第9回、夢で逢えたら
夜型のライフスタイルが主流になりつつあっても、さすがに真夜中近くになれば消灯している家も少なくはない。多少街の灯りが減って暗さの増した通りを、残業を終えて疲れ果てた体で霧島斎は家に向かって歩いてゆく。
例え待つ者のいなくてもやはり彼にとって一番心安らげる場所は自宅であり、斎はせめてもの慰みにと駅前のコンビニで購入した缶ビールを片手に自宅まで続く生活道路の角を曲がる。しばらくその生活道路を歩いていると、斎は自宅の門の前に人影が佇んでいることに気付いた。
「こんな遅くに誰だ?」
「ご無沙汰しています、霧島さん」
夜更けに家の前で待ち構えている者がまともな用件で訪ねてくるはずがないと斎は相手への警戒心を強めつつ、どすの利いた声で相手を威嚇しながら素性を問う。すると門の前に立っていた人物は、若い男の声で挨拶を返し斎に軽く会釈した。
「貴様、よく恥ずかしげもなくまた俺の前に出てきたな?」
「どうしても伝えなければいけないことがあるんですから恥は承知の上ですよ」
「生憎と俺は貴様などと口を利くつもりはない、帰れ」
斎は夜中に自宅を訪ねてきた来栖という男子生徒を邪険にあしらって彼を脇に押し退けると、門を潜って家の中に籠もろうとする。先日長女の通っている高校で面会したこの来栖という生徒は、素行が悪く度々警察の厄介になっているような問題児、包み隠さずに言えば不良である。おまけに嫌がる斎の娘を無理矢理連れ回した挙句、不良同士の抗争に巻き込んで怪我を負わせたという顔を見るだけでも腸が煮えくり返るほど不快な存在であった。
「待ってください霧島さん!」
「いい加減にしろ、これ以上付きまとうのなら警察を呼ぶぞ!」
玄関の鍵を開けて家に入ろうとする斎の肩を掴み、来栖は自分の話を聞いてほしいとせがんでくる。来栖は真摯な表情を浮かべていたが、過去のしがらみから斎は来栖の話に聞く耳を貸すつもりはなく、来栖の腕を振り払って扉を閉ざそうとする。
「頼む俺の話を聞いてくれ、あんたの娘と奥さんの居場所を知っているんだ!」
「なに?!」
体格では縦も横も来栖の方が斎より一回り大きかったが、斎は強引に自分の肩から来栖の腕を引き剥がすことに成功する。斎は即座に戸を引いて玄関の鍵をかけようとするが、来栖の思いがけない一言を聞いてその手を止める。
「やっと話を聞いてくれる気になりましたか」
「警察が捜しても見つからなかった2人の行方をどうして貴様が知っている?」
来栖はようやく斎が対話に応じてくれるようになると一息つくが、斎は警察に依頼しても分からなかった娘たちの足取りをしがない高校生のはずの来栖が突き止められたのかと訝しげな顔で聞き返す。
「オマワリがいくら捜しても無駄っすよ、何せあんたの娘と奥さんはここじゃない世界にいるんですから」
「ここじゃない世界、まさか……?!」
「ご心配なく、2人ともちゃんと生きて…うん、まあ概ね無事とは言えるかな。とにかく自分の足で立って普通に話せるような状態で過ごしているよ」
来栖の発言を聞いて斎は最悪の事態を想定するが、来栖は婉曲な言い回しをしながらもとりあえず斎の娘も妻も死亡していないことを伝える。
「どこだ、丹と紅子はどこにいるんだ?!」
「紫水小路ってトコっすよ」
斎は玄関から身を乗り出して来栖に掴みかかりながら妻子の居場所を聞きだそうとすると、生まれも育ちも御門市の斎でも聞き覚えのない通りの名前を来栖は述べた。
「それはどこだ、御門市にそんな通りがあるのか?」
「誰でも行ける訳ではないけれど数百年前から確かに存在してますよ、そしてあんたの奥さんと子どもは今その通りにいる」
「すぐに警察に連絡を……」
「それは止めてほしいんすけど、できれば話は内密に進めたいんで」
来栖の謎かけのような言葉がいまいち腑に落ちなかったものの、斎は警察と連携をして妻子の救出を試みようとする。しかし来栖は斎の肩を掴んで彼をその場に押し留めつつ、部外者には知られたくないことを訴えた。
「ふざけるな、家族の安全がかかってるんだぞ?」
「紫水小路での奥さんと娘の安全は充分に保障されてますよ、むしろ雁首揃えてあそこに余所者が入り込む方が危険です」
「そこにいるのがヤクザだか暴走族だか知らないが、警官だって厳しい訓練を受けているんだ。むしろ俺の家族に手を出したならず者どもを一網打尽に……」
「ヤクザでも暴走族でも人間が相手ならオマワリもやりようがあるでしょうね、でもあそこにいるのは人間じゃない」
「馬鹿言うな、人間でないのならシスイ小路には何がいるんだ?」
来栖の訴えを却下して斎は警官隊が突入すれば事態に収拾はつけられることを疑っていなかったが、来栖は人智の及ばない存在を前にしてはよく訓練をされた警官でも無力であることを主張する。来栖は真顔で紫水小路を支配する存在が人間ではないと述べるが、斎は彼の発言を鼻で笑って何がそこにいるのかと説明を求める。
「吸血鬼ですよ」
「吸血鬼だと? こっちは仕事で疲れているのに時間を割いて話を聞いてやれば、いなくなった娘と妻が吸血鬼に囚われていると言い出すか。人を馬鹿にするのは大概にしろ!」
「こっちだって洒落や酔狂でそんなこと言うつもりはないっすよ、あんたたち家族の幸せを考えて特別にその話を打ち明けているんすから」
妻子の居場所として架空の場所をでっちあげたばかりか、そこには実在しないものが存在しているというほら話を聞かされて斎は呆れかえる。しかし妻子の行方の手懸かりを掴める期待をさせておきながら、結局ありもしない大嘘を吐かれたことに憤りを覚えて周囲の迷惑を考えずに斎は来栖を怒鳴りつけた。
だが来栖も作り話にしか聞こえない自分の話が事実であると譲らずに、斎の剣幕に正面で応じる。来栖が自分を騙そうとしているにしては正直過ぎる目を自分に向けてくるのを見て、斎は一瞬彼の発言が真実なのではないのかと思うが、そんなことがあるはずがないと自分に言い聞かせて来栖を睨み返した。
しばらく両者とも一歩も引かずに睨み合っていたが、門の外でクラクションが鳴らされると来栖と斎は一度相手から目を離してそちらを見る。斎の家の前に一台のタクシーが停車していて、ハザードランプが夜の闇の中に瞬いていた。
「あなたを紫水小路に案内するために呼んでおいたタクシーが来ましたけど、どうします? この話を娘にまとわりつく悪い虫の戯言と聞き流して娘と奥さんに再会できる機会を棒に振るか、それとも害虫の話を信じてみるか好きに決めてください」
来栖はもう一度斎の顔を見据えて、自分の話を信じるのも否定するもの彼の自由だと言い残すと一礼して門の前に停まったタクシーに乗り込んでいった。
来栖という札付きのワルの言うことなど信じるに足りなかったし、そもそも彼の発言の内容の信憑性は皆無であることから斎は来栖がタクシーの後部座席に乗った後も玄関の前から動こうとしなかった。
斎がこちらに来る気配がないと見て、タクシーはハザードランプを消して彼の家の前から発車しようとする。低いエンジン音を夜の住宅街に響かせて来栖を乗せたタクシーが走り出そうとすると、タクシーに駆け寄ってきた斎が車のドアを叩いて運転手にブレーキをかけさせた。
「貴様の話を信じたつもりはないが、手の込んだ茶番の行く末は見届けてやる」
「そりゃどうも、じゃ一緒に地獄まで付き合ってもらいますかね」
斎が同行する意志を申し出てくると、来栖は運転手に後部座席のドアを開けるように促す。斎が来栖の隣の席に滑り込んでくるとドアは自動的に閉鎖され、2人の男を乗せたタクシーは夜の街へと走り出した。
霧島家からタクシーに揺られること20分余り、御門市の旧市街地の南端の東西に伸びる幹線道路が市内でも有数の規模を誇る病院の手前で北に進路を変えていくのに沿って走り続けた斎たちは、日付が変わる時刻を迎えようとしている今もネオンの光が爛々と輝く繁華街の手前で降ろされた。
「ここのネオン街には細い路地が張り巡らされて堅気の人間には通じない呼び名があるかもしれないが、誰でも入れる訳ではないというのは誇張し過ぎだろう?」
「ここはまだこれから行く地獄の入り口っすよ、そして人間がその地獄に行くにはその中で暮らすもんの道案内が必要なんです」
蜘蛛の巣のように複雑に路地が延びるネオン街には一般人が知らないような呼び名が使われている地域も存在し、来栖の言う紫水小路とやらもそんな場所なのだろうと斎は見当をつける。しかし来栖は冗談を言うような口調こそしているものの、油断のない顔で周囲に目を配って何かを探していた。
「こっちだよ託人」
来栖が周囲を見回しているうちに脇から朗らかだが軽い感じの声が彼に浴びせられる。来栖と斎が声のした方を振り向くと、上等そうなスーツを着崩し動きのあるヘアスタイルに髪をセットしたホスト風の男が軽く右腕を掲げて手を振ってきた。
「源司サン、こちらが例の……」
「なるほど、紅子が惚れ込むだけあって気骨のありそうな男だね」
ホスト風の男と面識のあるらしい来栖が斎を彼に紹介しようとすると、源司というホストのような華美な装いの男は、その端正な顔に同性である斎も一瞬魅入ってしまうような微笑を浮かべて斎の姿を検分した。
「おい、あんた紅子のことを知っているのか?」
「ああ知っているよ。そうそう、確かに紅子はいい女だけどオレたちは君が心配するような仲じゃないから安心してくれ」
「お前は一体何者だ?」
「代永源司、君たちをこれから案内する紫水小路の有力者の1人ってトコかな」
目の前の作り物めいて美しい顔立ちをした男に愛妻は篭絡しまったのではないかと斎は勘繰るが、源司は首を横に振って身の潔白を主張する。しかし源司という男の胡散臭さを払拭できない斎は改めて彼の素性を訊ねると、源司は特に自分の立場を鼻にかける訳でなく平然と自分の肩書きを答えた。
「その紫水小路とは何なんだ、ヤクザかの縄張りか何かか?」
「あれ、託人から説明をされなかったのかな? 紫水小路とはウツセミを自称する吸血鬼が支配し、この世とは別の次元に存在する街のことだよ」
「あんたもそっちの小僧と同じ冗談を抜かすか…まあいい、さっさとそこに連れて行け」
源司も来栖と同じく紫水小路について人を馬鹿にしているような説明をしてくるのを聞き斎は溜息をつくが、真面目に取り合うのも馬鹿らしく思えて自分を紫水小路に案内するよう源司を促す。
「了解。それじゃあ2人とも、オレの後をはぐれないようについてきてくれ」
源司は愛想よく斎の申し出を承諾すると、2人の前に立って真夜中の繁華街を歩き始めた。地下鉄の終電もなくなり、バスの運行も終了していたが未だに人出は多くネオン街の賑わいは絶えることがなかった。
「お前がどうなろうと知ったことじゃないが、同じ歳の娘を持つ者としては今の時期からあんな腹に一物ありそうな奴と関わっているのはどうかと思うぞ?」
表通りから裏路地に入っても源司は歩調を緩めることなく奥へと進んでいく。学生や素人相手の商売をしている店から次第に訳ありの人間が出入りしているような店へと暖簾が変わっていくのを見て、斎は分別のつかない時期から来栖がこんなきな臭い場所に出入りしていることを忠告した。
「源司サンが喰えないひとってことには同感っすけどね、家の仕事でどうしてもああいうひとたちと関わっていかなきゃいけないんすよ」
「あんな男と付き合っているなんて、お前の家の商売もロクなものじゃなさそうだな」
「全うな仕事だとは俺自身思わないっすけど、大勢のひとのために働ける意義がある仕事ですよ」
「その仕事ってのは何なんだ?」
「紫水小路の入り口についたよ、お2人さん」
会話をしている間に来栖が就いている家業というものに興味を持った斎がその詳細を訊ねようとすると、ビルの狭間から源司が2人に手招きしてくる。
「これがその紫水小路という奴か、雑居ビルの隙間じゃないか?」
「ああ、ここはただのビルの谷間でしかない場所さ。でもこうすることで……」
真っ暗な闇が広がっていてその奥行きは分からなかったが、呼び寄せられた場所が幅1m足らずのビルの隙間にしか見えないことを斎が訴えると、源司もその発言に首肯する。
斎が怪訝そうに眉をひそめている傍で源司はジャケットの懐から神社に願をかける絵馬を半分に割ったような板切れを取り出すと、脇の壁に張られた水道管にぶら下げられたその片割れと思しき板に縁を合わせた。
分割されていた2枚の板の端がぴったりと合わさった途端、斎の視界は暗転し、次の瞬間彼ら3人は広い道端に立っていた。
「ここは……」
先ほどまで自分の両脇に聳え立っていた雑居ビルは消え去り、代わりに斎の周りには古の趣を残す御門でも多くは見かけなくなった日本家屋や古い作りの建築物が軒を連ねている。ビルの谷間で自分の足元も覚束ないほど暗かったはずなのに、今は街灯の明かりと黄昏の柔らかな光で視界がかなりはっきりしているのも不思議だった。
「ようこそ紫水小路へ、一族を代表して君を歓迎するよ」
源司は芝居がかった仕草で恭しく身を屈めると、異界へと招き入れた客人である斎に丁重な挨拶をした。突然別の空間に自分が移動してしまったような超常的な現状を目の当たりにして斎は状況の把握が満足にしきれずに、源司に生返事をする。
「さあお嬢様方を待たせては悪いし、待ち合わせの場所に急ごうか」
「気取った言い方してるけど、結局キャバクラに行くってことだろ?」
「離れ離れだった家族が10年ぶりに感動の再会をするんだ、細かいことは気にするのは野暮だろう?」
源司は先陣を切って意気揚々と自分の庭のような通りに歩を進めていくのとは対照的に、来栖と斎の足取りは重かった。しかし彼らも源司を見失わない程度の距離を保ってその後に続いていき、置屋と呼ばれる5階建ての洋館の前を通って1軒の店の前で足を止めた。
落ち着いた仕上がりの木彫の扉に曇り硝子が嵌め込まれ、硝子の表面にはモダンな印象のレタリングで『林檎の樹』と記されている。
「いらっしゃいませ…なんだお前か、連れは奥で待っているぞ」
「ありがとう忠将、それじゃあ奥へとご案内」
この店の支配人を任されている中堅のウツセミ忠将は来客を出迎えようとするが、やってきたのが前もって連絡を受けている同胞と知って素っ気無い口調で応対する。忠将から待ち合わせをしているものたちの席を伝えられると、源司は忠将に礼を言って斎たちを奥のテーブルへと誘導し始めた。
斎たちが入った店内は女たちの鼻にかかった嬌声と酔いが回って上機嫌の酔客の威勢のいい笑い声、芳醇なアルコールや女たちがつける化粧や香水の甘い香り、そしてあちこちで燻らされている紫煙の臭いで混沌とした空気に包まれていた。
斎自身も社会人を四半世紀近くしているのでこういった飲み屋に全く縁がない訳ではなかったが、女たちが少しでも多く金を搾り取ろうと媚態を見せてしなだれかかる姿も、女の芳しい体臭や柔らかな肌の感触に鼻を伸ばしている男の醜態も見苦しく思って、実際の年齢よりも若々しく精悍な眉をひそめた。
来栖はいつもと変わらず仏頂面を取り繕っているものの、店の女たちの身に着けた衣装の端から覗く滑らかな肌や艶やかな肢体を垣間見ては顔を強張らせていた。店内の華やいだ雰囲気からは幾分浮き上がっている斎と来栖が壁際の席までやってくると、向かい合った長椅子の一方に2人の女が座っているのが見えた。
店にいる女たちの多くが大胆なデザインで肩や背中の露出が多いドレスを纏っているのとは異なり、背中に届く長さがあり緩やかに膨らんだ黒髪をした年長の女はブラウスにロングスカートのカジュアルな出で立ちをしていて、癖のある髪を短くしている若い女と言うよりも未だに少女と呼べそうな風貌をした娘も無地で飾り気の少ないブラウスにタータンチェックの膝丈のスカートと学校の制服のような服装をしていた。
「2人とも待たせたね」
格好だけでなくこの席にいる女たちはどこか世慣れない雰囲気で、所在なさげな様子で椅子に座っている。源司が彼女たちの緊張を解すように優しい口調で語りかけると、長椅子に座った女たちは斎たちの方に顔を向けた。
「クーくん、それにお父さん?!」
「丹、無事だったのか?!」
源司の隣に並んでいる来栖と斎の顔を見て、タータンチェックのスカートを履いた丹が驚きの声をあげる。斎は10日近く行方の分からなかった娘が以前と変わらぬ姿でいることを喜びながら、丹に歩み寄って娘を抱き締めようとする。
「斎……?」
しかし長椅子の奥に座っている女が驚きと後ろめたさが入り混じったような顔で自分の名を呼ぶのを耳にすると、丹の一歩手前で斎は踏み止まる。斎は自分の名を口にした女の声に聞き覚えがあった。10年近くも耳にしていなかったがその一言だけで声の主が何者なのか斎は悟る。
「紅子?」
10年近くも歳を老け込んだ自分と異なり、最後に目にした時とまるで変わらない姿でいる妻の名を斎は呼ぶ。霧島一家は10年近い時を経た後に、現世ではない異界で再会を果たす。しかも長女の丹と母の紅子は人ならざる肉体に変貌し、紅子は家族と離れた時から全く歳をとらない姿で若干年老いた夫と再会することになるのだった。
* * *
ウツセミを自称する吸血鬼の一団の勢力下にある通り紫水小路。その通り沿いにある酒場『林檎の樹』の片隅にある席で二組の男女が向かい合っていた。
「丹が変わりないはいいとして、どうしてこんな近くにいるのに10年近くも家に帰ってきてくれなかったんだ紅子?」
「それは……」
御門市内の繁華街の近くにいたにも関わらずどうして連絡も寄越さずに家に帰ってこなかったのかという理由を斎が妻の紅子に厳しい目つきで問いただすと、紅子はずっと家を開けて家庭を蔑ろにしていた罪悪感に苛まれながら、家から離れていた事情をどう説明すれば良いのか迷う。
「だから何度も言ったでしょう霧島さん、紫水小路は吸血鬼が支配している世界であなたの奥さんも人間じゃなくて吸血鬼になってここで生活してるんですよ。吸血鬼が街中をうろうろしている方が迷惑でしょう?」
「ふざけるな、俺の家内が人の血を吸うような化け物になっている訳ないだろう。入り口でどういう手品を使ったか知らんが、そんな戯言に騙されんぞ!」
「お父さん、来栖くんの言っていることは嘘じゃないよ。お母さんは帰ってこなかったんじゃなくて、吸血鬼になっちゃったから日差しの強い外の世界に出られなくなっちゃったの」
「丹、お前も一緒になってそんな馬鹿げたことを言うのか。お前がこんなところで遊び惚けている間、俺がどれだけ心配したのか分かっているのか?」
長年夫婦の間に蟠っている疑念のせいでぎこちない会話をしている斎と紅子の間に来栖が割って入ると、斎は頭ごなしに来栖の非常識な発言を否定する。続いて斎の娘である丹が来栖の言う通り紅子が吸血鬼になってしまったせいで家に戻れなかったと主張しても、斎は聞く耳を持たなかった。
「わたしだって遊んでいた訳じゃない。街で見かけたお母さんを追いかけてここに迷い込んでから吸血鬼に捕まって品物として売り飛ばされそうになったり、人買いの所から逃げ出すのに失敗して死にかけたり、その上わたしもお母さんと同じで吸血鬼になっちゃったんだから!」
「いい加減にしろ、どこまで俺をコケにすれば気が済むんだ? さあ、こんな不埒な所はさっさと後にして家に帰るぞ!」
紫水小路に偶然足を踏み入れてから踏んだり蹴ったりの目に遇い続けている自分の不遇も知らずに叱りつけてきた斎に対して丹は反感を示すが、丹の抗議は斎の怒りの炎に油を注いだだけの結果になってしまい、激昂した斎は妻子の腕を掴んで無理矢理家に連れて帰ろうとする。
「まあまあ落ち着きなよ。10年ぶりの再会で素面じゃ話せないこともあるだろうし、折角だから一杯やってかないか?」
テーブルから身を乗り出して強引に紅子と丹を引き立てようとする斎の耳元で甘い色気のある男の声が聞こえると、斎は反射的にそちらを振り向く。斎が視線を向けた先にはグラスが4つ載せられたトレイを片手にしたウツセミの族長の1人である源司が控えていた。
「お前はここまでの道案内をしていた……」
「代永源司だよ。さっきも言ったけど俺は今2つあるウツセミの氏族のうち代永の族長を務めさせてもらっている。そして代永氏族に属するウツセミである紅子と丹は俺の部下だ、いくら2人が人間だった時の家族でも勝手に部下を連れ戻されるのは困る」
「何を偉そうに…お前がどんな後ろ盾があるのか知らないが、家族の問題に口を出される筋合いはない。居場所が分からなくなっていた妻と娘を家に連れて帰ることの何が悪いというんだ?」
「家族の問題ね、それじゃあウツセミとして紅子の親であり丹の祖父に当たるオレにも家族を自分の下に引き留める道理はあるんじゃないかな?」
斎は一旦紅子と丹の腕を掴んだ手を離して源司と正面から対峙する。眼前のホスト風の男にどんな後援があろうとも家族の絆を取り戻すことの何が問題なのかと斎が訴えると、源司は斎の言葉を借りてウツセミとしての系譜から自分と血縁関係にある2人を紫水小路に留まらせる権利を主張した。
「なんだと?」
「不満かい? でも君が人間だった時に2人の家族だったように、ウツセミになった今、紅子と丹はオレにとって守らなきゃならない大切な家族だ。そう簡単に手放す訳にはいかないよ」
口調こそ穏やかだったが源司は強い態度で紅子と丹を自分の庇護の下に置き続けることを訴えてくる。紅子と丹にとって深い縁のある2人の男はしばし無言で睨み合った。
「勝手な事言わないでよ、わたしの家族はそこにいるお父さんとお母さんそれに妹の葵だけなんだから! どんな理由があったのか知らないけど、お母さんを連れ去って吸血鬼に転化させたあなたに家族だなんて口にして欲しくないわ!」
膠着状態にあった斎と源司の睨み合いは意外な形で水が差される。自分たちの話を聞こうとしない斎の横柄な態度も不愉快だったが、それ以上に家族の幸せを奪い一家を離散させた元凶であるはずの源司の家族に含まれることが丹には我慢ならなかった。
「丹、こいつがいつかお前の言っていた紅子を攫った顔のいい誘拐犯なのか?」
「うん、前に自分がお母さんを攫ったって自白してきた」
「そうか、だったらついでに警察に突き出して……」
「少しは落ち着いて話をしたらどうだい?」
紅子を誘拐した実行犯が源司だと聞いて斎は丹の方に顔を向ける。妻を連れ去った凶悪犯がわざわざ尻尾を出してくれたことで斎は源司を警察に連行しようとするが、彼が視線を源司の立っていた方に戻した時には源司の姿は煙のように消えていた。そして自分の背後から源司の声が聞こえた次の瞬間、斎は軽い立ち眩みがして足に力が入らなくなってしまい、長椅子の上にへたりこむ。
「お父さん?!」
「源司さん、相手に断りもなし蝕を使わないでください」
「大丈夫、ほんのちょっぴり精気を抜かしてもらっただけだから。うん、闘志を燃やす男の熱い血潮もなかなかいけるな」
突然気迫が萎えて脱力した様子で椅子の上に座り込んだ斎の身を丹と紅子は案じるが、斎の手首に添えていた右の掌を軽く開閉して源司は蝕で奪った斎の精気の余韻を楽しむように彼の身に問題がないことを2人に伝える。
「白熱した議論はまだ続きそうだし、飲み物で喉を潤したらどうだい?」
源司は慣れた手つきでテーブルを囲む4人の前に飲み物の注がれたグラスを並べていく。斎にはロックのウィスキー、紅子にはオレンジが縁に添えられたカクテルのグラス、未成年の来栖と丹の前には烏龍茶を置くと源司は彼らの座ったテーブルから離れようとする。
「お父さんに自分の正体がばれて都合が悪くなったから逃げるんですか?」
「それもあるけれどこう見えてオレも結構忙しいんだ、後は身内同士でじっくり話し合うといい」
「あなたはさっきわたしたちが自分の身内だって言いましたよね?」
「はは、丹ちゃんは痛い所を突いてくるな。でも今君が腹を割って話したい家族にオレは含まれていないだろう?」
「それはそうですけど……」
「という訳で部外者は退散させてもらうよ、それじゃごゆっくり~」
丹は自分に不都合な話が出てきて逃げ出そうとした源司を呼び止めるが、源司は口八丁で丹の直球的な質問をかわすとそそくさと遠ざかっていく。
「やめておけ、あんたがあのひとに口で勝つなんて2世紀早いよ」
「あぅち、でもなんか悔しい……」
老獪で掴みどころのない源司を言い負かそうとした丹の無謀な挑戦を来栖は諌めるが、丹は相手の掌の上で遊ばれたような気がして非常に歯痒そうだった。
「斎、大丈夫?」
「ああ…しかしさっきあの男、俺に何をした? 奴に手首を掴まれたと思った途端、貧血になったみたいに目の前が真っ暗になって経っていられなくなったぞ」
「源司サンが言った通りのことですよ。あなたの手首を掴んだ時、源司サンは掌に発生させた蝕で精気を吸い取って熱くなり過ぎていたあなたの気迫を削いだんです」
紅子に労わられながら斎は眼前に置かれたグラスに手を伸ばし、気付けがてら一口ウィスキーを呷る。斎が源司に腕を取られた後の不可思議な現状に首を傾げると、彼の疑問に来栖が横から解説をしてきた。
「セイキだのショクだの一体何の話だ、そんな漫画みたいな話にいつまで付き合わせる?」
「いきなりこんな話を信じろと言われてもすんなり受け容れる気になれないのはよく分かりますけどね、紫水小路に入った時のことやさっき源司サンに精気を抜かれたことでそろそろ俺たちが真面目に話をしていると認めてくれてもいいんじゃないっすか?」
「ここが現実とは違う異次元で、そこには吸血鬼が幅を利かせており、しかもようやく見つけた妻と娘が吸血鬼になっているだと、こんな話を一体誰が真剣に聞き入れる?」
来栖は自分たちの言っていることを信じてくれるよう斎に話しかけるが、斎はグラスのウィスキーを舐めながら来栖の言葉を一笑にふした。
「ここが夢や幻の世界だったらこうして俺が飲んでいるのは何だ、水か血かそれともウィスキーの注がれたグラス自体が幻なのか?」
「おかしいと思わないのかよ。あんたの奥さんがいなくなったのは10年近くも前のことだぜ、なのにそこにいるひとはせいぜい30歳前後にしか見えないだろう。高校生の娘がいるひとがそんなに若いのはおかしくないか?」
来栖は低く押し殺した声音で斎の向かいに座っている紅子の容姿が、高校生の丹の母親にしては若過ぎることを指摘する。斎は無意識的に触れようとしなかったその問題を指摘されて、アルコールが回ってほろ酔い気分だった顔を引き攣らせた。
「…誰だっていつまでも若いままでいたいと思うし、女性なら尚更その思いは強いだろう。最近エステやら整形やらで老化に歯止めをかける技術もたくさんあるから、実年齢よりじ10歳くらい若く見える人もそう珍しくないだろう?」
「それはそうっすけど、それでも10年前と全く見た目が同じってことはないでしょう。あなたの向かいに座っている奥さんはどこか10年前と変わった所はありますか?」
「…変わった所は見当たらないが、自分の妻がいつまでも変わらず美しくいてくれるのは嬉しいことじゃないか?」
斎は正面に座っている紅子の姿を頭のてっぺんから爪先まで隈なく凝視するが、記憶にある紅子の姿と変わった点は何一つ見当たらなかった。実際の年齢ならば40近くになっているはずなのに、紅子の肌は張りがあって瑞々しく目元に皺一つ刻まれていない。来栖は紅子の見た目を30歳くらいと称したが、20代半ばと言っても充分通用しそうなくらい紅子の容貌は若々しかった。
来栖の言う通り紅子本人にしては不自然すぎるほど若く見えるものの、斎はその点にあまり言及せずに見逃すことにする。そうでなければ目の前にいる失踪する直後の紅子と瓜二つの人物への疑念で頭がどうかしてしまいそうだった。
「変わった所は見当たらないねぇ、それじゃこれならどうっすか?」
来栖はズボンのポケットから携帯電話を抜き出すと、慣れない手つきでボタンを操作し始める。何か意図があって来栖は携帯電話を取り出したらしいが、自分のやりたい操作ができないようで眉間に皺を刻んだ難しい顔で携帯電話の液晶画面を睨んでいた。
「霧島、えっと親父さんやお袋さんじゃなくて娘の方、ケータイのランプってどうやれば点くんだ?」
「ランプ、来栖くんのケータイの画面もボタンもちゃんと点灯してるよ?」
「そうじゃなくてほら、表にくっついてるランプを点けたいんだよ」
「カメラのライトね、ちょっと貸してくれない?」
「ああ頼む」
来栖は恥ずかしそうな顔で丹に撮影用のライトの点灯方法を訊ねると、丹は来栖が本当に困った様子で自分に助けを求めてくるのを見て、含み笑いをしながら彼の携帯電話を受け取りボタンを操作してライトを点灯させる。
「ありがとう」
来栖はライトの灯った携帯電話を丹から返してもらうとその光を紅子の顔に向けた。
「きゃっ、眩しい?!」
「ちょっと来栖くん、いきなりお母さんに何するの?」
「霧島の親父さん、昔もあんたの奥さんは目に光を当てられると猫みたいに瞳孔が細くなったんすか?」
突然来栖が紅子の顔に携帯電話のライトが放つ眩い光を浴びせたことに丹は抗議するが、来栖は丹の言い分を無視して、紅子の半開きになった瞼の奥にある彼女の瞳の瞳孔が明るい所での猫の目のように縦長に細まっているのを斎に指し示す。
「そんな訳ないっすよね、人間の瞳孔だって大きさは変わるけどこんな風に極端に細くなりはしない。そして強い光を感じると瞳孔が縦長に収縮するのは吸血鬼の特徴です」
来栖は携帯電話のライトの光を紅子の顔から離して床に向けると、斎の顔を正面から見つめて彼の妻が人間ではない証拠を突きつけた。
「…お前の言うように紅子の瞳のさっきの反応は普通じゃないかも知れないが、だからといってあいつが吸血鬼だという根拠にはならん。ちょっと変わった症状の目の病気かもしれんじゃないか?」
「どうしてもあんたの奥さんと娘がウツセミになったってことを認めないんすね?」
「当たり前だ、そんな馬鹿げた話を認めて何になる?」
断固として2人が人でないことを認めようとしない意向を来栖が斎に確認すると、斎は即答して首を大きく縦に振る。
「あなたが認める気がないならそれでも構いません。でも電灯の明かりや紫水小路の柔らかい日差しならともかく、外界の太陽の下になんかいたらあんたの奥さんと娘の肌はあっという間に焼け爛れますよ。あんたが無理に紫水小路の外に連れ出したせいで、自分の奥さんと娘が醜い姿に変わり果ててもいいんすか?」
「悪い冗談はよせ、俺の愛する家族が化け物になっているはずないだろう!」
来栖もしつこく紅子たちが吸血鬼であることを主張し続けるのに苛立ちを覚えた斎は、残りのウィスキーを一息に飲み干すと空になったグラスをテーブルの上に打ちつける。だがテーブルに思い切り叩きつけられたグラスは砕け散り、運悪く飛散した破片が紅子の頬を掠めて彼女の滑らかな肌に細い傷をつける。
「斎、怪我はない?」
「ああ俺は大丈夫だ、それよりもお前の顔に傷、が……?!」
グラスの破片は当然斎の掌も斬りつけ、傷口から血がうっすらと滲み始めている。しかし斎は自分の手の怪我よりも妻の美しい顔に傷をつけてしまったことに心を痛めて、自分の手を心配してきた紅子にすまなそうな目を向けるが、斎の目は異様な光景を目にして大きく見開かれる。
グラスの破片に斬られてついたはずの紅子の頬の傷からは一滴も血が噴き出すことはなく、それどころか瞬く間に傷は薄れていっていた。しばらくすると紅子の頬は何事もなかったように玉の肌に戻っている。
「…わたしが人間だったらこんな早く傷が治るはずないわよね。これで分かったでしょう斎、わたしが化け物になっちゃったって」
紅子は斎の血の滲んだ手を取って傷口に硝子の破片が入り込んでいないかを検分しながら、長い睫毛を伏せて自分が呪われた身に堕ちてしまったことを告白する。斎は愛する妻が散々化け物呼ばわりしていたものになってしまったことを思い知らされると、何も言えずに愕然とした顔で彼女を見つめることしかできなかった。
「見た感じ傷は浅いし、硝子が中に入っちゃっていそうにもないけれど一応消毒くらいはした方がいいわね。店の奥に消毒液と包帯くらいはあるでしょうから、それを借りて応急処置をしましょう」
紅子は斎の手を取ったまま立ち上がったついでに自分の夫も立ち上がらせて、手当てをするための道具を借りに席を離れていく。未だに紅子と丹が人でなくなってしまったことへの衝撃から立ち直れない斎は呆然とした様子で、紅子に手を引かれるまま彼女の後に従っていった。
第9回 了