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第8回、人間的な生活

 盆地に建造された御門市の四方は山麓に囲まれており、市街地から車で30分も走れば高層ビルや住宅地は消失して自然豊かな一面に山林が広がる光景になる。御門市の北側に聳える鞍田山くらたやまに行くには、市内からはバスを乗り継いで1時間以上かかってしまうほど離れており、行政区分では御門市に含まれていても高層ビルが軒を連ね、その合間に文化的な価値の高い寺社が佇む市街地と同じ街だとは思えないほど荒々しい森が広がっていた。


 バスの終点から山頂へと続く山道を一人の少年が登っている。鞍田山を訪れる登山客は少なくなかったが、この少年はジーパンに色褪せたTシャツというラフな出で立ちをしていて、その足元も不安定な路面をしっかりと捕らえる登山靴ではなくスニーカーだった。携行している荷物もそれほど大きくないデイバッグが1つだけであり、ピッケルや杖なども持ち歩いてはいない軽装だった。


 やがて少年は山頂へと続く順路から離れ、分岐している獣道へと足を踏み入れる。夏の日差しを受けて高く伸びた雑草を掻き分けながら少年が奥へと進んでいくと、彼の視界の先に1軒の山小屋が建っているのが見えた。


 土壁が盛られた前時代的でいつ倒壊してもおかしくないほど老朽化した山小屋の前までやってきた少年は、入り口の引き戸を数回ノックするが中から返事はこなかった。


「いるのは分かってるよ先代、隠れてないで出てきたら……」


 返事はないものの室内に人の気配があることを察していた少年は、居留守を使っている相手の態度に少々辟易した様子で引き戸を開き中に入ろうとする。しかし少年が引き戸の向こうにある土間に一歩足を踏み入れた途端、自分に対する敵意を感じて彼は表情を引き締めるとその場に立ち止まった。


「喝!」


 あばら家を囲む粗末な壁を吹き飛ばすような大音声で少年と中で彼を待ち伏せていた人物が同時に叫ぶ。彼らが発した怒号が山小屋の内部に反響する他は室内に物理的な変化は発生しなかったが、少年は自分の放った剣気と相手の放出した剣気が激しくぶつかりあってエネルギーの余波が辺りに飛び交うことを肌で感じる。


「手加減してやったとはいえ、ワシの剣気と拮抗できたのだから街の誘惑に負けて鍛錬を怠けていた訳ではないようだな?」


「手加減してやったのはこっちだよ、ジジイに本気を出したら短い余生を更に縮めちまうだろ?」


 土間の上の居間から玄関に向かって老人が歩み寄ってくると、現在ウワバミの役割を担わされている少年来栖託人は皮肉げに口の端を吊り上げた。


「減らず口を利くのは相変わらずか、勤めに出てからのことが思いやられるな」


「その頃には多分お迎えがきてるだろうから余計な心配をさせることはねぇよ」


 来栖は憎まれ口を利きながら脱いだ靴を土間の端に揃えて置くと、座敷に上がって出迎えてきた老人と対峙する。来栖と向かい合っている老人の上背は彼よりも10cm近く低かったが、年老いて尚油断のできない鋭い眼光を湛えた目つきに禿頭の厳つい顔といい、地面に対して真っ直ぐに重心を保ち地面にどっしりと根ざした木のような印象を覚える姿勢といい、かなりの覇気を滾らせている古武士のような人物であった。


「ところで今回の土産はなんだ、この間と同じで羊羹では芸がないぞ?」


「ああ、そういうと思って今回は違うもんを持ってきたよ」


 来栖は背負っているデイバッグの右の紐を外してバッグを正面に向けると、ジッパーを開いて中から小ぶりな箱を取り出した。老人は来栖の手から箱をひったくるや否や、蓋を開いて中身を検分する。


「ほほう、シュークリームか。少しは気が利くようになったじゃないか?」


「バスを待っている間にちょうど近くに店があったからな。ドライアイスで保冷はしてあるけど早めに食ったほうがいいぜ?」


「うまいもんを前にして指を咥えているほどワシは辛抱強くない。託人、シュークリームと一緒に飲む茶を淹れてこい」


「わかったから俺の食う分も残しておいてくれよ、先代」


 口答えは多いものの前任のウワバミにして自身の師である先代の命には逆らえず、来栖は大人しく先代に言われた通り座敷の奥にある炊事場に茶を汲みに行った。


 案の定茶を淹れて座敷に来栖が戻ってきた時には、3個あったシュークリームを先代は平らげてしまっていた。歳をとっても旺盛な先代の食欲に呆れながら、来栖は急須から注いだ茶を啜ってシュークリームを食べられなかった無念を紛らわせようとする。


「それで今日お前がワシを訪ねてきた理由はなんだ?」


 恨めしそうな目を向ける来栖を黙殺して、澄ました態度で茶を飲んでいた先代は何の脈絡もなく来栖が自分の下を訪れた理由を訊ねる。先代がいきなり質問をしてきて虚を突かれた来栖は目を左右に泳がせて、考えを纏めようとする。やがて来栖は左腕に巻かれた包帯を外すと、先代の前にくっきりと歯形と噛まれた傷口の残る腕を差し出した。


「その傷はどうした、犬に噛まれたものではないだろう?」


「ああ、こいつはウツセミに噛まれてできたものだ」


 来栖の腕に刻まれた歯形から先代がそれが獣によるものではないことを見抜くと、来栖は渋い顔で頷き返す。


「ほう、ウツセミの天敵であるウワバミのお前が噛まれたとはおかしな話だな」


「蝕を使うどころか自分がウツセミになったことすら分かっていなかった転化したてのウツセミの捜索を源司サンに依頼されてさ、そいつを保護してちょっと気を緩めた隙に噛まれちまった。自分の不用意さに呆れてものが言えねぇよ」


 先代の皮肉にも来栖は返す気力もなく素直に自分の落ち度を認める。


「転化したてのウツセミということは、その傷は紫水小路でつけられたのか?」


「いや、外界でだ。安置されていた置屋から脱走した後、どういう訳かそいつは紫水小路から現世へと抜け出しちまったらしい。源司サンから連絡をもらった時、たまたま繁華街にいたからすぐに探しにいけたおかげで俺が噛まれた他に被害は出なかったのがせめてもの救いだな」


「話を聞く限りじゃ、あの人混みの中から随分と簡単に見つけ出したみたいだな?」


「そりゃ幽霊みたいに青い顔をして真っ白な浴衣を着た女は嫌でも目につくさ、それにそいつとは顔見知りだったからな」


「その転化した女とはどういう関係だ?」


「高校のクラスメイトだよ、おまけにガキの頃ここに引き取られる前に通っていた小学校でもクラスメイトだった」


「成長して色気づいたその娘と運命的な再会を果たしたと言う訳か。しかもウツセミに転化させられるということはかなりの上玉だな?」


 来栖がウツセミに噛まれた背景の子細なことを小出しに先代が訊ねていくうちに、来栖と丹が幼少期から縁のあることを聞いて先代は卑猥な笑みを来栖に向けてくる。


「よく見れば美人と言えなくもないだろうが、普段は家事に追われているみたいでろくに身嗜みを整えていないから一見しただけだと冴えない感じの女だよ」


「なるほど家庭的なタイプの隠れ美人か、しかし成人してない娘を転化させるとは源司の奴にもウツセミの族長としての自覚が足りないんじゃないか?」


「そいつを転化させたのは源司サンじゃねぇよ、そいつを産んだ母親だ」


 丹との仲を冷やかされて来栖はぶっきらぼうな態度で返事をしても、先代はウブな弟子の反応を愉快そうな目で見る。しかし先代が年端もいかない少女を吸血鬼に転化させたことには難色を示すと、来栖は源司に落ち度がない事を伝えて反論する。


「人間だった時の実の母親が、その娘を転化させたというのか?」


「ああ、そんなこと源司サンも前代未聞だって言ったぜ」


「しかし娘が高校生ならば転化させたウツセミもせいぜい15、6年前までは人間だったということになるな。ワシが知っている中でそんな奴は……」


 通常転化の施術を行うのは一族の中でも群を抜いて強大な力を持つ族長であるが、丹の転化を行ったのが彼女の産みの母親だと聞いて先代は驚愕する。実の親子間で転化を行うなどという珍事は、長い時を生きている源司でさえ前例のないことと来栖が付け加えると先代は自分の知っているウツセミに該当しそうなものがいるかどうかを思い浮かべた。


「先代、霧島紅子って名前に聞き覚えはあるか?」


「霧島紅子なら知っているぞ、彼女はお前を引き取った年に起きた事件がきっかけでウツセミになったんだ。確かに彼女ならそういう話もありえなくはない」


 来栖が先代に紅子のことを知っているかどうかを聞いてみると、先代は即座に彼女のことを思い出して紅子ならば高校生の娘がいてもおかしくはないと納得する。


「その紅子さんの娘が俺の噛まれた転化したてのウツセミだ。先代、その紅子さんに関することで1つ聞きたいことがある」


「なんだ?」


「紅子さんの娘の話だと源司サンは紫水小路の外から紅子さんを連れ去って、彼女をウツセミに転化させたそうだ。ウワバミとウツセミの間で紫水小路の外で人間を捕獲することは禁じられているはずなのに、それを破った源司サンをどうして当時ウワバミをしていたあんたが生かしたままにしているのか、その理由を聞きたい」


 来栖は師である先代に対して無遠慮かつ単刀直入に霧島親子がウツセミと関係を持つようになった事件の真相を訊ねる。先代は来栖がその話を持ち出してくることに軽く動揺を示しながら、どう彼の問いに答えるべきかをしばし黙り込んで考え始めた。


「9年前なら源司サンは既に族長の座に就いていたことは知っている、でもただ族長だからって掟を破ったものを見逃すほど俺たち一族とウツセミとの盟約の効力は弱くはないはずだぜ?」


 先代が沈黙を保っているのに焦れて、来栖は師を追い立てるように詰問する。真実を追究しようとする来栖に真正面から見据えられて、先代は根負けしたように重々しく溜息を吐くと意を決した表情で来栖に向き直った。


「ワシも源司もそこまで自分に都合のいいように約定を捻じ曲げたりはしない。9年前、霧島紅子を紫水小路の外から連れ去ったあいつを討たなかったのには正当な理由がある。そう、ワシら人間と源司たちウツセミの暮らす環境の秩序を守るために彼女を転化させてでも生き延びさせる必要があったのだ」


「掟を破ってまで霧島のお袋さんを生き延びさせる必要ってなんだよ?」


 9年前の真相を先代が語り始めると、来栖はウツセミたちを取り巻く規範に背いてまで紅子を転化させた理由を師に訊ねる。


「何が必要なのかを話す前に源司の濡れ衣を晴らしておこう。9年前確かにあいつは霧島紅子を外界から紫水小路に連れ込んだが、あいつが発見した時、彼女は大量の血液と精気を奪われて瀕死の重傷を負っていた。現代の医療をもってしても彼女の命を救うことは不可能だっただろう、だから彼女を延命させるには……」


「ウツセミに転化させるしかなかった、か」


 先代に代わって来栖が結論を述べると、先代は弟子の言葉に頷き返す。


「ここまで話せば分かる通り、霧島紅子は源司に拾われる前に別のものに襲われて血と精気を吸われていた。そして霧島紅子を襲ったものの行方の手懸かりを掴むために、源司は彼女を生き延びさせてそいつの情報を得る必要があった」


「霧島のお袋さんを襲ったのはナレノハテじゃないのかよ?」


「違う、少なくとも紫水小路から放逐された時、そいつはウツセミだった。しかも源司と族長の座を争うほど力を持った、いや単純に個人の能力ならば源司を凌ぐほどの才覚を持った奴だった」


「…なんでそいつは紫水小路から追い出されたんだよ、そもそも族長を務めている源司サン以上の力があるのにどうして族長になれなかったんだよ?」


 紅子がウツセミに転化させられた背景を知ると同時に、彼女の転化に深く関与しているウツセミの存在を聞かされて来栖は何故それほど強力なウツセミが紫水小路から追われる破目になったのかを先代に問いかける。


「優れた素養を持つものが自らの才能を過信して、他人に虐げるような野心を持つことは人間でもそう珍しいことではあるまい。霧島紅子を襲ったウツセミも同様に能力だけでなく野心も人並み外れていて、その野心はウワバミとウツセミが数百年守ってきた秩序を脅かすようなものだったのさ。そしてその野心を警戒して代永の先代族長は後継者にそいつを外し源司を指名した。だが先代の族長の決断を不服に感じたそいつは、一族全体に牙を剥き、反逆者として粛清される立場になってしまったのさ」


 ウワバミとウツセミの間にあるデタント状態に楔を打とうとした逆賊の所業を語っているにも関わらず、先代の顔はどこか寂しげであった。来栖は人間社会にもウツセミの社会にも災いをもたらそうとした悪党になぜ先代が同情しているのか分からぬまま、彼の話に耳を傾けた。


「それで、追われる立場になったそのウツセミはどうなったんだ?」


「粛清に差し向けられた同胞を数人返り討ちにして紫水小路の外へと逃亡を図ったが、その途中で源司に見つかり激しい戦いを繰り広げたそうだ。何度も斬り結んだ末に源司はそいつの左腕を切り落として深手を負わせたらしいが、源司もまたそいつの一太刀で大怪我を負い、結局外界への逃亡を許してしまったらしい。辛くも外界へ逃れたそいつは傷を癒し失った精気を補うための獲物を物色して、その毒牙に霧島紅子をかけたという訳だ」


「霧島のお袋を助けてそいつの話を源司サンは聞きだしたんだろ、それに源司サンが今もぴんぴんしてるってことはその脱走したウツセミは始末されたんだよな?」


 紅子の精気を奪って多少は回復できたとはいえ、腕を切り飛ばされては以前ほどの力は発揮できなかっただろうし、源司が今も族長を務めていることで来栖はその反逆者のウツセミが最終的には処刑されたのだと想像する。しかし来栖の予想とは裏腹に、先代は首を横に振ってそのウツセミが殺されていないことを示した。


「ちょっと待てよ、じゃあそのウツセミは今もどこかに生きているのか?」


「分からん、もしかしたらワシやお前が始末したナレノハテのどれかが奴の末期かもしれんし、今もどこかに潜んで復讐の機会を覗っているかもしれん。それから数年間、ワシも源司たちも血眼で奴の行方を捜したが、霧島紅子を襲ったのを最後に奴の足取りはばったり掴めなくなってしまった」


「…なるほど、あんたが源司サンを殺さずにおいたのはそういう理由か」


 人間に対してだけでなく同胞のウツセミにも反旗を翻したそのウツセミの生死が不明であると聞いて来栖は先代や源司の詰めの甘さを感じるが、丹が転化してしまったことには自分の過失があると思うと一概に彼らを責める気にはなれなかった。


「仮に奴が紫水小路のウツセミに復讐を企んでいるのなら、対抗できるのは奴と互角に戦えた源司とウツセミの天敵であるワシらウワバミだけだろう。ワシが源司を生かしたのは奴に対する抑止力を1つでも増やしておくためだ」


「…ああ、俺たちはウツセミの天敵であると同時に彼らの守護者でもあるが、味方は多いにこしたことはないよな」


 先代の判断を来栖は臆病だとは思わない。これまで退治したナレノハテのほとんどを、来栖は剣気を束状に収縮した斂をナレノハテやウツセミの体を構成する核となっている生体エネルギーのブラックホール蝕に一点集中的に叩きつけて一撃で屠ってきた。


 しかし彼の始末してきたナレノハテの蝕の大きさはウツセミの中ではそれほど大きい方ではなく、キャバクラの店長をしている忠将や置屋の管理者茜と比べれば遥かに小さいものだったし、族長の源司に至っては忠将や茜でさえ比較にならないほど巨大な蝕をしていた。


源司どころか茜たちにさえ、自分の斂が通用するか正直なところ来栖は自信がない。しかしウワバミとしての職務を遂行するにあたり、彼らや人間に仇なす存在であれば率先して対決しなければならなかった。そして源司に匹敵する強大なウツセミと戦うのであれば、可能なら味方がいて欲しいと来栖は切に思う。先代が源司と共闘体制を整えておいてくれたおかげで、来栖は有事の際も心強い味方がいることを嬉しく思った。


「そうだな。だが、いくら味方がいるとしてもお前はウワバミとして人間だけでなくウツセミたちの命を背負っていることは肝に銘じておけよ。そしてお前の守るべきものの中には、お前が血を吸われた霧島紅子の娘も含まれているんだ」


 先代は厳しいながらも温かみのある眼差しを弟子にして自分の孫である来栖に向ける。来栖は祖父の眼差しを受けて、ここに来るまで抱えていた悩みが払拭された気になった。


「人間とウツセミの世界の平安を乱す奴を制圧できる力が俺にはある。なら、そいつらと戦ってみんなの穏やかな毎日を守ることが俺にはできるってことだろ、じいちゃん?」


「ああ、お前にはそうすべき義務とそれが出来る資格がある」


 憑き物が落ちた顔で同意を求めてきた来栖の言葉に先代は力強く相槌を打った。先代から幸先のいい返事をもらった来栖は湯飲みに残った茶を一気に飲み干すと、畳の上に置いたデイバッグを担ぎ挙げて立ち上がる。


「なんだ、もう帰るのか託人?」


「やらなきゃいけないことを思い出したんだ、お茶ごちそうさん」


 来栖は先代の問いかけに背中越しに返事をしながら靴を履く。


「また来る時は土産の菓子を持ってくるよ」


「ふん、そう何度も泣きつかれて堪るか。だが土産の菓子は楽しみにしている」


「それじゃ先代いや、またなじいちゃん」


 引き戸の前で一度座敷を振り返った来栖はにっと白い歯を見せて祖父に笑いかけると、引き戸を開いて帰路についていった。先代は閉ざされた引き戸を眺めながら、責務の重さに潰れかかっていた孫がその重さに立ち向かっていくようになったことを微笑ましそうな顔を浮かべていた。


* * *



政所の2階に転がり込んでから数日、来る日も来る日もまことは暮れることのない黄昏の空を眺める以外はほとんど身動きもせずに過ごしていた。


 ウツセミのものへと変化した彼女の肉体は加齢することがなくなり、皮膚の新陳代謝や排泄も行われなくなった上、食欲すらなくなって人間が生活していくのに必要な作業の多くをする必要がなくなった。睡眠欲は存在していたが、眠りはかなり浅いものであり眠らずに過ごそうと思えば過ごせるのではないかと思えるくらいの安らぎしか与えてくれなかった。


 仕事や勉強に勤しむこともなければ食事を摂ることすらしない境遇で、丹はウツセミの餌として置屋に幽閉されていた時よりも手持ち無沙汰であったが、人間でなくなってしまったことの喪失感で何をする気力もなく人形のように廊下の安楽椅子に座り込んでいた。


「きゃっ…ちょっとくすぐるのをやめてよ!」


「ちっとも動かんから人形かと思うておったが生きておったのか、これは失礼したな」


 虚ろな目をしていた丹の脇腹を不意に誰かがくすぐってくると、丹は身を大きく震わせて笑い声をあげながら脇腹をくすぐるのを止めるよう相手に訴える。相手は幼い声で丹に詫びると、彼女の脇腹から細い指を離してくすぐるのを止めた。


「見慣れない顔じゃな、もしかしてお主が先日一族に加わった丹というものか?」


「そうだけど…そういうからにはあなたもウツセミなの?」


丹をくすぐってきた相手は彼女の腰掛ける椅子の脇に並んで丹の顔をまじまじと覗き込んでくる。話し方は尊大な感じだったが、高いトーンの声音といい未成熟な体型と身長といい、隣にいる人物は中学2年生の妹の葵よりも年上には思えないように丹は感じて、正体の分からない相手にも関わらず砕けた口調で話しかける。


「うむ、わしは朱美あけみというものじゃ。一族に名を連ねたことを歓迎するぞ、丹」


「は、はあ…よろしく」


 年下に思える相手から上から目線で握手を求められる状況に若干戸惑いながら、丹は朱美と名乗った少女の差し出してきた手を握り返す。その肉体に血の通っていない吸血鬼であるにも関わらず、朱美の手から丹は温もりを感じられた。


「少々渇いたな、そこにある生き血をもらってもよいか?」


「うんいいよ、わたしは飲まないから」


 丹の座った安楽椅子の脇に置かれた花台の上に牛乳瓶くらいの大きさの瓶に詰められた生き血を目敏く見つけると、朱美は遠慮なしにそれを飲んでいいか丹に訊ねる。丹は自分が存在し続けるために必要な鮮血であるにも関わらず、興味なさそうな素振りで朱美に譲ることを承諾した。


「お主もウツセミでしかも転化したばかりで蝕を使えぬのだから血を飲まないはずがないだろう? まあ、くれるというのなら遠慮なくいただくが」


 朱美は自分たちの生活に不可欠なものである生き血を丹が飲まないといったことに不思議そうに首を傾げながら、コルクで封のされた栓を開くと一息に中の生き血を呷る。朱美が細い喉を鳴らしてとても旨そうに血を飲むのを見ていると、彼女につられて丹は思わず生唾を飲み込んでしまった。


「やっぱりお主も飲みたいのか、もうわしの渇きは癒えたし残りは飲んでもよいぞ?」


「…要らない、わたしはもう血を飲まないって決めたの」


 強がりを言っていたもののやはり吸血鬼にとって何にも変えがたい珍味である生き血を丹が欲しがっているのだと、朱美は満悦した様子で半分ほど残った生き血を丹に勧める。しかし丹は断固として血を飲むことを拒んだ。


「好みはひとそれぞれじゃからな、お主が飲みたくないというのなら無理強いするつもりはない」


「ありがとう、朱美ちゃんが他のみんなみたいに血を飲むことを強要しなくて助かるわ」


 朱美は嫌がる相手に強引に血を飲ませるつもりはないと言って、飲みかけの瓶に再び栓をする。丹は朱美が母親や他のウツセミのように自分の意志に反してでも生き血を飲ませようとしないことに感謝した。


「しかしな丹、一度封を切ってしまった以上、瓶の中の血は急速に劣化していく。1時間も経てば精気が抜けきって飲める代物ではなくなってしまうだろう。そうなるとお主に飲ませるために血を提供してくれた者の流した血が無駄になってしまうな」


「…下にいる誰かに飲んでもらえばいいじゃない」


「馬鹿者、血は人間が酒を飲む以上に我らを酩酊させてしまう。勤務中に血など飲んでしまったら、そいつは当分使い物にならなくなってしまうわ」


「…だったら朱美ちゃんが全部飲んじゃえば?」


「たわけ、1人でこんな量を飲んだらへべれけになって今日一日を棒に振ってしまうわ」


「それじゃあその血をくれた人の気持ちを考えれば……」


「お主が飲むしかあるまいな、丹」


 丹のために血を提供してくれた人間に誠意を示すのならば彼女自身が残りの血を飲むしかないと、朱美は流し目を丹に向ける。見た目はせいぜい12、3歳くらいにしか見えない朱美だったが、丹は一瞬彼女に置屋の女主人として阿漕な商売をする茜以上の迫力を覚えた。


「でも、わたしは血を……」


「飲みたくないということは分かっておる。じゃがそうやって見栄を張り続けたところでお主が人間に戻れる訳ではないのだぞ。それならば人の生き血を飲まなければ生きられないと割り切った上で、精一杯ウツセミとしての命を満喫した方が楽しいではないか?」


 朱美は丹の眼前に瓶をちらつかせながら中の鮮血を軽く揺らす。朱美が瓶の中の生き血を波立てるたびに、丹はその波の動きから目を離せなくなっていた。


「…人の血を奪いながら自分は何百年も生きるなんておかしいよ、そんなことをしてまでわたしは生き延びたくない」


 朱美がどのような意図を持って自分に接してきているのか量りかねたが、丹は次第に朱美の誘導尋問に乗せられていることに気付いて血の入った瓶から目を逸らす。しかし朱美に血を見せ付けられたせいでここ数日感じなかった鮮血への渇望が湧き上がり、口の中には唾液が滲んで彼女の肉体は飢えを満たす血を欲していた。


「お主の心掛けは高潔だとわしも思う。じゃがわしらウツセミの体はそう簡単には朽ちてはくれぬ、仮に心が失われても肉体だけはナレノハテと化して血を求めて暴走してしまうほどわしらの体は貪欲に生への欲求を持っておる」


 朱美は丹の他人を傷つけたくないという思いに理解を示しつつも、自分たちの一族の体に刻まれた業はそんな丹の思いを簡単に打ち砕いてしまうほど深いと説いた。


「その時はクーくん…ウワバミの人に喜んで殺されるわ。彼ならきっとすぐにナレノハテになったわたしのことを殺してくれる」


 丹は自分がどれだけ足掻いても呪われた身になってしまった因果からは抜け出せないと教えられて愕然とするとともに、それならば同級生だった少年に喜んで始末してもらおうという意志を朱美に示した。


「お主は本当に身勝手じゃな、丹」


「わたしが身勝手……?」


 溜息混じりに吐き出した朱美の一言に納得がいかず、丹は少々眉を吊り上げて朱美に発言の意図を訊ねる。


「ああ、自分に血を分けてくれたもののことも、あの小僧がどんな思いでウワバミの責務をこなしているかも考えずに、自分の感情を宥めることしか考えていないお主の態度は身勝手としか言い様がないじゃろう?」


 朱美が丹の浅薄さを揶揄するような目で一瞥してきても、丹は朱美の正鵠を射る言葉に反論することができなかった。丹は俯いて膝に視線を落とすと、血を提供してくれた者や重い責任を課せられている来栖のことをまるで考えなかった自分の思慮のなさを恥じて唇を固く締める。


「ようやく自分がどれだけ好き放題してきたかということを自覚したようじゃな。お主自身がどう考えようと、お主は多くのひとと関係して彼らに支えられて暮らしておる。そしてそれは人間だろうとウツセミだろうと変わらんことじゃ」


 朱美は厳しい言葉で丹がウツセミになっても多くのものと関わって生活していることは人間だった時と何も変わっていないと諭す。朱美に知性的な存在として逃れられない普遍的な真理を突きつけられて、丹はそれを見落としていた自分の浅はかさを腹立たしく思い膝の上に乗せた拳を強く握り締めた。


「ひととして生きている限り、お主はひとの世の中からは逃れられん。蜘蛛の糸のように張り巡らされたひととの繋がりは時折煩わしくも思うだろうが、同時にお主が世の中にいられるように支えてくれる命綱でもあるんじゃ。そしてひととの繋がりが切れてしまい、完全に孤立してしまえばひとは獣になるしかない。我らウツセミの場合じゃと、衝動的に生き血を求めるナレノハテになってしまう訳じゃ」


「…朱美ちゃん、でもついこの間までわたしが暮らしていたのはウツセミの世界じゃなくて人間の世界だったんだよ? そんなわたしに他人との繋がりなんて……」


「ないならこれから築いていけばよい」


 ひとはひととして生きるためには独りでは生きられない。朱美の言うことは間違ってはいなかったが、丹がこれまで関係を築いてきた世界はウツセミのものではなく人間のものであった。しかしウツセミに転化してしまったことで、16年弱の間に作り上げてきたコネクションは全て断ち切られてしまい、丹は人間の世界からウツセミの世界へと転げ落ちてしまった。


 朱美の言葉に従うのであれば、自分はもうひととして生きてはいけないと丹は絶望的な気持ちでどうすればよいのかと朱美に訊ねる。すると朱美は丹に至極単純な答えを返してきた。あまりに明快な朱美の問いに、丹は反射的に顔を跳ね上げて彼女に目を向ける。


「何をそんな意外そうな顔をしておる、お主はウツセミとしては赤子も同然なんじゃから他人との繋がりがなくても当然じゃろう? それならば人間の赤子が成長するに従って関わる範囲を広げていくように、お主もこれからウツセミの世界で人脈を広げていけばよいじゃろう」


 朱美は途方にくれて泣いている我が子を諭す母親のように慈愛に満ちた眼差しを向けながら丹に語りかける。外見年齢に従うのならば丹の方が年長であるのに、丹は幼い子どもが泣き止んだような顔で朱美の顔を見ていた。


「お主からもらったものなので格好はつかんが、もしお主がこれからもわしと親しくするつもりならばわしは祝杯としてこの血をお主に捧げたい。どうじゃ、こんなわしでもおらんよりいる方が役に立つと思うぞ?」


 博愛的な慈母のような雰囲気から一変して、朱美は品行方正な優等生の学友に酒を勧めてくる不良生徒のようにいたずらっぽい笑みを向けて丹に生き血の入った瓶を勧めてくる。


「…ねえ朱美ちゃん、わたしの友達になってくれる?」


 丹は瓶に注がれた生き血と朱美の顔を交互に見比べながら、彼女に自分の友人になってくれるかどうかを訊ねた。


「もちろんじゃ、友が増えることを拒む奴はおらんじゃろう?」


 朱美は丹の問いに対して力強く頷き返す。


「本当に、ありがとう!」


朱美がウツセミとして自分の初めての友達になってくれると聞いて、丹は終始不安げだった顔を久々に明るくさせる。


「それじゃ友情の証に一杯いかんか、随分血を飲んでおらんのじゃろう?」


「うん、転化して外を彷徨った後にもらってから全然飲んでない」


 丹が初めて笑ってくれたことで朱美も気をよくしたのか、コルクの栓を抜いて血の入った瓶を丹に差し出す。丹は血の入った瓶を素直に受け取ると、瓶を傾けて瓶の口を自分の口元に近づけた。


 瓶の中から丹の口に真っ赤な鮮血が注がれていく。丹は口の中に広がった芳醇な血の味に歓喜しながら、数日ぶりに摂取する栄養源を飲み下していった。腹を空かせた乳飲み子のような旺盛な飲みっぷりで丹は瓶の中の生き血を1滴残らず飲み干す。


「同じ釜の飯ならぬ同じ瓶の血を飲んだ仲じゃ、末永くよろしく頼むぞ」


「こっちこそよろしくね、朱美ちゃん」


政所まんどころ様、お姿が見えないと思ったらここにいらしたんですか」


 瓶の中の血を回し飲みして友情の誓いを結んだ2人の吸血鬼の少女が笑みを交し合っていると、廊下の向かいから慌てた様子で彼女たちより年長に見える女性が駆け寄ってくる。


「しもうた、紅子に見つかってしまったか……」


「お母さんどうしたの、朱美ちゃんに何か用があるの?」


 こちらにやってきたのが丹の産みの母親であると同時に彼女をウツセミに転化させた紅子だと気付いて、朱美は何やら気まずそうな面持ちになり、丹は紅子が自分の友人に何の用だろうかと疑問に思った。


「朱美ちゃん?! 丹、政所様をそんな風に呼ぶなんて失礼よ」


 紅子は娘が朱美に馴れ馴れしい口を利いていることに目くじらを立てて、朱美に対する態度を改めるように忠告した。


「どういうこと、マンドコロサマって朱美ちゃんのこと?」


「そうよ、呼び名が示す通りそこにいらっしゃる政所様はウツセミ全体の庶務と会計を管轄する政所の長官を勤められていらっしゃるわ。付け加えると政所様は源司さんの前に代永氏族の族長をされていた方でもあるのよ」


「え?!」


 紅子の口から自分が友達になって欲しいと頼んだ少女がウツセミの中でも屈指の有力者である上、先代の族長を務めていた人物と聞き、丹は驚きと同時に遥かに目上の立場のものに馴れ馴れしい口を利いてしまったことを後悔した顔で朱美の方を振り返る。


「まぁよいではないか紅子。近頃周りのものはみな、わしに余所余所しくなってしまったからな、1人くらい気さくに話しかけてくれる友がわしも欲しかったのじゃ」


「しかし現在紫水小路に最も長くお住まいになられているあなたと、つい先日ウツセミになったばかりの丹では立場があまりにも……」


「くどいぞ紅子、友達になるのに資格や条件が必要なはずないであろう。わし自身がそれでよいと申しておるんじゃから、配下のお前に指図されるいわれはない」


 紅子は一族の中で古参の朱美ともっとも年期のない自分の娘が友人関係を結ぶという話に難色を示すが、朱美はだだをこねる子どものような甲高い声で、しかしウツセミになってからは10年ほどの時間しか経っていない紅子に有無を言わせぬ威厳を感じさせて、丹が自分に親しく接することを許可した。


「本当にいいの朱美、ちゃん……?」


「何度も同じことを言わせるな、本当にお主らは似たもの親子じゃの」


 朱美が同じ質問を繰り返す紅子と丹の親子にうんざりした顔を浮かべると、紅子と丹は同じように戸惑った顔を互いに見合わせた。合わせ鏡のように相手が自分と同じ表情をしているのを見て、紅子も丹も思わず噴き出してしまう。


「さてと、ウツセミになったばかりの友に紫水小路の案内をしようかの。それじゃ紅子、わしは大切な友人をもてなさなければならんから、後のことは任せたぞ」


「ですからこの後の手続きを責任者の政所様にしていただくようお願いに参ったのです」


 紅子たちに事務処理を押し付けて朱美は丹を連れて遊びに出かけようとするが、紅子はその処理を進めるために朱美を探していたのだと主張して彼女を引きとめようとする。


「どうせ判子をつくだけの仕事じゃろう、わしの机の引き出しにある認印を好きに使ってよいぞ」


「そういういい加減な仕事をする訳にはいきません、政所様に書類を審査していただかねければならないんです!」


 丹の背中に腕を回して朱美は面倒な仕事から逃げ出そうとするが、紅子は朱美の空いている左腕を掴んで強引に彼女をその場に留まらせる。


「そこまで言うなら仕方ないのう、仕事を片付けるか。しかし紅子、最近茜のギスギスした所に感化されてしまったのではないか、わしは紅子はおっとりしている方がいいと思うがのう?」


「政所様に仕事をしていただければ、私もいちいち小言を言う必要はありません」


 朱美は紅子を懐柔しようと甘言を弄するが、紅子は毅然とした態度で上司に仕事をするように申し付けた。


「やれやれ、久方ぶりに新しい友人ができたというのにその歓迎をしてやれんとはな…すまんのう丹、お前に付き合ってやれんで」


「今度暇な時に遊ぼうよ、朱美ちゃん」


「うむ、その時は心行くまで楽しもうぞ」


 朱美が仕事のせいで丹に構ってやれないことを謝罪すると、丹は多忙な朱美の身を気遣って時間がある時に付き合ってくれればいいと言葉を返した。朱美は友の気遣いに感謝しながら、一緒に楽しい時間を過ごせることに期待して紅子に付き添われて階下の事務所へと降りていった。


「友達、か……」


 丹はウツセミの世界に関する無知のおかげで新しい友人を得ることができた喜びと共に、人間だった時に親しくしていたカンナを始めとする友人たちのことを思い出して少し寂しい気持ちになる。


 叶うことならば人間だった頃の友人とも関わり続けたいと丹は願うが、彼女たちと住む世界が違ってしまった今それは到底叶いそうにないと諦観する。


「わたしたちと深い縁のあるクーくんとはこれからも会えるのかな?」


 学校の知人たちの顔を懐かしんで思い返しているうちに、その仲で唯一ウツセミに関わりを持っている少年のことも丹は自然と思い出した。誰にともなく丹はウツセミの天敵にして守護者をしており、幾度も彼女の窮地を救ってくれた恩のある少年ならばまた会えるかもしれないと淡い期待を抱いた。



第8回 了

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