第10章 さよならも言わないで
それから、アンジェを無事送り届けて用も済んだので、俺は園長と乗ってきた馬車で幼稚園に戻り、直ちに部屋に置いたままの荷物をまとめ、そのままそっと幼稚園を引き払った。
幼稚園を出るに際して、もう夜遅い時間だというのに、園長先生だけは通用口の所まで、見送りに出てきてくれた。
「短い間でしたけど、お世話になりました」
暇を告げる俺に、園長先生は、
「礼を言うのはこちらの方ですよ。冷静に対処して子供たちをしっかり守って下さいましたね。それに、マット先生には幼稚園教師の才能がだいぶありそうな感じがしましたから、ここで終わらせてしまうのは惜しいです」
社交辞令なところは多分にあるだろうけど、そのように評価してもらえるのは素直に嬉しい。
でも、俺は……。
「ありがとうございます。ですが、私は今は根無し草の軍人です。命令一つでいつでもどこにでも行かされ、しかも、危険な任務が多いですから、いつ死ぬかも分かりません。私はもはやそのような生活に慣れきっていますから……あまり長く居ては、子供たちに悪い影響を与えかねません」
そう答えると、園長先生は少し淋しげな顔をする。
「それでは、失礼致します」
最後、別れ際は軍人らしく姿勢を正して敬礼し、俺は幼稚園を後にした。
幼稚園を後にした俺は、差し当たっての帰る場所、大使館の宿舎棟に向かい、そこに割り当てられた部屋に入る。
そう言えば、エルフィンに赴任してきて、この部屋に立ち入るのはこれが初めてか。
着いて早々、潜伏先の幼稚園に連れて行かれてしまったからな。
とはいえ、俺のここでの任務も片付いたわけだし、すぐにまた別の所へ行けという辞令が来るだろう。
そもそも、大使館の駐在武官やその副官なんて、エリート士官の就くポストであって、いかに中尉の階級を持っていようが現場叩き上げで士官学校すら出ていない俺のようなヤツが就くようなポジションではないしな。
それこそ、任務が終わった翌日にすぐ次の命令が来ることも珍しいことではない。
もしかしたら、この部屋も、今夜この一晩限りかもな……。
そんなことを思いながら、その日、俺はようやく長い一日を終えて眠りについた。
翌日。
大使館の駐在武官室に出勤して、上官のダイアー中佐に昨日までの幼稚園での任務の完了報告を行った。
「無事子供たちの安全を守り切れたようだな。大酋長代理のヴィルトール卿からも、謝礼のメッセージをいただいたよ。ご苦労だった」
ダイアー中佐はそう言って、労ってくれた。
そして。
「今日が大酋長選当日。今夜には新しい大酋長が決まり、近いうちに就任式もあるだろう。だが、政情が安定するまでにはまだしばらくかかるだろう。君にはまだしばらくはここで勤務してもらい、主に私や大使閣下の身辺を警護してもらう。いいな?」
と、言い渡される。
予想に反して、少なくともまだしばらくの間はここに腰を落ち着けることになりそうだ。
「とりあえず、君の席を隣の部屋に用意した。案内しよう」
というわけで、ダイアー中佐に連れられて、隣の部屋へ。
そこは、大使館員の大きな事務室と行った感じの場所で、その一角に他の副官たちや、駐在武官室担当の秘書官の席もあり、ミアさんの姿もそこにあった。
そこで、一通り同僚への紹介をされた後、ダイアー中佐から差し当たっての今日の事務作業を割り振られ、基本的に中佐や大使閣下が外出する時はそれに必ず随行し、そういった所用がない時は、割り振られた事務作業をここでこなす……そういう勤務になるようだ。
ちなみに今日は大酋長選当日ということもあって、エルフィン政府はそちらで忙しく、大使閣下やダイアー中佐が誰かに会いに行くというような案件も特にない。
俺としては、大酋長選には水面下で色々と闇を見てしまったこともあり、ハラハラしながら結果を待つ……そんな一日になりそうだが。
……あ。
今になって、俺、思い出した。
ヴィルトール卿がどっちの陣営に付くのか、聞いてない……。
それじゃあ、どっちの陣営が勝ったのか分かったところで、それがヴィルトール卿が投票した陣営なのかどうなのかが分からないじゃないか。
つまりは、心配したところでどうしようもない……ということだ。
結局、結果を気にしたところでしょうがないので、その日はひたすら事務作業に集中することに。
そういう意味では、気もそぞろになるよりは良かったかもしれない。
通常退庁時間になっても結局片付かなくて、少しばかり残業する羽目にもなったしな。
なんとかかんとか、事務作業を終わらせて、さて、今日は退庁するか……と思った矢先。
「バーンズリー中尉。ダイアー中佐がお呼びですよ」
ミアさんに声をかけられた。
「分かりました……って、ミアさんはまだお帰りじゃなかったんですか」
「ええ。秘書官はダイアー中佐が退庁するまでは誰か一人は残っていないといけませんから。持ち回りで、今日は私の当番なんです」
「大変ですね……」
そう声をかけると、彼女はそんなでもないですよ……という感じにニコッと笑う。
そんな彼女に軽く会釈して席を外し、隣の武官室へ。
「バーンズリー中尉、参りました」
「入れ」
武官室に入ると。
「エルフィン政府から大使閣下に使いが来る。君も随員として立ち合ってくれ」
「はっ!」
俺が敬礼して命令を承ると、ダイアー中佐も席を立ち、俺と一緒に大使館の会見の間へ向かう。
「閣下の立ち位置はそこ、私はここ。使者がだいたいそこだから……君の立ち位置は、この辺だな」
会見の間で、それぞれの立ち位置を示しながら、俺の立ち位置を指示するダイアー中佐。
上手側で大使閣下近くに侍立するダイアー中佐の向かい側、下手側の中佐よりも少し下座側を指示される。
その指定された位置に立ったまま、使者の到着を待つ。
しばらく待った後。
「エルフィン政府からの御使者が到着されました」
まず衛士がそう告げ、続いて使者と思われるこの国の種族の特徴的な耳をした儀礼服の男性が、会見の間に入って来て、立ち位置に着く。
それに遅れること少し、大使閣下が反対側の大使専用の入口から会見の間に現れ、一段高い上座に着いた。
そして、大使閣下が言葉を発する。
「御使者殿、お役目大儀。して、御用の向きは?」
それに対し、エルフィン政府の使者は答える。
「本日の大酋長選において、新大酋長にエメリク・ミクーが選出されました。付きましては、3日後に就任式が挙行されますので、アマルランド王国全権大使閣下に於かれましては、是非ご出席いただきたく、お願いに参上致しました次第であります」
そうか……大酋長選の結果の報告と、就任式の出席の依頼か。
となると、その日は俺も随行することになるか。
使者の口上を聞きながら、俺はそんなことを思っていた。
大使閣下の返事は。
「では、御使者殿。喜んで参列させていただくと、新大酋長閣下にお伝え願いたい」
友好国同士ということもあり、二つ返事で了承である。
「ご快諾いただき、心より感謝致します。当日は政府一同、ご出席を心待ちにしております。では、私はこれにて……」
大使閣下に深々と礼法に則り礼をして、御使者殿は帰って行った。