第30話 / ブシドー / アイドル!
『ママ!』
「俺はテメエのママじゃない」銀幕には〝完〟の文字が映写され続けている。これは本当に夢なのか。夢ならば醒める頃合いではないか。醒めない夢があるものか。明けない夜のないように。明けない夜はないか。一時期の俺は眠れない夜に悩まされた。眠れない夜でもジッと息を潜めていれば確かに明ける。明ければどうなる。眠れない朝が始まる。単なる延長線上の延長戦だ。逃げられない。何からだ。人生からだ。この夢が醒めなくてもいい。俺は座席の上で体育座りをした。自分で自分の膝を抱く。この窮屈さが懐かしいと思う。思う自分を馬鹿だと思う。試験管と機械子宮で培養された俺は羊水に抱かれた事がない。知らないものを懐かしいと思える筈がない。畜生め。羊水にも母親にも抱かれた事がないからせめて膝ぐらいは自分で抱くのだ。
それともあれか。かあ様はご自分のお腹を痛めておられないから俺を愛せなかったのか。何が〝ご自分の〟だ。マザコンを止めろ。止められないならば死ね。畢竟はそれか。かあ様に愛されたかっただけか。お前は歌うのが好きか。踊るのが好きか。好きじゃねえだろう。かあ様に褒められるから始めただけだ。それがどうして一端のアイドルを気取ってしまったのか。自分はかあ様に褒められねえのに褒められて育った他人が妬ましくて仕方ねえんだろう。仕方ねえから僻んで恨んで他人を嫌うんだろう。嫌っていても相手からは嫌われたくないから口先と態度の上では真面目ちゃんを装うんだろう。お前が好きなのは歌っている自分と踊っている自分だ。〝苦しくても頑張っている自分〟に恋をしているんだろう。速やかな恋だ。ライブが始まれば始まってライブが終われば終わる春の出会いと別れに似た恋だ。ほら見ろ。それ見ろ。お前はモノローグさえも美しい言葉で飾って自分を飾ろうとする。そうまでして〝虚しい自分〟を演出したいか。したいんだろうなあ。そうしていれば同情してくれたファンが慰めてくれるからなあ。お前にファンが一人でも居ればだけどな。居たとしてもお前の本性を知りゃあ逃げていくだろうけどな。〝一人でも〟だ。お前はファンが一人しか居なかったとしたらそのファンを大事にするか。しねえだろう。〝一人しかファンが居ない現状〟を恥ずかしいと感じるだろう。あの手この手でファンを増やせばいいのに偉そうな事を言う癖に何もしねえんだろう。量か。結局は。一人よりも二人で二人よりも三人で三人よりも一万人だよなあ。そうだよなあ。〝お気持ち〟は質じゃねえよなあ。量が多くねえと自慢にならねえもんなあ。馬鹿じゃねえの。これが夢なら醒めてくれ。
「ママじゃない」膝が震える。「子供が人のママになれる訳ないじゃない。そうよ。子供なのにどうして誰も子供扱いしてくれなかったの?」
自意識は自走する。他動的に生まれたのに自発的に生きていかねばならないのは何故か。人生とは壮大な罰ではないか。罰だと。私が何の罪を犯した。人は生まれながらにして罪を犯す。生まれて来た事が罪か。だとすればお手上げだ。どうすれば私は許されるのか。許されるか。罪はその内側に罰か許しを内包する。裁かれず許されもしない罪は罪と呼ばない。その罪には被害者が存在しないからだ。その論法から推すと〝生まれて来た罪〟は存在しないのではないか。何を好き好んで絶対に許されない罪を償うべき相手も居ないのに背負わねばならないのか。ならばどうする。『人類は月には行けない』と『誰もが愚かなのに自分だけが清廉潔白に生きていても何の得にもならない』を免罪符に好き放題に生きるか。最低だ。他人様に迷惑を掛けてはいけない。それだよなそれ。どうしてお前は他人様に迷惑を掛けてはいけないと考えるのか。
「私は子供でしょ。一三歳でしょ。一二歳だったときも一一歳だったときも一〇歳だったときも九歳だったときもあるの。なのにどうしてもう妊娠していて子供が居るの?」
一から考え直そう。人の意識と感情の源流は何処か。意識とは何か。特定の物事をそれだと認識している状態だ。『生きている』と自分や他人を認識しているならば意識があると考えていいだろう。感情とは何か。意識した物事を経験や規範に照らし合わせて解釈する能力ではないか。楽しい歌を聴けば楽しくなる。悲しい歌を聴けば悲しくなると云うように。であるならば人の感情を規定するのは何か。環境ではないか。特に物心が付く前の。私を、違う、俺を例にすれば、親の顔色を見て育ち、怒らせない事が心の平穏に直結する子は『人を怒らせない』が行動規範となる。その行動規範と自分のしたい事としなければならない事を擦り合わせた結果として『人に迷惑を掛けるのは悪い事だ』と考える。その考えを基準に『人に親切にすると気分がいい!』などの感情が出力される訳だ。当たり前だな。何を今更のように。だがそれにしても人は心の中で規範と同棲しているのだ。規範か。神と言い換えてもいい。無意識の内に己の中の神に『これをしてもいいものでしょうか?』とお伺いを立てている。だとすれば自分の規範を策定した人、影響を受けた環境、親に子供は勝てない道理になる。ああ。だからか。『人は創造主には勝てない』
「ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。私じゃない。俺だ。俺だ」
つまりは意識と感情は相対的なものか。他者が存在して、それに感情移入したり、比較検討する事で次第に形成されるものだ。アイドルを見ると『頑張ろう』と思うように。それにしても不思議だ。人の意識と感情の源流はそれとなく分かった。それはそれとして人は何故に意識と感情を持たねばならなかったのか。自然界で生きている分には意識も感情も余計なだけだ。『アイツよりも良い生活をしたい!』で無理をして死ぬのは本能に反する。本能な。意識と感情が本能を超越するとなれば更に不思議だ。逆説的だが、意識と感情が相対的なものだとするならば、人が社会生活を送る過程で(集団の役割を個々人に分割して与えていく過程で)それらは少しずつ形成されたのだろう。『アイツはこのアイドル・グループのリーダーだ。自分は裏方だ。自分はリーダーを支えねばならない』的に。それとも意識と感情が先に発達したのか。発達したから集団を構築したのか。それは無さそうな気もする。その辺りはあれだ。美しい花があるからそれを見ると美しいと感じるのか、美しいと思い込んでいるから花を見ると美しいと感じるのか、その手の議論になる。どちらが先なのだろうか。どちらが先かで〝感情〟の定義は大きく変わる。人は自分で何でも決められるのか。他者や社会構造に植え付けられた規範を基準としてしか決められないのか。私の立場としては後者に同意せねばならないのか。私じゃない。俺だ。
「二重人格にも満足になれねえのか。なれないわよ。無理でしょ。二重思考ですら無理。キャラ付けで虚勢を張るのが精一杯」
敢えて人を機械に喩えて準えよう。人間はハード・ウェアであるとしたとき、意識と感情は他人が無料公開しているソフト・ウェアであり、ダウンロードするソフトが人それぞれで違い、ダウンロード速度も違い、バージョンも違い、インストールされる環境も違い、ハードの性能も根本的に違うならば、人とその精神が違った形になるのも頷ける。馬鹿げている。人は人は一人では人間にさえなれない。下らない。私が創造主だと崇拝していた母も人間に過ぎないのだろう。かあ様も誰かを心の中に飼育している。私ではない誰かを。
『もう泣かないでママ、大丈夫だよママ、僕を産んでくれさえすれば僕がママを救ってあげるからね!』
「それもいいかもなあ。人の親になるってのは要は自分を神様として子供の心に植え付けられる訳だろ。それならいいかもなあ。俺も誰かの神様になりてえよ」
『ママ! 僕だけのママ! 僕はママも人々も救世しなきゃいけないんだ! 僕らは――』
声が歌声に掻き消された。俺は舌打ちをする。話の落し所が見つかりそうだったのに、何の歌だ、油の切れたブランコのような声で歌われているのは?
『ほら 頑張って 頑張って
あと一息!
ずっきゅん★ハートに火をつけて❤』
膝の合間から脊髄反射で顔を上げた。〝完〟の文字は変わっていない。肘掛けを掴む。
『ママ!』
「黙ってろ」肘掛けを握り潰した。これはこの活動写真館の備品だ。他人様に迷惑を掛けてしまった。弁償しないと。しなくていい。ここは俺の夢の中だ。畜生め。誰の歌かと思えばその歌か。よりにもよってその歌か。誰の許可を得て歌っていやがるのか、それは俺の歌だ。かあ様から頂いた俺様の歌だ。かあ様の何をお前らが知っている。知らねえだろう。
肘掛けの破片を足元に捨てる。気が済まない。破片を踏み、踏んでは踏んで、粉状に踏み潰したら酷く身体が熱くなった。右手が痛い。拳を握り固めていたから肘掛けの破片が皮膚に食い込んだらしい。ぢっとその手を見る。血が流れている。赤い血だ。暖かい血だ。この暖かい手ですら血ですら人を傷付けるのにどうすれば他人を救えるのか。分かっている。その歌を歌って俺を呼んでいるのだろう。呼んでくれているのだろう。でも私に貴方達は救えない。弱いから救えない。自分の事しか考えていないから救えない。アイドルは欺瞞だ。アイドルは誰も救えない。
『貴方は貴方が歌えば人が笑うと思っている』
そうだ。かあ様も私をそのように叱った。『驕って歌っている。確かに貴方の歌は巧い。踊りもです。昔とは見違えました。が、歌は所詮は記号、それを聴いた人が過去の自分の記憶、感情を〝思い出す〟事で、思い出したその感覚と現状を照らし合わせる事で感動する、その手助けをする存在に過ぎません。アイドルは偉くないのです。アイドルを見て『明日も生きていこう!』と思えるのであればそれはそう思えた人が強いのです。それを勘違いしないように』
あれ、と、思った。
『歌は所詮は記号、それを聴いた人が過去の自分の記憶、感情を思い出す事で、思い出したその感覚と現状を照らし合わせる事で感動する、その手助けをする存在に過ぎません』――
そうか。
そうだったのか。
『ママ?』
「ママじゃない」
『ママ?』
「俺は」
『ママ?』
「私は」
あの歌をファンが歌ってくれて、それで感動するよりも先に、『それは私の歌だ』と怒るだなんて実に私らしい。人はどう足掻いても自分にしかなれないのだろう。自分にしかなれないか。まさにそうだ。私は他人にばかりなりたがっていた。あの人に嫉妬してはこの人を蔑み、どうして自分はと嘆いた果てに、この〝俺〟に縋った。だが〝俺〟を生み出したとしてもそれは結局は自分だ。人と人は支え合って生きている。人は一人では人間にさえなれない。
だとしても誰も他人の為には歌わない。
思い出した。
私が歌って踊っている理由を。
自分だけだからだ。
自分だけが自分の為に歌えるからだ。
自分だけが自分を励まして救えるからだ。
誰も自分の為に歌ってくれないならば自分で自分の為に歌うしかないだろう。
自分を励まして救う歌だ。滑稽で、馬鹿らしくて、恐らくはとても恥ずかしい歌だ。
でも、恥ずかしくて飾らない歌だからこそ、その歌が輪になって繋がるのではないか?
「私はアイドルだ」
それでも私はかあ様が説かれたようなアイドルとしての職業倫理で――『アイドルは決して負けません』――立ち直ったのではない。かあ様の一人のファンとして立ち直った。ファンとして、あの日の小さな夜啼兎笑子として立ち直ったからこそ、ファンの為に何をするべきかが分かる。照れるけれど、今から私はアイドルとして歌い、踊り、戦って彼女らを守る。守るのだ。救うのではない。救うとしたら自分を救う。それが私を呼んでくれるあの子らを救う事にもなるのでしょう。
かあ様には申し訳ない。かあ様が西へ旅立たれる前に口答えしておくべきでした。〝口答え〟です。その言葉を思い浮かべるだけで足が竦みます。それでも今日の私は口答えせずにはいられません。
人はアイドルに生れ付かないのです。
アイドルになるとは、事務所に所属して、ステージの上で歌って踊って何千何万のファンからの歓声を浴びる存在になると云う事ではないのです。
誰しもが様々な選択や偶然や強制を重ねた末に徐々に誰かのアイドルになっていく。
誰でも誰かのアイドルでありファンなのです。推して推されるのです。
今、この歌を歌ってくれているあの子らは私にとってのアイドルで、私はあの子らのファンです。
誰のパロディでもいいのです。
オリジナルに勝てなくてもいいのです。
私は歌いたいから歌うのです。
「変身シークエンスを――」
ベルトにカセット・テープを叩き込む。
「――起動ッ!」
『変身シークエンスを起動』
銀幕の文字がパッと切り替わった。〝完〟から〝続〟へ。上等だ。
「ノイズ・キャンセラー始動」
『ノイズ・キャンセラー始動』
続けてやる。辛かろうが悲しかろうがこの決断を悔もうが続けてやる。
「音程変更。低音に二。ボーカル・ブースト」
『音程変更。低音に二。ボーカル・ブースト』
生きる事をだ。
「マイク・オン。ミュージック・オン。イントロ・カット。音量全開!」
『マイク・オン。ミュージック・オン。イントロ・カット。音量全開』
強く生きてやる。
「リップ・シンクッ!」
『変身の為の合言葉は?』
「月の――」
人類は月に行けない。独りになってから何度もそう思った。思っては変えようかと迷った合言葉だ。
「月の舞台で逢いましょう」
俺はもう二度と迷わない。




