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第6回、異端への転化

 置屋の外壁を伝って脱走を企てたまことが転落事故を起こし、彼女を救うために丹をウツセミに転化させるという源司の奇矯な申し出に茜は驚きの色をその秀麗な顔に浮かべる。


「そんなに意外かい、丹ちゃんは紅子によく似た美人だしスタイルもいい。少なくとも外見的には充分にフロアに出せると思うけど?」


「確かに見てくれは悪くないですけど、性格もあの女と似て甘ったれているから客商売には向きそうにはないですよ?」


「それなら政所まんどころ朱美あけみ姐さんに面倒を看てもらえばいいさ。見た目の歳が近い部下が来れば姐さんも喜ぶんじゃないかな?」


「ですが誰とも情を育んでもいないようなものを仲間に加えるなんて…あの女の時だってその件は散々問題にされたでしょう? 正直何度も例外を設けるのは……」


「族長の横暴が行き過ぎて一族の規律が守れなくなる、かな?」


 丹を転化させることに茜が難色を示すのを、源司は族長であるにも関わらず規律を破るのを愉快そうなに横目で見る。


「確かにいきなりウツセミに転化させられたら突然人間でなくなったことへの戸惑いは大きいし、それ以上にオレたちウツセミの本質を理解しないものがいると一族としての意識の統制も難しくなるという君の言い分はよく分かる」


「そう分かっているのなら、その小娘を同胞に引き入れるのは止めるべきです」


 源司がきちんと道理を弁えていることを確認した上で、茜は族長にイレギュラーな存在を生み出すことを思い止まるように諫言した。しかし源司は一族の規律を遵守しようとする茜の視線を正面で受けながら、首を横に振ってその思いを拒絶する。


「でも紅子の時は一族の統制を保つためにどうしても彼女を生き延びさせなければならなかったことを君も覚えているだろう、茜?」


「…ええ、あの時は一族の存亡のためにあの女から聞き出さなければならないことがありましたから。でも今回は違うでしょう、その分別のない小娘の自業自得です」


「自業自得ねぇ、相変わらず手厳しいなぁ君は。誰だって自由を奪われる境遇に陥ればそこから逃げ出そうとするだろう?」


「失礼ですがそのような発言は族長のあなたが口にすべきではありません。私たち置屋は飢えて理性を失いナレノハテに身を崩す同胞を出さないために、餌となる人間を供給しているのです。そして置屋の管轄も代永の族長であるあなたの務めでしょう?」


 茜は強い態度で目上の存在である源司の発言に反論する。茜が商品である人間の扱いを峻烈なまでに行っているのは、同胞を生かすために栄養源を提供する置屋の責任者としての矜持によるものであり、必ずしも人間を侮蔑している訳ではない。茜の中の優先順位が同胞であるウツセミの方が人間よりも高いだけの話なのだ。


「そうだね、君の置屋の管理者としての態度は間違っちゃいない。でもさ、君の言う同胞の中には丹ちゃんの産みの親である紅子も含まれているってことを忘れてない?」


 源司は茜の仕事に対する熱意に感服しつつ、彼女が支援すべきものの中には丹の母親である紅子も含まれていることを示唆する。同胞の中から紅子を除外していたことを思い知らされて、茜ははっとした表情になる。


「いくら10年近く顔を合わせていないといってもさ、自分がお腹を痛めて産んだ子どもがこんなにあっけなく死んじゃったら紅子もやりきれないんじゃないかな? そして同胞を慈しむことが出来る君には彼女の心の痛みが分かるんじゃないかい、茜?」


「だからといってあの娘だけ特別扱いする訳には……」


「それに丹ちゃんは強い情を結んでいる同胞がいるじゃないか、恋人以上に強力な親子の愛という情を持った相手がね」


 これまで難物のウツセミを相手にしても商談において自分が損をするような失敗をしたことのない茜だったが、年長者の余裕と十人十色の同胞たちを率いられるだけの度量を持った源司相手には分が悪く上手く丸め込まれてしまう。


「まだ何か異議はあるかな、あるのなら余計な蟠りは残したくないから今のうちに聞いておくけれど?」


「いえ…族長のあなたがそう判断されたのなら配下の私はそれに従うまでです」


 丹をウツセミに転化させることに対して茜は溜飲のいかない様子だったが、これ以上議論を重ねたところで源司はのらりくらりと自分の抗議をかわし続けることは目に見えていた。最終的に茜は渋々上位者である源司の意見に恭順の意を示すことにする。


「それなら結構。さてと、ぼやぼやしている時間はないし丹ちゃんを転化させようか。すまないが置屋の一室を貸してくれないか?」


「分かりました、すぐにお部屋にご案内します」


「ああ、それと政所に使いを出して紅子を呼んできてくれないか? 丹ちゃんと情を持っている相手として彼女には転化に立ち会う義務がある」


「了解です、急ぎで使いのものを出します」


 丹をウツセミに転化させることが決まると、源司は矢継ぎ早に転化の準備に関する指示を茜に出していく。茜も慇懃無礼な調子で彼の指示に即答すると、源司よりも先に置屋の建物の中に入って命令されたことを実行し始めた。


「…こんなことをしても君はきっと喜ばないだろうなぁ。でも君をウツセミに転化させて生き永らえさせることが、大好きだった母親を君から引き離してしまったことへの精一杯の贖罪と思ってほしい」


 それまで飄々とした態度を貫いていた源司は一瞬申し訳なさそうな顔で足元に横たわる丹のことを見つめる。それから源司は足元にしゃがみこんで意識を失った丹の体を、壊れ物を扱うように丁寧に地面から抱き上げた。そのまま源司は丹を両腕に抱いたまま、置屋の中へと入っていく。


 最初に置屋に入れられた時は人権を剥奪された商品として、そして二度目は肉体的にも人間ではなくなり自分を幽閉し買い付けようとしたものと同じ化け物になってしまうことがなんとも皮肉だった。


* * *


 丹が監禁されていた部屋は彼女の手によって窓が壊されていたので、茜は丹をウツセミに転化させるのに別の部屋を用意した。応急処置で傷口の上に消毒したガーゼを当てて包帯を頭に巻いた丹は仰向けで寝台に寝かされている。


「来たね紅子、早かったじゃないか」


「…娘の一大事を聞いて黙っていられる親はいないでしょう」


 慌てた様子で置屋にやってきた紅子に源司は丹の寝そべる寝台の脇から挨拶をする。紅子は彼女の所属する氏族の代表者に対するものとしてはおざなりな返事をすると、丹の枕元へと駆け寄った。


「ごめんなさい丹、私のせいであなたをこんな目に遭わせて……」


「紅子、悪いけど悲しんでいる暇はないよ。完全に生命活動が停止してしまっては転化させようがないからね、施術が済むまで少し離れていてくれないか?」


 全身を強打して昏睡状態に陥っている娘の手を取り紅子は涙声で謝辞を述べるが、一刻を争う事態のため源司はやや冷たい声音で紅子に自分の邪魔にならないよう寝台から離れるように言い渡した。


「そんなに時間はかからないから安心してくれ、そして施術が済めば君は娘とずっと一緒にいられるよ」


 源司は重態の娘の身を案じる紅子を落ち着けるような微笑みを向けながら、羽織っているジャケットの懐に手を伸ばした。源司の手が懐から出された時にはその手に一振りの短剣が握られていた。


「そう、魔剣で貫いた傷口からオレの妖気を心臓に流し込めば彼女は晴れてウツセミの一員となる」


 源司が懐に隠した鞘から引き抜いた短剣の刃を天井から降り注ぐ灯に翳すと、切っ先から鍔元にかけて縦にスリットが入った刃渡り30cmほどの刃は鈍く煌く。源司は輝く刃を掲げながら寝台に横たわる丹の浴衣に手を伸ばし、胸元を肌蹴させる。更に源司は浴衣の奥にある丹の胸を隠す下着に手をかけて、施術を行い易くするために彼女の素肌を露にしようとした。


「源司さん待って」


 源司が丹の肌着を剥ぎ取ろうとするのを紅子が制する。源司は丹の体に触れている左手を一度引き戻して紅子の方を振り返った。


「どうしたんだい紅子?」


「源司さん、丹を転化させるのを私にやらせてくれませんか?」


 紅子は源司の前に進み出ると、丹の胸に短剣を突き立てて転化に必要な妖気を流し込む役割を自分にさせてほしいと頭を下げて頼み込む。


「何言ってるんだい、ウツセミになって10年足らずのあんたに他人を転化させるだけの力がある訳ないだろう?」


 紅子の願いに対する返事を源司が口にするよりも早く、茜が会話に介入してきた。


「施術に必要な魔剣を持っているのは同胞の中でも限られたものだけだが、施術自体を行うのは誰にも許可はされている。しかし施術を行うものに相手を転化させるだけの妖気が備わっていなければ、心臓を刺し抜かれた人間は当然死んでしまう。丹ちゃんをウツセミに転化させるのならば、君がやるよりもオレがやる方が確実だ」


「そういうことだからあんたは娘が転化するのをそこで黙って見学してなさい」


 紅子が丹を転化させる施術の遂行に対しては源司も否定的な意見を述べる。それを聞いて茜は若輩者の紅子に分を弁えるように申し付けて、脇に退くように手を払った。


「…人間だった時、私はこの子の母親でした。出来ることならこの子には人間としての人生を全うして欲しかった、でもそれが叶わず闇の世界に引き込まれてしまうのならその罪は母親の私が背負います」


 目上の吸血鬼2人から自身の希望を拒まれても、紅子は引き下がらずに再度丹を自分の手で転化させたい願いを申し出る。それまで伏し目がちだった視線を真っ直ぐ正面に向けて、紅子は代永氏族の族長と商取引を統括する置屋の主の顔を直視した。


「いい加減にしなさいよ、それともこうして押し問答している間に可愛い娘が本当に死んでしまってもいいの?」


「人の精気を奪って生きる境遇に墜とされた恨みあるいは心臓を貫かれて人としての最期を迎えた恨み、そのどちらでも私は身をもって引き受けます。だってこの子は、丹は私の大切な子どもですもの」


 今晩何回紅子と丹の母子に煩わされているかと頭を抱えながら茜は紅子にこれ以上余計な口出しをしないように言い放つが、紅子は茜の罵声に怯むことなく正面で応対すると、寝台の上の丹を慈愛に満ちた眼差しで見つめる。


「…分かったよ、丹ちゃんの施術は母親である君に任せよう」


 紅子の意外な頑固さに根負けして源司は観念したように深く息を吐き出すと、抜き身の刃を指で挟んで短剣の柄を紅子に差し出した。


「源司さん、その女に施術を任せたら小娘は殺されちゃいますよ?!」


「おや茜、さっきはあれだけ反対していたけれど案外君がこの中で一番丹ちゃんに転化してほしいのかな?」


「ち、違います、私は族長の源司さんがこんな下っ端の女の我儘に付き合う必要はないと言いたいだけです」


 紅子が丹に施術を行うことを源司が承諾したことに茜が反感を示すと、源司は茜のことをからかうような目で見ながらそう訊ねる。茜は少し恥ずかしそうに顔を紅潮させながら首を横に振って、族長が若輩者の酔狂に合わせることはないと主張した。


「茜、族長のオレだって人間をウツセミに転化させるのは楽じゃないんだ。他人に代わってもらえるのなら喜んで役目を譲るさ」


「それはそうでしょうけど…その女が源司さんの代わりに施術を行うのはあまりにも力不足です」


「それなら茜、君がやるかい、置屋の運営に辣腕を振るっている君なら充分に人間を転化させられるだけの力はあるだろう?」


「…遠慮しておきます、その小娘に施術をしてやる義理は私にはありません」


 源司はまたしても茜の揚げ足を上手いこと取って彼女を言い含める。齢百年以上になる茜でも人間をウツセミに転化させることは大変な重労働であり、丹の施術をする役目を押し付けられるのはごめんだと茜は大人しく引き下がることにした。


「それじゃ決まりだね。さあ紅子、君の手で娘を転生させてくれ」


「はい」


 紅子が丹の転化の施術を執り行うことが満場一致で可決されると、源司は自分が立っていたスペースに紅子を手招きする。紅子は源司に頷き返すと丹の真横に並び、肌蹴させた浴衣の胸元をもう少し広げて娘の身に着けている下着を捲し上げて柔肌を露にさせた。


 置屋の最上階から転落して半時間弱、辛うじて息はしているものの丹の呼吸は弱く腹部の上下動はごく僅かだった。


「いいかい紅子、魔剣を思い切り丹ちゃんの胸に突き立てたら傷口に意識を集中させるんだ。きちんと集中していれば魔剣のスリットを辿って君の体内から妖気が丹ちゃんの中へと流れ込んでいく。そして丹ちゃんの体内にしょくが発生すれば彼女は無事に転化したことになる。蝕が発生するまでは魔剣を抜いちゃいけないよ」


「わかりました」


 源司は初めて施術を行う紅子に転化のコツを教授していき、紅子は源司の説明に相槌を打ちながら両手で短剣の柄を握ると、切っ先を丹の女性らしく膨らんだ胸の中心に向けて逆手で魔剣を構える。


 紅子は軽く瞼を閉じて何度か深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、かっと目を見開くと同時に頭上に掲げた刃を娘の胸元目掛けて振り下ろす。紅子の振り下ろした刃の切っ先は狙いを違わずに丹の心臓の真上に突き刺さっていき、紅子は全身の体重をかけて深々と娘の胸の奥へと短剣を押し込んでいく。


「躊躇うなっ、もっと深くまで突き刺せ!」


 心臓を刺されたショックで丹が反射的に目を見開くと、紅子は危うく短剣から手を離しそうになってしまう。しかし紅子の手が柄を離れるよりも先に源司は彼女を叱責して施術を完遂するように命令した。源司に忠告をされて紅子は硬く目を瞑って歯を食い縛りながら魔剣を更に丹の体内の奥まで刺し込んで行く。


 心臓に短剣を突き刺された丹の喉から苦悶の息が漏れ、彼女の体は小刻みに痙攣する。しかし娘がどれだけ寝台の上で悶えていようと、覚悟を決めた紅子は固く両手の指で短剣の柄を握り締めて離さない。やがて丹の瞳から生気が消えてその輝きが虚ろになると、胸元に短剣が突き刺さったまま丹は身動き一つしなくなった。


 紅子も娘の胸に短剣を突き立てたまま彫像のように固まって動かない。先ほどまで丹の呻き声が響いていた室内が不気味な沈黙に閉ざされた。源司と茜は紅子の施術の成否を固唾を呑んで見守る。


「源司さん、やっぱりあの小娘は……」


 しばしの無言の後、茜は案の定紅子の力では丹を転化させるのに失敗したのではないかと勘繰って源司に語りかける。茜が口を開いたのと同時に、紅子が丹の胸元から短剣を引き抜いた。紅子が引き抜いた刃が血に染まっていれば丹の転化は失敗、刃に一点の曇りや汚れもなければ成功であり、源司と茜の視線は自然と紅子の握る短剣の切っ先に向けられる。


「どうやら施術は成功したらしいね」


 紅子が右手に提げた短剣の刃が天井からの光を反射して煌くのを見ると、源司は丹の転化が無事に済んだことを確認して安堵の息を吐く。


「ええ…これで丹も、ウツセミの一員です……」


「紅子?! 無理もないか、自身もウツセミとして未熟な彼女が転化を成功させるにはそれこそ全ての妖気を丹ちゃんに注ぎ込む必要があっただろう」


 紅子は源司の呼びかけに応答し、娘の転化が成功したことに誇らしそうな顔を浮かべると糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。紅子の指を離れて床に転がった魔剣を無視して、源司は倒れこんだ紅子を咄嗟に抱き留める。


「茜、すまないけど紅子を休ませる部屋を貸してくれないか?」


「ちょっと待っててください、すぐに支度を整えますから」


 源司は紅子の体を脇に抱えて支えたまま、力を使い果たした彼女が休める部屋を用意するように茜に命じる。転化の施術を行った後の消耗の度合いが半端なものではないことを茜も充分承知していたので、今回は気前よく部屋の支度をすることを応えた。


「紅子それに丹ちゃん、今はゆっくりとお休み。まぁ、面倒なのはきっと丹ちゃんが目を覚ましてからなんだろうけど……」


 自分の腕で抱きかかえている紅子と寝台の上に横たわる丹に交互に目を向けながら、源司は二度目の出生に立ち会った母子に労わりの言葉をかける。それと同時に源司は、本人に何の了解も得ないままウツセミに転化させてしまったことの弁明をどうすべきかに頭を悩ませながら、丹が目覚めてからの対応を思案し始めた。


* * *


 ウツセミを自称する吸血鬼の眷属たちが暮らす紫水小路の路肩には多くの建物が並んでいたが、そのほとんどが平屋もしくは二階建ての造りになっている。低層の建物に囲まれている状況では5階建ての洋館である置屋は非常によく目立つ建物であり、離れた場所からでもはっきりとその位置を確かめることができた。


 紫水小路に誤って足を踏み入れた人間の中から見た目が優れており商品価値が見込めそうな者を一時的に滞在させて、餌となる人間を求めている吸血鬼に斡旋する商売を行っているその置屋に1人の吸血鬼が歩み寄っていた。


 やがてその女性は置屋の重厚な扉を押し開けて洋館の中へと入り、入り口で応対してきた若い職員に用件を告げる。置屋を訪ねてきたその女性が人間を求めてきたのではないことを聞いて対応してきた職員は表情を曇らせると、置屋の管理者をしている上司に伺いを立てて判断を仰ぐことにする。


 職員が管理者の判断を聞きに行っている間、置屋を訪ねてきた艶やかな黒髪をした吸血鬼の女性は臍の前に軽く組んだ手を絶え間なく組み替えながら、落ち着かない様子で置屋の管理人からの景気のいい返事を待つ。しばらく黒髪の吸血鬼が扉の前に立っていると、扉の正面から伸びる階段から典雅なドレスを纏い、髪を夜会に赴くように豪奢に結い上げた女性が悠然とした足取りで降りてくるのが見える。


「お忙しいところお邪魔してすみません茜さん、ところで丹の目は覚めましたか?」


「残念だけどまだだよ、あんたの娘の目が覚めていたらとっとと置屋から追い出しているさ。全く金を落としてもくれない奴をいつまで預かってなきゃいけないんだい」


 壇上にいる置屋の主を見上げた際に緩やかにウェーブした黒髪を揺らした吸血鬼紅子が置屋の一室に安置されている娘の具合を訊ねると、置屋の運営に辣腕を振るう中堅の吸血鬼茜は預かっている紅子の娘の意識が今も回復しないせいで商品となる人間を置く部屋が一室埋まってしまっていることを忌々しそうな顔で返事をする。


「そうですか…転化させてからもう3日になるのに、まだ丹の目は覚めないんですね」


「ウツセミになって10年足らずのあんたの力であの娘の魂が蝕に変貌しただけでも奇跡みたいなものさ。族長が転化の施術を行っても被験者が覚醒しないことだってあるんだから、あんたみたいな未熟者に転化させられた娘が目を覚まさなくたっておかしくないよ」


 丹の魂と肉体が人間のものから吸血鬼のものへと変貌してから3日経っても、丹の意識は戻らずに彼女は転化の施術が行われた部屋の中で昏睡状態にあった。紅子は足繁く娘の回復を信じて置屋に足を運んでいたが、その甲斐空しく丹は一向に目を覚ます兆しを見せずにいるのだった。


「ちょうど今は売り物になる人間がいないんで部屋は空いているから問題ないけど、いつまでもあんたの娘を置いてやる義理はないよ」


「ええ、あまり長いこと茜さんにご迷惑をかける訳にはいきませんから」


「当たり前じゃないか。さあ用が済んだらさっさと帰りな、客でもないウツセミに中をうろうろさせても目障りなだけなんだからさ」


 部屋に置いていても何の利益ももたらしてはくれない丹のことも人間を求めて置屋に足を運んできた訳ではない紅子のことも茜は邪険にあしらって、紅子をすぐにでも店内から追い払おうとする。


「…失礼しました、また明日寄らせてもらいます」


「毎日毎日商品を買う気もないくせに来られても迷惑なんだよ、あんたの娘の目が覚めたらすぐにでも連絡してやるからそれまで置屋に近づくんじゃないよ」


「よろしくお願いします」


 茜に急かされて紅子が置屋の建物から出て行こうと扉のノブに手をかけると、階段を登っていこうと紅子に背を向けた茜が背中越しに丹が覚醒次第連絡をすると告げてくる。紅子はつっけんどんな態度をしていても茜が多少は自分たちに対して気を使ってくれているらしいことを察して、彼女の心遣いに対し頭を垂れて礼を言った。


「あんたにお願いされなくてもやってやるさ、こっちは厄介者払いがしたくて仕方がないんだからね」


 終始天邪鬼な言動で紅子に応じると茜は振り返らずに階段のステップを登っていった。紅子も置屋の扉を開いて、外へと出て行きその場を立ち去った。


* * *


 置屋の玄関の前で紅子と茜が会話をしている頃、同じ洋館の5階にあるカーテンが閉められて窓の外からの光を遮った部屋に置かれた寝台の上で、体に掛け布団をかけられて真っ直ぐな姿勢で横たえられた丹の体が小さく揺れた。


 この部屋の中でウツセミに転化させられて以降、寝返りどころか指一本動かさなかった丹の体に初めて動きが見られる。先ほどは僅かに肩を震わせただけだったが、丹は首を少し左に傾けて身動ぎしながら眉間に軽く皺を寄せて瞼を動かす。そして一度固く閉じられた後、丹の瞼はゆっくりと開かれていった。


 言葉にならない声を漏らしながら丹は虚ろな瞳を左右に動かして、自分の置かれている状況の検分を始める。まだ眠たそうな目をした無表情な顔で丹は天井を見上げていたが、おもむろに上体を寝台の上から起こす。胸元にかかっていた掛け布団が落ちて、腰の辺りで折り重なった。


「白い壁…ここ、前に見たことがある……」


 丹は呆然とした面持ちのまま部屋の壁に張られた壁紙の色を白だと呟くが、電灯どころか蝋燭すら点けられていない部屋の中はほとんど暗闇であり壁紙の色を判別するどころかどこに壁があるかさえも覚束ないような状態だった。


 だが実際この部屋の壁紙の色は以前丹が幽閉されていた部屋と同じく白であり、間取りもほぼ同じだったので、丹がこの部屋の様相を目にすれば既視感を覚えるのは不思議ではない。そして今の丹の目には部屋の様子がありありと映し出されていて、人間離れしているほど夜目が利くことこそ彼女が吸血鬼への転化に成功した証だった。


「なんかここ、居心地悪い…外に出たいな」


 丹はうわごとのように監禁されていた部屋と同じ間取りのこの部屋に居心地の悪さを感じてそれを訴えると、熱に浮かされているように覚束ない所作で寝台から降りる。寝台の脇に室内履きのスリッパが置いてあることに気付くと、丹はスリッパをつま先に引っ掛けて幽鬼のように頼りない足取りで部屋の入り口へと向かっていった。


「あれ、開かない…鍵がかかっているのかな? 仕方ない、また窓から出よう……」


 丹はドアノブの位置を一目で探り当てて扉を開けようと捻るが、力を込めて乱雑に回しても施錠された扉は開かなかった。丹は扉に鍵がかかっていることに気付くと、扉から部屋を出ることをあっさりと諦めて窓から飛び降りることを口にする。


 丹の意識ははっきりしているとは言えない状態ではあったが、ある程度記憶が保たれていることは確かだろう。丹は扉の前で回れ右をして窓の方に向き直ると、千鳥足で窓辺に歩を進めていく。


「うわぁ、外はこんなに明るいんだなぁ……」


 カーテンを開いて窓の先に見える空はいつも通り夕暮れの一時を永遠に留めた紫水小路のものだったが、かつては薄暗く感じていたその空を眩しそうに丹は目を細める。夜目が利くようになった丹の目には、人間の間には薄闇に思える紫水小路の光でも充分過ぎるほどの明るさに感じられるのだった。


「あれ、窓も閉まっている…でもこれくらい簡単に破れるよね?」


 丹は窓を開けようとして桟に手を伸ばすが、出窓は開放できる作りにはなっていなかった。しかし窓枠を開け放つことが出来なくても、窓から外に出ることは出来ると丹は何の疑いも抱いていなそうに平然としていた。


 丹は出窓の迫り出した部分に乗って右の膝を胸元に寄せると、次の瞬間思い切り引き寄せた右足で窓ガラスを蹴りつけた。サンダル履きの丹の蹴りを受けた窓ガラスは音を立てて砕け散り、ガラスの破片は紫水小路のあちこちに灯る淡い光を反射しながら地上へと降り注いでいった。


「これでよし…それじゃ行こうか」


 丹は残ったガラスにも軽く蹴りを入れていって、自分が通れるだけの大きさにまでガラスの割れ目を広げる。丹は砕け散った窓ガラスの割れ目から外に身を乗り出すと、一息で地上に向かって飛び降りた。


 落下の加速度を受けて丹が羽織った寝巻きの裾が大きく広がり、丹の癖のある髪が風圧に煽られてたなびく。5階分の高さを急降下しているにも関わらず、丹は悲鳴をあげるどころか表情一つ変えなかった。


先日瀕死の重態を追った高さから再び飛び降りた丹だったが、吸血鬼に転化した今は猫のような軽やかさで楽々と着地を決める。ウツセミになったことで格段に向上した運動神経と強度を増した肉体のおかげで、丹は全く怪我せずに5階分の高さから降りた衝撃に耐えることが出来た。そして夢遊病者のようにあてもなく紫水小路にウツセミとしての一歩を踏み出していく。


ガラスの破砕音を聞きつけた茜や置屋の職員たちが丹の寝ていた部屋に駆け込んできたが、彼らが割れたガラスの割れた窓ともぬけの殻になった寝台を発見した時には丹の姿は紫水小路の薄闇の中に飲まれていずこかに消え去ってしまっていた。


* * *


 夕暮れ前、繁華街へと続く鱧川にかかる橋の橋桁に1人の女性が佇んでいた。薄手のボレロを羽織った胸元は豊かに膨らんでおり、ショートパンツから伸びる長く形のいい脚は道行く男たちの視線を釘付けにして止まない。縦ロールの髪が縁取る色白の顔の目元はサングラスで覆われていていたが、かなりの美人であることは充分に覗えた。


「この暑い中、外で人を待たせるのは少し失礼じゃありません来栖さん?」


「すまない、だがすぐ終わる用事なんだ」


 橋桁にいる美女はやってきた待ち人に不満を向けるが、遅れてきた男は平謝りするだけで特に相手を真夏の熱気に曝すことへの罪悪感は抱いていないようだった。


「その用事とはなんですの来栖さん、私もそれほど暇なわけではないのよ?」


「安倍さん正直に答えてくれ、あんた霧島の居場所に心当たりはないか?」


 口調は少しいらついているように聞こえるが、縦ロールの女は相手のぶっきらぼうな態度には慣れているらしく表情は怒っていない。サングラス越しのため相手の表情は確かめづらいものの、擦り切れたジーンズに色の褪めたTシャツ姿の少年、来栖託人くるすたくとは単刀直入に幾分高慢な態度を見せる安倍真理亜に数日まえから失踪しているクラスメイトの行方を訊ねた。


「霧島さん…あなたのお友達の丹さんのことね、あの方がどうかなされたの? けれども来栖さん、私が丹さんとお会いしたのはあの一度きりだけですわ」


真理亜は一瞬来栖が誰の行方を訊ねてきたのか分からない様子だったが、ナレノハテに襲撃されたことのある来栖のクラスメイトのことを訊いているのだと察したらしく、丹に関わったのはその時だけだと応えた。


「ということはあれ以来一度も霧島に関わっていないんだな?」


 真理亜が嘘をついているようには思えなかったが、先日の喫茶店での会話で彼女が自分よりも遥かに権謀術数に長けているということを思い知らされた来栖は、用心深く彼女の発言に偽りがないかを念を押すように訊き返した。


「ええ、善良で平凡な一般市民の丹さんに私が積極的に関わる理由はありませんわ」


「そうか…あんたがあいつを唆したんじゃないのならそれでいい」


 確証は出来なかったが元々真理亜が丹の失踪した原因に関与しているとは思っていなかったので、来栖は潔く真理亜の返答を信じることにした。真理亜が丹との関わりがないと判断した以上、真理亜と話す必要はないと来栖は彼女に背を向けてその場を離れようとする。


「来栖さん、もしかしたら丹さんはあれに襲われたのではなくて?」


 だが来栖が真理亜と反対方向に足を踏み出した瞬間、背中にかけられた一言で来栖は足を止める。来栖が自分の言葉に反応を示すのを見て、真理亜はウォータープルーフのルージュを塗っていっそう艶を増した唇に弧を描かせた。


「それはない、ここしばらく奴らが街中をうろついている気配は感じていないし、そういった話も聞いてない。それともあんたは奴らが出没した情報を知っているのか?」


「もしそうだとしたらどうなさるおつもり?」


「あんたに奴らが出没した地点を教えてもらって、始末をするだけだ」


「あら、私があなたに情報を提供する義理はなくてよ来栖さん?」


 澄ました調子で笑い声をあげる真理亜の方を来栖は精悍な眉を吊り上げた険しい表情で振り返るが、真理亜は来栖の剣幕を意に介さずに含み笑いを浮かべた顔で応じる。


「まあ怖い顔、来栖さんはもっと紳士的な方と思ってましたのにこれしきのことで気を悪くなさるなんてがっかりですわ……」


 真理亜は来栖の人物像に抱いていた期待が裏切られたことが心外そうに、芝居がかった仕草で顔を伏せる。真理亜の一挙一動におちょくられているような気がして来栖は怒りに身を焦がすような思いをしていたが、ナレノハテを狩る責務を負っているウワバミである自分が与り知らないナレノハテの出現情報を真理亜が握っているかもしれないと自重して彼女の挑発に堪える。


「そんな御託はどうでもいいから、奴らが街に現れたかどうかだけ正直に答えろ」


「新参者の私に聞かなくても、数世紀に及んで御門の街を先祖代々守ってこられたご自分の勘を信じればいいのではないのかしら? それとも私にあれが出没したかどうかをお聞きになるのが、自分が与えられた勤めを充分に果たしている自信がないことの現れかしら?」


「そんなはずないだろう、俺は責任を持ってウワバミの役割を遂行している!」


 とうとう来栖の忍耐力は限界を迎え、真理亜の嘲笑を聞くと激昂して怒鳴り返してしまう。だが罵倒を浴びせられても真理亜は余裕のある態度を崩さずに、自分のいいように踊らされている来栖の滑稽な醜態を見て楽しんでいるようだった。


「どうかしら、本当に責任を全うしている自信があるのならこんな安い挑発でいちいち動揺しないのではなくて? 私に丹さんのことをお聞きになられたのも、本当は自分が街の安全をちゃんと守っているという確信がなくて丹さんがあれの毒牙にかかったという懸念をお持ちだからでしょう?」


「違うっ、俺は自分の力を信用しているし、やるべきことはやっている! 自分の対処が正しいかどうかなんて迷っちゃいない!」


「大層な自信いえ自惚れというべきかしら? とにかく偉そうな口を利くのなら、まずは御門市内に潜伏しているあれを根絶やしにしてからにしてほしいですわ。被害が出てから事後的に処理したくらいで責任を全うしているなんて、呆れてものが言えませんわ」


「…確かに俺の対処が後手に回る傾向があることは否定しない、だが今存在している奴を残らず始末すれば本当にそれで全てが丸く収まるのか?」


「当然ですわ、悪しきものが地上から排除されれば私たち人間に輝かしい未来が主から与えられるのです」


 来栖は真理亜が指摘するナレノハテへの対応に自分の非があることを認めた上で、ナレノハテとウツセミを全滅させることが本当に解決になるのかと問いかける。真理亜は組織の理念に掲げられていることを信じて疑わずに、神の意向に反する存在を打ち滅ぼすことは正義だと主張した。


「安倍さん、あんたの信じている神様は例え人の生き血を啜るような化け物でも許してやれるようなもっと器量のでかい奴だと思うぜ。少なくとも俺は神様が実在するのなら、そんなケツの穴の小さい奴であってほしくはないね」


 来栖は真理亜の狂信的な態度を見て、ナレノハテを駆除するという目的は共通しているものの、真理亜の所属しているハライソという組織の理念と数百年間脈々と来栖の家に受け継がれているウワバミとしての使命感の間には埋めがたい齟齬があることを改めて実感した。


 そして彼女と彼女の在籍する組織の掲げる信仰は神の教えを恣意的に解釈しているのではないかと疑問を呈して、来栖は真理亜に対する怒りを納めると同時に歪んだ信仰を植えつけられてしまっている彼女に同情を寄せながら首を正面に向き直らせた。


「な…来栖さん、今の発言は聞き捨てなりませんわ!」


「そりゃ結構、だが俺たちがウワバミと名乗るようになったのは、イブを唆して彼女と伴侶が楽園から追放される原因を作った蛇の名を称することで一族が滅びるまで自分たちの原罪を意識するためってことは頭の片隅に置いといてくれ」


自分の信じる神を侮辱されて真理亜は怒りで顔を紅潮させるが、来栖は彼女が言おうとすることを先読みした上で自嘲する気味に自分の一族は既に神の教えに背いた罪を背負っているのだと真理亜に告げる。


「貴方の一族の原罪が何なのか分かりませんが、神のご意向から背いていることを公言したところで免罪符にはなりませんわよ」


「自虐的な態度で開き直ったところで犯した罪が消える訳ないくらい分かっている。でも俺たちは全てを飲み込んでしまうウワバミの名の通り、選り好みせずにナレノハテに関するあらゆることを受け容れてきた。この先も奴らと関わり続けるつもりなら、もう少し広い心でことに望むことをお勧めするぜ」


 吸血鬼という人の生き血を奪う呪われた存在であっても偏見の目を持って接することは確かに博愛的な神の御心に反するかもしれないと感じたらしく、真理亜が来栖の言葉に反論できず口を閉ざしているうちに、来栖は足早に彼女から離れていくと石段を登って堤防の上に上がり真理亜の頭上にある橋を渡って繁華街の雑踏の中へと姿を晦ましていく。


 丹の父親、いつきと学校で面談したことに続いて、今日の真理亜とのやりとりでウツセミの天敵にして守護者であるウワバミとしての己の未熟さを再認識させられた来栖は、弁の立つ真理亜を舌戦で言い負かしたにも関わらず心は虚ろで乾いていた。


 通りの両脇に爛然と輝いて視界をちらつかせるネオンの光も、店頭で声を張り上げて客を呼び寄せようとする呼子の張りのある声も、自分の周囲でざわめく通行人たちの浮かれた話し声も今の来栖には全て空しく思えてならなかった。


 真理亜が自身の属している組織の方針に何の疑いも抱かず組織の理念が達成されれば文字通り地上に楽園が創設されると信じている姿が滑稽に思える一方で、来栖は自分がウワバミの役目を果たし続けることで世の中の何が変わるのだろうと思うようになり始めていた。ウワバミの責務は苛烈である代わりに崇高なものであるという幼少期からの価値観が揺らぎ始めていると来栖は自覚する。


母親の死後、引き取られた祖父である先代のウワバミの下で来栖は後継者になるために厳しい修行に勤しんでいた。遺伝上の父を惨殺し母親の幸せを奪ったばかりか、自分を養うために身を粉にして働いて夭折してしまった母の仇であるナレノハテへの復讐心に突き動かされて来栖は昼夜問わず鍛錬に明け暮れ、15歳を迎えた頃に正式にウワバミの名前を襲名した。


 先代から役目を譲られる前も彼について御門市内に出没したナレノハテの始末に来栖は従事しており、人間の体内で発生する生体エネルギー剣気を駆使してナレノハテと戦う経験を充分積んでいたし、両親の仇が取れると思うと責務の重圧を感じる以上に意気揚々とした気持ちで修羅場に身を投じていった。


 だが体の内側から湧き上がる剣気をそのまま発散して敵にぶつけるはつや剣気を拡散させずに束状に収縮させて一点集中で打ち貫くれんを用いてナレノハテを倒し続けても、親を失った来栖の悲しみは癒えることはなかった。その一方で何匹もナレノハテを屠っても来栖の中に芽生えた復讐心は萎えることなく、次なる贄を求めて来栖を戦いの場へと駆り立てるのだった。


 そうしてナレノハテを打ち滅ぼしても満たされない気持ちと自分から親と一緒に暮らすという人並みな幸せを奪ったナレノハテを許せない思いの狭間で葛藤しながらウワバミの仕事を続けているうちに、この春来栖は世間体を保つ目的でくいな橋高校に入学して小学校1年生の時に同級生だった丹と再会する。


 来栖と霧島という同じカ行の苗字の2人は、小学校に入学して初めての席で隣同士になった。特別親しい仲だっただけではないが自分と同じように片親であるという事情から来栖は丹に親近感を抱いていたし、当時は存命だった母親との慎ましいながら満たされていた日々の思い出とも重なって不思議と10年近い月日を経ても彼女の名前は覚えていた。


 再会を果たしてからも来栖と丹は数奇な運命で結ばれていき、今年7月半ばに丹がナレノハテに襲われているところを来栖が助けたことで2人の間に御門の街に数百年隠匿されていることに関しての秘密が共有されるようになる。自分が背負っている運命に関連した話題で丹とやりとりを重ね、ウワバミが庇護しているウツセミの族長源司の口から丹も意外な形で関わりを持っていることを知ると、漠然としきたりに従ってウワバミとしての職務を機械的に遂行しているだけだった来栖の中に何が芽生え始める。


 それは遠い先祖が相互不可侵の関係を結んだウツセミもナレノハテほど無軌道なやり方はしていないものの人間を脅かす存在には変わらないのだから本当に義理立てすべき相手かどうかという疑念でもあったし、そもそも自分がウワバミとして戦い続けたところでウツセミの存在が秘匿されるとも限らないし、真理亜に非難された通りナレノハテの始末は後手になりがちなのだから有効性は薄いのではないかという自分の信念への揺らぎであった。


何よりも復讐心がナレノハテと相対する一番強い動機である自分が、ウワバミが代々貫いてきた理念を本当に理解できているのか、そしてウワバミであり続けることが本当に自分にとっても世間にとっても意義がある事なのかと来栖は無意識的に悩むようになっていた。


 悶々とした気持ちで堂々巡りの悩みに苛まれながら渋面を浮かべて来栖が歓楽街を北上していると、ジーパンのポケットに押し込んだ携帯電話から着信音が聞こえてくる。


「源司サンか、また仕事の依頼か?」


 来栖は電話に出るのが億劫そうな顔で携帯電話をポケットから抜き出して折りたたまれた本体を展開すると、液晶画面に表示された発信者の名前を呟く。誰とも話をする気にはなれなかったが、目下来栖の生活費は源司から振り込まれるナレノハテの始末料によって賄われており、得意先からの電話を無碍にする訳にもいかず来栖は渋々電話に出ることにした。


「もしもし…え、どういうことですか、霧島が紫水小路からいなくなった?」


 少々懐が寂しくなってきたのでそろそろ仕事の依頼が欲しいと思っていた来栖は源司の話す内容にある程度集中して耳を傾けていたが、源司が口にしてきた話の内容を聞いて来栖は耳を疑う。


「確かに霧島は数日前から行方不明になってましたけど何であいつが紫水小路に? え、あいつがウツセミに転化したなんて冗談でしょう?!」


 平凡な女子高生である丹が退廃的な空気に包まれ、その瘴気に引き寄せられるほど心を病んだ人間しか立ち入れない紫水小路にいたこと自体来栖には驚きだったが、彼女が紫水小路を支配する吸血鬼の仲間入りをしたと聞いてますます怪訝な面持ちになる。


「…なるほど、そういう事情ですか。分かりました、ちょうど今盛り場にいますし俺も辺りを探してみます、ええそれじゃ」


 源司から丹がウツセミに転化した事情を簡単に説明されると、来栖は源司を質問攻めにするよりも丹の身柄を確保することを優先することにする。眠っていた置屋からいなくなった丹の姿が見当たらないことで紫水小路の外に出てしまった可能性を源司が示唆すると、来栖は紫水小路へのアクセスポイントがある繁華街一帯の捜索をする事を彼に申し出て電話を切った。


「お袋さんだけじゃなくてとうとう自分もウツセミになっちまったか、だから俺に関わるのを止めろって言ったんだ」


 丹がウツセミやナレノハテの生態や彼らを監視するウワバミの役目に精通することを好ましく思っていなかった来栖は、丹が自分たちとの関わりを深めていった挙句に彼女自身もウツセミにならなければ死んでしまう状況に陥ってしまったことを皮肉に思う。


 だがウツセミに関わることで取り返しのつかなくなる恐れに対する丹の軽率さや、彼女をそれらの事象から遠ざけられなかった自分の怠慢を責めている暇はなかった。吸血鬼に変容したばかりで丹の体は精気が不足しており、彼女は新鮮な生き血を介して転化の際に喪失した精気を補充しなければならなかった。丹の発見が遅れてしまえば、彼女は自分の糧になる血への渇望に支配されてしまい理性を失ってナレノハテへと堕ちてしまう危険性があった。


「くそっ、頼むからクラスメイトを手にかけることになるのだけは御免だぞ」


 来栖は一刻も早く丹を保護する必要性を痛感しながら、何千人もの人間で賑わう人混みの中に彼女の姿を求め始める。


「霧島ぁっ」


 来栖は自分の担わされたウワバミの責務に対する迷いやその勤めを通して存在の隠蔽をすべきウツセミの存在を認めるか否かという葛藤を棚上げにして、吸血鬼になってしまったクラスメイトの捜索に全力を注ぐことにする。不思議とやるべきことが一つに絞られると、来栖はそれまで煩悶としていた心が少しだけ明るくなったような気がした。



第6回 了




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