第2回、ウワバミの責務
御門市南部に位置する洛南区の公園の前で3人の少年少女が向かい合っていた。得体の知れない怪物に襲われた興奮が冷めない丹を尻目に、大柄で彫りの深い顔立ちをした少年来栖と縦ロールの髪の少女は口論を繰り広げる。
「安倍さんいい加減にしてくれ、不用意に話を聞かせたことでこいつの身に危険が及ぶかもしれないんだぞ?」
「そうかしら、むしろ私たちの日常を脅かすあの化け物の存在を知っていればトラブルに巻き込まれない予防が出来るのではなくて?」
「市井の人たちは奴らの存在について何も知らなくても数百年も平穏に暮らしてきたし、俺たちは代々影から人々の安全を守ってきていた。もちろんこれからだって……」
「あら、ナレノハテによる被害が出てようやく重い腰を上げて奴らを始末しに行き、いつまでも本腰を入れて根絶やしにしないから何百年も被害が続いているのにそんな大層なことを言う資格が貴方にあって?」
来栖は余計な情報を丹に吹き込み続ける縦ロールの少女の肩に掴みかかって強引に話を止めさせようとする。しかし真理亜に彼とその先祖たちが後手に回り続けていること事態が、ナレノハテの跳梁を許している根源だと問責されると来栖は苦々しい表情で口を閉ざす。来栖が弱腰になると真理亜は得意気な仕草で自分の肩にかかった来栖の手を払いのけた。
「あの…あなたと来栖くんは仲間じゃないんですか?」
「ええ、今のところ私たちの関係は依頼人と請負人というところね。でもナレノハテを一撃で倒せるほどの力を持った来栖さんには、是非私たちの組織に加わってほしいですわ」
来栖が口を開くよりも先に真理亜が丹の問いに答えて頷き返した。
「俺はあんたたちの仲間になるつもりは毛頭ない。依頼されれば今後も仕事は引き受けるが、あんたたちと馴れ合う気は全くない」
言いたい放題喋り続ける真理亜に愛想をつかして、来栖は真理亜と丹にそっぽを向くと彼女たちのいる方とは反対に歩き始める。
「クーくん……」
「だからその呼び方は止めろ、歩けないのならそこのお嬢様に家まで送ってもらえ」
真理亜の話だけでは彼女の所属する組織の実態は見えてこなかったが、来栖が孤独な戦いを続けるよりも味方がいる方が有利に戦いを進められることは素人の丹にも分かる。共闘を申し出る真理亜を拒んだ来栖の背中が酷く寂しげに見えて、丹は思わず彼の名を呼ぶと来栖は再三止めるように訴えている幼少期の渾名で呼ばれたことを忌避しつつ足を挫いた丹の身を案じる言葉を返す。
「訓練された人間が数人がかりでも苦労するナレノハテを簡単に屠る男をクーくんなんて可愛い呼び方をするなんて、貴女もなかなか大した人みたいね?」
「わたしはただの同級生ですし、小学生のことはみんな彼のことをクーくんって呼んでましたから別に特別な訳じゃありません」
「ふぅん、御門市を跋扈する悪鬼を一蹴する存在の幼馴染ってことかしら?」
「幼馴染ってほど親しい訳じゃ…前クラスメイトだったのは小学校1年生の一学期だけでその後すぐに彼は転校しちゃいましたし」
丹が来栖のことを子どもっぽい渾名で呼ぶのを耳に挟んだ真理亜が冷やかしてくると、丹は来栖のことを妙に意識して顔を赤らめる。
「そんなに顔を真っ赤にしてどうしたの、もしかして来栖さんが気になるのかしら?」
「ち、違います……」
「冗談で言ったのに真に受けちゃうなんて純情ね。私は安倍真理亜、もしよろしければ貴女のお名前を教えていただけないかしら?」
丹のうぶな反応を楽しみながら真理亜は柔和な表情を浮かべて未だに路上から立ち上がれずにいる丹に優しく手を伸ばす。
「…霧島丹です。丹は牡丹の花の丹って字を書きます」
丹は真理亜の差し出してきた手を借りて立ち上がると、傷めた右の足首を庇いながら姿勢を正して真理亜に名前を告げる。
「赤系の色を意味する丹さん、いいお名前ですわね」
「ありがとうございます、母の名前が紅子なのでそれに肖ったものらしいです」
「名前の由来となったお母様とは今も仲がよろしいのかしら?」
「いえ、今家に母はいません」
丹の名前に使われている漢字の意味を真理亜は口にして彼女の名前を褒めると、似た意味の名前をしている母親との仲を気軽な調子で丹に問う。しかし母親の紅子に関する話題は丹が最も触れて欲しくないことだったので、丹は沈んだ顔で首を横に振った。
「ごめんなさい、気を悪くさせてしまったようね。お母様は病気か何かでお亡くなりになられたのかしら?」
「違います。わたしの幼稚園卒園の直前にこの公園に来た後いなくなって、行方不明になってしまいました。でもわたしは優しい笑顔を絶やさなかった母が大好きでしたし、母の笑っている顔は今でもはっきりと思い出せます」
「それはお気の毒ね……」
真理亜は丹の悲しい別れを聞かされて痛ましそうな顔を浮かべる。亡き母への想いを打ち明けて真理亜に同情を寄せてもらったことと、脳裏に鮮明に焼きついている紅子の黒髪に縁取られた白い顔が花のように綻んだ顔を思い出すと丹は急に泣きたい気分になった。
そして丹はナレノハテに襲われた恐怖や母をこの公園で見失った悲しみで胸が一杯になり、緊張の糸が切れてその場に泣き崩れた。
「丹さん、どうなさいましたの?」
真理亜が突然泣き出した丹に声をかけるが、丹は感情の爆発を抑えきれずに声をあげて咽び泣く。丹の悲痛な嗚咽が周囲一体にこだまして、山の端に陽が沈んでいく夕焼けの街をいっそう物悲しく感じさせた。
足を怪我して満足に歩けない丹を放っておけず、真理亜は来栖に言われた通り、右足首を負傷して自転車を漕げなくなった丹の自宅までの送迎を進んで引き受けてくれる。
だが母親の失踪現場であり丹自身もナレノハテの襲撃を受けて忌まわしい思い出しかない公園から自宅までの短い道中、丹は真理亜の口から来栖の秘密を聞かされる。
「来栖さんの家は先祖代々、歴史を遡れば戦国時代の頃より御門市内に跋扈するナレノハテの退治に従事していらっしゃるの。室町時代にキリスト教の布教のため宣教師が日本に到来したのとほぼ同時期に、大陸で猛威を振るっていた吸血鬼も日本に流入してきましたわ。ヨーロッパから遠く離れた極東の蛮族の暮らす島国であっても、神の教えに背く異端の専横に我慢のならなかった教会は日本に逃れてきた吸血鬼を討伐するための刺客を派遣され、そうして来日したエクソシストの1人が来栖さんの遠いご祖先でしたの」
「そ、そうなんですか……」
教科書に載っているような過去の話をされてもいまいち実感が持てずに丹は適当な相槌を打つが、彼女の反応にお構いなしに真理亜は話を続ける。
「教会からの命令に従って来日したエクソシストたちは、日本国内に潜伏した吸血鬼を探し出してはその処分を進められました。ですが吸血鬼の激しい抵抗に遭い返り討ちにされる者も少なくなかったですし、当時血で血を洗う戦国の真っ只中だった天下の覇権を巡る動乱に巻き込まれ事故死する者や、現代のように外国との交流が盛んではなかった当時の日本人に彫りの深い容貌や碧眼を畏怖されて闇討ちに遭う者などが続出して、任務の進捗具合は芳しいものになりませんでした」
「そうですよねぇ、世の中が荒んでいるんじゃ自分の身を守るだけで精一杯ですよね」
「やがて徳川が乱世を平定し江戸幕府が敷かれてその支配体制が磐石のものになると、鎖国政策の一環としてキリスト教の弾圧が行われるようになりましたわ。外国人というだけであるいはキリスト教の信者というだけで弾圧の対象になってしまう世の中では吸血鬼を始末するどころか己の身を守るので精一杯になってしまい、日本に派遣されたエクソシストたちも本国に召還されて任務を断念せざるを得ませんでした。しかし吸血鬼を追う立場から一転して日本人から迫害される立場になった仲間が次々と日本を去っていく中、来栖さんのご先祖は独り国内に留まり教会からの厳命された務めを遂行し続けていましたの。そのうちにご先祖様は日本人の妻を娶り、子を設け人里離れた山奥に隠遁しながら時折街に出ては闇夜に跳梁するナレノハテを退治するようになりましたの」
「遠いご先祖様が西洋人だから来栖くんが彫りの深い顔をしているんですね」
「そうして来栖家の方々は始祖のエクソシストが教会から下賜した任務を数百年の長きにわたって遂行し続け、陰ながらに御門の人々の平和を支えてきましたの。そして何代も続いている一族の務めを実行する役目を、貴女のクラスメイトである来栖さんが現在引き受けているのですわ」
「来栖くんがどうしてナレノハテと戦っているのかという理由は分かりました。でも来栖くんだって高校生なんです、そんな危ないことをしなくて済むようにできませんか?」
真理亜から来栖の一族が数世紀にわたり背負う宿縁を聞かされて、丹は自分が安穏と暮らしている陰に来栖とその先祖の苦労があることを思うと負い目を感じてしまった。それと同時に凄惨な運命を課せられた来栖が幼少期と大きく変わってしまっても無理はないと丹は彼の変化に理解を示すようになる。
来栖の抱える宿命を聞かされた上で丹は彼のためを思うのならば、高校生の彼が命がけで化け物と戦うことを止めるべきと考えるようになり、来栖を彼女の仲間に引き入れるのではなく戦わなくて済むように計らって欲しいと丹は真理亜に頼んでみた。
「高貴なる者の務めというように、あれだけの力を持っている来栖さんをナレノハテとの戦いから遠ざけるなんて愚問ですわ。来栖さんもナレノハテを駆逐することが自分の責務ということを自覚していらっしゃるようですし、後はどうにかして彼をこちらに引き込めば全てが上手くいきますわ」
「で、でもやっぱり子どもがあんな怪物と戦うなんて間違ってますよ。お願いです、来栖くんを戦わなくてもいいように……」
「ご自宅に着きましたわよ、丹さん」
しかし真理亜は丹の頼みをにべもなく拒絶して、直に来栖の実力を確かめたことでいっそう彼を自分の所属する組織に引き入れたいと思うようになった旨を述べる。来栖を戦いから離れさせるように懇願し続ける丹を彼女の自宅の前でリムジンから降ろす。
「送っていただきありがとうございます」
「礼には及びませんわ。それから丹さん、私は来栖さんには是非今度も前線で戦い続けていただく所存ですのでご了承を」
去り際に真理亜は来栖を戦わせ続けさせようとする意志に揺らぎはないことを断固たる態度で丹に告げる。丹に自分の思惑を打ち明けた真理亜の声は大きいものではなく話し方も平然としたものだったが、いくら戦うことを宿命づけられた家系に生まれた者とはいえ、同世代の少年を戦場に投じることに真理亜が何の躊躇いを持っていないことを丹には恐ろしく思えてならなかった。
自宅の前に呆然と立ち尽くして真理亜のリムジンが走り去るのを見送った丹は、来栖が異形の存在と戦い続けている秘密を知ったこと以上に、人間を駒のように扱える真理亜と面識を持ってしまったことに後悔の念を抱き始めていた。
* * *
長女の丹と次女の葵は学校に姉妹の父親の斎は会社に出かける霧島家の朝は毎日が慌しく、洗面台の使用に順番待ちのある洗面所も昼食の弁当が並べられ朝食の食器がテーブルに載せられている台所も戦場のように殺伐とした雰囲気だった。
「姉さんっ、昨日の晩に代えの歯ブラシ出しといてって頼んだのに出てないわよ!」
「ごめん、洗面台の下の引き出しの右の手前に入っているからそれを使って」
「葵、なんでもかんでも丹に頼ってないでそれくらい自分でやれ!」
流しで朝食の食器を片付けている丹に向かって葵の罵声が飛んでくると、丹は食器を洗う手を休めないまま平謝りをして歯ブラシの在り処を横柄な妹に教える。姉に対する配慮に欠ける態度を見せる次女を斎は一喝するが、葵は父の叱責を聞き流して洗面所に入っていった。
「そういえば姉さん、昨日安倍先輩のリムジンに乗せてもらって帰ってきたよね。どうして安倍先輩と知り合いだったことを教えてくれなかったの?」
「安倍さんとは昨日知り合ったばかりだし、わたしが自転車で転んで足を挫いて動けなくなっているところを通りかかった安倍さんに助けてもらっただけよ」
歯ブラシで口の中を磨いたまま葵はくぐもった声で非難の声を丹に浴びせてくるが、丹は安倍真理亜との出会った過程は省略して、結果だけを妹に教える。
「ホント姉さんはグズなんだから…それに比べて困った人に救いの手を差し伸べる安倍先輩はやっぱりステキだなぁ」
「うん、安倍さんはいい人だよね……」
「容姿端麗、成績優秀、運動神経抜群、お洒落で家がお金持ちその上人徳者…ああ、安倍先輩みたいな人がお姉ちゃんだったらなぁ」
実の姉を前にして失礼極まりない発言をしながら葵は高等部だけでなく中等部の生徒も含めた多数の芳志社女学院の生徒の憧れである真理亜の秀麗な立ち居振る舞いを思い浮かべて恍惚とした表情を浮かべた。
「そうだね、安倍さんはすごい人だよね……」
真理亜に対する葵の絶賛に丹も頷き返すが、昨日の夕方真理亜のリムジンで自宅まで送迎してもらう間聞かされた話を思い返すと、葵が尊敬してやまない真理亜の本性がとても恐ろしいものに思えてならず、丹は自分の肌が粟立つのを知覚する。
「…クーくんをこれ以上安倍さんに関わらせちゃダメ、わたしが止めてあげないと」
昨日の出来事の回想を終えた丹は他人、まして来栖の能力を利用することを目論んでいる真理亜には頼らずに自分が彼に戦いから身を退くように説得を試みることを決意して、手にしていた食器を洗うスポンジを強く握り締める。
「ちょっと姉さん、スポンジの泡が跳ねて顔にかかったんだけど!」
「あぅち?! ご、ごめんね……」
丹が洗剤のついたスポンジを握りつぶした拍子に飛んだ泡が葵の顔の上半分にかかり、洗剤の泡で目を塞がれたことに驚いて口の中から歯磨き粉の泡を噴き出した葵が泡だらけの顔で丹に抗議してくる。
丹が慌てて顔を拭うタオルを用意すると、葵は乱暴に姉の手からタオルをひったくってごしごしと力任せに顔を拭った。
「あーもう、姉さんのせいで朝から踏んだり蹴ったりよ」
「何を言ってる、お前の丹に対する横柄な態度が目に余った神様が罰を与えたんだ」
「そうやって父さんはいつも姉さんのことばっかり庇う。こんな家で暮らすのはもうウンザリよ、あーあ早くホームステイに行きたいなぁ」
「勝手にしろ、いっそそのままカナダに永住しちまえ」
「お父さんも葵も落ち着いて、これ以上家族がいなくなるのはわたしは絶対嫌」
丹に責任を押し付けて悪態をつく葵を斎が注意すると、姉の擁護ばかりする父親の態度に業を煮やして葵が暴言を吐く。親を軽んじる葵の発言に斎が感情的になって反論を返して台所にきな臭い空気が漂うが、洗い物の手を止めた丹が、母親の紅子がいなくなったことに飽き足らず家族がばらばらになることへの危機感に警鐘を鳴らすと水を打ったように辺りがしんと静まり返った。
「…ホームステイが楽しみなのは嘘じゃないけど、この家にはちゃんと帰ってくるわよ。ずっとカナダで暮らしていたらぶよぶよに太っちゃいそうだもん、姉さんの低カロリーなご飯がアタシのスレンダーな体を維持するのには欠かせないんだからね」
「…当たり前だ、紅子だけでも充分すぎるのにこれ以上家族を失くしてたまるか」
「そうだよ、家族みんなが仲良く暮らすのが一番幸せなことなんだから」
丹が目を潤ませながら必死に家族の絆を繋ぎとめようとする姿を見て、葵と斎は本心では母親がいなくなった時の悲劇を繰り返すつもりはないと述べる。二人が自分と同じ想いであることを確かめると、丹は念を押すように彼女のモットーを口にした。
* * *
「来栖くん、おはよう」
珍しく来栖が始業時間前に登校してくると、丹は彼の席の前に立って挨拶をする。
「…ああ、おはよう。ところで優等生のあんたが問題児の俺に何の用だ?」
「昨日言い損ねちゃったけど、お礼が言いたくて」
「…礼って何のこと?」
粗暴な言動や数々の悪評のせいで教室の中で腫れ物のような存在と自他共に認知している自分に、人付き合いに対して消極的な丹が突然話しかけてきて来栖の顔に一瞬驚きの色が浮かぶが、すぐに平常心になって気のない素振りをしつつ話をはぐらかそうとする。
「ほら昨日の朝、わたしが寝坊したせいなのに来栖くんがわたしを巻き込んで遅刻させたって盛田先生に誤解されちゃったじゃない」
「あーあれね。別にいいよ、ゴリ田に捕まって怒鳴られるのなんか日常茶飯事だから」
「いい訳ないよ、来栖くんだって自分を必要以上に悪く思われたくないでしょう?」
「他人がどう思おうと気にしない、俺は俺のやりたいようにやるだけさ」
「あれと戦うことが本当に来栖くんのやりたいことなの?」
丹は来栖が自ら進んで自分の株を下げようとしている態度を改めるように訴えるが、来栖はいい加減な態度でのらりくらりと詭弁を弄して丹を煙に巻こうとする。しかし遠回しにナレノハテのことを持ち出されると、それまでおどけていた来栖の表情が一変して険しいものになる。
「…ちょっと付き合え」
来栖はだらしなく腰掛けていた椅子から立ち上がると丹の手を掴んで強引に教室の外に連れ出そうとする。
「ちょっと丹をどうするつもり?!」
「心配しないでカンナちゃん、少し2人だけで話したいことがあるんだ」
悪名高い来栖が無理やり丹を外に引っ張り出そうとするのを見て、丹の友人のカンナは血相を変えて丹の身を案じるが、丹は落ち着いた顔でカンナに何も心配するようなことはないと言い聞かせる。
丹の言葉を聞いても不安が払拭しきれないカンナを尻目に教室を出た丹は、早足で廊下を闊歩する来栖に手を引かれてその後に従う。来栖は丹の手を引いたまま階段を登っていくと、屋上の扉の前までやってきた。
「生徒が勝手に入らないように屋上の扉には鍵がかかってるよ?」
「こんな鍵どうってことねぇよ、ちょっといじれば…ほらこの通り」
施錠されている扉の前に丹が佇んでいるとドアノブの高さに身を屈めた来栖がポケットから取り出したヘアピンで鍵穴の中をいじり始める。しばらくするとドアノブの内部で物音がして、来栖が解放されたドアノブを捻って扉を押し開けた。
「ぼさっとしてないで早く来いよ」
「う、うん……」
立ち入りが禁止されている屋上に足を踏み入れることに丹は少し尻込みするが、来栖に手招きされると彼に従って屋上に出る。丹が初めて訪れる校舎の屋上の風景は、雲ひとつない夏空が広がって美しく感じられた。
「霧島サン、あんたあれのことや俺の素性についてどこまで知っている?」
屋上の手すりにもたれかかると来栖は唐突に話を切り出した。教室では平静を装っていたが、自分が隠していることが他人に知られて気が気ではないらしく神経質そうに手すりにかかった腕の先で指が落ち着かない様子で手すりを叩いていた。
「えっと…あれがナレノハテっていう吸血鬼だってこと、来栖くんの家が先祖代々ナレノハテを退治しているってこと、それから来栖くんのご先祖様が教会から派遣されたエクソシストだってことと……」
「そこまででいいよ、あのお嬢様が洗いざらい喋ってくれたおかげで大事なことはもう全部知られちまっているみたいだ」
自分の一族が隠し通してきた秘密を簡単に他人に開示してしまった真理亜を憎らしく思っているようで、来栖は渋い顔のまま天を仰ぎ見た。
「…安倍さんから詳しい話を聞いて思ったんだけど、来栖くんもう危ないことは、ナレノハテと戦うことは止めて」
「先祖代々にわたって取り組んできた役割を部外者のあんたに止められる筋合いはない」
来栖が自分の行いを隠すつもりがないことを知ると、丹は思い切って来栖にナレノハテとの戦いから足を洗うように訴える。しかし来栖は昨日ナレノハテの存在を知ったばかりの丹の言葉には聞く耳を持たず、即座にその願いを拒んだ。
「あんな怪物と戦うのは来栖くんだって怖いでしょう、嫌なことを無理してする必要はないじゃない?」
「俺がナレノハテを怖がっている? 馬鹿言うな、大群に囲まれるならともかく1匹や2匹ならどうってことはないよ。あんたも見ただろう、俺が剣気で簡単にナレノハテを吹っ飛ばすところを?」
「ケンキ……?」
「ああ、そうかあのお嬢様たちは剣気じゃなくて聖火って呼んでるんだっけ? とにかく俺はあの力があるからナレノハテ自体に恐れちゃいないよ」
話の流れから昨日来栖が襲い掛かってきたナレノハテを粉砕した光線を放つ能力のことを剣気あるいは聖火と呼んでいるらしいことは察せられ、来栖は自分の剣気という能力に多大な自信を持っておりナレノハテをものともしないことは丹も分かった。
「…来栖くんはそのケンキって力でナレノハテをやっつけるのが楽しいの?」
確かに一撃でナレノハテを消滅させるあの能力の威力は凄まじいと思うが、それだけで自惚れるのは危険ではないかと丹は不安に思う。来栖が自分の力に酔って破壊衝動に突き動かされているだけではないかと丹は訊ねてみることにした。
「いくら人に危害を与える化け物でも、ナレノハテを殺していい気持ちはしないよ」
「嫌ならどうしてナレノハテを倒すの?」
「生き血を啜る本能だけに突き動かされる化け物を放っておく訳にはいかないだろう?」
「それはそうだけど…でもだからケンキで殺すのはナレノハテも来栖くんも辛くない?」
「楽ではないさ、でもそれが俺の一族の定めなんだから仕方ないだろう」
来栖自身も剣気でナレノハテを殺すことに抵抗があることを聞いて、丹は彼と自分の感性がそれほど離れていないことを嬉しく感じる。来栖に戦いから遠ざけるきっかけが掴めたかもしれないと淡い期待を抱く丹だったが、来栖はナレノハテを討つことに罪悪感を抱いた上でそれと向き合い受け容れていることを告げる。
そう呟いた来栖の顔に浮かんでいる感慨は、己に課せられた責務と割り切っているようにも逃れられない運命への諦観にも丹は思えたが、平凡な家庭で生まれ育った自分と特殊な環境で育成された来栖との間に走る深い軋轢を実感させられた。
「…来栖くんの親はどう思っているの、息子の来栖くんの体がぼろぼろになっても一族の役割を果たしているって満足しているのかな?」
「さあね、親がどう思っているかなんて見当もつかないよ」
「お父さんやお母さんと顔を合わせないの?」
「いいや、顔を合わせようにも親がいないんだ」
息子が激務を課せられている境遇を彼の親はどう感じているのか丹が訪ねると、来栖はなんでもないように両親が不在である事を打ち明ける。厳密にはなんでもないのではなく、そう相手にも自分にもそう感じさせるように来栖が演じているように丹は思えた。
「親がいないって…だって小学校の頃はお母さんと一緒に暮らしていたじゃない?」
「母さんは小1の夏休みにさ、俺を養おうと独りで張り切って仕事のし過ぎて、体を壊してぽっくり逝っちまった」
「…お父さんは?」
「俺さ、法律的には親父と言える人がいないんだ。もちろん遺伝上の父親はいたけれど、その人は俺が生まれる前に死んじまった」
「来栖くんのお母さんとその人はどうして結婚しなかったの、子どもが、来栖くんが生まれる前に別れちゃったの?」
「別れたんじゃないよ、デキ婚するつもりだったさ。でも籍を入れる前に俺の遺伝上の父親はナレノハテに殺されちまった。剣気なんて知りもしない普通の人だったのに、母さんと母さんの腹ん中にいた俺を守ろうとしてあの鋭い牙と爪で体をざっくり切られて、な」
亡き両親の悲惨な末期を来栖は他人事のように淡々と語っていたが、手すりにかけた腕には力が籠もり、固く握られた拳が小刻みに震えていて彼の内心では両親を非業の死に追いやったナレノハテへの怒りが燻っていることが丹にも伝わってきた。
「…来栖くんがナレノハテと戦うのは一族の務めである以上に、ナレノハテに奪われた両親の敵を討つため、つまりは復讐をするためじゃない?」
「…多分な、だから何の躊躇いもなくナレノハテを剣気で消し飛ばせるんだろうな」
来栖がナレノハテとの熾烈な戦いに進んで身を投じる理由を丹が推測すると、来栖は丹の考えに頷き返した。彼自身自分の行いの正当性に迷いを抱いているようだったが、その身を焦がす復讐の炎が彼を戦いの場に駆り立てて、率先してナレノハテを始末するように仕向けているのだった。そしてその流れは丹だけでなく来栖自身にも止められないほど激しい勢いであるようだった。
「ナレノハテとの戦いを楽しいとは思っちゃいないが、俺は自分の意志で望んで奴らと戦っている。そしてあんたがなんと言おうと、その意志を曲げるつもりはない」
来栖は確固たる意志表明をして、これ以上自分の説得を続ける無意味さを丹に説く。来栖の悲劇的な過去を聞かされると、丹は両親の仇を討つという彼の意志を捻じ曲げることは自分にはできそうにないと思い知らされ、来栖の身を戦いから退かせるのではなく、反対に自分が彼との関わりから退くべきだと思い始めていた。
共感できる点はあっても来栖と自分は住む世界が違う、来栖との腹を割って話したやり取りの末、丹はそう結論を出した。
「こらぁ来栖、いたいけな女子を無理やり屋上に連れ込むとは見損なったぞ!」
「丹、大丈夫?!」
ばぁんと大きな物音を立てて扉が開かれると、丹たちの担任で生徒指導を担当しているラグビー部の顧問盛田、通称ゴリ田が屋上に駆け込んできた。ゴリ田にわずかに遅れて来栖に連れ去られた丹の身を案じたカンナも屋上に飛び出してくる。
「あんたに関わると毎回こういうオチかよ……」
「ご、ごめん…また盛田先生に来栖くんのこと誤解させちゃったね」
「いいよ、誤解されるのには慣れっこだ」
自分に関わったせいでまたも来栖に濡れ衣を着せてしまったことを丹は詫びるが、来栖は観念したように溜息をついて迫り来るゴリ田の処罰を甘んじて受け容れることにした。
* * *
仕事帰りの会社員や景気づけに繰り出してきた学生などの酔客で賑わう御門市内の歓楽街の片隅にあるビルの谷間。煌々と輝く飲食店のネオンの光が届かない薄暗がりに1人の男が佇んでいる。
上等そうな白地のスーツの下にあるシャツのネクタイの巻かれていない襟元はボタンが外されていて肌蹴られている。しかしスーツを着崩してはいるもののだらしない印象はなく、シャツの袖口を留めるカフスやズボンに通されたベルトのバックルはセンスのいいものを使っており世慣れて粋な印象を覚えた。
だが洒落た服装以上に男の顔は人目を惹きつけるほど整っている。体毛が薄く滑らかな印象の肌とうっすらと弧を描いている唇は女性のような艶やかさがあったが、切れ長の眦の奥にある瞳の底知れない深みが象徴するように男の顔は軟弱さやか弱さを感じさせない自立した男の風格を漂わせている。
「ようやく来たね、いつも約束の時間には現れる君にしては随分遅かったじゃないか?」
足音が聞こえた方に目を向けて待ちぼうけさせられていた待ち人がやってきたことに気付くと、男は遅れてきた人物に呼びかける。容姿だけでなく男の声音は聞くものに心地よさを感じさせる落ち着いたトーンだった。
「すまない、用事が長引いてしまって学校を出たのがついさっきだった」
「謝る必要はないさ。こっちは学生の君と違って時間を持て余しているし、下手に店にいると雑務を押し付けられそうだからね。君に仕事を依頼するために店を出るのは、仕事をサボるいい口実になるから構わないよ」
「相変わらず源司サンの舌はよく回るな」
「接客業をしているからには話し上手の方が得だろう、ルーキーのウワバミくん?」
スーツの美男子源司の饒舌に相手が幾分辟易した様子を見せると、源司は皮肉を聞き流しながら相手の顔を正面から見つめる。源司の硝子玉のように済んだ瞳に映った待ち人は制服姿の少年だった。
「…いきなり人の顔を覗き込んできて何のつもりだ?」
「今の君の姿が先代のウワバミの若い頃によく似ていると思っただけさ、お爺さんは元気でやっているかな?」
「この間先代の家に顔を出した時は元気そうだったぞ、土産に老舗の羊羹を持っていってやったのに前に持っていったドーナッツの方が美味いと文句を言いやがった」
「それはお気の毒に、先代は若い頃から臍曲がりところがあったからなぁ。君もそう思うだろ託人?」
「勝手に人を名前で呼ぶな…こうして互いに顔を合わせているのも仕事の付き合いだし、俺は個人の立場じゃなくてウワバミとしてここに立っている」
源司に名前で呼ばれることに拒否感を示したのは丹のクラスメイトで、先日御門市内の住宅地に出没したナレノハテを打ち倒した来栖だった。
「君もお爺さんに負けず劣らず頑固だなぁ。まぁそういう人柄だからこっちも安心して仕事を任せることが出来るんだけど」
来栖の慇懃無礼な態度に源司は実直さを感じて微笑ましそうに形のいい唇の端を吊り上げると、懐に手を伸ばして封筒を取り出し来栖の前に差し出す。源司の提示してきた封筒を無造作に受け取ると来栖は中から一万円札の束を抜き出して枚数を確認すると、制服のズボンのポケットに納めた。
「前金の額は約束通りだな、残りはいつも通り仕事の後、受け取りに行くよ」
「ちょっと待ってくれないか託人」
「今度は何の用だ、あんまり遅くまで繁華街をうろうろしているのを見られると、後で学校の先公たちがうるさいんだよ?」
仕事を引き受ける際の前金の額が約束通りの金額であることを確認した来栖はその場から立ち去ろうとするが、源司が去り行く彼を呼び止める。今日一日延々とゴリ田に説教を聞かされて生徒指導を受けることにうんざりしていた来栖は、補導されてまた学校に密告されるようなつまらない失策を犯す前に家に帰りたいらしく邪険にあしらった。
「ナレノハテを討つ現場にオレも立ち合わせてくれないか?」
「俺の自己申告じゃ納得いかないのか?」
「そうじゃない、君も最近ナレノハテが出現する頻度が高まっていることに気付いているだろう? 族長として同胞の身に何が起きているのかをきちんと把握しておきたいのさ」
来栖がナレノハテを討伐する場に同行させて欲しい旨を源司が申し出ると、来栖は自分の仕事内容に文句をつけられているように感じたらしく、眉間に皺を寄せて不快そうな顔をする。来栖の刺すような視線を受け止めながら、源司は薄ら笑いを浮かべていた表情を引き締めてナレノハテの実態を知ることが自分の責務を果たす上で必要なことだと辛抱強く来栖の許可を得られるように頼み込む。
「…依頼人はあんただ。仕事の邪魔をせずに払うものを払ってくれれば、後はあんたの好きにすればいいさ」
来栖は雇われている以上、仕事の遂行の妨げにならず依頼料さえもらえれば源司が何をしようと構いはしないとぶっきらぼうな言い草で彼の同行を許可する。そのまま源司の顔を見ようともせずに来栖は大勢の人で賑わう歓楽街の雑踏に分け入っていき、すぐに源司の視界の中から消えてしまった。
「言葉遣いが荒いくせに義理堅いのも祖父譲りか、本当に先代の若い頃にそっくりだよ」
来栖の姿が飲み込まれた人が絶え間なく行き交う雑踏に目を馳せたまま、源司は来栖の言動や性格が往年の彼の祖父に酷似していることを呟いた。
* * *
終業式の日、授業は午前中で終わったものの丹は図書委員の仕事で、図書室の本の整理を夕方までしており下校はいつもよりも遅い時間になっていた。完全に陽が落ちて辺りはすっかり暗くなってしまっている。
人気の少ない校内を自転車置き場に向かって歩いていると、先日の夕暮れ海老茶色の肌をした人の生き血を奪う化け物ナレノハテに襲われた時のことが思い返されて心細い気持ちになる。急いで家に帰ろうと丹は校舎の裏を早足で歩き続けた。
「おーい霧島」
「…盛田先生ですか、驚かさないでくださいよ」
駐輪場の前までやってきた丹は横から担任のゴリ田に大きな声で名前を呼ばれると、突然のことに飛び上がらんばかりに身を震わせる。校舎の陰から姿を見せたゴリ田の手には火のついた煙草が摘まれていた。
「別に驚かせるつもりはなかったさ。それよりもどうした、お前がこんな時間まで学校に残っているとは珍しいな?」
「図書委員の仕事です。それよりも先生はどうしてこんな所に?」
帰宅部の丹が遅くまで学校にいることをゴリ田は不思議に思ったらしいが、丹も登校時間に校門で仁王立ちしている以外は体育教師の職員室がある体育館の周辺かグラウンドでしか見かけないゴリ田が、それらの場所から遠く離れた駐輪場の近くにいることを疑問に思った。
「いや、ちょっと煙草を吸いにな…校内完全禁煙になってから体育職員室でも吸えなくなっちまったせいで、この先の校舎の陰で喫煙する先生はみんな隠れて吸ってるんだ」
「…それじゃ先生が注意している生徒と同じじゃないですか」
「来栖を始め普段散々指導している連中に示しがつかないとは思うが、体に染み付いちまった習慣はどうしても止められなくてなぁ…他の先生には黙っておいてくれよ?」
「今日のところは見なかったことにしておきます」
ゴリ田がいかつい顔を崩して意外と愛嬌のある決まりの悪そうな笑みに毒気を抜かれてしまった丹は、担任の非行を今日のところは見逃すことにする。それにゴリ田の手からもうもうと立ち上る煙草の煙と匂いが丹の神経には耐え難く、早く煙の届かない場所まで離れたかったからという理由もあった。
「サンキューな霧島、気をつけて帰れよ。しかし来栖の奴よくこんな不味い煙草吸えるな、煙は鉄錆っぽくて口の中が切れて血が滲んだみたいな感じがするし、煙もなんだか赤黒いし…こんなもん毒にしかならんだろう?」
丹に免罪してもらえたゴリ田は下校する丹に帰り道の注意を喚起しつつ、今吸っている来栖から巻き上げたらしい煙草の味に不平を漏らす。ゴリ田の独白を耳に挟んだ丹は、確かにあの煙草の臭いを嗅いだ時に血を舐めたようなむかつきを覚えた気がした。
ゴリ田と別れて自転車で走り出した丹は校門を抜けて、くいな橋高校の傍を走る幹線道路に出る。ペダルを踏み度にまだ熱気の籠もった大気が体に吹き付けてくると、丹の鼻腔がゴリ田の吸っていた煙草の残り香を感じて、彼女は不快なその臭いに顔をしかめた。
「人間を襲う怪物と戦うだけじゃなくて、こんな嫌な臭いのする煙草を吸うなんて…クーくんは自分でわざと寿命を縮めているようにしか思えないよ」
同級生の男子が無謀な振る舞いを重ねていることを悲しく思いつつ、幼少期に母親が失踪した以外は平凡な人生を送ってきた自分では彼を説得する役割を務められそうにないと落胆して丹は自転車を走らせ続けた。
やがて丹は幹線道路から自宅まで続く生活道路に入っていく。もうすぐ家族の待っている自宅に辿り着くと思うと、民家が軒を連ねて幹線道路の沿線と比べれば暗い住宅地の細い通りも心細くはなかった。
だが次の角を曲がれば自宅の前の道に入ろうという場所まで来た途端、丹は突然住宅の間から飛び出してきた何かに突き飛ばされる。何かに強烈な体当たりを受けてなす術もなく自転車のバランスを崩して転倒した丹は、右半身を強かにアスファルトにぶつける。
「くぅっ……?!」
しばらく前に同じような場面に遭遇したことが自然と思い出され、痛みに歯を食いしばしながら地面に倒れこんだ丹が顔を上げると、海老茶色の肌と闇夜にぎらぎらと輝く瞳のない目が見えた。丹の向かいに立って今にも彼女に襲い掛かろうとしているのは、来栖が密かに闘争を繰り広げている吸血鬼ナレノハテだ。
「どうしてまた……」
何故この短期間に二度も一般に存在が知られていない怪物と出くわしてしまうのかという自分の不運を丹は呪いつつ、最初に遭遇した時よりは落ち着いて状況を把握するとひとまずその場からの逃走を試みる。
「痛っ……?!」
しかし丹が身を捩って両手を地面に着き、腕の力を使って体を起こそうとすると、愛用の自転車が彼女の右足に圧し掛かっていたせいで足を擦り剥いてしまい痛みで逃げ出す動作が遅れてしまう。スタートから出遅れてしまっても丹は足から血を流しながら必死に駆け出してどうにかナレノハテから逃れようとした。
だが足を負傷している上に元々特筆して俊足という訳ではない丹に追いつくことなど、強靭な足腰を持つナレノハテには造作もないことだった。地面を力強く踏み切って数回跳躍しただけで簡単に丹の傍らに並んでしまう。丹の右手に並んだナレノハテはアンバランスに延びて大きな掌を持つ腕を振るって丹の体を捕らえようとする。
「いやぁぁっ」
反射的にナレノハテの手から体を遠ざけようと、丹が体を捻ってナレノハテに背中を向けると、偶然ナレノハテの鍵爪のように尖った指先が彼女の背負ったリュックサックに引っかかる。ナレノハテの爪はリュックの布地を簡単に引き裂いて切り口から教科書やノートが毀れ出すが、それらが右腕を伸ばしたナレノハテの足を掬うとナレノハテは僅かに体勢を崩して、丹がナレノハテから間合いを置く隙を作る。
だがその隙に丹がナレノハテとの間に稼げた距離など、陸上競技のオリンピック選手でさえ勝負にならないナレノハテの脚力からすれば微々たるものであった。体勢を立て直したナレノハテは脚の筋肉を収縮させて力を蓄えると、砲弾が弾き出されるような勢いで丹の背中目掛けて飛び上がる。
「喝!」
一心不乱に逃げ惑う丹の真上に月光に照らされたナレノハテの影が落ちた瞬間、丹の耳朶に聞き覚えのある勇ましい叫び声が聞こえてくる。丹の視界が青白い光で瞬いたかと思うとナレノハテは丹が走り抜けた地面の上に背中から落ちて、何か痛みに耐えるように身悶えしていた。
「こっちだ!」
「クーくん!」
脇道から人影がこちらに走り寄ってきて自分の方に来るよう丹を呼び寄せる。闇夜に轟く威勢のいい声と人外の存在であるナレノハテに痛手を与えたことで、丹はその人物の正体を確信して来栖のことを幼少期の渾名で呼んだ。