第9話 / 極楽坂 / 回想! 在りし日の君との春よ!
あの子――
モモと馴れ初めたのは二一歳の春だった。父と母を一遍に喪ってから足掛け二年、『心身の困憊著しく応援配置に適さず』との診断を受けた僕はアイドル省だか皇帝府だかから〝最後まで立派にファン・クラブ・メンバーとしての務めに努めたで賞!〟と感状を賜り、それらを人質的に活用して首都の名門大学に通っていた。ガチのマジで通っていただけだ。僕は燻ぶっていた。寝ても覚めてもあの雪原のあの白色の闇が意識を苛む。最初は気にしないようにしようと思った。無理だった。何度も何度も立ち直ろうともした。キシドーさんのCDを買い、聴いて、聴いて、聴いては聴いて、聴く度に虚しくなった。僕はこの歌を歌って思い出したのに。笑い方を。泣き方を。生きる希望を。僕はそれらを再び忘れてしまっていた。
僕は昼夜を舎かずにアルコールに睦んだ。ハレホロヒレハレとオスモウ・ウィスキーに酔えば僕よりも先に現世の方が正体を失う。ルナリアンに撃たれた母の肌のようにドロドロに溶けた天地を揺蕩いながら僕はとつおいつ考えた。『僕は屑だ。父でなく、母でもなくて、どうしてこの僕が生き延びたのか。生き延びてしまったのか。せっかく生き延びたのにその幸運に感謝もせずにアルコール使用障害を患って忽ち準禁治産者認定をされようとしているのは何故なのか?』
答えは出ない。それで僕は白紙のマーク・シートを更にアルコールで塗り潰した。大学では〝前線帰りのちょっと足りなくなってしまった危ない人〟として腫物扱いを受けた。有難かった。首都は、その時点ではエレベーターが四機も健在、地域分業とでも呼ぶべき産業分散が成立していたから衣食住には事欠かず、事欠かないのであれば人心は穏やか、人心が穏やかであれば治安も穏やか、治安が穏やかであれば僕の心は対照的に荒れた。此処は前線とも僕の生まれ育ったエレベーターとも違い過ぎる。僕の目には誰も彼もが世間知らずの馬鹿に映った。『アイツらと友達になるなら首チョンパされた方がナンボかマシだ』とさえ思っていた。
青春とは最も死に近い季節だ――と、旧時代の作家が書いているそうだ。だとすれば僕にも僕なりの青春があった。毎日、僕は自己陶酔を肴にオスモウを呑んでいたのだから。
一日、僕は人類の記念日を祝すると号して同期と共に場末のバーにしけ込む。〝不景気屋〟と名乗るその店の雰囲気はそのときの僕の気持ちにこの上なく合致していた。水捌けの悪い路地裏、廃屋の観を呈する外装、趣味の悪いネオン・サインのドギツいピンク色、一見すると磨き込まれている風のカウンターには人の汗と涙が沁み込んでいる。僕は昼間から賑やかなそのカウンターの端に陣取り、オスモウのロックをダブルで注文、三〇秒で提供されたそのグラスを掲げ、
「人類滅亡に乾杯ぷに!」と、出し抜けに叫んだ。
「人類滅亡に乾杯ぷに!」と、店中が唱和した。同期の丸ノ内に至っては万歳三唱さえした。場末とは雖も首都の一角である。近隣住民の誰かが官憲にチクればその場の全員が一網打尽だっただろう。それでもよかった。この日の未明、報道管制だそうで一般市民には知らされなかったが、残存する全エレベーターがルナリアンの掘削範囲に入ったと分かった。ルナリアンは彼らの例の〝何かを探しているような地球掘削〟を邪魔しなければ攻撃してこない。裏を返せば、山脈であろうが人類であろうが、邪魔になるのであれば万物を彼らは流転させる。大忘却前に聳えていたと云う〝ヒマラヤ〟がその威容の一分子さえも現在に残していないのがその動かぬ証拠だ。動かぬ証拠だと。山脈も本来は動かないものだ。動かない山脈を動かしてしまうルナリアンを相手に人に何をする事が叶う?
一般市民に知らされない事実を小市民代表の僕が知れたのは丸ノ内のお陰だった。彼女の父はアイドル省の高級幹部だった。目がグルグルで歯がギザギザの丸ノ内は〝人は見掛けに依らず〟の原則を素通り、ちょっと横を失礼します、容姿から連想されるような変人にして変態、前線帰りの僕を面白がって僕がどんなに煙たがっても寄り付いて離れなかった。僕も僕で本心では彼女の無遠慮な明るさに絆されていたのだと思う。人は誰しも一人では生きていけない。(後、彼女のオッパイは、だから、その、とても大きかったのでね?)
食べたり飲んだり飛んだり跳ねたりしていた客が一度にシーンとなったのは時計の針が直角を描いた頃だった。夜の帳が降りてもう久しい時間帯である。春――首都は様々な狙いがあってその内部に四季を再現していた。首都は基礎工事を終えてはいたがまだまだ建造中、居住区人工も二〇万人に満たない時期だったから、〝春〟を知っていたのは人類全体の極一握りだった――の宵とても肌寒く、アルコールに抱き締めて貰わないと体の芯から凍えてしまいそうだったが、
「|LiliMarleen」――
その歌声を聴いた瞬間、体と言わず心と言わず、パッと暖かくなった。
「綺麗な声だろう?」と、一緒に吞んでいたオジサンが言った。「看板娘のモモちゃんだ。あの歌を邪魔しちゃいけない。だからこの店では九時から一時間は私語厳禁なのさ」
「ほー」と、丸ノ内が頻りに感心していた。「でもオジサンは喋っちゃったスね?」
「いいんだよ俺は常連だから。それに俺にあの子の歌声は眩し過ぎる。好きだがね」
「あの子ねえ。あの子とは言いますけど、ね、オッサン、あの人はでもボクらと同じぐらいの年代でしょ?」
「違うよ。馬鹿を言っちゃあいけない。あれであの子は一四歳さ」
「一四歳!」丸ノ内は仰け反った。「大人びて見えるもんですねえ」
粗末なステージに立つモモは華麗とも端麗とも言い難かった。器量の点から言っても十人並、どちらかと言えば地味、贔屓を割り引くと後に残るのは〝暗いコだろうな〟の第一印象だった。事実、彼女の瞳には光が乏しく、左手首に巻かれたシュシュの下に何が隠されているかを想像するのは生理的に嫌だった。
だから惹かれた。この絵にならない子の何処からこの愛おしい声が出るのだろう?
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん」
と、モモの十八番のリリー・マルレーンの余韻も冷めない内に、一見さんらしいお爺さんがねだった。「お願いがある。俺の若い頃の時花唄を歌ってくれ。希望の歌なんだ。素晴らしい歌なんだ。今の時代の歌じゃない。古き良き時代のあの歌を歌ってくれないか?」
「いいですよ」モモは花が萎れるように笑った。僕はドキリとした。「お歌のお名前は?」
「思い出せないんだ」お爺さんは涙ぐんだ。「思い出せないんだ。済まない。でも素敵な歌なんだ。アンタなら知っている気がする。アンタの声も素敵だから」
彼女は何も言わずに無茶振りに応じた。彼女が歌ったのは、それが彼女が知る最も希望に溢れた曲なのだろう、グチヤマ・ピーチのヒット・ナンバーで、マイナー嗜好のこの店のピアニストは音程を間違い、モモも歌詞を間違い、聞くに堪えたかと云うと微妙である。が、玉虫色な曲の演奏が終わったとき、お爺さんは涙を禁じ得ず、
「ありがとうよ。俺の聴きたかった曲とは違った。それは間違いない。でも、今、俺が求めていたのはこの曲だったよ。ありがとう!」
僕も涙を禁じえなかった。丸ノ内と歓談していたあのオジサンもだ。丸ノ内は目を白黒させて、
「そんなに良い歌でしたかね?」――と、言った。
今でも信じられない。僕のアルコール使用障害はこの日を境に緩解を始めた。連日、僕は丸ノ内を捕まえては胸の奥で塩漬けにした桜の花のように何時までも美しさを保つモモの歌、その感想を語っては鬱陶しがられた。「アンタもついに頭がイカれましたか」と詰られてもそれは仕方がない事だった。現に僕はモモにイカれていた。僕は〝最後まで立派にファン・クラブ・メンバーとしての務めに努めたで賞!〟の賞状を好事家に売り飛ばして当座の資金を作るとせっせと〝不景気屋〟に足を運んだ。「最近はまるで遊んでくれないスねえ」と丸ノ内が不平を鳴らしても知ったこっちゃなかった。「それなら〝不景気屋〟に一緒に」と誘っても飄々と断られた。
当時はその意味が分からなかった。今では分かる。酷い事をした。謝りたい。謝ろうと思っても謝れない。丸ノ内は大学を卒業後、ルナリアンの専門研究機関で『高度な技術を持つルナリアンは人間の言葉を絶対に理解している筈であるのにどうして対話に応じようとしないのか?』を研究、その参考資料を求めて回収された旧時代の火星探査機、何とか言った、そう、マーズ・クライメイト・オービターの機密情報を漁ろうとして行方不明になった。対外的には失踪したとされている。現実には皇帝府の秘密警察が動いたのだろう。僕は彼女を記憶の棚の底に仕舞い込んだ。
〝不景気屋〟のお得意様と化した僕は、しかし、〝不景気屋〟自体は嫌いだった。時代が違えば私もアイドルになれたわと嘯くウェイトレスは手際こそ見事だけれど陰では客の悪口を言い、冗談以外の話を異常に嫌っている馴染みの男女はトイレでヒロポンを濫用、僕の人相を覚えたバーテンダーは僕の顔を見ると何も言わずともオスモウのダブルを用意してくれたけれどもプライベートの話には踏み込んでくれず、『これよりも良い店は何処にもない』と自慢するマネージャーは寂しげだった。大嫌いだったよ。僕は彼らが大嫌いだった。
モモと最初に話したのは彼女に惚れ込んでから約一カ月後、
「貴方は何時も其処に居ますね」
お恥ずかしながらモモの方から僕に話を振ってくれたのだった。僕は彼女が歌い始めるとステージ前に椅子を持ち出して耳を欹てるのを習いにしていた。
「いやあのだからその」僕はシドロモドロになった。「君の歌が好きなんだ」
「私も貴方が好きですよ」
「くぁswでfrgtyふじこlp」と僕は訳の分からない事を言い、
「私、私の事が好きな人が好きなんです」と、彼女は澄まし顔で言った。その表情の輪郭には〝私は美人になりたくて美人になったんじゃありません〟的な余裕と傲慢さが香った。断っておく。彼女は面倒な女だった。〝地雷女〟とか〝メンヘラ女〟とか言い換えても宜しい。それでも僕は彼女のその面倒さが好きだった。地雷女は、爾来、僕がステージ前に座り込むと小悪魔的で挑発的な微笑みを僕だけに分かるように浮かべ、やがて微笑みは僕だけに分かるような言葉になり、言葉が集まり、集まった言葉がヨスガとなって、町で二人で逢うようになるのにそう時間は掛からなかった。
彼女も前線帰りだった。そんな気はした。「私のママはルナリアンに頭を殴られて、頭蓋骨が割れて、頭蓋圧が急激に高くなっちゃったから目玉が飛び出して、私はその目玉を踏んずけてグチャグチャにしちゃったんです」と彼女は僕にそれが大したことではないように言った。僕は何度か彼女の扱いを誤り、「へえそう」的な対応をして彼女を不機嫌にさせて、あゝ懐かしい、不機嫌になった彼女は口数が減り、髪の毛の一部を手で弄びながら僕が何を話しても「へえそう」的な返事をすると云う子供染みた意趣返しを図り、――僕は彼女が可愛くて可愛くてたまらなくなった。あばたもえくぼか。そうかもね。
彼女は我儘だった。あれが欲しいとこれが欲しいと頼まれるから僕は東奔西走、「体よく貢がされてるんじゃねえのかこれ」とは思いながらも背に腹が変えられないように恋に人生と金は変えられず、彼女の所望するものを手に入れては献上、「手に入れちゃうとこんなもんかと思っちゃいますよね」とか何とか言われるとさしもの僕も業腹、〝不景気屋〟行きを二日程見合わせたが、すると僕の学生寮の戸を深夜に叩く者があり、すわ秘密警察のガサ入れかと用心しながら扉を開けたらモモが立っていて、
「私が嫌いになっちゃったの?」――と愁嘆場を演じるものだから大学中の笑いものになった。僕は幸せだった。
彼女の我儘は高じに高じた。「アイドルになりたい」と彼女は言った。「人類全員に私の事を好きになって欲しいの」だそうだ。「僕が居るじゃないか」と僕は反論した。「貴方は特別」と耳元で囁かれると僕はそれだけですっかりその気になった。
僕は調べた。マネージャーになるにはどうすればいいかを。唖然とした。幼年学校卒以外でマネージャーになるにはアイドル省の国家公務員試験甲種に受かるか、又は各エレベーターが保有する軍隊に入営、ずば抜けた成績を叩きだして幹部候補生甲種 (甲幹) に選ばれるかしかない。軍隊からのコースは論外だった。それは現場を知っている兵隊を即席のマネージャーに仕立てあげると云う性質上、一定以上の職への(現場を離れるような職への)昇進は望めず、〝あのコが好きだからデビューさせたい!〟の権限は得られない。かと言って国家公務員試験甲種試験は狭き門だった。我が大学、一応は最高学府と謳われるそこからも、年に何人かしか合格者を排出していない。しかも進路希望調査票に『マネージャー』と書いたら担当教員に『飲食店のか?』と聞き返された位に僕の成績は悪かった。
僕は猛勉強に勤しんだ。丸ノ内が手助けしてくれた。「そこまでするんスね」と彼女は言った。「そこまでするなら試験に合格して下さいよ」とも言った。平生、大学を卒業したら親のコネで遊んで暮らすと宣言していた彼女が急に件の研究機関を志望したのはこの頃だった。「最近はアンタが寂しそうにしなくなったからボクも一安心ですよ」
春が終わった。夏が過ぎ、秋が暮れて、冬が深まり、それからまた春が来て――
戦況悪化に伴っての繰り上げ卒業が僕らに言い渡されたとき、大半の同期は嘆いたが、僕はガッツ・ポーズを取っていた。採用基準が微かに下方修正された為に僕は国家公務員試験甲種に合格していた。滑り込みでも合格は合格だ。後は人の五倍、モモが望むならば十倍、努力に努力を重ねて、社交儀礼を、組織内政治を、社内政治を、上司の機嫌の取り方を学び、上役の誕生日には付け届けを忘れず、その奥様の誕生日にも贈り物をし、出世の競争相手が人物であると知れば危険思想の持主だとの噂を流した。僕の流した噂が見知らぬ誰かに飛び火してその一族郎党が高温の油でカラッと揚げられて殺されても何も感じなかった。だってそうだろう。モモも言っていた。「どうせ死んじゃうんですよ。私も貴方もどうせ死んじゃうの。それならせめて自分の思うままに生きたいと思いませんか?」と。
僕はゴマ擦り大王と軽蔑されたが、だからどうした、上司の覚えも目出度く出世街道を驀進して我が世の春を謳歌、幾つかの実施学校を経てモモをデビューさせる事に成功した。敵が多く、守ってくれた上司が失脚して報復人事的に最前線に飛ばされても、僕にはモモさえ居ればそれでよかった。何時かは別れるとは知っていた。そのときは一緒だと誓った。誓えば何も怖くなかった。
「貴方は生きて」――と、彼女は第四次〝スタッフ・オンリー〟会戦、その終幕に立ち会いながら言った。第一二軌道エレベーター〝スタッフ・オンリー〟の陥落はその時点で確実視されていた。ルナリアンは〝スタッフ・オンリー〟の基部都市の高層にまで攻め入っていた。僕らはまさにその高層のルナリアンの攻撃で倒壊したビルの物陰で死を待っていた。
首都は衛星軌道上から陛下の祝福を受けた聖なる戦略核弾頭で〝スタッフ・オンリー〟を滅却する旨通達していた。僕らはその炎に殉じようとしていたのだ。なのにだ。僕の指に自分の指を絡ませながら「貴方は生きて」だ。
「生きて。生きるの。貴方は生きるの」
その時点で彼女の〝タナー段階〟は五に届きそうな四だった。彼女は何時も僕を「久太郎!」と八つも年下の癖に呼び捨てにしていた。その「久太郎!」も長く聴いていなかった。彼女は僕の名前さえも思い出せなくなっていた。〝偶像症候群〟に起因する極度の健忘症だった。それでも僕が誰かを彼女は最期まで忘れなかった。
「君が居ないのに」と、僕は言い、
「私の事は」と、彼女は僕が生涯忘れないだろう言葉を発した。
「私の事は忘れなさい」
忘れるものか。忘れてたまるか。君をアイドルにしてやったこの僕相手に命令形を使う生意気で愛おしい子の存在を。そう思った。
今では忘れてしまいたい。
愛より重い呪いはないからだ。
僕の春はこうして終わった。
――ブシドーが子供を撃った督応援官を倒したとき、一瞬、胸が疼いた。忘れまいとしていたのに忘れていた何かを僕は思い出しかけた。それは何だろう。声が聴こえた。「悪くないかもね」と言っていた在りし日のあの子の。「私は私が好きな人が好きな私を知ってもなお好きでいてくれる人が大好きになったんです。最近はね、色々な事を忘れてしまうけど、でも、これだけは忘れないんです。私を推してくれた人たちの声援ですよ。分かりますかしら。私は本当に我儘で自分勝手ですよね。デビューする前は自分の事しか考えていなかった。なのに今は自分以外の人の事を考えるのが楽しいんです。あの人たちの為ならば何でもしちゃいたいと思うんです。もう直ぐ死んじゃうからかなあ。死んじゃう前は誰でも善人か名俳優になるからかなあ。でもそれでもいいですよね久太郎。ね。誰かの為に生きるのも悪くないですよね?」
だから僕はブシドーを助けた。後先考えずにバン型の〝こうせい車〟を奪っていた。
「早く乗れ!」
僕は何をしているのだろう。君はこの僕を見て笑うだろう。笑ってくれればいい。僕には君が笑ってくれる事が何よりの。
ブシドーとシノブちゃんと五人の子供と八人の大人、最大積載量も容積も上限を超えているが、アクセルを全開にすれば走らないことはない。何処へ向かうべきか。この不祥事の後始末をどうするか。考えろ。頭の中で三つ四つの事を並行して考えるのは大学時代ならいざ知れず今ならばそう難しくもない。考えろ。考えるのに夢中になり過ぎた。
バンの進路上にタケヤリちゃんが立ち塞がっていた。