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第3回、生き血を啜る悪鬼

「霧島?! また奴らに鉢合わせるとはとことん運がないな」


「こっちは二度と遭いたくなかったのに……」


 逃げ延びてきたまことと合流した来栖は彼女を自分の背後に隠してダメージから回復したナレノハテと向き合う。腕で丹を自分の後ろに押しやった時、来栖は遠い先祖が西洋人だった名残らしい高い鼻をひくつかせて何か気になる臭いを感じ取る。


「霧島、どうしてあんたから赤霧せきむの臭いがするんだ?」


「セキム?」


 来栖は自分の体に密着させている丹から香る臭いが気がかりらしいが、事情が飲み込めない丹は彼が何を懸念しているのか分からない。来栖の質問に丹が要領を得ない返事をしているうちに、丹の足から滴っている血の臭いに惹かれてナレノハテが彼女たちに向かって突進してきた。


「話は後で聞かせてもらうが、ますはこいつを倒すことが先決だ!」


 来栖は一旦質問を中断すると、丹を自分の背に庇った状態で先日ナレノハテを一撃で消滅させた技を繰り出した時と同様に、足を開いて体を正面に向けたまま腰の脇に構えた右の拳に左手を添えて呼吸を整える。


「喝!」


 丹の鼓膜を激しく揺らす大音声と共に来栖は構えていた拳を鋭くナレノハテが迫ってくる方向に突き出した。周囲が夜の暗闇に包まれているため、今回ははっきりと来栖の右の拳の先から青白く輝く槍のような光の筋が闇を切り裂いて突き進んでいくのが丹の目にはっきりと映った。


 低く身を屈めた前傾姿勢で大地を滑るように疾駆してきたナレノハテの口が大きく裂けた顔の額に来栖の放った光の槍は突き刺さると、ナレノハテの尻から穂先を突き出してその身を串刺しにする。


 しかしナレノハテは来栖の拳から伸びる光の槍に縫い止められた直後、やはり強烈なエネルギーを叩き込まれて爆発したように肉体を飛散させると、その内側から夜の闇よりも更に暗いおぼろげな輪郭の黒い球体を剥き出しにして、間もなく黒い球体ともども肉体の破片を煙のように消滅させてしまう。


ナレノハテに襲われるのも二度目なら、来栖がナレノハテを光の槍で始末するのを目撃するのも二度目であり丹は危機が去ったことを感じて安堵の吐息をする。


「また助けてくれてありがとう」


「奴らを討つのが俺の務めだからな、礼を言う必要はない。それよりも霧島、どうしてあんたから俺がナレノハテを引き寄せるために奴らの好む血の臭いを漂わせる煙草、赤霧の煙の臭いがするんだ?」


 丹が二度も自分を救ってくれた来栖に謝辞を述べると、来栖は彼女の感謝の言葉を聞き流して先ほど聞き損ねた質問の続きを始める。来栖が話す赤霧の特徴を聞いているうちに丹はそれが帰り際にゴリ田が吸っていた煙草の特徴と一致していることに気付いた。


「クー…来栖くんもしかしてその煙草、学校で盛田先生に取り上げられなかった?」


「ああ、あんたと登校中に出会った日、説教のついでに持ち物検査されて没収された。ひょっとしてゴリ田センセーは俺から巻き上げた赤霧を吸っていたのか?」


「うん、今日の帰りに不味いって文句を言いながら吸ってたよ。あの煙草、臭いがきつくてまだ臭いが取れないよ」


 丹はナレノハテから逃れる際に噴出した汗が滲んだ制服の袖の臭いを嗅いで、まだ仄かにゴリ田が吸っていた赤霧の臭いが染み付いていることに顔をしかめる。


「ナレノハテが嗅ぎ付けやすいように臭いをきつくしているけど、それが裏目に出たせいでさっきの奴があんたを狙ったんだろうな。すまない、今回あんたが巻き込まれたのはセンセーに赤霧を取られっぱなしにした俺のせいだ」


 来栖は自分の軽率なミスが原因で丹を再びナレノハテに襲わせてしまったことを素直に詫びる。傲岸不遜な性格の来栖が深々と長身の上体を倒して自分に頭を下げたのを見て、丹はどう反応していいか戸惑ってしまう。


「いいよ、結果的に来栖くんに助けてもらったからそれで帳消しにしてあげる。これに懲りて来栖くん煙草吸うの止めたら?」


「止めるも何も今だって吸ってないし、あんな不味いモン吸う気もしないよ。奴らを惹きつけるために火をつけて持ち歩いているだけだ」


「ただ持っているだけでも余計な誤解されるだけなんだし、持ち歩くのも止めれば?」


「そうはいかない、赤霧はナレノハテを誘き寄せて仕事を捗らせるためには欠かせないものなんだ。今退治したからセンセーが襲われる可能性は低いだろうけど、至急残りの赤霧も回収しないとまた今日みたいなことが起こりかねない」


 来栖が喫煙していないことを聞いて自分も彼のことを誤解していたと丹は反省するが、そもそも未青年なのに来栖が煙草を持ち歩いていること事態が問題だと丹は指摘する。しかし来栖は務めを果たす上で赤霧は欠かせないものだと丹の提案を却下した。


「うら若き乙女を守りながら難なく目標を始末する。見た目だけじゃなくて腕が立つところも先代と同じで安心したよ」


「女の子が化け物に襲われているのに自分は安全な所で傍観ですか、源司サン」


 来栖の鮮やかな手並みを賞賛する拍手をしながら現れた源司を、来栖はナレノハテに襲われていた丹を見殺しにしていた彼の態度を歯に衣着せぬ物言いで咎めた。


「傍観していたとは心外だな、彼女の悲鳴を聞きつけた君が俺を置き去りにして急に走り出していったことを忘れたのかい? おまけにオレがここに着いた時には君が剣気でナレノハテを貫いていたからもう全て片付いていたし、非難される覚えはないよ」


 源司は肩を竦めて自分に落ち度がないことを主張すると、来栖に言いがかりをつけられている自分が被害者であると同意を求めるように丹に目を向ける。


 丹は外灯の明かりに照らされた源司の類稀な美貌にしばし見惚れていたが、やがて丹の表情は美しいものを愛でるものから異質なものへの畏怖、そして初対面のはずの源司への怒りの色が浮かんだものに変化していく。


「お嬢さんのピンチに何もしてあげられなかったオレを不甲斐なく感じるのは仕方ないことだと思うけど、そんな怖い顔をしちゃ折角の美人が台無しだよ?」


「…あなたは誰?」


 丹は棘のある眼差しで相手の顔を凝視したまま、源司に名を訊ねる。


「オレは代永よなが源司、街中で飲食店を経営している男さ」


「何が飲食店だよ…要するにキャバクラだろ?」


 丹に睨まれたまま源司はにこやかな表情で自分の素性を明かすものの、彼の経営している店の特徴を述べるのを婉曲な言い方で避けたのを訊いて来栖が揚げ足を取る。


「キャバクラだろうが居酒屋だろうがイタリアンレストランだろうが、飲食物を提供してお客をもてなすのは同じだろう? ところで可愛いお嬢さん、できれば君の名前を教えてもらえないかな?」


「源司サン、堅気のこいつに関わるのは止めてくれ。あんたもこの人の質問に真面目に答える必要はないぞ」


 自分が経営する店の業種を来栖が吐き捨てるように言うと、源司は自分の店が分類される業界も立派なサービス業だと弁解しつつ軽い調子で丹に名前を聞き返す。来栖が慌てて普通の女子高生である丹に夜の街で商売をする源司が関わらないように牽制して、丹にも源司の言うことに付き合う必要がないことを訴えた。


 しかし来栖が源司に関与しないように助言したにも関わらず、丹は自分から源司に歩み寄っていく。だが丹の顔は眦が吊り上がり固く結んだ唇をへの字に曲げていて、有効な雰囲気とはほど遠かった。


 丹は源司の真正面で立ち止まると、若干自分よりも高い位置にある彼の顔を睨むような目で見上げる。源司は丹の剣幕を受けても軽薄な態度を崩さずに動じた素振りは見せなかったが、一見した印象よりもずっと丹の背が高いことに驚いたように少しだけ頬を引き攣らせた。


「お嬢さん、随分力の籠もった目を向けてくるけどどうしたのかな?」


「…わたしの名前は霧島丹」


 丹が自分を睨みつけてくる意図を源司が問うと、丹は彼の質問には答えずに低く感情を押し殺した声で名乗る。


「霧島、丹……?」


 丹の名前を聞くと源司の美しくも締まりのない顔に緊張の色が浮かぶ。丹自身とは面識がないものの、彼女の名前に源司は思い当たる節があるようだった。


「9年前の春に、あなたが連れ去った霧島紅子の娘です!」


 丹は自分の名前に源司が反応を示したことを証拠として、彼のジャケットを両手で強く掴みかかりながら一気に10年近く溜め込んだ怒りの感情を噴出させるように、自分でもびっくりするくらい大きな声で叫んだ。


「紅子の娘、そうかあの時の女の子か……」


「やっぱりお母さんのことを知っているんですね、答えてくださいお母さんは今どこにいるんですか?!」


「落ち着け霧島、相手を脅迫するようなやり方なんてあんたらしくないぞ?」


 源司が自分を丹が9年前の春に目撃したあの美青年であることを認める発言をすると、丹は源司のジャケットの裾を引き寄せて彼に詰め寄りながら母親の居場所を強引に聞き出そうとする。


 怒りを爛々と燃え滾らせる一方で、ようやく掴んだ母の行方の手がかりを懇願するように訊ねる丹の態度は明らかに尋常ではなく、来栖は取り乱している彼女のことを後ろから羽交い絞めにして源司から引き離し、冷静になるように言い聞かせた。


「離してよクーくん、この人がわたしのお母さんを誘拐した犯人なんだから!」


「だから冷静になれって、そんなに取り乱してちゃまともに話が聞ける訳ないだろう?」


来栖の腕に掴み上げられた丹の体は宙を浮くが、彼女の手は源司の羽織ったジャケットを強く握り締めて離そうとしない。源司から丹を引き離そうとする来栖が彼女の体を後ろに引っ張ることで、上等そうな源司のジャケットに幾重にも皺が寄る。


「何のためにお母さんを無理やり攫ったの、答えてよ!」


 とうとう丹の手は源司のジャケットを離してしまい、来栖の手で丹は源司から引き離される。来栖の腕の中で丹は激しく暴れまわるが、来栖は万力のような力で丹の体を捕らえて離そうとしなかった。


「…丹ちゃんだっけ、世の中には知らない方がいいことだってあるんだよ?」


 皺のよったジャケットの布地を手で伸ばしながら源司はおもむろに口を開いて、金切り声で浴びせられた丹の質問に返答する。先ほどまでの軽い話しぶりとは一変して、酷く重い響きに聞こえる喋り方だった。丹は態度を急変させた源司の発する雰囲気に呑まれて押し黙ってしまう。


「ふざけないで、親がどこにいるのか、どうなったのか知ろうとして何が悪いの?」


「…じゃあ君はお母さんが人間でなくなったことを受け入れられるのかい?」


「え?!」


 体の自由を奪われた丹は源司の詭弁に対して虚勢を張るように大声で反論すると、源司は淡々とした調子で話を続けた。丹の母紅子が人でなくなったということを聞き、丹だけでなく来栖も呆気に取られた顔で源司の言葉の真意を問う。


「託人、君は知っているよね、吸血鬼が2つの種類に分類されるって」


「吸血鬼が2種類に分けられるってどういうこと、クーくん?」


 丹の質問に答える代わりに源司は他の質問を来栖に投げかけた。彼の腕に体を掴まれたまま、源司に話を振られた来栖の顔を丹は見上げた。


「…源司サンの言う通り、吸血鬼には2つの種類が存在している。1つはあんたが2回も襲われた海老茶色の肌に鋭い牙と爪を持って、本能の赴くまま人間を襲っては生き血を奪うナレノハテ」


「もう1つは、あれとは違う形の化け物がまだいるの?」


 来栖は2種類存在している吸血鬼のうち、丹も見たことのある海老茶色の肌をした怪物ナレノハテを先に挙げる。一度話を切った来栖に丹がもう1種類の吸血鬼のことを訊ねるが、来栖は何か口に出しづらい事情があるように口を閉ざして丹にもう一方の種族についての説明を躊躇していた。


「…もう1つは、外見的にはナレノハテほど人間からかけ離れた姿をしちゃいない。いや犬歯が普通の人間よりも少し長いことと、平均的な基準よりも恵まれた容姿をしていること、そして瞳孔が猫みたいに細くなることを除けば人間と見た目は変わらない。彼らはナレノハテとは違って人間的な思考力を持っているし、無節操に人を襲って血を奪ったりもしない」


「それって映画の中に出てくる吸血鬼みたいだね、そういう吸血鬼なら近くにいてもそんなに危なくないかも」


 しばしの沈黙の後、来栖が重々しくもう一つの吸血鬼の種族について語り始める。彼の説明を聞いた丹はナレノハテ以外の吸血鬼の種族の特徴に好意的な見解を示す。


「そうだな、彼らが理性的なウツセミのままでいられればそれほど危険な存在じゃない。ウツセミにも生き血への渇望はあるけれど、それは生理的なもので彼らは知恵を使ってその衝動を抑制する術を身に付けている」


「だったらそのウツセミって吸血鬼は悪いものじゃないじゃない、そんな人を化け物呼ばわりするのは可哀想よ」


「だがウツセミが本能的な血への欲求に耐えられなくなり、理性を失ったら途端に彼らは衝動の赴くままに血を貪る野獣と化してしまう。そして人の姿を保てなくなったウツセミの行く末が、あんたが目にしてきたナレノハテって訳だ」


 来栖の説明を聞くほどウツセミという人の姿を持った吸血鬼が危険な存在ではないという認識を丹は強めていくが、説明の最後に血への渇望を抑えられなくなったウツセミがナレノハテに変わってしまうと聞いて丹は絶句する。


「…それじゃナレノハテは元を質せば人間だったってこと?」


「その通り、理性を失ったウツセミがナレノハテに変貌するように、ウツセミも元々は普通の人間だったんだ。君が恐れ忌み嫌うナレノハテも元は君と同じ人間だったんだよ」


 来栖の話を集約して丹が恐ろしい結論に辿り着くと、源司は彼女の意見に首肯する。


「もしかしてあなたも……」


「そうさ、オレもそして君の母親だった紅子も今は人間じゃなくて人の生き血への飢えを抱えて生きている吸血鬼ウツセミって訳。ついでに言わせてもらうとオレはウツセミの族長、要するに仲間たちの代表を務めているものだよ」


 源司の整いすぎている容姿や彼の話しぶりを受けて丹が彼の正体に勘付くと、源司は闇に跳梁する悪鬼である事を恥じることなく、それどころか誇らしげに明かしてみせた。


「そんな…優しかったお母さんが人の血を啜る吸血鬼になっていて、しかもあんな化け物になっちゃうかもしれないなんて……」


 丹は長年追い続けた母の行方を掴めた希望から、大好きだった母親が自分を襲った化け物と同類になるかもしれないということを聞いて絶望的な気持ちになる。失意のあまり、それまで自分の束縛に抗っていた丹の体から力が抜けていくのを感じると、来栖は腕の力を緩めた彼女の戒めを解いた。


 来栖の束縛から解放された丹は膝から地面に崩れ落ちると、その場にしゃがみこんで先ほどまでの覇気を微塵も感じさせない意気消沈した姿で項垂れる。源司が母親の行方について知らない方がいいと言ったのは、事実を知った丹の受ける精神的なショックの大きさを慮ってのものだったのかもしれないと丹は考えを改めた。


「霧島……」


「…ねぇナレノハテをやっつけるのが一族代々の役割だった来栖くんが、どうして同じ吸血鬼のその人と一緒にいるの?」


 捜し求めていた母親が人ではなくなってしまった事実を知らされて丹がどれほど傷ついたか来栖にもありありと伝わってくる。来栖は丹にせめてもの労いの言葉をかけようとするが、丹が囁くような声で吸血鬼を駆除する役目を負う一族である来栖が吸血鬼と共に行動しているのかという疑問を問いかけた。


「それは……」


「それは彼の一族とオレたちウツセミが遠い昔にある約定を結んだからさ」


「…約定?」


 自分の果たすべき責務と現実の行動との矛盾を丹に指摘されて、来栖は返答に詰まってしまうが、来栖の代わりに源司が丹の質問に応じた。丹が聞き返す言葉に源司は首を縦に振ると、来栖に目配せをして自分に話をさせるように目で合図を送る。


「託人の一族は室町時代にオレたちの先祖である吸血鬼を追って日本にやってきたエクソシストの末裔なんだ。しかし国中に広がった戦乱の影響やキリスト教それに外国人への排斥活動のせいで、教会から期待されたほどの成果をあげられず、エクソシストが吸血鬼を減らした数よりも吸血鬼が増える数の方が上回ってしまう結果になった」


「来栖くんの家系の話は他の人から聞いたことがありますから、話を進めてください」


 源司が丹の反応を伺うように話を一旦止めると、丹はその話は真理亜から聞き及んでいることを伝えて話を続けるように源司を促した。


「それなら遠慮なく話を続けさせてもらうよ、彼女に全部教えても構わないよね?」


「…今更隠したって無駄ですし、母親がウツセミならもうこいつも関係者です」


 源司は来栖に丹に真実を全て話してよいか訊ねるが、来栖は隠し立てをする意味を失った今、今更止める意味もないと源司の好きにさせることにした。


「ありがとう、それじゃあ話を進めさせてもらうよ。徳川の天下になりキリスト教の信仰と外国との交流が禁止されると、ますますエクソシストが吸血鬼を倒す効率は下がった。極東の島国が仮に吸血鬼だらけの国になっても、遠く離れたヨーロッパ本土に影響が及ぶことはないと判断した教会は、日本での活動を諦めて派遣したエクソシストたちに国に帰るように命令を出した。しかし託人の先祖だったエクソシストはただ独り初志貫徹しようと国内に留まって、御門の街を中心に密かに吸血鬼退治を続けていた。そして日本人の妻との間に彼は子どもを作り、またその子どももその孫も彼の意志を継いで吸血鬼との暗闘を繰り広げていた」


「…それも知っています。わたしが知りたいのは吸血鬼を倒す役割を負っているはずの来栖くんがどうして吸血鬼のあなたと懇意にしているかってことです」


「OKそれじゃ本題に入ろうか。数世代にわたって来栖家の一族は我々の先祖との戦いを続けていたが、吸血鬼と戦えるだけ実力を持った後継者は増えないのと対照的に我々の先祖はかなりの数に増えていた。いくら腕の立つ刺客でも数人じゃ大勢の吸血鬼を根絶やしにすることは不可能だと判断した来栖家の人間は、ある時我々の先祖と取引をした」


「取引…それが来栖くんがあなたといる理由なんですか?」


「そうその取引こそ我々ウツセミと来栖の人間との間で数百年に及んで続いている約定を結んだ場だった。長年の争いの末、来栖の人間も我々ウツセミが理性的な存在であり、人間を殺してまで血を奪おうとしないことは理解するようになっていた。そして我々が居住区の中に留まり、人の命をいたずらに奪わない節度ある吸血行為をする限り我らが御門に息づくこと許容するようになった」


 源司は丹の推測に頷いて、過去に来栖の祖先と彼の祖先の間で締結された約定の内容を丹に教える。


「…来栖くんの先祖が勝ち目のない戦を続けるのを諦めて、吸血鬼の存在を見逃すことであなたたちがのうのうとこの街に暮らしていられる理由は分かりました。でもあなたがお母さんを攫った場所は、あなたの先祖が来栖くんの先祖との間で勝手に取り決めたその居住区だったんですか?!」


 丹は源司たちウツセミとそして来栖の一族の独断で決められた居住区というものの中だから、自分の母親が吸血鬼に奪われてその眷属に組み込まれたのかと怒りを露にして源司に問いかける。


「違う、俺の先祖とウツセミの間で交わした約定にある居住区はごく限られた地域だ。そしてそれは堅気の人間が間違って足を踏み入れるような場所ではない」


「じゃあなんで誰でも出入りできるような公園でお母さんはその人に攫われたの、それに吸血鬼と手を組んでいる来栖くんがどうして吸血鬼を殺すの?!」


 今度は源司に代わって来栖が丹の質問に答える。明言こそしていなかったが彼女が自分の一族の務めを怠慢と非難していることに気を損ねて、来栖は反射的に会話に割り込んでしまったようだった。来栖の方に身を向けると、激昂した調子で丹は怒号を浴びせた。


「それが俺の一族の役目だからだ。ウツセミたちが居住区に留まっている限り、俺たちは彼らに手出ししない。しかし本能の赴くままに市井の人を襲って血を啜るようになったナレノハテと居住区以外での吸血行為などウツセミの間にある掟を破ったウツセミに関しては、こちらでその情報を入手あるいは居住区のウツセミからの依頼を受けて始末するようにしている。人の血を啜る吸血鬼の天敵であると同時に、彼らの社会の秩序を保つための守護者、それがウツセミからウワバミと呼ばれる俺たち来栖家の人間だ」


「だったらその人は何なのよ、居住区の外でお母さんを襲ったのに、吸血鬼の仲間内で偉いからっていう理由で来栖くんはその人を殺さないの?!」


 来栖は吸血鬼の駆逐を断念しその存在を容認しながら、一方で吸血鬼を始末している役割を自分の一族が担っている理由を説明する。だがそんな理屈は丹にとってどうでもいいことであり、彼女は身を捩って源司のことを指差しながら、恐らく居住区の外で母親を連れ去っておきながら源司が始末されないことに納得がいかず来栖に憎悪の目を向ける。


「…役目を引き継ぐ前のことだから、どうして先代が源司サンを始末していないのかという理由は俺には分からない。しかし族長だからという理由だけで先代が源司サンを始末しなかったとは思えない、何か彼を見逃すだけの意味があったはずだ」


「ならその理由を教えてよ、来栖くんの前任者とあなたが直接話をしたんでしょう?」


 丹は半狂乱で目に涙を浮かべながら源司が来栖の前任者に始末されなかった理由を本人に直接訊ねる。だがついさっきまで佇んでいた場所に源司の姿は見当たらず、丹は首を左右に振って彼の姿を探した。


「紅子をウツセミに転化させてまで君から引き離したことにも、先代のウワバミがオレを殺さなかったことにもちゃんと意味はある。でもこれ以上は人間の君が立ち入るべき領分じゃない、悪いけど質問に答えてあげるのはここまでだ」


 姿を消したとおもった源司は音もなく丹の背後に回りこむと、彼女の体を愛撫するように腕を回して丹の右手首に自分の右手を添える。


「離せ、この悪魔……」


 源司の腕から丹は逃れようと激しく体を揺さぶるが、源司は来栖のように力ずくで体を締め付けている訳ではないのに何故かその腕を振り解くことができない。丹は貧血をおこしたように自分の視界が真っ暗になっていくのを感じた直後、意識を失って源司の腕の中で糸の切れた人形のように崩れ落ちた。


「源司サン、あんた!」


「託人、これ以上彼女の狂態を見るのは君も不本意だろ? だからちょっと荒っぽいけどしょくを使って彼女の精気を少しばかり吸い取り気を失わせてもらったよ」


 源司は眉を吊り上げて駆け寄ってきた来栖に自分の腕の中にいる丹の体を預ける。意識のない丹を放っておく訳にもいかず、来栖は源司から押し付けられた丹を抱きとめた。


「その子は君のトモダチなんだろ、それに大事な母親を攫った吸血鬼に家に送られるよりは同じ人間の男の子に送ってもらったほうがまだ彼女も嬉しいんじゃないかな?」


「ちょっと源司サン?!」


 源司は先日来栖が真理亜にしたように、来栖に丹の自宅への送迎を押し付ける。来栖は源司のことを留めようとするが、来栖の膝の上に頭を乗せた丹が寝返りを打って彼女に目を向けた一瞬の隙に、源司は闇の中へと姿を晦ましてしまう。来栖は気を失っている丹の扱いに困り果てた様子で、厄介ごとを押し付けた源司のことを恨めしく思った。


「…まさか紅子の娘とオレたちが畏怖するウワバミが関係しているとはね、長い年月を過ごしていても世の中って分からないことが多いもんだね」


 運命の悪戯を皮肉に思う一方で、それを面白くも感じているらしい源司は口の端を吊り上げると、深い夜の闇に吸い込まれるように何処かに消えていった。


* * *


人も草も眠る丑三つ時、営業を終えた店の片付けをマネージャーの忠将ただまさがしていると扉を開いて中に入ってくるものがいる。


「すまんな、もうウチの店は終わりだから他所を当たってくれ」


「無理を言って飲ませてもらうような野暮な真似はしないよ、忠将」


「なんだお前か、店の仕事を放り出してどこをほっつき歩いていた?」


「そう邪険するなよ、新しいウワバミのお手並みを吟味していたのさ」


 忠将の小言を聞き流しながら店の奥に入ってきたオーナーの源司は、忠将が念入りに表面を拭いているカウンターの前に並べられた椅子の一つに腰掛けて、頬杖をついて楽しげな顔で忠将の顔に目を向けた。


「祖父から役目を引き継いだ今度のウワバミの実力、お前はどう感じた?」


「見てくれや言動だけじゃなく剣気の威力も先代と比べて遜色ないよ。でも先代の仕事に比べればまだ粗が目に付くかな」


「全盛期の先代がナレノハテを討つ手並みは素晴らしかったからな、後を継いだばかりで先代と比べるのは酷だろう」


「そうかもね、数百年にのぼるウワバミの歴史の中でも先代ほど巧みな剣気の使い手はいないんじゃないかな? でもいくら歳が若かろうが役目に就いた以上、彼にもオレたちの天敵にして守護者であるウワバミとして最善を尽くしてもらわなきゃ困る」


 ナレノハテを退治する役割に就いたばかりの来栖が先代の鮮やかな手際と比較すれば至らない点があるのも無理ないことだと忠将が寛容な意見を口にすると、源司もそれに頷きつつ責任ある立場にいる以上、来栖に甘えは許されないという厳しい姿勢を見せた。


「今まで先代の孫に友好的に接してきたお前にしては手厳しい意見だな?」


「ちょっとしたイレギュラーがあってね、不可抗力とはいえそれが起こった一因は彼にもあるからそれで少しイラついているのかもしれない」


忠将が来栖の肩を持ち続けていた源司の発言を意外に感じると、源司はその端正な頬を僅かに歪ませて不都合な出来事が発生した苛立ちを正直に打ち明ける。


「イレギュラー、なんかマズいことがあったのか?」


「オレと託人が近くにナレノハテの存在を察知して現場に駆けつけたらさ、ちょうどナレノハテに追われている女の子がいたんだ」


「俺たちの存在に繋がるナレノハテを駆除するのは隠密裏に進めたいのに、人目につくのは確かに芳しくないな。それでその追われていた娘はどうなった?」


「もちろんその子を託人は助けたさ」


「その娘に口外しないよう口止めはちゃんとしたんだろう?」


「その子がナレノハテについて何も知らない、オレにも託人にも全く無関係な人間だったらそうしたさ。でも現場に居合わせた女の子は託人のクラスメイトでしかもオレとも縁がある子だった」


 人の血を狙っている以上、ナレノハテが一般人に目撃されてしまうのはそう珍しい話ではないので、忠将はそういったケースで採る定石の対処をしたのだろうと源司に訊ねた。しかし源司は忠将の質問に対して首を横に振ると、ナレノハテに襲われていたのが彼と来栖の両者に関係した娘だったことを忠将に教えて、更に顔を渋くする。


「先代の孫が世間体を繕うために高校に通っていることが裏目に出たな。でも孫のクラスメイトならまだ高校生だろう、どうしてそんな娘とお前が関係しているんだ?」


 衝動的に血の渇きを満たすために無差別に人間を襲うナレノハテとは違い、理性を持って人の姿を保っているウツセミは、世間の人間たちに自分たちの存在を感知されないように細心の注意を払って人間から精気を奪い、血の渇きを潤している。


 ウツセミが精気を得るための標的にするのは、彼らが過去に来栖の遠い祖先に当たるウワバミとの間で約定した堅気の人間が誤って足を踏み入れる可能性の低い居住区に迷い込んだ人間だけであったし、居住区に迷い込んだ人間だからといって無条件にその精気を奪うほど短絡的ではなく、その人間が自分たちの渇きを満たすのに相応しいかどうかを吟味してから捕食しているのだった。


彼らが精気を摂取するために定めた審美眼に適う人間は容姿の美醜だけでなく健康状態や内面的な魅力も加味されていて審査されており、いくら同胞の血縁者といっても居住区の外で普通に高校に通っているような小娘が好みのうるさい源司の獲物になるとは忠将には考えられなかった。


「そこにいた託人のクラスメイトはね、紅子の娘だったんだ。オレが紅子を連れ去ろうとしたのを目撃されたのは10年近く前のことなのに、あの子は一瞬垣間見ただけのオレの顔をちゃんと覚えていたんだよ」


「先代の孫以上にお前の過失の方がずっと大きいじゃないか。しかし現場にいたのが紅子の娘だったと驚いたな、その娘はよほど俺たちと因縁があるらしい」


 源司からその場に居合わせた女子高生が同胞の人間だった時の娘と聞かされて、冷静な忠将も動揺を隠しきれない。居住区の外で自分が連れ去った紅子の娘、まことに二度も姿を見られた運命の皮肉を源司は苦々しく思い、動きのあるスタイルにセットした髪を手で覆って整えた毛束を指で乱した。


「顔を合わせるや否や、オレの正体に気付いた紅子の娘から紅子のことをあれこれ詮索されたよ。しかも誰から教えられたのか分からないけれど、ナレノハテのことやウワバミのことまで知っていた。そこまで知られちゃ話をはぐらかせそうになかったし、適当にごまかしてもしつこく付きまとわれそうだったから、思い切って紅子がウツセミに転化して、人間ではなくなったことを教えちゃったよ」


「下っ端の俺が族長のお前の判断に文句をつけてもどうにもならないことは分かるがな、紅子の娘にウツセミの存在を簡単に暴露してしまったのは軽率じゃないか?」


「あの場でシラを切っても託人のクラスメイトだからいずれ尻尾を掴まれる可能性があるよ、おまけに託人はあの子に甘いみたいだし……」


 忠将が秘匿しなければならない自分たちの存在を同胞の娘とはいえ、源司が人間に教えてしまったことを責めると、源司は苦笑を浮かべながら開き直った調子で返事をする。


「紅子にこのことを伝えるのか?」


「いいや、そのつもりはないよ。紅子がウツセミとして存在していることを知った所で、たかだか十数年しか生きていない子どもが紫水小路しすいこうじに足を踏み入れられるほど心に深い闇を持てるはずがない。彼女と紅子が顔を合わせることはこの先もきっとありえないよ」


 行方知れずになった母親が吸血鬼としてこの世に留まっていることを娘が知ったという事実を同胞に知らせるのかと忠将が訊ねると、源司は例え存在していると知っていても丹が彼らの居住地に入ってこられない以上、2人が再会する可能性はないとして話す必要がないと答えた。


「あの歳頃の子どもを馬鹿にしない方がいいぞ、ふとした拍子に並みの大人よりも大きな闇を心に抱えることがあるんだからな?」


「それこそ問題ないと思うよ、紅子がいなくなっても彼女の家族はそれなりに楽しく暮らしているみたいだから。平凡で幸せな家庭に育った彼女が、そんなに大きな闇を抱え込めるはずがない」


「どうだかな…案外普通に暮らしているからこそ、気持ちの落差が大きいんだぞ?」


 源司は平穏に暮らしている丹が彼らの居住地に迷い込むほど心を病むことはないと言い切るが、忠将は母親の失踪の真相を知った丹が自分たちの居住地である紫水小路に転がり込んでくる可能性を捨てきれずにいた。


* * *


 学校が夏季休暇に入った8月上旬、空港の出発ロビーはビジネス客だけでなく海外へのレジャーに赴く旅行客で込み合っていた。その出発ロビーの一角に自分の薄い胸の高さまである大きなスーツケースを携えた少女が、家族の見送りを受けて出国ゲートに入ろうとしている。


「姉さん、彼氏との間に何かあっても、頼りになるアタシは日本にいないんだから付き合い方に注意しなよ」


「か、彼氏…そんな人いないよ?!」


「隠さなくていいよ、この間姉さんをおぶって家に送ってくれた人がそうでしょう?」


「なにぃ、あの小僧と丹が付き合っているなんて父さん聞いてないぞ?!」


 飛行機への搭乗待ちをしている間、退屈凌ぎに葵が姉のことをからかうと、突然交友関係の話を出されて彼女の姉の丹は当惑し、父親のいつきは奥手な長女に交際している男がいると聞かされて激しく動揺する。


「父親に付き合っている男の子のことを教える娘なんて滅多にいないわよ、まぁ父さんにべったりな姉さんの性格ならありない話じゃないけど」


「あの来栖とか言う小僧、可愛い丹の美脚に傷をつけたくせにまだ丹の周りに付きまとっているのか…次会ったらただじゃ済まさんぞ」


「次会ったらって、この間も姉さん背負ってきてバテてたあの人の顔面を問答無用で殴りつけたじゃない?」


「あの時はパンチ一発で許してやったが、今度はそれだけでは見逃してやらん!」


 終業式の夜、ナレノハテに襲われた丹は来栖に助けられた後、眼前に現れた源司の姿を見て気が動転する。母親の紅子を連れ去った容疑者である源司を丹は半狂乱で問い詰めるが、源司は彼女の精気を僅かに奪うと同時に彼女を昏倒させると、気を失った丹の介抱を来栖に押し付けてその場から立ち去ってしまった。


 意識の無い年頃の娘を路上に放置する訳にもいかず、来栖は丹のことを背負って彼女を家まで連れて行ったが、丹の帰りが遅いことを心配していた斎に彼女を遅くまで連れ回していたと勘違いされた。更に間の悪いことにナレノハテから逃れる途中に足を怪我した丹の足に目を留めると、斎の堪忍袋の緒は切れてしまい来栖はいくつもの冤罪を着せられて斎の鉄拳で横っ面を強かに殴打された。


 ちょうど斎の拳が来栖の頬を打ちつけた鈍い音で丹は目を覚ましたが、家まで送ってくれたにも関わらず着いた途端父親が殴りつけた非礼を彼女が詫びても後の祭りだった。


 化け物に襲われた所を助けてもらったといったところで信じてもらえそうにはなく、丹は適当な作り話を並べて来栖の弁護をすると、基本的に正直者の丹の言葉を疑いもせずに斎は彼女の嘘を鵜呑みにして来栖に一応の礼と謝罪を述べる。


 かなりの力で斎は来栖を殴り飛ばしたらしく来栖の左の頬は腫れ上がっており、せめてものお詫びに丹は氷嚢を来栖に渡すと、彼は受け取った氷嚢を頬に当てて苦痛に顔を歪めながら家路についたのだった。


「お父さんも葵も勘違いしないで、来栖くんはただのクラスメイトだよ」


「どーだか、人付き合いの少ない姉さんの世話を焼くような男なんて彼氏くらいしか考えられないじゃない?」


「そんなことないよ…確かにわたしは葵みたいに友達がいっぱいいる訳じゃないけど」


 丹は来栖と自分が恋人関係にないという事実を主張するが、葵は姉が指摘されたように人付き合いの範囲が限られていることを痛感して困惑している顔を愉快そうに眺めながら懸念を晴らそうとしない。


「とにかくアタシがいないからって彼氏と遊び惚けて家のこと怠けちゃダメだからね?」


「分かってるよ、葵がホームステイから帰ってくるのをいつも通りの家で待ってる」


「お前がいなくても丹が家事の手を抜くことがある訳ないだろう、むしろ汚す奴がいない分いつもよりも仕事が楽になるんじゃないか?」


「失礼ね、アタシはいつだって家をキレイに使っているわよ! 靴下を脱ぎ散らかしたままにしたり、余計なビールの空き缶を増やしたりして家を汚しているのは父さんじゃない!」


 二学期が始まるまでの間、カナダにホームステイすることになっている葵は自分が不在でも家事の手を抜かないように姉に申し付ける。言われた姉の丹本人は葵の生意気な発言にも素直に頷き返すが、彼女たちの父親の斎は呆れた顔で次女の言葉を否定した。


「お、お父さんも葵も落ち着いて…そろそろ行かないと飛行機飛んでっちゃうよ?」


「姉さんに言われなくても分かっているわよ、口うるさい父親と一ヶ月も顔を合わせなくて済むと思うとすごく清々しい気分だわ!」


「こっちも小生意気な娘の振る舞いに頭を悩ませなくていいと思うとせいせいするさ」


 丹は険悪な雰囲気になる父と妹の諍いの仲裁に入ろうとするが、丹がゲートへの入場を急かしたせいで余計に状況は悪化してしまった。葵と斎が互いに憎まれ口を利き合うと、葵は大きなスーツケースを重そうに引き摺って入場ゲートの中に進んでいく。


「…ちゃんと帰ってきてね、葵」


 入場ゲートの先に進んだ葵の背中に丹が妹の無事な帰国を願う言葉をかけると、スーツケースの運搬に四苦八苦していた葵が一旦足を止めた。


「そんなの当たり前でしょ、鈍臭い姉さんと態度だけ大きい父さんをいつまでも放っておく訳にはいかないでしょう? ちゃんと一回り大きな女になって帰ってきてあげるわ」


「葵、帰ってきた時に少しは大人になっていることを期待しているぞ」


「いってらっしゃい、楽しいホームステイになるといいね?」


「…いってきます」


父と姉に背を向けたままだったが、彼らの言葉を最後まで聞き届けると葵は改めて出発の挨拶を送りゲートの奥へと進んでいった。


「まったく娘を外国に送り出す親の心配を考えずに、こんな時まで減らず口ばかり利くなんてあいつは一体誰に似たんだ?」


「相手の言葉に素直に反応するところはお父さんに似たんじゃないかな?」


 葵の見送りを済ませて駐車場に戻る途中、斎がふと口にした疑問に丹は含み笑いを浮かべながら答える。


「俺はあんなに屈折していないぞ、紅子も俺の真っすぐな所が好きだと言ってたし」


「…そうだね、葵はちょっと斜に構えている所があるものね」


 斎は自分の性格は次女ほど曲がっていないことを主張した時に出た母の名を聞いて、妹が意気揚々と海外へ飛び立っていったのを晴れやかな気持ちで見送った丹の表情に翳りが出てくる。


「どうした、やっぱり騒々しい妹でもいなくなると寂しいか?」


「…うん、活発な葵がいてくれるとこっちも明るい気持ちになれるから」


 父親の懸念は的を外していたが、丹は彼が勘違いしてくれたことを好都合に思いつつ、適当に相槌を打つ。家の車を停めた場所まで戻ってくると、斎は丹の先に車に乗り込んで夏の日差しで車内に立ちこめた熱気を逃そうと窓を全開にしてクーラーを強くかけた。


「吸血鬼になっちゃったお母さんとお母さんをわたしたちから奪ったあのひと、そして吸血鬼を狩る仕事をしている来栖くん…今どうしているのかな?」


「丹~少し涼しくなったからもう乗って大丈夫だぞ」


「う、うん分かった、今行く」


 灼熱の日差しを降り注がせる太陽を見上げながら、丹は陽の当たらない場所で生きるものたちの近況に思いを馳せる。しかし車内が冷えたので帰る支度が整ったことを告げる父親に呼ばれると、丹は後部座席のドアを開いて冷房の利き始めた車内に潜り込んだ。



第3回 了








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