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第10回、終生の契り

「お父さんとお母さん、行っちゃったね」


 消毒の道具をすぐに借りられないのか、あるいは処置に時間がかかっているのか分からないが紅子と斎はテーブルを離れたままなかなか戻ってこない。来栖と差し向かい椅子に座っていたまことは、来栖と2人きりになってしまった状況と一番騒いでいた斎がいなくなってしまい急に場が静まってしまったことに居た堪れない様子で口を開いた。


「そうだな」


 来栖は気のない丹に返事をしつつ、グラスの底に残った烏龍茶を音を立てながら吸い上げる。来栖が気の利いた応答をしてくれないせいで会話が途切れてしまい、再び彼らの座るテーブルに重い沈黙が立ち込めた。


「霧島、お前はこれからどうするんだ?」


「え、何のこと?」


「だから今後の身の振り様だよ、ウツセミになっちまったんだから元の学校生活には戻れないだろう。これから紫水小路でウツセミとしてどう暮らしていくんだ?」


「分からない…でもここにはお母さんもいるし、朱美ちゃんっていう友だちもできたからどうにかやっていくつもり」


 来栖に今後のことを訊ねられると、丹はどうなるかは分からないがとりあえず独りぼっちではない状況にあるので、前向きにウツセミとしての生活を始める意思を答えた。


「朱美って…代永の先代族長だろう、あんたそんな大物と友だちだって言うのか?!」


「朱美ちゃんのことやっぱり来栖くんも知ってるんだ。年上の人ばかりの中で歳が近い子に話しかけられたから友だちになって欲しいって頼んだら快く了解してくれたよ」


「政所の朱美さんって言ったら族長の源司サンも頭が上がらない長老だぜ、よくもまあそんなひとにそんなこと言えたな……」


「だって朱美ちゃんぱっと見ただけじゃ中学生くらいにしか見えないよ?」


「蝕を見ればそのウツセミがどのくらい長生きしているか分かるだろう…いや、転化したばかりのあんたじゃ相手の蝕が見えなくても無理はないか」


 人間の自分の方が遥かにウツセミの事情に明るいことを皮肉に感じながら、来栖はウツセミの中でも一目置かれている存在と友だちになった丹の意外な大胆さに感服する。


「蝕ってウツセミの魂みたいなものだよね、それって目に見えるの?」


「見えるというか感じるものだな、そのうちあんたにも分かるようになるさ」


「へぇ、それじゃあわたしの蝕はどんな感じなのか教えてくれない?」


「あんたの蝕は本当にちっぽけだな、面と向かっててもぜんぜん怖くねぇ。むしろそんな弱々しい蝕で大丈夫かと心配するくらいだ」


「あぅち…仕方ないじゃない、まだウツセミになって10日くらいなんだから……」


 ウツセミの内側にある精気の真空地帯にして彼らの核をなす蝕の話題が出てくると、丹は興味津々といった様子で来栖に自分の蝕の印象を訊ねる。来栖は彼女の蝕が恐れるに足りないものだと答えると、丹は多少がっかりした様子で肩を落とした。


「ははっ、ウツセミになってもあんたは相変わらずだな」


「そうかもね。でも体が人間のものじゃなくなったせいで、わたしはもうお父さんや葵と一緒に暮らせないし、学校に行ってカンナちゃんと来栖くんとも会えないんだね……」


 来栖はウツセミになっても丹が変わらないリアクションをすることを微笑ましく思うが、丹は来栖と人間だった時と同じように語らえることで、喪失感はあっても楽しかった元の生活に戻れないことの悲しさに沈んだ。


「霧島、あんたは例え母親がいなくても人間としての当たり前の日々を続けることを望んでいたんだな?」


「うん…でももう無理だよね、だってわたしは血を吸って生きる化け物なんだから」


 来栖が丹の願っていた日々を察すると、丹は小さく頷き返す。しかしその願いはもう二度と叶いはしないことを知って、丹はそのまま頭を垂れ続けていた。


 ウツセミの世界に精通している来栖でも一度ウツセミに転化してしまったものを人間に戻す方法は知らなかった。自分が知っていることはウツセミと人間の均衡を保つにはどうすればいいかということと、その均衡を脅かすものを断罪することだけと思い、来栖は丹のためにできる事が本当に限られている自分の非力さを悔やむ。


「そんなに暗い感じでどーしたネンネちゃん、そこにいるカレシとケンカでもした?」


来栖と丹がそれぞれ沈痛な面持ちでいる席に浮かれた調子の声と共に闖入してくるものが現れる。『林檎の樹』に勤務しているらしいその露出度の高いドレスを纏った女は、馴れ馴れしい感じで丹の隣に腰を落ち着けると垂れている丹の肩に腕を回した。


「そっちのカレシもさ~自分のオンナがへこんでいるのを黙って見ていないで、少しは励ましたり謝ったりすれば? 辛気臭い空気でいられると盛り上がっている他のお客さんの迷惑なんだよ?」


「俺はそいつの彼氏じゃない、ただのクラスメイトだ」


「クラスメイトね~なんか忘れていた甘酸っぱい響きだね~ところでさ、ネンネちゃんのカレシは一体何者、随分ウチらのこと詳しいみたいだけど?」


「あんた、俺のことを知らないのか?」


「ごめん、キミが誰なのかは知らないけど、少なくともアタシを指名してくれるお客じゃないことは確かだね」


 来栖はやたらと砕けた態度で絡んでくる女が、自分が彼女たちの天敵にして守護者であるウワバミであることを知らないことに軽い驚きを覚える。


「ね~ネンネちゃん、アンタのカレシのことアタシに教えてよ~」


「来栖くんわたしの彼氏じゃありません…わたしのクラスメイトでウワバミをしている人です」


「うっそぉ、この子があのウワバミなの?! もっとむさくてゴツい感じのおっさんを想像してたのにイメージとぜんぜん違~う」


「あんたこそ一体何なんだ、族長の源司サンだけじゃなくて政所の朱美さん、それに置屋の姐さんも俺のことは知ってるぞ?」


「だってウワバミと関わるのなんておエラいさんだけでしょ~ウチらみたいな下っ端なら普通ウワバミの顔なんて知らないよ~でもま、これも何かの縁よね、アタシここでキャストをしてる緋奈。今度お店に来る時は是非指名してね」


 ふざけているのではなく緋奈と名乗ったキャストの女性は本当に来栖がウワバミであることを知らないようだった。緋奈がウワバミなどの話題に無関心だという可能性も充分に考えられるが、確かに来栖も顔を合わせたことがあるのは何かしらの肩書きを持っているウツセミだけであるという事に思い至る。


 有力者の間に顔が知れ渡っているからといって、ウツセミ全体に自分の顔と名前が知れていると思うのは早計だと来栖は緋奈とのやり取りで思い知らされた。


「…あなた、わたしがここに来た最初に日に茜さんと一緒にいた人ですよね?」


「そーそーよく覚えていてくれたね。しっかしネンネちゃんがウツセミになるとはね~世の中どうなるか分からないもんだ」


 緋奈が名前を名乗ったのを聞いて丹は彼女が紫水小路に迷い込んだ時、茜と一緒に自分を追い回してきたウツセミだと気付く。緋奈は先日の非礼に悪びれない様子で丹に見ているものの気持ちを明るくするような満面の笑みを向けてきた。


 恨もうと思えば恨める相手ではあったが、緋奈の明るい笑顔に毒気を抜かれて丹は過ぎたことは水に流すことにする。


「ネンネちゃんも隅に置けないね~転化したばかりだってのに、もう血をくれるオトコをゲットしたんだから。こりゃ~強力なライバルの出現でウチらもうかうかしてらんないな~」


「ち、違います…来栖くんからは血をもらったことはありますけど、わたしたちそういう関係じゃありません」


「またまた~血を飲んだことがあるってことはもう手に入れたも同然じゃん。えーっとネンネちゃんのカレシ、なんつったっけ? まあいいや、分かりやすいからウワバミくんで」


「分かりやすいも何もあんたたちにとって俺はウワバミだ、それ以外の何物でもない」


「カッコつけちゃって。それでウワバミくんどうだった、ネンネちゃんの愛撫を受けた感想は? ウチらとする快感は人間のオンナの比じゃないだろ?」


「なっ…俺はただそいつに血を飲ませただけだ、それ以上のことは何もしていない!」


 意味深な様子で緋奈が流し目で訊ねてくると、来栖は顔を紅潮させて丹とは緋奈が想像したような行為には及んでいないことを訴える。


「えっ、ただ血をあげただけ? もったいない、ネンネちゃんとヤってれば天国に昇るくらいイけたと思うのに」


「黙れ、さっさと自分の客の所に戻ったらどうだ?」


 卑下びた含み笑いを浮かべてこちらを見てくる緋奈を来栖は仕事に戻らせて、このテーブルから追い払おうとする。来栖の反応を見て愉快そうに声をあげて笑う緋奈の腕の中で丹は顔を真っ赤にしたまま石のように固まっていた。


「戻りたいのはやまやまなんだけどね~テーブルに行ってもお客さんたちが食いついてくれないのよ」


「何故だ?」


「さっき紅子姐さんが通りかかった時にさぁ、お客さんたちがみんな姐さんに目が行っちゃってウチらはお呼びじゃなくなったちゃったのよ」


「どうしてです?」


 来栖にテーブルに戻れない理由を訊かれると、緋奈は意外な答えを告げてきた。贔屓目なしに紅子は美人だと思うが、緋奈や店にいる他のキャストたちも負けず劣らずの美貌であり、むしろ肉感的な肢体を曝け出しているキャストの女性達の方がカジュアルで露出の少ない服装の紅子よりも男たちの注目を引くのではないかと丹は首を傾げる。


「他の女の子たちは化粧をばっちりして背中とか胸元の開いたドレス着てて一見すると派手なのに対して、姐さんはブラウスにロングスカートを着て清楚なお嬢さんって感じじゃない。でも逆にそれが遊び慣れた女に食傷気味なお客たちには新鮮な刺激で、食指がそそられたみたいなのよ」


「なるほどそういうことですか」


「お客はみんな紅子姐さんを自分のテーブルに来させようと躍起になっているせいで今夜はもう誰も指名してくれないから、暇つぶしにアンタたちのトコに来たって訳」


「なんかすみません…あの、ところでお母さんは?」


「堅物そうだけどそれがいい感じの渋みになってるお客と一緒に店の裏に行っちゃった。目当ての姐さんがあの人に独占されちゃって、他のお客さんたちから非難轟々よ。暴れかかっているお客さんたちを宥めるのに忠将さん大変だったんだから」


「本当にごめんなさい、知らないうちにお父さんとお母さんがみなさんに迷惑をかけちゃって……」


 本人たちはおそらく無自覚であったろうが、斎と紅子の出現で店の中に大きな騒動が起こった事を娘の丹が代わりにキャストをしている緋奈に謝罪する。


「え、あれってアンタの親父だったの、ということは姐さんのダンナってことよね?」


「はい、そうですけど……」


「うわ~どーりで間に入りづらい雰囲気だった訳だ、そりゃそーだよね、結婚して子どもまでいるんだから他の客もそう簡単に姐さんに手を出せないわ」


 緋奈は自分がついていたテーブルで垣間見た紅子と斎が並んだ姿に介入しにくかった理由を、彼女たちが夫婦だと知って溜飲が下がった顔で頷く。経緯はどうあれ緋奈が9年半ぶりに再会を果たした両親がちゃんと夫婦に見えたと言ったことを聞いて、丹は嬉しそうに口元を綻ばせた。


「お、よーやく笑ってくれたねネンネちゃん。やっぱ女の子は笑った顔が一番綺麗だ、そう思うだろウワバミくん?」


「ああ、そうだな」


「おや、ネンネちゃんの笑顔が眩しくて照れてるのかい?」


「ち、違う、そんなんじゃ……」


「隠さなくてもいいじゃん、ネンネちゃんのことが好きならはっきり好きと言っちまえ」


 来栖が照れ臭そうな顔で丹の笑顔を時折覗き見ていることに気付いた緋奈は、酒の勢いも任せて色恋沙汰には疎い来栖をからかって楽しむ。


「人をおちょくって楽しみたいんなら好きにしろ、でも霧島とその両親を引き合わせるって役割は果たしたし俺はもう帰るぞ」


「そうはいかないんだよな~あんたが紅子姐さんとそのダンナを連れてきたせいでウチらの商売あがったりじゃん、そのツケは払ってもらわないとな~」


 来栖は緋奈を相手にするのにうんざりした様子で退席しようとするが、緋奈は不敵な笑みを浮かべて間接的に来栖が今夜の売り上げを落ち込ませた責任を追及する。


「知るかそんなこと、ちゃんとあんたたちが手練手管を尽くして男とたらしこんでりゃ問題ないだろ、人のせいにするな」


「仕方ないじゃん、流行り廃りを完全に見通せる訳じゃないんだからさ~それにどうせ学生のウワバミくんがそんなにお金持っているはずないし、ないものを無理に搾り取る気もないよ~」


「そうかい、それじゃあ俺はこれでお暇させてもら…う?!」


「だからさ、せめて早めに終わった仕事の後のお酒のサカナにウワバミくんとネンネちゃんの馴れ初めを聞かせてほしいんだよね~ウチらの天敵で守護者のウワバミくんをどうやってネンネちゃんがお近づきになれたのかみんなも知りたいじゃない?」


「うん、すごく気になる」


 いつの間にか来栖と丹がいたテーブルの周りに、紅子が登場してしまったせいで客をなくしてしまったキャストたちが集結していた。緋奈の問いかけに集まってきたキャストたちは声を揃えて返事をしながら、大勢の美女に囲まれて萎縮している来栖と見知らぬひとたちを前にして緊張している丹を面白そうな目で交互に見比べる。


「おい待て、俺はあんたたちに付き合っている暇なんか……」


「えーいいじゃん、いつもウチらのことを守ってくれているんでしょ~今日はその恩返しをさせてよ~」


「わー思っていたよりもずっと若―い、しかも結構イケメンじゃん」


「今は草食系とかっていうなよなよした男が流行りらしいけど、やっぱこういう硬派でちょっと悪ぶった感じの方が頼りがいあるよね~」


 キャストの女性達は次々に来栖に近寄っては初めて目にするウワバミの実物を興味深そうに眺めていく。セクシーな衣装でメリハリのあるボディラインを強調している美女たちにもみくちゃにされている来栖の姿は傍目には羨ましくも思えたが、実際に多数の女から肉薄されている来栖は異様なプレッシャーを感じていた。女の扱いに慣れていない来栖にとって、囲まれても剣気の撥や斂で一掃できる分、まだナレノハテを相手にする方が気楽かもしれない。


「いいのかいネンネちゃん、このままじゃウワバミくんを他の子に寝取られちまうかもよ?」


「だ、駄目です、そういうのよくないと思います! クーくんも綺麗なひとたちに囲まれているからってあんまりだらしない顔をしてちゃ駄目」


 店の女たちの注目を一身に集めている来栖を指差しながら緋奈が丹をけしかけると、丹は頬を赤く染めながら来栖があまりにも女たちから黄色い声援を集めている状況に異を唱えた。


「クーくん…へぇ、そこの子ウワバミの人とやっぱそういう関係なんだ?」


「そうだよ、可愛い顔してこの子、なかなかやるだろう?」


「緋奈、その子のこと知ってるの?」


「まあね、この子は今日店仕舞を早めてくれた紅子姐さんの娘よ。ネンネちゃん、アンタもみんなに自己紹介する」


「…霧島丹です、よろしくお願いします」


思わず大きな声を出して周りの注目を集めてしまったことを後悔しながら、丹は緋奈に促されて渋々キャストの女性達に自己紹介をする。


「あんたいくつ、お酒を飲める歳じゃないよね?」


「今年で16です……」


「16?! ウツセミに転化させるのは早くても18くらいでしょ、誰よこんな若い子を転化させたロリコンは?」


 店のキャストたちと比べても若いというよりもむしろ幼い外見をしている丹の年齢を聞いて辺りは騒然とする。確かに朱美を除けばウツセミは男女ともに20代から30代に見える風貌である事に丹は気付いた。


「あの、わたしをウツセミにしたのはお母さんらしいんですけど……」


「嘘ぉ、だって紅子さんってまだ自分もウツセミになって10年くらいでしょう?!」


「でも本当らしいわよ、茜姐さんもその場に居合わせたっていうから間違いないわ」


「へぇ、真面目そうな顔してるけどあのひとも富士見のお嬢様と同じ趣味だった訳?」


「案外真面目そうなひとほど変わった趣味をしているのよ?」


「あの緋奈さん、みなさん何の話をされているんですか?」


「みんな勘違いしないで、紅子姐さんには富士見のお嬢様みたいなレズとか年下狙いの趣味はないから。この子は紅子姐さんが人間だった時にお腹を痛めて産んだ実の娘よ」


 キャストの女たちの話の内容がいまいち理解できない丹が緋奈に質問をすると、緋奈は丹が人間としてもウツセミとしても紅子の娘である事を同僚たちに知らせた。


「へぇ、親子揃ってウツセミになるなんて珍しいよね~」


「そうでしょ、想像よりもずっと若いイケメンだったウワバミくんも変わった経歴のネンネちゃんも話のタネにはもってこいじゃない?」


 今晩どころかしばらくこの話題で楽しめそうだと、この状況を心から面白がっている緋奈の言葉にキャストたちは首を縦に振って同意を示す。来栖と丹は『林檎の樹』の女たちの体のいい玩具にされてしまったことに、顔合わせて溜息を吐いた。


* * *


 狂乱の一夜が明けて来栖は偏頭痛を感じながら目を覚ます。飲み慣れない酒を緋奈たちに勧められ最初はいいピッチで飲んで気を大きくしてしまい、調子に乗って飲み過ぎたせいで来栖は人生で初めての二日酔いになっていた。


「あばずれどもの手玉に乗せられちまった、情けねぇぞ……?!」


 来栖は鈍い痛みを訴えてくる頭を抱えながら酔い潰れて眠っていた長椅子から上体を起こそうとすると、自分の左側に柔らかな感触と温もりのする何かが横たわっていることに気付く。


「うわっ…なんでこいつが俺の隣で寝ているんだ?!」


「覚えていないのかい? へべれけに酔っ払っている託人の隣で丹ちゃんはずっと君の体のことを気にかけていたじゃないか。もっとも緋奈に絡まれて無理矢理梅酒を飲まされたせいで、君よりも先に丹ちゃんが酔い潰れちゃったけど」


 自分と同じ毛布に包まって丹が自分の肩に凭れかかってすやすやと安らかな寝息を立てているのに仰天した来栖の耳に、慌てふためく来栖の姿に堪えきれずに失笑している源司の声が聞こえてきた。


「源司サン…傍観してないで未成年に酒を飲ませている女たちを止めてくださいよ」


「まあそう邪険にするな、君にいい話があるんだ」


 決まりの悪そうな顔を向けてくる来栖を宥めるように源司は男でも見惚れてしまうような微笑を向ける。


「なんすか、また仕事の依頼っすか?」


「いや、今のところは仕事に関係しない話だよ」


「今のところはってところがちょっと引っかかりますね、それで一体話ってなんすか?」


「託人、実は丹ちゃんが元通り、外の世界で生活できる方法があるんだ」


「本当ですか?!」


 来栖は腰から下を覆っていた毛布を跳ね除けてテーブルから身を乗り出して源司の発言の真偽を訊ねる。


「冗談でこんなことは言わないよ、但しそれには色々と抵触する問題があるけどね」


「問題って何があるんすか?」


「一つは丹ちゃんがウツセミだということだ、君の遠い先祖と俺たちの祖先が結んだ締約でウツセミは紫水小路の中で生活しなければなれないと定められている。つまり外の世界で暮らそうとする時点で、丹ちゃんは締約を破ることになる」


「…他には何には何が問題になるんですか?」


 来栖はウツセミが紫水小路の中で生活しているかどうかを監視する役割であるくせに、それを失念していた自分の迂闊さを恥じながら源司への質問を続ける。夏休みが始まるまで丹と毎日学校で顔を合わせていたため、彼女が現世にいることが至極当たり前のように思っていたが丹はもうウツセミになってしまっている。例え現世の学校に籍を置いているとしても、締約の例外扱いをする訳にはいかない。


「次に問題になるのはこの方法がウツセミの間でどんな意味をもっているかということだ。託人、規律を破ったウツセミを罰する規定の中で烙印の刑罰がどんなものか知ってるかい?」


 ウツセミの内部規定はウワバミの来栖も詳しいことは知らず、源司の言う烙印の刑罰がどのようなものなのか来栖は知らなかったので素直に首を横に振った。


「烙印の刑罰はウツセミに科される罰の中でも重いものの一つだ、その内容はオレたちが魔剣と呼ぶこの銀で出来た短剣で罪人の背中に十字架の傷をつけること。人間よりも遥かに治癒力が高いオレたちにも癒せない傷はいくつか存在しているのは君も知ってるね、そして銀で斬りつけられた傷はその回復できない傷の一つだ」


 源司はジャケットの懐から丹を転化させる際に用いた銀の刃を取り出して、左の掌の上に剣の平を添える。天井の明かりを反射して、源司の手の内にある銀の刃は禍々しい輝きを放った。


「その烙印の刑罰が、霧島が元の生活を送れるようになるのと何の関係があるんすか?」


「烙印の刑罰が恐ろしいのは回復できない傷を負わせることじゃない、傷口からオレたちの活力の源となる妖気が常に漏れ続けることだ。妖気を体に蓄えられなければウツセミの力は減退してしまうし、妖気が減った分だけの精気を補わなければ存在を保てくなって消滅してしまう。つまり烙印を刻まれたものは真綿で首をしめられているように、緩やかなしかし確実な死に向かって歩み続けることになる」


「その罰がどれだけ重いかってことは分かりました、でもそれじゃさっき俺が聞いた質問の答えになってないっすよ」


 来栖は源司が自分の質問に答えようとしないことへの苛立ちを抑えきれず、源司を納得の行く答えを述べるように急かす。


「妖気が減って力が失われればウツセミに転化して向上した身体能力や感覚機能も自然と元の人間だった時と同等以下にまで低下する。しかしウツセミの過剰なまでに鋭敏化された感覚機能が人間のレベルまで下がることで、本来ならばウツセミには強すぎる昼間の日差しにも耐えられるようになる、いや人間と同等の反応しかしなくなってしまうんだ」


「つまりそれって……」


「罪人であるという烙印を刻まれることと引き換えに、丹ちゃんはウツセミでありながら人間と同じように昼間の生活を送ることができるってことさ。ただし彼女の背中には一生消えない傷が残り、そこからは妖気が常に流出して取り込んだ養分を蓄えることもできず想像を絶するような苦しみがあるだろうね。おまけに弱体化したとしてもウツセミであることには変わらないからしっかりと精気への欲求も覚える。烙印を刻まれたウツセミの大半はその飢えと苦しみに耐えられず、そう経たないうちに消滅してしまうかナレノハテになって紫水小路を追放されてしまうよ」


 丹が烙印をその背に刻めば彼女は元通り学校に通える体になれるが、その一方でウツセミとしての業からは逃れられずむしろ今以上に血や精気への渇望が増すことになることを源司は告げる。


 来栖はそんな苦しみを負わせてまで丹に元の生活を取り戻させることが、果たして彼女のためになるのだろうかと葛藤を抱くようになった。


「烙印の刑を執行する族長のオレとしては若い同胞にそんな厳罰を加えたくはない。ウツセミとして平穏な生き方を望むのなら、彼女にはまだ300年近くの余命が残されているんだ。仮に現世に戻ったところで、10年も経てば彼女の姿がまるで昔と変わっていないことに知人たちも疑問を抱くようになるだろう。そして20年も経ってそろそろ中年になろうとしているのに娘の姿をしていれば、ほとんどの者が丹ちゃんのことを薄気味悪く思うだろうね。長い人生の中のほんの一時期のために、心身ともに深く傷つくことになるのを族長としてオレは認めることはできないね」


 来栖の葛藤を見抜いたように源司は仮に烙印を刻まれて丹が現世に戻ったとしても、その末期は悲劇的なものになる可能性が高いことを指摘する。やはり丹のことを思えば、烙印の話を伝えずに大人しく紫水小路の中で生活させるべきと来栖は思うようになった。


「もうじき丹ちゃんも目を覚ますだろう、その時この話を伝えるかどうかは外の世界でウツセミとナレノハテを取り締まる君が決めるんだ託人。オレはウツセミの族長として、罪のない同胞にそんな残酷な仕打ちをするつもりはない」


「…それならなんで俺にこんなことを教えるんすか」


 来栖は俯いたまま、震える声で源司が丹のクラスメイトである自分に過酷な仕打ちを迫ってきたのかを訊ねた。


「それが君の宿命だからだ、オレたちウツセミの天敵であり守護者であるウワバミとしてのね」


 源司はウツセミの族長である自分でさえ畏怖すべき立場にある来栖だからこそ、重い決断を下す必要があるのだと答えた。来栖が源司に返す言葉を思い浮かべられないでいると、源司は来栖と丹の眠っていた長椅子の向かいの椅子から立ち上がって席を離れていった。


「…俺だってそんなことこいつには教えられないっすよ」


 来栖は自分の隣で眠る丹の穏やかな寝顔を一瞥すると、彼女の寝顔に愛おしさを覚えてまずます烙印を刻んで現世に戻ることを勧める気が失せてしまった。


 心地良さそうに毛布にくるまって長椅子に寝そべっている丹の暢気な寝顔を来栖が何気なし眺めていると、丹が身じろぎをして瞼をうっすらと開ける。


「クーくん…ここどこ?」


「だからその呼び方は止めろ、この店で働いている女たちに絡まれて酒を飲まされたことを覚えていないのか?」


「ああ、そう言えば緋奈さんにおいしいジュースだから飲んでみろって渡されたものを飲んだら急に眠くなってそれで……」


「何がおいしいジュースだよ、あれは梅酒だ。全くあの緋奈って女、未成年に酒飲ませていいと思ってんのかよ?」


 丹がおぼろげになっていた酔い潰れる前の記憶を思い出していくと、来栖は渋面を浮かべて最初に自分たちに絡んできた若いウツセミの女性の思慮を欠いた行いを愚痴る。


「そう言えばお父さんとお母さんは、怪我の手当てに行ってから戻ってきた?」


「いや、俺が覚えている限り戻ってきてないよ」


「やっぱり10年近く経ってやっと再会できたから、色々2人きりで話したいこともあるんだろうね」


「そうだろうな、しかも紅子さんが吸血鬼になっているとすれば尚更だろう」


「おい、俺の妻のことを他人のお前が馴れ馴れしく名前で呼ぶんじゃない」


 同席していた丹の両親が彼女の父親が掌を怪我した手当てに席を離れたきり戻ってこなかったことについて、丹と来栖は夫婦で内密に話したいことも多いだろうと慮る。来栖が丹の母親の名前を口にすると、通路から若干恫喝するような低い声音で注意してくる声が聞こえてきた。


「お父さん、それにお母さんも」


「丹、もしかしてあの後もずっと私たちのことを待っていてくれたの?」


「うん、でも途中で眠っちゃって今起きたところ」


 丹は自分たちのテーブルの脇に夫婦で並んでいる紅子といつきの方を見ながら、居眠りをしてしまったことを許してくれるように愛想笑いを浮かべる。


「私たちも話し込んでいるうちにちょっと眠っちゃってね、さっき起きたばかりなのよ」


「その様子だと昨夜は一緒のベッドで過ごしたことで、離れていた10年分の蟠りもなくなったようだね?」


 自分たちも丹が眠ってしまったことをとやかく言えた立場ではないと照れ笑いを返してくると、その脇から鼻にかかった声で話に加わってくる人物が現れる。


「源司サン、あんたもあっちこっち行ったり来たりして落ち着きのないひとっすね」


「忙しい立場だと理解してもらいたいね」


 自分に重い話を話すだけ話したら席を外していった源司がひょっこり顔を現してくると来栖は彼の態度を落ち着きがないと非難するが、源司は族長という多忙な立場によるものだと弁解してきた。


「代永源司」


「なんだい霧島斎?」


「9年前の春、貴様が俺たち家族から紅子を奪ったことを俺は一生許さない」


 斎は性懲りもなく姿を見せた源司に鋭い視線を向けながら、紅子と再会できた今も彼が彼女を攫っていった罪を看過する気はない旨をどすの利いた声で告げた。


「許しを請うつもりはないさ、そして君の妻をウツセミに転化させた自分の判断も間違っているとは思っていない」


「紅子を連れ去った上、ウツセミにした貴様への恨みは消えることはないだろう。だが、理由はどうあれあんたが瀕死の状態だった紅子をウツセミに転化させたおかげで、こうして俺たちが再会できたことには礼を言わせてもらう」


 斎は険しい表情を崩さずに源司を正面から見据えていたが、結果的に源司が自分の妻をウツセミに転化させて生き永らえさせたことで再会する機会に恵まれたことには感謝していることを述べる。


「そりゃどうも。ところで霧島斎、君は再会できたものの吸血鬼になってしまった妻とどう接していくつもりだ、神の教えに背く呪われた身に堕ちた愛するものをその手にかけるかい、それとも生き血を啜る化け物であっても構わずに付き合っていくのかい?」


 源司は妻を攫った自分に対しても誠意を持てる斎の寛大さを好ましく思うように口の端を吊り上げながら、再会を果たした妻と今後どう関わるのかを訊ねる。斎が吸血鬼になってしまった紅子を殺害する可能性を示唆して、丹は青褪めた顔で源司と斎そして紅子のことを見遣った。


「結婚式で俺は一生紅子と添い遂げることを誓ったんだ、紅子が人間だろうとウツセミだろうと今もその気持ちに変わりはない」


 斎は源司の問いに対して惚れた女がどんな体になろうとも、生涯を通して愛し続けると即答する。斎は紅子の背中に腕を回すと彼女を自分の脇へ抱き寄せた。紅子は娘や他人の前でいきなり抱擁されることに少々恥じらいを覚えつつ、自分の夫に寄り添っていった。


「それはよかった。もし君が紅子を手にかけるつもりだったら、俺は自分の同胞である紅子を守るために彼女の愛する君を倒さなければならないところだったよ」


 源司は紅子を巡って斎と戦わずに済んだと冗談めかしながら、ブランクがあっても変わらぬ愛情を育んでいる霧島夫妻を祝福するような顔を向ける。


「仮にそうなったとしても俺もすぐに後を追うつもりだったさ」


「それは無責任じゃない斎、あなたまでいなくなったら丹と葵はどうなるの?」


「もしもの話さ、真に受けないでくれ紅子」


 紅子が細い腰に手を当てて斎の失言に苦言を呈すると、斎は弱った調子で損ねてしまった紅子の機嫌を取り繕おうとした。ウツセミの族長に対してさえ強硬な態度で接した自分の父親も、母親には頭が上がらない姿を見て丹は笑いを噴き出してしまう。


「ご両親は一連の話にある程度の結論をつけられたみたいだけど、君はこれからどうするのかな丹ちゃん?」


「わたしは……」


「このまま紅子と一緒に紫水小路で暮らすのか、それとも君のお父さんと一緒にこれまで暮らしてきた家に帰るのか、君はどちらを選びたい?」


「源司サン、そんなに急かして答えを出させなくてもいいじゃないっすか。まだ霧島は転化して間もないんですし、もう少し考える時間をやりましょうよ?」


 両親は今後の関係にある程度の方向性を見出せたらしい丹に源司が彼女の今後の身の振り方を訊ねると、即座に自分の意志を述べられない丹に代わって来栖が彼女に熟考する猶予を与えるべきだと反論する。


「俺はお前に無理をさせてまで家にいさせるつもりはない。ウツセミには外の世界よりもここの方がずっと暮らしやすいんだし、お前がいれば紅子も喜ぶだろうからこのままここに残っていいんだぞ?」


「そうよ丹、私たちの肌には外の世界、特に太陽が空に輝いている昼間は刺激が強すぎるわ。斎や葵と別れるのは辛いでしょうけど、私もあなたにはここに残ってもらいたい」


 妻子が吸血鬼であることに理解を示すようになった斎と自らも丹と同じ作りの体をしている紅子が口々に紫水小路に留まるように訴える。


「お父さん仕事で忙しいんだから、わたしがいなかったら家のことできないんじゃない?」


「今までお前は充分家の仕事をしてくれた、いい加減俺と葵はお前に頼るのを止めなければならない。お前がここで暮らすようになるのはいいきっかけになるだろう」


「葵にはなんて説明するの、わたしが吸血鬼になって同じように吸血鬼になったお母さんと一緒に暮らすなんて話あの子が信じると思う?」


「それは…あいつには適当に説明するさ。お前はこれから自分のことだけを考えていけばいいんだ、俺や葵に余計な気を使う必要はない」


「そんな風にみんなと別れるのはイヤだよ…お母さんが急にいなくなった時、自分がすごく悲しい気持ちになったからよく分かる、きっと何も言わないで葵や学校の友だちの前からいなくなったらみんなすごく嫌な気持ちがすると思うの」


 丹は両親がウツセミたちの安住の地である紫水小路に留まるように勧めてくるのに対して、母親が別れを言うこともできずに連れ去れた時、自分がとても寂しい思いをしたように周りの人間たちも嫌な思いをするだろうと抗議してくる。自身も紅子がいなくなった時に丹と同じような喪失感や憤りを抱いた斎は丹の訴えを聞いて口を噤んでしまった。


「でもウツセミになったあなたが昼間の陽の光に曝されたら無事じゃ済まないわよ。丹、残念だけどあなたと斎や葵、それに学校のお友達は住む世界が違ってしまったの。お互いが安心して顔を合わせられるのは、黄昏の空が永遠に続く紫水小路の中だけ」


「わたしがお母さんを見つけた時、お母さんは外の世界を出歩いていたじゃない。それはどうして?」


「あれは政所の仕事で必要なものを買出しに行ってただし、現世に行くために朱印符を借りるのにも現世から紫水小路に戻ってくるまでも厳しいチェックをされているんだから、好き勝手に出入りしている訳じゃないの」


 紅子は娘の身を案じて現世へ戻ることを思い留まらせようとするが、丹は失踪して以降で初めて紅子を見かけたのは現世の繁華街だったことを出して反論を試みる。しかし紅子は現世を歩いていたのは私用ではなく彼女が所属している機関の公務としてであり、その外出に際しても厳重な管理されていることを論理的に述べて切り替えした。


「けど、だからって突然みんなの前から姿を消すなんて……」


「霧島、気持ちは分かるけどな、ウワバミの立場から言わせてもらえばナレノハテを始末するだけでも手一杯なのにウツセミまで現世をうろつかれたら収拾がつけられなくなっちまうよ。頼むから掟に従って紫水小路の中で暮らしてくれ」


 再三説得を受けても不服そうな顔をしている丹に、来栖は第三者的な立場から現世を出歩くことを諦めるように頼み込んだ。本能の赴くまま生き血を求めて人間を襲うナレノハテを駆除し、場合によっては紫水小路から逃亡を図ったウツセミを始末することもある来栖の負担を考えるのならば丹は大人しく引き下がるしかないだろう。


「…そうだね、わたしの我儘で来栖くんに迷惑をかけたら悪いよね」


「おや、先代のウツセミに比べると随分君は器量が小さいな託人。ウツセミの1人や2人、現世を徘徊していても余裕で監視できるくらいのことは言えないのかい?」


 両親だけでなく来栖の言い分も聞いて、丹が現世に戻る意志を断念しかけた時、それまで口を閉ざしていた源司が横槍を入れてくる。ようやく丹が紫水小路に残ることを受け容れようとした矢先、話を蒸し返すようなことを言う源司に来栖と斎、紅子の責めるような視線が集中した。


「族長のあんたが掟を破ることを勧めるようなこと言ってどうするんすか、源司サン?」


「そうだ、丹のことを大切に思っているのならどうして危ない橋を渡らせるようなことを言える?」


「丹の心配だけじゃありません、族長のあなたが一番ウワバミの仕事がどれだけ大変かということが分かっているでしょう?」


「ああ、ウワバミの仕事はよく知っているつもりだよ。だからこそ託人が現状の仕事量で手一杯と妥協していることが不満なのさ。少なくとも彼の祖父の最盛期なら、現世で暮らすウツセミの1人くらい充分にフォローしてやれただろうね」


 源司は遠回しに来栖が彼の祖父である先代のウツセミと比較して能力的に劣っていると中傷する。来栖は誇りをもって家業に精進しているにも関わらず、その働きが不十分であると源司になじられて不満を募らせた。


「先代には先代のやり方が、俺には俺のやり方があります。ウワバミじゃない源司さんに責務の果たし方について注文を言われる筋合いはないんじゃないんすか?」


「それは言い逃れじゃないのかな? 一応オレが君の一番贔屓にしなければならない顧客だろう、だったら注文をつける権利くらいはある」


「烙印を刻むつもりがないとか言いながら今は霧島を現世に返そうとしている、結局源司サンはこいつをどうしたいんすか?」


「ラクインって何、来栖くん?」


 詭弁を弄する源司の食えない態度に苛立った来栖はついそれまで伏せていた話題に触れてしまう。しかも運の悪いことに丹が来栖が口に出すまいと心に誓っていた烙印という言葉について関心を持ってしまった。


「何でもねぇよ。今俺は源司サンと喋ってんだ、関係のないあんたは黙っててくれ!」


「丹ちゃんも関係なくはないだろう、何せ烙印をその背に刻めば彼女は現世での暮らしを取り戻せるんだからね」


 来栖は敢えて丹を脅すような口調で接し彼女を黙らせようとするが、源司はその発言すらも利用して来栖が意図的に遠ざけていた烙印の存在を丹に仄めかす。


「そのラクインってものを背中につければわたしは元の生活を送れるんですか?」


「よせっ、傷口から絶えず妖気が流れ出すせいで妖気の枯渇と血の渇きに延々と苦しめられるようなモンを自分からつけようなんて思うんじゃない!」


「来栖くん、ラクインってものがどんなものなのかよく知っているみたいだね?」


「いや、それは……」


「そうさ、ウワバミの託人は君よりも恐らく紅子よりもウツセミの事情に精通している。その彼に烙印のことを詳しく教えてもらうといいさ」


 丹に烙印の説明を求められると来栖は決まりの悪そうな顔で返答に詰まる。すると源司が先祖代々ウツセミに深く関与している来栖に烙印の説明の役目を押し付けてその場を立ち去ろうとする。


「ちょっと源司サン、言いだしっぺはあんただろ?!」


「お願い来栖くん、ラクインってもののことをちゃんと教えて」


「頼む、できることなら俺だって可愛い娘と離れたくないんだ」


 厄介な役割を押し付けて遁走しようとする源司を来栖は引き留めようとするが、丹と斎がそれを遮るように来栖に烙印の説明を求めて迫ってきた。その隙に源司はまんまと彼らの傍から逃げ出し、瞬く間に姿を晦ませてしまう。


「そうだ紅子さん、ウツセミになって結構経つあなたなら烙印がどんなものか分かっているだろ?」


「ごめんなさい。烙印という言葉を聞いたような気がするけれど、罪を犯したウツセミに科せられる罰という以上に詳しいことは知らないの」


 来栖は10年近くウツセミとして暮らしている紅子に助けを求めるが、紅子は申し訳なさそうな顔をして首を横に振るだけだった。


「クーくん、辛いことでも家に帰れるのならわたしは我慢できる。だからそれをどうやるのか教えて」


「やめとけ。強がりはいくらでも言えるだろうが、実際にその苦しみを味わうことになったらきっとあんたは耐えられない。そして娘が苦しみ悶える姿をあんたの親だって見たくないはずだ、そうだろう斎さんに紅子さん?」


 丹は痛みを伴うとしても住み慣れた世界で親しい人間とまた一緒に暮らせるのなら、それに耐えてみせると意気込みを語る。だが来栖は頭ごなしに丹が妖気の噴出と精気の飢えの二重苦に耐えられるはずがないと否定して、娘が苦しむ姿を見るのは本意ではないだろうと彼女の両親に問いかけた。


 烙印が具体的にどんなものかは分からなかったが、現世で暮らせるようになる代わりに相当の反動があることを察した斎と紅子は困惑した顔で互いに顔を見合わせる。


「そんなのやってみなければ分からないよ!」


「精気が欠乏した状態で現世をふらついていたあんたを拾った時にいったはずだぜ、俺は例えナレノハテになっていてもクラスメイトだったあんたを討ちたくないって。霧島、頼むから烙印を背中に刻もうなんて馬鹿なことを考えるのだけはやめてくれ、俺からあんたへのたった一つのお願いだ」


 体に巻きついたままの毛布を跳ね飛ばして丹は身を乗り出して来栖に抗議するが、来栖は本当に丹を自分の手で殺めるのだけは避けたいと必死に言い聞かせるような目つきで彼女に懇願する。


 来栖の心中を吐露されて丹は意外そうな顔を浮かべる。来栖と丹はそのまま互いの顔を見つめ合っていたが、やがて来栖は丹から目を逸らすと腰掛けていた長椅子から立ち上がる。


「来栖くん……?」


「烙印がどんなにやばいものかってことはよく分かっただろ? だからもう二度と口には出すな、絶対だぞ」


 烙印については今後一切自分もそして丹も触れることがないように念を押すと、来栖は丹や彼女の両親に背を向けて出口へ向かって歩いていく。まだ昨日の酒が抜け切らず少々足元がふらついていたが、来栖は一度も振り返らずに出口へ辿り着くとそのまま店の外へと出て行った。


「あの来栖って奴の家は代々ウツセミの監視者みたいなことをしているらしいな。そいつがあれだけ何度もやめるように言ってくるんだからラクインというものは相当危ないものなんだろう。丹、奴のいうように下手な気は起こさない方が身のためだろうな」


「そうよ、ウワバミとしての義務感だけじゃなくてクラスメイトだったことからもあの子は丹のことを心配してくれたんだと思うわ」


 斎も紅子も数百年にわたりウツセミと関係を続けている家の人間である来栖の肩を持って、丹に烙印を刻むことを思い留まるよう言い聞かせる。丹は俯いたまま無言で両親の言葉に同意も否定も示さずに、悔しげに酒場の床に視線を落としていた。



第10回 了









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