第1話 / 極楽坂 / どきどき! すべてのはじまり!
セシウム時計のアラーム音で(色々な意味で)目を覚ました。
悪い兆候だ。またあの頃の夢を見るようになってしまった。ところで僕は、昨晩、テレビを付けっぱなしで寝たらしい。この耳障りな砂嵐のザーザー音が僕をあの夢に導いたのではあるまいか。溜息を一つ吐く。二つ吐く。三つ吐いても吐き足りない。アモルファス金属製のベッド・フレームは頑丈過ぎて寝返りを打つ度に身体が痛くなった。酷い寝汗だ。今日だけでもズル休みしようか真面目に悩んだ。悩んでばかりもいられない。蒲団を這い出る。眼鏡は何処だ。サイド・ボードにない。ベッドの下にもない。額にあった。
顔を洗う。鏡の中の僕は三五歳だ。禿げてはいない。断じていない。生え際が気になりはする。その煩悶も水で洗い流して、チャッチャとスーツに着替えて、桃色法被をテキトーに羽織った。どうせ冗職に据え置かれている身だ。略綬の缶バッジもそろそろ塗装が剥げつつある。交換するのも手間だ。
『おはようございます!』と、大方の身繕いを終えた折も折に朝の官営放送が始まった。本日のキャスターは人形のように整った顔立ちのチャンネーだった。品隲するに幸運にも自己崩壊を免れた引退アイドルだろうか。それにしては面立ちに険がない。そう言えば生まれながらの美人と云うのもこの世には存在しているのだった。あの子のように。苛々する。生まれながらの美人ならば宣伝省などではなくてアイドル省に入庁するべきだ。
『先ずは朝の感謝から。アイドル招魂社へ向けて礼。礼!」
はいはい。はいはいはい。やってますとも。ネクタイを買い替えたいな。
『本日の天気は灰時々ファフロツキー現象。お昼頃には空から肉片と直径三センチ程の隕石が降るでしょう。この肉片は二週間前に皇帝陛下の祝福を受けた聖なる戦術核弾頭でぶっ殺された衛星軌道上のこん畜生なルナリアンのものです。お住まいの地域付近、特にエレベーター内に侵入しているものを発見した場合には、速やかに特殊処理人に通報して下さい。ファフロツキー現象の後は数分ですが晴れ間が覗く見込みです。晴れるのは七二二日振りですね。これもアイドル皇帝陛下の御業であります。アイドル皇帝陛下万歳。ストレンジラブ皇帝万歳。今日も陛下とお国の為の勤労に励みましょう』
別に見たくもない。それでも何となく虫の知らせのようなものがあってそのまま放送を垂れ流していた。地球の輪の現在位置、今日の引力係数、『前線に行って国民とアイドルの献身を生で見たら生まれながらにマヒしていた体が突如として回復したのです!』だとか〝失われたVの教会〟がどうたらの与太話を経て、
『今日の懐メロのコーナーに移ります。本日の懐メロは〝リリー・マルレーン〟。歌ってくれるのはあの〝アークエンジェルズです〟』
「違うね」僕はテレビの電源をオフにした。「それはあの子の歌だ」
本棚に伏せてある写真立てをチラ見していくか迷う。結局は覗かないことにした。「行ってくるよ」とだけ写真立てに告げる。写真立てに告げても仕方ない。写真立ては返事をしない。扉を排すると目の前は直ぐ独身マネージャー官舎の共用廊下で、天井は、昨今の農地不足を解消するためとか銘打ってブドウ棚になっている。今もタワワでプリンな葡萄ちゃんが美味しそうに実っていた。余りに美味しそうだから食べちゃいたくなった。
で、食べたらこれが不味かった。自分も贅沢になったものだとつくづく思う。ハイパー・エイヨウアルヨ・モヤシしか食べられなかった極貧時代が今では懐かしいとは何事か。四度目の溜息でもまだ足りない。出勤時間だから廊下はごった返していて、中途、清掃員のオジサンとオバサンに「マネージャー様に礼!」と五体投地をかまされた。どうも〝支社〟のこの文化には未だに慣れない。
モタモタと歩くものだからエレベーター内駅に到着するのが遅れた。ホームを走る。閉まる扉の隙間に強引に体を捻じ込んだ。セーフだ。
身体が鈍っているようだ。高が数十メートル走っただけで息が切れるだなんて。車内は超満員、息を整える余裕は与えられないまま、右からサンド、左からプレス、降りる頃にはペラペラになっているのではないかと疑われる。何か別の事を考えよう。そうだ。ホームを走ると言えば〝野球〟だ。
〝野球〟とは〝大忘却〟以前のエクストリーム・スポーツだ。競技内容は至って単純、競技者は駅のホームを全力で疾走、如何にギリギリで電車に乗り込めるかを競い合う。エクストリームだの競技者だのと語彙こそ物々しいが、〝大忘却〟以前の人類、殊にエコノミック・アニマルと呼ばれたジャパニーズ・ジンはこの競技を民族ぐるみで日常的に行っていたとされる。野球で足腰を鍛える事で日常生活や勤労戦線の艱難辛苦を乗り越える体力と精神力を涵養しようと言うのだろう。
時々、『野球って実はそんなスポーツじゃないんじゃねえの?』的な意見も提出されるが、あのね、遺跡から発掘された文献にも『スライディングでホームを通過してギリギリセーフになった』と書かれているのだからそれで間違いない。大体、『ホームラン』と云う単語が頻出するのだから、駅のプラット・ホームを延々と走る競技以外の何だと言うのか。専門的に〝大忘却〟以前のスポーツを研究している大学時代の友人に言わせれば『ホームランで好成績を収めた父親の事を素晴らしいマイ・ホーム・パパと呼んで褒め湛えたのさ』となる。それにしてもマイホームとホームランでホームが掛かっている。旧人類は笑いにシビアだ。(因みに同じ友人曰く、他人の嫁さんを寝取ってしまう悪い奴を〝盗塁王〟だとか、そう呼ばれる因縁は不明だが〝夜の三冠王〟と呼ぶらしい)
尚、野球の〝球〟とは何を意味するかについては定かではない。球突き、即ちビリヤードのように駅構内や電車内で人と人がぶつかるからそう呼ばれているのだとも実しやかに噂されているが、他方、タマとは魂の暗喩であり、『今日も辛うじて外から家までタマを取られずに帰って来られて謝謝!』の意味が込められているとも言われる。そう考えると〝野球〟とは誠に侍の国の文化である。
野球とベース・ボールが同一のものであるとする珍説もある。そんなことはないだろうと僕などは思う。ベース・ボールは身分の高い人々が営んだ或る種の宗教儀式だ。これも遺跡から発掘された文献に『王が天覧時代で本塁打を放った』とある。本塁打とは神――〝天覧〟とあるように恐らくはこの地を遍く見下ろす神である――に捧げる貢物、それを届ける為の手段で、早い話が貢物のボールをバットと呼称される棍棒で空高く打ち上げていたらしい。なんとまあねえ。
もう少しばかりの蘊蓄語りをするならば、〝ベース・ボール〟の〝ベース〟とはベース・アップのベースで、今も昔も誰だって『それにつけも金の欲しさよ』なのは変わらないらしい。 実際、ベース・ボールに従事していた諸君は秋になると契約更改と名乗る謎の儀式で以て翌年の収入量を増やしていたとの記録が残されているし、ほぼほぼ完全な形で遺跡から回収された『トヨダベースボール部史』に拠れば春になると春闘とか称して賃金争議、ともするとストライキを起こしていたようだ。ケッタイな話である。
僕の仕事場はエレベーター基部都市の二五〇層に所在する。と言うと語弊がある。二五〇層はそれそのものが一つの巨大なアイドル省広報部のオフィスだった。事実、改札を抜けると其処は直ぐに受付で、今日も元気なお嬢さん達が「あらどうも」と挨拶をしてくれた。あらどうもじゃないよ。
「極楽坂次長!」
自分の執務室に入るなり歌囀さんが姿を見せた。数週間前、僕の補佐役として〝本社〟から派遣されて来た見目麗しい眼鏡の女性、如何にもキャリア・ウーマン然とした彼女であるが、特務機関仕様のダーク桃色法被、言ってしまえば黒染めした桃色法被に身を包んでいる。ヘラヘラとしている風だが、身のこなしにせよ、あれやこれやにせよ、普通の人のそれとは著しい乖離があるように思われてならない。現に彼女の前所属はあの〝イチジク機関〟だと伺っている。深入りはしたくない。
「どうしました。歌囀さんは昨日は夜勤だったでしょう。それでなくとも今月はもう五〇〇時間も働いているのに。目の下のクマが酷いですよ」
「いえね」歌囀さんは人の執務室を自分の執務室であると勘違いする悪癖がある。僕が淹れた僕用の孫ダビ珈琲を勝手に啜って不味いとか何とか宣った。「部長が〝上〟から降りてこないんスよ。臨時会議があるのに。それで極楽坂さんに代理出席を頼もうかなあ、と」
「〝上〟ねえ」僕はデスクに直接腰掛けながら唸った。「上は上でも応援艦難民の蜑民なんてのも居るのになあ」
「世も末スねえ。部長、ほら、娘さんがアイドルになって最初のライブで殺されちゃったでしょ。それで涙金が出たからって」
「あ、そうなの。それは疾うに使い果たして今では高利貸しから錬金術を試みてるって聞いたけどなあ」
「まあ部長も」歌囀さんは珈琲のカップを掌の中でくるくると回転させながら言った。「わざと忙しくしてるのかもですね」
「そうだね。責任は感じられる暇がないと感じられないしね」
歌囀さんは頭を振った。僕も顰に倣った。歌囀さんは煙草を吸おうとしたが、それは看過致しかねる、部屋の壁に『横綱不在』と書いてあるのが見えないのかね。近年、煙草を吸う官僚は出世しないと巷で囁かれているがね、あれはリアルなのだよ。貴重な機械類に悪影響を及ぼすし、禁煙政策に理解がないと思われるし、サボリ魔の烙印さえも押されるからだ。歌囀さんは矢張りまともな役人ではない。役人でさえないのかもしれない。彼女の肌の白さはアイドル並だ。或いは彼女こそ引退したアイドルで――
忘れよう。アイドルに纏わる話をするとあの子を思い出す。
苦痛から逃れるには忘却するが一番だ。あの夜のあの情熱でさえも僕は忘れてしまった。
「それはそれとして、歌囀さん、ここは禁煙なんですけど」
「あ、そうスか」
「そうスかて」