第7話 怖い顔の治癒士、夜の街を歩く
その日は珍しく、夜に外へ出た。
理由は単純だ。塩が切れた。
神殿の食事は夕方までで、夜は各自で何とかするしかない。俺は最近、物置部屋の片隅に小さな鍋と食材を置いて、簡単なものを作るようになっていた。前の世界で一人暮らしが長かったので、料理は一通りできる。
ただ、今夜は塩を切らしていた。
グランに借りようかと思ったが、グランの家は治癒所から反対方向だ。夜道をわざわざ行くのも悪い。
というわけで、夜の王都に出てきた。
夜の王都は、昼間とは別の顔をしていた。
明かりが灯り、酒場から笑い声が漏れ、石畳が松明の光に揺れる。昼間の喧騒とは違う、しっとりとした空気がある。
悪くない、と俺は思った。
人が少ない分、逃げられる頻度も低い。
◆ ◆ ◆
塩を売っている屋台を見つけた。香辛料や乾物を並べた、小さな店だ。
俺が近づくと、店主の中年女性がこちらを向いた。
次の瞬間、女性が商品を抱えて屋台の裏に隠れた。
「……塩を買いたいんですが」
「い、いらっしゃいませ……!」
裏から声だけが返ってきた。
「……出てきてもらえますか。顔は見なくていいので」
「そ、そうします……!」
女性が屋台の裏から手だけを出した。俺は塩の袋を指差した。女性の手が袋を掴んで差し出した。俺が代金を置いた。女性の手が代金を回収した。
取引が完了した。
「……ありがとうございました」
「こ、こちらこそ……! またお越しください……!」
手だけがぺこりと下がった。
俺は塩を持って歩き始めた。
(……手だけで接客できるなら、今後もそれでいい)
効率的な解決策だと思った。
◆ ◆ ◆
帰り道、路地の角で猫と目が合った。
茶色と白のまだら模様の、やや太った野良猫だ。
猫は俺を見た。俺は猫を見た。
逃げなかった。
俺はしゃがんだ。猫は動かなかった。
「……怖くないのか」
猫が「にゃ」と言った。
俺はそっと手を伸ばした。猫が鼻を近づけてきた。においを嗅いだ。それからごく自然に、俺の手に頭を擦りつけてきた。
(……猫は顔で判断しないのか)
前の世界でも、動物だけは俺を怖がらなかった。犬も猫も、なぜか懐いてきた。人間と動物の何かが、根本的に違うのだろう。
しばらく猫の頭を撫でた。猫がごろごろと鳴き始めた。
「……名前はあるのか」
猫が「にゃ」と言った。
「……そうか」
俺はもう少し撫でた。猫が満足したのか、やがてするりと路地の奥へ消えていった。
俺は立ち上がった。
(……また会ったら、また撫でよう)
塩を持って歩き始めた。
◆ ◆ ◆
神殿への道を歩いていると、前から酔っ払いの男が三人来た。
千鳥足で、肩を組んで、大声で歌っている。楽しそうだ。
俺は端に寄って通り過ぎるのを待った。
三人のうちの一人が俺に気づいた。
「おい、お前、なんだその顔……!」
(……始まった)
「け、喧嘩を売ってんのか!? その目つき……!」
「……売っていない。通りたいだけだ」
「嘘をつくな! その目は絶対喧嘩を売ってる目だ!」
「……生まれつきだ」
「そんなわけあるか!」
男が俺の胸倉を掴もうとした。俺はよけなかった。掴まれた。
男が俺の顔を正面から見た。
ぎょっとした顔になった。
「……お、お前……近くで見ると……」
「……そうだ」
「……こ、怖……」
男の手が離れた。三人が後退りした。一人が小声で「逃げろ」と言った。三人が全力で走って逃げた。
俺は取り残された。
(……怖がらせるつもりはなかったが)
喧嘩にならなかったのはよかった。俺は塩を持って歩き続けた。
◆ ◆ ◆
神殿の手前、少し開けた場所で足を止めた。
空が見えた。
前の世界では、夜空をゆっくり見上げることなど、ほとんどなかった。残業が終わる頃にはもう夜中で、空を見る余裕もなかった。
ここの夜空は、よく見える。
星が多い。光害がないせいだろう。前の世界で見ていた夜空とは比べ物にならないくらい、星が密集している。
(……綺麗だ)
素直にそう思った。
屋台のおばさんは手だけで接客してくれた。猫は頭を擦りつけてきた。酔っ払いは逃げた。塩は買えた。
悪くない夜だ。
レンのことを考えた。明日も治癒所に行く。少しずつ、光を磨いていく。いつかあの子に届く日のために。
「……よし」
声に出して言った。誰もいない夜道で、一人で。
それでも、言葉にすると少し気持ちが固まる気がした。
俺は塩を持って、神殿への道を歩いた。
夜風が少し冷たかった。それが、悪くなかった。
◆
今夜作った飯は、塩加減がちょうどよかった。
明日も治しに行く。
塩を買いに行きました。
猫には懐かれました。酔っ払いには逃げられました。
夜空は綺麗でした。塩加減はちょうどよかったです。




