第27話 / ブシドー / サウダージ!
「なんだこりゃ」俺は我ながら情けなく呟いた。気が付いたら活動写真館の鑑賞券売場前に突っ立っている。何度か瞬きをした。売場周辺の鄙びた内装に見覚えがある。そうだ。学生時代に、あれは何がキッカケだったか忘れてしまったが、一つオコトワリ・ムービーを見てやろうではないかと思い立ち、さあと足を運んだ場末の活動写真館だ。発禁一歩手前の映像は我々を痛く興奮させた。私は『こんなのいけないわ!』と手で目を覆い、でも指の隙間からバッチリとご視聴ありがとうございます、足穂はゲンコツを噛みながら食い入るように見、トロ子は手元のメモ帳に『B級だが大事なツボは抑えている』と何かの評論を書き込んでいた。上映が終わると『用事を思い出した』とか何とか言って三々五々に現地解散したが、二時間後、三人は同じ活動写真館の前で再会して互いに笑い合う。
右を見、左を見、売場の窓に映り込んだ自分を見る。期待に反してトロ子も足穂も私すらも居なかった。三人所の騒ぎではない。館内には俺と売場の中に端座している二人しか居ないらしい。夢か。夢なら夢でいい。現実の地獄と架空の楽園ならば誰でも迷わずに後者を選ぶだろう。〝アイドル信仰〟もそのようにして成り立つのではないか。
「鑑賞券をお持ちですね?」
売場の中の彼女が尋ねた。少女趣味全開のアイドル衣装を着込んでいる。売場は狭く、暗く、湿度が高く、隅でガス・ストーブが焚かれていて、そのストーブの上ではヤカンが沸騰して鳴いているから、彼女が店番をする様には苦笑を誘うシュールさがあった。
「鑑賞券」俺ばスカジャンのポケットを漁った。それらしいものが入っている。夢に整合性を求めるのは馬鹿らしい。「あ、でも、これは切符だ。列車の切符。〝人生の列車〟?」
「あ、それでしたら、そちらの切符が鑑賞券の代わりになりますので。覚えていらっしゃるでしょう。その切符は貴方とトロ子さんが二人で乗り込んだ人生の列車の切符です。人生は慣性の法則だと仰っていましたよね。当映画館、ああ、貴方達の文化だと活動写真館ですか、その経営母体はあの人生の列車のそれと同じなのです。映画館も鉄道も厳しい時代ですからね。少しでもお客様を増やす為に列車をご利用頂いた方には、一本、映画を無料でお見せしちゃうサービスでして。えっへん」
「でもいいのか。この切符の有効期限は〝大アイドル歴五一五年〟らしいぞ。聖アイドル歴の誤植じゃねえのか。聖アイドル歴だとしても何年も前だぞ」
「夢に整合性を求められても困ります、お客様」
「それもそうか。確かに。それならアイドル一人で」
「はい、人間の癖に創造主に憧れた哀れなアイドル様が一名様ですね。上映は間もなく始まります。映画の題名は〝幼年期の終わり〟です」
「〝幼年期の終わり〟でも〝冷たい方程式〟でもどーだっていいが、なあ、ところでアンタとは前に逢わなかったか?」
「実は私もコクジョー・ブシドーです」
「あ、やっぱりそうか。そんな気がしてたんだ。初めまして。申し遅れましたが俺も実はコクジョー・ブシドーです」
「いえいえ。どうせもう二度と逢わないのに細やかなお気遣いを頂いて感謝致します。それだから人生損するんですよ」
「分かりますかね」
「分かります。私も貴方ですからね。だからその貴方に私から一つアドバイスです。タカビーにはお気を付けて」
「タカビー?」
「隕石です」ストーブから飛んだ火の粉が彼女のアイドル衣装に火を点けた。彼女は爪先から順に灰になりながら言った。「マネージャーさんと仲良くね」
夢に整合性を求めるべきではない。俺は切符を曲げたり伸ばしたりしながら客席へ向かう。切符の目的地欄には〝月〟と書かれていた。下らない。客席にも俺以外の人影は無く、貸し切りだと考えれば気分が良いが、最大収容人数一〇〇人のホールを一人で使うのは贅沢が過ぎるようで胸が苦しい。映像に集中すればこの胸の苦しさも紛れるだろうか。
『こいつは笑ったの!』と、本編は唐突に始まった。銀幕に投影されているのは白黒の活動だ。三人のアイドルが塹壕の中で言い争っている。図式からして二対一で争っているようだ。派手な金髪縦ロールの少女に黒髪でツイン・テールの少女と、もう一人は月の逆光で顔が見えず、顔が見えないからにはモブだなと俺は思う。今にルナリアンに殺されるのだろう。何せ三人が居る所からそう遠くない地点で戦闘が起きている。アイドル・ソング、爆発音、悲鳴、それらが混淆した戦場音楽が演奏されているが、基調のアイドル・ソングの曲調が妙に明るいので悲壮感は薄い。遊園地でジェット・コースターの付近を歩いていても同じような音が聞こえるだろう。
ルナリアンと言えば二人組はルナリアンと一戦交えた後らしい。全身血塗れだ。ツイン・テールの方は右腕が吹っ飛んでいるものの、まだ常識的な、いや、血塗れに常識的であるとないの区別があるかは分からないが、夜啼兎に角、塗れ方が幾らか優しいが、縦ロールの方と来たら血に濡れていない部分を探す方が難しい。一体何匹のルナリアンを殺せばその姿になるのだろうか。
三人の足元にはファン・クラブ・メンバーやアイドルの死体、死体、死体に死体が無惨な姿で転がっているが、例のモブがその死体の一つを足蹴にしている。彼女はアイドルの身でファン・クラブ・メンバーをその手に掛けたらしい。で、その現場を二人組に目撃されて逆上したてな筋書きか。俺は座席の背凭れに体重を預けた。気楽に見よう。その方がいい。
羨ましいなと思う。アイドルの死体はどれも他のアイドルと手を繋いでいた。『死ぬ時は一緒だよ』か。
『こいつは私の友達を笑ったの。歌が下手だってね。殺されて当然の奴でしょ?』
『だからって』黒髪が反論した。見るからに憔悴して消耗している。その状態で他人の面倒事に首を突っ込もうとしているのだから見上げたタマだ。馬鹿だね。『だからって助かったかもしれない人を殺さなくてもいいじゃない。助かったかもしれないのに。助ける為に何人ものアイドルが死んだでしょうに。足穂だってトロ子だって!』
『助ける為に? はあ? 何を言ってるの? 他人を助ける為にアイドル活動をしている馬鹿が居る訳ないじゃない。それに此処で死ななくても何時かは死ぬの。そうでしょ。どうせ何時か死ぬんだから。そうよ。どうせ何時か死ぬのにどうして私だけが潔癖症のように生きなきゃならないのよ。誰も彼も馬鹿ばかりじゃない。この時代に産まれたってだけで先人達の負の遺産を背負わされて、相続放棄したくても無理って、ねえ、アンタだって知ってるでしょ、〝エレベーター独立戦争〟さえなければ今頃は人類仲良くお手手を繋いで月に行けてたのよ。月に行く用に備蓄した物資だの核燃料だのを阿呆みたいに浪費してくれた政府が私よりも小さくて親も居なけりゃ食べるものも無くて仕方なくアイドルになった私の友達に与えてくれたものは何? ねえ? 自分の身体を食い散らかすルナリアンの胎児とこの極低温環境の戦場だけじゃない。何がアイドルよ。歌って踊って人の心を励まして? それで? ライブのときは楽しくてもライブが終われば会場の外は地獄じゃない!』
カメラが三人から微かに離れた。天気良好、従って視界良好、数百キロ先に聳える軌道エレベーターが三人の背景に映り込む。
モブは尚も何か言い募ろうとしたが、隣の通路から、塹壕の壁をぶち破って現れた大型ルナリアンに踏み殺された。縦ロールが黒髪に『逃げなさい』と言い渡す。絞り出すような声色からしてもう満足に動けないのだろう。黒髪は何も答えずに大型ルナリアンの前に立ち塞がる。その顔色が変わったのは現れた大型ルナリアンが一匹だけではないと悟ったからだ。二匹、三匹、四匹、五匹と際限がない。
通常、ルナリアンのドクトリン(であろうと人類が考えているもの)では、大型ルナリアンはその全身を〝核のパスタ〟製の装甲で固め、グレイ型では近付くだけで一苦労な塹壕を強行突破する存在――強行突破して後続のグレイ型が進む道を作る存在――だと規定しているらしいのだが、今、黒髪と相対している大型はどれもこれも生身で剥き身、塹壕突破よりもアイドル殲滅を目的に行動しているようだし、数も不自然に多い。大型は開戦時でさえも数十体しか投入されず、それも総延長が百キロ単位となる塹壕の方々に分散投入するので、五体以上と同時にお目に掛かる機会はそうたんとはない。考証不足じゃねえのか?
大型、単独撃破はトップ・アイドルにすら困難であるそれが黒髪を襲おうとした。何かの間違いで撃破に成功したら年金付きの勲章が一つや二つは下し置かれるだろう。頑張れよ、と、俺は欠伸を噛み殺しながら言った。黒髪は自らを高揚させようと恥ずかしい歌詞の歌を歌い、踊り、懸命に戦ったが、素手の彼女は大型相手に大したダメージを与えられない。対する大型の攻撃は、その直撃を避けられたとしても、風圧であるとか砕かれて飛び散った壁材であるとかが黒髪の身体を切り裂いては穿つ。一番を歌い終わるよりも早く黒髪は半生半死の有様、縦ロールは呻吟しながらも動こうとするが叶わず倒れ伏せて、一匹の大型がその縦ロールに手を伸ばした。黒髪が叫ぶ。縦ロールの身体が巨体な手に掴まれる。
爆ぜた。
縦ロールの身体を掴んだ大型の手がだ。
手だけではない。五体の大型の動きが突如として止まったかと思うと、どのように形容すればいいか、ボンレス・ハムか網タイツに締め付けられている脚か、脚か、畜生め、その全身の肉が細い紐でキツく縛り上げられたように盛り上がり、次の瞬間、サイコロ・ステーキ状にバラバラに切断された。ルナリアンの手と共に地面に落ちた縦ロールは衝撃で意識を失っている。黒髪も薄れる意識を繋ぎ止めながら自分を助けてくれたのが誰かを知ろうとした。声が聴こえる。誰の声だ。黒髪には分からない。暢気な観客である俺には分かる。
『この辺りならもう安全だ。その子達は他の誰かが回収するだろう。それよりも二ブロック先が厄い。急がないと全滅するだろうから急ぐよ、モモ』
『人使いが荒いんですから、もう』
『帰ったら埋め合わせはするからさ』
『ちゅーして下さいね、ちゅー』
『それはちょっとね。行こうか。次は状況がどうでも右の人差し指から行く。|ゆったりと甘く《アセ・ドゥー・メ・デュヌ・ソノリテ・ラルジュ》ね。その方が急ぐよりも切断に要する時間が短くて済む』――
黒髪が次に目を覚ますと見えたのは天井だった。白い。知っている天井だ。〝花嫁学校〟の附属病院であるらしい。全身に点滴だの透析だのの管が突き刺さっている。
『やあ』枕元に一人の男が立っていた。猫背で髪がボサボサで桃色法被を着ていなければ世捨て人に見えるだろう。いや、着ていても世捨て人に見える。『君は三日間も寝たきりだった。身体の草臥れ方からして死んでもおかしくはなかったと医者は言ったよ。生還してくれて有難う』
『江戸川先生』黒髪はカラカラの喉からガラガラの声を発した。『無事だったのですね』
『ああ』江戸川と呼ばれた男は重く頷いた。『君や寿君や藤原君のお陰でね。ありがとう。君は元気かい?』
『私は』黒髪は首を右腕の方に倒した。吹き飛んでいた腕が新しいものと交換されている。黒髪は変に悔しそうに下唇を噛んだ。『先生は何を知っているんです?』
『それは何時か分かる』江戸川は言った。『だが今は何も教えられない。僕自身も君に教えてあげたいが教える時間がないんだ。〝十人目〟が〝十人目〟となる前に喪われた責任を誰かが取らねばならない。僕は辞表を提出し、恐らくは腐刑に処されてから、私立事務所へ移る手筈だ。しばらくは君ともお別れだよ』
『あの夜の戦いでは――』
『戦闘に参加したアイドルは三個フェス、一四四名、内引退五一名、負傷七八名、未帰還六名だ。未帰還には寿君と藤原君も含まれる』
一般に戦闘単位としての〝フェスティバル〟はその四割が失われると〝全滅〟したと見做される。四割で全滅と見做されるのは腑に落ちない気もするが、これが他の職場、例えば料理屋や小売店に置き替えたらどうだろうか。或る日、四割の従業員が忽然と消えたら店は回らず、商売を畳むしかなくなるだろう。組織的な行動を取れなくなったフェスティバルでもそれは同じだ。(全滅したフェスティバルは前線から後方に戻されて再編成を受ける。尚、フェスティバルの上位編制である〝オフィス〟や〝カンパニー〟は三割が失われると全滅認定を受けるが、それはここではどうでもいい)
無論、この文脈の意味で全滅するフェスティバルは日常的にはそう多くない。会戦、ルナリアンと人類が双方共に何十万の戦力を衝突させる際にしか普通は生じず、それ以外の散発的な小競り合いでは一割が失われるだけでも(その場で指揮を取っていたプロデューサーやマネージャーが引責引退したりだのと)大変な騒ぎになる。それが引退五一名とは。
『ルナリアンが何処から出現したのかは分かったのですか?』
『分からない。アイドル省作戦指導部は冷汗三斗の有様でね。ルナリアンはワープ技術を戦闘に転用したのではないか、と。他の惑星から侵略して来たであろう奴らだ。おかしくはない。だがそれならそれで新たな疑問も芽生える。その程度の技術であればルナリアンはもう既に実戦投入しているのではないかがそれだ』
装備とは相対的なものだ。極端な話、弓と矢で武装する敵と戦う場合、核兵器を用いてこれを殲滅するのは費用対効果が悪く、割に合わない。相手が持っていない兵器を対策する兵器を装備するのも同様だ。だからこそルナリアンは人類相手に宇宙規模の超兵器を使用しないのではないか、と、主張する学者も存在する。
いや、まあ、ルナリアンの兵站的概念と戦略にその論法が当て嵌まるかは微妙ではある。彼らは人類が核兵器を持ち出しても原則的には荷電粒子砲と人海戦術の一点張りだからだ。荷電粒子砲が強力であるのは間違いない。だが核兵器を相手にするには流石に力不足の感は否めない。荷電粒子砲以上で核爆弾以下の兵器をルナリアンが持っていないならば話は別だが、兵器の進化の手順を考えた場合、その可能性は有り得そうもない。銃を持っているのであればより大型化させようとするのが当たり前ではないか。現に奴らは砲を使うのだから。
甘く見られていると言えばそれまでだが、だとすれば、今更のようにワープ技術を戦術利用するのは何故なのか。ゲーム理論的に考えても技術を秘匿するのであれば最後まで秘匿し続けた方が得ではないのか。秘匿していたが為に彼らは何百万もの同胞を人類に殺されてもいるのだ。
何を活動写真にマジになっているのか、俺は。
時々、自分でも疑わしくなるのだが、どうして俺はこんなに物を考えるのが好きなのだろう。考えなくてもいいような些末な事、それこそ今で言えば〝装備とは云々〟的な蘊蓄をさえ、事細かに考えずにはいられない。まるで、と、疑念は飛躍する。俺は誰かに俺の生きている世界の仕組みだの歴史だのを詳細に説明させられている、――
尋問か事情聴取を受けているようではないか?
浮かんだ。脳裏に。映像がだ。大きなガラス製の筒、それを満たす緑色の液体、液体に浸されている誰かの脳味噌――
『最後に訊いておきたい』
江戸川は言った。『君は〝モノリス〟に接触したか。君が見た草原、〝楽園〟と彼らは呼んでいるが、そこに立てられていたあの四角柱だ。どうかな?』
『分かりません』黒髪は咳き込みながら言った。『無我夢中だったので』
『そうか』江戸川は前髪を掻き上げた。右目を閉じている。その右目を縦に割るような大きな傷があった。『また逢おう』
入れ替わり立ち代わりだ。鳥の嘴を模した仮面を着けた医者が来、看護師が来、教師が来、同級生が来、アイドル省の役人が来、報道官が来たが、黒髪が一番来て欲しく、又、一番来て欲しくない人物は遂に来ず、暮れ泥む首都の空を仰ぎ見る黒髪の前に夕餉の盆が差し出される。玄米の御粥であるのはこれ如何にと黒髪は小首を傾げた。回復食かとも思った。違うらしい。翌日も翌々日も三食はどれも玄米を主食に据えていた。前線では核地雷原で生産されていた――と言うと訳が分からないが事実なのだからどうしようもない――チキン、それから日持ちする干物、独特の発酵食品に虫ばかり食べていたのだろうから、黒髪の食欲自体は旺盛だった。
極低温環境では物はそう簡単に腐らなくなるが、年単位での保存を考えるとなると調理法も加工法も使用可能な食品も限定されてしまうし、〝委任経理〟時代に脚気患者を量産した背景も手伝い、前線では足の速い肉や魚が避けられる傾向に――
足の速い。足の速い。足の速い。吐きそうだ。畜生め。
『妊娠糖尿病だ』と、医者が教えた。
男性経験も無いのに〝妊娠糖尿病〟に罹患するとは、と、黒髪は今更のように落ち込んだ。馬鹿だ。アイドルになるときに覚悟しなかったのか?
『私』黒髪は医者に尋ねた。『〝どりこの〟が好きなんですけど、あれ、飲むの駄目ですか』
『あれは糖分の塊だから控えるようにしないと駄目だね』
『そうですか』黒髪は微笑んだ。『そうですね。ええ。私もそうしようと思っていました』
暗転した映像が次に結んだのは少女の像だった。気の強そうな、それでいて妙に愛嬌のある目付きをしていて、
『私、走るのが苦手だったのよ、実は』
『嘘でしょう』と、黒髪の声がする。
『嘘じゃないわ。練習している内に勝手に速くなっちゃったんだもの。昔は早く走れる子が、どうやって早く走れるのか、それはもう不思議だったわ』
『才能だけで』と、黒髪のモノローグが挿入される。『才能だけで足穂が強いのではないと分かったこのとき、酷く嫌気が差したが、希望が見えた気もした』
『私、貴方の気持ちが分かるわ。私も比べられて育ったから。だからこそ私と友達になって欲しいのよね。こう、切磋琢磨と云うか、ね?』
『私と同じ子は居ないと思っていた』と、モノローグは繰り返される。『思いたがっていた。自分よりも不幸な誰かが嫌いだった。自分が世界で一番不幸だと思いたくて、その自分がまた嫌いで、自分を嫌っているのだから、自分が屑だと自覚しているのだから、自覚していない他の誰かよりも遥かにまともだと思いたがる自分が嫌いだった』
場面は再び転換する。あの気の強そうな少女が校庭を走り、黒髪がその隣を走り、空は青く、木々は碧く、少女と黒髪の速度差は著しい。それが、木々が赤く染まると少し縮まり、その赤い葉が全て落ちる頃にはグッと縮まり、校庭の一角でサンタ・クロースの人形が火炙りにされる時期ともなると横一直線に並ぶようになり、
『抜かれるのも時間の問題かもね』
と、少女は瓶詰の〝どりこの〟を黒髪に差し入れて、
『私を抜いたらご褒美に門限破りをして活動でも見に行きましょうか!』
『また変な活動でしょう。大体ね、貴方ね、見に行くって言うけど、道案内を任せると何時も迷子になるでしょ?』
『だって迷子になるの好きなのよ、私。三人で迷子になって喧嘩しているのが好きなの。駄目?』
『駄目じゃないけど』黒髪は時間稼ぎをする為に〝どりこの〟を飲む。
『〝どりこの〟は』と、画面が徐々に暗転しながらも、三度目のモノローグが語るに曰く、
『巡回の先生に門限破りが見付からないかビビりながら街角を曲がったときの、あの気怠さを洗い流したくて飲んだのと、何時でも同じ味がする』
『あれは糖分の塊だから控えるようにしないと駄目だね』だから俺はあれから一度も〝どりこの〟を飲んでいない。
面白くない場面が続いた。黒髪がメソメソと泣きながら親友と二人で暮らしていたのだと云う部屋を片付ける。思い出を畳み込むように親友の私物を箱に詰めていると、棚の奥底から『誕生日おめでとう!』だの『次の誕生日も一緒にお祝いしようね!』だのと書かれた色紙が出て来て、黒髪はメソメソ泣きをピタリと止めた。号泣し始めたからだ。俺は溜息を吐いた。はいはい。そうですね。悲しいね。切ないね。視聴者としてはそんなのどうでもいいんだよなあ。次の展開を見せろ次の展開を。
その次の展開は葬式だった。気が滅入る。親友を虐めていたと云う一団が『あの子が死んだのは自分達が悪いんだ』と泣く。俺も退屈で泣きそうだ。それにしても、制服だから仕方ないにせよ、ウェディング・ドレスで同級生の葬式に参列するのは笑えるな。親友ちゃんの死体は発見されなかったから棺は空で、死体を餅で撫でるような儀式も取り仕切られず、葬式は淡々と進んで淡々と終わり、なあ、これは誰の為の葬式なんだ?
『ほんまに』と、葬式も佳境に差し掛かったとき、黒髪と話しているのは幼児にしか見えない少女だった。
『ほんまにすまへんかったな。ウチは何もしてやれへんかった。すまんな』
『タマヲさんが無事だっただけで私は。それよりも、その、タマヲさんにお聞きしたい事があるんですが、いいですか?』
『なんや。ウチに答えられる事ならなんでも訊き。殴っても蹴ってもええ』
『KKK機関の研究所が何をしていたか知りませんか?』
『KKK機関?』タマヲは訝しんだ。『すまん。その、それ、なんやったっけ?』
黒髪はタマヲのタナー段階が進行しているのだろうと踏んだ。そうではなかった。
黒髪はあの地下の戦闘でそのKKK機関とやらの研究所を見たらしい。が、誰に訊いても、あの金髪縦ロールでさえもそんなものはハナから存在していない、見た事も聞いた事もない、あの塹壕の地下にあったのは原子力砕氷船などの非常に有益だが有り触れた遺跡遺物であると答えた。黒髪は呆然とした。数の上から言えば黒髪の記憶が間違っている事になる。タナー段階が進行しているのは自分の方ではないのかと黒髪は恐れた。
ところでタナー段階の進行しているのは黒髪だけではなかった。
〝廃アイドル院〟である。引退したアイドルの御霊を祀る社、〝アイドル招魂社〟と抱き合わせになっているそれは、旧時代の古刹を思わせる外観を呈する。が、思わせるだけだ。遺跡から発掘された情報を基に3Dプリンターでその外観を再現しているだけだから、ノッペリと云うか、壁にも床にも凹凸が変に少なく、表面の木目も実際には印刷されているに過ぎない。それでも一種の雅さを〝廃アイドル院〟が放っているのは〝アイドル信仰〟を刷り込まれた人がそれを見ているから――と云うだけな気もする。少なくともこのように映像の中の〝廃アイドル院〟を見ている限りは。
黒髪がその院の門を潜った。門には煌びやかな装飾が成されている。引退したアイドルの遺骨から精製された人工金剛石がその装飾の大部分を占めている。院の広大な前庭には小学生が大挙して押し寄せていた。社会科見学だろう。〝廃アイドル院〟、人間の言葉に翻訳するならば〝廃兵院〟は、タナー段階が進んで活動を続けられなくなったアイドル等を収容し、その余生を有効活用する施設だった。
小学生群の前を一人のアイドルが通る。車椅子に乗せられた彼女は手足が無く、発する言葉は『あー』とか『うー』で、口の端から無限に涎を垂らしている。引率の小学校教師はそのアイドルに五体投地、涙ながらに、アイドル様は皆の為に歌い、踊り、戦って、ついにはあんなお姿になってしまったのだが、ああなってもまだ人類を救う為に歌っておられるのだ、感謝せねばならない、――と語り、小学生らにも五体投地を強要した。アイドルは商品だ。その死に際には最も高く売れる。
『可哀想』と小学生の誰かが小声で言った。
ファン・クラブ・メンバーに罪はない。彼らはアイドルの何たるかを本当の意味では知らない。直接、アイドルと話す事も滅多に無く、アイドル側からそれを求めようとするのも職務規定で禁止されている。だが、だとしても、どうしてどいつもこいつも傷付いたアイドルを〝可哀想〟にしてしまうのか。ファンは残酷だ。アイドルを知らないからこそアイドルの全てを自分達のレベルに合わせて考える。あのモブの気持ちも俺には分かる。『歌が下手だ』と自分を貶した相手をどうして守らねばならないのか。守ろうとして死なねばならないのか。畜生め。罪はないと宣っておきながらファンを責めようとするな。
院には黒髪の〝姉〟が入院していた。ウェーブの掛かったフワフワの髪はお日様の色、眠そうにも泣きそうにも見える気怠げな目は垂れていて、ムニュッとした口元に悪戯っぽい性格が集約されているが、後輩に対する面倒見は抜群に良く、几帳面に握られたお握りのように角がない、――
『来ましたよ』と、黒髪は挨拶をし、
『良い曲が書けたなあ』と、病室の主は言った。
『サンゴ先輩も来る筈だったんですけどね』
『我ながら天才かもしれんね』
『あの日以来、どうしても気不味くて、その、トロ子の葬式のときしか逢えてなくて』
『ややっ。だが待てよ。ここをこう書き直したらどうだ?』
『先輩ですよ先輩。お姉様って呼べなくなっちゃいました』
『おお、こっちの方がいいじゃないか。これに気付くとは流石だな。我ながら天才かもしれんね』
『大喧嘩をしたんです。お姉様と。どうしてあのとき死なせてくれなかったんだって』
『良い曲が書けたなあ』
『お姉様は何も悪くないのに、私、酷い事を言ってしまって』
『我ながら天才かもしれんね』
『お姉様、卒業配置を蹴って、前線に行くそうで』
『ややっ。だが待てよ。ここをこう書き直したらどうだ?』
『二度と逢えないかもしれないのに』
『おお、こっちの方がいいじゃないか。これに気付くとは流石だな。我ながら天才かもしれんね』
『私、私、私……』
『おや?』〝姉〟は〝妹〟を見付けた。彼女の喋る速度は常人の二分の一だった。五体は満足で、万年筆を油でギトギトの手で握っているが、紙に書き殴っているのは人の理解が及ぶものではない。寝ている床の傍には同じような紙が何枚も落ちていた。中には端から端まで黒く塗り潰されたものもある。紙の他には、昼食だろうか、戦時統制下では豪華と呼ぶべき食品が所狭しと並べられた盆があるが、どの食器も異常に汚れている。〝姉〟の口元と指先がその日の主菜と同じ色にベトベトに汚れていた。箸の持ち方も忘れてしまったのだろう。
『君、どうしたのかね、何処から来たのかね。誰か知らないがどうして泣いているのだい。お腹でも痛いのかね』
〝妹〟が答えないので、〝姉〟は汚れた手で後頭部を搔き毟り、手から汚れの移った髪の毛がゴッソリと抜けた。
『そうだ』〝姉〟は言った。『泣いている君に一つお話をしてあげよう。この話はとても素敵なお話でね、いいかい、聴くと元気になって泣いているのも馬鹿らしくなる。君は月を知ってるか。あの夜空に浮かんでいる赤い星さ。あの星にはウサギさんが住んでいるんだってよ。そのウサギさんが寂しがり屋で寂しくて寂しくて死んでしまいそうなんだね。それで――』
〝妹〟は〝姉〟に抱き着いた。〝姉〟は驚いたように目を見開き、直後、大声で悲鳴を上げた。何か思い出したのだろう。『来るな』とか『死にたくない』とか喚き、怯え、壁を引っ搔きながら泣きじゃくった。黒髪は笑った。笑うしかないから笑っていた。昔、その黒髪の少女は笑って何もかもを誤魔化そうとする親友が嫌いだった。
『泣きたいのであれば』
と、場面は急に切り替わる。池が静かに水を湛え、鹿威しが鳴り、苔生した岩が点景となる庭に面した座敷、その中央に黒髪に顔の良く似た中年の女性が正座を組んでおり、
『泣いても構いません』
『なんだそれは』と、黒髪は思う。
『なんだそれは。どんなときでも泣くなと教えたのは誰だ。それとも私を娘として見限ったのか。私には帰る家さえも無くなったのか。帰る家か。そうだな。いざとなれば私は家に逃げかえれば良かったのだ。足穂ともトロ子とも私は違う。大体、私があの冬、二人に追い付こうと無理なトレーニングをしなければタナー段階は進まず、トロ子だけでも助けられていたかもしれない。あの手があんなに熱くなってさえいなければ』
『が』黒髪の母であろう人は言った。『本当に友人を救いたかったのであれば、バールのようなものなどではなく、我が家の剣を発現させるべきでした。私にはそれが残念です』
言え。俺は思った。黒髪の姉ちゃんよ、お前はさ、言いたいだろう。『貴方が私の何を知っているのですか?』だ。『貴方に私の何が分かるのですか?』だ。言え。分かるよ。分かるとも。お前の気持ちが俺には良く分かる。辛いだろう。大好きな筈の母が大好きだからこそ辛くて憎い筈だ。言え。思いの丈をぶつけろ。ぶつけねば何も変わらないんだ。
『はい』黒髪は、しかし、土下座をした。『申し訳ありませんでした』
『しかし、笑子、それにしても貴方の働きは目覚ましいものでした。その年でヲリコンに入るのは私でも成し遂げられなかった快挙です。おめでとう』
『ありがとうございます』と、黒髪は頭を上げずに泣いた。母に褒められたのが本当に心の底から嬉しかったからだ。嬉しかったから死にたくなった。死にたくなったから私は死んだ。このようにして俺は生まれた。他人事だ。どんなに辛くても他人事だと思えば、他人の人生を借りて生きていると思えば、それで気持ちが軽くなる。
『その友達の事は忘れなさい』と、その人は言った。同じような台詞をこの日と、自分が死ぬ時と、二度言った。『私の事は忘れなさい』
忘れるさ。何もかもをだ。トロ子の事も、足穂の事も、緑さんの事もお姉様の事も、信じていたのに、『マネージャーは担当アイドルの一番のファンです!』とか調子の良い事を言っていたのにいざとなったらトンズラしたあの最低なマネージャーの事も、勿論、かあ様の事も、『つまらなくなっちまったねえ』とか何とか評して俺に見向きもしなくなった角野先生も、江戸川先生もそうだ、KKK機関の秘密もどうだっていいし、あの研究所での感じ、頭に知らない筈の知識が流れ込む感じもあれ以来は一度も起きていないのだから、多分、アリス・シンドロームの発作だろうし、もういいんだ、もういい、何もかもを忘れてしまいたい。
忘却だけが人を救う。
そう思う。
忘れてしまえばそれだけで――
〝大忘却〟もそれと原理的には同じようにして生起したのではないか。
銀幕に『完』の文字が映し出された。その『完』に何も感じない今なら分かる。
人類は月には行けない。




