第18話 / 夜啼兎笑子 / レイニー・デイズ!
日が暮れた。暦の上では夏、水無月の日没は七時に近く、短縮され続ける夜の空に赤い月が昇った。首都の天井には四季折々の風物に合わせた立体映像がこのように流される。私は一畳敷の謹慎室の中央で正座していたが、窓から入り込む薄い光に首筋を撫でられて、こそばゆいような気がして集中力を失った。右を見る。左を見る。誰も居ない。見回りの風紀委員は何時間か前からオコトワリ・ブックを読むのに没頭している。いけないとは思いながらも私は足を崩し、ジクジクと痺れて痛いのが変に面白く、声を殺しながら笑った。
月齢一五である。その丸さに見惚れながら私は髪留めを外した。ウサギさんのチャーム相手に、
「今日も何とかなりそうだね」と、言った。
ウサギさんは何も答えてはくれない。無口な子なのだ。私は頬を膨らませた。かあ様に月のウサギさんの御伽噺を教えて頂いて以来、私は一度も寂しいと感じた事がないが、時々、かあ様を恋しがっていた自分を恋しがってしまうのは何故なのか。私は自分は酷く薄情なのではないかと疑った。かあ様が居ない寂しさはかあ様に補填して頂くのが筋ではないのか。かあ様の代替えがウサギさんでいいのであれば、それは、かあ様が好きなのではなくて自分を構ってくれる人が好きなのではないか?
私は髪留めを壁に投げ付けた。ざまあみろと快感に浸ったのも一弾指、長年、私を陰に日向に支えてくれた――私は挫けそうになる度に空想上のウサギさん(二足歩行)に頭を撫でて貰った――お友達を傷付けるだなんて何事かと自らを叱責、「ごめんね!」を連呼しながらチャームを回収、回収したらしたで「長年支えてくれたと言うけれどこの人は私が話しかけても満足に返事をしてくれたことがない!」と結婚二五年目にして離婚を考え始めた奥さんのように激怒、チャームを今度は床に投げ付けて踏み躙る等々の暴挙に勤しんでいると、
「夜啼兎君は謹慎室でも自主トレかな?」
何時の間にか学年主任の江戸川先生が謹慎室の入口に立っていた。
「失礼しました!」私は背筋を伸ばした。「謹慎室で謹慎せずに狼藉を――」
「いいよいいよ」江戸川先生は手で私を制した。目元を隠すボサボサの髪に野暮な眼鏡に無精髭、曲がった腰を叩くその風采は、桃色法被を着ていなければ、いや、着ていてさえも世捨て人の観がある。『身綺麗でない役人は出世しない』は嘘だったのかしらと私は訝しんだ。学年主任は一等マネージャーのポストであり、現に彼は一等マネージャーだが、第一選抜 (同期の中で最も早く昇進する者) でさえも一等マネージャーに昇進するのは通例三七歳とされている。江戸川先生は今年で三三歳だった。
一等マネージャーの権限は相当なものだ。アイドル省勤務 (本社勤務) であれば対ルナリアン戦闘の要綱を決めるような重職、少なくとも軍需品生産を委託する大企業相手に行政指導の形であれこれと号令する役職に就き、〝花嫁学校〟の学年主任であれば未だ教頭から指導を受ける立場ではあるものの担当学年の指導方針を策定し、各学科の教師が各生徒に与えた成績の過誤を修正し、風紀委員の手に余る素行不良生徒の処分を決められるのでそれなりの得点的役得もある。事実、江戸川先生の前任者の所には保護者からの贈り物が引きも切らず、彼はその贈り物を片端から売り飛ばして〝スタッフ・オンリー〟の高層に豪邸を建てたと聞く。
前線で功績を立てたのだろう。『マネージャーはルナリアンを倒しまくればそれだけで昇進するから楽なものだ』との巷説もある。それは半分正解で半分不正解、前線勤務は楽なものでは決してなく、マネージャーの死傷率も半端でないし、ルナリアンを倒しまくる機会に恵まれるのは一握りなのだが、倒しまくれば昇進するのは事実である。だからこそ他の省庁や管理職との兼ね合いで本社勤務のマネージャーは参事官や審議官の職に就けられがちなのだった。アイドル省の管理職だからと言って全員がマネージャーではない。(あゝ、そうそう、名前をド忘れしてしまったが、一両年、ヲリコン・チャートの上位を独占しているモモと云うアイドルのマネージャーが二九歳と一一カ月で一等マネージャーに昇進したそうだが、これはマネージャーの昇進速度の異例さの最たる例でしょう。二九歳と一一カ月は史上二位タイだそうです。大体、〝幼年学校〟を卒業してなるべくしてマネージャーになってさえ約束される昇進は二等マネージャー止まり、そこから先は実力と運が物を言うのですから、さぞ恨まれているでしょうね。ご愁傷様です)
「謹慎室で謹慎しているコの方が珍しいんだから」
江戸川先生は飄々(ヘラヘラ)と言った。
「ところで僕がここに来たのは君に幾つか話があってねえ。あ、楽にしてていいからね、座ってていいよ。一つ目だ。学校には慣れたかな?」
「ええ」私は正座に座り直しながら嘘を吐いた。「慣れました」
私は周囲から浮いていた。それを最初に実感したのはショジョカイタイ=オペレーションを受ける直前、クラス・メイトが膝を突き合わせて『これで人を辞めなくちゃいけない』と悲しんでいたのを耳にしたときで、思わず立ち止まってしまった私達に彼女達は質問、『笑子ちゃんは怖くないの?』に私が答えて曰く、
『苟もアイドルになるのに死ぬのが怖いんですか? 歌が上手くなれるのよ? 踊りもよ? まさかその覚悟もせずにアイドルになろうとしてるの?』
向来、クラス・メイトは誰一人として私に話し掛けなくなった。トロ子は別だ。彼女はクラス・メイトである以前に姉妹である。
私は私の育った環境が特殊であったと再確認せずにはいられなかった――と言うと被害者面をするようで嫌だが、〝花嫁学校〟での一カ月は私に十年分の驚きを齎した。どの話がいいか。あの話がいいか。入学して一週間が過ぎた或る日、学級委員から幾らかお金を出して欲しいと言われたので、そうか、これがカツアゲかと思い至って渋った私に、彼女は同級生の誕生日にクラス一同の名でプレゼントを贈るからだと説明した。
誕生日?
私はそれが何か知らなかった。学級委員長は懇切丁寧に、誕生日とは生まれた日を寿ぐお祭りのようなもので、両親や友達からプレゼントが貰えると解説、更に私の誕生日を尋ねる運びとなったが、尋ねられても私は自分の誕生日ではなく誕生月しか知らず、答えられないのもバツが悪いので素直に知らないと答弁した所、『笑子ちゃんのお母さんは真面目だもんね!』と気を遣われた。私はそれで学級委員長を嫌いになろうと決めた。尤も馬鹿にされても同情されても嫌いになっただろう。自分が嫌いなのに人を好きになれる筈がない。
他の話もしておく。これは入学から二週間が過ぎ、ショジョカイタイ=オペレーションの後遺症で西に旅立つ者も減って来た頃、同級生の一人が皇帝陛下を〝皇帝〟と呼び捨てにして私を驚かせた。朝に驚き、昼になってもまだ驚いていてご飯が喉を通らず、夜になっても心臓発作一歩手前、私は職員室を訪ねて『あの子を不敬罪に問わないでください!』と何様目線か知らないが頼み、先生方に爆笑された。『君は純粋だね』じゃない。陛下を陛下と呼ぶのは当たり前ではないのか。国母ですよ?
この他、カレー粉をご飯の上に振りかけたものをおふくろの味とは呼ばないばかりかカレー・ライスとも呼ばない由、母親と剣術の稽古をして鼻の骨を折られるのは日常茶飯事ではない由、『ってかそもそも母親と剣術の稽古はしなくない?』の由、面映ゆい私は同級生を憎んだ。不思議と疎外感は感じなかった。むしろ優越感が萌した。それなのに、偶に、どうしても眠れない夜がある。『明けない夜はない』と私は信じていたが、しかし、眠れない夜が明けても眠れない朝が始まるだけだ。
嫌われるのも不気味がられるのも我慢すればいい。我慢ならないのは歌の授業だった。日に最低でも一回、多いと三回もある歌の授業の都度、担任教師は私に『皆の前に立って歌って模範を示して下さい』と命じた。命じられればそれは従う。が、私程度の歌に聞き入り、拍手喝采、『流石ですね』と褒める教師に死ねばいいのにと思い、普段は私を恐れている生徒の一部でさえも『やるじゃん』的な顔を覗かせるのを見ると死にたくなった。だってそうだろう。貴方達はかあ様の歌を聴いた事がないのかしら。ないのだとしたらどうしてかしら。あの人は国民の歌姫なのよ?
私は『学年主席でもあんな奴は大したことないから!』と陰口を叩く集団を校舎裏や外出先に見出しては慰められていたが、盗み聞きしている分には愉快でも、面と向かって言われると激怒した。自分でも自分が分からない。学校に慣れるのは一生無理だと今では諦めていた。私に友達は出来ない。
「そうかね」江戸川先生は後頭部を掻いた。フケが肩に落ちた。「あのね、気を悪くしないで欲しいんだけどね、セット・リストの件だけど、あれはどうかな?」
「出る予兆のようなものも感じられません」と、私は素直に申告した。セット・リストはアイドルの深層心理が形となる。だからセット・リストが発現しないだなんて事は本来は有り得ない。それでは心が存在していない事になる。心は曖昧なものだとは思う。だが、馬鹿な同級生どもでさえ持っているものを、この私が持っていない筈がない。私だから持っていないのか。どうでもいい。私は生まれて間もなくからセット・リストの一番が大剣になるように調整されていた。これはアイドル一族では普遍的に行われていて、剣術の稽古、一万回の素振り、あれらもその一環だった。だからこそかもしれない、と、江戸川先生は何度か私に教えた。
『君の心理は複雑なようだ。お母さんの教えを守りたい自分と守りたくない自分が心の中で同居している。古の哲学で言う所の二分心のようにね。だから、呼び出される筈の剣が、何時も寸手の所でキャンセルされてしまうのだろう』
『セット・リストが発現しないと退学になるのでしょうか?』
『まさか。前例が乏しいからね。その規定が先ず無いんだ。だから僕の方でどうするか検討しておくし、定期的に面談をするとして、問題は戦闘演習だなあ。素手でどうするね?』
『素手で演習目標を殴り倒します』
『冗談を――』
『――冗談ではありません』
私は言った。『アイドルの基本は徒手空拳です』
「まさかねえ」江戸川先生は苦笑した。「本当に同期全員に模擬ルナリアンさえも殴り倒してしまうとは。夜啼兎の英才教育恐るべしだ。だが、風紀委員を殴ったのは不味かったねえ」
「その処分を私に言い渡しに?」
「違う違う。その処分はこれさ。君は謹慎してるでしょ。それで終わり。足穂君に感謝し給え。これは温情だよ」
「承知しています。謹慎室送りでなければ、午後の授業、風紀委員からの〝お礼参り〟に遭っていたでしょう」
「君の立場はただでさえ難しい」先生は頬を掻いた。髭が擦れてジョリジョリと鳴る。「この件で更に難しくなるだろう。そろそろ僕の力だけで君を守るのは厳しくなる。風紀委員の顧問の先生からもトロ子君をクビにしろ、君を厳しく指導しろ、せめてトルチョック制裁位はしろと、まあ色々とね、言われてるんだわ。そこで提案だ。幸いにも足穂君は話が分かるし、君、彼女に頭を下げて風紀委員に入らないか。どの世界にも〝政治〟はあるよ。社内政治、組織内政治、学内政治、学級内政治だってある。誰でもやっている事をやるだけさ。そうすれば八方丸く収まるとは言わないが取り合えずはトロ子君は守れる」
「トロ子が助かるならそれでも構いません。しかし可能なのですか。色々と」
「多分。風紀委員の先生も、ホラ、君も知っているだろ。足穂君の家は、藤原家は、〝伺侯席〟に数えられるとは言ってもあのザマだ。はっきり言ってしまうと教え子にしても美味しくない。足穂君が大成して、『あのときの御恩をお返しします』の流れになっても、風紀委員の先生は得をしないんだよね。君なら話は違うだろ?」
「そうでしょうか。分かりません。母は堅物です」
「お母さんじゃない。君だよ。君の話だ。どうかなあ。足穂君もお姉さんが優秀で何かと比べられて育った。君と彼女は同じだ」
「同じではありません」私は語調がキツくなるのを抑えられなかった。「私が比べられたのはかあ様です。姉ではありません。母親です。私と同じ子は居ません。似た子もです。かあ様が私だけのかあ様である限り」
「ふむ」先生の眼鏡のレンズがギランと光った。「なあ、君、唐突なんだが、〝ルナティック〟って言葉に聞き覚えはないかい?」
「ルナティック?」私は鸚鵡返した。「ルナリアンのルナですか?」
江戸川先生は何も答えずに喉の奥で笑った。彼は私の背で輝く映像の月を見、
「〝年端もいかない子供を神と祀り、その聖なる偶像によりにもよって林檎を食べさせ、子を産む能力を奪っておきながらキャベツで精を付けさせる〟」
「それは――」
「――〝失われたⅤの教会〟の教典に書いてあるアイドル批判の一文さ。体制批判かな。前に居た部署で見た覚えがある。当時の上司は奴らをルナティックと呼んでいた。ルナティックとは古代の言葉で〝狂気〟を意味するそうだ。ならばルナリアンとは狂気の人と云う意味かね。いや、いや、いや、分かるよ分かる、うん、どうしてその話をこのタイミングで私にしたのかと君は訊きたいだろうね。君の気が狂ってると言いたい訳じゃないよ。ただ知ってるか確かめたくなったのさ」
先生は不審だった。私は想像力を逞しくして先生が〝失われたⅤの教会〟の福音主義者ではないかとさえ考えた。馬鹿げている。彼のような高級幹部がそうであったらアイドル省の情報は教会側に筒抜けだろう。筒抜けであったらエレベーターのリフトに細工をするとか、アイドル省の関連企業にテロを仕掛けるだとか、現時点で彼らがしている行動がその程度に留まっているとは思えない。先生は頭を振り、それから謹慎室の扉を開けて、今日はもういいから寮に戻って休みなさいと仰った。
寮、私達が暮らすのは無数にある内の朶寮と呼ばれる建物だったが、無論、そこでも〝家族主義〟が採用される。同じ屋根の下で暮らす生徒は家族である。だからどうあっても中互いはしない。私はそう考えていた。その考えこそ私と同級生との間にある乖離をいみじくも象徴していた。
謹慎室から廊下に出、電灯と月明りを反射して仄かに光る床を踏み、中途、すれ違った何人かの宿直教師に一礼、表に出ると初夏の風は爽やかにして香り高く、私の気分は弥が上にも高まった。『ときめけ★ずっきゅんハート!』を小声で歌いながら樹木に溢れる学園敷地を人目を気にしながらスキップで横断、結婚式場に良く似た外観の校舎前を通過したとき、食堂の電燈が消えていないのに気が付いた。喫食時間は既に終了している。出入り業者かとも思った。
トロ子が残飯処理を命じられていたように〝花嫁学校〟の残飯は上残飯と下残飯に区別された上で業者に卸し売られる。食べ残しでも上質な食品であるのだから、勿体ないの精神をフル・スロットル、詰め直して売ったり難民への炊き出しに転用するのである。(因みに上残飯と下残飯の違いは箸が付けられたか否かである)
しかし、出入り業者だとすれば学園の裏手に〝こうせい車〟で乗り付ける筈だし、おかしいなと思って耳を欹てると悲鳴が聴こえた。
「なにをしているの!」と、怒鳴りこむと、
「笑子ちゃん」と、トロ子が食堂の片隅にへたり込んでいた。同じ寮の仲間が大挙してトロ子を囲んでいた。手には石鹸をタオルで包んだもの、分度器、定規、カッター、ヌイグルミ、枕、箒、國民簡易小銃を掴んでいた。どれもアイドルが使えば武器になるものばかりだ。ヌイグルミで人を殺せないならばアイドルとは言えない。トロ子の額は深々と裂けていた。血の色は赤い。まだ赤い。トロ子も人なのだ。
「夜啼兎!」仲間の一人が私に人差し指を突き付けた。「何も言わないで。名家の生まれ! 聖界諸侯! 例外の九人! その娘! お前に私達の気持ちは分からない。私達は全員が下層の生まれよ。アイドルになれなけりゃ一族郎党で死ぬしかないの。それをこの子のせいで何度も何度も罰則を食らって、ねえ、分かるでしょ。貴方は成績優秀だし、家柄も手伝って〝卒業配置〟もいいかもしれないけど、私達はこの子のせいで前線に飛ばされるかもしれないのよ?」
「だからと言って私的制裁に訴えるの? 他に方法があるんじゃないの?」
「方法? 他に? 仲良く全員で連座して退学になるとか? 年金が貰える最低年月も働かない内に前線で死んでアイドルになった甲斐もなく家族が全員餓死するとか?」
「それは」私は負けじと言い返そうとしたが、
「もういいよ」トロ子に機先を制された。「いいんよ。ありがとう。悪いのは私だけだから」
頭に血が上る。昼間と同じだ。〝姉妹〟なのに貴方は私を頼ってくれない。私はこんなに――
「何の騒ぎ?」と、声がしたかと思うと、全員のスカートが突風でめくれ上がった。風紀委員長様は二四時間体制で学園内を見回っているらしい。彼女はハイ・ヒールの踵を床に打ち付けた。「何であれ家族に殴る蹴るの暴行を働いた事が貴方達の学園生活を有利にするとは思えないけど、一応、弁明を聞きましょうか?」
だが、トロ子を虐めていた連中は慌てず、
「風紀委員長!」
と、逆に声を励ました。
「私はトロ子に決闘を申し込む!」
「決闘」足穂が目を細めた。それは形骸化している制度だった。生徒自治にはどうしても一定の歪みが生じる。生徒の限定された時間と手だけで学園を守るのには限界があるからだ。決闘は生徒会の手が回らない事柄を生徒間で白黒付ける為に考案されたシステムで、決闘は決闘でも〝決闘裁判〟、負けた側は勝った側の要求を全承服せねばならず、当事者間で取り交わされる一種の契約であるから教師陣でさえもその結論に口を挟む事は叶わない。
「決闘の審議内容は?」
「トロ子の進退」
「無茶を言うわね。退学に関しては先生たちが決められるべき事柄よ。一介の生徒が容喙するべきではないわ」
「しかし、全生徒は自主退学の権利を持ちますよ」
「貴方」足穂は腕を組んだ。「自主退学をした生徒がどうなるか知っているんでしょうね?」
「知っているから言っているんです。〝初夜権〟を売り飛ばすなり〝ファン感謝祭〟で下層の民にモミクチャにされるなり実験解剖行きにされるなりすればいい。本来、トロ子は退学になって然るべきなのに、そうなってはいない。だとすれば自分で自分を反省して自主退学すべきです。家族でも、家族だからこそ、依怙贔屓は許されない!」
トロ子はこの期に及んで笑って全てを誤魔化していた。彼女はその笑顔を崩さず、
「私は」と、言った。言わないで欲しかった。それでも彼女は言った。
「私はそれでもいいよ?」
足穂は前髪を掻き上げ、
「分かりました」頷いた。「決闘を許しましょう。ですがその裁判は私で預かります。私がトロ子と戦います」
「風紀委員長!」仲間だった筈の生徒達は唸った。「まさかわざと負けるつもりじゃ――」
「お黙りなさい!」足穂は一喝した。私でさえも後退る程の迫力だった。「私とても藤原の女。そのような卑怯な真似は致しません。決闘の日時は追って連絡します。今日は解散!」
生徒達はトロ子を一睨み、既に勝った気か口元を歪ませる者さえも居たが、それ以上は何もせずに食堂から去った。足穂はトロ子に何か言おうとして、結局は言わず、風のように消えた。後に残された私はトロ子に掛けるべき言葉を持たなかった。胸が灼けていた。私は『トロ子の代わりに私が戦います!』と宣言するべきではなかったのか。
「大変な事になっちゃったなあ」
と、トロ子がしみじみと言ったので、
「馬鹿ね」
と、私は罵倒した。「アイドルを辞めたら家族が食い詰めるんじゃなかったんですか?」
「でも皆んなにも家族が居るんだよ。私だけじゃないんだよ。私一人が辞めるだけなら私の家族だけで、ううん、まだ、ほら、負けるって決まった訳やないんよ。自主練しなきゃだあ。ね、ね、笑子ちゃん、足穂ちゃんに勝つにはどうすればいいかなあ。何を練習したらいいかなあ。私、〝特殊アイドル〟だから足穂ちゃんに力で勝つのは難しいと思うし」
私の胸は急激に冷めて、
「知りません」
吐き捨てた。「喉から血が出るまで歌の練習をして素振りを一万回位してればいいんじゃないですか?」
「そうかあ」トロ子は欠伸を噛み殺しながら言った。その無神経さと鈍感さとが私の気に障った。「じゃあ明日からそうしようかなあ。私、まだ仕事があるから、笑子ちゃんは先に帰って寝ていてね。色々とごめんね?」
言われずともそうした。一年生は〝姉妹〟との相部屋を強制される。それを厭うのはこれが初めてだった。私は寮に戻ろうとして、寮に戻れば寮母 (と言っても上級生) が居て、寮母はこの事件を知っているだろうから私を放っておかないだろう。そうなると寮の玄関を寮母の陵墓にしてしまうかもしれない。私は夜を校庭で明かそうと目論んだ。〝花嫁学校〟では、嫁入り後の淑女が不貞を働くのは大罪であるとして消灯時間、門限の類が厳しく設定されていたが、一方、〝家族にさえ隠れて蛍雪に励むのは徳である〟との見方から夜間の自主学習が許される――と言うよりも、自主学習が前提でカリキュラムが組まれており、特に年度末の試験を突破するには粉骨砕身の努力が求められた。
私は校庭を延々と走った。時刻が変わり、月の位置が変わり、天気が変わって雨となり、その雨で時候の花の色さえも移ろったのに、私の気分は変わらない。私は暁に背を焼かれながら寮に帰った。雨は車軸を流すような土砂降り、視界は悪く、自分の唇で発された歌声が自分の耳に届かない有様である。
寮母が起きていたら困るから、寮の裏から屋上に飛び乗り、そこから三階の自室に、ああ、廊下を雨粒で汚しながら歩くのはよくないなと自戒しながらも辿り着き、
「トロ子?」
〝姉妹〟が部屋に居ないのを認めた。
狼狽である。六畳一間を私は駆けずり回った。ベッドの毛布を捲り、シーツを剥がし、ベッド自体を裏返してもトロ子は居らず、もしやと小さな台所の小さな薬缶の蓋を開けたが中には誰も居らず、机の下、クローゼットの奥、エアコンの内部さえも見て回ったが矢張り居ない。どうしよう。私が考えたのは『これが私の責任になったら?』だった。畜生め。
朝の点呼にはまだ間がある。私は窓から裏庭に飛び降りて、さてとトロ子を探そうとしたが、探すまでもなく彼女は裏庭の隅に立っていた。全身の力が抜けるのを私は感じた。雨に打たれながらトロ子に近寄る。第一声は『何をしているの!』にしよう。第二声は『馬鹿な真似はしないで!』だ。第三声で『私の迷惑も考えてよ!』でトドメを刺す。私はトロ子が学校を辞めるのであればそれはそれだなと割り切りつつあった。何事にも罪悪感を感じずにはいられない私なのにその割り切りはとてもスムーズに成された。
実力がないコは。私は信じていた。アイドルになるべきではない。
トロ子はイイ子だろう。でもアイドルには向いていない。向いていないものになろうとしたのが悪いのだ。アイドルには私のような子だけがなればいい。そうだ。トドメを刺すまでもない。『学校を辞めなさい』と伝えよう。その後の出処進退に関してはかあ様に頼んでもいい。そう考えた矢先、私は、はたと足を止めた。トロ子は私が彼女の肩に触れようとしているのにも気が付いていない。それ程に夢中になって歌っていた。喉から血を流しながら。
「貴方は」私は怒鳴ろうとして怒鳴れずに呟いた。「何をしているの?」
「え?」と、発されたトロ子の声は枯れていた。口の端から流れ出た血の筋が雨に溶けて薄まりながら四方に流れている。「あ、笑子ちゃん。えへへ。見付かっちゃったね」
「見付かっちゃったじゃありません!」
「本当に――」私は拳を握った。「本当に喉から血が出るまで歌う人が居ますか!」
それは懐かしい言葉だった。母も私に言った。『本当に喉から血が出るまで歌う人が居ますか』だ。あのときの母の気持ちはこんな風だったのか。私はかあ様を何も知らない。知らないのに好いている。知らないのに嫌っている。トロ子の手は、これも私の当て付けを愚直に信じて素振りに明け暮れたのだろう、腫れて二倍に膨れ上がっていた。
「私」トロ子は言った。
「運動神経が悪いし」
「皆に迷惑を掛けてるのに」
「悪いとは思っててもずっと何もして来なかったし」
「それじゃあ悪いと思ってないのと同じだと思うし」
「この位はやっぱりしなきゃだと思うし」
「そうなんよ。そうなんよねえ。悪いのは私だけなのに皆が凄過ぎるんだって思おうとしてたりして」
「辞めればいいんだよね、私」
「向いてないんだよね、私」
「酷い子だよね、私」
トロ子は笑っていた。笑いながら泣いていた。雨に溶けるよりも涙に溶ける血の方が美しいのは何故なのか。
「でも、私、ずっとアイドルになりたかったんだあ」
私は拳を握り直した。「なりたいのね?」
「なりたいよ。家族の事はあるよ。心配だよ。でもそれ以上になりたいからなるの」
「どうして?」
「お母さんがアイドルだったから」
「そう」私は我知らず右手を差し出していた。「そう。そうなの。じゃ、この手を取りなさい。そうしたら私がどう練習したらいいかを教えてあげる」
「いいの?」トロ子は眉間に皺を寄せた。「私、出来が悪いから、笑子ちゃんに迷惑を掛けちゃうよ?」
自殺したくなった。だからか。だから私を頼ろうとしなかったのか。頼らないのではなくて。
「掛けなさい」私は言った。「いいから掛けなさい」
「迷惑を掛けても上手になれないからも」
『料理と同じです』――と、母が言ったように、
「練習です。そうすれば上手になります」
「本当にいいの?」
「いいから早く手を取りなさい。私達は〝姉妹〟でしょ。取りなさい!」
トロ子の手は柔らかかった。彼女は「笑子ちゃんの手は暖かいね」と言った。言ってくれた。
もっと早くこうすれば良かった。頼られるのを待つのではなく頼ってくれと自分から切り出せば良かった。そうしていさえすればかあ様とも今よりもずっと仲良くなれていたのではないか。私は馬鹿だ。何かを勝ち取るのではなく分配と再分配を期待する大馬鹿野郎だ。
その報いだ。トロ子が「暖かい」と言ってくれた手は、私のタナー段階が進むと灼熱するようになり、握る人の手を焼くようになった。
もう誰も私の手を握ってはくれない。




