第25話 / 夜啼兎笑子 / キャン・アイ・セイ...(前編)
歌い、踊り、戦うだけがアイドルの芸術ではない。
もし、それらが人の心を動かすからこそ芸術と呼ばれるのであれば、――
芸術はスピードだ。
結論から言う。トロ子は負けた。戦いの趨勢は開戦劈頭にはもう決していた。足穂の速さは先の決闘時の二倍、否、三倍の頂に登り、『開始!』の合図と同時に魁たのは咲きかけの花、トロ子の顎に膝を叩き込み、トロ子の姿勢が崩れるよりも早く背後に回って股を蹴り上げ、宙に浮いたトロ子の腹を蹴り抜き、先手を、いや、先足を打ち、打ち続け、トロ子に一切の反撃を許さなかった足穂は以前の足穂とは別人、極端な加速に自らの体も切り裂かれるが委細構わず戦闘続行、鼻から、口から、目から、毛穴から噴き出した血液がソニック・ブームで拡散して空中に蔦花文様を描き、その光景に私は開く蕾を幻視する。一つの才能が此処に完成した。
「ありがとう」足穂は複雑骨折した左手をトロ子に差し出した。殊更に左手を差し出したのは右手は開放骨折しているからだった。「貴方のお陰で私も強くなれたわ!」
その髪色は実る稲穂に良く似た黄金、波打つ様は秋の風に遊ばれる田園の如く、稲穂の花言葉が〝神聖〟であるのを私は強かに想い起した。
足穂が差し出した手をトロ子が握り返した距離分、二人の心理的な距離は近付き、ご相伴に預かる形で私と足穂の距離も急接近する。折からの長期休暇 (〝花嫁学校〟では葉月の最終週を夏季休暇と定めている) も私達の交流を助けた。生徒の過半が帰省しても私とトロ子と足穂は寮に残っていたからだ。二人は帰るべき家をそもそも持たない。それに引き替えると私には帰るべきなのだろう家があったが、それだけで私は妙な負い目を感じていたし、かあ様はどうせ不在、予めそう伝えた訳でもないのに帰宅して家令の吉野らを忙しくさせるのも気後れした。『笑子ちゃんの家に遊びに行ってみたいなあ』とも乞われたが、その、だから、家令 (執事長) だの給仕さんだのをトロ子に見られるのは何だかとても恥ずかしかった。恥ずかしがらずに呼べば良かったのに。
ところで足穂は私に倍する世間知らずだった。例えば彼女は炭酸飲料のイロハを知らなかった。その存在は流石に知っていたが飲んだ事が無いらしく、図抜けて暑かった日、三人で勉強しようと足穂の部屋に集合、トロ子が寮備え付けの自販機で買った缶を差し入れると、
「こここ」仰天した。「こんなもの飲んだら骨が溶けちゃうわよ!」
それだけではない。トロ子がトロッと確信犯的に笑い、
「持ってくるときに少し振っちゃったから開けるときは気を付けてね?」
「気を付ける? 開けるときに? どうして?」
「爆発するから」
「爆発するの!?」
こんな危険なものは何処かに隠さなけければならないと考えた足穂は校庭に埋めれば無害化するのではないかと考えたが、「それだと校庭が地雷原になっちゃう!」と慄然、「いざとなれば私が缶の上に覆い被さるしかないわね」と真顔で発言、申し訳ないが私もトロ子もこれぞまさに爆笑、ポカンとしている足穂に真相を教えると呆れられたが、呆れながらも「誰も傷付かないなら良かったわ」との感想を述べる辺りに彼女の性格が顔を覗かせていた。
私は足穂相手に先輩風を吹かした。町を歩けば自分も三度しか来ていないのに得意げに駄菓死屋を案内して、「これを食べたら死ぬんじゃ」と謎の海洋生物の脚を干して串刺しにしたもの片手に訝しむ足穂を、「何事も挑戦よ」と励まし、トロ子に「笑子ちゃんは愚かだねえ」と蔑まれたが、止められない止まらない、あれもこれも自分が知っている全てを共有しなければ気が済まなかった。だってね。あのね。せっかくの友達なんだから自分の知っている全てを知って欲しかったのよ。駄目?
「駄目な事がありますか」
足穂は朗々と言った。「だって、他人がもし駄目だと言っても、私自身はこうしていると楽しいもの!」
寄々(よりより)、何も悪くない足穂を悪くないからこそ嫌う自分が居たが、それでも私は足穂が好きになっていた。足穂の側でもそうでいてくれたらしい。彼女も彼女で私に四方山を教えてくれた。中でも私が興味を持ったのは料理の作り方だった。質素倹約を尊ぶ藤原家では自炊が基本だそうで、言うだけあって足穂の包丁裁きは逸品、私は『キチンとしたカレーが作られたどんなに素晴らしいだろう』と考えて彼女に師事したが、どうしたことか、私が手を加えた食材は何もかも炭に変わっては味見役のトロ子のお腹を壊した。足穂が『誰でも最初は下手だから!』と慰めてくれなかったら練習し続けようとは思わなかっただろう。
休暇が明けて初日、江戸川先生に呼び出されたので何事かと身構えたが、
「今学期から僕が君らの生活班を指導するからね」
〝花嫁学校〟は最高峰の補充学校であるだけにその教育制度も豪華絢爛だった。教師陣からしてその全員が現役の、それもヲリコン・チャートに最低二度は入賞しているアイドルかマネージャーであり、生活班一つに付き二名の教師が〝顧問〟と〝助教〟として配属される。顧問は定期的に生徒と面談を実施し、その生活に不安はないか、成績に翳りがあればそれをどのように改善するか、この生徒の長所は何でそれをどう伸ばし、では欠点を補うにはどうするかを考え、助教がその考えに従って実務に当たる。尤も制度は何処までも制度でしかない。〝スタッフ・オンリー〟防衛に〝花嫁学校〟の教師でさえもその一部が動員されている近日、顧問と助教は専任ではなく教師との兼任、であるからには教師の仕事だけでも一杯一杯、顧問業務に関しては担任に丸投げしている者も多く、事実、私は顧問とも助教とも五分と続けて話した試しがない。(これが二世紀前であればこの制度も活きたのであろう。制度は時流と共に改革されるべきである。が、その改革を担うべき人材でさえも戦争に駆り出されてしまっているのだからどうにもならない)
「トロ子ちゃんが、ああ、いや、もう顧問だから寿君と呼んだ方がいいかな、〝十人目〟であるのはリ・オペレーションが行われるまで伏せられる事になった。公にすると〝失われたⅤの教会〟のテロ対象になるかもしれないからだけど、ああ、いや、夜啼兎君、そう緊張しないでいいからね、そうならないように僕が担当をするんだからね。その、こう云う言い方は宜しくないだろうが、勿論、僕が担当になれば君達への嫌がらせも多少は減るだろうとの意図もある」
「ありがとうございます」
「むしろ、生徒自治に感けて、生徒間の問題を放置していた僕の方が謝らなきゃならない立場だ。悪かったね。まあ、僕としてもねえ、ここを出ていく前に君達をせめて安心させてあげたくてだね」
「配置転換ですか?」
「まあね。皇帝府の参事官に決まったよ。来年の春に異動になる。一応、勅任一等に格上げされるらしい」
「おめでとうございます」
「いやあねえ。そうだねえ。僕、幼年学校組じゃないから、皇帝府とはまさか思わなくてね」
「あれ、先生は幼年学校の卒業生では?」
「あのね、幼年学校卒ならね、前線に送られたりはしないし、送られたんだとしたらこの年次でこの職場には居ないし、それに僕ね、実は私大卒なのね」
吃驚した。皇帝府とは縦割り的で縄張り意識が強い各省庁間の橋渡し役を務める行政機関だった。これは〝エレベーター独立戦争〟から得られた反省と戦訓、要は『〝教皇庁〟にせよアイドル省にせよ一つの役所が抜群の権限を持ちその権限が自己完結しているのは行政上の問題である』との観点から中層以下出身の若手官僚を原動力として(白色テロ的に)創設されたのだが、その観点を守り、創設に対する各省庁からの不平不満を抑える狙いで機関の長を皇帝と定め、且つ、皇帝が直轄するべきと判断された行政事務に関しても皇帝府の掌管とするとしたのが大失敗だった。
皇帝府からすれば皇帝の威を借りて他の省庁を律したかったのだろう――時の皇帝であるマリエ帝もそれに積極的に加担した――が、その皇帝の叙任権を〝教皇庁〟が掌握する現実を変え切れず、アイドル省からも『皇帝府を皇帝の補助機関として捉えた場合、現在、内閣やその官房で分掌されている事務の一部が皇帝府の所掌するべき所となるが、これは皇帝陛下の偉大なる権限に干渉し、更に憲法の予想する所ではないのではないか?』云々との突き上げを食らった。結果、とりあえずは生き残りを優先せざるを得なくなった皇帝府はその調整能力に関して〝教皇庁〟とアイドル省に対して妥協、それでいて己の存在意義を確立せねばならないから他の省庁に対しては異常に高圧的な組織へと変貌した。
皇帝府が〝イチジク機関〟のような秘密警察を有するのもこの為だった。体面上、政府内部に入り込んだ〝失われたⅤの教会〟の細胞、敗北主義者、反アイドル主義者を統括的に監視する外局として皇帝府が監督する事になっているが、他部局への圧力として保有しているのは誰の目にも明らかである。(〝教皇庁〟は彼ら担う〝アイドルの神聖さを守る業務〟を〝イチジク機関〟に妨害されていると主張しているが、皇帝府は『教皇庁は対外的にアイドルを守る組織で自分達は内部を監査し捜査し監視している』と答弁、何処からがお互いの領域かを焦点に啀み合っている)
無論、皇帝府からしてすれば生き残りを優先するのは一時的な対症療法的処置、組織としての体力を涵養し、行く行くは〝教皇庁〟やアイドル省を封じ込める算段だったのだろう。だが〝伺侯席〟がそうであるように開祖の崇高な理念でさえも孫の世代には忘れ去られてしまう。あれやこれやと他の省庁に指図したがる皇帝府こそが現在では各省庁の縦割り行政を促進し、又、抜群の権限を持ち、その権限が自己完結している状態にある。
で、そのような機関のご多分に漏れず、皇帝府も選民意識に凝り固まっていた。例えば皇帝府に採用された役人は自身の経歴を記す場合、官庁で広く使われる『〇〇年皇帝府採用』とは書かず、『〇〇年皇帝府入府』と書く。生え抜きと他所からの異動者、出向者との区別に五月蠅く、部局員の学歴にも一家言を有しているから、江戸川先生には申し訳ない言い草になってしまうが、優秀であるとは言っても私大卒、しかも対立しているアイドル省の若手を引き抜くのは極めて希だった。(通常、官僚は入庁した役所から数年単位の出向以外では異動しないが、皇帝府は省庁を跨いだ調整を幅広く実施するとの建前から方々から人材を搔き集めていた)
聖アイドル歴五一四年現在、各エレベーターの下層では既に崩壊しつつあるが、全国民は六年間の義務教育を課される。小学校卒業後に中学校へ進学するのは主に首都の学生だがそれでも全体の三割に過ぎず、その内、中学校を無事に修了して大学進学の予備校的な高等学校、専門学校、幼年学校に進学するのも三割、高等学校から大学に進む者は更にその中の一割であるからして、中学校を終えていれば自他共に認める〝高学歴〟となる。だからこそ大卒の役人は概してプライドが高い。
しかし、それが私大卒となると事情は大きく異なる。私大は国民総中流の砌、就職競争が過当であった頃、大卒の箔がどうしても欲しい困ったちゃんらの要望で開設された。いや、当時は民間にも充分な予算があったから、時と場合で管制大学のそれよりも乙な教育を受けられたかもしれないが、人類がこうも追い詰められているとそうもいかない。現存する私大は〝首都の優先搭乗券〟を子供に与えたい富裕層の思惑だけで経営されている。
私大の〝武勇伝〟には事欠かない。私大全盛期にどの私大でも行われていた〝賄征伐〟がその一つだろう。普通、私大の生徒は寄宿舎に身を寄せるが、そこで食べる賄が口に合わないとか何とか言って暴動を起こすのである。暴動である。せっかくの白萩様を食堂一面にぶち撒け、椅子や机を破壊し、料理人その他を拘束、監禁して『もっといいものを食わせろ!』と理事会に訴えるのである。野蛮人なの?
〝賄征伐〟は〝エレベーター独立戦争〟を機に鳴りを潜めた。今では〝ストーム〟が私大の評判を落とすのに一役買っている。
私大の生徒が町に繰り出して御乱行に及ぶのを〝ストーム〟と呼ぶのだが、暇を持て余した彼らは熱心な堂摺連であり、アイドルのライブに通っては『俺の推しのが可愛い』、『いや俺の推しのが可愛い』と学校単位での抗争を引き起こし、どうかすると『あの学校の推しアイドルは不純である!』とか宣いライブ・テロに及ぶ。ステージ上のアイドルに罵詈雑言を浴びせて一発逮捕、汚物を投げ付けて一発思想裁判、それでも親が金持ちだから悪くても数カ月で娑婆に復帰する。嵐のように来ては去るから〝ストーム〟なのだろう。
「僕も昔はヤンチャをした」
江戸川先生はシミジミと言った。
「〝大学は出たけれど〟じゃなかったんですか?」
「そうだったよ。私大卒を雇ってくれる会社は無く、国家公務員試験に受かるような学力も無く、親のコネで文化保護省に入るかとも思った。あそこは、ホラ、フィールド・ワークが多くて損耗率もそれなりで、キツい、汚い、厳しいの〝3K〟が揃っているから私大卒も採用するからね。でも僕は最終的には人の伝手で一生を三等マネージャーとして暮らす道を選んだ。前線に送られて、サッサと人生に幕を下ろすかと思いきや、組んだアイドルが半端じゃなく凄い人で、分不相応に出世してしまった訳だ」
「それは、その、先生の実力ですよ」
「どうかな。小春日和さんと言ってね、これがとてつもない天才でね、飛び級で一〇歳で幼年学校に入ったコが居て、その子が僕の同期なんだが、その子なんかは天才であるが故に出世が遅れている。組織は実力で人を評価してはくれないさ。あ、いや、君に話すような事ではなかったね。話はそれだけだ。〝ご家族〟にそう伝えてくれ。助教も近く着任する。仲良くしてあげて下さい」
早速、私はこの話をお姉様達に伝えた。お姉様もトロ子も素直に喜んだ。一人、緑さんだけが上の空だったのが気になり、二人になった折にそれとなく尋ねたら、
「怖くてね」
「怖い?」
「そうさ」緑さんはポツンと言った。「最近、眠るのが怖いんだよ。寝て起きたら何か大切な事を忘れているんじゃないか、自分が誰か、君達が誰か忘れているんじゃないかとね。私のタナー段階の進みは人より速い。タナー段階は最後にはアルツハイマーを発症するのが典型だからね。だが眠るのよりも怖いのが変化だ。寝てしまえば後は安らかな夢を見るだけだし、もしも、眠って目が覚めなくともそれならそれで凄く楽だからね。でも一つ物事が好転し、その、幸せのようなものに近付く度に、その幸せが何時まで続くのか酷く不安になる。悪いなあ。お姉ちゃんなのに弱音を吐いて」
「その」動機は分からない。それでも私はその御伽噺とも言えない御伽噺をしていた。「月にはウサギさんが居るんですよ」
「ウサギさん」緑さんはキョトンとした。「夜啼兎の兎? 白くて小さくて耳が長くて、そうだ、寂しいと死んじゃうあれかね?」
「そうです。夜啼兎の兎で白くて小さくて耳が長くて寂しいと死んじゃうあれです。そのウサギさんが月に居るんです。居るんだと私はかあ様から、母から、教わりました。一人で寂しかったり、怖かったりしても、月のウサギさんに逢いに行って、お友達になると云う目標を持っていれば何事も怖くない――と」
「ふうん。ウサギさんねえ。笑子ちゃん、もしかして、人類が月に行けると思ってる?」
「固くそう思ってます」
「そうかい。君はリアリストだと思っていたがね。でもその話を信じてるんだ?」
「トロ子にも笑われます。子供だってそんな話は信じない、と。私も本当は半信半疑です。でも信じているだけで意味があるんです」
「うん。そうかあ。うん。そうだね。分かった。ありがとうよ。慰められたよ。そうだなあ、じゃ、これからは一人で眠るのが嫌になったら笑子ちゃんにウサギの話をして貰うか!」
ウサギさんのお話を笑わなかったのは緑さんと足穂の二人だけだった。サンゴお姉様でさえ娘が癇癪を起したときの親の顔で笑った。足穂は何も言わずに私の頭を撫でたものだ。
旬日を経ずにその二人が三人になった。三人目のその人は長月の一〇日目に一年ロ組の教卓に立ち、
「トン・シノブです」と、名乗った。




