11話『藍屋のお八』
晃之介が鴨を捕ってきた。(ちなみに一年中日本に生息する軽鴨の類である)
川に居たのを矢で射って捕らえたらしい。現代だと鳥獣保護がどうとか、法律があった気がした九郎が、この時代のことは知らぬが勝手にとっても大丈夫なのかと訪ねてみたら、
「いいじゃないか、ただなんだし」
と軽い調子で返されたのでまあいいかと九郎も納得するのであった。
晃之介とお八が鍛錬をしている間に九郎が道場の台所を借りて飯の支度をすることにした。
お八は本当に九郎が料理を出来るのかどうか疑わしげだったので、
「まあ見ておれ」
と九郎もやる気を出して取り組むのであった。
剣の打ち込み稽古の音を聞きながら九郎は鴨をてきぱきと解体し、肉と骨を分ける。
術符フォルダを持ってきていたために火元には事欠かなかった。内臓と肉を小削ぎとった鶏がらともみじ(鳥の足である)を鍋に入れて、炎熱術符の強火で煮込む。あくがどんどん出るが掬って濁りを取り、僅かに塩を入れた出汁を作った。
もう一方の鍋に鴨の皮を放り込んで火をいれると、皮から鴨の脂が溶け出し、刻んだ肉と太く切った葱を入れて醤油と酒を入れて時雨煮のようになるまで火に掛けた。
内臓はよく塩で揉んで水で洗い、臭みをとって味噌を塗り串に刺してじっと火で炙ったものに蓬を添える。
時雨煮にした鴨肉と葱を飯の上に乗せ、鳥の出汁を上からかけると濃い味の鴨肉と薄味の汁が飯と混じり、そして内臓の串焼きがまた表面はほっこり、中はねっとりとしていてすぐに己の血肉になりそうな、気力の湧いてくる味である。
晃之介も感心して、
「俺が料理というと適当に焼くだけだったが……やるな九郎」
「多少手間でも食事や酒は楽しまなくてはならんからなあ……おい、ハチ子や、そんなにがっつかなくても飯は逃げんぞ」
飯をお代わりして汁をかけ、流しこむように食らうお八に苦笑した。
「美味いんだから仕方ないぜ」
「お主の実家とて良い物が出るのではないか?」
「いや全然。お上品なものだかなんだか知らねえけど味気ねえし、こんなふうに飯に汁かけたら怒られるし……」
そう言って、ぐいと鳥肝を串から抜いて頬張って目を細めた。
「鳥の胆なんて初めて食べるっ! 美味い!」
と嬉しがるものだから男二人、和んだように笑いを漏らすのであった。
****
昼食を終えて三人で歯磨きを済まし、半刻ほど休息を取った。江戸では歯磨きが習慣付けられているのであったが、ただの塩で歯磨きしていた九郎と晃之介にもお八の持ち込んだ歯磨き粉の恩恵を受けている。この時代の歯磨き粉は目の細かい砂と香料、塩に口がスッキリするハッカなどが使われていて、現代のものに劣らぬものである。
その後は九郎と晃之介でお八に見せ稽古を行う事となった。剣遣い同士の打ち合いを実際に見て、動きを学ぶのも稽古のうちである。
……其のうちに二人共熱が入って本気の試合になったのであったが。
稽古を終えて手ぬぐいで汗を拭い、九郎とお八は道場を後にした。九郎も道場に通っているわけではないが、時折様子を見に来るのである。
二人で歩いていると、時々ちらちらと九郎の方を見てくるお八が妙なので九郎は首を傾げていた。
「あ、あのよ」
「おおそうだ、ハチ子よ、芝居でも見に行かぬか。瓦版で気になる芝居の公演が載ってあったのだ」
なにやら言いかけたお八に被せるように提案した後、口を半開きにしたままの彼女を見て、
「む? なにやら用事でもあったか」
「別に! 芝居か、よっしゃ行こうぜ!」
「これこれ、急ぐでない」
九郎の手を引きながら足早に進むお八であった。九郎は気分は元気の良い孫に連れられる祖父の気分である。
湯島天神で行われている芝居は広く衝立で周りを囲み、立ち見以外に土間と敷物を敷いた立派な席も用意された本格的なものだった。
九郎は受付の男に一分銀を渡し、土間の席を取った。少年少女の連れ合いがぽんと一分出したことに、目を丸くした男だったが機嫌よく人を呼んで二人を土間に案内させた。なにせ、立ち見で金を取れば二人で三十文しか取れぬ所を一分も払ってくれるのだから向こうとしても、
「得をした」
と考えているようであった。飲み物に甘酒とかりんとうのサービスがつくほどであったことから九郎にもそれは知れた。
土間といえども蓙程度は敷いてある。
二人は並んで座り、既に始まっている芝居を眺めた。
「ところで何の芝居だこれ?」
「いや、己れもわからぬのだが表題がやたら気になってな。ええと、『勧進帳強行突破編 怒りの富山湾海戦』」
「知らねえけどやたら面白そうだなそれ!」
「だろう?」
舞台の上でも修験者と隠すつもりが無いレベルで武装している弁慶と義経が関所を次々と突破し源氏の追手相手に無双している場面であった。
裏切りの与一を相撲技で秒殺。平家の残党をアジトごと粉砕。力の弁慶と力任せの義経。ゴリラ&ゴリラ。二人のコンビは止められない。
(なんか違くなかったろうか……)
そう九郎も僅かな歴史知識を思い出しながら、芝居の勢いに熱中するのであった。もちろん、これは史実の再現ではなく面白おかしく脚色した大衆向けの芝居なのであるが。
****
富山湾を紅に染める艦隊戦、その終末として時代を超越した国崩し砲が義経の鉄甲船に直撃。船は火を噴き沈んでいく。
という演目を見事な演出効果を出して芝居する役者たちに九郎は素直に感動していた。
最後の場面、波間に沈む義経の手はまだ親指を立てて諦めていない。
「蒙古でまた会おう!」
そうして、幕は降りるのであった。
義経が蝦夷に逃げ延び蒙古に渡ったという講談はこの時代の前から言われている与太話であった。
惜しみない拍手は芝居の席だけではなく、神社の屋根やご神木に登ってまで見物していた客からも起こった。
隣に座るお八も少年のように憧れのきらきらした目を見開き、涙を浮かべていたほどである。
外に出て、湯島天神にある茶屋はごった返していたので少し歩き神田明神の団子屋で一息ついても、お八は興奮冷め無い様子であった。
「すっげえ……義経半端ねえよ……」
「ああ……己れも感動しているが勧進帳ってこんな話だっけか……?」
「どうでもいいぜ。ああ、面白かった」
満足そうに笑うお八の顔には、初めてであった時のような険も、父母の前での緊張も無く子供らしい良い顔だった。
九郎は何処か懐かしくなった嬉しさから、団子屋にお八の分の団子を追加で注文するのであった。
「おい、こっちに団子をもう一つ……あと酒と何か辛いものはあるかえ?」
「はぁい。梅漬けと霰豆腐がありますけれど」
「霰豆腐? 食うたことがないな……それを一つ頼む」
と、頼むとお八は九郎の顔を覗き込んだ。
「また昼間っから酒かよ、子供が」
「だから己れは子供ではないのだと……まあそうだの、お八も大きくなったら己れと酒に付き合って貰うとするか」
「えっ、そ、その……其の時は……いいぜ」
お八がなにやら考え悩んでいるようだったが、九郎は兎も角出てきた酒と霰豆腐を喜んで受け取っていた。
霰豆腐は時間を掛けて抑えて水気を抜いた豆腐を小さく角切りにし、転がして角を取ったものを熱い油で素揚げしたものである。熱いうちに塩を振って食べる。外側はかりかりと塩気のついた霰菓子のようだが、中はじゅっと油揚げのような味が滲み出て口を喜ばす。
それを洗い流すように飲む酒がまた美味い。
九郎は軽く二合ほど飲んでしまった。
ほろ酔い気分のまま、お八を家に送るために藍屋への道を上機嫌に歩いていた。
ただ道を歩くだけでも江戸の町は賑やかだ。大道芸といえば大層だが、食うに困った町人などが仮装をしたり手作りの楽器を叩いたりして日銭を稼いでいる。
今のような、道で騒いでいる芸人を素通りする東京の景色ではない。
江戸の人は気風よく、面白おかしいことをやっている者がいて、それを見るために足を止めたら苦笑いや呆れた顔を零して銭を一枚なり二枚なり投げ入れるのである。
一日にそれで三十文か四十文でも稼げばその日食うものぐらいは買えた。
九郎とお八も歩いていると、顔を食紅で真っ赤に染め、紙で其れらしく作った衣装を着、頭に箱を乗せて杓文字を持った男が目の前に現れて叫んだ。
「かあっ! 日も明らかな内から童にも関わらず酒を喰らいおるとは、十王が余録をば!」
閻魔のコスプレである。
いかにも恐ろしげな顔をして妙な言い回しをしているが、昼酒がうらやましいから分けて欲しいものだ、と言っているのである。
九郎はからからと笑い十文ばかり閻魔の手に握らせる。
「閻魔が飲むのは焼けた銅だったはずだがの。これで焼き豆腐でも食らうがよい」
「かあっ! ……ってあれ? 九郎の旦那じゃごぜえませんか?」
「ん?」
と、九郎は閻魔が表情を変えて言うので首を傾げた。
閻魔の知り合いは居ないはずである。まあ、前世に地獄とか行っていなければ。
閻魔は顔を拭う仕草をして、食紅が落ちないのを見て困ったような顔で云った。
「あっしですよあっし。ほら、晃之介の旦那に捕まった……」
「ああ、辻斬りの……」
「おおっと、そ、その単語は勘弁ですぜ!」
慌てて自分の口の前で人差し指を立て、目を閉じる男の赤く塗った顔はよくよく見れば見覚えがあった。
以前に江戸で刀を奪い売りさばく辻斬り騒動が起きた際、便乗して辻斬りに走ったはいいものの一発目で録山晃之介に返り討ちに合い、情報の代わりに見逃された男であった。
「確か名前は……」
「朝蔵でやんす! 医者に坊主から物乞いまでなんでも働く働き者の朝蔵!」
「節操無しと呼んだほうがよいなあ」
呆れたように九郎は調子のいい顔をしている朝蔵に対して嘆息した。
とはいえ、当時の所謂[江戸っ子]と呼ばれる人種はその日暮らしの仕事入れ替わり立ち代わりと云った暮らしが珍しくなかったようである。
紙拾いに出かけたかと思えば市場で沢山魚が売っているのを見かけては棒引きのまね事をし、休憩に登り坂の下で待ってれば重い荷物を運ぶ荷車を勝手に手伝い銭を貰い、頭が禿げたら医者か坊主になってみる。当時は医師免許などは無かったために、藪医者・似非医者は居放題であったのだ。
さすがに辻斬りは犯罪だが。
この男も一度の辻斬りで懲りたらしく、その日暮らしの仕事に戻ったようである。
「九郎、知り合い?」
と、指で九郎を突きながらお八が聞いて来るので、「ああ、少しな」と応えた。
朝蔵は顎の下に手をやり、少しの間九郎とお八を見て、にっと笑った。
「ははぁん、九郎の旦那も隅に置けねえ。昼酒に女連れとはこりゃ立派」
「お、おおおお女だぁ!?」
急に叫んだお八に九郎は片耳を塞いで煩そうに、
「いや、お主女であろう。男だったか?」
「そうじゃないぜ! ええいこの、手前も勘違いすんな!」
「はっはっはいいねえ初心いねえ」
「ああ、此奴はお八と云って晃之介の弟子だ」
「失礼致しましたお嬢さんっ!!」
笑ってからかっていた朝蔵は晃之介の弟子と紹介した途端土下座に入った。
晃之介には頭の上がらぬのである。ましてや其の弟子。完全に下手に出ているのである。
飛んで落ちるような見事な土下座をした朝蔵に微妙に引きつつ、
「あ、ああ。謝るならいいんだよ。いいか、あたしと九郎はただの……えと、ダチだからな!」
「へい!」
「下手に出るのが堂に入っておるなあ……」
むしろ感心するぐらい、年下の少女に頭を下げている朝蔵であった。
「なんだったらお主も、晃之介の道場に通うでもすればよかろうに……」
「へへっ旦那。それにゃ一寸おぜぜが足りなくって」
日暮らしの朝蔵には月謝が払えぬのである。
晃之介が月々幾らと決めているわけではないが、相場から云って最低二朱は払わねばならないだろう。お八は実家が裕福であるために指導料と礼金も込めて、それなりに高く払っているようだがそれも気持ちの問題である。
しかしそれでいて、江戸という町では冗談の教室や虫同士の決闘見物料などに庶民も金を使っていたというのだからおかしなものである。
特にこの時代では、デフレ極まった江戸を改革しようと徳川吉宗や大岡越前による物価の引き下げや流通改善が行われ始めていたため、庶民の生活にも若干の余裕が生まれたことが妙な金払いの良さを現しているのだろうか。
とりあえずこれ以上朝蔵の[仕事]を邪魔してもいけないので軽く手を振り九郎は別れた。
「それではの。そのうち緑のむじな亭の蕎麦も食いに来い」
「へい! 是非行かせて貰いやす!」
と、気持よく返事をするものだからどうも憎めない男である。
辻斬りを働こうとしたことは許せぬことだが、襲われた晃之介いわく、ハッタリだけで剣の振り方も知らぬようであったというのだからお笑い種だ。
****
やがて道を進むと藍屋が見えてきた。
ふと、その通りで大工仕事をしているのを九郎が見上げた。
二階建ての大店を組み立てているらしく、骨組みは出来ていて大工が二階の梁に登り屋根を打ち付けていた。そろそろ夕方なので仕事も終わりなはずである。
「何か新しい店でも出来るのかえ?」
「ああ。湯屋らしい。近くに出来るってんで家の連中が喜んでた」
「ほう……」
江戸に職人は数多くいるが、中でも大工は花形だったようだ。
よく火事で家が焼け落ちたり、増築や市街の拡大など需要は絶えず発生していたのである。また日当も高く棒手振や野菜売りの倍以上もあった。
もちろん大工になるには何処かの大工の棟梁に弟子入りして働かせて貰わねばならないのだが……
家を作ってもらう際にも酒や飯などを日当とは別に用意するのが慣例であったなど、一段敬われていた扱いだった。町人同士の喧嘩や揉め事なども大工の棟梁が仲介すればすぐさま収まったという。
ともあれ、二階の屋根で命綱も無く釘を打っている大工を見ていた九郎が通りに視線を戻し、また歩みを再開した時であった。
突風が吹いた。
日中海陸風の吹いていた日だったが其の日一番の風である。
屋根の上に乗っていた大工は慌てて梁に掴まったが、その際に不幸があった。
その大工の経験が未熟だったか、或いは不注意だったか。釘と槌を入れた大工箱を二階の梁まで持ち込んでいたのである。
其れを突風から身を庇う際にうっかり蹴り飛ばした。
失態を即座に悟った大工は、箱の中から釘をばらまきながら落ちていくことを思い、
「下の奴ら、危ねえ!」
と叫んだ。
叫ぶが早いか、突風からお八を庇っていた九郎は横目に、己に向かって重力と風の加速を受け、落ちてくる箱と大量の釘を確認した。
避けるとお八に当たるし、彼女を突き飛ばしても何処まで釘が飛んでいるかは全て把握する時間は無い。
風から庇っていたことをいいことに己の体の影にお八を入れて、目と首を庇って九郎は釘の雨を受けた。
目は閉じなかった。多くの釘は体に当たって落ちるだけだったが、むき出しの腕や頬などに刺さるなり、引っ掻くなりする感覚を得る。
釘に一瞬遅れて直撃する位置にあった大工箱を、顔を守っていた手で払いのけた。二の腕には大きな衝撃だったが頭に当たるよりはましである。
だが、それで大工箱のなかに入ったままだった槌が、引っかかって飛び出して、九郎の額に直撃したのである。
九郎は目から火花が飛んだ気がした。
「うわっ危……九郎!?」
頭が揺れて倒れる九郎をお八が受け止める。
視界が徐々に色を失っていくのを九郎は感じた。眼球の表面に液体が這った。頭から血が出て伝ってきたらしい。
ぐわんぐわんと、一瞬で気を失うのではなく凄まじい吐き気と頭痛が襲う。
「むう……」
「莫迦お前、あたしを庇って……しゃ、喋るな! 動くな! おい、誰か来てくれ! 九郎が!」
目が徐々に閉じてくるのを九郎は止められそうに無かった。
泣きそうな顔で人を呼ぶお八の顔が見えた。遠く……近かったはずなのに遠くに見える藍屋から誰か出てきて、駆けつけてくるようだった。
手足が痺れ動かない。
それが何かおかしくて、九郎は笑いが漏れた。
「笑ってるなよぉ莫迦ぁ!」
「くはは……」
呼びかけるお八の声も夢の中のように遠く聞こえ出した。
うわ言のように言葉が漏れるがもはや何も考えられないのである。
「ざ……ん、念……おれの、 ……はここで……終わって……しま……」
「おい、寝るなぁ! 喋るなぁ!」
「子供……は……むちゃ、を」
(ああ、駄目だ。眠い)
九郎は目を閉じて体を重力に委ねた。
(眠い……)
ただ、眠かった。
****
九郎は何もない空間を歩いていたら歩いていることの無意味さに気づいた。
同時にその場所が何処なのかという疑問が沸いたのであったが、その途端目の前に扉があった。出てきたというよりも、前からあったように自然に。
「なんだこれは」
開けようとしても鍵がかかってて開かないので、サムターン回しで開けた。住居不法侵入などによく使われる単純な手法である。
扉の中は図書館のようだった。天井が見えぬほどの高さの棚にぎっしりと本が積み込まれ、ビルディングのようにあちこちに建っている。
謎言語で書かれた発狂しそうな本から九十年代の日本の少年漫画まで適当に乱雑に並べられている。
大きな机が一つだけあって、一人の怪しげな人物が座っていた。
フードを目深に被った虹色の髪の女だ。漫画雑誌を読みながらハンバーガーとコーラを摂取していたようで、突然入ってきた九郎を目を丸くして見ている。
顔なじみの魔王であった。
九郎は軽い調子で声を掛けた。
「おや、魔王ではないか」
「……………ええー!? ちょっと待ってなんで、くーちゃんここに居るの!?」
「地球一売れてるセットだからって健康に悪いってメイドに怒られるぞ、ハンバーガーとコーラ」
「いやいやいやそうじゃなくて! うおおおい! 我が折角日本に送ってやったのにまた異世界っていうか、この超隠れ家的な我の固有次元に紛れ込みおってこの男は!!」
怒ったような慌てたような様子で魔王が立ち上がり近寄ってくる。
不健康的に閉じこもって漫画ばかり読んでいたのでふらついて、フードの裾を踏み転んだ。
「はっはっは」
「笑ってる場合じゃないよ! ああもう、魂だけ離脱して境界越えてる……我と混線してるからかな? ともかく早く戻らないと肉体が死ぬでしょ! はい戻った戻った!」
と、召喚した強制目覚ましハンマーで九郎をぶん殴った。
****
「はっはっは」
目覚めの笑いが漏れた。
笑い声と云うよりも素の声で「はっはっは」と発音したような声と共に、すっくと上半身を起こした九郎を見て回りの人は瞠目した。
周囲に目をやれば、藍屋の中のようであった。主人とその奥方、それに若旦那でお八の兄一也。大工風の意気消沈した男。そしてお八ともう一人、顔を狐面で隠した変人が見えた。
額に涙がでるほどの痛さを感じたが、とりあえず無視して、
「あー……その、なんだ。お八に怪我は無かったかの」
「──くろぉおお! ふべっ」
なにやら飛びついてきたお八をさっと起き上がって躱す。
「なんで避けるんだ莫迦!」
「ははは、その様子なら怪我は……ぬっ」
額に感じた鈍痛に、立ち上がったはいいが目眩を感じる。
眩んだ体を、
「おっと」
と、狐面の男が肩を掴んで支えた。
彼は仮面をずらすと、白粉で塗った狐目の顔を九郎の耳元に近づけて囁くような、それでいて皆に聞こえる不思議な落ち着いた声で、
「頭を打った直後だ。あんまり激しく動いちゃいけませんぜ」
「うむ……コブになっておるな」
湿布が貼られている額を恐る恐る触ると、痒いような鈍い痛みが逆に心地いいような妙な感触であった。
立ち上がって気づくが、体のあちこちの傷口に当て布と薬の染みる感覚と薬草の匂いがした。特に右手は釘が何本か刺さったらしく、きつく包帯が巻かれている。
狐面の男に支えられている九郎にお八が、
「本当にもう大丈夫か!?」
「ええいなんのこれしき。意識もはっきりしておる」
「良かった……心配したんだからな……本当に、心配……」
と、怒鳴ろうとしたが涙が出てきて俯き、嗚咽を鳴らすお八を、おやおやと九郎はあやすように背中を撫でた。
「お八は優しい子だの。お主のような子供を助くは己れら大人の務めぞ。気にするでない」
「違っ……九郎っ……だって……死んじゃやだって……」
「おおよしよし、泣くでない」
困ったように九郎は、泣いているお八を両親か兄に任せようかと視線を向けたが、
(んん……? どうもそういう雰囲気ではない……?)
なにやら暖かい目線で見られているので首を捻る九郎である。知り合いの爺さん相手に娘を泣きつかせるよりは家族が相手をしたほうがよかろうに、と思うのであるが……
一方で大工が凄まじくバツの悪そうな顔で、地面に手を付け九郎に謝った。
「すまねえ。俺の責任だ。大工箱を蹴っちまって……」
「ううむ、お主、釘や槌の入った箱は持って上がるでないぞ。持てぬのなら腰に紐で括りつけておくと良い」
「ごめんよ……」
と、病人のように青い顔をして沈んだ様子で謝っているので、おそらくは大工の棟梁か藍屋の主人かにこっぴどく叱られた様子だった。
どうも其の様子が逆に気の毒で事故のようなものであった故、九郎も注意を促す以上の事は言えぬ。
それでも忌まわしそうに藍屋の主人の良助が、
「この御方に万が一があったら、あらゆる意味で二度と槌を持てぬようにしてやったところだ。反省しろっ!」
追い打ちのように云うのだから、大工は「すまねえ、すまねえ」と繰り返すのであった。
いつの間にか藍屋にとって重要人物になってるらしい事実が九郎に疑問と共に到来していたが、それはさておき。
「この狐の兄さんは誰ぞ?」
「おっと、自己紹介が遅れましたかね。あたしゃ流れで薬を売ったり、医者の真似事をしたりしてるもんで」
狐目の男は顔を仮面で半分だけ隠して正面から九郎と向き合い、云った。
「安倍将翁と申すものです。以後、お見知りおきを……」
(漫画にでも出てきそうなキャラをしておる……)
実際に、絵から出てきたような色白の美青年で仮面をつけている将翁を見て素直に九郎はそう思うのであった。手指も細くすらりとしていて、妖しい魅力すら感じる男である。
そして己の治療をしたのが目の前の男だと察して、
「お主がやってくれたのか。感謝するぞ」
「いえいえ、釘の切り傷と……額は軽く切っていたぐらいでしたので。あたりどころが良かったのか頭蓋も割れてないみたいですから恐らく大丈夫でしょうぜ、九郎殿。酒を飲んでいたからちょいと派手に血が出たようですが、ね」
「まあ魂はちょっと異世界まで一時的にぶっ飛んだが……ん?」
そう言えばこちらから名乗ったかどうか覚えがなかったが、お八や其の家族から名前を聞いたのだろうか。
将翁は口を笑みの形にする。常に目を細めて居る為に感情は伺えないが。
「石燕殿からお噂は予々(かねがね)……」
「あやつの知り合いか。うむ、何となく変人でも納得が出来るな」
痛む額に手を当てながら軽く目を閉じて、腑に落ちる思いを感じた。
地獄先生の知り合いなら奇人変人どころか魑魅魍魎が居てもおかしくないとは、九郎のみならず近隣の住人らからも認識されている。噂になっている奇人の例で云えば、まるで爺のような雰囲気の子供とか。
彼は細い指でぺたり、と九郎のあて布を貼ってある頬を触ると薬の匂いのする吐息と共に耳を犯すような美声で、
「頭の髄が痛むようならば、」
九郎の手に丸薬を数粒握らせる。
「こちらの渾沌丹を一日一粒だけ飲むといい。痛みをぼやけさせてくれる。肌の擦り傷、瘤は放っておけば治ります」
「おお承知した」
九郎が赤錆色をした丸薬を受け取り、手の中で転がして懐にしまうと将翁は、ふっと息を吐いて置いていた背負子兼薬箱を背負って立ち上がった。
大旦那の良助が腰を上げて呼び止める。
「もうお帰りになるのですか? お構いもまだして居りませぬのに……」
「お気になさらずに。あたしゃ通りかかっただけですので一寸他の用事がありまして。また今度お邪魔します、よ」
「はあ、左様で御座いますか……おい、一也」
「お送り致します」
と若旦那の一也に連れられて将翁は部屋から辞去する運びとなった。
戸から出て歩き去る前に、もう一度九郎をその狐のような細めで見て、
「九郎殿も──また今度」
と呟き、狐面を顔全体に被せて去るのであった。
仮面を普段から被っていると可也面妖に見えなくもないが、当時の江戸は前述した通りに仮装、扮装をした者も多く、目かつらや百まなこと呼ばれるお面のようなものも多く売られて道芸に用いられていた為に、目を引くものの異常とまでは見えないのである。
九郎は包帯で巻かれた手で頭を掻きながらその将翁という妖しげな男を、
(異世界にいた長生きの吸血鬼のようであったなあ……)
などと考えるのであった。
ふと、窓から覗く日が随分と暗くなっているのに気づいた。
暮れ六ツ(午後六時頃)であろうか、そろそろ家に帰ろうかと思い、泣いているお八を撫でてとりあえず離した。
「さて、世話になったな。己れもそろそろ帰ろうか……」
「は……」
九郎がそう云うと将翁の妖気か何かに飲まれていたように固まっていた良助夫妻は向き直って礼をする。
「いえ、九郎殿は一度ならず二度までもお八の命をお救いくださった大恩人。ぜひとも今晩は歓待を受けてくだされ」
「何も大げさな……」
「大げさではござりませぬ。むしろ、そのようなお方に何もせずにお帰り頂いたとあっては藍屋の看板を下げねばならぬ程の恥」
「む、むう……」
ずい、と近寄って重々しく云う良助に気圧されてしまう九郎であった。
そこまで云うのならば、と夕飯を馳走になることとなったのである。
****
既に緑のむじな亭にいるお房や六科には、脳震盪を起こした九郎が藍屋に一晩泊まる事は連絡が行っていた。
とはいえ九郎は他所で飲み歩いて晃之介のところに泊まったりすることが時々あったので「ああそうですか」と云う軽い反応だったが。
その晩の膳はやけに豪華な作りとなっていた。良助夫妻と若旦那の一也夫妻、組頭(仕入れなどの責任者である)の四治郎とお八、九郎が広い座について夕飯を囲んでいた。
九郎が酒好きという事もあって、酒も用意されている。
それはいいのだが。
「ほ、ほらっ口開けろっ。あーって!」
「いや待て待てハチ子よ、そんなことをせんでも多少痛むが箸ぐらい握れるわい」
「いいから!」
「むう……」
と、隣に座っているお八が膳に盛られた料理を箸で摘んで九郎の口元に持ってくるのである。
手を負傷した九郎に対する気遣いで、微笑ましく普段の粗暴なお八の様子から比べればその甲斐甲斐しさは家族に取って喜ばしくも、
「面白い」
ものだから和々と笑ったまま止めようともしない。
一方で九郎は、
(これではまるで……)
と、顔を曇らせて、
(老人介護ではないか!)
中身が爺な彼は危機感を覚えていた。
彼からしてみればお八は孫娘みたいな認識である為にそういう考えになるのである。
冷や汗を掻いて九郎は一計を案じる。
「む、ハチ子や。そう言えばお主には隠しておったがこっそり買った義経の竹細工をやろう」
「え!? まじで!? やった!」
と胸元からこけしと半分に切った竹を組み合わせた[八艘飛び]と呼ばれる義経の細工を床に置いた。
これは宙に放り投げても重心が作用して竹のわん曲した部分、つまり義経の足が床に着くという実際にあった細工である。投げても見事に着地することから義経の八艘飛びと掛けて大層売れたそうな。
昼間にやたらエキサイティングな勧進帳を見たお八は食事中だったが喜んでそれを受け取った。
お八がそれに夢中になった途端九郎は箸を手に取り、行儀もさておき目の前の膳をがつがつと胃袋に叩き込んだ。
「おお……かっけえ……ってああっ!?」
「美味い美味い」
特に旬のメバルの煮付けが、皮もとろりとしていて醤油味が染みたほっこりとした身を飯に乗せると小骨ごと飯で流し込んでしまう美味さであった。目元をほじると、どろりとしたゼラチンがぷるぷるとしてまた、旨い。
むう、と拗ねるようにして仕方なく自分の膳にとりかかるお八を見て、家族は可笑しそうに笑うのであった。
その後もお八の兄二人と父を交えて酒を飲んだりしていると、何故か帳簿の話になって九郎にも話が振られたので幾らか計算が出来るところを見せたり、布の良し悪しについてなにやら講義だか高説だかを九郎に聞かせて来たり、なんだったら怪我が治るまで藍屋に泊まりこまないかと誘われたりして九郎は、はっと察した。
(んん……!? さてはこの主人らは己れを働かせようとしている……!)
最低限の教養があるかどうかを確かめられた上で呉服屋の知識を身につけさせる気だ、と九郎は思った。
そして彼は、
(……働きたくなどないのだが)
と考える。居候で好き勝手に江戸で遊びまわるのが良いのであって、この歳になってなにやら定職に着くのは非常に面倒なのである。現代なら年金生活に入っている高齢なのだ。
それがこの店の旦那達の、若者に見える九郎の将来を思い職を見繕うという好意であっても働きたくないのでござった。
という訳で彼は、夜中に懐に忍ばせていた貴重品のポーションを舐めて全身の裂傷と額の打撲を一晩で治し、次の日の朝には挨拶もそこそこに出て行く理由を適当にでっち上げて、逃げるように藍屋を後にするのであった。
「働くぐらいなら閻魔の真似事でもしてたほうがマシだのう」
「かあっ! 左様でさあ……楽でいいですわな」
朝っぱらから閻魔の格好をしていた朝蔵と、土産に渡された朝食の握り飯を分けて食いながら言い合う九郎であった。
また、江戸の一日が始まる。