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10話『鳥山石燕奇怪録[うぶめ]』

 物語はいつも夜に始まるように、その日も、とあるまだ浅い夜の細工町でのことだった。

 人目をはばかるように暗闇から暗闇へ移動し、犬に食われぬような、それでいて昼間になれば人目につく樽の上に女は籠を置いた。

 籠の中には寝息を立てるあどけない顔の赤子が居り、女が一度だけ顔を撫でると、意識もないだろうがその親指を握った。

 ぼろぼろと涙を女は流しながら、


(どうか……どうか……)


 と、祈るように胸中で呟き、名残惜しそうに、涙を払って顔を俯け背を向けた。

 三歩まで歩いた所で高く、静かな声が女に向かってかけられた。


「生類憐れみの令を知っているかね?」

「……!」


 女は立ち止まった。

 胸を抑えると激しい動悸がする。掠れるような吐息が半開きになった口から閉じた。

 闇夜から染み出すように人の形が現れた。

 それは全身をややはだけている黒い喪服に包んだ、髪型などはざんばらに伸ばし随分と傾いた格好の女だった。

 鳥山石燕である。

 自宅に押しかけた締め切りを催促する版元の編集者からダッシュで逃げて知人のところにでも飲みに行こうかと出かけていた途中であった。

 赤い唇を薄く開いて石燕は続ける。


「かの徳川綱吉公が制定した動物愛護法だね。これには赤子、老人、病人も含まれる。綱吉公が亡くなられて後を継いだ家宣公はまず即座にこれを解除した。宝永六年の正月のことだね。

とはいえこれは生類憐れみの令全てを無かった事にしたわけではない。行き過ぎた部分……犬の世話に町人から税を取ったり、田畑を荒らす猪や鹿の猟を禁止したり、そういった庶民の生活を苦しめる内容を止めたのだね。それにより家宣公は随分と好意的に庶民からの支持を受けた……まあそれはどうでもいいが」


 一息で告げて乾いた喉を潤すように手元の徳利から酒を一口煽った。

 酔っているようで顔が若干赤らんでいるが、いつもの事である。


「要するに赤子や病人を捨てるのは今でも禁止されているという事だ。言っておくが逃げても無駄だよ? これでも絵描きだから君の人相画など朝酒前にかける──わかったらその子を連れて行きたまえ」


 面倒くさそうに手を振りながら宣告する石燕に固まったような女は問う。


「あ、あなたはいったい……」

「地獄先生、鳥山石燕。神楽坂の魍魎とは私のことだ」

「鳥山、石燕先生……」

「ちなみに『ぬらぬら☆うひょん』という名で春画も描いている」

「ぬらぬらうひょん先生……」

「突っ込み役不在なのが悔やまれるね……!」


 素直に繰り返す女を見て苦々しげに呟く石燕。

 ちなみに当時の有名画家は大抵春画も描いている。同じ名前だったり、春画用のペンネームを使ったり様々だ。例えば彼女の弟子の北川何某は後世で海外でも知られる有名春画描きであるし、葛飾北斎など『鉄棒ぬらぬら』というペンネームである。本当に。

 よろめきながら女は置いた子供の入った籠を持って石燕に詰め寄った。


「ぬらぬら先生!」

「いや、石燕の方で呼んでほしいかな。割りと深刻に」

「では石燕先生、お頼みが、お頼みがあるのです! 一週間だけで結構なのでこの子を預かって下さいませ! 差し迫る事情があるのです!」

「え? あ、いやそれは……」

「お願いします! お願いします! 必ず一週間後に参じますので、お願いします……!」

「だから、その」


 石燕がもごもごと反論している間にその手にはずしりと重い子供が乗せられて、女は周囲を警戒しながら足早に立ち去っていった。

 夜鳥の鳴き声が聞こえる。


「……姑獲鳥……か?」


 石燕は手元で眠る赤子の顔を覗き込みながら、信じられないように呟いた。




 ****



 緑のむじな亭は店を閉めても明かりが灯っていた。

 九郎が飲んでいるからである。

 居候をしている九郎だが店で飲み食いした分には正規の値段を払う。時には仕事に出かける前の、長屋の鳶や大工の若衆に一杯奢ったりするので、


「九郎の若旦那」


 などとからかい半分だが有難がたがられ、長屋でも人気になりつつ有る。年若い小僧から施しを受けるのが現代の感覚から言えば妙だが、江戸では気にする人はいない。細かいことは気にしないお調子者が多いのだ。店の周囲の掃除やゴミ出しなどの手伝いも、長屋で暇している連中を雇い使うので重宝がられている。

 その日は九郎と六科、それに玉菊とお雪が閉店後の店で夕飯がてら酒を飲んでいた。


「ってなんで玉菊が混じっているのだ……」

「んふふー、ありゃヤだ憎いのー変なことするでなしー」

「己れの膝に寄りかかって酒を飲んでいる時点で邪魔そのものなのだがな」


 としなだれかかる玉菊を鬱陶しげに見やるが跳ね除けないのは酒の影響で寛大になっているからだろうか。

 そんな様子を見てお雪はくすくすと笑っていた。

 いつも通りびしりと背筋を伸ばしたままの六科は焼き豆腐をカツカツと歯の音を立てながら食べて、ぐい、と酒を呑む。別に毎日飲んでいるわけではないが(恐らくは金銭的な都合で)飲みだすと笊のように酔わない体質のようだ。

 

「仲が良いのはいいことですねえ六科様?」

「そうなのか」

「そうですよぅ」


 くすくすと口元を隠してお雪は笑う。名前の通り雪のような白い肌が僅かに赤みがかっている。舐める程度にしか酒を飲んでいないが、すぐに紅潮する体質のようだ。

 む、と六科が声を出す。飲んでいた徳利が空になったのだ。 

 それに気づいたお雪が自分の目の前の徳利を片手に持って注ごうとする。

 しかしお雪は盲である為に正確には六科のお猪口の位置はわからない。

 だから、そっと猪口を持つ六科の手の、二の腕のあたりから片手でなぞっていって指先まで辿り、そっと六科の手を握り固定して注いだ。


「さ、六科様、飲んで下さいよぅ」

「ああ」


 特に気にしていない声音で六科は注がれた酒に口をつける。恐らく娘が酌しようが海座頭が酌しようが同じ反応だっただろうが、お雪も満足そうな顔をしていた。

 お雪の艶めかしい手付きを見て玉菊は奇声を発した。


「お、おぶしゃれさんすな! 九郎様、こっちも負けりゃれんす! いざ! いざ!」

「意味のわからん対抗心を……」


 嫌そうな声を上げると、彼の飲んでいた濃く辛い純芋醸酎をで口に含んで玉菊は顔を近づけてきた。

 九郎の後ろから苛ついたような足音が近づく。


「もう、ちょっと折角お店片付けたのに……」


 九郎はひょいと近寄ってきたお房の首を掴むと、口を寄せる玉菊と顔面をぶつけた。


「……!?」

「んふー!」


 額がごつりとぶつかると同時に目を閉じたまま玉菊は口の中の焼酎をお房に口移しで流し込む。

 お房はまだ九歳の子供である。口の中が焼けるような感覚と同時に即座にふらふらと、脳震盪と相俟ったような感覚で倒れ伏した。

 玉菊は、


「これはこれで!」


 と言ったものの次の瞬間空になった徳利が六科から飛んできて頭に直撃する。

 やはり感情を感じさせない声で、


「娘に何をする」


 とだけ呟いて再び酒を飲み干した。

 目を回した玉菊は再びあぐらを掻いている九郎の足の間にうつ伏せに倒れこみ、「ふんすーふんすー」と寝息らしきものを立てて起き上がらなかった。狸寝入りで、九郎の匂いを嗅いでいるらしい。

 気味が悪そうに九郎が見るが黙っているならば面倒が少なくていいか、と諦める。

 

「はい、九郎殿もおかわりをどうぞ」

「お、おお」


 お雪の言葉にお猪口を差し出す九郎。

 伸ばした手に持つそれに普通に徳利から注がれた。


「……?」


 何か納得の行かなそうな顔をする九郎だったが、おかしいところが有るような無いような、どちらにせよ別にいいか、と思考を放棄するのであった。

 そうこうしていると入り口が勢い良く開けられた。


「おっ──お化けだぁ!!」


 そう叫んで顔を青ざめて現れたのは、胸に赤子の入った籠を抱いた、お化けの専門家・地獄先生鳥山石燕であった。

 



 ****



 

 彼女への第一声は六科だった。


「? お前の子か?」


 オニヒトデが投げつけられた。六科は首を軽く曲げて避け、ヒトデは九郎に寄りかかり寝ている玉菊の背中にすっぽりとインする。


「あ、ありんすー!? なにんすー!?」


 慌てて飛び起きて着物を脱ぎかけながらばたばた暴れる玉菊は兎も角。

 店の中に入り厳重に扉を閉めて足早に近寄ってくる石燕は、珍しく目を白黒させて持っている子供を九郎の前にドンと……いや、そっと置いた。

 そして外を指さして改めて、興奮したように云う。


「お化けだよ! い、いや妖怪か……妖怪『姑獲鳥』に出会ったのだよ!!」

「う、『姑獲鳥うぶめ』ぇ? なにぞそれ」

「ふふふいいかね姑獲鳥というのはだね……」


 眼鏡を軽く指先で叩いてにやりと笑い解説をし始める石燕を見て、なにやら余裕の無さそうなテンションであることが珍しいと九郎は思うのであった。


「大陸における[姑獲鳥]という妖怪は日本に渡ると[うばめ]或いは[うばめとり]と呼ばれる妖怪と同一視されてね、どちらも乳飲み子や胎児を攫ったり取って食ったりする悪いあやかしであった。鳥の姿をしているというのは、[うばめとり]のとりを[取り]と[鳥]に解釈したからだろうか、行き倒れた妊婦の死体の腹を鳥が啄んでいるのを見たのかもしれない。或いは夜に泣く郭公や不如帰の類の伝承が混じったのかもしれないね。

 日本における民話としても全国各地に姑獲鳥の類の話は残っている。しかしどこか別の妖怪との共通点を感じないかね? 女の妖怪で、乳飲み子や胎児、またその母までもを食う……そう、鬼婆だよ。恐らくは何処かで混同したのだろうね。[うぶ]という音と[うば]という音は似ているからね。

 だが面白いことに全く逆の、子供の無い女に子供を泣きながら渡してくるという性質を持つ妖怪もまた[姑獲鳥]と呼ばれてるのだ。この際渡すのは子供ではなく、渡した相手に幸福を与える財宝であるという話もあるね。さて、ここまで来ると大陸から伝わった恐るべき妖怪とは全く別のものなのではないか、と考えてしまいたくなる」


「実際に違うのではないか?」


 九郎が言葉を返すとその通り、と彼女は頷いた。


「伝わったという時点でそういうものだよ、九郎君。赤子と妊婦、それに鳥という要素で元から存在していた伝承と同一視、あるいは同じ分類にしているが日本での[産女][鬼婆]は別のものなのだ。水虎と河童のようなものさ。名前の通り産女は、お産の女の霊だと思われる。お産の激痛のあまり悪霊になったか、死産の無念のあまり子供を他人に預けるようになったか、それを伝える人の違いによって各地に伝わる話が違うのだろう。なにせお産は世界中であるのだから何処にでも産女のような怪奇話は有るはずだよ。

 ともあれ今回は赤子を渡してくる類型の産女だね。さて、赤子を取って食らうという話は所謂[失う]という状態になるわけだ。これは病気や人攫い、獣害など考えられるが赤子を[得る]というのは何処から発生したのだろうね? はい九郎君」


「んん……そうだの、赤子を拾ったり……或いは不義の子を産んだ理由付けに[産女から授かった]としたのではないか?」


「成る程。その説を取るとするのならばつまり!」


 解説しながら落ち着きを取り戻したのか、石燕は赤子を指さした後に、乾いた笑いを漏らした。


「捨て子を押し付けられた……」

「……」

「まあ」


 お雪が口元に手を当てて感嘆の声を上げた。

 何も知らぬ赤子の薄目が開けられた。




 ****




 いかなる国でも赤子は「おぎゃあ」と泣く。まあ、恐らくは。五分五分ぐらいの確率で。


(作家仲間は作品が生まれたら『はんぎゃあ』(版木屋)と鳴くとか洒落たことを言っていたがね……!)


 とまれ、見知らぬ状況と赤子が察したかどうかは知れぬが突然起きだして泣き喚きだした赤子に慌てふためいたのは意外なことに石燕だった。

 慌てると声がどもる癖があるようで、


「なななな泣き始めたよどういうことだねこれは説明したまえ名も知らぬ君! 不満か!? 幕府に対する不満からの幕末的革命希望か!? ええとそういう場合はどうすればいいのだね九郎君!」


 と九郎の肩を掴んで揺さぶりまくる石燕に九郎はうめき声を上げる。


「何故に己れに聞くのだ」

「君が一番年上なのだろう、設定上!」

「年上でも別段妻も子も居らなんだから赤子の扱いなど知らぬ! 子育ての経験のある六科に聞け!」


 そう言うと石燕は動きを止めて叔父である六科に振り向いた。

 彼は酒を片手に持ったまま真顔で言う。


「うむ。お六に一任してたからな。わからん」

「まるで駄目な親父だなお主!」


 育児放棄というなかれ、当時の父親などそういうものであった。六科も日がな鳶職で働いていたのである。

 まあ、妻のお六は蕎麦屋やりながら育児も両立させていたのであるが。 

 六科はそれでも経験からの考えを言う。


「腹でも減っているのだろう。乳をやれば静まる」

「なるほどね乳か……乳!?」


 石燕が喪服に包んだ豊満な両の胸を隠しながら赤面して後ずさる。

 いつも冷静な彼女の姿からは考えられぬ初々しさではあった。


「母乳は無理だよ!? 私出ないもの!」

「いや、別にお主がやれとは言うておらぬが……」


 この時代哺乳瓶とか無いのかな、と九郎は頭を掻きながら考える。

 すると玉菊がすっくと九郎の膝から立ち上がった。


「ここはわっちに任せるでござんす!」


 なんの躊躇いもなくおもむろに着物を肌蹴、赤子の口元を己の少年乳首に持っていく。

 九郎は即座に玉菊の首をへし折った。

 

「ありんすっ!?」


 良からぬことをしようとしたばかりに、鈍い音を首から立てて沈黙する玉菊であった。

 お雪は特に気にしない様で、いつも通りおっとりと言葉を出す。


「それにしても、ここの長屋には小さな子供のいる、お乳の出そうな奥様は居られませんし……あっ、名案が浮かびましたよう」

 

 云うと彼女はぽんと手を打って赤子をあやし抱き上げた。

 よしよし、と優しそうに撫でる彼女が考えを口にする。


「ええとですね、わたしがこれから六科様に呼びかけをしますから、そしたら六科様は『なんだ、お雪』と返して下さいよう」

「よくわからんが……わかった」


 六科が首肯すると、お雪は赤子を抱いたままゆったりと六科にもたれ掛かって、照れたように可愛らしい顔を上目遣いにして言う。


「ねえ、お前さん」

「なんだ、お雪」


 お雪がはふんと息を吐いて顔を真赤にしたまま身悶えしだした。


「ああ今凄まじく母性出て来ました出て来ましたよう! 母乳でるかもしれません!!」

「存外に卑しいなこのお雪も!?」

「本当に出たら怖いから返したまえ!」


 うっとりとしだしたお雪の手から赤子を奪い返す石燕であった。 

 騒動を目の前にしても眉一つ動かさない六科は、


「理解に苦しむ」


 とだけ告げて酒を飲んでいる。

 この男、味覚だけではなく少々人間が持つ感情の機微なども鈍いところがある。

 ともあれぎゃあぎゃあと涙を流して喚く子供には石燕も閉口してきょろきょろと助けを求めた。

 すると意外な所から助けが来た。


「食え」


 六科が自分が食べていた焼き豆腐を軽く潰して箸の先に乗せて赤子の口に入れると、ちゅうちゅうと吸い取るようにして豆腐を啜った。

 そのまま鳥の雛に餌をやるように何度か繰り返すと、赤子は満足したようにげっぷをして眠った。

 石燕と九郎は顔を見合わせて、


「……豆腐でいいの?」


 と呟き合うのだった。

 実際に離乳食に豆腐は良質なタンパク質として使われている。



 

 ****

 


 それから一週間。

 石燕は何とかして赤子を育てた。九郎も暇つぶしという割には親身に手伝ったし、夜泣きの止まらぬ赤子を挟んで九郎と石燕、あとついでに子興も川の字になって石燕の家で寝たこともあった。

 赤子というだけでは呼びづらいので仮に[日和坊]と名付けた。好天そうな良い名前だと九郎は云ったが、妖怪の名前である。

 日和坊を題材に絵を描いたり、御襁褓の処理を意外にてきぱきと石燕がこなしたり、赤子に食べさせるものを九郎が聞いて回ったり乳の出る人妻に礼金で頼んだりと様々に忙しい日々を過ごしていた。

 日和坊もよく笑うようになった。

 石燕も苦笑に似た笑みで赤子をあやしている姿が近所の人にも見えた。

 日は過ぎ、一週間。

 さて赤子を取りに来るとはいえ石燕の家をかの母親が知っているとは限らぬため、家に子興を残し、石燕と九郎は日和坊を預かった路地まで歩いて行った。

 夜のことである。

 昼間は念の為に家で待っていたのだ。

 ぐっすりと眠っている日和坊を胸に抱き、番屋の明かりから離れるような道を選んで進んだ。夜道を出歩いていて声をかけられると怪しまれるからだ。

 件の場所についた。

 四半刻ばかり待っただろうか、母親は現れない。


「もし……」


 と九郎から声を掛けた。


「もし母親が現れぬ時はどうするのだ? 石燕」

「ふむ……」


 難しそうな顔で彼女は言う。


「生類憐れみの令から言えば拾った私が育てねばならないのだがね」


 手元の日和坊を見ながら複雑そうに答えた。

 既に撤回されたとはいえ、捨て子をどうしろという新たな政令が決まっていない以上は養親を見つけるか拾い主が育てるかしか無い。

 貞享の頃に出された事録にはこうある。



[一、捨て子これ有り候ハバ、早速届けるに及ばず、其の所のいたわり置き、直ちに養い候か、又は望の者これ候ハバ、遣すべく候、急度付け届くに及ばざる事]


 

 つまり、捨て子を見つけて「自分の子じゃないんだけど」みたいな事で役所に届けたりせずにちゃんと育てろとの内容である。

 あまり評判のよろしくない地獄先生が養い親を探した所でその子供を育ててくれる相手が見つかるかは甚だ疑問でも合った。

 九郎は続けて尋ねた。


「お主としてはどうなのだ?」

「母親が現れてくれることが一番だよ。私は面倒事は嫌いでね」

「それにしては、楽しそうにしていたが……」

「楽しそう、か」


 僅かに石燕の顔に影が落ちたが、その感情はわからなかった。

  

「母親が現れなかったら本物の姑獲鳥だったとして絵に描こう。日和坊がかつて抱いた本当の母を忘れぬようにね」

「いや妖怪画を見せられてもなんだ」

「それに私に子供を育てることなど……」


 口ごもったように石燕が言いかけた時に、遠くから足音となにやら押し殺した怒声が聞こえた。


「離して……! あの子は……!」

「うるせえ! てめえも餓鬼も観念しろ!」

「……! 九郎君!」

「わかっておる!」

 

 九郎は自慢の脚力で飛ぶように音の方へ駆けた。

 一つ辻を抜けたそこには町娘風の女の背中を乱暴に引き回す、腰に二本を差した立派な身なりの侍が居た。

 迷わず九郎は飛び上がって顎の付け根をつま先で蹴り抜く一撃を見舞う。

 声もなく地面に頭から落ちた侍の顔面を万力のような握力で掴んで地面で摩り下ろすように引きずり、近くの川に放り投げた。その際腰の二本は外して同じく川に投げ捨てた。

 水音がしたが、鯉が跳ねた程度にしか思われないだろう。気絶したらしい侍が仰向けで流れていく。刀も捨てたので沈みはしないだろう。同時に、襲撃され刀まで失ったとなると侍の身分としてはお上に報告できなくする効果もある。中山影兵衛から聞いた悪知恵であった。


「君、大丈夫かね」


 と女に声をかけた石燕と、その胸に抱かれた日和坊を見て落涙し、子供へしがみついた。


「ああっ……」

「君の子供だよ、抱きたまえ」

「すみません、すみません……!」


 嗚咽を漏らす彼女に困ったように石燕は眼鏡を直した。

 九郎が手を払いながら戻ってきて言う。


「ううむ、そなたが日和坊の母親か?」

「日和坊……? あ、この子の……は、はい!」

「何があったのか話してみよ。少しばかりなら力になろう」


 と言うので、彼女はへたり込んでぽつりぽつりと語り出した。 




 ****



 

 己の頭を考えるようにこつこつと指先で叩いていた石燕は纏めて言う。


「つまりだね? 煎餅屋の娘の君ことお柚さんはある日旗本の次男に見初められて子供まで作り正式に嫁になる筈だったのに突然相手方の家庭の事情で裏切られた挙句赤子共々命を狙われ、連れたっては行動が制限されるから一時的に赤子を預けどうにか解決しようとしてみたがその追手が方々にかかり番屋にも手がまわり火消しの大旦那や檀家の寺にも話が通せずに逃げまわり、ついに捕まって赤子の情報を吐かされそうになってたところを今しがた助けられた、と」


「は、はい」


 あちこちに回り道しながら要領を得ない説明をしていた日和坊の母親、お柚は石燕に一気に纏められて目を回すように頷いた。

 事情を飲み込めた石燕は頭を抱えた。

 九郎がどうしたのかと尋ねると、


「……つ、つまらん」


 と絞りだすような声で言って二人を凍らせた。


「ありがち過ぎる! もっとこう、赤子が座敷わらしだったり南朝で隠れた後亀山天皇の末裔だったり第六文明人の無限力を秘めていたりとかそういう面白い話は無いのかね!?」

「おい、最後の。真ん中のも問題だが」


 お柚はおろおろしながら涙を流しながら口を開け閉めする。


「そ、そのようなことを言われましても……」

「ええい不愉快だ! さっさと役人に通報して解決したまえ!」

「やりましたけどわたしのような町人と旗本様では、向こうが先に手を回していると言い分が正しくとも通らないのです……」


 さめざめと泣くお柚を苛立たしげにため息をつく石燕である。

 九郎はこのままでは心中でもするのではないかと心配だが、知り合いの下級役人に話して解決する問題なのかは、この時代の司法を詳しく知らぬからわからないことであった。

 石燕が地面に力なく項垂れているお柚の手を取り云った。


「ああもう、いいから付いてきたまえ。なんとか出来そうな知り合いを紹介するからね」


 と言うと、お柚は何処か不思議な色の石燕の目を希望のように見るのであった。

 九郎も手招きされて三人と赤子一人は歩き出した。

 道中言葉は無かった。愛おしげにお柚は日和坊を撫でているのを見て、九郎はなんとしてもこの親子を救わねば、と思う。同時に、


(よし、今後、如何な厄介事が幾度訪れようと驚かないようにしよう……)


 と、諦めたように胸中で呟くのであった。この前も厄介事、辻斬りにであったばかりなのである……

 ともあれ襲ってくるとしたら侍も一人ではあるまい。再度襲撃があっても良いように、途中で棒切れを拾っておいた。


 それなりの距離を歩いただろうか。

 すっかり月明かり以外の明かりは見えぬ、麦畑の広がる田舎へと付いた。とはいえ、当時の江戸は今で言う山手線の外縁あたりからほぼ田舎であるのだ。

 そこは渋谷の千駄ヶ谷だった。現代の都会めいた風景から想像も出来ぬ程長閑な土地である。

 明かりの点いた大きめの一軒家がある。裏には猫の額ほどの畑があり、なにやら根菜などが植えている。

 そこが目的地のようだ。

 石燕は家の扉を叩き、夜だというのに朗々と大声で呼んだ。とはいえ、大声を咎めるような他の家は見当たらなかったが。


天爵堂てんしゃくどう! 出てきたまえ! 君は完全に包囲されている! 玄関から!」

「包囲じゃなかろう……」


 一応ツッコんだが、聞いていないようだった。

 しばらくして家の中から顔を出したのは、鋭い目つきの壮年の男であった。


「どちら様で? 先生は今締め切り前の追い込み中で……ってあぁっ! 鳥山先生!」

「……すみません家を間違えました」

「逃げないで下さい鳥山先生! 先生も余裕で締め切り仏契ってるんですからね! ああもう丁度いいから中に入って!」

「は、離してくれたまえ田所君! それどころではないのだよ!」


 後ずさりする石燕の手を掴んで中に引きこもうとする男に、明らかに負い目のある態度の石燕である。

 九郎の問いかけるような視線を受けて石燕は冷や汗を掻いた笑みで応える。


「版元の田所無右衛門たどころ・むえもん君だ……締め切りに煩くてね?」

「先生方が逃げまわるからでしょうが!」


 紹介によると錦絵、草本の版元で原稿催促をしている男らしい。髷も綺麗に剃りあげた、元武士らしい精悍な男である。

 現代で言うところの雑誌編集者だろうか。人気な講談などの続編や続きを無理やり考えさせて終わらせなかったこともある仕事なのも現代と変わっていない。当時から作家は催促が五月蝿いと様々に書き残している。

 玄関先で騒いでいると、家の奥から切れ長の目をした白髪で髭も立派に生やした老人がやってきた。


「やれやれ、何を玄関で騒いでいるんだい、船月堂」


 天爵堂と呼ばれる老人である。

 彼は元は幕府に仕える役人だったのだが仕事をやめてからはこのような田舎に引越し、物書きをしているのである。

 子供向けの黄表紙などを手慰みに書いて、その内は疎遠になった子孫に遺す立派な指南書の類も書きたいと思っているのだが、今のところはうだつのあがらない隠宅に住まう老人であった。

 全身から人生に疲れたような無精感を感じるが本人的には普通らしい。

 物書き仲間というか知り合いである石燕は気さくに声をかける。


「やあ生きていたかね天爵堂。少しばかり厄介事を頼みに来たのだよ」

「よし、田所を連れて回れ右をするといい」


 天爵堂は面倒事はお断りだよ、と告げて追い払う仕草をする。

 そして石燕の後ろにいる赤子を抱いた女を見て「おや」と声を出した。


「この娘と赤子の事で少々手を焼いて欲しくてね」


 そう告げると彼はなにやら諦めたようにため息を吐いた。


「茶を用意してくれ、田所。安いやつでいい」


 何処か疲れたような老人の背中が九郎には印象的だった。




 ****




 千代田区番町の表六番町通に面した屋敷にその旗本の屋敷はあった。

 お柚に刺客を差し向けた、藤嶋家普請奉行千五百石の次男、藤嶋土定は苛々とした様子で報告を待っていた。

 遊びで手を付けた町娘に子供が出来たということは、普請奉行たる彼の家元からしては、


「看過できぬ」


 事態である。いや、家としてはどうとでもなる。実際に追手を差し向けお柚を亡き者にしようとしたのは土定の一存であった。子まで成したというこれが当主に知れると恐らくはその町娘を何らかの伝手を持ってして土定と婚姻さしめるだろう。普請奉行は町民と武家の間の伝手を取るのが容易な役職でもあるのだ。

 次男としてはだが、武士の家に生まれた土定にはそれが耐えがたい。

 町娘などと結婚すれば恐らく一生出世の目は無い。

 それにこの旗本屋敷からも追い出され自由も無くなるだろう。

 土定はそれを恐れて、部下に金を渡して無頼浪人を集めてお柚を襲わせているのである。


(それにしても暫く姿を見せないと思ったら、子を孕んで産んでやがったとは……)


 対応が遅れてしまったのである。  

 街中で最近、お柚を見かけて子を抱いた彼女が話しかけてきてようやく気がついた程度にしか、彼はお柚のことなど想っていないのであった。

 それにしても、


(あれから一週間……煎餅屋も番屋も張ってるはずだが一向に捕まりゃしねえ)


 胃の腑がストレスで重くなっている事を自覚しながら酒を無理やり煽っているのであった。

 と、手先の侍が帰ってきて土定の部屋に入ってきた。


「どうだ」


 土定が尋ねると、にやけた顔で髭の剃り跡の残る侍は告げる。


「はっ、女を見つけたのですが見知らぬ二人組を連れてまして……逃げられては何ですから、浪人らと後を付けた処、千駄ヶ谷にあるボロ屋に入って行きまして」

「ほう、千駄ヶ谷か」


 あの田舎ならば悲鳴も聞こえず、通りすがりの無頼が人斬りをした所でこちらに飛び火すまい。

 そう思って何か地名に引っかかるのを覚えたが、にやりと笑った。


「人を集めておき、そのまま出てくれば出会い頭に、夜が更ければ押し入って切る所存」

「ようし、それでいい」


 と土定は手先の侍にも酒を推め、己も飲んだ。

 これで憂いは絶たれる。


(それにしても千駄ヶ谷か……何かあったような)


 やはり地名が気になる土定だったが、気のせいだと思う事にした。

 それが致命になるとは思わずに。




 ****




 千駄ヶ谷の天爵堂の家から田所は書状を持って飛び出していった。

 お柚から事情を聞いた天爵堂が遣いとして田所に頼んだのである。

 その姿は入り口から出た瞬間闇に紛れて、入り口近くを見張っていた浪人が目を離した隙に一瞬で消えた為に発見される事はなかった。 

 田所の居なくなった家の中で、所在無さげにしているお柚母子と茶を啜っている石燕、暇そうにしている九郎と紙に筆を走らせる……という程ではない速度でゆっくりと催促されていた原稿を書いている天爵堂が居た。

 そわそわとしているお柚に天爵堂は言う。


「僕は昔、役人をやっていてね。今は権力なんてものと無縁だけれど、まだ知り合いが何人か働いているからそれに頼む事にするよ」

「あ、ありがとうございます」

「礼を言われる程ではないよ。……船月堂は仕事の邪魔をしたことで何か無いか?」

「九郎君、戸棚からもっといい茶を探してくれたまえ」

「やれやれ」


 ため息をつくが別段止めるつもりもないらしい。

 九郎はそのどこか面倒臭気な顔立ちを見て、


(この男は何か諦めが付いているのだ……)


 と思った。大きな挫折があったか、大切なものを失ったか。 

 まさしく、己のやれることをあまりよい結果ではないままに終えて、余生を過ごしているようであった。


「そう言えば船月堂、この少年は誰だい?」

「紹介が遅れたね。未来の果てからやってきた未来少年クロウ」

「その紹介は止せ。ただの九郎だ、ご老体」

「九郎、だね。僕は天爵堂。ただの書生だよ」


 天爵堂は視線を上げもせずに挨拶をした。

 目線を向けながら九郎は返答とばかりに尋ねる。


「ところで今書いているのは何の話だ?」

「ああ……大衆向けの娯楽本さ。前に船月堂から聞いた話も下地にしていてね。題を『暴れん坊の貧乏旗本三男』」

「凄く話の基本ストーリーが予想できるぞそれ!」

「確か前回の連載分はいつも通り将軍を騙った旗本三男が定番で『ええいこのようなところに将軍がおられるはずがない! 本気で!』と悪党にぼこぼこにされて簀巻きで富士山に投げ入れられる話だったかね。続きは?」

「偶然噴火した火山弾に押し上げられて何とか江戸に帰るよ。宝永の大噴火だ」

「主人公弱すぎる上に超展開すぎる!」


 予想以上にスペクタルな話だった。

 授業するような声音で石燕は云う。


「ふふふ、江戸の小読み物など、心中か災害か仇討ち要素を入れておけば莫迦のように売れるのだよ」

「吉宗引退しろとか思ってなどいないよ」

「天爵堂の本音だよなそれ……」


 げんなりと呟いた。毎回悪役に痛快に負ける偽将軍は発禁寸前と庶民に人気のある読み物シリーズである。

 江戸の世でも書いた文や絵を版木に彫り込み、一枚一枚紙に写して綴じるという作業で本は主に貸本屋などに売られていたのだが、ヒット作では十万冊以上も同じ本を刷ったというのだから、江戸の人も本好きが伺える。

 お柚が控えめに手を上げて、


「わ、わたしも読んでいます……彗星が降ってきて三男に直撃する場面とか良かったですね」

「そうかい、ありがとう。今度の展開では暴れ象に……おっと、先を云ってはいけないね」

「……どういう場面だよそれ」


 今だに字などを読むのは苦手なため、貸本屋には行かなかったがいったいこの江戸、何が流行っているのやらと思い悩む九郎であった。

 ようやく話しかけてきたお柚に落ち着いて座るように促しながら天爵堂は云う。


「暫くここで待っていれば、僕の知り合いから話を通した幕府直参の与力同心が迎えに来るから安心していいよ。そうそう手を出せるものではない」

「はい」

「あとはそうだね……何も知らされていない、浪人や無頼が襲ってきたら困るけれど」


 その言葉に、入口付近に向けてやや怯えの感情を向けるお柚。

 天爵堂も頬杖をついて、ぼんやりと外の闇を見ながら口を開くのであった。


「僕も困るし……その旗本の何某も困るだろうに」


 



 ****



 

 天爵堂の家に金で雇われた浪人らが襲いくるのに一刻とかからなかった。

 中には見分役だろうか、藤嶋家の侍の姿も見受けられる。

 とはいえ、予め裏口などを塞いでおいた天爵堂の家は、家を破壊する槌などを用意していなかった浪人らにとっては正面入口から入る他無かったのであった。

 だが浪人らは警戒も何もなく、油断や嗜虐の笑みさえ浮かべていた。なにせ、家にいるのは何処の誰とも知れぬ老人一人と女二人、子供が一人に赤子である。

 全て斬り殺せば一人あたり金五両の報酬だという。

 特にこのような見られる危険のない田舎の一軒家である。躊躇う事は何もなかった。

 一番先に入った浪人が見たのは、動じずに原稿を書いている老人であった。


「いらっしゃいとは言わないよ。どうぞお帰り下さい。困ったことになるからね」


 冷淡な声でそう告げると、浪人は鼻で笑った。

 土足で一歩足を踏み入れる。

 すると、天井の梁に潜んでいた九郎が音もなく浪人の目の前に降り立った。

 突然目の前に降ってきた小僧相手に、刀も抜いていない浪人は動揺する。

 次の瞬間、九郎は持っていた棒きれで浪人の鳩尾を突いた。


「ぐむぅ……」


 強烈な吐き気と内臓が上下するような衝撃に力を失う浪人を、外に向けて思い切り蹴飛ばす九郎。

 ついでに片手で、浪人の持っていた鈍らのような脇差を抜き奪っている。


「入るでない。もはや事は奉行所預かりとなっておるのだ。お主らが如何な狼藉を働こうが……」


 言いかける九郎だったが、怒号とともに入り口に二人ばかり刀を抜いた浪人が雪崩れ込む。

 狭い場所ではすり抜けて反撃とは行かぬ。九郎はやや後ろに下がりながら、切り込まれた刀を脇差で受け流した。

 既に石燕とお柚らは押入れに隠している。室内は九郎と天爵堂だけだ。九郎は幾度か斬りかかる相手を躱し、脛を切りつけ一人を行動不能にした。


「殺せ! なんとしても赤子と女は殺すのだ!」


 後ろから侍の命令が飛ぶ。

 その言葉に天爵堂が眉根を寄せた。切れ長の目が睨みという形で威圧を生む。


「──僕の目の前で子供を殺そうというのか」


 そういうと彼は筆を止め、立ち上がる。

 腰には柄が磨り減るほど使い熟れた、越前守助広の名刀を帯びている。

 年ごとに鋭気を増して云ったらそうなるのではないかと言わんばかりの怖ろしき気配を纏い彼は刀を抜いた。

 その確認のような一言しか天爵堂は喋らなかった。

 だが、誰もが気圧されて天爵堂に切り込めなかったのである。彼が動かぬ限り、後ろに隠れて守られている赤子と二人には手出しができぬ。

 代わりに九郎に攻撃が集中した。


「いや確かに己れの方は子供じゃないけれど……!」


 九郎の戦い方は単純だ。体格が小さいのを利用して相手の足を削いで行動不能にする。もしくは片手で脇差を振るい、相手の刀を受け止めるか受け止めさせるかした瞬間に殴り飛ばすか蹴り飛ばす。子供の体躯だと思って油断した相手は、凄まじい威力の拳打をいずれかの急所に受けて倒れ伏すのである。倒れても意識のあるものは隙を見て頭を踏みつけて気絶させた。

 ジグエン流剣法は相手が一人の場合、捨て身で先に斬り殺す技が多い為に多くの相手と退治する状況では使わない。

 しかし其のような戦い方も八人目あたりでいい加減手も痛むし呼吸も整わなくなってきたのである。何度目かに浪人の体を家から蹴りだし、九郎自身も外に飛び出た。

 手加減している暇も義理も無いのではあるが、そろそろ普通に斬り殺そうかと九郎の心が荒んで来た頃であった。

 地ならしの音が聞こえた。

 どう、という音だ。

 明かりの全くない畑道を、遠目によく目立つ提灯が高い位置に掲げられ迫ってきていた。

 馬だ。

 

「者ども、神妙に致せ!」


 浪人、特に侍は泡を食ったように、道のない畑の中へ逃げ出そうとしたが無様に警戒もなく背中を向けた相手を九郎は二人ほどひっ捕らえた。

 残りも馬から降りた同心がするすると近寄り召し取っていったようであった。

 家の中から天爵堂が刀を納めてのそのそと出てきた。


「やれやれ、終わったかい。僕は争い事が苦手でね」

「其の割には堂に入った剣ではないか」

「見た目だけだよ……おや」


 先頭の馬とどのようにしてか並走して地面を走っていた田所が天爵堂へ駆けつけて膝を着いた。


「お怪我は御座いませぬか!」

「うん、九郎と君たちのお陰で助かったよ」


 乾いた笑みのようなものを浮かべる天爵堂。

 そこに引っ立てられた侍が暴れながら縄を打たれて連れて来られた。

 馬に乗っていた男……北町奉行三千石松野河内守助義本人が夜中に出払ってきているという事態なのだが……も降りて天爵堂に頭を下げ挨拶をした。


「この度は遅れ申してまことに……」

「ああ助義殿。よく来てくれた。でも何も君自身が来なくても……」

「いえ、これしき大恩を思えば何とも……しかし、貴様っ!」


 と天爵堂の家を襲う指示を出した侍を怒鳴る。

 凄まじい気迫であった。

 侍は心臓が握りつぶされたように震える。


「己が浅ましくも浪人を差し向け襲ったお方が何方かわかっておるのかっ! 貴様のみならず主家まで厳しい責を覚悟しろっ!」


 とまで言われたのだから、もはや侍は額を地面に擦り付ける他無いのであった。

 暫くして周囲の安全を確認すると、押入れに隠れさせていたお柚親子を呼び、奉行に任せた。

 その際ひたすらに頭を下げて礼を言ってくるお柚に天爵堂は軽く手を振るだけであった。

 堂々と大人数で帰っていく町奉行を見送りながら九郎は白髪の老人に問う。

 

「しかしお主、結構偉い人だったのかの?」

「偉くなんか無いさ。ただの元小役人だよ。役人だった頃もまあ……」


 少し罰が悪そうな顔をして目を閉じ首を振った。


「裏目に出てばかりだったしね。僕には何も出来やしないさ。あの母子だって、父となる侍は切腹となれば……僕がやったのは一人の父無し子を有んだようなものだ。礼を言われるような男じゃないよ」


 陰鬱そうにため息をついて天爵堂は家に戻った。


「話の続きを書かないといけないから、今日はもう帰ってくれ」


 そう告げて後ろ手に戸を閉める背中を石燕と九郎は見送った。



 

 ****




「さて、事件も解決したし帰って酒でも飲むかね」

「お主、酒のことばかりだな……」


 夜道を歩きながら石燕と九郎は呟いていた。


「結局姑獲鳥は居なかった。ただの捨て子と不義の子の合作事件でした、か。まったく話の種にもなりはしないね」

「どうだろうな。まあお主にはいい経験だったのではないか?」

「うん?」

「子育て、楽しそうではなかったか」

 

 石燕は苦笑した。


「もう御免だよ。私に子育ては向かないらしい」

「楽しんでいたようにしか見えなかったがな」

「なんだったら九郎君との間に子供でも作ってみるかね? ふふふ」

「そう強がるな」


 九郎の声はあくまで、年長者の優しげな声だった。


「寂しいのであろう」

「……まあ、少しはね」

「お主はまだ若いのだ。子供が出来る機会も、成長した日和坊とまた合う機会も、そのうち訪れるであろう」


 九郎の慰めるような言葉を聞いて、石燕は顔を落として小さな声で呟いた。


「……」


 それは風に紛れてよく聞こえなかったが何故か聞き返してはいけないように思えて、九郎は話題を変えた。


「時に天爵堂のことだが。ああは言っていたが昔何をしておった男なのだ?」

「ああ、彼は前将軍の側用人をしていた新井白石殿だよ」

「へえ白石か、なるほど……新井白石!?」


 耳を疑うように聞き返した。

 新井白石といえば徳川六代将軍家宣から七代将軍家継まで仕え、間部詮房と共に幕府の政権の半分を握っていたとも言われる側用人である。

 側用人とは老中と将軍の間の意見伝達を行う役目であるが、六代将軍家宣政権時代は老中の会議にも直接参加していた。この場合、将軍から承った言葉という名目で直接に議題を提示できるのである。

 これは老中の任命などの意思も側用人が伝えるのだからある意味で老中からも畏れられる立場でもあった。

 白石自身も仕える将軍の権勢を支えるために様々な政策を献上したが、六代七代共に早逝してしまい、後の代に活かされる事は殆どなかったという。

 更には八代将軍吉宗の時代になると失脚して、旗本屋敷からすら退去させられて渋谷の田舎に潜むように住んでいるのであった。

 妻は早逝し、己にはもはや子に土地も位も残せぬと知った彼は何とか伝手を頼み込み他所に養子に出した為に一人、孤独な生活を送っている。

 養子に送った子には、


「君たちは他の家の名を継ぐのだから、僕の事は他人だと思い相手方を父と慕わなければいけない」


 と、厳しく言い渡した程である。これも、幕府の元重鎮で方々に恨みを買っているのだがそれに対して子供らを守る権力も無くなった親の情けと言えよう。

 更には彼にとって余程心に重く残っている出来事として、七代将軍家継が年若くして原因不明の病で急逝してしまったこともある。

 彼がもはや如何な権力を持たなかろうが、目の前の子供の関わる理不尽を見過ごせぬのも当然であった。


「時代をときめいた新井白石も今や大衆向け黄表紙作家、その御用人の田所君は取り立ての版元と世の中わからないものだね」

「左様であったか……」 

  

 どこか疲れた様子のあの老人も苦労を重ねてきたのだとしみじみと九郎は思った。

 実際には彼が何も残せなかったわけではない。国外へ流出する銀や銅の量を減らしたことや中国との貿易量を決めた[正徳新令]と呼ばれる政令は幕末まで続く、彼の功績なのだが……

 話題を転々としながら石燕と九郎は酒のつまみを何にするか話し合っていた。

 帰って酒が飲みたい気分であったのだ。

 

「鮪の身を細かく叩いたものに卵を乗せて醤油を垂らし、混ぜて食うと実にまた酒に合うのだよ」

「おお、それは美味そうだ……卵か」

 

 その単語にふと思いついたように九郎が続けた。


「そう言えば姑獲鳥は郭公カッコウとも関係があると言っておったな」

「夜に鳴く鳥という事でね。郭公自体も不吉な逸話があるのさ」

「ふむ……それでか……よいか、石燕。郭公にはな、己の卵を他の鳥の巣に産む習性があるのだ。また、その時他の卵を落として割ってしまう」

「……?」

「つまり姑獲鳥の、人の子を喰らい、または人に子を渡す産女という妖怪への性質はそこから来たのではないか、と考えたのだよ」

「ああ、成る程……」


 本当にそうなのかは知れないが小さな疑問に対する仮説の一つとして妙に石燕には馴染んで思えた。

 ほんのそれだけだったが、今回の事件で誰が郭公となり、卵を守ったのかと考えて、止めた。終わった事件に感傷的になるなど自分らしく無いと思ったのだ。


 星のよく見える夜だった。江戸の田舎の空に現代では見えない星が金箔を散りばめたように広がっている。

 もう立夏である。草の匂いのする風が過ぎ去っていった。

 いつの間にか九郎と握っていた左手と反対の右手を広げて、石燕はもの寂しげな声で云った。






「姑獲鳥の──夏だ」





「やめい」


 九郎から無粋な突っ込みが入って、石燕はいつもの人の悪そうな笑みを浮かべて二人並んで帰っていった。

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