第5回、紫水小路
紫紺から淡紅色そして榛色へと変化するグラデーションに彩られた紫水小路の空は、その下に住まうものたちと同様に本来ならば一瞬で消えてしまう儚い美しさを継続的に留めていた。夜が訪れることもない代わりに朝がやってくることのない永遠の黄昏の世界を丹は両脇を2人の美女に挟まれながら歩いてゆく。
「さあ置屋に着いたよネンネちゃん、さっさと中に入りな」
丹の右側に並ぶ夜会に赴くようなドレスに身を包み髪を結い上げた華やかな風体の美女茜は、5階建ての煉瓦造りの洋館の前で立ち止まるとその洋館の中に入るよう高圧的な態度で丹に命じる。
「茜姐さん、この子を政所で預からせてもらえないかしら?」
御門市の繁華街で百年近く営業している料理店の建物に似たその洋館の扉の重厚さに威圧されて丹が軒先で立ち尽くしていると、彼女の左手にいるカジュアルな出で立ちで黒髪を下ろした女性が遠慮がちに茜に丹の身柄を引き渡してもらえないかと訊ねてきた。
「紅子、いつから政所は置屋の主である私に無断で紫水小路に迷い込んだ人間の身柄の管理もするようになったんだい?」
「会計や備品購入などの雑用を担当するのが政所、小路に迷い込んだ人間も含めたモノの取引管理をするのが置屋という領分は弁えています。でもその子は……」
「自分の娘だから特別扱いするってのかい? 私らが公正な商売してるかどうか根掘り葉掘り詮索してくるくせに、自分たちは越権行為を平気でやろうなんて政所の方々はお高くとまっているねぇ」
黒髪を靡かせた女性紅子の申し出を、ドレス姿の茜は胸元で軽く腕を組み鼻であしらって一蹴する。茜の物言いは高慢ではあったが、ウツセミと称する彼女たちの一族で定められた取り決め通りの見解であり紅子は何も言い返せずに黙り込んでしまう。
「そういう訳だから規則通りこの子は置屋で預からせてもらうよ。娘のことがそんなに欲しけりゃ客として置屋に来な、いい値で譲ってやるから」
勝ち誇った顔で茜は紅子にそう言い放つと、丹の背を左手で押しながら木製の門扉に据えつけられた真鍮のドアノブを手前に引いて扉を開く。
「お母さん……」
「ほらネンネちゃん、いつまでもボサっと突っ立ってるんじゃないよ」
丹は母親に助けを求めるように背後を振り返るが、紅子は俯いて足元を見つめているだけで洋館に幽閉されようとしている娘を引きとめようとしない。茜が吸血鬼の腕力を発揮し有無を言わせぬ力で丹を館の中に押し込むと、長大な扉は重々しく閉ざされた。
外界からは扉1枚隔てられただけなのに、その年期の入った木彫の表面を見つめていると丹は二度と出られない監獄に収容されてしまったような心細い心境になる。
「ついてきな、あんたがしばらく寝泊りする部屋に案内してやる」
「あの、ここは一体……」
「ここは置屋。ウツセミの街に入り込んだ間抜けな人間のうち商品になりそうな奴を一時的に置いて、餌となる人間を欲しがっている同胞に斡旋する所さ」
茜は玄関の前から延びている階段を顎でしゃくって自分の後に続くよう丹に言いつけるが、丹は自分が連れ込まれたこの洋館が何なのかを茜に訊ねた。寝泊りする部屋に通してやると言ったのに余計な質問をしてきた丹に茜は鬱陶しそうな視線で一瞥するが、無知な子ども相手にムキになるのも大人気ないと感じたのか溜息を一つ吐くと簡潔にこの洋館が何をしている所なのかを丹に教える。
「それって人身売買じゃないですか、そんなこと許される訳……」
「ここは人間の法が及ばない魔境だよ、そしてここの支配者はウチらウツセミさ。あんたたち人間が家畜を取引するみたいに、ウツセミが餌である人間をどうしようと私たちの自由だろう?」
人倫を説く丹に対して茜は愉快そうに口の端を吊り上げながら、ここが人間の支配する世界ではなく魑魅魍魎が専横する魔界である事を再認識させる。人間の丹がいくらヒューマニズムを主張したところで紫水小路を支配する吸血鬼の茜には馬耳東風であることを丹は痛感させられた。
「安心しな、大切な商品に手荒な真似はしないよ。買い手に引き渡すまでは丁重に扱ってやるさ」
茜は丹の自由は自分の掌にあることにほくそ笑みながら軽い足取りで絨毯の敷かれた階段を登っていく。丹は母親を追って迷い込んだ吸血鬼の世界で、人としての尊厳すら剥奪されてしまったことの屈辱に耐え忍びながら飼い主である茜の後に従った。
「ここがあんたの部屋だよ、中を汚したり壊したりしなければ自由に使って構わない」
洋館の最上階までやってくると茜は腕にかけたハンドバッグから鍵が数珠繋ぎになった鍵の束を取り出して角部屋の扉を開錠する。丹は外壁が剥き出しになって硝子のない窓に鉄格子の嵌められた牢が扉の向こうにあることを想像したが、茜が開放した部屋の間取りは丹の想像とは全く違っていた。
板張りの床の中央には正方形のカーペットが敷かれており、天井からはシャンデリアを模した電灯が下がっている。部屋を囲む壁には白地の壁紙が貼られていて汚れや傷は見当たらなかった。壁の一面にはそれほど大きくない窓が設けられていて、ちゃんと硝子が嵌められており外の景色を見ることができるようになっている。壁の一辺には質素な寝台に毛布と掛け布団が敷かれており、その向かいの壁の隅にはクローゼットが置かれていた。
「風呂と便所はそこにあるんだからちゃんと身の清潔は保ちな。不潔にして商品価値を下げるんじゃないよ」
茜が言った通り入り口の扉の右隣に小部屋が設けられている。おそらくその中にユニットバスが設けられているのだろうと丹は思った。
「着替えはクローゼットの中のものを使いな、洗濯物は飯を届ける時に回収してやる。何か他に質問はあるかい?」
「…外出は出来ないんですよね?」
「当たり前だろう、部屋の外に出る必要がないように計らってやってるんだから」
考えているよりも置屋での境遇はいいことに安心した丹だったが、やはりそれは吸血鬼に売りつける商品としての処遇であって人間扱いはされていないのだと茜の返答から察する。
「説明はこんな所だね、それじゃ今夜は風呂に入ってさっさと寝ちまいな」
一通り部屋の使用に関する説明を終えると茜は部屋から退出していく。扉を閉めると同時に鍵が施錠される音が鳴って、茜は丹に部屋から脱走する隙を与えなかった。
あてがわれた部屋に残された丹は入り口の向かいにある窓へと歩み寄っていく。出窓になっている窓は女性にしては比較的大柄な丹が潜れるくらい広く鉄格子も嵌められていなかったが、その先には足場になりそうな屋根はなかった。
窓からの逃亡も厳しいと悟った丹は窓辺から離れると、壁際に置かれたベッドの上に倒れこむ。掛け布団の質もベッドのマットレスの硬さも丹が自宅で使っているものよりも上等で、吸血鬼に監禁されているはずなのに非常に寝心地がよく今にも眠りに落ちてしまいそうだった。
「なんか汗臭い……」
ベッドの柔らかな心地よさに身を委ねて眠りかけた丹の鼻腔をむっとする汗の臭いが突いてくる。丹は今夜熱帯夜の中を鱧川に沿って繁華街まで1時間ほど歩き、更に紅子のことを追って通りを全力疾走したのだからかなりの量の発汗があって当然だった。
「…他人のベッドで汗みずくのまま寝るのは悪いよね」
自分の体が随分汗ばんでいることに気付くと丹はこの状態で眠ることに不快感を覚え、湯浴みしたいという欲求を覚える。茜の命令に従うようなのは癪だったが、商品価値云々の前に生理的な欲求として丹は入浴することにした。
クローゼットの中からサイズの合いそうな代えの下着と浴衣を取り出して丹は浴室に入る。電灯の明かりがないかと浴室の扉の辺りをまさぐると、祖母の家で見かけた古い形式のスイッチに指が触れた。スイッチを反対側に動かしてみると浴室に電気が点り、室内が柔らかな灯に包まれる。
浴室は丹が想像したとおりのユニットバスで若干狭苦しいものの、風呂は脚の付いた陶器製の浴槽でヨーロッパのホテルのような雰囲気があった。浴槽と洋式便座の間に設置された洗面台の下に籐を編んだ籠があって大きさから洗濯籠だろうと丹は判断すると、身に付けていた衣類をその中に投じる。
髪と体をさっと洗うと丹は浴槽に湯を張って、湯船に身を沈めた。熱いお湯に浸かっているうちにどっと一日の疲れが込み上げてきて、丹は少々窮屈な浴槽を一杯に使って身を伸ばし全身の筋肉を弛緩させた。
「お母さんと10年ぶりに再会して、吸血鬼ううんウツセミとクーくんの先祖が取り決めたウツセミたちの居住区に足を踏み入れて、そしてウツセミに商品として売られるために捕まって…なんだか今日一日で何年分もの出来事があったような気がする」
丹は今晩の出来事を声に出して反芻すると鼻の辺りまでお湯に顔を沈めた。数時間の間に目まぐるしく自分の置かれている状況が急転していったせいで、丹の理性が状況の把握をしきれないままここまで来てしまった。こうして風呂に入ってリラックスすることで、ようやく状況を整理するだけのゆとりが持てたような気が丹はした。
「わたし、これからどうなるんだろう…茜って人が言った通り、ウツセミの誰かに売り飛ばされて血を吸われて干からびて死んじゃうのかな?」
商品として置屋に置かれているうちはそれなりの待遇が受けられそうだが、買い手に引き取られた後の自分の境遇がどうなるのかと丹は思案する。考えようと思えば幾らでも悲観的になれる状況であったが、温かい湯船に浸かっている心地よさと今までの出来事で思考回路が一杯一杯になっていたため丹はそれほど深刻に思い悩めない。
「でも話の中じゃ吸血鬼に血を吸われた人は吸血鬼になるんだよね、じゃあわたしも吸血鬼になるのかな?」
ウツセミの誰かに買い取られた後、買い手が吸血鬼である以上丹が血を啜られるのは疑いようのないことだったが、西洋の伝承にある通りなら吸血鬼に噛まれた丹もまた吸血鬼になってしまうということに丹は気付く。
「やだなぁ、自分が生き残るために誰かを犠牲にするのは……」
丹は街中で遭遇した海老茶色の肌をした吸血鬼の末路である異形の存在ナレノハテのことを思い出すと、自分がナレノハテと同類になってしまうことに強い忌避感を覚える。
「まぁいいや、今日は色々あって疲れたし先のことは明日考えよう……」
湯に浸かっていると一日の疲れを抜けていったが、同時に眠気も感じるようになって丹は浴槽の中でうつらうつらとしてしまう。吸血鬼に捕われてしまった以上老い先長くはなさそうだったが、浴槽で溺死して短い余生を更に縮めたくもなかったので丹は精神力を振り絞って湯船から這い出る。
手早く体を拭き、下着を身につけて浴衣を羽織ると丹は半分意識がない状態でベッドに潜り込んだ。疲労がピークに達した丹は使い慣れない寝具でも瞬く間に眠りに落ちて、そのまま泥のように眠り続けた。
* * *
「ふーん、休みでも結構学校に人いるんだな」
中学から部活動と縁がない来栖が休みの日に学校に訪れるのはこれが初めてのことで、彼は物珍しそうに隊列を組んで走っている陸上部や高々と打ち上げられたボールを追いかける野球部で賑わうグラウンドを眺めながら昇降口へと向かっていく。
下駄箱で上靴に履き替えた来栖は窓が閉められているせいで蒸し暑い廊下を進み、職員室の前までやってくると扉を軽くノックした。
「失礼します」
「休みなのに呼び出してすまんな、来栖」
「別にいいっすよ、昼間は暇っすから」
来栖が一声かけて職員室の中に入ると彼の担任の盛田、通称ゴリ田が席から立ち上がって来栖を自分の方に来るように手招きした。来栖はゴリ田に呼ばれた通り彼の机に近づいていくが、ゴリ田の隣に中年の男が座っていることに気付く。
「あなたは確か霧島の親父さん……」
「娘のことを家まで送ってくれたのにその節は失礼した」
ゴリ田と同席している人物が丹の父親である斎だと思い出した来栖に、斎は事情もよく聞かないまま来栖を殴りつけた非礼を詫びて頭を下げる。
「いえ、気になさらずに。それよりもセンセー、俺だけじゃなくて霧島の親父さんまで呼び出して一体何の用です?」
来栖は空いている椅子に腰掛けると今日呼び出しを受けた理由をゴリ田に訊ねた。
「霧島が家からいなくなったことについて、何か知らないか霧島のお父さんが直接聞きたいそうだ」
「えっ、霧島が?!」
ゴリ田が来栖を呼び出した理由を告げると斎は来栖の顔を真っ直ぐに見据える。しかし丹が失踪したと聞いて来栖も驚きを隠せなかった。
「その様子では君も丹がいなくなったことについて何も知らないようだが、もしあの子がいそうな場所を知ってたら教えてほしい」
「知っていれば教えたいのはやまやまですけど…俺と霧島は特に親しいって訳じゃないっすよ、俺なんかに聞くよりも天満にでも聞いた方が……」
「天満やその他の霧島と仲のいい生徒にはもう確認したが、誰もそういった心当たりはないらしい。来栖、聞くところによるとお前終業式の日に霧島をおぶってあいつを家まで送ったそうじゃないか。だからもしかしたら天満たちの知らないことを知っているんじゃないかって思ってな」
斎は懇願するような目を来栖に向けるが、どれだけ斎が熱心になろうとも知らないものは答えようがないと来栖は途方に暮れる。しかし斎から終業式の夜のことを聞いたらしいゴリ田は訝しげな目で来栖に詰問してきた。
「頼む来栖くん、もし丹の居場所に心当たりがあるのなら隠さずに答えてくれないか?」
斎も再度来栖に思い当たる節があれば正直に答えるように請願してくる。ゴリ田と斎、年長の男2人から凝視されているうちに来栖は丹の行く手に行き当たるものを思いついてしまった。
「霧島がいそうな場所の心当たり、ねぇ……」
来栖は思い当たってしまった丹がいそうな場所について彼らに打ち明けるべきかどうか一瞬逡巡し、考えを纏めるために間を持たせようとする。
ゴリ田と斎が勘繰っているような恋仲ではなかったが、来栖と丹はある秘密を共有している。それは御門市内の闇に潜んで人を襲う理性のない吸血鬼ナレノハテと現在丹が捕らえられている紫水小路に隠遁している理性的な吸血鬼ウツセミ、そして来栖が彼らの天敵であり守護者でもあるウワバミと呼ばれる存在であることに関する話である。
不運にも短期間に二度もナレノハテに遭遇し二度とも来栖に救われたことと、二度目の遭遇の際に偶然来栖の仕事振りを検分していたウツセミの族長源司を目撃したことで、丹は9年前の春に失踪した母親の紅子が吸血鬼となってウツセミたちの居住地である紫水小路にいることを知ってしまった。
心身ともに健全な女子高生である丹が瘴気の渦巻く紫水小路に迷い込む可能性は非常に低かったが、母親がそこにいると分かった以上彼女がそこに行こうとすることは充分に考えられる。そして何らかの拍子に丹が紫水小路に引き込まれてしまえば、遠い昔来栖の先祖がウツセミたちと交わした盟約に従って丹がウツセミたちの獲物になって捕われてしまっても来栖に文句をいう資格はなかった。
紫水小路が人間を狩ることを認めた居住区である以上、例えウワバミである自分の知り合いであっても来栖が丹のことを贔屓するわけにはいかなかったが、人間の社会で生きるゴリ田や彼女の親である斎がその掟を甘受できるはずがない。
来栖はウワバミとしての責務とくいな橋高校で丹の級友であることの良心の間で板ばさみになりながら、どうこの場をやり過ごそうかと思考を巡らせた。
「来栖、何か思い当たる節があるのか?」
「…いえ、やっぱりないっすね」
しばしの葛藤の後、来栖は丹が紫水小路にいる可能性をゴリ田と斎に黙秘することに決める。現状で丹が紫水小路にいる確証はなかったし、仮に紫水小路にいたとしても来栖の立場では丹のことを取り戻すことはできない。加えて御門市に数百年前から潜伏している吸血鬼に攫われたなどと言っても、到底ゴリ田と斎が自分の話を信じるとは思えなかったし、逆におちょくっているのかと相手の神経を逆撫でしかねない。
「やっぱりそうか…ありがとうな、わざわざ学校まで来てくれて」
「いえ、近所っすから。それじゃ……」
「来栖くん、帰る前に一つ教えてくれないか」
案の定来栖から有益な話を聞きだせなかったことに嘆息しつつ、ゴリ田は炎天下の中足労してくれた来栖に礼を述べる。来栖も担任の礼に応えつつ、その場を辞そうと席を立つと斎が来栖の背中に呼びかけた。
「なんすか?」
「君が丹を送ってくれた日、君は丹とどこにいたんだ?」
来栖は至極平然にゴリ田たちからの質問に受け答えをしたつもりだったが、斎はそんな来栖の取り繕われた態度のどこかに腑に落ちない点を感じたらしい。大人達からの質問を切り抜けて幾分気の緩んだ去り際、斎は痛い所を突いてくる質問を来栖に浴びせた。
「どこって言われてもな…学校からずっと一緒にいたんじゃなくて、たまたまあなたの家の傍を通りかかった時に霧島が怪我をして動けなくなっているのを見つけてそれで放っておく訳にもいかないから送っただけですよ」
「ええ、あの日霧島は遅くまで図書委員の仕事で学校に残っていたことは下校の時に私が見かけたので保証します」
「確かにあの時丹は足に怪我をしていた。しかし歩けないほど酷い怪我なかったし、家に着いた時丹は気を失っていて俺が君を殴るまで目を覚まさなかっただろう。近所で見かけて家までおぶってきたのだからそんなに熟睡するのは不自然じゃないか?」
その晩の出来事を口外するのは憚られたが、珍しく来栖の発言にゴリ田が助け舟を出してくれたのでどうにかやり過ごせそうだと来栖は楽観的な気持ちになる。しかし当時のことを斎が鮮明に記憶していたため、来栖の発言に不可解な点がある事が浮き彫りになってしまった。
「盛田先生が下校するのを見かけてから家に帰ってくるまで1時間半ほど時間に開きがある、その間丹は君と一緒にいたんじゃないか? そしてその間君は俺の娘とどこで何をしていた?」
斎の口調は淡々としていたがその裏にはふつふつと怒りの炎が燃え滾っており、その矛先が自分に向けられていると来栖は斎から無言の圧力を感じて、しがない中年である彼の覇気に気圧される。
「それは……」
来栖はどう斎の問いかけに応じるべきかと思案した。
まさかナレノハテという人の血を啜る化け物に襲われた丹を自分が剣気という生体エネルギーを発して窮地を救ったが、9年前に丹の母親を攫った吸血鬼と自分が懇意にしており、その吸血鬼がほんの少し丹の生体エネルギーを奪ったために彼女が一時的に昏倒したという訳にはいかない。
だが非現実的な真実に代わる説得力のある詭弁も来栖は思いつかなかった。斎が鋭い眼差しを来栖に注ぎ続け、来栖は適当な言い訳をどうにか絞り出そうと苦心しながら重苦しい沈黙が当たりに立ち込める。
「疚しいことがあるから質問に答えられないんだろう。さあ来栖、大人しく白状しろ!」
「…分かりました、この際正直に話します」
やがて沈黙に耐えかねたゴリ田が罵声をあげると、来栖は観念したように溜息をつき「真相」を斎たちに打ち明けることを告げる。
「俺、霧島が気になってたんすよ。終業式の日も校門の前で待ち伏せして、下校してきたあいつに声をかけたんす。あいつは早く家に帰って夕飯の支度をしなくちゃいけないっていったんすけど、俺が無理やりお茶に誘って近くのコーヒー屋に連れてったんす」
「ほう…それからどうした?」
来栖が語り始めた「真実」に頬を引き攣らせながら斎は話を進めるよう来栖に促す。
「コーヒー屋に入ってしばらく話を、といっても俺が一方的に喋るだけで霧島はそれを嫌々聞いていただけなんですけどね。まぁそのうちちょっと前に揉めた稲荷工業の奴らが店に入ってきたんす。この間1対4で負けたことが納得いかなかったらしく、あっちからインネンつけてきたんすよ。俺は霧島と一緒にいるのを邪魔されたくなかったんで最初はシカトしてたんすけど、そしたらあいつら霧島に手を出そうとしてきたんす」
「それで、その後はどうなった?」
斎は愛娘が来栖のような問題児に連れ回されたことだけでも腹に据えかねていたが、まして来栖が元凶であるいざこざに巻き込まれたと聞いて腸が煮えくり返るような怒りに駆られて拳を震わせている。しかし斎は最大限の自制心を動員して最後まで来栖に話をさせようとした。
「その後はご想像の通り店の表で乱闘っすよ。また喧嘩には勝ちましたけど、さすがに1対4で霧島を庇うのは難しくてあいつを危ない目に遭わせちゃって…足の傷はそん時に出来たもんです。稲荷工業の連中には霧島の足に傷を負わせる以上のことはさせませんでしたけど、優しいあいつは殴り合いを目の当たりにしたことで気を失っちゃって……」
来栖が丹を荒事に巻き込んだにも関わらず照れ笑いを浮かべるのを見て、堪忍袋の緒が切れた斎が来栖の鼻っ柱を殴りつける。強かに鼻面を殴られた来栖は鼻血を噴き出すが、来栖の捏造した「真実」を聞かされた斎の怒りは収まらずに来栖の頬や胴を何度も殴りつけ、その度に鈍い音が職員室中に響いた。
「霧島さん落ち着いてください、確かにこいつは娘さんを危ない目に遭わせましたけど失踪には直接関わってはいないでしょう?」
「こいつ自身は何もしていないかもしれないが、その時喧嘩した連中が丹を攫ったかもしれないだろう? こいつが、この小僧が余計な真似をしたせいで丹が、俺の大切な娘が危険な目に遭ったかもしれないじゃないか!」
無抵抗の来栖に一方的な暴行を加える斎をゴリ田は背後から羽交い絞めにして来栖から引き離そうとするが、怒りに駆られる斎は体格で勝るゴリ田の膂力でも押さえ込むことが難しくその束縛から逃れようともがく際に振り上げた足が来栖の腹を蹴りつける。
「…俺だってあんなことにあいつを関わらせたくなかったっすよ」
滴り落ちる鼻血で鼻から下を真っ赤に染めながら来栖は苦し紛れに懺悔の言葉を呟く。自分が曖昧な態度で彼女を突き放さなかったために、斎に話したように不良同士の抗争に巻き込んだことではなくもっと凶悪な存在との因縁を丹に作ってしまったことを来栖は今更ながら後悔した。
「もう帰れ来栖、お前がいると余計に話が拗れる!」
「…失礼します。センセーそれから霧島の親父さん、本当にご迷惑をお掛けしました」
どうにか斎のことを押さえ込んだゴリ田が事態を悪化させるだけの来栖に帰宅を命じると、来栖は深々とゴリ田と斎に頭を下げてその場を後にした。来栖が歩いた後、床に血が滴り落ちて点々と軌跡を描いていく。
「待てよ小僧、俺の娘を返せ! 女房だけじゃなくて娘まで亡くすなんて冗談じゃない!」
職員室の扉を閉めようとした時、斎の悲痛な叫びが来栖の耳朶を打つ。居た堪れない気持ちで来栖は自分に向けられた斎の憎悪を遮るように職員室の扉を閉めると、その場から脱兎の如く駆け出した。
昇降口で上履きを放り出し外履きに履き替えると来栖は鼻血を垂れ流したまま構内を駆け抜ける。正門から飛び出して通りに出た来栖はそのまま学校の傍を流れる鱧川の畔まで走り続けると、堤防を駆け下りて川縁に向かい勢いそのまま浅瀬に飛び込んだ。
鱧川の流れを掻き分けながら川の中ほどまで来栖が辿り着いた時には彼のズボンは膝の上まで水に浸かっていた。来栖は鱧川の中央に仁王立ちすると、天を仰ぎながら理不尽な非難を浴びせられた怒りとも自分の不注意が原因かもしれずに丹を失ってしまった悲しみともつかない、聞いている者の胸が締め付けられるような咆哮をあげる。
堤防の上を走る運動部員や買い物途中の自転車の通行人の視線も幅からず、来栖は自分の無力さと課された責務への認識の甘さに自責の念を感じながら大声で抜けるような夏空に向かって叫んだ。
* * *
「ここで目を覚ますのは3回目だけど、実際ここに来てどれくらいなんだろう?」
紫水小路にある置屋の一室に幽閉されてから3度目の目覚めを迎えた丹は、浴室の蛇口で顔を洗い軽く髪にブラシをかけながら自問する。
丹が現在寝食をしている部屋の窓の向こうに広がる空は、いつも夕暮れのような薄明かりに包まれていて夕闇が完全に空を覆いつくすこともなかったが、その一方で朝日が昇ることもなかった。おまけに室内に時計やテレビは置かれておらず、丹自身も携帯電話や腕時計などを持ち歩いていなかったので、時間や日付を確かめられる術がなく感覚的には3日目であっても実際置屋に閉じ込められてから何日経つのか分からなかった。
置屋での暮らしは食事と寝床は保障されていたがそれ以外の自由はなく、丹のいる部屋にはテレビやパソコンといった文明の利器はもちろん書籍すら1冊もなかった。退屈しのぎにすることがないため、丹は少しでも手慰みをしようと自宅にいる時よりも念入りに髪を梳き、浴室に置かれていた化粧水などの美容製品を使って自己流で肌の手入れをして時間を潰していた。
自宅にいる時は家事に忙殺されていたため自身の身繕いを丹は簡素、悪く言えば無頓着にしていた。妹の葵が中学生であるにも関わらず背伸びをして洗面台の棚に化粧品を並べているのを高校生の丹は傍観しているだけだったが、暇潰しに浴室に置いてあった化粧品を使ってみて身嗜みに気を使えば自分も案外捨てたものではないのではないかと丹は鏡に写った自分の姿を見てふと思う。
化粧水を使って適度に潤いが保たれた丹の頬は滑らかな曲面に艶やかさを湛えている。普段は朝から晩まで家の仕事に追われて丹は寝不足しがちだったが、今は充分過ぎるほど睡眠をとっているおかげで顔全体の血色もよく唇も紅を注してもいないのに鮮やかな色をしている。生活に余裕があるせいか表情もいつもより朗らかな感じがして、丹は別人のような印象を受ける鏡の中の自分の顔に思わず魅入ってしまう。
「…馬鹿みたい、これじゃあ茜さんの思惑通りじゃない」
だが丹が自身の美容に気を使えば使うほど彼女の商品としての価値は高まり、自分を捕われの身にしたウツセミの美女茜にとって望ましい状況になることに気付くと、丹は鏡に背を向けて仏頂面で浴室から出て行った。
「ネンネちゃん起きてるかい、入るよ」
手入れをした自分の顔に見惚れていたことに丹が辟易していると、部屋の戸がノックされて彼女を幽閉したウツセミの茜が食事の乗ったトレイを携えて入室してきた。
理由は定かではなかったが茜は丹のことを毛嫌いしているらしく、食事を運んできて顔を合わせる時はいつも不機嫌そうに丹を見ていたが、今日は何か嬉しいことでもあったように口元を綻ばせながらテーブルの上にトレイを置いて丹の方に向き直る。
「ネンネちゃん、ようやくあんたの買い手が決まったよ」
恐らく自分を売りつける商談が纏まったのだろうと丹は予想していたが、案の定茜は上機嫌で丹に彼女の売りつけ先が決まったことを告げてくる。
「わたしを買うのはどんなひとなんですか?」
「富士見氏族で染物をやっているジジイさ、まあ歳は200以上だけど肉体年齢はその10分の1くらいだから介護の心配はないよ」
丹が自分を買う気になったウツセミのひととなりを茜に訊ねると、茜は冗談半分で質問に応じる。もしかしたら母親の紅子が自分を買ってくれるかもしれないと淡い期待を抱いていた丹だったが、その希望も儚く消えたことを知って顔を曇らせる。
「染物屋のジジイはあんたの身請けを明日したいそうだ。いつまでもそんなシケた面してないで、ご主人様に気に入ってもらえるよう媚を売る練習でもしてな」
茜は早々に丹を厄介払いできることを嬉しく思っているらしく、嬉々とした表情で翌日に丹の身柄を買い手に引き渡すことを言い放つと部屋から出て行った。商談が成立しても自分の退室と同時に部屋の鍵を施錠するあたり茜の商売人としての姿勢に抜かりはなく、彼女が去っていく足音を聞きながら丹はモラトリアムがあと僅かになってしまったことの悲嘆に暮れていた。
しばらく項垂れたままベッドの端に腰掛けていた丹は顔を上げると引き寄せられるように出窓へと近寄っていき、身を乗り出して丹は出窓の周囲の様子を見渡し始めた。
「自由に身動きが出来る今のうちに逃げなくちゃ……」
置屋で過ごした数日間のぬるま湯のような生活で萎えかけていた逃亡しようという意欲が、自由を完全に喪失する危機が差し迫ったことで再燃してくるのを感じながら丹は脱出口を探る。硬く閉ざされた部屋の扉から出られない以上、丹に残された逃げ道は出窓からしかなかった。
監禁された初日に検分した際に飛び移れそうな屋根や隣接する建物はなく、出窓から一歩足を踏み出せば地上へ真っ逆さまということは既知していた丹は、壁伝いに逃げる方法を模索し始める。
すると丹は出窓から数mほどの距離にある洋館の角からパイプが地上に向かって延びていることに気付いた。出窓から排水用の水道管らしいパイプに辿り着ければ、逃亡も可能かもしれないと丹は一筋の光明を見出す。そして丹のいる最上階と下の階との間には足場になりそうな意匠が洋館の外壁を一周するように施されていた。
足場代わりの意匠の幅は10cmにも満たないだろうし、出窓から水道管までに手懸かりになりそうな突起もない。バランスを崩せば10数m真下まで転落してしまうリスクを考えると丹の足は恐怖で竦んでしまう。
「…吸血鬼に血を吸われて大人しくミイラになるよりは、自由を求めて冒険する方がずっといい。結果として転落死してもその方が成仏できそう」
平穏だった家族の幸せを奪った吸血鬼の仲間の餌として死ぬくらいなら、失敗すれば命を落とす可能性があっても生き延びる道を選ぶ。丹は意を決した表情でテーブルの前から椅子を取ってくると、片手に一本ずつ脚を掴んで勢いよく窓ガラスに椅子を叩きつけた。
椅子をぶつけられた衝撃でけたたましい音を立てながら出窓のガラスは粉々に砕け散る。丹は窓の桟に残ったガラスをスリッパで払い落とすと、寝巻きに使っている浴衣姿のまま窓の外に身を乗り出した。
一瞬見下ろした足元にはガラスを破るのに投げつけた椅子がばらばらになって転がっている。一歩間違えば自分も椅子と同じ運命を辿ることになると気を引き締めて、丹は外壁を取り囲む意匠のでっぱりに足を伸ばした。
日本人女性にしては比較的背の高い170cmほどの身長に締める足の比率が高いこともあって、丹の足はしっかりと足場となる意匠まで届く。片足を足場に乗せると丹は勢いをつけて出窓の桟を突き放し外壁へと飛び移った。一瞬虚空に投げ出された丹の体は次の瞬間外壁と接触する。外壁とぶつかった反動で足場を踏み外さないように丹は慎重に腕を使って衝撃を殺し、狭い足場の上でバランスを取った。
外壁に巡らされた意匠の上に飛び移ることに成功すると、丹は摺り足で少しずつ壁伝いに水道管に向かって移動し始める。それほど強くはなかったが風になぶられる度に丹は体勢を崩しかけ、積み上げられたレンガの僅かな隙間を両手の指で掴み、足場を裸足の両足で踏み締めてその場に踏み止まった。
「窓が割られているってことはあの小娘まさか…やっぱりそこか!」
ガラスの割れる音を聞きつけて異変を察知したらしい茜は、部屋の窓が破られていることから丹の意図に気付いて出窓から顔を覗かせてくる。想像した通り窓から外壁伝いに脱走を企てている丹を見つけると、茜は澄ました顔を般若の如き形相に変貌させた。
「往生際の悪い娘だね、紫水小路に迷い込んだ以上お前はもう逃げられないんだよ!」
「いやっ、あんたたちの餌になるくらいならここから飛び降りた方がマシ!」
「売り物が舐めた口利くんじゃないよ。あんたを納品できなきゃ置屋のメンツは丸つぶれさ、絶対に売り飛ばしてやるんだから戻ってきな!」
「嫌だ、絶対に戻らない!」
茜の剣幕に圧倒されかかった丹だったがもう数歩で水道管まで辿り着ける位置まで移動していたことで居直り、破れかぶれの虚勢を張って茜の命令に反抗する。
「母親と同じで癪に障る小娘だね…どこまで手を焼かせれば気が済むんだい?!」
茜は丹だけでなく彼女の母親でウツセミの紅子への不満を漏らすと、力ずくで丹を連れ戻そうと出窓から身を乗り出して外壁に飛び移ろうとする。茜はいつものように典雅なドレスを纏っており常識で考えれば外壁に飛び移って丹を捕らえるという芸当が出来る道理もなかったが、茜たちウツセミが人間よりも遥かに運動能力が優れていることを踏まれて造作もない事だろうと丹は考えた。
丹が思った通り出窓から外壁の足場に跳躍した茜は、体操選手のように危なげのない着地を決めて飛び移ってくる。丹は急いで水道管を伝って地上に降りなければならないと気持ちを逸らせるが、吹き付けてくる風と不安定な足場で思うように前へと足が踏み出せなかった。
「観念しなネンネちゃん、あんたみたいなグズが私から逃げ出そうなんてできっこないんだよ」
水道管まであと数十cmが遠い丹とは対照的に、茜は長いドレスの裾を風に靡かせながら軽やかな足取りで丹に迫ってくる。水道管まで手が届く位置まで丹は移動していたが、茜はまるで地上を歩いているような速度で接近しており、丹が水道管に取り付いている間に茜は彼女のことを捕らえてしまうだろう。
「さあ鬼ごっこは終わりだよ、ネンネちゃん?」
わざとらしく丹の一歩手前で立ち止まると茜は蔑むような目で投降を呼びかける。両手で水道管を掴んでいた丹が悔しそうに顔をしかめるのを満足そうに眺めながら、茜は丹の腕に手を伸ばす。
しかし茜の腕が触れかける寸前、丹は思い切り足場を踏み切ると両手で掴んだ水道管を回転の軸にして別の壁面へと飛び移ろうとする。茜が腕を突き出した反動で危うくバランスを崩しかけてその場で踏鞴を踏んだ隙に、隣の壁面に飛び移って難を逃れた丹は地上へと降り始めようとする。
だがいくら細身の女性と言っても人間の体重分の力が加わったせいで老朽化した水道管は大きくたわんで折れてしまい、外壁に固定される留め具も飛んで水道管の一部は壁から外れてしまう。
「きゃあああ?!」
ちょうど外壁から剥落した部位を掴んでいた丹も水道管と共に壁の外に投げ出され、彼女の体は虚空に舞う。突然足場から宙に放り出された丹は、悲鳴を上げながら地上へと急降下していく。
「ネンネちゃん!」
丹の転落を目の当たりにした茜が丹に呼びかけるのと、丹が背中から地面に叩きつけられてその体が一度小さく弾んだ後にぐったりと横たわるのはほぼ同時のことだった。
「冗談じゃないよ…ここで死なれたら儲けがパーになっちまう」
丹の命というよりは商品の引渡しが出来なければ顧客との信頼が崩れてしまうことを重視しつつ、茜は丹の無事を祈って階下へと飛び降りる。風圧を受けて身に付けたドレスの裾が大きく広がるのも意に介さずに一気に5階分の高さを飛び降りた茜は、水面に落ちた花弁のように静かな着地を決めた。
「ネンネちゃん、返事をしなさい小娘!」
力なく路上に倒れ伏している丹の体を揺すりながら茜は彼女に呼びかけるが、丹の体は脱力しきった様子で茜に揺すられるまま左右に揺れる。
「後頭部が割れて意識もない、これじゃもう売り物にならないね……」
落下の際に地面に打ちつけて頭蓋が割れたらしく丹の後頭部は血に染まっている。茜は丹の蘇生が不可能であると悟り、商品としての彼女に見切りをつけた。茜は折角の儲け話が破談になってしまったことと買い手への弁解の苦労を忌々しく思ってはいるようだが、丹の命が失われていくことには何の感慨も抱いていないようだった。
「待てよ、召人にはできなくても生き血の利用価値はあるか」
茜は生きた状態での取引はできなくなったが、瀕死の丹の血には商品価値があることを見出してその算用をし始める。味見がてらに丹の後頭部から吹き出る血を右の人差し指で掬い取ると、長くて細い指を暗色のルージュが引かれた口元に運び丹の血を舐める。
「やっぱり処女の血は果物みたいに甘くて瑞々しいねぇ。死にたてほやほやの処女の血なら仕事終わりの若い衆が一杯ひっかけるのにちょうどいいだろう」
高値で売りつけることはできないだろうが、血気盛んな若い同胞の男たちが一日の疲れを癒そうと垂涎してくるだろうと茜は算段を踏み、足元で虫の息になっている丹のことを見下ろす。
「あんたの血で壊したガラスと水道管の弁償くらいは稼がせてもらうよ、ネンネちゃん」
「いやいや、彼女の値打ちはそんなちっぽけなものじゃないだろう?」
二束三文でも全損するよりはいいと割り切り、茜は再び商品になった丹の体を抱き上げてその場に屈むと飄々とした声が背中から聞こえてくる。
「あら、舌が肥えている源司さんがこんな小娘の血をいい値で買ってくれるのかしら?」
「処女の血なんてそうそうありつけるもんじゃないからね、チップは弾ませてもらうさ」
「それはどうも、それなら早速……」
声をかけられるまで気配を感じさなかった代永氏族の族長源司の出現にも驚かず、茜は開口一番彼に取引を持ちかける。源司からの回答も感触がよかったので、茜は下っ端のウツセミ数人に売却するよりも多くの利益を得られるという期待を抱いて交渉を進めようとした。
「丹ちゃんの血を味わうのも悪くないけど、その血に舌鼓を打つ以上に彼女は俺たちに多くの利益をもたらしてくれると思うよ」
「召人として役に立たないこの娘に、生き血で渇きを潤わせる他にどんな利用価値があるっていうんです?」
「決まっているだろう、同胞に転化させて店で働いてもらうのさ」
「なんですって?!」
しかし源司への売値を茜が勘定していると、彼は丹を吸血鬼の仲間に引き入れて自分の経営する風俗店で接客をさせると言い出すのを聞き、茜は思わず声を荒らげてしまった。
第5回 了