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第12回、日常への門出

 ここで物語に一段落つけます。特に構成面で反省すべき点は多々ありますが、現状での着地点を見つけたいと思います。

 紫水小路にかかる空は常に変わらず黄昏の淡いコントラストで彩られている。しかしまことの目には柔らかな光に包まれているその空が、今日はやけに暗くそして重たいものに写っていた。


「託人が来たよ丹ちゃん。あいつはいつでも始める準備は出来ているそうだ」


「わたしも準備できてますから、来栖くんを連れてきてください」


「了解、すぐに連れてくるから」


 部屋の戸をノックして少し間を置いた後、紫水小路を牛耳る権力者の1人である代永氏族の族長源司が丹のいる部屋へ入ってきた。丹が素っ気無い態度で返事をすると、源司は来栖を呼びに部屋から出て行った。


「大丈夫、きっと上手くいくから……」


 丹はこれから受けようとする苦痛に身が細る思いだったが、その苦しみを乗り越えれば現世に戻るという夢を叶えられるのだと自分に言い聞かせて、萎えそうになる気持ちを強く持たせようとする。


 丹はウツセミとして何も掟に抵触するようなことを犯していないにも関わらず、これからその背に罪人の証である烙印を刻まれようとしている。西洋の伝承にある通り吸血鬼であるウツセミにとって銀はその身を蝕む猛毒であり、高い治癒力を持つウツセミでも銀で受けた傷は回復できない。そして背中に銀のナイフで深々と斬りつける烙印の刑を施されたウツセミは体内から常に自らの活力である妖気を漏らし続け、傷の痛みだけでなく徐々に力を失っていく二重の苦しみに耐えなければならない。その罰の苛烈さは烙印をその背に刻まれて生き永らえたウツセミが稀有であるということが物語っていた。


 だが丹は想像を絶するような苦しみを受ける烙印を自らその背に刻もうとしている。烙印を刻まれウツセミとしての力を失うことで、感覚の鈍化した皮膚ならば本来刺激が強すぎる昼間の日差しの影響を受けにくくなり現世で日中も活動できるようになるからだ。丹はウツセミに転化して失ったはずの日常を取り戻すために、決死の覚悟で烙印を受けることにしたのだった。


 当然無実の丹に厳罰を下すことを族長の源司は躊躇っていたし、丹と同じくウツセミの母親紅子も現世で暮らしている人間の父親斎も彼女が烙印を刻むことに反対した。丹が人間だった時のクラスメイトでウツセミとは先祖代々深い関係のあるウワバミの来栖も、丹が数百年にわたって守られているウツセミと人間の棲み分けを破ろうとすることへの反発だけでなく彼女の身を案じて愚行をやめるように説得した。


 しかし丹の友人で古参のウツセミである先代の族長朱美が自身の経験を踏まえた示唆を彼女に与えたことで事態は一転する。20年ほど前、族長の座を譲位した朱美は妻を失い娘も家を出て行って独り身になった来栖の祖父である先代のウワバミと同居しようと現世での生活を望み、その背に烙印を刻んだ。大きな力を持つウツセミであった朱美でさえ、烙印による苦しみに抗うことは出来ずその命は風前の灯となりかけたが、先代のウワバミが機転を利かせたことで彼女は一命を取り留めた。


 朱美の命を救った方法が、ウワバミが操る人間の持つ生体エネルギー精気を転換した剣気を用いて朱美の肌を焙り、烙印を刻まれて開いた傷口を焼いて塞ぐというものだった。元来剣気はウワバミがウツセミあるいは理性を失って異形と化したウツセミの末期であるナレノハテを討つためのものであり、まともに受ければ大きなダメージを受けかねないウツセミにとって危険なものである。しかしウツセミにとって多大な効力を持つものだからこそ、使いようによって剣気は手の施しようのない銀で受けた傷さえも焼いて塞ぐという荒療治が可能になるものだった。


 そして当代のウワバミである来栖の剣気を使い、丹の受けた烙印の傷を早めに塞ぐことで妖気の流出を抑え、生命の危機に陥らず人間の中に紛れて日常生活を送れる程度の力の減衰に留めることを画策し、そのための処置をこれから行おうとしているのだった。


 無実の丹に烙印を刻むことに合法性を持たせられるような書類を源司は捏造したものの、部外者に知られることは憚られたため処置は人目につきづらい源司の屋敷で執行される運びになった。歴代の族長がその任期にある間だけ住まうことを許される屋敷には源司が本心から信頼しているものしか出入りが認められていなかった。この屋敷ならば余計な風聞が立つこともあるまいと判断して、丹は昨日からこの屋敷の中に匿われていた。


「来栖くん」


 荒っぽく打ち鳴らされた直後、扉が開け放たれて来栖が部屋の中に入ってくる。丹の呼びかけに対して来栖は彼女の顔を一瞥しただけだったが、常に仏頂面をしている来栖の顔に緊張の色が浮かんでいるのに丹は気付く。


「さてと、みんな揃ったことだしそろそろ始めようか?」


 来栖に続いて部屋の中に入ってきた源司はカードゲームでもやるような気楽な調子で、しかし端正な顔にある切れ長の目は真剣さを浮かべながら刑の執行を促す。


「本当にいいんだな、霧島?」


「うん、これが成功してみんなの所に帰るって信じているから」


 来栖が最後通告として丹に烙印を背に刻んでよいのかと訊ねると、丹は大きくはないがはっきりとした声で頷き返す。


「そうか、あんたがそう言うのなら仕方ないな」


 来栖は上半身に身に着けていた半袖のシャツを乱雑に脱ぎ捨てて、色褪せたジーパンにタンクトップを纏ったラフな格好になった。丹も着ていた浴衣の襟を緩めて胸元を隠しながら、肌蹴させた背中から素肌を露にすると部屋の真ん中に膝をついた姿勢でしゃがみこむ。来栖も丹の眼前に歩み寄ると、その場に屈んで彼女と正面で向き合った。


「さあ始めようぜ霧島」


「うん、よろしくお願いします」


 来栖の呼びかけに応じると丹は上体を前傾させて顎を大きく開くと、来栖に顔を寄せていく。丹の開いた口は来栖のタンクトップの襟元から除く首の付け根へと近づいていき、遂に丹は来栖の肌に噛み付いた。吸血鬼の長く伸びて先鋭化した犬歯に肌を貫かれた痛みに来栖は一瞬顔をしかめるが、すぐに元の仏頂面に戻ると丹の背後で銀の短剣を掲げている源司の顔を見上げた。


「源司サン、輸血の準備は整った。次はあんたがザクッとやってくれ」


「覚悟はいいかい、丹ちゃん?」


 源司が念のため丹に意思確認を求めると、来栖の肩に噛み付いたまま丹の頭が僅かに縦に揺れる。それを承認の合図と看做した源司は右手に携えた銀の刃を頭上に振り上げ、一呼吸置いた後に一気に丹の背中に振り下ろした。


 源司の振り下ろした銀の刃が丹の背中を縦一文字に傷をつける。丹は源司の一太刀を受けて肉を切り裂かれた痛みと共に、ウツセミにとって劇物である銀で負傷して傷口に焼けるような痛みを感じた。泣き叫んで悶えたいような痛みに丹は目を固く瞑って堪えるが、丹が歯を食い縛ったことで来栖の肩を噛む顎に力が加わった。丹の顎に強く噛まれる苦痛に来栖は表情を歪める。


 源司は上段から振り下ろした刃を引き上げると、右腕を大きく横に張り出して短剣を構えた。最初の一太刀から間髪置かずに源司は横薙ぎに短剣を振るい、既に丹の背に刻まれている傷に重なるように横一文字に彼女の背を斬りつける。源司の狙い通りの場所を銀の刃は斬りつけ、丹の背には十字の傷が刻まれた。


 2箇所も銀の刃で斬られて丹はあまりの痛みに悲鳴もあげられなくなってしまう。浴衣が乱れるのを防ぐために襟元を押さえていた丹の手はそこから離れ、向かいに立つ来栖のタンクトップを引き裂くような力で握り締めていた。


「開いた傷口から妖気が流れ出した、丹ちゃんの運命は君が傷口を塞ぎ終えるタイミングにかかっている!」


「任せとけ!」


 源司が烙印を刻んだ場所から丹の妖気が漏れだしていることを伝えてくると、来栖は丹の顎に肩を噛まれている痛みを紛らわすように怒声を上げて返事をする。来栖は激痛に悶えている丹の体を左腕で抱き寄せて自分の脇に固定すると、右の掌に意識を集中させ始めた。


「はぁぁぁっ!」


 来栖の全身から湧き出る精気が右の掌の上に集中していき、エネルギーの純度が増して青白く輝く剣気へと変質していく。来栖は集まってきた剣気が次第に自分の掌から離れていこうとする抵抗を覚え出していたが、意識を剣気の塊に集中させて今にも暴発しそうなエネルギーを力ずくで押さえ込む。


 右手で膨張と収縮、点滅を繰り返す青白い剣気の塊を留めながら来栖は丹の烙印から溢れる妖気の手ごたえを頼りに傷口の位置を掴むとその上に掌を翳した。


「いやぁぁぁっ」


 銀で受けた烙印の傷の痛み、妖気が噴出する苦しみ、そしてウツセミに致命傷を与える剣気を当てられた三重苦でとうとう丹は来栖の肩から口を離し仰け反りかえる。


「血を吸うのをやめるな霧島、精気を摂り続けなきゃ死ぬぞ!」


 来栖は未だに烙印の傷が塞がらないことに焦りを募らせながら、丹に自分の血を吸い続けるよう訴える。転化したばかりで蓄えている量が少ない丹の妖気など、烙印を受ければ瞬く間に底をついてしまう。来栖は自分の血液を介して丹に傷口から抜けていった分の妖気を精気で補充させることで、自分が傷口を塞ぐまでの時間稼ぎをさせようとしていた。しかし痛みに耐え切れず丹は生命線である来栖の血を自ら飲むのをやめてしまった。


「霧島、しっかりしろ霧島!」


 丹の声にならない絶叫が部屋の中に反響する中、来栖は気を確かにするよう丹に呼びかける。しかし丹の背から妖気の流出は止まらず、彼女は来栖の腕の中で痙攣し始めた。妖気の喪失が激しく丹が危険な状態に陥っていることを来栖は悟る。


「生きてくれ丹ぉぉっ」


 娘の幸せを願った丹の両親から託された思いや、丹のためにあれこれと手回しをしてくれた源司や朱美への義理、そして何よりも丹自身を亡くしたくなく彼女の望みを叶えてやりたいという気持ちで来栖は丹の名前を叫びながら、腕の中で小刻みに震える彼女の体を両腕で力いっぱい抱き寄せた。


 致命傷を負っている丹ほどではないにしろ、来栖自身も丹に肩を食いちぎられかけた激痛やその傷口から流れる血液によって大量の精気を彼女に分け与えたことによる肉体的な疲労、そして臨界状態で剣気を保持しなければならない精神的な負荷で心身ともに相当の負担がかかっていた。衝動的に丹を抱き締めた直後、来栖の忍耐も限界に達して制御できなくなった剣気が来栖の掌で弾けようとする。


「託人!」


 膨大な量の剣気が丹の背中の上で爆発しかけた寸前、源司が来栖の右手の上に自分の両手を重ねてきたことに来栖は気付く。来栖と丹が互いに抱擁しあうような格好で床の上に跪き、2人に駆け寄った源司が身を屈めて来栖の掌が触れている丹の背に手を触れた瞬間、部屋一面に剣気の青白い閃光が広がった。


 剣気自体には物理的な力はなかったが、来栖の掌で剣気が爆ぜたことで来栖本人もウツセミの2人も爆風に煽られたような感覚を覚えて、三人は散り散りになって床の上に投げ出される。


「霧島!」


 自分の支配を離れた剣気で全身を揺さぶられたようになり平衡感覚を失った来栖は一瞬床の上で気絶していたが、すぐさま丹のことを気にかけて跳ね起きるとうつ伏せで床の上に倒れている彼女の元に駆け寄った。


「霧島、おい目を開けてくれ!」


 ぐったりとしている丹の体を揺すって来栖は彼女に目を覚ますよう懇願するように呼びかける。しかし丹は来栖に体を揺らされるまま人形のように瞬き一つしない。


「こんなことって……」


「落ち着け託人、彼女のことをよく見てみろ」


 至近距離で剣気の爆風を受けた源司もかなりのダメージを負っているらしく覚束ない足取りをしていたが、ウツセミの族長の誇りにかけて弱々しいながらも余裕のある笑みを浮かべて来栖に注意深く丹のことを観察するように言う。


「蝕がちゃんと残っていて、背中の傷が塞がっているってことは……」


「際どい所だったけど手術はどうにか成功かな、今は力を使い果たして眠っているだけだよ。そもそもウツセミやナレノハテの命が失われる時は、存在を保持できなくなって跡形もなく霧散してしまうだろう?」


「そうっすね、でもこいつがウツセミってことが未だに受け容れ切れないんすよ」


 来栖が床の上に投げ出されている丹の様子を冷静に窺ってみると、銀のナイフで切り裂かれた背中の傷は灰白色の火傷で覆われている。更に吸血鬼の魂に相当する精気の真空地帯蝕の気配も丹の中から感じられた。ぎりぎりのところで丹を救うことに成功した来栖は安堵のあまり脱力してその場に崩れ落ちる。源司にウツセミが死んだ場合、遺体も残らないことを指摘されて来栖はそのことを失念していたことに苦笑した。


「いくら君が認められなくても彼女は紛れもなくウツセミだ。あの時オレが蝕を具現化させて暴発した剣気を取り込まなきゃきっと彼女は木っ端微塵になっていただろうね」


「…協力には感謝しますけど、俺も咄嗟に源司サンの方に剣気の矛先を変えましたよ」


 来栖が制御できなくなった剣気が臨界する寸前で、源司が掌に自分の体内にある蝕を局所的に外部に具現化させたことで剣気の嵐を抑え込んだことを得意げに語ってくると、来栖は彼の恩着せがましい言い方が癪に障って自分も源司の意図を汲んで力の方向を変えたと抗議する。


「どっちが頑張ったかなんてことを張り合っても仕方ないだろう、一番辛い思いをしたのは丹ちゃんなんだからさ」


「ウワバミとウツセミの族長いいように振り回しておきながら自分は暢気に眠りこんでいるなんて、ホントこいつは大した奴っすよ」


「ははっ、ならその器の大きい所を後々発揮してもらわないとな」


「そうっすね……」


 自分たちに心労をかけさせておきながら用が済めば自分はぐっすり眠っている丹に来栖が呆れると、源司はウツセミとしての丹の度胸に期待を込める。源司の笑い声に応じると来栖は突然床の上に倒れた。


「託人…緊張の糸が切れて自分も寝込んじゃ丹ちゃんのことは言えないだろう?」


 源司は来栖の容態を案じるが、床の上で大の字になりながら達成感のある顔で寝息を立てている来栖も丹のことをとやかく言える立場ではないと頬を崩す。


 源司は丹の乱れた衣服を直してやって、部屋の隅にある寝台まで眠っている彼女のことを運んでいくとその上に寝かせた。源司は丹を寝台に運んだついでにその脇にあるクローゼットから大きめのバスタオルを取り出すと、床の上で眠っている来栖の上にタオルをかけてやる。


「役目を引き継いだ新世代のウワバミと数奇な運命を辿る若手のウツセミのコンビなら、ウツセミと人間の関係に新しい風を吹き込んでくれるかもしれないね」


 源司は偉業を成し遂げて眠っている若い2人が自分たちの世の中に革新をもたらす可能性を覚えながら、静かに部屋を出て行った。


* * *


 丹に烙印を刻み、その傷口を塞ぐことに成功した翌日、源司の屋敷で紫水小路の有力者を集めて会合が開かれた。会合に出席したのは代永氏族からは族長で議長を務める源司、紫水小路にある酒場などの娯楽施設を統括する忠将、人身売買を含んだ商取引を取り仕切る置屋の女主人茜、ウツセミ全体の庶務を担当する政所まんどころの責任者で代永の先代族長の朱美の4人。代永と対を成し職人集団の趣がある富士見氏族からは、現在族長を務めている腰まで届く艶やかな黒髪の娘の姿をした千歳ちとせと富士見氏族では最古参のウツセミで染色家をしているわたるの2人が参加していた。


 会議のために集まった6人だったが、富士見氏族の2人は退屈そうな顔で会議の流れを把握しているかどうか怪しい雰囲気であったし、忠将は会合の前に源司と議題について協議していたようで源司の司会で説明不足に聞こえた所の補足を行っており、朱美はオブザーバーとしてこの場にいるようなものだったので、まともに議題について意見をしているのは置屋の女主人である茜だけだった。


「いくら現世で暮らせるとはいえ、その娘に紫水小路の外で暮らす許可を与えるのを承認できません! 例外を設けてしまっては規律が乱れる風潮を招く恐れがあります」


「別にいいんじゃない、カビの生えたような古臭いしきたりに拘らなくても」


 茜が源司の提案に異議を唱えると、その隣で自分の長い髪を指に絡めて弄びながら富士見氏族の族長千歳が余計な波風を立てることで会議が長引くのを厭うような顔で呟く。


「ちょっとあんた、いくら名ばかりとはいえ少しは族長の自覚を持ちなさいよ。族長のあんたが掟を蔑ろにするような態度でいいと思っている訳?」


「別になりたくて族長になった訳じゃないし、あなたに譲ってあげましょうか?」


「私は代永のウツセミだよ、富士見の族長になれる訳ないだろう!」


「落ち着け茜、今の議題は丹を現世に出すこと是非だろう」


 族長としての自覚に欠けている千歳の態度を茜は気に食わず、千歳に族長としての心構えを説教し始めようとするのを忠将が会話に割って入って宥める。


「そうだったね、でも私は絶対に反対だよ。その小娘がどうなろうと知ったこっちゃないけれど、小娘が教会に尻尾を掴まれたせいで私たちにまで火の粉が降り注ぐようになるのはごめんだからね」


 茜は断固として提案に否定的な態度を保ちながら、会合の参加者が並ぶテーブルの端に座っている若いウツセミに鋭い眼差しを向けた。茜の剣幕に気圧されて丹は一瞬身を竦ませる。


「俺が責任を持ってこいつの面倒をみる。俺がついていれば教会の追求の手もかわせるはずだ」


 丹の現世での暮らしを許可することに異を唱え続ける茜に対して、丹の向かいの席に座っている来栖が彼女個人の安全とウツセミ全体の存在を隠し通すことを保証した。


「ウツセミに現世を出歩かれて一番困るのはウワバミのあんただろう。源司さんに朱美姐さんそしてあんたと随分この小娘に甘くないかい?」


「わしらが丹に若干甘いことは認めるが、過保護にはしていないつもりじゃ。丹には政所の駐在員として現世と紫水小路の連絡役を務めてもらう」


「ついでにウツセミとウワバミの連絡係もね。丹ちゃんがウワバミの託人と一緒にいてくれれば、オレが託人に会いに現世に赴く必要もなくなるし。そうすりゃ君だって仕事がやりやすくなるだろう、茜?」


 茜が新入りのウツセミである丹に対して3人が寛容になり過ぎだと批判すると、朱美と源司は少々手厚い保護を与えていることは認めても、現世へ行かせるのは単純に丹の我儘を聞き入れるだけではなく役目を負わせていると説明する。


「源司さんが現世に行く回数が減れば仕事に回してもらえる時間も増えますけれど、だからといってこれを認めてしまうのは……」


「茜、お主がウツセミとして未熟な丹のことを心配する気持ちも分からなくはない。じゃが、丹を可愛いと思うからこそ世間の荒波に揉ませる必要があるのではないか?」


「…そんななまっちろい小娘を可愛く思いませんよ、むしろ不甲斐なさに虫唾が走ります」


「そうか、じゃが本当に丹が軟弱であったら烙印を刻みその傷を剣気で焼いてまで現世に行こうとは思わんじゃろう? それにいけ好かない相手の顔を見んでも済むのならお主も気分がいいのではないか?」


 茜は源司と朱美に丹が現世に行くのには一族に対して重要な役割を負わされているからと聞かされてもまだ納得いかない様子だったが、次第に朱美に言い含められ始める。


「…分かりましたよ、源司さんと朱美さんがそう言うのなら私はその決定に従うまでです。これ以上同意を拒んでも、私の株が下がるだけでしょうし」


 源司と朱美それに忠将は丹が現世へ出向くことに肯定的で、富士見氏族の2人は積極的に異論を唱えるほどこの議題に関心を持っていないことから、自分がどれだけ抵抗をしても議論の流れを変える事はできないと観念する。諦観した溜息を一つ吐くと、茜は丹が現世へ行くことを承認した。


「これで全員の了承を得られたね。丹ちゃん、これで君は晴れて現世での暮らしに戻れる訳だ、おめでとう」


「ありがとうございます」


 満場一致で丹の現世への帰還の承認が得られたことを源司が丹に伝えると、丹は椅子から立ち上がって会合に出席した参加者一同に深々と頭を下げる。


「よかったな丹、向こうでも楽しくやるんじゃぞ」


「うん、本当に朱美ちゃんには感謝している」


 朱美が丹に祝辞を送ると、丹は明るい顔で彼女に微笑んだ。丹の幸せそうな笑顔に朱美だけでなく源司や忠将、自分の意見が棄却されたことを腹に据えかねていた茜でさえも表情が柔らかくなった。富士見の2人は退屈だった会合からようやく解放されると知り、恒は椅子に座ったまま大きく背伸びをして体の凝りを解し、千歳は湯飲みに残っていた茶を啜って帰る支度を始める。


「元の生活が送れるようになってよかったな、霧島」


 会合が終了して一同が解散し始めた後、来栖は丹が自宅に帰れるようになったことを祝う。社交辞令ではなく来栖は本当に丹が現世へ戻れるようになったことを嬉しく思っているようで、いつもよりも優しい顔で丹を見つめていた。


「うん、来栖くんも色々とありがとう。それとこれからもよろしくね」


「ああ、しばらくの間世話になる」


「ちゃんとギブ・アンド・テイクの関係にしようね」


「もちろんだ」


 来栖と丹は相互扶助の関係を作れるように誓い合いながら頷きあった。自分たちの間には監視者と監視されるもの、血を与える者と血を啜るものということ以上に深く、そして確かな関係が築かれつつあるように来栖と丹は無意識的に自覚しつつあった。


* * *


紫水小路に住むウツセミたちに必要な庶務を行っている政所の事務所前、建物の軒下に源司と朱美が立っておりその向かいに紅子と丹の親子そして来栖が立っていた。


「色々とお世話になりました」


「これでお別れじゃないんだよ、むしろオレたちの付き合いはこれからじゃないか?」


「そうじゃぞ丹、お主は政所の駐在員として現世に滞在するんじゃからな。毎日が楽しいことは結構じゃが、勤めをおざなりにされては困るぞ?」


「わかってます、ウツセミとしても人間としても全力で生活をします」


 現世の自宅へと帰ろうとしている丹が別れの挨拶のような礼を言ってくると、源司と朱美は彼女に任せた役割を忘れられては困ると忠告した。丹は自分の失言を愛想笑いでごまかしながら、現世で生活する上での抱負を2人に語る。


「霧島、どうせ朱美さんたちとはいつでも会えるんだしさっさとお前んちに行こうぜ、ぼさっとしてると妹の方が先に帰ってきちまうぞ?」


「あぅち…そうだね、ぐずぐずしていると葵に迎えられることになっちゃう」


「それはまずいわね、そろそろ行きましょうか」


「朱美ちゃん、それから源司さん、それじゃいってきます」


「行ってらっしゃい、丹ちゃん」


「うむ、遊びに来る時は土産を頼むぞ」


「分かってるよ、楽しみにしてて」


 来栖に急かされて丹は出立する決心をすると、紫水小路のものたちと再会を誓って政所の前から歩き出していった。丹と紅子が仲良く並び、彼女たちの少し先を来栖が歩いていく背中を源司と朱美は政所の軒下から見送る。


「行ってしもうたな、しばしの別れとはいえ何だか寂しいのう」


「紫水小路と現世は隣り合っているのに朱印符がなければ行き来できませんからね、現世の中で海外に渡るよりも遥かに隔たりは大きいですから姐さんがそう思うのも無理はないですよ」


「そうじゃな…しかし何故丹は朱印符も持っとらんのに、転化した直後現世に出られたんじゃろうな?」


 朱美が歳柄にもなく丹との別れを惜しんでいると、源司は先輩に気遣いの言葉をかける。しかし続いて朱美が口にした一言を聞いて、源司は表情を急に固いものに一変させた。


「それはオレも気になっていたことです。ナレノハテになってしまえば異物として自然と現世に追放されてしまいますけど、ウツセミのままであれば朱印符がなければ現世に出ることは出来ない。それなのに丹ちゃんはウツセミの姿のまま、朱印符もなく現世へと抜け出すことができた。徘徊していた時には転化したばかりだった彼女の記憶もあてになりませんし、真相は今も分からないままです」


「あの時、政所で管理している朱印符は全て事務所の中にあった。つまりその時点では紫水小路にいるウツセミは誰も現世に行くために朱印符を持ち出してはいなかったということじゃ。朱印符を使わずに、あるいはわしらが管理していない朱印符が存在しておるということか?」


 朱美は薄い胸の前で腕を組んで難しい顔で首を傾げる。源司も朱美と同様に原因の分からない異変に頭を悩ませている様だったが、彼が抱え込んでいる問題はそれだけではなさそうな雰囲気を醸し出していた。


「丹ちゃんが紫水小路から抜け出た件の他にも気がかりなことがあります。最近やけにナレノハテが現世に出没していますけど、紫水小路にいたウツセミでナレノハテに変貌したものは全て把握しています。そうするとこちらで把握している数よりも託人が倒したナレノハテの方がずっと数が多いんです」


「御門以外の地域から流れてきたものじゃないのか?」


「他の地域から侵入してきたものもいるでしょうが、それにしても数が多過ぎます。まるで御門市内にオレたち以外にも大勢のウツセミが潜伏していて、そのものたちが理性を失いナレノハテに変貌してしまっているようです」


「世界中にはわしら以外にも吸血鬼は数多く存在しておる。しかし姿は見えずとも同胞がその街に潜んでいる気配は感じることが出来るはずじゃから、普通ならば他の狩場を探すはずじゃ。それにわしらほど敏感ではなくともウワバミも吸血鬼の気配を感じることができるから、あやつらがそんな大勢の吸血鬼を見落とす訳がない」


「姐さん、これはあくまでオレの杞憂ですが『あのひと』なら例え御門の街に潜んでいても、オレたちやウワバミに自分の存在を感じさせずにやり過ごすことはできますよね」


「…考えたくはないが膨大な妖気をその身に秘めながら、蛇のように音もなく忍び寄るあやつならばそんな芸当も可能じゃろう」


「10年近く前、確かに『あのひと』はウツセミ全体への蜂起を掲げた罪で紫水小路を放逐されました。オレも討伐に加わり『あのひと』の左腕は斬り落としましたが、結局仕留めることが出来ず、現世に逃げ出した『あのひと』に紅子を襲わせてしまった。オレがちゃんととどめを刺していれば……」


 平穏な日々を送っていた霧島家の人間をウツセミに関わらせてしまったことも、場合によっては今起こっている異変の原因になっていることも、全ては謀反人を討伐した際の自分の詰めのせいで起こっているのではないのかと源司は自責の念に駆られる。


「過ぎたことを悔やんでも仕方ないじゃろう、それにあやつの左腕の傷は銀の刃である魔剣でついたものじゃ。烙印を刻まれたのと同じ症状に苛まれるのだから、いくらあやつが莫大な妖気を持っておっても10年経つ前に空になっているはずじゃ。もし生き延びておっても、一介のナレノハテになって衝動の赴くまま人肉を貪り食う化け物に成り下がっておるじゃろうからわしらの脅威にはなるまい」


「そうでしょうね、でも『あのひと』ならあるいは……」


「こんな辛気臭い話を続けても不安を抱え込むだけじゃ、調査は続けるべきじゃが余計な恐怖に怯えているのは無駄じゃし、今を楽しんで鋭気を養っておくべきじゃろう?」


 源司が取りとめもない不安に苛まれているのを見て、朱美はこの話題に触れるのをやめようと言い出す。朱美は気丈な笑みを後輩に向けながら、弱気では何事も上手くはいかないと訴えかけた。


「すみません、今の族長はオレなのにこんな愚痴を聞かせてしまって……」


「まったくじゃ、ようやく族長が板についてきたと思うたらまた昔のようにうじうじつまらんことで悩みおって。すまんと思うならもう少ししゃきっとせい!」


「はい…精進させてもらいます」


 朱美が着物の帯に手を当てて不甲斐ない後輩を一喝すると、外見だけなら彼女よりも年上で身長も頭2つ分は高い源司は背を丸めて小さくなりしょげ返る。


「あやつがここからいなくなってもうじき10年か、それでもその影は色濃く残っておるんじゃな……」


 朱美は萎縮している源司を表に置き去りにすると政所の事務所の中へ入っていく。玄関で履物を脱いでいる時に、ふと会話に出てきた反逆者のことを朱美は思い返した。族長としての役割を果たせるようになってきた源司をあれだけ不安がらせるほど、その男の影響力は強かったのだと朱美は再認識する。


「ウワバミの小僧と丹がもたらす光が、あやつの残した闇を照らしてくれんかのう」


 朱美は現世へと戻っていった2人の若者に古い時代の悪しき記憶を払拭してくれるような輝かしい功績を見せてくれないかという期待を胸に抱いた。


* * *


 ホームステイ先のカナダから帰国し、空港から父親の運転する自家用車で御門市に戻ってきた霧島葵は、家に到着するなり車から飛び降りて自宅の中へと駆け込んでいく。


「姉さん!」


「おかえり葵、カナダ楽しかった?」


 葵が息を切らせて台所のドアを開け放つと、エプロンをかけてコンロの前で鍋の火加減を見ている彼女の姉が出国する前と変わらない笑顔で彼女を出迎える。葵の姉は相変わらず満足に髪のセットしておらず、スタイルがいいくせにハーフパンツに猫のイラストがプリントされたTシャツと垢抜けない姿だったが、葵は姉の立ち姿を見ると不意に涙が込み上げてきた。


「どうしたの葵、なんか向こうで何か嫌なことでもあったの?」


「…それはこっちの台詞よ、急に家からいなくなったと聞いてアタシがどんだけ心配したと思ってるのよ!」


 葵が泣き出しそうになっているのを見て彼女の姉は心配そうな顔でそう訊ねてきたが、不安な気持ちになったのはホームステイ先で姉が失踪したと連絡を受けた自分だと葵は泣き喚きながら言い返す。葵はとうとう堰を切って溢れ出た涙も拭わずに、無事に再会することの出来た姉に体当たりするような勢いで抱きついた。


「姉さんの馬鹿、アタシに無断で家を出ていいと思っているの?」


「あぅち…余計な気を使わせてごめんね葵」


「そうやっていっつもいっつも他人に気を使ってばっかりで、少しくらい自分の不満とかも言いなさいよ。自分の中に嫌なこととか困ったことを溜め込み過ぎたから、何もかも嫌になってあんなことしたんでしょう?」


 葵は姉を罵倒しながら子どものように声をあげて泣く。彼女の姉は妹の物言いは屈折していても、本当に自分のことを心配してくれたからそう言っているのだと分かっているらしく、自分よりも頭1つ分背の低い妹のことを母親が子どもに接するように優しく抱きかかえた。


「泣かないで葵、もう大丈夫だから」


「本当に、今度黙ってアタシの前からいなくなったら絶対に許さないんだからね?」


「約束する、わたしは絶対に黙って葵の前からいなくならない」


 葵が泣き腫らした顔で比較的長身の姉の顔を見上げると、彼女の姉は優しく微笑み返した。少し鈍臭くて情けない所があっても何故かそんな姉のことを自分は信頼してしまうのだと葵は実感した。


「姉妹の感動の再会に水差して悪いけどよ霧島、掃除機どこにあるか教えてくれない?」


「あんた誰?!」


 突然台所の入り口から見慣れない若い男が顔を出してくると、葵は慌てて姉から離れながらその男に素性を問う。


「掃除機は階段の下の押入れの中にあるよ」


「おう、じゃあ使わせてもらうぜ」


「あのさ、ひとつ頼みたいことがあるんだけど……」


「なんだ、居候させてもらう身だからできる事なら聞かせてもらうぜ?」


「居候、なんで、というかあんた一体何者よ?!」


 男は自分の質問を無視して姉と会話を続ける。葵の姉は男に掃除機の場所を伝えた後、何か頼みごとがあると申し出た。食客として厄介になる以上、多少の注文ならば応えると男が口にしたのを聞いて葵は再び驚きの声をあげる。


「話に聞いていた以上にうるせぇ妹だな、キンキン声が耳に響いて痛くなってきたぜ。で、霧島頼みってなんだ?」


「その霧島って呼び方やめてくれない? ウチには他にも霧島って苗字の人はいっぱいいるからさ」


「じゃあなんて呼べばいいんだよ?」


「普通に丹って名前で呼んでくれればいいんじゃないかな? そうすればわたしも親しみを込めてクーくんって呼びやすくなるし……」


「こいつも親父さんもみんな霧島じゃ分かりづらいのは確かだが…そのふざけた渾名で呼ばれるのは断る」


「ちょっと、姉さんもあんたもアタシの話を聞きなさいよ。どうしてそこにいるクーくんって人がウチに居候することになるのよ?!」


 これ以上無視され続けるのは我慢ならず、葵は部屋中に反響するような大声を張り上げて言い合いを始めようとする居候することになったクーくんという男と姉の丹の会話に強引に割って入った。


「えっとね…クーくんはわたしのクラスメイトで学校の近くに1人で下宿してたんだ。でも独り暮らしってすごく大変ってことを聞いてウチに下宿しないかって聞いてみたの。クーくんはできるなら住ませてもらいたいって返事してくれたから、その後でお父さんに相談してみたんだよね。そしたらお父さんも下宿してもいいって言ってくれたから、クーくんがウチに居候することになったの」


「おい霧島、何回もその渾名を使うんじゃねぇ!」


「あれ、あんた前にどっかで見たことある気がする…そうだ、夏休み前に姉さんおぶって家まで送ってきた人だ。やっぱり姉さんとクーくんってそういう関係だったの?」


「違う、それからお前もその渾名を使うな!」


「同棲しようっていうのに付き合っていない訳ないでしょう、でもよくあの頑固親父がいくら姉さんの頼みでも男を家に連れ込むのを許したわね?」


「誰が頑固親父だ、それにこいつが丹と交際するのを認めた訳じゃない」


 葵が居候することになった男が終業式の日に丹を背負って家まで送ってきた来栖という男と同一人物と気付くと、予想通り姉と来栖が付き合っていたのだとしたり顔で頷く。しかし堅物の自分の父親がどうして娘が高校生のうちから彼氏と同棲することを許可したのかと腑に落ちずに首を傾げると、彼女たちの父親斎が来栖を険しい目つきで一瞥してから台所に入ってきた。


「姉さんとクーくんが付き合うのも認めないのにどうして同棲は認めるのよ、普通は逆でしょう?」


「同棲じゃない居候させてやるだけだ! 俺の目の届かない場所で丹にしつこく付きまとわられるくらいなら、目の届く所に置いておいた方がいいと思っただけだ」


「何よそれ、どう考えても一つ屋根の下で暮らさせる方がヤバいでしょう?」


「丹に下心を抱いたらその時は問答無用で放り出してやると釘を刺しておいた。それに、そいつには丹がいなくなった時に色々と世話になったからな、その礼はしてやらなきゃならんだろう」


「だからって居候までさせなくてもいいと思うけど?」


 斎が来栖の居候を認めた経緯に葵はやはり納得いかなかったが、厳格な父親が認めるくらい大きな貢献を姉が失踪した時に来栖は果たしたのだろうと葵は思うことにした。


「いや、俺は霧島の傍にいなければならないんだ」


「キモ…今のってマジストーカー発言じゃん、父さん本当にこんな奴家に置いていいの?」


「俺だってできることなら置きたくはないんだが、やっぱり丹の近くにこいつがいてもらわないと困ることがいくつかあるんだ」


「困ることって何よ、むしろクーくんがいる方が困ることが多いんじゃない?」


「そんなことはない、霧島には俺の支えが必要だ。そうだろう?」


 来栖が真顔で背筋の寒くなるような発言をするのを聞き、丹は本当に来栖を下宿させてよいのかと父親に訊ねると、斎は渋い顔を浮かべながら来栖が丹の傍にいる必要性を葵に説く。なぜストーカーのようなことを口走る男をそこまでして家に置く気になるのか葵は疑問に思うが、来栖は再度自分が丹の傍にいる必要性を訴えた。


「クーくんは誰のことを言っているの?」


「そうだよね姉さん、こんな危ないこと言っている奴が家にいるのは嫌だよね?」


「決まってるだろ、お前のことだよ」


「お前じゃ分からないよ、はっきりと名指しして」


 葵は丹が自分と同じ危険を察しているのだと思うが、何度か来栖と丹が言葉を交わしているうちにそうではないと気づく。


「…丹、あんたの近くに俺はいなければならないし、あんたも俺を必要としているな?」


「うん、だからクーくんがわたしと一緒に住むことをお父さんも認めてくれたの」


 来栖が苦々しい顔で姉のことを名前で呼ぶと、丹は得意げな顔で結論を述べた。葵は容姿や言動は変化していないが、姉の内面が夏休み前と何か違っているように思える。以前はなかった強かさが丹の中に芽生えたように葵は感じた。


「だーかーらクーくんと姉さんがどうしてそんなにまで一緒にいなくちゃいけない訳、自分たちだけでそう思っているんならともかくなんで父さんまでそれを認めるのよ?」


「丹と来栖くんがお互いに一緒にいることを必要に思っているんだから、私たちが納得出来る理由なんて必要ないじゃない?」


 来栖と丹が一緒にいなければならない理由が明言されていないことに葵が合点がいかないでいると、聞き慣れないのに妙に懐かしく思える声が聞こえて台所に見知らぬ若い女が入ってきた。


「この人も居候、ウチはいつから下宿屋になったの?」


「葵、何ふざけたことを言っているんだ、この人はお前の母さんだろう?」


 肩にかかる長さの全体がゆるやかに膨らんだ黒髪をした優しげな風貌の女性を葵は一瞥すると、来栖以外にも下宿人を置くのかと父親に訊ねる。だが葵の質問に対する斎の返答は彼女の予想の斜め上を行くものだった。


「父さん、姉さんが男を連れ込むのを認めたのは自分が若い女と再婚する嬉しさで浮かれていたからって訳?!」


「分からないのか葵、紅子が家に帰ってきてくれたんだよ!」


「母さん……?」


「大きくなったわね葵、それに学校で色々と頑張っているんだって?」


 自分に何の相談もなく父親が若い女と再婚を決めたことに葵が反感を示すと、斎はそこにいる女性が自分の産みの母だと言い出す。葵は見慣れないその女性の容姿を目を凝らして隅々まで観察するが、確かにおぼろげに覚えている記憶の中の母の姿と似た印象はあっても本人にしては若過ぎることを判断する。


 しかし他人の空似にしては母親の面影に酷似していることを葵が訝しく思っていると、紅子は葵に歩み寄って斎や丹から葵が学業や部活動で数々の功績を残していることを誇らしく思っていることを伝えた。


「う、うん…あなたは本当に母さんなの?」


「そうよ、別人に見えるほど昔と変わっていないと思うけど?」


「うん、それどころか10年前と全然変わっていないように見える……」


 紅子が家族の前から姿を消したのは9年前の春、彼女が29歳の時だった。こうして眼前に立つ母親は時が止まったように葵の記憶の中にあるものと全く同じ容姿と仕草をしていた。紅子が9年前の春から時を越えて中学生になった自分の前に現れたような錯覚を感じて、葵は戸惑いを隠せない。


「久々に家族全員が揃ったんだ、そのお祝いに今日は丹が腕によりをかけて晩飯を作ってくれるらしい。みんなでご馳走を期待して待とう」


「丹が作ってくれる料理ねぇ、今から食べるのが楽しみだわ」


「きり…丹の作る飯は上手いらしいからな。ここに居候させてもらえるようになって、カップ麺で飢えを凌いでいた生活から偉く豪勢な食生活になったぜ」


「うん、みんなに満足してもらえるように頑張る!」


 斎と紅子それに来栖が口々に今夜の夕飯に期待を寄せると、丹はその期待に応じる意気込みを語った。


「ま、いいか。なんかみんな幸せそうだし」


 来栖と丹の関係や全く加齢していないように思える母親が10年間どこで何をしていたのかなど疑問に感じる点はいくつかあったが、とりあえず今はこの家の住人たちが幸せそうに過ごしているのを見て葵はそれらの疑問を棚上げにすることに決める。


「あーお腹空いた、姉さんなるべく早めに晩御飯にしてよね?」


 葵は憎まれ口を利きながら久々に口にする姉の料理を心待ちにして、荷物整理をしようと台所を出て行った。いきなり同居人が増えたり行方が分からなかった母が10年ぶりに帰ってきたりするという驚きがあっても、やっぱり我が家が世界で一番落ち着く場所だと葵は感じるのだった。



第12回 日常への門出 了


 予告通りこの回で話に一区切りつけることはできました。ここまでの流れを振り返っていると、当初はバトルあり人情劇ありちょいエロありの少年漫画的なスタンスを目指していたのに、2話以降戦闘シーンはなく説教臭い語り口が延々と続くハメになってしまいました……


 個人的には臨場感と迫力のある戦闘シーンの描写は不得手ですし、人情劇に一番ウェイトを置きたいという気持ちはありますが、構成が不十分だったせいでいまいち盛り上がりに欠ける内容になってしまったと自省しております。


 反省と課題はたくさんありますが、ある程度自分の言いたいことや設定を作中に反映できたのではないのかなという点は自己評価しております。



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