第1章 諜報員(スパイ)の次なる任務の潜入先は……幼稚園!?
「バーンズリー中尉。先週頼んだ大和帝国の軍事力調査結果の集計は終わっているか?」
直属上官のリー少佐の声がかかる。
「こちらに」
机の引き出しから書類の束と綴り合わせた数枚の書類を取り出して、リー少佐の机に並べる。
束の方は集計依頼の時に渡された調査報告書の束。
そして、綴り合わせた方は、そこからまとめた集計報告書だ。
「お、さすが。早いな」
綴り合わせた集計報告書の中身にざっと目を通すと。
「うん、しっかりまとまっているな。では、これは早速上に提出しておく。ご苦労だった」
「は」
リー少佐はそう言って集計報告書を手に席を立って、部屋を出て行った。
ここは、アマルランド王国軍の情報部の一室。
軍事統計に携わる部署の部屋である。
俺がここに赴任してきてからだいたい半年近くなる。
情報将校の中尉と言われれば聞こえは良いが、その実態はスパイ、あるいは密偵である。
俺は軍隊に入って一貫してそういった任務に携わってきた。
基本的には国外での軍事に関わる情報収集といった仕事がメインだが、時には暗殺といったような穏やかではない任務もある。
通常回ってくる情報収集にしたって、その中身は結構暗殺任務に劣らずヤバかったりもするんだが。
そんなわけで、そういった任務は常に危険が付きまとうため、ある程度危険な任務をこなしたら、しばらくは今いるような統計業務なんかの部署に回される。
まあ、ある意味休暇みたいなものである。
さすがに年がら年中危険と隣り合わせな生活をずっと続けていたら、人間そう何年も持つものではない。
そういう観点から、ある程度の間隔で安全な部署に回して休ませる……という人事運用になっているようである。
そんなわけで、俺もこの部署に回されてきてからそろそろ半年。
もうこの仕事に就いて10年ともなれば、なんとなく、そろそろ次の任務が来そうだな……というのはこういう時期になってくると薄々勘付いてくるというもの。
結論から言うと、その予感は当たっていた。
だが、いつもとは少し様子が違うものでもあった。
「バーンズリー中尉」
あれからしばらくして、部屋に戻ってきたリー少佐がまた俺を呼んだ。
……さっきの集計報告書、なんかマズいところでもあったのだろうか?
「はい。何か、さっきの報告書に不都合な点でもありましたか?」
いぶかしげにそう尋ねると、リー少佐は「そうではない」という。
「中尉、すぐに長官室へ行け」
「長官室ですか?」
「そうだ。長官閣下がおまえをお呼びだ」
「長官閣下が私を……ですか?」
「急ぎの用の様子だ……。早く行け」
「わかりました」
普通に次の任務が与えられる時は、課長の大佐に呼ばれて命令を伝えられるか命令書を渡されるのが常なのだが。
まさかの長官直々の召喚とは。
まさか俺、とんでもないやらかしでもしちまってたか?
そうでもなきゃ、俺みたいな下っ端士官が呼ばれるような所じゃないからな……。
狐につままれたような気分だが、命令は命令だ。
内心少々怖れつつ、長官室へ向かう。
長官室のドアの前で、一つ大きく深呼吸をして、ゆっくりと静かにドアをノックする。
「誰か?」
「バーンズリー中尉であります。お呼びと伺い、参りました」
「ああ、待っていたぞ。入れ」
「失礼します」
長官室に入り、改めて姿勢を正して敬礼する。
「バーンズリー中尉、まあ、そこへ掛けたまえ」
「はっ。失礼いたします」
長官閣下は部屋の真ん中にある応接用のソファーを手で指し示す。
言われたとおり、俺はそこの下座に座る。
「バーンズリー中尉。君はコーヒーはいけるクチかね?」
「はい」
「そうか。なら、飲んでいきたまえ」
そう言って、長官自らコーヒーを入れ始める。
どうやら、特に機嫌が悪いというわけではなさそうだが。
それにしても、さすがに将官というのは何かが違う。
コーヒーの入れ方も凝っているし、手つきも慣れていて、迷いがない。
よっぽど嗜んでいるんだろうな……。
そんなところにすら、教養の深さをさりげなく感じてしまう。
俺みたいな下士官上がりの下っ端士官とは全く違う世界の住人だ。
そんな様子をボーッと眺めているうちに、コーヒーの用意ができたようだ。
「さあ、あがりなさい」
「は。いただきます」
長官自ら振る舞われたコーヒーは、これまで俺が口にしていたものとは全然違う、ほんの少し口にしただけで鼻腔いっぱいに香味が充満し、味もただ苦いだけではない、苦さの中に甘みすら感じる、そんな感じがした。
これ、相当良い豆使ってるんだろうな……。
入れ方も多分最適な方法をいろいろ試して辿り着いた……そんな感じなんだろうか?
俺の理解を完全に超えてるが。
「ありがとうございます。とても美味しいです」
そう言うと、長官閣下は少し嬉しそうな顔になって。
「そうかそうか。旨いか」
「はい。ただ、このような本格的なコーヒーにはまだとんと縁がなかったものですから」
普段、あまりこういうものを自分で嗜まないこともあったし、口にするのは下士官時代から馴染みの店で口にする、安価なものが多かったからな……。
俺には他にどう評したら良いかはよく分からない。
正直にそう白状すると、閣下は頷きながら。
「そうか。実は、うちの参謀連中はどうにも反応が薄くてな……普段から振る舞っているから慣れてしまったというのもあるんだろうが……そういう新鮮な反応をしてくれると嬉しいものだよ。まあ、それは良いとして……」
長官閣下は棚から一つ書類の入った封筒を取り出して、俺の向かいの上座に座る。
いよいよ本題だ。
恐らく、これは次の任務の話なのだろうと、察しが付いた。
長官自ら俺に言い渡すと言うことは、どんな重要任務なのだろうか?
身が引き締まる思いで長官の次の言葉を待つ。
そして、上機嫌な表情の長官の口から出た言葉は。
「君にはこれからしばらく、幼稚園の先生になってもらう」
「……は?」
「君には幼稚園の先生になってもらう」
「……は?」
思わず聞き返してしまった。
何の重要任務かと思ったら、幼稚園の先生になれと。
それ、長官直々に命ずるような重要任務なんですか?
よく分かんない!
長官の口から飛び出た言葉に、困惑が止まらない俺。
いや、待てよ……?
これ、重要任務って事じゃなくて、むしろ、「おまえは軍人クビね」ってこと!?
うん、まあそれだったら、長官自ら言い渡すって事もありそう!
でも、それだったら、せめて何が悪かったのか教えて欲しい!
全然何かやらかした覚えがないんだが……知らないうちに何を俺、やらかしていたんだろうか……?
それも、長官の耳に入るレベル……。
さっきのコーヒーの時の閣下の機嫌が良さそうだったから、やらかしの線は俺の中で消していたんだが、そう見せておいて実のところは何かやらかしだったってオチかー……。
顔から血の気が失せていくのが自分でも分かる。
自分でも分かるくらいだから、長官も俺の顔を見て俺が何考えてるのか、おおよその推測が付いたのだろう。
「君、そんなに顔を青くするな。ちゃんとした任務の話だ」
「任務……ですか……。てっきり、自分は知らない間に何かやらかして、幼稚園に飛ばされるということかと……」
そう正直に白状すると、閣下は思わずといった感じでぷっと吹きだしてしまった。
「いや、すまん。まあ、とりあえず、そういうことではない。ただ、幼稚園に教師として潜入するという任務であることだけは間違いない。私も詳細までは聞いていないが」
「そうでしたか……」
少し、ホッとした。
「とにかく、エルフィン首長国連邦の駐在武官副官の席を用意した。直ちに現地の大使館へ行け。私から君に伝えることは以上だ」
「はっ!」
というわけで、俺は取るものも取りあえず、直ちにエルフィン首長国連邦行きの船便に飛び乗ることとなった。