第2話 怖い顔の治癒士、街へ出る
朝が来た。
神殿の裏部屋——正確には物置として使われていた小部屋——で目を覚ました俺は、天井の染みを眺めながら昨日のことを整理した。
召喚された。治癒士だった。患者に逃げられた。二人だけ治せた。
以上だ。
前の世界の初出勤と比べると、まだマシだった。あの日は通勤電車で三回、乗客に「怖い」と言われた。
俺は身を起こして、支給された薄い上着を羽織った。
今日もやることは一つだ。癒しに行く。
神殿の裏口を出ると、早朝の王都ヴェルダシアが広がっていた。
石畳。露店の準備をする商人たち。荷馬車の音。どこか懐かしい匂い。
悪くない街だ、と俺は思った。
ただ、俺が歩き始めた瞬間に、半径三メートルの人間がさっと散った。
……いつものことだ。
俺は気にせず歩いた。目指すのは、昨日神官に教えてもらった「下町の治癒所」だ。神殿付きの正式な治癒所ではない。貧民街に近い、小さな民間の施設。腕のいい治癒士は誰も行きたがらないらしい。
(……好都合だ)
俺には、行く場所があった。
◆ ◆ ◆
治癒所は、予想より小さかった。
木造の古い建物。看板は色あせて、文字が半分消えている。入口の前に三人ほど並んでいた。怪我人と、付き添いの家族らしき人間だ。
俺が列の後ろに立つと、全員がゆっくりと振り返った。
次の瞬間、付き添いの女性が小さく悲鳴を上げた。
「ひっ、な、なんで魔物が列に……!」
「……治癒士だ」
「え」
「……治しに来た」
女性は俺と、自分の夫の怪我した腕を交互に見た。しばらく葛藤した様子だったが、夫が「頼もう」と小声で言うと、渋々前を向いた。
治癒所の扉が開いて、中から年老いた治癒士が顔を出した。白髪の小柄な老人だ。俺を見て、一瞬目を丸くした。
「……お前さん、何者だ?」
「治癒士です。手伝わせてください」
老人はしばらく俺を観察した。顔を、手を、立ち姿を。
「……腕は?」
「Eランクです。今のところ」
「今のところ、ね」
老人は何かを見極めるような目をした後、扉を大きく開けた。
「入りな。患者が山ほどいる」
◆ ◆ ◆
最初の患者は、荷下ろしの仕事中に足を挫いた中年の男だった。
俺が近づいた瞬間、男が椅子ごと後退りした。壁にぶつかって「いたっ」と声を上げた。
「……足が痛いんだろう」
「い、痛い、けど、お前が来たらもっと怖い……!」
俺は黙って膝をついた。男の足首に手を当てる。
温かい光が滲み出た。
「……っ、あ、痛みが」
「引いてきただろう。安静にしてくれ」
男は呆然と自分の足を見た。それから恐る恐る俺を見た。
「……お前、ほんとに治癒士か?」
「……そうだ」
「顔が怖いのに?」
「……顔は関係ない」
男はしばらく黙って、それから小さく「ありがとう」と言った。俺は何も言わずに立ち上がった。
次の患者へ向かった。
二人目は、料理中に手を切った若い女性だった。
俺が入ってきた瞬間、持っていた布巾を投げつけてきた。反射的によけた。
「す、すみません! びっくりして……!」
「……いい。手を見せてくれ」
女性は震える手を差し出した。深くはないが、きれいに切れた傷だ。
俺が手をかざすと、光が走り、傷が塞がった。
「……あっという間だ」
「……軽い傷だったから」
「あの、ありがとうございます……。その、顔が怖くて最初びっくりしたんですが、手が、すごく優しくて」
俺は何も言わなかった。
(……優しくて、か)
そんなことを言われたのは、初めてだった。
三人目は、子供だった。
七歳くらいの男の子。膝を擦りむいていた。付き添いの母親が俺を見た瞬間、子供を後ろに隠した。
「こ、子供には近づかないでください……!」
「……治癒士です」
「そ、そうは見えないので……!」
子供がひょいと母親の後ろから顔を出した。俺を見た。まじまじと見た。
「おにいちゃん、めがこわい」
「……そうだ」
「でもきのうのおにいちゃんとおんなじめだ」
俺は少し止まった。
「……きのう?」
「うん。こわいけど、ぜんぜんわるいひとじゃないめ」
母親が「こら」と子供を引っ張った。でも子供はするりと抜け出して、俺の前に膝を出した。
「なおして」
俺は膝をついた。子供の擦り傷に手を当てた。光が出た。
「……痛くなくなった?」
「うん!」
子供はにっと笑った。俺は何も言えなかった。
母親が「ありがとうございます」と、少し怯えながらも頭を下げた。
◆ ◆ ◆
昼を過ぎた頃、老治癒士が湯気の立つカップを持ってきた。
「飲みな。ハーブ茶だ」
「……ありがとうございます」
「お前さん、Eランクにしちゃあ腕がいいな」
「……まだ慣れていないだけです」
老人はカップを傍らに置いて、俺の隣に腰を下ろした。
「神殿からの派遣か?」
「……一応、そういうことになっています」
「一応、ね」老人は苦笑した。「まあいい。ここは人手が足りてる。腕があって、逃げない奴なら誰でも歓迎だ」
「……逃げない、ですか」
「そうだ。ここに来る治癒士はみんな、三日で辞める。貧民街だから、金にならん。患者がうるさい。環境が悪い。理由は色々あるが、要は逃げる」
老人は俺を見た。
「お前さんは逃げなさそうだ」
俺は少し考えた。
「……逃げません」
「なんで?」
「……癒せるから」
老人はしばらく黙って、それからカップを持ち上げた。
「……そうか」
それだけ言って、老人はお茶をすすった。
俺もカップを手に取った。温かかった。
◆
夕方、治癒所を出た。
今日治せた患者は十一人。逃げられたのは四人。途中で気絶した見学者が一人。
まあまあだ、と俺は思った。
帰り道、石畳を歩きながら、今日のことを頭の中で整理した。
女性に「手が優しい」と言われた。子供に「わるいひとじゃないめ」と言われた。老人に「逃げなさそうだ」と言われた。
前の世界では、一日でこれだけ言ってもらえることはなかった。
(……悪くない)
顔は怖いままだ。患者は逃げる。それは変わらない。
でも、癒せる。
それだけあれば、今日も十分だった。
明日も来よう、と俺は思いながら、神殿への道を歩いた。
夕暮れの石畳は、前の世界の残業帰りの夜道より、少しだけ明るかった。
今日も逃げられました。
でも十一人、治せました。
明日も行きます。




