べていた。

 毎日の賑わいを見せるのは現代でも変わらないが、多種多様な大道芸を見ながら濃い目の茶を啜りひたすらにもっちもっちと浅草餅を頬張る。

 九郎が指を向けながら、


「おお、見よフサ子や、あれは可也ヤバイ角度だぞ」

「確かにとんでもない角度なの」


 見世物の大道芸を見ながら感嘆の声を上げる。それほどの角度であった。



 ****



 神社仏閣の境内でやる大道芸は、長屋の食い詰めが閻魔の格好をするのとはものが違う。

 場所代も払わなければならないだけあって、自信の有りそうな猛者が揃い各々の芸を見せていた。小男が大男の肩の上で宙返りを披露したり、玉薬(シャボン液のことを当時こう云った)を使って幻想的な光景を見せたり……


「さあさあお立会い、これからあの男の頭に置いた西瓜を、私が投げたる小柄で見事に撃ち抜いて見せましょう! 一度当たればちょいと立ち止まり、二度当たれば拍手喝采。三度目となりゃあ私にお捻りを投げつけてくんなしい」


 人の良さそうな声で朗々と告げる芸人が居た。

 三間ほど離れた位置に、猿轡を噛ませられて太い木に荒縄で縛られた男が目を見開いて足をばたつかせている。

 其の頭に拳ほどの小玉でまだ成熟していない西瓜が乗っており、通りかかる人はその男の泡を食ってる様子から実に真剣味があって見入るのであった。

 小柄(ちょっとした物を切ったり髷の手入れをする小刀である)を持った髭の芸人らしき男は手指にそれを挟んで肉食獣のような目で笑ったまま、


「そぉら!」


 がん、と頭蓋骨に当たったら突き刺さりそうな音を立てて、西瓜に小柄が刺さり後ろの木に縫い止めた。


「も、いっちょう!」


 再び手を振るうと目にも見えぬ速度で飛来した小柄が西瓜の蔕を切り飛ばすように命中して衆人は拍手を送った。

 西瓜を頭に載せた男はバタついた足も止めて今にも気絶しそうだ。


「最後ぉ!」


 三度目である。如何な威力で小柄を投げたのか、頭の上の西瓜が爆発するように弾け飛んだ。

 男は失禁したようで見ていた人は大笑しながら小柄を投げた芸人に次々と惜しみなく銭を放った。


「どうもどうも、へへへ」


 銭を回収し、客衆が散った後に男は青行燈のような顔色になった男に近寄り猿轡を解き、


「おい、次ぁ当てるかもしれねぇぞ。さっさと洗いざらいぶちまけちまえ」

「ひいい……っ」


 怖ろしい顔で詰め寄りながら人気のないところに連れ込んでいくのを九郎は見ていた。

 というか、知り合いである死ぬほど物騒な定評のある同心、中山影兵衛であった。尋問ついでにあのようなことをしていたらしい。

 

「何をやっておるのだあの男……」

「知り合いなの?」

「お主の教育に悪いから知らんぷりだ」


 苦い顔で云う。手を引いて離れていくが、なにやら影兵衛は境内で失禁させたことで坊主に叱られていた。

 大道芸だけではなく屋台も多く出ていて飲み食いに浅草寺周辺だけでも困らない。

 現代とは一風変わった店だと、小さな鉢に入れた植物の苗まで売っているところだろうか。江戸ではその二百五十年程の歴史の間、だいたい園芸ブームであったという。庭のないワンルームアパートのような狭さの長屋でも、鉢に植物を植えて育てていた。安定した人気物は朝顔で、お房も育てている。

 酒を出す屋台も多く、現代のように世界中の酒が手に入るわけではないので中には変わった味付けをして独自のものを売りだそうとした酒屋も見られた。


「むっ……お房よ。見ろ、雲丹酒だと……どんな味なのだ」

「まずそうなの」

「ぐへぇ生臭い! 店主! 普通の酒をもう一杯!」

「間髪入れずに飲んでるんじゃないの!」


 ウニの卵を酒で溶いてちょいと醤油で味付けしたようなものだったが、さすがにきつく九郎は口の中を即座に熱いで洗い流した。

 すると生臭さがすっと消えて鼻についた磯の香りも随分と大人しくなるのだから、


「さてはこの店主、確信犯……」


 と、予め熱燗を用意している店主をじつと見るのであった。

 昼間から酒を飲んでいる九郎であったが江戸では珍しいことではない。酒は気付けの飲み物、軽い栄養ドリンク感覚で町人は愛飲しており、金銭に余裕があれば朝出かける前に一杯、なども行なっていたようだ。

 江戸っ子が喧嘩っ早いのは常にほろ酔いだったからだ、という説も有るほどである。

 とはいえ、九郎のような子供の体をしたものが一日に一升も二升も飲むのはさすがに見ないものであったが。

 特にこの時代は新田の開発が盛んに行われていた事で米価が安くなっていて、其れに伴い大岡越前が行った"物価引き下げ令"の制定と、商人の買い占めと値段の吊り上げを止めさせて、酒、酢、味噌などの米製品だけではなく、油や織物など日用品までこれまでよりも安く流通するようになっていたのだから酒飲みも増えるはずである。

 表向きは吉宗の倹約令を受け入れつつも町人たちは徐々に豊かになりつつある生活を楽しんでいた。

 

「へぇいらっしゃい飴だよう、当たり付きの棒飴、一つ三文だ」

「あ、九郎あたいあれ欲しい!」

「よしよし」


 と、売り子の声に誘われて飴売りに近寄る。

 涼し気な単衣を着て塗り笠を被っている、髭も綺麗に剃って眉も薄いすっきりした男であった。

 青田刈りの利悟である。


「……おせんべい売りはこっちだったかしら」

「ううむあっちではないかな」

「ああっ露骨に逃げられそうに!」


 慌てて呼び止める利悟であった。


「待ってくれ九郎にお房ちゃん! 拙者今は疚しい事無く小さな商売しているだけだろ!?」

「今は、て……まあいいが。しかし、先ほど影兵衛も見たがお主ら同心、他で稼いでる程に給料少ないのか」 

「いやまあそれもあるんだけど……」


 言葉を濁す。

 大名屋敷や商屋に出入りして副収入のある同心は江戸でも良い暮らしをしているのであったが、利悟は今ひとつ人望が無くてあまり裕福ではないのであった。

 利悟は塗り笠をつまみながら周囲に視線を配って小さな声で囁く。

 

「[飛び小僧]っていう盗人がいてな、大名屋敷から金を盗みまくってる奴なんだけど……それがこの辺りに普段はいるんじゃないかって話になって同心や手先がこっそりとこうして人の様子を伺ってるってわけさ」


 実直な眼差しで道行く子供の足首などを眺めているこの同心は、頭におがくずでも詰まっているのではないかと九郎が軽く蔑んだ目で見た。

 [飛び小僧]はここ数年、江戸で盗人勤めをしている恐らく単独と思われる者である。千代田区内の旗本屋敷や大名の上屋敷に忍び込み盗みを働いている。殆ど盗まれる方も気づかない程静かに仕事をするのだったが、一度だけ見つかった時は屋根の上を蚤のように跳ねまわって神田の堀に飛び込み逃げていったという。

 この辺りを張っているのはなんとも雲を掴むような話なのだが、[飛び小僧]が仕事を行った日あたりに必ず、この近辺の大きな寺か神社の何処かに盗まれたと思しき一両小判が放り込まれているのである。神主や坊主が気づき奉行所に話が言ったのである。賽銭自体は、どこから盗まれたものかわからぬから寺社の預りになっているが……

 盗人が信心深いとは妙な話だが、それでも手がかりは当たらなくてはならない。浅草寺だけではなく湯島のあたりにも奉行所や火盗改の手のものが探りを入れているはずである。ただ、火盗改は強権を使って乱暴な手段に出ている可能性もある。

 ともあれこの場では怪しいやつを利悟の勘働きで見つけて話を聞くしか無いのであった。


「夏場になると少年少女が薄着になるから嬉しい季節だよなあ……拙者の小僧がたまらん」

 

 脳内のおがくずに菌類でも繁殖して茸が生えてそうな利悟を気味が悪そうに九郎は身を引かせた。

 少なくとも手は出していないから個人の趣味の範疇だと諦めて、売っている飴を手に取る。

 細い箸のような棒の取っ手部分から先を白い飴が覆い隠すように付けられている。

 利悟が無害な飴屋の顔を装い解説するに、


「甘酒と飴を絡めて作ったもので、すぐに舐め解かせるんだ。中の箸に赤い色が塗ってあったらもう一本おまけ」

「そうだの……フサ子も欲しがっとるから二本貰おうか」

「ありがたい」


 と、六文渡して棒飴を一本ずつ貰い、折角なのでその場で舐めた。

 甘酒の微かな酒粕の味がする工夫された飴だ。売り方も当たり付きで購買意欲を増やし棒をその場で回収できるようにしている、中々に売り方を考えている商売だと九郎が一瞬感心した。

 だが、すぐに気づいた。

 白い棒状のものを一生懸命舐めているお房を、悦に浸ってる顔で利悟が見て記憶に焼き付けているようであった。

 そして、その舐めきった箸は利悟が回収するのである。

 

「……とことん気持ち悪いわこのド変態がっ!」

「がはっ……!」


 利悟の肋の隙間に手刀をぶち込んで器官系に大ダメージを与えると彼は絶息して倒れた。

 九郎は飴を銜えたままのお房の手を引いて稚児趣味のサイコ野郎から離れるのであった。




 ****




 浅草寺を出て何となし、二人の足はぶらりと不忍池に向いた。

 夏の渡り鳥が早くも飛んできている不忍池には蓮の葉が浮かんでおり時折鯉が跳ねる音が聞こえた。

 手頃な草原に座り込み池を眺める。数日の好天に恵まれた為に草から乾いた匂いがして気持ちが良い。現代から見る不忍池の景色は殆ど思い出せないが、見回してもビルディングなどの建物は見えずにまるで山中の池に来たような風景であった。


「いい天気なの」

「まったくだ。ほれ、亀も日光浴をしておる」

「本当だ。でも亀って水の中のほうが好きじゃないの?」

「確か日光浴によってビタミンDを体内で精製しなければ甲羅の強度が……」

「……またわからない言葉で誤魔化そうとして」

「ええい、たまには甲羅も乾かさんとふやけてしまうってだけの話だ」


 疑わしげなお房の視線に九郎は事実ではないが簡単な説明で返した。

 お房は小さく「へえ」と呟いて、九郎を覗きこむようにして、


「九郎は簡単なことを難しい言葉で考え過ぎなの」

「……そうか?」

「大人たちとばっかり話をしてるから格好つけてそういうことになるの。もっと気を抜いていいと思うの」

「結構気楽なつもりだったが……まあそう、確かに」


 欠伸をして草に寝転がる。

 手を枕にして気楽な笑顔で云った。


「たまにはこうして、何もせんでだらけて過ごすのもいいかもしれんなあ」

「そうなの。お酒も抜きで」

「……酒は後で飲むが」

「抜ーきーでー!」

「はっはっは」


 これから江戸で過ごす人生は長いのだ。遊び急いで退屈になっても仕方あるまい、と九郎は考えた。

 辻斬りだの道場破りだの押し入りだの妖怪だのに関わらず、お房とのんびりしている日があっても良いのだ。

 もう異世界で過ごした日々のように戦わなくても……


(あれ? 己れこっちにきて結構戦ってないか?)


 戦わなくてもいいのだ。

 高い空を見あげればふと浮かんだちっぽけな考えなど消えてしまいそうだった。


「お房もほれ、ゆるりとせい」

「ん、よいしょっと」


 と、お房は寝ている九郎の腹を枕に寝転がったが、孫にじゃれつかれている祖父のように九郎はうむうむと頷いて頭を撫でてやった。

 普通に生きて子ができ、孫が生まれればこのような感じだったのかも知れぬと九郎は和む。

 二人でよい日和を感じながら他愛のない会話を続けた。


「そう言えば不忍池はなんで不忍池って云うんだろうなあ」

「さー」

「忍者がいたら忍んじゃ駄目な池なのかもしれん」

「そうなの」


 などと会話していた九郎が、ふと不忍池を見やった。

 池に浮かぶ蓮の葉の隙間からこちらをじっと見ている者を見つけて目を見張った。

 水面から頭だけ出しているその男は、口元と頭を隠した目だけ出している覆面姿であからさまに忍者なのである。


「ぬわっ!?」

「あいたっ」


 急に跳ね起きた九郎のせいで彼を枕にしていたお房が地面に頭をぶつける。

 恨みがましそうに頭を抑えてお房は睨んだ。


「いきなりなんなの!?」

「い、今、池に! 不忍池に忍者が居たのだ!」

「はあ?」


 お房が振り返って池を見るが、先ほど顔だけ出していた忍者は消えている。

 余計腹立たし気に、九郎へ向いてお房は云う。


「なにも居ないじゃない」


 そういった彼女の頭越しに、再び池の中からぬっと忍者が顔を出していた。

 

「居る! 忍んでない!」

「んん?」


 お房の動きと連動するようにすっと池に沈む忍者。

 

「やっぱりなにも居ないの」


 お房が九郎に詰め寄るとぬっと忍者が出てくる。

 九郎は頭を抱えて悶えた。


(なんで忍者が……!?)


 混乱する。しかも今度は事態が進行して、お房の背後で、池から上がった覆面に褌一丁の忍者が水滴を滴らせて苦無を持っているのだ。

 九郎は異世界にも何故か居た忍者を思い出した。正確に云えば東方諸国の職業、ニンジュツ・ヒットマンと呼ばれる暗殺者兼傭兵だったが、目の前に居る忍者のように忍者風覆面に褌スタイルであった。

 一時期傭兵仲間だった為に裸の理由を尋ねてみた事があったが、動きやすさの追求らしい。忍者なのに前線で敵の首を刎ねまくる姿に戦慄したものだったが……


「止まれそこの忍者! 不忍池だからって忍ばなすぎであろう!」


 我ながら何か混乱して間の抜けたことを言っていると自覚するがお房を背中にやりながら前に立つ。

 改めてじっと水に濡れた忍者を見ると、細身ながら鍛えぬかれて、傷も多く見られる体である。手に持つ苦無くないをだらりと構えて、その目はあくまで鋭い。

 目に凄みがある。

 九郎は知れず、握った手に汗が滲んだ。


「お主……何が目的だ」


 尋ねると忍者はすっと手を動かし覆面の口元へやる。口元に隠した手裏剣が投擲されないか警戒すると、相手から声がかけられた。



「いやあ僕、そこの飯屋で店員やってる小介って云うもんで、池で蓮根を取ってたのさあ。あ、これ鼻とか髪に泥を入れないための覆面でして」

 


 九郎は急に恥ずかしくなった。




 ****





 不忍池の周縁に小さな小屋を立てて料理店を営んでいる[穴屋]は、小介と、彼の父二人で経営している店であった。

 九郎とお房はその店で遅めの昼食を取る事となった。濡れた体を拭って清潔な柿色の服と前掛けをつけた小介が料理を運んできた。

 お房は面白そうに笑う。


「九郎ってば、池から上がったこの小介さんを素破と間違えたの? あはは、面白い」

「ええい、忍者……この時代では素破か、それでなくとも不審者であることには違いなかろう!」

「いえいえ、これでも池のお寺からは許可を貰ってるので」

「そういう問題ではないのだが……」


 爽やかな笑みを浮かべる小介に、疲れたように九郎は返した。何も苦無によく似た刃物で蓮根を取らなくても良いのに、と。

 この時代では忍者という言葉は浸透して居らず、精々が忍びか忍び者……或いは素破すっぱという名称が一般的であったようだ。忍者という名称は近年の時代小説によって広まったのである。

 話してみればこの小介という若者も、気持ちのよいさっぱりした性格の男であった。

 早くに母を亡くして父と一緒に暮らしているらしい。元々は武士の家柄らしいが、彼の生まれた時から町人同然の暮らしをしていた為か厭らしさがない。

 彼の父親もまた小介といい、代々嫡男は小介と名乗っているなどと語ってくれた。


 とりあえずつきだしで出された蓮根の胡麻和えに箸を伸ばす。

 蓮根にしっかりと出汁が効いて、胡麻と一緒に振りかけられた辛子の粒が目を細めて頷く程に、うまい。

 お房は辛いから涙目になっていて、一緒に出された剥いた枝豆に鰹節をまぶしたものに手を付け始めた。


「これでは、酒以外なかろう」

「また飲み始めた……」


 げんなりと呻くお房である。

 彼女には酒のような、口辛い液体の何が旨いのかまるでわからなかった。いや、飲んだ記憶はないのだが何故かやたら辛いし額が痛むものだと知っている気がしたのだ。

 そんなお房の前に、暖かな飯と鯉の煮物が持ってこられた。朝方に炊いた飯をお櫃で保温し、蒸して温めなおした飯は湯気が立っている。

 お房は器用な指先で箸を操り、煮物へ手をつける。じっくりと煮込んだ鯉の煮物は小骨や鱗まで半ば溶けたように柔らかく、甘辛い煮汁が染みこんで大層に飯に合う。

 美味そうに飯を口に運び始めれば昼酒への文句も無くなった。

 九郎への煮物は生姜の細切りがたっぷりと入ったものであったが、持ってきた小介がふと気になって自嘲するように声をかけた。


「しかし、歩む時に足音を消しておるとは本当に素破のようであるな」


 冗談のつもりだった。店の床は小石を取り除いたとはいえ地面がそのままであったのに、小介は足を擦る音も踏む音もしなかったのである。

 だが、其の一言で小介が動きを止めた。

 妙な雰囲気に九郎の笑みもぎこちなくなって、誤魔化すように酒を飲んだ。

 小介と店主の老爺の妙な目配せがあった。

 九郎も釣られて厨へ目をやるがそこで内心震え上がった。まな板の横にある鱗取り用の道具がどう見ても苦無なのである。

 続けて、注文していないのに鯉の洗いを小介が持ってきた。酢味噌が添えられているものだが、九郎の前に置く際に彼の耳元でぼそりと、


「素破なんていません。いいね」

「うっ、うむ」


 断言する小介の言葉に、九郎は頷く他無かったのである。

 戦乱の世が終わり、殆どの忍者はその職を失い農民に戻らざるを得なかった。中には里の忍者の署名と共に城や大名屋敷に雇って貰えないかと頼みに言ったものの、一笑に付されて門前払いを食らった忍者も居たとか。

 或いは有名な風魔小太郎、高坂甚内のように盗賊崩れ者も多く居ただろう。江戸の[小僧]と呼ばれる単独の盗人などはまさに忍びの術の如き盗みを働いていた。

 そのような者達も普段は江戸の町民として過去を隠し身上を忍ばせ生活していたに違いない……

 江戸の闇の中、そして日常の光の下にも、今だに素破は生きているのだ。その能力を落とさぬように密かに訓練をしながら。

 

 鯉の洗いはおいしかった。




 ****


 


 店を出てからも二人で湯島天神、神田明神と通って日本橋に辿り着いた。

 日本橋から神田にかけてはは当時の江戸の商業においてメインストリートである。とりあえず、江戸の人が利用するものでその通りに売っていないものはない、とさえ物の本に書かれている程であった。

 五街道(中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中・東海道)につながる陸路の基点であり、河口も近く水運も盛んであった。故に、大阪や京都からのいわゆる「下りもの」と呼ばれるものが多く売られていた、まさに日本の商売の中心地でもある。

 通りの入口には木の門と番所があり、九郎とお房はそこをくぐった。物々しい雰囲気だが、主に夜間警備の関係のためである。

 

「よし、何かここで買うて家に帰るとするか」

「初めて来たけど……凄いお店の数なの」

「はっはっは、フサ子や、ふらふらして迷子になるでないぞ」


 九郎は人の流れに飲まれそうなお房と道の端に寄りながら云ったが、ふと反対の通りの店に目がついた。

 

「おっ! あれは鮭とばではないか! 北海道から来たのか!」

「って自分がちょろちょろしてるの……」


 と、鮭の切り身を潮水で洗い干した鮭とばを買いに走る九郎である。これは火で炙っても美味いが、それを日本酒の中に入れて戻しても美味い。

 1671年に松前藩が蝦夷でシャクシャインの乱を収めた後に、アイヌの自由商売や航行に制限を掛けて蝦夷地からの商品を独占して税を掛けて畿内や江戸に卸しているのである。その分割高では有るが九郎は躊躇わず買うのであった。

 嬉々と紙に包んで持ってくる九郎に呆れながら、手をつないで歩みを再開した。

 暫く歩くと[西川]と屋号の書かれた店をお房は見上げた。

 蚊帳を売っている店である。


「そうだ、去年の冬にお父さんが蚊帳を質に流しちゃったから買わないといけないんだった」

「なに? なんでまた」

「ええと確かその前の夏に冬用の布団を質に入れてて、取り戻すお金がなかったから……」

「……」


 九郎は、六科のその場当たり的な生活に思わず乾いた笑いが漏れた。

 しかし当時の江戸ではその季節ごとに不必要なものは質に預けてしまうような暮らしは普通であった。なにせ、家が狭いのが殆どなのである。

 質屋も布団や蚊帳は生活に必ず必要なものなので、おおよそ大体の客は質料を持って買い戻しに来るので次の季節まで売らずに待っていてくれるのだが……六科の場合はそのまま質に流れてしまったようである。

 どちらにせよ、同じ部屋で寝ている六科とお房の分は兎も角、別の部屋に住んでいる九郎も蚊帳が必要だ。

 折角なのでその老舗で上等な蚊帳を二つ注文したのであった。金は後払いで、店の者が家に持ってきた時に払えば良いのである。

 最近石燕から金を借りるのもATM感覚に慣れてきた九郎なのであった。

 なお、この蚊帳の老舗[西川]は現代も日本橋に有る布団の西川チェーンの前身であるのだが九郎はそこまで覚えていなかった。


 そろそろ家に帰るか、と九郎は考える。いろいろに歩きまわったからお房も楽しんでは居たが、疲れているだろう。  

 道を戻りながら帰る途中でお房はある店の前で立ち止まった。

 妙な材料を店頭に並べているが人入りの多い店で、[紀伊国屋]と看板が立っていた。


「本屋か」

「お薬屋さんなの」

「……」


 恥ずかしい勘違いをした九郎は即座にお房に正された。確かに薬の匂いが通りにまで漂っている。

 漢方薬の老舗である。ここの薬は江戸の土産としても珍重されていて江戸土産にもなっているという。

 ここもまた現代日本にその形を残す店であった。寝具や薬など暮らしに息づいた店は何時の時代でも必要とされるということだろうか。尤も、江戸の人らは多少の怪我や我慢し病気は放っておいて治すという対応をするものが多かったようであるが。

 目安箱で作られたことで有名な養生所も、当初はまったく人が来なかった為にわざわざ江戸中の名士を集めて見学させて説明会を開いた程である。

 この作中の江戸においては、なんでも怪しげな狐面の男が作った薬草の人体実験を幕府が行なっていたとか云う噂すら流れたとか。ただ、小石川養生所が出来るのはまだ数年後である。

 それはともかく……。

 九郎はお房に訊ね、


「何か薬が居るのか?」

「お父さんがお腹壊した時のお薬が欲しいのだけど……」


 と、薬は高価である為か口ごもりながら云う。

 六科は味に無頓着なために時折腐った食べ物でも食らい、腹を壊す事があるのだ。本人は酷い腹痛と下痢に耐えれば問題ないと云うのだが、そのたびにお房は心配になるのである。

 遊びに出かけたというのに家の蚊帳や親の体調を心配しているとは、


(孝行な娘だの……)


 九郎は感心するのだった。

 自分は人生半ばで異世界に行ったっきり親の顔を見ていないので、お房のそのような気遣いがとても尊いように思えた。


「よし、腹痛に良く効くのを買って行こう」

「いいの?」

「親孝行に惜しむ金もあるまい」


 出すのは自分だが、そうしようと決めたお房の気持ちだけで充分である。

 あのような無骨な男でも、こんな優しい娘を育てられるのだ。

 親とは不思議なものであるとつくづく九郎は思うのであった。





 ****





 家に帰ったら六科が腹を抑えて倒れていた。


「どうしたの!?」

「むう……大根漬けに黴が生えていたから……こそぎ落としてから食ったのだが……」

「馬鹿かお主は!」


 早速薬を使う羽目になったという。 


 梅雨時の食べ物には細心の注意と、時にはまるごと捨てる勇気を持たねばならぬ。

 

 

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