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絶対防衛アイドル戦線ピンク・チケット!!  作者: K@e:Dё
(1-0.5)+(1-0.5)=1章 / 誕生! 新たなるプリマドンナ!
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第22話 / 夜啼兎笑子 / アイドル・デュエル!

 

南風なんぷうきそわず藤原君との決闘に敗北したとしても彼女は退学にはならんよ』


 角野先生はあの病室で私にそう教えた。


『私も学長も江戸川先生も彼女を守るつもりだ。藤原君や彼女に決闘を強いた連中にも適当な執り成しを計って、そうだな、席次ハンモック・ナンバーを上げてやるとかして総花的な決着を付ける。当たり前だよなあ。戦局逼塞、〝スタッフ・オンリー〟が陥落おちたら後がなく、負けられない戦いは目と鼻の先、そこに天の恵みのように降って湧いた〝十人目〟の〝例外〟は、しかも貴重な〝特殊〟アイドルと来やがった。この子一人からどれだけの資源を手に入れられるかは想像も付かない。いや、後方運用だけではない、セット・リストを上手に使えばそこらの戦略級アイドルが束になっても比肩し得ない火力を発揮するだろう。〝例外〟はそれ単体で一万のアイドルと同じ働きをする』


『リ・オペレーションの目途は立っているのですか。胎内のルナリアンをA級に換装しなければ〝例外〟は真価を発揮しないのでしょう?』


『それだよなあ。A級ルナリアンの培養はとてもとてもとても難しくて金も時間も人間さえも色々な意味で食われる。だから直ぐにとはいかない。会戦にも間に合うか間に合わないか。だとしても〝例外〟には違いない。丁重に扱うべきではあるさね』


『トロ子の身体は本当に健康に戻るのですか?』


『何とも言えない。〝例外〟の研究は、何しろ被験体が少ないし、どいつもこいつも前線に出ずっぱり、いや、出ずっぱりでないといけなかったらちっとも進んじゃいないんでね。そもそも〝例外〟が観測されるようになったのはこの半世紀だ。何事も五〇年のスパンでは分からんさ。本当ならストレンジラブの馬鹿が皇帝になってから、ほら、オスシ帝の時代でもない、皇帝なんてお飾りで『ぷにぷに!』言ってるだけの商売、どうせ暇なんだから被験者をやる筈だったんだが、〝教皇庁〟が『玉体にもしもの事があれば国体が護持されなくなる恐れがある』とか何とか口出ししてるもんでねえ。私一人の身体を調べるだけでは数値が偏るからどうにもならん。ま、しかし、経験則で言っていいのであれば、ルナリアン化が進もうが、タナー段階が四の後半に達しようが、何事も無かったかのように歌って踊って戦え、〝偶像症候群〟も一定以上には深刻化せず、他のアイドルの何倍も長生き、それでいて胎内のルナリアンの力を一般のアイドルの何十倍も引き出せるのが〝例外〟だ。このまま快癒するだろうさ。嬉しいかね。嬉しそうだね。あの母親のパロディーの癖に一丁前に嬉しがるのか。それともパロディーだからこそ母親程に無感情なシンギング・ダンシング・ウォー・マシーンにはなれないかね。まあいい。夜啼兎かく、諸々の事実をこの子に伝えるか、それから決闘に負けても問題ない、それどころかキャンセルしても問題ない件を彼女に伝えるかは君に一任する。〝何故ですか?〟は自分の胸に聞き給え』 


『他にこの事を知っている人は誰です?』


『他に?』角野先生はお腹を抱えて爆笑した。私は憮然とした。先生は涙を拭きながら言った。『器が小さいなあ。誰かが知っていたとしてもかんこうれいは敷くさ。伝えるとしたら親友の君の口からであるべきだからねえ。だから、安心したまえ、『知っていて黙っていたの?』と罵倒されたりはしないよ』


『先生は――』


『――君の事ならば大嫌いだよ。法が許すならば嬲り殺してやりたいと思っている。君も私が嫌いかね。どうかね。何も言えねえだろうなあ。だから嫌いだ。君は今もこう思っているだろう。〝私はお母さまのしつけを守っている〟だろ。〝礼儀正しくいなければならない〟だろ。〝あの家に生まれてさえいなければ〟だろ。〝私だって本当は言いたいことを言いたいのに〟だろ。〝悪いとすればそれはお母さまだ〟だろ。情けなくないのか。虫唾がスタコラと走るよ』


 嫌いな人に何を言われても傷付きはしない。傷付くのは好きな人に酷い事を言われたり過度に優しくされたときだ。好きな人にそうされるからこそ人は傷付く。それも考え方次第では勝手かもしれない。期待を裏切られた気になる、『そんな人だとは思っていなかった!』から傷付くのだろうけれど、思うのは個人の自由、思い込むのは個人の過失、他人ひとさまを自己流に解釈してその解釈が間違っていたからとキレるのは単なる逆ギレだ。『逆ギレだ。逆ギレの笑子ちゃんだ』とトロ子にも何時か言われた。私の器は先生が指摘するよりも更に小さいのだろう。私はトロ子の何を知っていて分かっているのか。何も知らずに何も分かってあげられていないのではないか。だから意見が合わないだけで否定された気にもなるのだろう。だから『私が今日まで頑張れたのは笑子ちゃんのお陰だよ』と言われると嬉しくなり、胸が痛み、殺意が募りさえもするのだろう。


 私はトロ子を傷付けたくなかった。嘘だ。傷付けられたくなかった。傷付けたくもなかった。でも傷付けられたくない方が勝った。だからトロ子に何も伝えなかった。確認もしたかった。トロ子は、一ヵ月前には、殺人アスレチックで動く足場に飛び移れなくて流れる硫酸のプールに落ちて溺れたりしていた。あれは五歳の私に出来た事です。五歳の私に出来た事が出来なかった貴方が本当に〝例外の十人目〟なの?


 眠れずに寝返りを打ち続ける私、軋むアモルファス金属製のシングル・ベッド、二人で横になっているとトロ子の体温は日に日に暖かさを増すようで、私は彼女が規則正しい寝息を立て始めると自分のベッドに戻るようになった。私のシングル・ベッドは二人で寝ているときよりも何故かとても狭く感じられて、私は久し振りに髪留めのウサギさんを握り締めたが、所詮は有機物のパロディでしかないウサギさんは冷たく、『心の冷たい私と体の冷たいウサギさんでパロディ同士仲良くしようね』と囁いても矢張り返事はなかった。


 聖アイドル歴五一四年の文月は二九日――


「まさか本当に一週間で復帰するとは」サンゴお姉様の立ち姿はこの日も威風堂々としていた。決闘の場に指定された体育館の控室だった。体育館とは言うが客席数は千、神事すもうは勿論、各種室内競技の死合しあいにも使用される。場内は立会人を称する見物客で騒然としていた。延期で日程が休日に被ったからか。札止めになるのも時間の問題だろう。「効きましたわね早めのヒロポン!」


「お陰様で」トロ子は『押忍!』と拳で十字を切った。


「その節はサンキューでごわした!」


「いやいや」緑さんは手を振った。「私は何もしとらんとよ。頑張ったのは君と笑子ちゃんだ。後は勝つだけだね」


「はい」トロ子は大きく頷いた。「笑子ちゃんは、私が勝ったら試合後の握手会で一番最初にサインを書いてあげるから、オムライスを用意しておいてね」


「ケチャップでサインを書かれても食べたらなくなってしまうでしょ」


「そこは永久保存やよ」


「腐ります。大体、握手会なんて予定されてないし、戦う前から勝った後の話だなんて油断が過ぎない?」


「だって勝つもん」トロ子は言い切った。「笑子ちゃんが手伝ってくれたんだから勝つに決まってるんよ」


 トロ子は私に右手を差し出した。私はその手を握り返せなかった。控室の隅に足穂から贈られた花が飾ってあった。『祝全快!』と書かれた札が添えられている。足穂の直筆だそうだが実に上手い。藤原家の事業に明るい面があるとしたら、それは莫大な資本を教育分野にも惜しまず注入していた面で、今でも皇帝府や財務省やアイドル省の役人には先祖が〝リザベーション・シート〟出身である者が多く、藤原家自体も子弟の教育には無い袖を無理に振る。(〝郷土意識ハイマート・ベウストザイン〟の関係から、幾つかのエレベーターが陥落した後、各権限移譲政府の教育分野は混乱を来した。現代では死滅した〝多民族国家〟ではしばしば一部の民族が満足な教育を受けられずに何時までも自立できなかったと聞くがそれと同じ、〝他人〟に自分達の資本を税金の使用と云う形で再分配するのは誰でも嫌で、増して〝負けて自分達の棲み処に逃げ込んだ奴ら〟相手ともなれば猶更、政府だって人気取りの為に市民が嫌っている相手は嫌い抜く。その中で〝リザベーション・シート〟だけが能力主義を掲げてどの市民層にも一定の教育を少なくとも与えようとはしていた。無論、そうしなければ巨大化した産業を支えられなかったからで藤原家が聖人君子だった訳ではないが、物事の善悪の評価はそれを成した人物の人格には依存しない)


 私の気持ちの端に黒いものが点じられた。私は私の書く字に自信がなかった。『アイドルはマイクと剣が上手に使えればいいのです』とかあ様に教えられたからだ。またしてもかあ様だ。『〝私はお母さまのしつけを守っている〟だろ。〝礼儀正しくいなければならない〟だろ。〝あの家に生まれてさえいなければ〟だろ。〝私だって本当は言いたいことを言いたいのに〟だろ。。〝悪いとすればそれはお母さまだ〟だろ。情けなくないのか』――


 移動した客席はアイドルニウム合金製の防壁によろわれていた。防壁は特殊な加工で透けているから体育館内の動きを見るのに差し障りはない。差し障りがあるとすればそれは座席の席順だった。「どうして江戸川先生と角野先生が私の両隣に座ってるんですか!」


「いやね」江戸川先生は後頭部を掻いた。「偶然だよ偶然」


「嘘だよ」角野先生が言った。「私が君の隣に座って嫌がらせしてやろうとしたからさ。江戸川先生はお優しいもんだからねえ」


 プイとソッポを向いた私に、


「拗ねるなよ」角野先生は飴玉を示した。「食べるかね?」


「子供じゃあるまいし飴玉で買収されると思っているんですか」


「子供だろ。一〇歳さ。子供じゃないか」


〝子供〟の二文字を聞いた江戸川先生が眉根を寄せた。


「どうかしましたか?」と私が尋ねても、


「いや」と江戸川先生は頭を振るばかりだった。


 館内の照明が絞られた。大昔、トラブルの大半が決闘で解決されていた頃には実況だの解説だのDJだのが一種のイベントとして決闘を演出したそうだが――試合前に会見を開いたり、選手入場時にパレードをしたり、試合前に名前身長体重流派その他を高らかに宣言し合うだとか――、決闘が廃れたのはまさにその興行化が主原因とされる。具体的には〝どちらが勝つか?〟を予想する賭博が横行したのだった。〝花嫁〟が学内で寄ってたかって賭博にお熱だなどと外部に漏れたら大事件になるのは避けられない。


 今回も、生徒会と風紀員が一丸となって規制しているのも虚しく、裏では相応な金銭物品が動いているらしい。と言うか動いているのだ。何せ、


「いやあ」と、角野先生が愉快げに手にしているのはオッズ表だった。「つかさ君に勝って貰わないと私は大損なんだがなあ」

 

 司君とはトロ子の本名で、フル・ネームは寿ことぶきつかさ、こうして見直すと非常にお目出度い名前をしている。それはお目出度い頭になる訳だ。


 ドッと館内が騒めいた。そのお目出度いトロ子が入場したからだ。足穂も同時に別の入口から入場、ハイ・ヒールで床を突く音が館内に反響、木霊、残響、再び会場が静かになる頃には二人は至近距離で面と向かっていた。『是より両花艶美を競う!』との試合開始前の定型文が館内のスピーカーから放送される。試合開始はこの放送から正確に六〇秒後だ。三歩、お互いに背を向けて歩き、改めて『開始!』の合図があってからは勝敗が決しない限り、誰も二人を止められない。後ろの席で緑さんが「頼む」と祈っているのが聴こえた。振り向くとお姉様は腕を組み、一見すると何時もの平然としたお姉様だが、爪先でリズムを取っていた。お姉様も緊張するらしい。


 江戸川先生が背中を丸めている。大丈夫ですかと尋ねた。先生は、君に、君たちに言う事では絶対にないのだがと前置きした上で、


「アイドルの戦いを見るのは苦手なんだ。本当はね。我儘だがどうしても自覚してしまう。要するに僕らは年端も行かない妊婦に殺し合いをさせているのだとね。年端も行かない妊婦さ。その表現が先ず間違っている。考えてしまうんだよ。僕らはそうしてまで生きていなきゃいけないのか?」


「それは」と、合いの手を入れたのは角野先生だった。酷い事を言うのではないかと私は身構えた。先生は言った。「それは悩んでも仕方ない事だがねえ。だが私にも気持ちは分かる。マネージャーと云うのも辛い仕事だあね」


「分かりますか?」


「分かるともさ。私も指導する側に回って久しいんだからね。教え子を、どれだけ愛情を注いで育てても、彼女らはここを卒業してから何年かで絶対にくたばっちまう。私はそれが――」


 角野先生は肩を竦めた。「時間だよ」と先生が言うのと館内にサイレン音が鳴り響くのが同時だった。


 足穂が歩く。トロ子も歩く。私はトロ子が一歩進む度に拳を握り、解き、握った。手汗が酷い。息が詰まる。机上演習では何度もこの状況を想定してはし直した。それでも演習と実戦は違う。お姉様に授けられた〝秘策〟は足穂に通用するのか。私の考えた作戦はどうだ。トロ子のアイデアは。あの作戦が失敗したときの予備案は、今更だが、ああではなくこうした方が良かったのではないか。特訓内容もそれに応じて変えるべきだったのではないか。吐きそうだ。


『開始!』――の放送は、しかし、他の音に掻き消された。


 その音は〝バチン!〟と云う大きな音、振り向きざま、足穂の顔の前でトロ子が鳴らした手拍子の音、お姉様直伝の秘策、――


ねこだまし〟である。


「よし!」と叫んだのは緑さんで、


「勝ったッ!」と早くも宣言したのはサンゴお姉様で、


「イケる!」と呟いたのが私で、


 マイクをセット・リストの一番に再構築したのがトロ子だった。不意を突かれた足穂は取り乱している。大きく出遅れた。〝足穂より先に振り向けるか〟の難関はこれで通り抜けた。次の難関は〝あの技を成功させられるか〟だ。私は呼吸を忘れた。呼吸を忘れていない同級生らが「変な匂いがしない?」と口々に言った。ご名答である。トロ子の一番は〝ガス〟だ。ここでトロ子が放出したのは可燃性ガス、それも爆発下限界が極端に低いガスであり、


「なるほどね」角野先生がニタニタとしながら言った。


「藤原君がスピードを出したら摩擦で〝ドカン!〟か。だがそれでは共倒れだ。膠着状態にしかならない。どうする?」


 トロ子は黒セーラーの胸元から(より正確にはあのロリ顔に似合わない巨乳の間から)二本目のマイクを取り出して、


「セルフ・デュエットだと」角野先生が身を乗り出した。角野先生だけではない。誰も彼もが驚愕している。「あの年でマイクを二本同時に使えるのか?」


 光に変わったマイクはトロ子の身体をスッポリと包み込む泡のドレスへと作り直された。これで〝あの技〟も成功だ。セルフ・デュエット、マイクを二本同時にセット・リストへと変える技はそれなりの高等技術、何故かと問われれば単純、〝右手と左手で別々のピアノを弾くのが難しいのと同じ〟と説明される。実際、〝ガス〟や〝水分〟を扱う〝特殊〟アイドルは放出量や勢いを監視せねばならない都合上、一つのセット・リストを使いこなすだけでも相当な熟練を求められる。


「凄い才能だ」と、江戸川先生が嘆息したが、お言葉だがそれは違う。


 才能ではない。才能があるとしてもこれに関しては〝努力の才能〟の賜物だった。一ヵ月前のトロ子は一番のガスさえも上手に使えなかった。彼女は複数のガスを生成し、それを調合したり精製したりして狙いのガスを錬成するが、その調整に何度も失敗しては一酸化炭素中毒で死にそうになり、爆発事故を起こしては全身黒焦げ、私も何度も匙を投げそうになって『死ぬなら一人で死になさい!』とキツく詰り、『貴方には才能がない』と突き付けさえしたが、トロ子は何時もの笑顔を浮かべて一言、


『才能がないからこそまだまだ頑張るね。ごめんね。ありがとうね』


 そうだ。私は知っている。トロ子の体に刻まれた大小様々な傷の数を、跡を、『負けるかも』の不安に押しつぶされそうになっては私に手を握って欲しがった彼女の震える指、同じ指で操作されるガス量の調整が初めて上手く行ったときのトロ子の笑顔、その笑顔の後でポツリと彼女が呟いた『足穂ちゃんも私も痛くないけどなあ』の台詞、それらのどれもをだ。私は屑だ。私は自分よりも先に足穂の心配をする彼女に『決闘なんてもうしなくていいのよ』と教えてあげなかった。


 流石と讃えるべきだろう。『開始!』が宣言されてからまだ一〇秒も経過していない。それでも早くも自分を取り戻した足穂は、ハッとして、腕で身体を守った。トロ子の次の動きが読めたのだろう。遅れて読めたらしい会場内で幾つかの悲鳴が上がった。


 トロ子が床を蹴った。


 その衝撃で生じた火花が空気中に充満するガスに着火して――


 視界が白く染まった。座席が揺れる。頬がピリピリと痺れるのは大気も揺れているからだろう。江戸川先生の身体が大きく私の方に傾いた。腕で支えて差し上げる。アイドルの身でさえもこの揺れはシンドい。何も聴こえず、痛かった鼓膜に音が戻って来て、視力もまた然り、観客席では何人かの生徒が一〇〇万カンデラに達する光と二〇〇デジベルもの音に三半規管をぐちゃぐちゃにされて意識を失っていたが、それはどうでもいい、江戸川先生の「助かったよ」さえも無視して、私は黒い煙の漂う防壁の向こうを睨んだ。防壁も防壁で流石である。あれだけの爆発を浴びたのに表面に罅割れの一つも生じていない。私は手首に巻いた腕時計を検めたようとしたが、それよりも早く、午砲ごほう (正午を告げる空砲) が〝花嫁学校〟の広場で放たれた。


 下腹の底に響くその低く重い砲声が合図となったかのように黒煙が晴れる。トロ子は掠り傷一つ負っていなかった。泡のドレスが爆発に呼応して弾け、弾けては新しく生まれて、〝セーラー服を脱がさないで装甲〟とそう変わらない原理で爆発の熱と衝撃と爆風を無力化したからだった。


 一方、研鑽を積みに積んだ足穂の身体も防壁並に堅牢、顔こそ煤だらけで制服も破れているが五体は満足、表情には綽綽の余裕さえも垣間見えたが、それもその筈、足穂には奥の手、いや、奥の脚があった。足穂は破けたドレスのスカート部分を手でビリビリと引き裂いた。露わになった肉感的な太腿には金属製のベルトが三本、その三本のベルトを外した足穂は、


「私も本気でぶっちぎらなければならないようね!」


 三本のベルトが床に投げ捨てられた。途端、先程の爆発に匹敵する揺れが館内を襲った。クククと身動ぎもせずにさせられずに状況を見守っていた角野先生が喉の奥で笑った。


 私は今度は江戸川先生を助けてあげられなかった。開いた口が塞がらなかった。じゃあ、貴方は、私と戦ったときも全力ではなかったの――?


「重りをしてたのかあ」トロ子は言った。「最大速度は何キロ?」


「夢は地球脱出速度の只今は第一宇宙速度」


「時速二八四〇〇キロかあ。秒速七・九キロね。速いねえ。じゃ、その素早い足穂ちゃんに一つクイズです」


「クイズ?」足穂は小さくジャンプしながら乱れた前髪を掻き上げた。


「ドン(午砲の別名)から何秒が経過したでしょうか?」


「何秒? 何で? 三〇秒位?」


「ぶっぶー。正確には四六秒。ではどうして私はいきなりペラペラ喋り出したでしょうか?」


「さあ?」


「答えは九秒後の足穂ちゃんが知っています」


「九秒後の私が何を知ってるの?」


「そうだね」トロ子はトロッと笑った。「自分が負けちゃったって事だろうね」


 足穂は何事かが起きるのを勘で察したらしい。急激に加速してトロ子の方へと突っ込もうとした。それが命取りだった。


 三度目の揺れである。今度は一度目のそれよりも二度目のそれよりも大きい。館内は今度は何事かとまさに動揺したが、誰かが、


「核パルス・エンジンだ!」と言った。正解だ。トロ子の閃いたアイデアがこれである。


〝各パルス・エンジン〟の点火時には大きな揺れが〝ノア号〟の内部を襲う。狙っていた点火日は決闘の延期で逃してしまったが、〝ノア号〟は折に触れて加速し、その際にも〝地震〟は生じる。そのタイミングは〝ノア号〟の位置と〝地球の輪〟の配置から計算出来た。並大抵の計算ではないがスーパー・コンピューター顔負けのトロ子の頭脳ならば数時間で演算可能だった。


 足穂の自慢はその美しい脚の力だが、脚力とは踏み締める地面があってこそ活かされる力、その地面が前後左右に激しく振動している状態では走ろうにも走れない。走り出している足穂はスリップして、床の上を激しく転がり、サッカー・ボールのようにトロ子に踏み付けられて停止した。


「私の勝ちだね」とトロ子は言ったが、


「私も往生際が悪くてね!」


 何が起きたか私には分からなかった。


 気が付いたときにはトロ子が上体を逸らしていて、足穂が倒れ伏せており、子細に観察してようやくトロ子の頬が薄く切れているのが分かった。赤い血が滲んでいる。角野先生が「ハハハハハ!」と高い笑い声を上げた。私は目を瞬かせた。その瞬間、防壁がミシミシと音を立ててしなる程の暴風が吹き荒れて、私は得心した。足穂はあの体勢から無理に蹴りを放ったのだ。それこそマッハ幾つのスピードだろう。アイドルだとしても人の目に捉えられる訳がない。


 そうだ。だからこそ人でもアイドルでもなく〝例外〟である角野先生は笑い、トロ子は足穂の蹴りを見切って反撃、足穂を昏倒させたのだろう。館内はシーンと静まり返っている。怒声と罵声を中心とした無数の声が生まれるのには暫くの間があった。


 私の全身から力が抜けた。ずるずると観客席の座面を滑った私はグラスから零れる水のように床にへたり込んだ。涙が止まらない。


「良かったなあ」と、江戸川先生が私の肩を叩いた。「いいんだよ。嬉しいときは君も泣いていいんだ」


 違う。そうじゃない。私は人目も憚らずに泣きじゃくった。お姉様と緑さんが勝利を祝って大声で万歳を唱えている。


 人前で泣けても別に幸せでも何でもなかった。


 この夜、私はトロ子を殺す事にした。

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