第19話 / 夜啼兎笑子 / オー・マイ・フレンド!
公刊の浩瀚な書籍を何冊か立て続けに紐解いた。どの本も旧時代の言語に纏わる内容で、私が調べたかったのは江戸川先生が言った所の〝ルナ〟の意味、その出典だったが、『どの本にも載っていないだろう』と高を括っていた。ところがぎっちょん、私の考えとは正反対にどの本にも『ルナとはこれこれこの意味である』との記述があり、しかもそれらの記述は漏れなく食い違っていた。ある本はルナを古代の女神であると断定、ある本は古代の都市名であると断言、ある本は生理痛に良く効く解熱鎮痛剤の商品名であると断じて譲らず、『とすると古代の女神が大元で他の名前はそれから派生したのだろうか?』とも考えたのだが、改めて検めると〝出典〟とされて〝参考文献〟とされる書籍が全て眉唾――聖アイドル歴二〇〇年代に考古学会を騒然とさせた〝ゴッド・ハンド〟の論文であるとか――、こうなると〝ルナ〟と云う名前の女神の実在さえも危ぶまれた。
私は頭を抱えた。結局、ルナが何を意味するのかは誰にも分からず、分からないからこそ誰もが当て推量で自分勝手な定義を与えているのだ。〝ルナティック〟の用法を〝狂気〟としたのも先生の上司の創作ではなかったか。私は真相究明を諦めながらもホッとしていた。先生が私に『ルナティックって言葉に聞き覚えがないかい?』云々の話をした意図は分からない。分からないから怖い。怖いから知りたかった。が、あれは一種の気紛れ、思い出し笑いのようなものだったと考えるのが健全で、詮索してもするだけ無駄だ。
私は本を閉じた。かあ様の伝手を頼れば帝国アイドル博物館やアイドル省資料室の蔵書を閲覧可能だ。そこまでする必要も甲斐も常識的に考えれば見出せない。しかし何かが引っかかる。不可思議だった。時間が経てば経つ程に、単に好奇心が増しているだけかもしれないが、聞き覚えがない筈の〝ルナティック〟を何処かで聞いた気がしてならない。何処でか。何時か。それだけでも確かめたい。だがその漠然とした興味を満足させる為にかあ様を利用していいものだろうか。
手を祈るように組み合わせた。その手の上に顎を載せる。〝花嫁学校〟付属図書館は宏壮にして今日も静謐、一〇〇〇万冊の本が所狭しと並ぶので、そう見ようと思えば迷路のようにも見える。私はトロ子と待ち合わせをしていた。時計の針は約束の時間を二五分前に通過していた。もしかして迷子になったのではないか。それとも同級生からの嫌がらせをまたしても受けているのではないか。ドギマギする私の近所で二年生がモシャモシャとエナジー・バーを食べ始めた。『館内飲食禁止!』の注意書きが張られた柱に背を凭れさせている。私がキッと彼女を睨むと彼女は狼狽、私が指で示した注意書きを振り返ると両手を合わせて会釈したが、そうではない。素直に謝ってくれただけ良しとするべきか。上級生にも話の分かる人はいる。上級生にも話の分かる人はいるか。サンゴお姉様なら或いは――
「何を」トロ子がピョコッと私の背から本の表紙を覗き込んだ。顔が近い。消毒液の匂いがする。「読んでるん?」
「〝大忘却以前の言語に関する一考察〟」
「あー」トロ子はそのトロッとした頬を指で押し上げた。「アイドル大学校の方の角野先生が八年前の学術諮問会用に書いた論文だあ」
トロ子が決闘を申し込まれてから二週間が経過していた。二週間前と今とではトロ子のイメージも随分と変わった。彼女から消毒液の匂いがするのは日々の特訓で生傷が絶えないからだった。彼女は尋常でない筋トレに黙々と打ち込んで愚痴の一つも零さず、走り込んでは倒れるまで走って、バーベル上げの際に噛み締めるものだから奥歯を三本折り、走りながら吐いたゲロと血反吐はバケツ一杯を半ダース分だ。苦しい分、結果も十二分に伴っていて、もしかしたら彼女の潜在的な身体能力は驚異的なものかもしれない。
が、所詮、身体能力の話は〝驚異的〟で終わる。
私を驚嘆させたのは彼女の頭脳だった。
お分かりだろうか。彼女は論文名からサラッと著者名を言い当てた。角野先生とは私達のクラスの担任、あの〝例外の九人〟の一員である彼女の通り名だが、〝アイドル大学校の方の〟とトロ子が言ったように、殺処分された翌日に〝新しい角野先生〟が平然と現れたように、彼女は同時に複数人存在する。クローンではない。それが彼女のセット・リストの六番なのだそうだ。胎内のルナリアンも完全に再現、個体でタナー段階の進行度合いが異なるそうだが、それはまあいい、それぞれの角野先生はそれぞれに専門が違う。だから角野先生の名義で発表されている論文は無数にある。トロ子はどの角野先生が何を専門としていて何年に何の論文を何本書いたか丸暗記していた。馬鹿げている。
私が彼女の賢さを悟ったのは件の特訓開始から三日後、放課後に備品点検をしていた際で、私は激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリーム、と言うのも備品点検の仕事はその日の日直から無理に押し付けられたものだったからだ。決闘を受諾して以降、トロ子に対する風当たりは吹く度に冬の訪れを感じさせる霜月の北風の如し、トロ子の特訓に横槍を入れられるならば同級生はそれなりに手段を択ばなかった。〝それなりに〟の形容詞が付くのは私がトロ子の肩を持っているからだろう。私を怒らせたらかあ様が黙っていないとクラス・メイトは思い込んでいる。
そうであればどれだけいいか。私が泣いて縋りついてもかあ様は言われるだろう。『泣かされるとは何事ですか。誰が泣かしたのですか。全員殺すまで帰ってきてはいけません』
『多いなあ!』と、トロ子はクローゼットを開けながら言った。備品とはマイク (対ルナリアン用八二年式戦闘マイク) とカセット・テープと〝セーラー服を脱がさないで装甲〟、点検とは在庫の数を確認する作業であり、保管場所であり作行場所となるのは校舎から独立している倉庫だった。外観はお城、内装はお姫様の寝室のようで、備品はどれもクローゼットの中に仕舞い込まれている。〝花嫁学校〟の少女趣味は私を時に戸惑わせた。綺麗なお洋服やお部屋を見ていると胸がドキドキするのは何故だろう?
トロ子は一、二、三、――と指折りマイクの数を数えていたが、その数え方が私を愕然とさせた。彼女は〝一〟で親指を立て、〝二〟でその親指を折り畳んで人差し指を立てたかと思うと、〝三〟では親指と人差し指をどちらも立てた。滅茶苦茶だ。もしかしてこのコは数の数え方も知らないのかしら。
『トロ子』私は溜息を必死に飲み込みながら言った。『その数え方は何ですか!』
『ゑ』トロ子は小首を傾げた。『二進数指数え法やよ?』
『二進数』私は面食らった。『二進数?』
『ウェイウェイ、二進数指数え法ね、これを使うと片手で三一まで数えられるんよ。両手を使うと一〇二三まで数えられるんやよ?』
『待った』私は言下に否定した。『幾ら何でもそんな嘘を私が信じると思いましたか。片手で三一? 両手で一〇二三? 笑止! アイドル笑止! 人を馬鹿にするのもいい加減になさい。いいですか。貴方がそんなに数に強い訳がないでしょう。いい、トロ子、知らないのは恥ずかしい事じゃないのよ?』
『うん、あの、えーとね、笑子ちゃん、じゃあ、適当に五桁の数を二つ言ってくれる?』
『二つ。五桁。一二三四五と六七八九〇?』
『八三八一〇二〇五〇』
『はい?』
『だから八三八一〇二〇五〇』
『……。……。……。落ち着きなさいトロ子』
『落ち着くのは笑子ちゃんだね』
『七ニ三四八と六山四八九ならば?』
『四五九三三〇二一七二』
『す』咳き込んだ。『少し暗算が出来るだけで調子に乗らないように!』
矢継ぎ早に私は数々の数学的問題、易しくは十二平均律を正確に求めよ、難しくはフェルマーの最終定理を証明せよを投げに投げたが、『最終定理を証明するのに手元にある紙を使うと余白が足りないから口頭で回答するね』とか何とか言われると私の脳では処理が追い付かず、ぐぬぬ、ムキになって購買でノートを手に入れて『さあこれに解いてみなさい!』と促せば『じゃあ遠慮なく』と右手のペンで以てスタコラサッサと回答するトロ子、疑い深い私はトロ子の回答を模範解答に半日掛で照合、一点の曇りも間違いもない正解であると知ると密かに涙した。釈然としない。悔しくもある。何よりも自分が情けなかった。〝姉妹〟だ〝姉妹〟だと言い張っておきながら私はトロ子の事を何も知らずに見下していた。
『ごめんね』
と、就寝前の日課、電灯の紐とのボクシングに励むトロ子に私は言った。
『ん?』今日の試合はタイトルが掛かっている設定なのでトロ子は普段よりも白熱していた。『何が~?』
『私も貴方をトロい子だと思っていたの。どうやってこの学校に入ったのかなって。考えてみれば貴方も〝甲〟の判定を受けていて高倍率の入試を突破しているんだものね』
『いやいや!』トロ子は足と手を止めた。額に電灯の紐がベチンと当たった。当たった額を撫でながらオットリとした彼女一流の口調で言った。『あいたたたた。あのね、違うんよ、私は〝特殊アイドル〟でしょ。笑子ちゃんも知ってるように〝特殊〟は割とレアなんやねん。ねん。合格したのはだからそのお陰だし、精密検査で〝甲〟認定を受けられたのも偶然みたいなものだし、〝花嫁学校〟はなあ、体力測定がドベだったけど筆記が満点だったから合格しただけで、トロいのは本当だもん。だから笑子ちゃんがそう思ってたとしても気にしないよ?』
『でも』と、私が言うと、
『あのね』と、トロ子は被せるように言った。
『私、それこそ皆が思っているよりも性格が悪いんよ』
トロ子は首に掛けたタオルで顔の汗を拭った。シャツの裾から見え隠れする腕を擦り傷や切り傷が覆っている。『何時も口では私が悪いんだ、ごめんねって言ってるけど、〝悪いのはそっちなのにー!〟と思ったり、〝こんなに酷い事を何とも思わずに出来ちゃうなら死んじゃえ!〟とも思うし、皆、下層産まれ下層産まれ、過酷な生い立ちですって言うけれど、私より過酷じゃないのに良く言うよ馬鹿だなあと思ってるし、でも何事も自分本位で考えちゃうのが人間だよなあ、今日もどいつもこいつもホモサピってるなあと思ってるもん。はっきり言っちゃうと同級生を見下してたんだよ、私。ごめん、ごめんって、いい子ちゃん風に謝っておけば何とかなるだろうって』
『ホモ・サピエンスをホモサピと略した上に動詞化するんじゃありません!』
『そこ? そこなの? それに、私、そのツッコミ初めて聞いたよ?』
『私だって何処からツッコミを入れようか迷って困っちゃったんでしょう!』
『逆ギレだ。逆切れの笑子ちゃんだ。あっ、これ、アイドルになったら二つ名にする?』
『あ、〝逆切れ〟? 逆切れの笑子? ちょっといいかもかしら?』
『笑子ちゃんってもしかして大概電波?』
私はムッとしたが、トロ子はそれが面白いらしく、私の顔をジッと見詰めた後で吹き出した。笑われると私は恥ずかしくなり、『きしゃー!』とトロ子を威嚇、威嚇されたにも関わらずトロ子は更に笑い、更に笑われたから半泣きになった私の頭をポンポンと撫でて、
『ごめんね』トロッと笑った。『ありがとうね』
嬉しくて悲しかった。虫がいい。トロ子に自主退学を勧めようとした私が今は彼女をアイドルに仕立て上げようとしている。剰えその事で彼女に感謝されてまでいる。私はトロ子の手が私の頭から離れるとき、その手を咄嗟に掴んで、暫く私の頭の上に乗せさせておいた。変な気分だった。脈拍と血圧の上昇が甚だしい。病気にでもなったのだろうか。元からか。
『あのね』私は言い直した。『私、あの朝、本当は貴方に学校を辞めろって言おうとしたの。貴方が私を頼ってくれないのが不服で』
『だから』トロ子は私よりも年上に見えた。『ありがとうって言ってるんよ?』
『ねえ』私は目元を拭いながら訊いた。『トロ子のお母さんの御話を聞かせてくれる?』
『いいけど面白い話じゃないよ?』
『聞きたいの』
『どうして?』
『私もお母さんがアイドルだったから、お母さんみたいになりたかったから、アイドルになりたいから』
『そうかあ』トロ子は嬉しそうに言った。『じゃあ話しちゃおうかなあ』
彼女は滔々と語った。
『私のお母さんは、でも、本当のお母さんじゃないんだ。私には三人のお母さんが居るの。一人目が産みのお母さん。でもこのお母さんの事は良く知らないんよ。っちゅーのはなんでかって言うとねえ、私、死体から生まれて来たんだ。凄いでしょ。臨月だったお母さんが、会戦のとき、何かの間違いで前線に召集されて、そのときにルナリアンに殺されちゃったんね。戦いが終わった後で〝戦場清掃〟をしていたお母さんが私を、死体の下で鳴いている私を見付けて、凄い子だって、生きる気力に溢れている子だって、私を拾って育ててくれる事にしたんだねえ。お母さんこそ立派な人だよね。ただ、お母さんはその時点でタナー段階が四でね、ほら、タナー段階って四の前半まではお腹が目立たないんだけど、お母さんは後半だったからそれこそ妊婦さんみたいでね。もう長くなかった。私が五歳の時にお母さんは死んじゃったんだけど、私、当時は馬鹿だったから、お母さんのお腹に――あ、ごめん、この話をすると何時も泣いちゃうんよ。気にしないで――お腹に耳を当てて、動いた、弟かなあ、妹かなあって。ごめんごめん。ごめんね。もう泣き止むからね。
お母さんは長生きした方だと思うよ。タナー段階四から五年も生きてられたんだから。まあ、お母さん、私立事務所の所属だったから福利厚生が手厚かったんよね。それで長生きしたってのもあると思う。私は私の為に長生きしてくれたんだと思ってるけど。
で、福利厚生が手厚かったって言ったそばからこう言うのもなんだけど、でも、お母さんと私は最後の一年を下層で暮らしたんだよね。タナー段階が五になっちゃいそうで、事務所がお母さんを〝強制引退〟させようとしたから、私を連れて、お母さん、逃げ出したんだあ。凄い事をするよねえ。でも脱走アイドルも珍しくないんだってさ、実は。あ、笑子ちゃん、怒る? 怒らない。そっかあ。ありがとうね。
下層――
〝スタッフ・オンリー〟の下層の生活環境って、正直、あんまりね、良くはね、ないんだよね。人が増え過ぎちゃってるから。エレベーターって人口配分が上手に出来てて、番号が若いと本当に戦う為に作られてるから何万人かしか住んでなくて、基部都市も小っちゃくてね、エレベーターが陥落して後方疎開しても次のエレベーターの都市は前のよりも大きめに作ってあるから安心安全な仕様らしいんだけど、でも、それにも限界があるよね。もう〝スタッフ・オンリー〟と〝ピンク・チケット〟しか残ってないんだもんなあ。大変だあ。
私が住んでいた五層は定員一万人に三万人が生活してた。ここだけの話、政府の人口統計ってアテにならなくて、人類の総人口は三〇〇〇万人を超えてるなんて話もあるけど、私、あれ、凄く実感だなあ。食べるものも着るものも足りてなくてねえ。『どうせ何時か死んじゃうから』って、その、乱暴な事件も起きてた。
私、笑子ちゃんのお母さんを見た事あるの。下層の慰問ライブで。綺麗だったなあ。〝例外の九人〟ね。人類がここまで追い詰められても戦い続けられてるの、戦術面でも精神面でも、あの九人が支えてくれてたからだーって言われてて、私、あれ、凄く実感、――この言い回しはさっきもしたなあ。
お母さんは作戦級アイドルだったんだ。セット・リストは三つ。一番使ってたのは三番の〝腐食〟。
その〝腐食〟が、お母さん、最後は自分の意思でオンとオフを切り替えられなくなっちゃってね。下層のゴミ山の中に生活してたんだけど、うーん、寝ててもお布団代わりの布切れとか段ボールとか床とかも腐っちゃって、それだけならまだいいんだけど、お母さんの体も少しずつ腐っていってね。苦しんでた。私はどうすればいいのか分からなくて毎日泣いてたんよ。弱いよねえ。
お母さん、どうしても痒い、痒い、こんなもの要らないって、お腹を掻きむしって、もうお腹のお肉は腐ってるから腕がずぶずぶと体の中に入って行って、内臓を掻きむしって、胃とか腸とか引き摺り出してゴミ箱に捨てちゃうんだよ。新鮮な腐肉が転がってる家ってなかなか無いんじゃないかなあ。
その肉を売ってた。私は。下層の人に。そうしないと食べていけないから。
アイドル信仰ってね、笑子ちゃん、だから、つまりは宗教なんだよ。
お母さんのお肉を食べると健康になるとか、強くなれるとか、本当に信じている人がいた。お母さんの指をイヤリングに加工して『今年のコーデはこれで決まり!』って言ってる人もね。脱走しても見付からずに済んだのはお母さんを信仰してくれた人が守って隠してくれたからなんやよ。
ある日、家に泥棒が入って、お母さんの歯を盗んで行った。それだけ高く売れたんだと思うよ。次の日、その泥棒、小さな男の子だったんだけど、それがお母さんと一緒に青い顔でやってきて、そのお母さんはね、ウチの子がアイドル様のものを盗むでごめんなさい、この子が死ぬので私らは家族は許して下さいって謝ったの。
お母さんは、もう声もまともに出せなかったんだけど、でも、言ったんよ。『その歯は私が彼にあげたものだから気にしないでください』
私、お母さんみたいなアイドルになろうって思った。そのときね。
お母さんはそれからもっともっと酷い姿になって、腐って落ちたお肉をね、私に食べさせるんよ。『アイドルの世界は弱肉強食だ!』だってさ。だからって本当に自分のお肉を娘に食べさせなくてもいいだろうにねえ。
『弱いアイドルは淘汰されるの!』ってお母さんは続けた。『世界は残酷なのよ』ともね。お母さんは私に、涙も枯れるんだあ、汚水の涙を流しながら、忘れられないんよね、言い残したんだ。
『強く生きなさい』
で――まあ、お母さんは死んじゃった。最後は腐排ガスが体に溜まって、風船みたいに膨れ上がって、実際、死ぬ直前にはね、身体の中がスカスカだから宙に浮いたりしてたんよ。死んじゃったときも楽しそうにぷかぷか浮かんでた。私、暢気だなあと思って、お母さんが死んだのに当分気が付かなかった。あはは。あはははは。
私はその亡骸を美味しく全部頂いて、それからでもどうしようと思ってたら近所の人が私の面倒を見るの買って出てくれて、アイドルになれる年齢まで町の図書館、図書館って言っても趣味人の人が個人的にやってるものだったけど、そこに通って勉強してたんよ。えへへ。偉いでしょ。〝特殊アイドル〟になったのも、ガスとか電気とか火とか水とか、下層ではインフラが不自由で、それで苦労したから、好きなだけ使いたいって思ったからかなあ。
こんな感じかな。あ、でもね、私、本当は昔は運動神経も良かったんよ。嘘じゃないもん。学校に通ってた頃は〝教練〟で優等生に選ばれて表彰されたもん。でも、ショジョカイタイ=オペレーションを受けてから身体を動かすの、苦手になっちゃったんよねえ。これでも皆に迷惑を掛けないように努力してなかった訳じゃないんよ。でも体が上手く動かせなくてねえ』
『貴方』
『なあに?』
『そんな子だとは思ってなかった』
『そんな子?』
『もっと普通の家庭でもっと普通に育ったんだと思ってた。ポワポワしてて、それで、だから』
『まあキャラ作りはアイドルの基本やん。でも笑子ちゃんこそ私はこんな子だと思わなかったなあ』
『こんな子?』
『笑われて泣いちゃうような子』
『それは――』
『笑子ちゃん、何度も言うけど、ありがとうね。私の話を聞いてドン引きしなかったのは笑子ちゃんが初めて。ありがとうね。ありがとう。笑子ちゃんが居てくれれば私は何も怖くないなあ。強く生きようね!』
私は恥ずかしかった。威嚇しようかとも思った。できなかった。私は照れながらも笑い、
『仕方ないからそうしてあげてもいいわ』
と、答えた。答えるなり抱き着いてきたトロ子の身体からはまだ甘い匂いがした。
私達はこの一件から本格的に仲良くなった。同年代と親密に話す楽しさを私は知った。トロ子相手ならば誰にも言えずに一人で抱えて来たモヤモヤを打ち明けられた。『人に話せば楽になる』が嘘ではない事を私は体験したが、待て、〝人に話せば〟ではないですね、トロ子にでなければ本心を話せはしなかった。
その半面でトロ子と話すと疲れもした。何を言っても後で、あの言い方ではトロ子を傷付けたんじゃないか、私だけが楽しんでいたのではないかと気に懸かり、いやはや、トロ子を楽しませてあげようと段取りした心を乱すのもまたトロ子、何かの弾みで私が他人を褒めれば『でも笑子ちゃんの方が凄いよ!』と言われたい自分が見え隠れするようで、トロ子が誰か別の同級生と話していると訳も分からず『裏切者!』と思い、彼女を邪慳にしてしまう自分が嫌だった。――
「さて!」
トロ子は私の手を取った。握り返す。指を絡めた。「じゃ、お姉様達の所に作戦会議に行こうか!」
「図書館ではお静かに!」
自分自身が静かではない私は、トロ子に『そういえばどうして約束の時間に遅れたの?』と尋ねるのを失念していた。




