第34話 / 夜啼兎笑子 / エンゲージメント!
赤い煙を断ち割った。割った向こうにルナリアンが滞空している。クライスト型だけに反応が早い。浮遊している両手を盾にしようとしている。
『回転斬りを』と、俺はかあ様に尋ねた。庭に面した座敷だ。俺は何歳だったか。〝花嫁学校〟に入学するよりも以前だ。庭で鹿威しが鳴く。『外したらどうするのですか?』
『外したときのことなどを考えてはなりません』
『でも、外してしまったらそれまでの技です。予備動作に時間が掛かる。身体を酷使するから一度しか打てない技も少なくない。いや、そもそも、高速回転中で自分の身体が千切れてしまうかもしれない。攻撃が当たっても超高速で衝突するから矢張りタダでは済まない。何かこの技を運用する上での秘訣や工夫があるのですか』
『我慢です』
『我慢』
『オシャレとアイドル活動は我慢です。いいですか。一撃で殺して後の痛いのは我慢するのです』
かあ様は見事に正座している。『いいですか、笑子、いいですね、肝に銘じなさい。一撃で殺せなければそれまでです。外したならば潔く殺されて死になさい。一撃必中。一撃必殺。アイドルに二の矢は要りません。〝この歌がヒットしなくても次があるからいいや〟の精神は捨てなさい。歌い、踊り、戦う度にそれが引退ライブであると心得なさい』――
痛い。我慢しようとしても全身が痛くて痛くてたまらない。この技を使う度に足穂の偉大さが文字通り身に染みる。足穂か。
覚えてるか?
ルナリアンは集団思考をしているかもしれないそうだ。記憶や知識を共有しているかもしれないそうだ。だからこのルナリアンのように〝覚醒遺伝〟で従来の弱点を克服するような奴が生まれたりもする。それであれば覚えているのではないか。足穂をだ。トロ子をだ。緑さんをだ。どうだ。腕の筋肉がブチブチと切れる。切れたからどうした。痛かろうと気にならない。食い縛っていた奥歯は何秒も前に擦り切れて粉状になっているがそれだってどうでもいい。
剣先がルナリアンの右手に触れた。天地がひっくり返ったような衝撃が俺の身体を突き抜けた。左手の握力と感覚が消える。腱と神経が切れたらしい。痛みさえも感じなくなった。好都合だ。俺の只今の速度は音速の数倍だ。その速度で衝突したルナリアンの右手と剣先は狭い領域で超高圧で圧縮される。塑性流動――物体が物体としての形を保てなくなり、一切の強度を無視して液状化するが、俺の剣は〝錬金術〟で構築されているから液状化した傍から再構築される。嘗てはルナリアンの右手だった超高温の液体が俺の身体を襲った。肌が溶ける。衣装が溶ける。勝手に溶けてろ。顔が無事ならばそれでいい。
左手も同じように貫徹する。ルナリアンが瞠目した。もう逃げられない、もう逃がさない。一撃で殺す。
と、――
右手の握力と感覚も消えた。こちらの腱と神経も切れたらしい。どうする。剣の柄が手からスルリと抜けそうになる。抜ければ超々高速で何処かへ落下する。もしかしなくともファンは全滅だ。畜生め。歯で柄を噛むか。駄目だ。どの歯も折れるか罅割れるかしている。それにコンマ数秒しか猶予がない。どうする。どうする。どうする?
『笑子ちゃん』と、懐かしい声がトロッと俺の鼓膜を撫でた。
『私は何時でもこの手を握っているからね』
握り締めた。剣の柄を。あの子の手を。
「祈りなさい」俺は声にならない声を唖然としているルナリアン相手に発していた。「もしも祈る神が居るのなら」
叫ぶ。アイドル皇帝陛下万歳を。叫ぶ。勝利を。叫ぶ。俺の歌の一節を。
「ときめけェ――――ッッッ!」
塩の雨だ。ざあざあ振りのその中を落下している自覚があった。しまったなあとも思った。空中の敵を攻撃したのはこれが初めてだ。着地する余力は俺には残されていない。ええと、だから、その、畜生め、泣いちゃお、俺の死因は墜落死か。妥当かもしれない。分不相応な高みを俺は志向した報いではないか。全身から力が抜ける。剣が手から零れた。一度、フワッと無重力的に身体が舞い上がってから、以前よりも速い速度での落下が始まる。残念だ。地獄行きはそれはもう仕方ない。それでも天国に行きたかった。あの子は其方に居るだろうからだ。意識が久遠の彼方に遠のく。さようならの歌を練習しておくべきだった。
「ブシドー」と、呼ばれて我に返った。
「ジャーマネ?」と、俺は我ながら素頓狂な声を出してから、
「何を!?」更に素頓狂な声を出した。ジャーマネが俺を抱き抱えていた。落下した俺を受け止めたのだろう。両腕が折れている。折れているだけならばまだしもだ。ジュウジュウと焼けている。俺の体温は今何度だ。一〇〇度を軽く超えているだろう。その俺を抱えているのだから、腕だけではない、ジャーマネの全身が焼けている。肩に塩が振り積もっているからこのままでも美味しくお召し上がり頂けます。何を言ってるんだ俺は。
「馬鹿」俺は口走った。「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿、離せ!」
「確かに僕は馬鹿だ」
「いいから離せ!」
「いいかい、ブシドー、結局ね、僕は逃げたかったんだ」
「離しなさい!」
「アイドルもマネージャーもファンも嫌になってた。でも君を見ていたら思えたよ。この子なら推せる、と」
「離して!」
「結局、僕は逃げたかったんだろうな。死んで何もかも忘れてしまいたかったんだ。でも、君に、とてもとても大事なものを思い出させて貰ったよ」
ジャーマネは泣いていた。私も泣いていた。私を見下ろすジャーマネの涙が私の顔の上に落ちて、私の涙と混じって、それから私の体温に溶けて消えてしまう。涙が消えてしまうならば泣かなかったのと同じだ。私はぎゃあぎゃあと泣いた。
悲しくないのに泣くのは初めてだった。
「ブシドー」ジャーマネは泣きながらでも朗らかに言った。「マネージャーは担当アイドルの一番のファンなんだぜ。火傷の痛み程度は何でもない。そもそも身体よりも先に君の歌声で心が火傷してるしね。ああ、でも、あのね、悪いけどね、言っておくよ。僕は前の担当アイドルを忘れられていない。モモを今でも愛している。でも君の事も好きになりつつあるんだ。ははは。酷いマネージャーだなあ。でもその僕でも君のマネージャーに、一番のファンに、してくれるかい?」
「馬鹿」私は朗らかにでも泣きながら言った。「私も貴方もどうしようもない馬鹿です」
ジャーマネは私に右手を差し出した。冗談だろうと思った。冗談ではなさそうだ。
望んで人を傷付けるだなんて最低だ。
でもこれは違う。何が違うのか。だから、その、印だ。彼が私のマネージャーであると云う印だ。
「手」もう誰も私の手を握ってはくれないと思っていた。「離さないで下さいね」
「頼まれなくてもそうするさ」
層内スピーカーの向こうではあの子たちがヘロヘロになりながらもそれでも歌い続けている。会場のファンもそうだ。
大事な事を忘れていた。
思い出せて良かった。
ずっと、私が気が付かなかっただけで、誰かが私の手を握ってくれていた事を。




