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第1回、悲しみのナレノハテ

 西の空に浮かぶ夕日の光は昼間の陽光と比べて格段に弱々しい。頼りない夕焼けに照らされて伸びる建物や木々の影が地面に落ちる光景は、住み慣れた街であっても幼い彼女には酷く恐ろしいものに見えた。


「おかあさ~ん」


 彼女は短い手足をばたつかせて声を嗄らしながら母親の姿を求めて黄昏の街を走り続ける。


 母親に付き添って彼女は夕飯の買出しのため近所のスーパーにやってきた。普段は幼稚園の年少組の妹と3人で行動することが多かったが、今日は日曜日で仕事が休みの父親が家で妹の面倒を看ているので、買い物に出かけたのは母親と彼女の2人だけだった。


 口は達者なくせに甘えん坊な性格をした妹に構うことが多い母親と2人きりで出かけられることに彼女は小さな胸を弾ませていて、タイムセールで安くなった食品を籠に入れるだけでも非常に充実した時間を過ごしていた。


 スーパーでの買い物を満喫した彼女だったが、試供品のジュースを飲みすぎてしまったせいか帰り道に尿意を催してしまう。彼女が申し訳なさそうに用を足したい旨を申し出ると、母親は娘の手を引いて近くにある公園のトイレに連れて行った。


 しかし用を済ませて彼女が表に出ると、トイレの前で待っていてくれるはずの母親が忽然と姿を消していた。トイレの入り口の脇に買い物袋が投げ出されていることを幼心に不審に思った彼女は、母親の身に危険を感じて独り母親の捜索を始めたのだった。


 決して狭くはない公園を右回りで1周、念のため左回りで1周しても母親の姿はどこにも見当たらず、彼女はあてもなく夕暮れの街に走り出す。幼稚園の友だちの中でも彼女はかけっこが得意な方ではなかったが、母親と二度と出会えないような気がして彼女は喘ぎながら闇雲に走り続ける。


 懸命に捜索を続けた彼女だったが母親は一向に見当たらず、遂に息があがってしまい足を一歩も前に踏み出させなくなってしまった。自分の体力のなさを歯痒く思いながら上体を屈めて切なげに呼吸をしている彼女の足元に一筋の影が落ちる。


 ふと影の射した方を彼女は横目で伺うと、中層のビルの谷間で夕日を背に受けて佇んでいる人物とその足元に誰かが横たわっている場面が見えた。


「おかあさん!」


 彼女のいる場所とビルの狭間の地面に倒れている人物との距離は数十mあったが、彼女は本能的に倒れている人物が自分の母親だと察する。


 疲労物質が蓄積されて重くなった脚を鞭打って彼女は母親に駆け寄ろうとするが、母親の脇に屹立していた人物はその場に屈んで母親の体を抱き上げる。いくら彼女の母親が細身でも大人の女性の体を持ち上げるのは容易なことではなく、逆光となって顔は見えなくても母親のことを抱き上げた人物が男であることは彼女にも理解できた。


 彼女にその場に辿り着くよりも先に母親の体を抱えたまま男は立ち去ろうとした。母親を抱いている男の雰囲気は少なくとも彼女の父親のものではなく、彼女は得体の知れない男に母親を連れ去られてしまうような不安を抱いた。


 なんとしてもあの男に追いつかなければならないと彼女は気持ちを奮い立たせて、疲労困憊した体で全力疾走を試みる。しかし気持ちが逸るあまり足元への注意が疎かになってしまったようで、彼女は窪みに足を取られて前のめりに倒れた。


「待って!」


 倒れた拍子に膝を擦り剥き、額を強かに地面にぶつけた痛みで泣き出したい気持ちだったが、泣いている間にもあの男は母親をどこかへ連れ去ってしまうだろうという危機感を覚えて彼女は顔を上げると金切り声で男を呼び止める。彼女の悲痛な呼び声がその耳に飛び込んだらしく、男は足を止めると彼女の方を振り向いてきた。


 母親を攫おうとする悪人が自分の方を向いてきたので彼女はその人物への敵意を剥き出しにして睨み返そうとするが、逆光となっている夕日が雲に遮られて明瞭になった視界に写ったその男の顔に彼女は不覚にも見惚れてしまう。一瞬母親を奪われている怒りを忘れてしまうほど、その男の顔の造作は整っていた。


 地面に倒れ伏している彼女を見とめると、男はしばしその端正な顔にすまなそうな表情を浮かべる。なぜ母親を誘拐しようとする人物がそんな顔をするのか彼女は怪訝に思った次の瞬間、男は母親を抱えたまま彼女の背を向けて再び歩き始める。


「待って、待ってよ!」


 どうにか立ち上がって男の背中を追いかけ始めるが、転んだ時に右の足首を挫いてしまったらしく一歩踏み込んだだけで背中に脂汗が浮かぶほどの鈍痛が起きた。右足を引き摺りながら彼女は前進を続けるが、雲が流れて夕日が顔を出すとその光に目が眩み反射的に目を瞑ってしまう。


 ようやく目が開けられるようになった時には彼女の視線の先に男の姿も、彼に抱かれている母親の姿も見当たらなかった。忙しなく首を振るって周囲を見回しても、2人の姿は影も形もなくなっている。


「おかあさ~ん!」


 彼女が藁に縋る思いで嗚咽交じりの絶叫を発しても母親からの返事はなく、彼女の声だけがビルの谷間に空しく残響するだけだった。


* * *


 霧島丹きりしままことは自分の悲鳴を聞いて目を覚まし、薄手の掛け布団を捲り上げながらベッドから体を跳ね起こす。


「あの夢を見るのは久し振り……」


 丹はびっしょりと寝汗をかいて体に張り付いた寝巻きに不快感を覚えつつ、悪夢にうなされていた気持ちを落ち着かせようと深呼吸をする。呼吸に合わせて上下する胸が夢の中の幼稚園卒園直前の6歳の自分と違いふくよかに膨らんでいるのを見て、今の自分は成長して高校生であることを自覚し安堵の吐息をする。


「もうお母さんがいなくなってから10年近くになるんだね……」


 丹はベッドの向かいにある机の上に置かれた家族写真を見つめながら独り言を呟く。一家4人で過ごしていた幸せだった時間を写したその写真は、母親が謎の失踪をする少し前に撮影されたもので丹が覚えている最後の頃の母親の姿を残しているものだった。


「なんかいつもより部屋の中が明るいな、それにちょっと暑い気がする……」


 いつもの寝起きと違う様相の部屋に違和感を覚えながら丹はカーテンを開けようとベッドから降りると、床の上に目覚まし時計が転がっているのが見えた。しかも電池ホルダーの蓋が外れて、電池が目覚まし時計から転がり落ちてしまっている。


「時計が止まってる…今何時?!」


 どのタイミングで枕元から目覚まし時計が落ちたのかは定かではなかったが、丹が普段の起床時間よりも寝過ごしてしまっていることは明らかだった。やや乱暴にカーテンを押し開けると、いつもはまだ窓の向こうの家並みに太陽が登っていないはずなのに今日は燦燦と朝日を降り注がせていた。


「大変…早くお父さんとあおいを起こさなきゃ!」


 丹は呆然と朝日を眺めていたが、寝坊したショックを引き摺ることなくすぐに気持ちを切り替えて父親と中学生の妹を起こすために部屋から駆け出していく。


「葵、早く起きて!」


「…ねえさんはせっかちなのよ、もう少し寝かせてよ」


 丹は問答無用で冷房の利いた妹の部屋に押し入るとベッドの上に横たわる妹の体を揺さぶるが、妹の葵は丹の呼びかけに聞く耳持たず姉の剥ぎ取った布団を強引に奪い返してそれにくるまりなおす。


「駄目だよ、今起きなきゃ遅刻だよ!」


「大丈夫よ、まだ全然余裕じゃ…ない?!」


 折角の厚意を無碍にする妹に対しても辛抱強く丹は説得を続けるが、葵は気だるそうに枕元に転がっている目覚まし時計を拾い上げて時間を確認し、まだ充分登校時間に余裕があることを主張しようとする。だが一瞥した時計の針がいつもは朝の芸能ニュースをチェックしている時間を指していることに気付くと、葵は血相を変えて布団を跳ね飛ばしベッドから飛び起きた。


「なんでもっと早く起こしてくれなかったのよ、これじゃ髪の毛セットしている時間ないじゃない!」


「ご、ごめん…今日はつい寝過ごしちゃったんだ」


「急いで出かける支度しなくちゃ、邪魔だから出てってよ!」


「う、うん…わたしが不甲斐ないばかりにごめんね」


 登校時間が切迫しているせいで身支度に充分な時間がかけられないこと不満をぶつけてくる葵に丹は謝罪しつつ、追い立てられるように妹の部屋から出て行く。半ば転がり落ちるように1階に下りると、丹は父親の寝室に向かっていった。


「おはよう丹、葵はいつものことだがお前が寝坊なんて珍しいな」


 階段を下りてすぐの洗面所の前を通りかかると父親のいつきが洗面台の前に立って剃刀で髭を剃っていた。さすがに一家の長だけあって斎は丹が起こさなくても寝過ごすことはなかったようだが、まだ寝巻き姿であることを見ると起きてからそれほど時間は経っていないらしい。


「ごめんなさい、すぐ朝ご飯の準備するから……」


「今日はいいよ、通勤途中に昼飯と一緒になんか買って済ませるから」


「あ、そうか…お弁当の用意もしていないんだ……」


 自分が寝過ごしてしまったばかりに朝食や昼の弁当の準備、身支度を進めていく上で父と妹にも多大な迷惑をかけてしまっていることに丹は自責の念を覚える。


「父さんどいて!」


「こら葵、人が使っている時に割り込むな!」


「オジサンと違って女の子は身嗜みを整えないで学校に行く訳にはいかないのよ!」


 大きな足音を立てながら葵は階段を駆け下りてくるなり、我がもの顔で斎のことを押し退けて洗面台を占拠した。父親に態度を注意されても素知らぬ顔で制服を羽織った葵は顔を洗い、色素の薄く茶色っぽい髪に櫛をかけはじめる。


「…丹、しばらく洗面台は使えそうにないしお前も先に着替えて来い」


「うん、わかった」


 思春期を迎えた次女の横暴に手を焼く斎は、溜息混じりに聞き分けがいい分引っ込み事案な長女に登校の準備をすることを勧める。丹は戦々恐々としている洗面所を離れ自室に引き返すと、壁のハンガーに整然とかけてある制服に袖を通した。


 衣装箪笥の上にある置き鏡で頭髪の乱れ具合を確かめると、案の定父親譲りの癖のある髪はあちこちに跳ねていた。葵ならば我慢ならない状態の髪のまま、丹は1階に降りて台所に向かい流しの水道で洗顔を済ませた。夜のうちにタイマーで炊飯はしておいたのでご飯だけは炊き上がっており、昨夜の記憶を頼りにしながら冷蔵庫の中身をチェックして、丹は有り合わせで葵の分のお弁当を詰め始める。


 冷蔵庫の中にあったキュウリの漬物に昨晩の残ったさつま揚げの煮物を詰めている間にレンジで解凍した冷凍食品のミニコロッケと彩りにプチトマトを添えた質素な弁当を手際よく丹は数分のうちに用意すると、弁当の包みに保冷材を入れて葵がすぐにでも持ち出せるようにしておいた。


「姉さん、お弁当は?!」


髪をセットするヘアピンの本数が減っていたり、いつもは軽くしている化粧もしていなかったりしているがある程度納得のいく身支度を整えた葵は、鞄を抱えて台所に入ってくるなり今日の昼食の心配をする。


「簡単なものしか入ってないけれど、用意しておいたから大丈夫だよ」


「ありがとう…姉さん、牛乳ちょーだい」


 寝坊したせいで今日は弁当抜きと葵は予想していたようだったが、寝癖の残ったままの丹がにこやかな顔で弁当の包みを差し出してくると神妙な顔付きで礼を返す。丹が冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、葵が愛用しているマグカップに中身を注ぎ、妹に手渡す。


「ごちそうさま、いってきま~す!」


「いってらっしゃい、焦って飛び出しちゃ駄目だよ」


 受け取るや否や葵は喉を鳴らして一息に牛乳を飲み干す。空になったマグカップを丹に突き返しながら、通学用のショルダーバッグを右肩にかけ弁当の包みを左手にぶら下げながら葵は玄関へと駆けていった。


 落ち着きのない妹を送り出すと丹は空になったマグカップをすすぎ、元の棚に戻す。それから炊飯器の保温を切ってタッパーに移し、米の余熱を冷ましながら葵のものと同じ具で自分の分の弁当を作り始めた。


「丹、お茶を一杯もらえるか?」


 丹が自分の分の弁当を詰め終えると身支度を整えた斎が台所にやってきて、丹に冷蔵庫からお茶を出してくれるように催促する。丹は父親に言われた通り、冷蔵庫から麦茶の入ったペットボトルを取り出して、中身を注いだグラスを差し出した。


「ありがとう、お前は本当に気が利くな。それに比べて葵の奴は女王様気取りだ」


「あんまり悪い方に考えないほうがいいよ。自信を持って堂々としているのが葵のいい所だし、ちゃんと努力もしているよ」


 渋い顔で斎は麦茶を呷りながら次女の横暴さを嘆くが、丹は体のいい家政婦代わりにされているはずの妹の肩を持って父親の愚痴を聞く。


「それは一理あるけどあの性格じゃあ嫁の貰い手があるか心配だ…やっぱり紅子べにこがいなくなってから男手一つで育てたのがマズかったかなぁ」


「…まだ葵は中学生だよ、そんなこと心配するのはもっと先じゃない。お父さんも早く出かけないと仕事遅れちゃうよ」


 斎は次女の人格の形成に問題が出ている原因が母親の不在であろうと感じて、おもむろに失踪した彼の妻で丹たちの母親の名を出す。母親がいなくなった時の夢で目覚めた丹は胸が締め付けられるような痛みを堪えて、それ以上母親の件に触れないように遠回しに話題を逸らして斎に出勤するよう促した。


「もうこんな時間か、娘の将来が不安でも悠長に話しこんでいる場合じゃないな」


「葵が時間にルーズなところはお父さんに似たんじゃない?」


「そうかもしれんな、それじゃあ行ってくる。すまんが戸締りよろしくな」


「うん、行ってらっしゃい」


 次女の悪癖が自分の遺伝である可能性を否定できず、斎は苦笑しながら慌てて台所から出て行く。世話の焼ける2人を会社と学校に送り出すと、丹はまだ熱の冷め切っていない白米を納めたタッパーを冷蔵庫にしまって、昨夜出された洗濯物の量を確かめに洗面所に向かう。


「あぅち、こういう日に限っていっぱい出てる…でも急ぎで洗っても干している暇はないしどうしよう」


 丹自身の登校時間も迫っていたが生憎と洗濯籠の中には大量の洗い物が無造作に放り込まれていた。洗濯が終わるのを待って干している余裕はなかったが、このまま放置して出かけるのはなんとなく収まりがつきそうになかった。


「仕方ない、洗濯機を回しておいて帰ってきてから干そう」


 日の短い時期ならともかく、7月中旬の今だったら洗濯物さえ出来上がっていれば下校して夕方に干してもある程度乾くだろうと考えて、丹は洗濯機を回して洗濯だけは済ませておくことに決める。


 母親の紅子が失踪する直前に購入した洗濯機はそろそろガタが来始めており、日々洗濯機を使用している丹としては斎に買い替えを頼みたかった。ゴトゴトと若干故障しているのではないかという懸念を抱くほど大きな音を立てて洗濯機の洗濯槽が回り始める音を聞きながら丹は家の中の窓や勝手口の鍵を施錠していき、最後に玄関に玄関の鍵を閉めてようやく家から出かけられた。


「門限まであと10分、急いでいけば間に合うよね?」


 入学祝にもらった革バンドの腕時計で現在時刻を確認すると、丹は通学用の自転車に跨って勢いよく通りを走り始める。普段は歩道を歩く小学生や老人に気を遣ってゆっくりとペダルを漕ぐ丹だったが、今日は遅刻を免れるために力強くペダルを踏み込んで自転車を飛ばしていく。


 丹の在籍している公立校、くいな橋高校は彼女の出身中学の校区内にあり、いつものペースで自転車を漕いでも15分見ておけば確実に辿り着くほどの近所だったが、遅刻するかもしれない焦りで丹はその距離がとても長く感じられる。


 全力で自転車を漕ぎ続けて息を弾ませながら丹は交差点を右折して、高校の正門の正面を走る道に入る。この角を通過すれば校内まであと200mほどであり、なんとか時間内に校内に入れそうだと丹が淡い期待を抱いた瞬間、校門が閉め切られる時刻を告げる予鈴が鳴り響いた。


「あぅち、そんなぁ……」


 この暑い中を全力疾走きたにも関わらず、結局門限に間に合わなかったことに不条理さを丹は覚える。夢の中の幼い自分も母親の紅子が美形の青年に連れ去られるのを引き止められなかったことが不意にフラッシュバックされて、しょっちゅう自分はいろんなことに出遅れてしまっていると自分の不運を丹は妬ましく思う。


「仕方がない、ゴリ田先生に謝って学校に入れてもらおう」


 クラスの担任にして生徒指導のエースと教職員の間で持て囃されている盛田─生徒たちからは学生時代に花園球技場で勇名を轟かせ現在は顧問としてラグビーに関わっている筋骨隆々の体躯と厳つい顔からゴリ田と陰口で呼ばれている─に、怒られる覚悟を決めて開き直った丹は、クールダウンも兼ねてブレーキをかけて自転車を減速させていき、ゆっくりと校門に近づいていく。


「よぉ、優等生のあんたが遅刻とは珍しいな」


 ゴリ田に注意される覚悟を固めたものの、それでも野太い怒声を聞きながら獰猛な類人猿のような彼と正面で向き合うことを考えて丹が気を重くしていると、後ろから彼女に呼びかける声が聞こえてくる。


「クーくんおはよう、ちょっと今朝は寝坊しちゃって」


 丹はブレーキを引いて自転車に制動をかけてその場に立ち止まると、背後を振り向いて声をかけてきたクラスメイトに挨拶をする。


「もうガキじゃないんだからその呼び方はやめろ!」


「ご、ごめんなさい…来栖、くん」


 丹は親しみを込めて呼んだつもりだったが、相手の少年はそれを侮辱されているように感じたらしく三白眼の眉間に皺を寄せて精悍な眉を吊り上げて剣幕を向けてきた。相手の怒気に圧倒された丹は彼を幼少期の渾名ではなく、きちんと苗字に訂正して呼び直す。


「…いきなり怒鳴って悪かったよ、でも高校生になってそんなガキっぽい渾名で呼ばれて喜ぶ奴はいないだろ?」


 罵声を浴びせられて丹の目はもう潤んでいるのを見て、気まずそうな顔で彼女と向き合っているクラスメイトの少年、来栖託人くるすたくとは丹に詫びる。来栖自身はそれほどきつい調子で言ったつもりはなかったようだが、彼が考えた以上に丹が怯えてしまったことを反省したようだった。


「そうだね、クー…来栖くんもこんなに大きくなったんだもんね」


「そういうあんたも随分でかくなったよな、今もそんなに身長変わらないじゃないか」


危うくクーくんと言いかけるのを堪えて丹が来栖の言葉に相槌を打つ。丹が自分の主張に同意してくれて溜飲が下がった来栖は気をよくしたらしく表情を和らげると、自転車を挟んで丹の傍らに並んだ。上背が180cmほどある来栖は決して小柄ではないが、現在も丹との身長差は頭一つ分ない。


「あう…それは気にしているから言わないで。好きで大きくなったんじゃないから」


 日本人女性にしては比較的大柄な170cm近くある身長に丹はコンプレックスを感じていた。背が高いというだけで自然に人目についてしまうが、丹は内向的で引っ込み思案な性格でありそれを好ましく思わない。しかも丹はただ身長が高いだけでなくすらりと長く伸びた手足に加え、規則正しい生活習慣と適度な運動のおかげで均整の取れたプロポーションをしており、彼女のスタイルのよさに気付いた異性や同性から好奇の目を向けられていたがそれも人見知りする彼女にとっては苦痛だった。


「贅沢いうなよ、世の中にはでかくなりたくてもなれない奴がごまんといるんだぜ?」


「そうだね、ウチの妹も身長を伸ばそうとして牛乳を毎日1リットルも飲んでいるよ」


 体の発育のいい丹とは対照的に、成長期を迎えているはずの葵の体型はあまり小学生の頃と変わってはいなかった。葵も丹と同じく手足の比率が高いことは共通していたが、身長は背の順で小さい者から並んでいくと前の方であり体の起伏も慎ましい。


 丹は葵の体型を女の子らしくていいと思っていたが、それを言うたびに葵は大人の体型をしている姉が自分を子ども扱いして馬鹿にしているように感じて臍を曲げていた。


「1リットルも飲んで腹壊さないのか?」


「うん、お腹壊したことはないよ。でも効果はまだあんまり……」


 来栖が牛乳を暴飲する丹の妹の胃腸を心配すると、丹は首を横に振って答える。しかし妹の努力がなかなか報われないことを滑稽に感じている気持ちが抑えきれず、丹はついつい噴出し笑いをしてしまった。丹につられて来栖も固く結んでいる口元を緩める。


「こらぁ来栖!」


 太鼓を思い切り叩いたように周辺の空気を震わせる怒号と共に、和やかな雰囲気に包まれた丹と来栖の方に正門で遅刻してきた生徒の取締りをしていたゴリ田が疾走してくる。


「センセーおはようございます」


「おはようございますじゃない! 懲りずに遅刻してくるばかりか、朝っぱらから真面目な生徒に絡んで迷惑をかけるとはどういう了見だ?」


「登校途中に会ったクラスメイトと話をしているだけッスけど」


「白々しい嘘をつくな、お前に絡まれでもしない限り霧島が遅刻する訳ないだろう!」


 校内だけでなく他校の不良たちも頭の上がらないゴリ田に対して来栖は親しげな口を利くが、来栖の悪びれもしない態度がゴリ田の怒りのボルテージを更に高めてしまう。


「あの、盛田先生……」


「霧島は何も言うな、お前がこいつのせいで遅刻したことは分かっている」


 ゴリ田が何かトラブルがない限り遅刻するはずがないと自分を信用してくれることを嬉しく思う半面、頭ごなしに非難される来栖の身の潔白を証明しようと思い、丹は来栖とゴリ田の会話に入ろうとするが、一方的に熱くなっているゴリ田の激しい語気に気圧されてタイミングを掴めずにいた。


「そーっすよ、つい話が弾んじゃって俺が霧島サンを引き留めちゃったんです」


「来栖くん?!」


 ゴリ田が独りよがりな思い込みに捕われて口走った糾弾に対し、来栖は観念したように相槌を打つ。自ら進んで悪者になろうとする来栖の発言を聞いて、丹は面食らった様子で彼の顔を見上げた。


「やっぱりそういうことか…来栖、今日という今日はみっちり絞ってやるから覚悟しろ」


「うへぇ……」


 ゴリ田がしたり顔でごつい手を組んで指の関節をゴキゴキと鳴らすと、来栖はわざと大仰に顔をしかめてうんざりしたような素振りを見せた。


「盛田先生待ってください、来栖くんは……」


「早く教室に行けよ霧島サン、ゴリ田センセーは問題児の俺にご執心で優等生のあんたには用はないってさ」


「そうだぞ霧島、急がないと1時間目が始まっちまうぞ?」


 来栖が自分のことを庇って濡れ衣を被ろうとしていることをゴリ田に丹は知らせようとするが、来栖はつっけんどんな言い草で丹に教室に行くよう急かす。ゴリ田も丹に授業に遅れないように忠告すると、来栖の制服の襟首を掴んで180cmある彼を猫の子を摘み上げるように拘束した。


「ぼそぼそとした小声でお経みたいな話し方をする古典よりは、センセーの威勢のいい声で説教されてる方がまだマシッスよ」


「そうか…いや世辞をいくら並べても無駄だ、今日こそはお前の性根を叩き直してやる」


 来栖に煽てられてゴリ田は一瞬気をよくしたが、すぐに気を取り直して問題行動を繰り返す来栖の更生を図ることを宣言する。薄ら笑いを浮かべながらゴリ田に連れられていく来栖のことを、丹は居た堪れない気持ちで見送った。


* * *


 来栖に庇われたおかげで1時間目の授業には間に合い遅刻は免れた丹だったが、来栖に対して後ろめたい気持ちを抱えたまま昼休みを迎える。


「ど~したの、なんか丹元気ないよ~?」


弁当の包みは開いても箸が進まない丹に、友人の天満てんまカンナが眼鏡の奥から心配そうな目を向けてそう質問してくる。


「え…そうかな?」


「うん、朝からずっとぼ~っとしているよ。何かあったの?」


 ゴリ田の勘違いのせいで来栖に濡れ衣を着せてしまった出来事をカンナに打ち明けるべきかそうか丹はしばし逡巡するが、一緒にお昼を食べてくれる友人に隠し事をするのは失礼な気がして真相を話すことにする。


「えっと…学校来る途中で来栖くんと一緒になってそれで……」


「登校中にあのヒトと行き会うなんて災難だね~怖い目に会わなかった?」


「カンナちゃん、来栖くんは何も悪いことしてないよ。むしろわたしが……」


「何もされなくてよかったね。でもあのヒトの見た目怖いよね~なんか人殺しみたいな目をしてるじゃない。同じ男の子でも私の雪人ゆきととは大違いだわ~」


 カンナに今朝あった出来事の事実を明かそうとする丹だったが、丹が言葉を言い切る前にカンナが途中で口を挟んでしまって話が途切れ途切れになってしまう。


「ちょっと目つきが怖いけど人殺しってのは言い過ぎだよ。それに話してみたら来栖くんは結構気さくでいい人だよ」


「丹の基準だと大抵の人間がいい人になっちゃうからアテならないな~」


「あぅち…でも思い込みだけで人のことを悪く言うのはよくないよ」


「丹の言い分も分かるけどね~あのヒトは札付きのワルじゃない。遅刻の常習犯だし無断欠席も途中で授業を抜け出すのも日常茶飯事。堂々と煙草は吸って毎晩夜歩きしては何度も補導されているわよ。喧嘩をしたみたいな痣や擦り傷をこさえて登校してくるのも珍しくないし、この間は芳志社の女の子からお金を巻き上げていたそうよ。それだけの悪さをしてれば弁解のしようがないわ~」


 丹は来栖の弁護をしようとするが、カンナが滔々と列挙する来栖の所業を聞くと丹自身さえ彼を文句の付けようのない不良として思えず、口を噤まずにはいられなかった。


「…ぶっきらぼうなのは変わらないけど、昔はそんなに悪い子じゃなかったのに。どうしてあんな風に悪いことばかりするようになっちゃったんだろう?」


 丹は幼少期と比べて見る影もないくらい荒んだ生活を送っている来栖の豹変に心を痛めて、小声で独り言を呟く。かつて丹が来栖とクラスメイトだったのは小学校入学から1年生の夏休み前までいう短い期間ではあったが、その時の彼は生意気なところはあっても根は優しい人間に丹は思っていた。


 だが小学校1年生の夏休みの間に来栖は引っ越してしまい、以降丹が彼の消息を知ることはなかったが偶然この春進学したくいな橋高校で彼と再会を果たす。そしてゴリ田をはじめとする生徒指導部の教師たちから目の敵にされてしまっているほど素行が悪くなった彼の変貌を丹は内心悲しんでいた。


「あのヒトの話はこの辺にしてもっと楽しい話をしようよ~そうそう夏休みにね、雪人と旅行に行こうと思うんだけどどこかお勧めの場所ない?」


 来栖の話をしているとまずます丹が浮かない顔になってしまったことを気にかけてか、あるいは単にすっかり熱を上げている彼氏との惚気話をしたいだけなのか定かではなかったが、カンナは強引に話題を変えようとする。


 ほとんどカンナが1人で話すばかりで丹は聞き手に終始していたが、自分が気に病んだところで来栖が更生するためにはならないと丹は割り切ってカンナの話に耳を傾けて彼女のデートが上手くいく手助けをすることにした。


* * *


 ゴリ田がどのように来栖を懲らしめたのか丹は知る由もなかったが、結局来栖はその日教室に姿を現さなかった。昼休みにカンナと話してから丹は来栖に冤罪を着せてしまったことを意識的に考えないようにしていたが、やはりこのままやり過ごしてしまうのは良心が咎めずにはいられなかった。


今更余計なお世話だろうがせめて来栖本人に面と向かって謝ろうと思い、丹は彼の姿を求めて校内を散策するが彼を見つけることができない。


「盛田先生に叱られた後、そのまま帰っちゃったのかな…」


 ゴリ田の説教から解放された後、来栖が授業を放棄して下校してしまうことは充分にありえる話である。丹は謝るのならば今日のうちにするべきであり、明日に持ち越してしまうと余計に気まずくなってしまいそうに思う。しかし丹は来栖の自宅の場所はもちろん、ケータイの電話番号もメールアドレスも知らなかったので、連絡の取りようがなく途方に暮れてしまった。


「明日朝イチで謝ろう、来栖くんが遅刻しなければだけど……」


 後味が悪い気がしたが来栖の居場所が分からない以上どうすることもできないので、丹は来栖の捜索を諦めて帰宅することにする。駐輪場に自転車を取りに行くと、来栖に対する後ろめたさを抱えたまま丹は家路についた。


 来栖に謝罪できなかった後悔を引き摺ったまま自転車を漕ぐ丹には、西日が傾いている夕暮れの街は美しく思える一方でどこか不吉な感じがする。母親が失踪した日も綺麗な夕焼け空が広がっていたことがそんな感慨を抱く根底にあるのかもしれないと、丹は自分の深層心理を分析する。


 丹の通学路は基本的に幹線道路に沿って走り続けるようになっているが、大抵通過できる信号に珍しく捕まってしまう。信号が変わるのを待ってもそれほど時間はかからなかったが、なんとなく立ち止まるのが癪な気がして丹は信号の手前の角を左折すると裏道を通って下校することにする。


「あ、ここ通るつもりなかったのに……」


 住宅と倉庫が入り乱れている区画に敷かれた裏道を縫うように走っているうちに、丹は母親とはぐれた公園の前を通りかかった。母親の紅子がいなくなってからというもの、悲しい記憶から逃れるように丹はこの公園とその周辺に近寄ろうとしなかった。10年近い歳月の後に訪れた公園の木々は禍々しく感じるほど枝振りをよくして、空を覆いつくすように鬱葱と葉を生い茂らせていた。


 まだ陽が落ちるまで時間はあるというのに木陰の下の道には夕日の光が届かず、まるでそこだけ一足先に夜になってしまったように薄暗く、丹は不吉な予感を覚えずにはいられなかった。こんな嫌な雰囲気の場所からは早く離れようと、それまでのんびりとしたペースでペダルを回していた丹はサドルから腰を浮かせて立ち漕ぎの姿勢になる。


 全身の体重をかけてペダルが踏み込まれると自転車はスピードを増していき、景色が飛ぶように丹の後ろへと流れていく。丹の自転車がもう少しで公園のあるブロックから離れようとした瞬間、丹の前方に頭上から何かが大きな音を立てて落下してきた。


 木々の間から突然地上に落ちてきた何かとの接触を避けるため、丹は思い切りブレーキを握って自転車を止めようとするが、加速のついた自転車を制御するのに丹の腕力は不足しておりバランスを崩して落下物の手前で転んでしまう。


「痛たた…きゃっ?!」


 自転車から投げ出されて路上に尻餅をついた丹が強かにぶつけた尻を擦っていると、何かが地面を踏み締める音が聞こえてくる。足音の聞こえたのは落下物がある方だった。ふとそちらに視線を馳せると、丹は視界に飛び込んできたものを見て短い悲鳴をあげた。


 樹上から落ちてきたものは生き物で輪郭は人間のものとよく似ていた。しかし一般的な人間と比べて腕は長くなっており手も体格に不釣合いなほど拡大化していて、指先は鍵爪のように尖っている。体毛が薄く地肌が見えているのは人間と同じだったが、その色は血が固まってできた瘡蓋のように毒々しい海老茶色でどの人種にも当てはまりそうにない。


 何よりも異様なのはその生き物の頭部で大きさや形状は人間とそう変わらなかったが、頬が深々と裂けて口腔が大きく広がっており剥き出しになった犬歯が長く伸びている。瞳のない目の納まった眼窩はぎらぎらと不気味な光がサーチライトのように輝いていた。


「い、嫌……」


 海老茶色の肌をした生き物がアンバランスに長い腕を伸ばしてくると、丹は本能的に後退りしてその手から逃れようとする。頭の中で一刻も早くこの生き物の前から離れた方が賢明という警鐘が鳴り響いていたが、転倒したショックと恐怖で腰が抜けてしまい立ち上がることが出来なかった。


 地面にへたりこんだ状態で丹が後退すると、海老茶色の肌の生き物は獲物をいたぶる肉食獣のようにじりじりと彼女ににじみよる。丹を見下ろす怪物はいつでも彼女に飛び掛れそうな間合いを保ってはいるものの、丹の恐怖に怯える姿を見るのが愉快だというように彼女に襲い掛かろうとする気配を見せない。


「きゃあああっ!」


 しばらく丹が逃げた分だけ怪物も前進するというやり取りが続いていたが、痺れを切らした怪物が大きく跳躍をして丹に飛び掛ってくる。丹は怪物が襲い掛かってくる恐怖の余り目を瞑り、両手の顔の前に掲げて怪物の鋭い爪牙から少しでも自分を守ろうとした。


「喝!」


 怪物の爪が自分に振り下ろされる気配を感じた瞬間、よく通る雄々しい気合が丹の耳に聞こえ、同時に瞼を固く閉ざした視界も雷が降り注いだような強烈な光を感じて真っ白に染まる。雄叫びと共に視界が漂白されてからしばらくしても丹の体に怪物の爪や牙が食い込んだ感触は感じられなかった。


 恐々丹が目を開けて顔の前に翳した腕の隙間から前方の様子を伺うと、彼女を背に庇うようにして怪物と相対しているワイシャツ姿の男性が立っていた。落ち着いて見ると丹の前に立っている人物が身に付けている衣服がくいな橋高校の制服であることに気付く。


「俺がこいつを引き受けているうちにあんたは早く逃げろ」


「あんな怪物と組み合うなんて怖くないんですか…痛っ!」


 くいな橋高校の制服を着た人物は背中越しに丹に避難を促すと、丹は彼の身を案じつつ言われた通りその場を離れようとする。しかし自転車で転んだ拍子に足を捻ってしまったらしく、立ち上がっただけで右の足首に激痛が走りその場に崩れ落ちてしまう。


「あんた、足を怪我して動けないのか?」


「さっきあの怪物を避けようとして転んだ時に足を挫いたみたいです……」


「…そうか、じゃあそこでじっとしてろ。下手に動かれるよりはマシだ」


「…ごめんなさい」


「謝るようなことじゃないって、あんたは……」


「クーくん?!」


丹がその場に跪くとくいな橋高校の制服姿の人物は彼女がまともに歩けないということを察する。丹が彼の足手まといになってしまうことを詫びると、彼女の前に立つ人物は不可抗力だから仕方がないと彼女を気遣おうと横顔で丹を一瞥する。


 だが振り向いた彼は丹の顔を見とめるや否や驚きにその目を大きく見開き、丹もまた自分のことを守ってくれている人物がクラスメイトの来栖託人ということで精神的に大きな衝撃を受けた。


「クーくん、危ない!」


 丹と来栖が互いの存在を認知し合って驚いていた隙を狙って、彼女たちと距離を置いていた海老茶色の怪物が唸り声を上げて突進してくる。自分に気を取られている来栖よりも先に怪物の接近に気付いた丹は、大声をあげて彼に注意を促す。


「…れんの一撃で仕留めるしかないか」


 来栖は足元に跪く丹が逃げられないことを苦々しく思っているようで小さく舌打ちをすると、意を決した様子でこちらに疾駆してくる怪物に向き直る。来栖は両足を開く幅を広げて仁王立ちになり、肘を引いて腰溜めに構えた右の拳を左手で包み、精神統一をするように深く息を吸い込んだ。


「喝!」


 来栖が裂帛の掛け声と共に風切り音を鳴らして右の拳を鋭く前方に突き出したのと、顎を大きく開いて海老茶色の怪物が彼に向かって大きく跳躍をして飛び掛ってくるのはほぼ同時だった。来栖がどれだけ喧嘩に自信を持っているのかは分からないが、徒手空拳で得体の知れない生物とやりあおうということ自体無謀なのに、敵が接近してくるよりもずっと早く拳を振るってしまっては元も子もないと丹は絶望的な気持ちになった。


 だが来栖が怪物に拳が届く位置に来る前に繰り出した正拳突きの先に青白い光が延びたように丹が錯覚すると、光の進行方向から猛烈な勢いで彼に迫っていた怪物は大砲の一撃でも受けたように粉々に弾け飛んだ。


怪物の体は方々に飛散した途端、幻のように掻き消えてしまう。更に数秒前まで怪物が存在していた空間にぼやけた輪郭の黒い球体が浮かんでいるのが丹の目にも映ったが、その黒い球体も瞬く間に煙のように消失してしまい、丹たちを脅かした海老茶色の肌をした怪物の痕跡は跡形もなくなっていた。


「わたしたち助かったの……?」


「ああ、もう大丈夫だ」


 どんな動物図鑑にも載っていないような異形の生き物と遭遇し、丹に襲い掛かってきたその怪物を同級生の来栖が気功のようなものを放って打ち倒した上、来栖の気功を喰らった怪物が木っ端微塵に弾け飛んだかと思うと跡形もなく消え去ったという非現実的な体験を立て続けに目撃して、丹の思考回路はパンク寸前だったが、気が動転する前に身の安全が確保されたことを来栖に確かめると、来栖はその問いに首肯した。


「こんな所に長居は無用だろう、立てないなら手を貸すぞ?」


「…あの海老茶色の生き物は一体何、それにクーくんの手から特撮ヒーローの必殺技みたいな光線が打ち出されたように見えたのはわたしの見間違いじゃないよね?」


 地面にへたり込んだままの丹の方を振り向いて彼女を立ち上がらせようと来栖が手を伸ばすと、丹は差し出された来栖の手を掴んで彼のことを見上げながら、自分の目にした怪異の詳細の説明を来栖に求める。


「さっきの出来事は悪い夢でも見たと思って全部忘れてくれ」


「忘れろって言われても…こんな訳の分からない目に遭ってそう簡単に忘れられるほど人間の頭は器用にできてないよ」


 来栖は冷ややかな目付きで海老茶色の怪物を目撃したことも自分が気功のような力でその怪物を撃退したことも忘れるように丹に厳命する。来栖の視線の鋭さに丹はカンナがその目を人殺しのようだと例えるのも誇張ではないと感じるが、来栖の目を怖いと感じても何故か視線を逸らさずにその目を見返す。


「いいから忘れろ、あんなこと覚えていても何の役にも立たないだろう?」


「ナレノハテの存在を知っていても損ということはないと思いますけど、来栖さん?」


 度胸の据わった男でも気圧されるような凄みのある目を向けているにも関わらず、自分の顔から目を離そうとしない丹の態度に逆に来栖は飲まれてしまったようで、口早に捲くし立てて彼女に言うことを聞かせようとする。


 だが来栖の言い分を鵜呑みにすることに不服そうな目を丹は浮かべており引き下がる気配はなく、来栖がどうすれば頑な彼女を言い負かせるのかと思考を巡らせていると公園の入り口から澄ました調子の声と共に制服の女子高生が出てきて来栖たちに近づいてきた。女子高生が接近してくると来栖は丹の手を離してそちらに向き直り、丹のことを睨んでいた眼差しをそのまま相手に投げかける。


「無関係な奴に余計なことを教えるな!」


「ナレノハテ、それがさっきの怪物の名前?」


「ええ、貴女が先ほど襲われて来栖さんが聖火の一撃で仕留めた化け物のことを私たちはそう呼んでおりますわ」


 来栖が丹に海老茶色の怪物に関する情報を伝えることを止めようとするのを無視して、公園から姿を現した女子高生はボリュームのある毛先が縦ロールに巻かれた髪を優雅な仕草で掻き揚げて丹の質問に答える。


「ナレノハテって何なんですか、それにあなたたちは一体……?」


「それをあんたが知る必要がない」


「ナレノハテは闇に紛れて人間を襲って生き血を啜る汚らわしい悪鬼、端的に言えば西洋の伝承に出てくる吸血鬼のことですわ。そして私たちは主の教えに従い、人間社会に危害を及ぼすナレノハテの駆除を担う存在ですの」


 相変わらず来栖の制止を無視して縦ロールの髪の少女は丹の質問に答え続ける。丹は縦ロールの少女が身に付けている制服が、妹の葵の通うキリスト系の学校芳志社女学院の高等部のものであることに気付いた。知られたくない事情を知られて渋面を浮かべている来栖とは対照的に、縦ロールの髪の少女の顔は神の意思を代行している者の自負が浮かんでいるように丹は感じた。



第1回、悲しみのナレノハテ 了


 

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