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絶対防衛アイドル戦線ピンク・チケット!!  作者: K@e:Dё
(1-0.5)+(1-0.5)=1章 / 誕生! 新たなるプリマドンナ!
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第20話 / 夜啼兎笑子 / ジャスト・コミュニケーション!(後編)

〝最良の伺侯席(しこうせき)〟と礼賛されたのも今は昔、戦犯に身をやつした現在の藤原家、その次女である足穂の地位は自助だけでは保てなくなっている。それを証するように、


『自決も満足に出来なかった一族の末裔が偉そうに』


 と、裏で足穂を貶す生徒は後を絶たない。『自決も満足に出来なかった』云々とは、〝伺侯席〟の序列で二位に定められている星空家の当時の当主が、〝エレベーター独立戦争〟中の自らの行いを恥じて腹を召した故事を指す。花押の記された遺書には『一死以て大罪を謝し奉る』とあり、この一文が為に星空家とその係累に陪臣は恩赦を賜って、他の家が受けた社会的私的な掣肘を免れた。


 が、星空家以外に腹を切った家はなく、藤原家の何十倍も見苦しい真似をしてまで既得権益を守ろうとした家もあるのだが、生憎と誹謗中傷の採点項目に〝筋が通っているか?〟は存在しない。喧伝される〝藤原家の悪行〟には赤子を面白半分に釜茹でにした、永遠の若さを欲して処女の生き血を飲んだりそれで一杯にした浴槽に浸かった、美少女を何人も侍らせて当主の手が水に濡れると彼女らの髪の毛で拭っていた、――等がある。


 足穂は風紀委員に所属していなければうに村八分ペルソナ・ノン・グラータの憂き目に遭っていただろう。彼女がトロ子に同情的なのは自分が辿ったかもしれない道筋をトロ子の境遇に重ねているからかもしれない。何せ足穂が風紀委員に任命されたのは運が良かったからに過ぎない。今の生徒会長《Lord of the Flies》が足穂の遠い親戚で、これがまた家柄の由緒が夥しく正しく、であるから連立方程式的に性格の方も夥しく正しく、『どのような家の出身であっても差別も区別もいけません!』とか何とか言い、周りの反対を押し切って足穂を召し抱えたのだった。なんとまあですね。どの時代にも善人は居るらしいですよ。


 生徒会長は併せて藤原家のイメージ回復を図りもした。流石に虐殺だ何だは擁護不可能であるから、平和な時代に藤原家が成し遂げた幾つかの事業をそれとなく校内に広めたのだが、効果は残念ながら薄かった。藤原家の成し遂げた事業とは体の良い市場の独占だったからだ。藤原家が実効支配していた〝リザベーション・シート〟は第八エレベーターであり、であるからには地政学的な要件から前線と銃後を繋ぐ橋の役割を自然と担ったが、藤原家は早い段階から鉄道に頼った輸送力の貧弱さを訴えてアイドルを使った物資輸送を模索していた。それは早い段階、二世紀半ばには実を結び、非常に単純なカラクリ、――〝早くて安い!〟で他の権限移譲政府の鉄道経営を圧迫した。鉄道だけならばまだいい。藤原家は『リザベーション・シートに蓄積される物資の量が前線全てを支える』と唱えて教会と結託、全エレベーターから搔き集めた物資を無手勝流に売り捌き、しかもその品々がどれも計画的陳腐化を施された品、そうとは知らない前線では経済を活発化させるとして〝リザベーション・シート〟の製品を大歓迎した事から諸物価が崩壊、更に藤原家側では『リザベーション・シートの産業は保護されねばならない!』として一部分野で輸入を規制、フィナーレに一部の権限移譲政府が藤原家の運送便に吸い上げられた資本を取り戻す為に中央政府の認可を受けない増刷を行ったとかで、いやはや、それはそれは酷い貿易摩擦が顕現、近隣のエレベーターはストックホルム症候群とフィンランタイゼーションの間を反復横跳びしたそうだが、ま、歴史の話はこのぐらいでいいでしょう。お疲れ様でした。  


「決闘の日取りは――」


 サンゴお姉様が言った。手慰みにジャグリングしているのは桜花紋章の刻まれた賜杯だ。正式名称を〝三つ重ね一組台付〟、名は体を表す、三つの金杯にそれを飾る為のかざりだいが一つ付属したもので、お姉様が〝学生横綱〟の座を勝ち取った際に皇帝府から贈られた逸品である。それをジャグリングするとは不敬の極み、国粋主義者が見たら一発で憤死するだろうが、憤死してしまえばお姉様が杯一式を質屋にぶち込むのを見ずに済む。お姉様は過去に八度、〝セーラー服を脱がさないで装甲〟を購入する為にこの杯を質入れしており、九回も買い戻しているのは皇室尊崇だの罪悪感だのからではなく、『売ったのがバレると七面倒な事になりやがるからDEATHわ!』だそうである。


「――決まったんですのよね?」


「一カ月以内であれば」私は答えた。「一週間前に通知してくれるなら好きな日にしろと」


「ぎりぎりまで粘るのだろう」緑さんが訊いた。首と肩とをトロ子に揉んでもらっている。『そこォ!』だの『あひィ!』だのとアダルティに喘ぐのは青少年の健全な育成に有害なのではないか。「そう言えば君らの担任の先生は何と言っていたのかね?」


「〝好きにしろ〟」私は溜息を吐いた。「本人が納得しているのであればそれでいいと」


「君らの担任は角野先生だったね。角野先生は笑子ちゃんのお母さんと同じ〝例外の九人(イレギュラー・ナイン)〟なのだろ。その辺りとかで付き合いないのかい?」


「皆無です。母は人付き合いが下手、角野先生は母に輪を掛けて下手、むしろ私は遠ざけられています」


「笑子は以前に足穂さんを殴り倒していましたわね?」


「二回。ただし、一度目はあちらが『お先にどうぞ』と譲ってくれたからで、二度目は突っ込んでくるのが分かっていたので足を払っただけです」


「そうかあ。速いからコケるだけで大惨事になるのだなあ。あ、トロ子ちゃん、もう少し右だ、右」


「でも、笑子ちゃん、幾ら突っ込んでくるのが分かってたからって音速を足払いするんだからなあ。あれは驚いたやよ」


「あの時点では加速不十分だったから亜音速よ。でも三度目に戦ったら負けるのは私でしょうね。流石に音速となると見切れても身体がまだ追い付かない」


「まだか。まだなのか。君はじゃあ身体さえ追い付けば避けられるのだね?」


「まあ」


「おー。その意気や良し。緑ちゃんは君を応援するぜ。音速だろうが光速だろうが避け申して殺し申せ。だが、笑子ちゃんはそれでいいけどねえ、トロ子ちゃんはどないすんのさ。私、ここんとこは寝てたからさ、私だけが何も聞かされてない感じなんだよね。仲間外れにしないでおくれ。対策の詳細は?」


「〝分からん殺し〟の〝ハメ殺し〟です」


「そうかね。〝分からん殺し〟の〝ハメ殺し〟かね。そうかそうか。で、それなに? エロい話かね?」


「どうしてそうなるんですか。トロ子は特殊アイドルです。セット・リストは既に四つ。それを組み合わせて初見では絶対にかわせず、且つ、当たれば抜けられない必殺の攻撃を仕掛けます。特殊アイドルの攻撃は戦術級とも作戦級とも方向性が違います。足穂が演習で戦ったどの相手とも違う攻撃となれば少なくとも対処に苦労はするでしょう」


「なあるほどなあ。だが相手は素早いのだろう。こっちが攻撃する前にボコられちゃわないかい?」


「それは横綱わたくしの方で秘策を授けてありますわ」


「むむむ。秘策か。秘策とは?」


「秘策を!」お姉様は声を張った。「明らかにしてしまったらそれは秘策とは言えないでしょう!」


「そ」緑さんは大袈裟にった。「それはそうだ。私が間違っていた。すまん……」


 それでいいのか。


「しかし」サンゴお姉様は飾台をボラードに見立てて片足を掛けた。


「身体能力の懸絶は歴然、歴然過ぎてむしろちょっと可能性を感じちゃう系女子、故に小細工は無意味フロクシノーシナイヒリピリフィケイション! 正味、藤原さんのマジスピードの攻撃を正面からなせるとしたら、今の学園では横綱に笑子にそれから緑がセット・リストの三番を使ったとき位なものですわね」


「おうおう。それだとウチの班で対足穂ちゃん戦は独占出来てしまうぜ。でもまあ確かにそうかもなあ。私の三番はズルっぽいがね。ところで、どうなんだ、そんなに差があるなら基礎体力を付けるような練習はもうしなくていいんじゃないの。後二週間もすれば戦う訳だろ」


「いえ。お姉様から頂いた秘策にはそれなりの身体能力が要りますし、それに、トロ子の今の体力ではセット・リストの連続使用に耐えられないかもしれないので。体力はぎりぎりでも何とかし上がると思います。問題は、もしも、トロ子の攻撃に足穂が耐えたとき、どうやってノック・アウトするかですね」


「ふむふむ。分かった。じゃあ私から浅知恵を一つ。いっそ変身しちゃえば?」


「変身に必要な応援力を集められません。それに変身するとトロ子のパンチでも変身していない足穂を殺せてしまいます。流石にそれは」


「それなら〝セーラー服を脱がさないで装甲〟を盛って反撃の機会を増やすのはどうだ。知り合いに被服系の特殊アイドルが居るんだ。生徒だ

けど頼めば縫ってくれると思うよ」


「それもノーです。〝セーラー服を脱がさないで装甲〟は、公には言われていませんが、実際には〝エレベーター独立戦争〟の戦訓から対人を想定しています。対ルナリアン、対アイドル戦闘では、〝セーラー服を脱がさないで装甲〟は大して役に立ちません。だからこそ服ではなく陣地 (塹壕) に籠る形に我々は戦闘法を進化させて来たので」


「ふうん。防御ドクトリンの変遷を改めて聞くと人類の歴史を見る思いがするなあ。私は特殊アイドルだから戦闘技術には詳しくないのだがね。トロ子ちゃんもだろ?」


「まさにそれですそれ。自分のセット・リストが人を倒すのに使えるなんて考えもしなかったなあ。助かってるよ、本当に」


「麗しい姉妹の絆だなあ。私の〝姉妹〟は去年の暮れに死んじまったからなあ。アイツが生きてりゃあ私も――」


 地面が揺れた。パラパラと天井から降ったのは漆喰だ。その天井を見上げていた緑さんが、


「トロ子ちゃんや、おお、揉んでくれてありがとうね。助かったよ。まあお座り。それからお茶でもお上がり」


 秘蔵の孫ダビ紅茶を淹れながら、


「今日のは揺れたねえ」と、感心したように言った。


 首都は定期的に航行する。常に同じ港 (軌道エレベーターのカウンター・ウェイトとなる宇宙ステーション) に停泊していてはルナリアンにその位置を気取られてしまうし、いざというときに備えて航行訓練を積まねばならないから、概して一カ月に一度、港から港を渡り歩き、時にデブリ暗礁の底に身を潜めるのである。今の揺れは、その航行開始時に点火される各パルス・エンジンの咆哮の余波で、一週間前に予報があった気がする。


 無論、ルナリアンとてケプラーシンドロームは無視し得ない。ケスラー・シンドロームとは〝戦闘や事故でスペース・デブリが増えてその密度が一定を超えるとデブリ同士での衝突が相次ぎ、結果、デブリが爆発的に増加してその地域の宇宙は開発も通行も不可能になる〟理論で、地球にはただでさえ〝地球の輪〟があるから、ルナリアンが衛星軌道上を行き来している〝ノア号〟を攻撃する確率は頗る低い。それでも用心するに越した事はないだろう。三世紀、人類がルナリアンに負かされ続けたのは、二世紀の平和が逆噴射して『ルナリアンも恐るるに足りず!』の思想が全人類に染み付き、『まあ何とかなるだろう!』の風潮がアイドル省にさえも固定されていたからである。(〝水没都市ニューヨーク〟で発見された旧時代の軍事情報辞典にはこう書かれている。『殺し合いの場から遠ざかると楽観主義が現実に取って代わる。そもそも最高意思決定の場には往々にして現実は無視される。戦争に負けているならば特に』だ。聖アイドル帝国には、不敬ですが、完全に当て嵌まるでしょうね。だって我が国は、移動する首都、地上と連絡が付かない事もある首都、その首都から地上の全部で一三機もあるエレベーターを統治出来ると本気で信じていたのですから)


「あ!」――と、トロ子が湯呑の中に目線を落としながら言った。


「む、茶柱でも立っていたかね?」


「あ、そうじゃなくて」


「そうじゃなかったか……」


「私、閃いたんです。最初の攻撃で足穂ちゃんを倒せなくてもこの方法ならもう一撃入れられるかも」


 トロ子のアイデアはこれぞ名案で一も二もなく採用、実行するのに正確な時計が必要なので私は彼女に懐中時計を贈り、「わあ素敵!」と喜ばれたときには私も喜んだ。時計の針はチクタクと進む。トロ子の特訓もチクタクと進んだ。飛来するビル解体用の鉄球 (重量五トン) を金属バットで打ち返し、腕が折れても打ち返せるまで挫けず、バイオ・クマ、バイオ・トラ、バイオ・シャーク、バイオ・オクトパス=シャーク、バイオ・オクトパス=ホエール=シャーク、バイオ、オクトパス=ホエール=スクイード=シャークらとの死闘で傷付いても悄気しょげず、弛まず、げず、眠くても疲れていても致死量のカフェインが配合された魔剤を飲んで飲んで飲みまくり、魔剤一本に課される戦争継続税は相当だから『お国に貢献してるね!』と冗談を忘れず、三本買うと応募可能な懸賞で国債が当たれば『この利息で笑子ちゃんを豪遊させてあげるよ!』と意気込み、――


 トロ子は私だった。私はトロ子だった。


 もう幾つ寝ると殺し合い、決闘が五日後に迫った或る晩、私が寮の廊下を歩いていると、


「もうやめようよ」誰かが泣きながら訴えていた。「トロ子を許してあげようよ! あんなに頑張ってるんだよ? あんなに傷だらけなんだよ?」


 トロ子に決闘を挑んだ一団が内部ゲバルトッているらしかった私は盗み聞いた。悪いとは欠片も感じなかった。


 彼女らも入学からヨーイドンでトロ子を目の敵にしていたのではない。入学から当面はむしろトロ子の演じた失態を取り繕ったり、隠したり、ともすれば罪を被ったりもしてくれた。彼女らの善意が旋回したのはカレンダーが一枚分進んだ頃、演習でもミスれば人が死ぬ、死なずとも寝たきりになる位は有り得ると体感してからだから、その辺、私も彼女らに〝良く我慢したで賞〟を贈呈したい。だがそれとこれは別だ。理由はそれはあるだろう。しかし、貴方達はトロ子に私的制裁を加え、退学を賭けた決闘をトロ子が断らないと知っていて挑んだ。受けたトロ子もトロ子だとしても、だとしてもだ、人を殴ったのだからこの期に及んで悲壮感に酔うな。『私も人間で罪悪感を感じてます』アピールか? 負けたときの予防線を張っているんじゃないのか? 


「虚無を感じてるよ」と、一団の誰かが言った。


「私だって今度の件では虚無ってるけど、でも、もう仕方ないんだよ」


 この一団は、あれは私達が三年生になった春、〝遠足〟で二線級戦場に出掛けたとき、ルナリアンと不期ふき遭遇そうぐうして咄嗟とっさ戦闘せんとうに突入、三人が引退した。その亡骸を私は見たが、ねえ、何が〝虚無〟なのかしら、ハラワタを引きずりだされりゃあクソだのゲロだので一杯だったじゃねえか、畜生――


 私はこの一団の件、お風呂上りの彼女の髪の毛を乾かしてあげながら、喋った。トロ子の髪の毛を乾かすのは私の日課になっていた。そうしてあげるとトロ子は『笑子ちゃんはお母さんみたいだねえ』と言って笑った。この『お母さんみたいだねえ』を私はどうしても毎日聞きたかった。私はドライヤーの出力を〝強〟の上の〝驚〟に設定、トロ子の髪をグワングワンと掻き混ぜながら、声高に『あいつら許せないわ大嫌い死ねばいいのに!』と吠えた。トロ子は笑っていた。


 この子は、時々、とても豊かに沈黙する。


「でもね」彼女は言った。「アイドルの世界は弱肉強食なんだよ、笑子ちゃん」


『アイドルの世界は弱肉強食なの』――と、母親の肉を母親の手で食べさせられたトロ子に、私が反論するのは叶わない。でも、だとしても、私は少し意見が合わないだけで自分が否定されているような気がしてならなかった。私は「いいもん!」と人生で初めて語尾を『もん』にした。「それならいいもん一人で悶々とするもん!」叫び、叫びながらトロ子の髪の毛を引っ張り、引っ張られて痛がるトロ子を見ると全てを許す気になり、これも最近の日課、二人で同じベッドに手を繋いで眠れば、後に残るのは二人分の体温、夢の中でふと思うのは、『孤独な二人が寄り添っても孤独な一人と一人の群れではないのか?』


 それでもトロ子の手は暖かかく、毎夜、トロ子は『笑子ちゃんの手は暖かいね』と言い、三日に一度、多いと二度、意味も分からずに泣き出してしまう私を、


「よしよし辛かったね」と、慰めてくれた。その暖かい手で。「大丈夫だからね」


 九〇点だ。私は寝る前に採点していた。今日も九〇点、昨日も九〇点、明日も九〇点、かあ様のようには私は永久になれないかもしれないが、それでもいい、これ以上は望まない。トロ子は私だ。私はトロ子だ。しかるに決闘二日前、


「今日の点数は?」と、サンゴお姉様が訊いた。


「一〇〇点です!」と、トロ子は答え、


「その心は?」と、サンゴお姉様が尋ねるに、


「寝るまでに一五〇点を目指します!」


「天晴れ!」と、お姉様は讃え、


「笑子は?」


「寝る前に考えます」と、私は辛うじて答えた。無論、寝る前には何も考えず、採点もしなかった。


 トロ子が起き上がれなくなったのは明けて翌朝、目覚まし時計との競争に勝ったはいいがズルでの勝利、寝ていないので霞む視界にアチアチに淹れたバイオ代用珈琲で鞭を入れながら「朝よ」とトロ子に声を掛けたるも返事無し、低血圧の私よりも寝起きが良いのに今日はどうしたことかしらと揺さぶりに行ったら蒲団越しでも分かる酷い熱、息も絶え絶えになっているのに笑いながら、「あ、朝かあ、起きなきゃやんねえ」と言われても、「馬鹿!」以外に何を言えば良かったのか?


〝花嫁学校〟付属病院に担ぎ込まれたトロ子を鳥の嘴のようなマスクを着けたアイドル医者が診て曰く、


「ショジョカイタイ=オペレーションが失敗していたかもしれない」


「失敗?」私は江戸川先生と共にその説明を受けていた。「と言うと」


「ルナリアンの適合や定着関係ではない。どうも人工臓器の一部が彼女の体質に合っていなかったようだ。臓器の生体部品が腐っている。暫く前から相当痛んでいたと思うがね」


「それで」トロ子が遅刻した理由を私は今更のように察した。消毒液の匂いが過剰に香ったのも何か別の匂いを隠す為だったかもしれない。「治るんですか?」


「人工臓器を総入れ替えすれば立ち所に治るよ」と医者が簡単に言ったので、


「良かったあ」と私は江戸川先生と緑さんと顔を見合わせて三人で肩を落としたが、


「しかし麻酔が無い」


「は?」


「だから麻酔が無い」


「いや」私は笑ってしまった。「は?」


「どうせ君も後で知る話だ。いいですよね、話しても、江戸川先生。実は会戦が近いかもしれない。近いと言っても一年二年先だが、相当大規模なようで、物資集積を今から始めている。先日、我が校にさえも徴発が来て、手持ちの大部分を持っていかれた。彼女に使える麻酔量は限られている。だから、前半はいいが、後半の何時間か、彼女は麻酔無しで内臓を引っこ抜かれなきゃならない。一部の内臓には痛点が設定されていないから切っても平気だが、胃や腸の生体パーツはナマモノだからね、痛いよ」


「やります」――と、その事情を説明されたトロ子は説明した。


「痛いのよ?」


「それでもやる」


「凄く痛いのよ?」


「それでもやる」


「凄く凄く痛いのよ?」


「笑子ちゃんが手を握っていてくれれば大丈夫だから」


 トロッと笑われてしまえば私にはもう何も言い返せない。


 決闘はトロ子の体調をおもんぱかって一週間延期された。誰も足穂のその決定に文句を言わなかった。『中止にしよう』とは誰も言わなかった。トロ子のオペは即日執刀された。「タイミングバッチリで二人、生徒が引退したから、その臓器を流用するからね。感謝しようね」と医者は言った。トロ子が助かるならば私は誰にだって感謝しただろう。ルナリアンにでもだ。


 執刀前、手の震えの止まらない私はかあ様の居る実家に電話を掛けようとした。〝花嫁学校〟に来てから一度も電話を掛けていないのに。畜生め。震える手のせいで上手に番号が押せず、モタモタ、そうこうしている内に時間になった。


 手術室、白い壁、天井から照り付ける強烈な照明、バイタルの音、波を描く心電図、トロ子の静かな呼吸、医者の額の汗、拭われる汗、照明の光を照り返して目に痛いメス、開かれるトロ子の下腹部、中に詰まっている金属の塊、パイプ、恐らくはルナリアンの幼体、一部の肉は変色していて青く、タナー段階が四に達したアイドルは血や髪の毛が徐々に青くなると聞いていたが、それは何年後だろう、五年か、十年か、五年後に私は生きているのか、トロ子はどうだ、あるときを境にトロ子が歯を食い縛るようになり、前歯が折れて、奥歯が折れて、私はトロ子の手を両手で包むように握り、トロ子は握り返さない、何時もはそうしてくれるのに、だから強く握ったらトロ子の指が音を立てて折れたが、指が折れる痛みよりも内臓を引き抜かれる痛みの方が強いに決まっている、トロ子は指には無反応、気が動転している私は『私が折った指よりも見ず知らずの人に切り刻まれている大腸が痛いのね?』と悲嘆に暮れては涙を流し、三時間は長い、もう一時間は経ったはずだと時計を見ればまだ五分しか経っておらず、トロ子は白目を剥き、泡を吹き、涙も鼻血も大小便も垂れ流したが、意識を失う事はどうしても許されず、私の両足はガクガクと震え、


夜啼兎よなきうさぎ君」


 と、医師が呼んでいるのを二度も聞き漏らしたらしい。


「彼女の腸のこの部位は思ったよりもルナリアン化が進んでいる」


 医者は淡々と言った。


「つまり?」


「ここは私達の手ではどうしても切れない」


「つまり?」


「アイドルの咬合こうごうりょくにしか任せられない」


「つまり?」


「幸いにもこの部分は薄く短い」


「つまり?」


「君が彼女の腸を食い千切れ」


 吐くなと命じられた。君が吐けば彼女は感染症か何かで死ぬかもしれないぞとも脅された。だから吐かなかった。大好きな人の血でも鉄の味がするのが不思議だった。檸檬味は?


 術後、目を覚ましたトロ子の嗄れた第一声は、


「良かったあ」


 だった。


「何が良かったの?」


 私は恐る恐る尋ねた。すると、


「これでようやくお母さんと一緒になれた。同じ痛みを感じられたよ。良かったよ」


 トロ子は泣いた。


 私も泣いた。

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