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1話『享保の頃、江戸の世界』

 立春は迎えたとはいえ夜ともなれば身も凍るような風の吹く夜だった。

 その夜、提灯も掲げずに月明かりのみを目印に川越街道を下る男が居る。

 江戸と川越を結ぶ行程は長く、旅人は中途に幾つか点在する旅籠で休みを取るのが常である。

 其れもなしに黙々と歩く男は青白い月光に顔を照らされた、厳しい顔つきの大柄な中年であった。簡素な荷物袋を背負っている一見旅人風であるが、このような夜中に提灯もつけずに足早に歩いているのを見ると、


「まるで野盗か幽霊のような……」


 と、他人から思われそうな風貌である。

 ただでさえきつい行軍をわざわざ危険な夜に行うというのは、酔狂というよりもはや異常のようであったからだ。

 男は川越城下である高澤町にあった実家を訪ねて江戸に戻る途中であった。職人をしていた父親が急病を患ったということで、金子を持参して見舞いに行ったのだ。

 親戚から寄せられた文によれば大層重病だと聞いて駆けつけたはいいが、ついてみれば父親はけろりと病を快復させて、


「なんでてめえが一人で見舞いに来てんだ。お房ちゃん連れてこいよ阿呆」


 などと言い放つ始末であった。

 お房とは男の一人娘で、急ぎの行軍になる予定だったから九つになる娘は連れていけまいと江戸に住むいとこに預けて来たのである。

 男の父親は猫を可愛がるように小さな孫を大事にしており、顔を合わせる度に自分で作った菓子を与えて喜ばせていた。高澤町は菓子作りを営む店が多く、中でも彼の父親は名人と呼ばれているのだ。

 菓子職人の子に生まれついたというのにまるで体が甘味を好まなかったことから、家を出て男は江戸でひっそりとした蕎麦屋などを営業しているわけだが……

 ともあれ、見舞いの必要のなかった父親だったがしっかりと薬代には困っていたらしく、男の持っていた金子は全て消えた。代わりに渡されたのはお房への土産の菓子だけで、もともと儲かっていないだけあり旅費にも苦労している男は旅籠にも泊まらずにさっさと江戸の家に帰ろうとしているのである。

 それが夜中に足を進めることと、顰めっ面をしている理由だった。腹が減っているのもあるかもしれないし、江戸に戻ってまた売れない蕎麦屋の経営に悩んでいることもある。どうも人生うまくはいかないものだ。

 ふと、道を歩いていると道の先のやや遠くに黄色い光を見つけた。

 焚き火のようである。

 前述した通り夜の街道は危険なことが多く、わざわざ野宿などするものは滅多に居ないと言ってもいい。特別な理由があるなら別だが、どちらにせよなにかしら異常であるのは確かだ。

 男は遠回りして焚き火を避けて行こうかと思ったが、暗闇の中草木をかき分けて道を外れて無事でいられるほど自分の運は過信できない。

 少しだけ考えて、焚き火の側に複数の人間がいれば走り去ろうと決断する。そこにいるのが野盗でも闇に目が慣れた自分が全力で逃げれば追いつくことは困難だろう。

 音を立てずに前へと歩き近寄る。それは道からやや外れた岩場のような場所で焚き火を行なっているようだった。

 男が焚き火の光に当たらない程度まで近寄り様子を伺うとそこには一人、奇妙な少年が火の側に座っていた。こんな夜中に一人で焚き火をしている童というのもおかしいが、何よりその格好があまりに、


[奇抜すぎた]


 のである。その元服前ぐらいの年齢に見える少年が着ていたのは濃い藍染の長袖のジャケットと動きやすそうなハーフパンツ、足は頑丈そうな熟れている革製のブーツ。

 これが現代ならばともあれ、時は徳川の幕府が治める時代。誠に時代に適していない、奇っ怪な格好であるように男の目に写った。

 それがいかにも楽しげに焚き火の前で鼻歌などを歌っている。


「面妖な」


 聞こえないほど小さく呟く。

 男は間違いなく狐狸妖怪の類だろうと判断して、関わらずに去ろうと思った。それが、江戸の蕎麦屋【緑のむじな亭】店主である佐野(さの)六科(むじな)九郎(くろう)との出会いであった。

 

 



 ****




 見なかったことにしてその場を立ち去ろうと決めた六科が足を止めたのは匂いによってだった。

 少年の鼻歌が消え、続けて声が上がる。六科のことなど気にしてないような軽い独り言であった。


「煮えたか」


 見た目よりも低く落ち着いている声でつぶやいて少年は飯盒を焚き火から上げた。

 手早く蓋を開けるとやや焦げ目のついた飯が中に見られる。少年は持っていた木製の匙で中の粥の如きものを撹拌した。

 その辺に生えていたオニユリの球根を潰して水で溶き、平茸を細かく割いたものを混ぜ込んで塩で味付けして炊いた野外食だ。強い火で炊きあがったそれは澱粉が熱で固まり餅のようになっていて、上等な匂いが白い蒸気とともに流れる。

 同じく小さな鍋も火から上げる。鍋には紅茶の葉を山羊の乳で煮込み、その辺りで取った蓬の葉と味付けに塩を入れた、茶と言うよりも付け合せの汁のようなものだった。漉して手元の茶碗に注いだ。

 材料も味付けも質素なものだったが、暖かな料理の匂いに六科の胃が音を立てた。


「誰だ」


 しまった、と六科は己の腹に向い胸中で叱責をしながら身を翻して走りだそうとした。

 焚き火に照らされた少年が確かにこちらを見て、手元の四尺三寸はある大太刀を手に取ったのを見たからだ。真っ当な手合いでは無いことは確かである。

 いかな賊とはいえ相手も此方も足一つの状況。先に逃げるが勝ちであるし、余程の事情がなければ逃げる相手を追うほどの理由は無い。尋常ならざる相手にどれほど通ずる理屈かはわからなかったが。

 別段鍛錬などをしているわけではないが、生来より体格に優れていた六科は飛脚ほどとは言わぬが駕籠持ちよりは疾く走れる自信はあった。

 だが。

 ぐい、と首根っこを掴まれたかと思うと「あっ」と声を出すと同時に地面に引き倒された。二回り以上に小さな小僧に軽々と六科は投げられたのである。その口元には陀羅尼の札のような奇妙な紙が咥えられていた。

 やはり妖怪変化か天狗の類であったか。

 月光と火の明かりに反射する、異様に煌めいた刀を持った少年を見ながら背中に脂を浮かべた。

 六科の姿を認めて少年は破顔して尋ねた。


「ようやく人間を見つけた。それにこの顔、日本人か。ようし、帰れたようだ」

「なんだ?」

「いや、よいよい。当然と思っている相手にこの問いは意味不明であろうからな」


 満足気にうんうんと頷く少年をぽかんと見つめる。


「いきなりこの辺に来て──いや違う、道に迷うて大変だったのだ。街灯も道路も無いものだから街の方角もわからぬ。ここはどこの田舎だ? 群馬か?」

「ぐんま? 群馬(くるま)ならここから少々離れているが……」

「うん?……ところでお主は……あれ? なんだその服、太秦か?」


 訝しげに、町人の服を着た六科に問いかける。元服前の少年の口から発せられる歳相応でない、妙な口調がただ胡散臭かった。

 まったく心当たりの無い問いに混乱したように六科は呻いた。


「太秦……? 京の人間ではない、俺は」

「……いや待てちょっと待て嫌な想像が浮かんだ。確認するが今は何年だ?」


 頭を抑えて手のひらを此方に向け問う少年。

 改めて相対しその少年を見ると、顔立ちは小僧であったがどことなく疲れ、悲壮感のある雰囲気があり実年齢は見た目よりも高いのではないのかと思えた。

 よくわからぬ問いに対して、様々な疑問が到来しつつも六科は再び応える。


「享保の……」

「享保?」


 少年は一瞬聞きなれない言葉を聞いて考え、口ごもるように呟いた。


「確かその年号は……江戸時代、だと……幕府の将軍はだれぞ?」

「吉宗様にあられるが」

「……なんということか」


 少年は「時代が違うではないか、魔女の呪いか」「異世界から折角戻れたと思うたのに」などとぶつぶつ暗い顔で呟き考え込んだ。江戸時代の元号など殆ど覚えていなかったが『享保の改革』ぐらいの聞き覚えはあり、八代将軍徳川吉宗は後に時代劇などにもなり有名であったためにすぐにそれと知れた。

 とりあえず、と彼は悲壮な顔で六科の肩を掴み言う。

 ようやく見つけた、この地の人である。頼るわけではないが話を聞かなければならない。


「飯でも食っていくがよい。腹が空いているのだろう」



 ****



 江戸の町大川の支流が流れる街沿いに小さな店がみられる。見た目からは何の店かわからぬ、看板も出していない古びた店作りである。

 もっとも、江戸にはこのような不明な店は当時は幾らでもあったものである。特に、将軍勅令で質素な生活を奨励されているこの時代ではきらびやかな装飾などはご法度であった。

 朝方の事である。

 その店の前で童女が1人桶の水を巻きながら道行く人達を見ている。

 年の頃は十になるかならないか程度の童子である。浅葱色の紬を着て白い前掛けをつけ、しゃきしゃきと動いている姿は近所でも知られている。

 蕎麦屋『緑のむじな亭』のまさしく看板娘、佐野房であった。もっとも店の正式な名前は看板も掲げていない為に知られず「佐野屋」とか「お房ちゃんの店」などと呼ばれている程度の知名度であるが。

 彼女が朝も早くからそわそわと、閉店中の店前で待っているのは父親の佐野六科だった。祖父の危篤へと向かったのだが、預けられたいとこの話では、


「どうせあの爺さんが大げさに言ってるだけだよ。もうけろりとしているはずさ」


 とのことで、算盤を弾きながら六科の帰ってくる時間を計算して教えてくれたのである。この時代の江戸は武芸学問が奨励されており、そのいとこの計算術はお房にはわからないものであったが、頭脳の高さは信頼出来るものだったのでその言葉を信じて朝から待っているのである。

 辰の刻には何事もなければ帰り着くと知らされていたのだが、待てどもどんどん太陽は高く登っていく。お房は少しだけ心配になっていた。

 と、なにか座和めきと街歩く人の注目のようなものが前方から感じられる。

 お房もそちらに目をやったのだが、最初は何事かわからないものであった。

 次第にそれは人だと判別がついた。


「ええい、退け退け、見世物ではないぞ」


 そう言って煩そうに手を振り回すのはまた奇妙な小兵である。前述した通り時代を飛び越えた服装に、背中には見事な拵えの大太刀を背負い、片手にはぐったりとした己の体格よりも大きな大人を引き摺るように持っているのである。

 忌々しげに幼さの残る顔を顰める。


「まったく六科め、大人が腹が壊れただので気絶などするでない。たかだか三日前の山羊の乳を飲んだぐらいで」


 ぶつぶつと文句を、引き摺っている青白い顔をした男に言い聞かせているようだった。

 その妙な様は既に岡っ引きや三廻に声をかけられる事四回である。いい加減うんざりしていた。泡を吹いている六科についてはそのまま具合が悪そうなので運んでいるなどとできるが、背負っている彼の大太刀──極光文字の魔女イリシア作『アカシック村雨キャリバーンⅢ』についてはどうも説明し辛い。そも、異世界で手に入れたものと馬鹿正直に話しても気狂いか何かだと思われかねない。

 適当な旗本の従者だという言い訳も何か苦しい気がするが、江戸の大通りで他に太刀など持っている者は居ないためにそう応えるしか無かったのであるが。

 大人一人引き摺るのもいい加減面倒ではあった。腕力自体は魔法の符『相力呪符』で底上げされているものの、持ちにくい事この上ない。

 顰めっ面のまま、ぽかんと此方を見ていた童女と目があったので尋ねた。


「そこの娘子や」

「……」

「おい、聞いておるのか」

「え、あっはい」


 慌てて応えるお房。地蔵から話しかけられたような奇妙な感覚であった。


「緑のたぬきだか、むじなだか言う蕎麦屋を知らぬか。この泡を吹いている親父の店らしいのだが」

「はあ、緑のむじな亭ならここで──ってお父さんじゃないの!」


 驚いて叫ぶと息も絶え絶えな六科にお房は飛びついた。

 

「お……お房……」

「どうしたの、見舞いに行った方が死にかけて戻ってきてるなんて!?」

「う……すまん、水を」


 呻くとお房の持っている柄杓をひったくるように奪い、水を飲み干した。脱水症状でもあったのだろう、無精髭を生やした顎に水を滴らせながらぐい、と一気に飲む。

 そして膝を立てて無理やり立ち上がり、脂汗の滲む顔で睨むように自らの店へ駈け出した。


「お父さん!?」

「厠……っ!」

「お父さぁん!?」

 

 その様子を見て、少年は背嚢の取り出しやすい位置に入れていた大きめの金属缶を振り、中にまだ入っている液体の音を聞きながら人事のように呟くのであった。


「まだ少しばかり残っているが、もう捨てるか。山羊の乳」


 火を通したから大丈夫だと思っていた上、実際彼は平気だったのだが。飲み慣れていない六科の胃腸には耐えられなかったようである。

 大川の水の流れににわかに白濁した色が混ざり、溶けて消えていった。

 


 

 ****




 緑のむじな亭の内装は卓が四つに座敷が二つ、調理場の奥一畳程の空間を挟んで狭い裏長屋と繋がっているという至って普通の作りであった。壁を隔てて日の当たらぬ奥の棟には日雇いや棒振りなどが住んでいる。

 店の卓の一つに座り、出された薄味の番茶を啜りながら少年は何となく売れてなさそうな雰囲気を店から感じた。

 何が、というわけではないが椅子や畳に使用感が少ない気がする。新しく店を始めたのならそうかもしれないが、古ぼけた店からして長年繁盛などしていないのではないかと勝手に推測した。実際その通りである。

 厠からげっそりとした顔で足をふらつかせ戻ってきた六科が尻の痛みにより恐る恐る、といった様子で少年の前の席に座る。

 

「助かった、礼を言おう」

「……まあ気にするな。困ったときはお互様だ」


 素直に礼を言われると、妙なものを食わせた身としては妙な罪悪感のようなものが湧きそうになる。

 椅子に座った父と同じぐらいの背丈の娘が父に白湯を出しながら尋ねた。


「それでお父さん、此方の御人はどちら様?」

「うむ……」


 少し口ごもる。

 昨夜に出会い、飯を食いながら少年から事情を聞いたのだが六科には欠片も理解の及ばぬ、


「摩訶不思議な世界」


 の話だったのだ。

 少年の名は九郎という。現代日本に生を受けて、ひょんなことから剣と魔法が幅を利かす異世界に迷い込んで数十年、彼が老年になるまで生活した後に元の世界らしき日本──実際は二百五十年程昔だったが──に再び世界移動した人物であった。

 だがしかし、日本から異世界へと迷い込み傭兵となったりバイトしたり魔女の使い魔にさせられたり若返らせられたりなどと説明されても、この時代の人間には単語の意味すら不明であった。

 ついには少年も理解してもらうことを諦めて適当な設定をでっち上げたのである。


「こちらは九郎殿と申されて仙人の弟子なのだそうだ。還俗して旅をしていたところ俺を見つけたそうでな。色々世間に疎いらしい」

「騙されてるよ」

「しかしだな、奇妙な力の湧く符やよくわからぬ道具も持っているし怪しげな格好も仙人と思えば」

「信じるなよ」

「うちで暫く世話をすることになった」

「なんでだよ!?」


 と凄まじい声で娘は怒鳴り、父の背中を叩いた。年の割にぴんしゃんとした感情表現をする娘だと少年──九郎は感心する。

 確かにいきなり知らぬ怪しげな男が居候となると聞かされれば困るだろうと思った九郎は落ち着いた声で話しかける。


「ふむ、名前はフサ子だったか、娘よ」

「違うよ!?」

()れも只で住まわせてくれなどと云うつもりはない。そうだな、これをフサ子にはやろう」


 背嚢をごそごそとかき分けて少女が好みそうなものを探す。たしか、魔女からそんな感じのものを貰った気がしたのだ。袋に詰められた魔女の猟銃と文庫版金枝篇の間にその目的ものを入れた小さなケースがあった。

 丸い真珠のような小粒である。つやつやとした光沢を持ち、それでいてどこか柔らかみを感じる不思議な宝玉のごときものであった。

 女子たるもの何処の世界においても、光物だとか、健康増強だとか、甘味に弱いものである。

 お房はそれを手のひらに載せて驚きに目を丸くした。それが真珠だとしたらいかほど価値が出るか想像もつかない。後の時代に真珠の養殖ができるまでは、真円の真珠など大名でも異国の王でも手に入らないものであった。


「綺麗……これはなに?」

「寄生虫の卵だ。飲むと体の内部から健康にしてくれる。あと甘い」

「ウシャアアアア!」


 床に叩きつけ執拗に踏みつけるお房。

 六科も床に潰れて染み込んだ卵の汁を薄気味悪そうに見た。

 慌てたのが九郎である。


「な、なんと勿体無いことを。魔女が悪巫山戯で品種改良して作り上げた珠玉の蟲だと云うのに……己れはキモイから使いたくなかったけど」

「捨てられる理由自覚してるよねそれ!?」


 甘くて健康に良くても嫌悪されるものもあるのである。もちろん製作者である異界の魔女も使わなかった。健康増進飴と銘打って市場にばら撒き、大ブレイクした後で蟲の卵だと暴露するという悪戯をするためのものであった。効果自体は正しく素晴らしいのではあったが。

 ともあれ、角して九郎は蕎麦屋の佐野家に寝泊まりをする事となったのである。もちろんその裏には、仙人とやらの知識により『緑のむじな亭』をより繁盛させるように助言を与えるという約束が昨晩に交わされたのではあるが、娘のお房には、


「夢にも思わぬ……。」


 ことであった。

 好き好んで売れない蕎麦屋を助ける余所者など居ないだろうし、それを信じる六科もどこか藁にもすがる思いがあったのかもしれないが。

 ぎゃあぎゃあと少しの間お房をからかっていた九郎だが、次第に再び体調の悪化が見られた六科のことも或り、親子は奥の住居へ引っ込んでいった。



 ****

 


 何をするでもなく酒を飲んだまま夜になった。くりやらしきところに置かれていたものを勝手に拝借したがどうも美味くはない。久方ぶりに飲む日本酒──と言いたいがもはや数十年前に飲んだ液体のことなど記憶には一切無かったが。

 それでもなんとなしに傾けてしまうのは妙な懐かしさを感じるからだろうか。


「時代が合っていればよかったのだが」


 呟いてぼんやりと雲に隠れた月を開けっ放しの窓から仰ぎ見る。肌寒い風が江戸の町並みを曲がりくねって屋内へ吹き込んだ。

 冷酒を啜り、ため息をつく。

 そもそも自分に合った時代とは何時なのだろうか。もはや正確な年も思えていないが、西暦二千年前後の自分が異世界へ迷い込んだ時か。或いはそれから数十年経った、自分が異世界にいただけ現代も進んだ未来か。

 数十年も過ごせば元の世界への望郷も薄れてしまっていた。家族の顔も朧げにしか思い出せない。己と同じだけ年を取っていれば両親は死に友人知人も老齢だろうと想像できるが。

 かと言って異世界であるあの大陸へ戻りたいとも思わぬ。最後に仲間だった魔王とその侍女、そして魔女は恐らく討伐隊に負けたであろう。仲間というのも奇妙な関係だったが。できれば全員木っ端微塵になった挙句川に流されていてほしいとも思う。最後にこの世界に逃してくれたのが魔女だとしても。というか魔女の仕業だ。おのれ。

 二十年ほどになる付き合いの魔女との別れは右へ左へ、ごたついたものだった。旅用の何やらわからぬ我楽多の詰まったリュックを押し付けられて敗戦濃厚の魔王城から一人異世界──江戸時代の日本に送られたのである。次元の修復力とか何とか云う問題で、別世界へ逃げれるのは異界人の彼だけだったのだ。

 頭を振った。今更詮なきことだ。

 ここから元の──少なくとも、現代日本に戻れるか。それを考えたら無理という結論が容易く浮かんだ。前に居た世界には魔法が或り、魔女が居て、異世界から召喚を行う魔王が居た。まだ見知らぬ怪奇不思議な道具もあっただろうが、ここは違う。

 紛れも無い日本の江戸だ。

 未来に行く方法など或りはしない。航時機を作成した奇天烈斎がいたとしても生まれるのは百年以上も先だ。魔女と離別した以上、体にかけられた不老の呪いも効果を発揮しなくなるはずだ。

 

「仕方がないことか……」


 諦めるのには慣れていた。体は若くあるが心は数十年の歳月と人生により疲弊している。

 戦いと労働と魔女に振り回される人生だったからもう後はこの江戸の町で適度に楽しみながら隠居をするのでいいかもしれない。というかそれ以外に道がない。切った張ったで金を稼ぐのもしんどいし、そんな時代ではないのだ。

 そう思えばうまく江戸の町人に拾われたのも幸運だとすら言える。中学高校の頃に習った歴史の知識はほぼ忘れてしまったが、農民よりはいくらか上等なはずである。


「こうなれば精々この浮き世を楽しむべきであるな」

 

「なに一人でぶつくさとしてるの」


 声に対して目線を向けると、半眼でお房が睨んでいた。

 九郎は軽く手に持った徳利を掲げて言葉を返す。


「フサ子よ、ところで酒は何処に置いておるのだ? どうもこれは味醂のようでな。飲めなくはないが」

「それがお酒だけど──ってあんた、勝手に台所漁ってしかも売り物の酒飲んでるの!?」

「なんと……これが酒だったか。まずい上に水で薄めている気すらする……こんなものを客に出す気か……」

「大きなお世話!」


 お房は怒鳴りながら近寄り、酒と茶碗の乗った座卓を強く叩いた。


「っていうかあんた怪しすぎるの! お父さんは一寸間が抜けてるから騙されるかもしれないけれど、あたいはそうはいかない。仙人だとか名乗ってるけどその正体は掴めてる」

「ほう──いやまあ仙人でもないのは確かなんだが──己れの正体とな」

「いつの間にか家に上がり込んで好き勝手にする──『ぬうりひょん』って妖怪が居るって先生に聞いたことがあるの! それ!」

「妖怪扱いかよ」


 良くは知らないが確か爺の姿をした妖怪だったと九郎は思い出し、幼い顔を歪めた。確かに実年齢は爺に近いのであるが……。


「安心せよ、これでも無駄飯喰らいになるつもりは無い。当面の宿泊費はフサ子に潰されてしまったけれどもな」

「虫の卵なぞ居らない過ぎるの……それで、あんたは何が出来るの?」

「……」


 九郎はやや考えて、答えた。


「……その話は後にしよう、もう童は寝る時間ぞ」

「誤魔化した!?」

「と云うかむしろ己れが眠い。異世界に居た時から数えて二日は寝ておらぬのだ。寝れば何か良いことが……ふぅ、思いつくであろう……」

「本っ当に役に立つのかしらこの男……」


 眠気もあったが彼自身この時代この状況で己に出来る有用なことがすぐさまには思いつかなかったのであった。剣の腕と斬り合いの度胸は前の世界での半生に渡る経験からあるが──もっとも、それも魔女の補助があっての強さではあったが──用心棒など蕎麦屋に必要なわけはなく。

 まあ何かあるだろうとはぼんやりと思うもののそれを説明しろと言われれば困るのである。何が困るかというと眠くて面倒だからだ。面倒は死に至る。

 明日のことは明日考えればいい。  

 ぎゃあぎゃあと喚くお房を無視してごろりと横になり、程なく九郎は意識を闇に落とした。


 こうして異世界帰りの現代人、九郎の江戸での生活が始まったのである。

 






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