序 / ז לֹא-תַעֲשֶׂה לְךָ פֶסֶל, כָּל-תְּמוּנָה, אֲשֶׁר בַּשָּׁמַיִם מִמַּעַל,
「ヲタ芸の手順を間違えたものは私が射殺する!」と、応援管理官は割れたビール瓶のような声で言った。大柄な男だ。アイドル省の所属である事を示す桃色法被を着込んでいる。背中にはこの末期戦環境に於いて国民的標語となった〝女死力〟の三文字が染め抜かれていた。街中の看板であればその後に〝乙女よ大死を抱け〟と続く。
「応援席からの無許可離脱者は極刑に処される。男子は腐刑。通常の腐刑ではない。ヤオイ・ペナルティが課される貴腐人刑がセットになっている。女子はアイドル・デビューを本人から三親等以内の親族ともども禁止される。この他、応援管理官の指示に従わない者は督応援官に射殺される、若しくは本会戦終了後に凌遅刑に処される。骨付きカルビにされたくなければ我々の言うことをしっかりと聞くように。では万歳三唱。神聖にして絶対キュート不可侵なアイドル皇帝陛下万歳! ストレンジラブ皇帝万歳! 聖アイドル帝国万歳!」
身も心も寒い。氷点下一五度の雪原に大人も子供もお姉さんも三〇〇人が三列になって突っ立っている。雪原と言っても長らく血だの人体由来の脂だの塩分だのを吸っている雪は褐色である。もしも夏が来るような事があればこの辺り一帯は赤い海になるのだろう。僕は二列目の中央付近で合わない歯の根をどうにかして合わせようと無駄な努力に明け暮れていた。何もしていないよりかは何かをしていた方が気が紛れる。
時の頃は〝大忘却〟以前の尺度で言えば第三天文薄明時刻、夜明けから一時間半が経過しているが、空には太陽も月も地球の輪さえも顔を見せない。僕らを照らしているのは阻塞気球と応援艦のサーチ・スポット・ライトだけだった。ウルトラ超ド級白熱電球の光を浴びていても〝核の冬〟の厳しさはちっとも和らがない。息をする度に口から白い煙が立ち上る。汗を吸ってパリパリに凍ってしまったシャツの襟が頬に触れるとその辺りが痒くなった。雪も灰も降っていないのがまだ幸いだ。
聴こえる。大気が乾燥しているからだろうか。彼方からも此方からもド派手に僕の鼓膜を叩いている。
アイドル・ソングだ。曲の合間合間に統一感に乏しいコール――『世界で一番可愛いよ!』『可愛い助かる!』『助かる可愛い!』――が挿入される。深呼吸をした。空気が埃っぽくて鼻の内側の粘膜が汚れる。僕らの敵は前方から現れる予定だそうだ。前だけを見ていよう。僕らが応援すべきアイドルちゃんどもは敵が決戦射程距離に入る寸前にその側面から奇襲を掛けると教えられていた。不安だ。彼女らは本当に来てくれるのだろうか。僕らは見捨てられているのではないか。実際に彼女達が現れたとして見事に応援をし果たせるのか。
不意にお腹が鳴った。これから死ぬかもしれなくてもお腹は減る。ファン・クラブ・メンバーのサイリウム隊に強制入会させられてから既に三日だ。底の擦り減った靴で三日三晩歩き通したから足裏の感覚がない。それでもブーツなだけましか。靴とブーツの隙間にこれでもかと詰めておいた古新聞が僕を凍傷から守ってくれていた。古新聞には皇帝陛下がどうしたとか何とか書いてある。皇帝陛下万歳だ。僕の足が凍傷にならないなら幾らでも万歳を唱えてやる。不敬かな。不敬だろうな。陛下の顔写真を足蹴に、剰え踏み躙っているのだから露見したら一発でアウト、裁判抜きであの世逝きだろうが、それでもご飯抜きであの世行きよりかは遥かにいい。
アイドル銃殺刑にアイドル執行される前にはアイドル恩寵のご飯がアイドル給付されると聞き及ぶ。その献立にはコーラ・グミ・オスシであるとかウニ(バイオ・ケミカル・プリンに人毛から作ったのではない本物の大豆醤油を垂らして作る食品)のオスシであるとかが含まれる事もあるそうだ。いかんね。生唾がね。飲み込む。その音が大きい。
「お兄ちゃん」右隣の少女が話しかけてきた。彼女との距離は肘と肘が触れ合いそうなくらいに近い。それで彼女の道具立てが子細に観察できた。下層の出身だろう。一目で分かる。年端も行かないのに手足に梅毒性の発心が見られた。この分だとヴィーナスの病に犯されるのもそう遠くないだろう。そう遠くないとしてもそれまで彼女が生きていられるとはとても思えない。死ねば彼女の遺体は人買いに売り飛ばされてアドレノクロムの原料にでもされるのだろう。「お腹空いてるの?」
「そうなんだ」声が少し枯れている。震えてもいる。「君は?」
「少し」彼女は歯を見せて笑った。前歯が二本無かった。根本から叩き折られた風だった。「でも髪の毛の中に蛆が沸いてるの。前に転んで頭が裂けちゃった所にね。お腹が減ったらそれを食べればいいもん。食べる?」
「遠慮するよ。君は一人でここにいるの。お母さんは?」
「居るよ。向こうに。お兄ちゃんは?」
「母と父が向こうに」
「お名前は?」
「久太郎」咳き込みながら答えた。「極楽坂久太郎」
痒いのだろうか。少女は頭を右に左に振り回した。彼女の話は真実相違なかった。彼女の頭からフケと共に幾らかの蛆が四方に飛んでいた。不潔に慣れてしまった僕らはもうその程度の事では何も感じない。一匹の蛆が少女の長い睫毛の上にポタッと落ちた。ウネウネと動く。睫毛に絡む。マスカラだ。
「敵の弾を食らっても倒れるな!」督応援官が僕らの織り成す応援列の脇を練り歩きながら訓じた。その督応援官は右足を引きずる様にして歩いていた。手が普通の二倍か三倍に膨れ上がっている。塹壕病だ。膨れ上がった掌の中央にポツンと白いものが伺えた。花弁の中の雌蕊のように。骨だ。瓶の中で壊れてしまったボトル・シップの残骸のようにも見えた。
「ねえ」と、少女が重ねて僕に尋ねた。「敵の弾ってなあに。ルナリアンの銃弾の事かなあ。〝敵の弾を食らっても〟ってルナリアンの銃弾って食べられるの?」
無視する。少女は俯いた。罪悪感を覚えないこともない。父さんと母さんはどうしているだろう。
早く楽になりたい。この不安から解放されたい。生きる為の希望のようなものを昔はこれでも持っていたような気がする。今ではそれも忘れてしまった。そう言えば僕は何時から笑っていないだろう。それさえも忘れてしまった。
先頭列 (被害担当列とも呼ばれる) で動きがあった。敵が見えたらしい。僕は目を凝らした。深い闇の中を白い連中が一散に此方に向かってくる。来るべきときが来たのだ。僕は給付されたショッキング・キラキラ・スーパーカワイイピンク・サイリウムを両手に握り締めた。手元が仄かにショッキング・ピンクに染まった。それは漣のようだった。応援列の各所でピンクやオレンジやライト・グリーンの極彩色が瞬いた。
何が女死力だ。男死力もある事を僕が見せ付けてやる。
結論から言えば見せ付けられはしなかった。むしろ僕の方が女死力の凄まじさを見せ付けられる形になった。
此方に走ってくるのは敵ではなかった。アイドルだった。全員が野外ライブ用の白無垢迷彩衣装を着込んでいる。「まさか」と誰かが隣近所の誰かが言った。「敗走したのか?」
『敗走したのか?』ではない。あの勢いで脇目も脇目も振らずに駆けているのだ。敗走以外には有り得ない。おかしい。ライブ会場側墳墓 (アイドルはライブ会場から逃げずに死ぬときは会場で死ぬ) のではなかったか。僕らは茫然とした。応援列の先頭に立つ応援管理官でさえも目を丸くしていた。
衝突した。アイドルと先頭列とがだ。先頭列の一翼を担っていたのはこの三日で仲良くなった本阿弥さんだった。性格が悪い眼鏡の青年で、変に気取って斜に構えていて、自分は聡明を以て成ると自負しているような典型的な嫌な男だ。『死ねばいいのに』と僕は密かに願っていた。密かに願っていたけれどもまさか本当に死ぬとは思っていなかった。それもルナリアンに殺されるならまだしもアイドルに轢き殺されるとは。轢き殺される?
轢き殺されるとしか言い様がなかった。本阿弥さんに衝突したアイドル、上背が一三〇センチあるか否か、齢一〇歳に達しているかも微妙な彼女は「邪魔!」と怒鳴った。その「邪魔!」が言い終わる前に本阿弥さんは突き飛ばされていた。アイドルの腕力は想像を絶していた。本阿弥さんは後ろに吹っ飛ばされて、それを受け止めようとした背後の青年も吹っ飛ばされて、更にその背後の青年さえも吹っ飛ばされた。三人が折り重なっている倒れているその上を件のアイドルは走り抜けていった。アイドルの靴が本阿弥さんの背中を踏みしめるとき、強烈な、オノマトペにするならばバキボキ的な音響が喧しく鳴り――
後は混乱と騒乱だった。何も分からない。僕は右往左往する人々の間でモミクチャにされた。応援管理官が何事かを叫んでいたが良く聴こえなかった。
「久太郎!」――と、僕を呼ぶのは父と母だった。在りし日のスクランブル交差点の様相を呈するこの人波の中で再会できたのは僥倖である。父が僕を手招きした。途端、頭上で轟音が立ち、その衝撃で僕は尻餅をつきそうになった。それ程の轟音だった。応援艦が発砲したのだろう。間もなくピューと間の抜けた音がしたかと思うと、二八センチ砲の一抱えもあるような薬莢が空から落ちてきて、父の頭上を直撃した。再びあのバキボキ的な音響だ。
父は飲み終えたジュースの空き缶をそうするように上からペチャンコに潰れた。一瞬、僕と母は何が起きたかを理解出来ずに思考と運動の一切を停止した。母が折り畳み定規のように体をくの字に曲げた。吐いた。父を押し潰した薬莢はまだ灼熱しているらしく、雪をジュウジュウと溶かして、ついでに父の肉も焼肉にしていた。
僕の口内に生唾が溢れた。肉の焼ける匂いは肉親のそれであっても香ばしかった。雪が溶けると地面を覆うトリニタイトが露出した。トリニタイトは砂漠の砂が超高温に晒されて溶解、その後に生成される緑色の鉱石で、父から溢れる父成分とその他諸々を吸った上、スポット・ライトの光さえも一点に集めて鈍く光っていた。
僕は逃げ惑う人々に突き飛ばされたり蹴られたり殴られたりしながら母の元に辿り着いた。母の吐瀉物の中では今朝食べた未消化の芋虫がくねくねと踊っていた。僕はその踊りに誘われるようにして辺りを見渡した。応援管理官が「ストレンジラブ皇帝万歳ぷに!」を唱えながらアイドル達の来た方へと突っ込んでいく。督応援官の殆どは僕らと同様に逃げ出していた。その督応援官を後方から進出して来たらしい野戦憲兵が捕まえては「逃げるな!」と詰っている。詰った所で効果はない。
「ルナリアンだ!」
ルナリアンだった。銀色の、人型の、二足歩行の、古には〝グレイ型〟と呼ばれた宇宙人が僕らの応援列に似た戦列を成している。違いはその列を構成する人数だ。僕らは少ない。奴らは多い。地平線を埋め尽くす程に。僕らは少ない。奴らは多い。地平線を埋め尽くす程に。
彼我の距離は(学校アイドル教練で教わった方法を僕が忘れていなければ)目測で一五〇メートルだ。ルナリアンはこの距離での射撃をまず外さない。彼らの使用しているレトロなデザインの光線銃 (馬鹿げている!) は風向きだのコリオリ力だのの影響を受けないからだ。射撃必中界が余りに小さいから制圧射撃には向かないと聞いたこともある。それがどうした。そんなことはどうでもいい。それはむしろ現状では僕も母も二秒後には高い確率で撃ち殺されていることを意味する。嬉しくない。
指揮官級ルナリアン、戦列の先頭に若干の距離を置いて立っている彼だか彼女だかが、右手を振り上げた。僕は咄嗟にその場に伏せた。振り下ろされる右手がスローに見えた。数百挺の光線銃が青色の荷電粒子ビーム (馬鹿げている!) を放った。夜の一部がパッと白んだ。
二発のビームが母の右鎖骨辺りと左肘を貫いた。父が潰れちゃったときのように、母は何度か目を瞬かせてから、右手で両方の傷口を弄った。それから急に頽れた。僕は二射目が頭上を通過するのを待って起き上がり、母を肩に抱いて、おい、どうして僕は目の前で親が死んだり死のうとしたりしているのにこんなに冷静なのだと形式的に自己嫌悪することで現実から逃避していたが、
「死なせて」との母の呟きに無理矢理に現実に引き戻された。
走る。三〇〇メートルも走れば味方の塹壕線だ。途中、先程の少女が倒れた女性を揺さぶりながら、
「お腹空いたよお母さん。ねえお母さん。一人だけ敵の弾を食らってお腹一杯になって寝ちゃうだなんてー」
と、笑っていた。
それからの経緯は詳しく記憶していない。アイドルが負傷者を救出している光景を見たような気がする。違う。彼女は『どうせ死ぬんだから盾になってね!』と言っていた。ルナリアンが銃だけでなく荷電粒子砲 (馬鹿げている!) で攻撃してきたような気がする。それは青く輝き、夜空にその色の尾を引く彗星のように綺麗なものだが、投射地点に接触すると大爆発を起こした。僕はそれで母と一緒に塹壕の壁に叩き付けられた。塹壕は僕二人分の深さがある。その壁に施された鉄板補強の厚さは僕三人分だ。頭を強かに打ったようで視界が暈やけた。地面に少し寝転ぶだけで金属の破片だのが服を貫いて手足を抉る。母が再び『死なせて』と言ったかもしれない。
塹壕間の連絡通路に積まれていた木箱が二度目の砲撃に巻き込まれて粉々になって、その数百キロに加速した破片を浴びて誰かが死んでしまったし、爆発の衝撃波をモロに食らった人は外見はマトモなのに中身がグチャグチャになったようで倒れると二度と動かなかった。鳴り止まない。戦争音楽が鳴り止まない。銃声、悲鳴、悲鳴、絶叫、断末魔――
「お母さんの腕は今すぐにでも切断しなければいけない」
医療用桃色法被を着込んだアイドル医が言った。退避壕の一つを転用した野外ライブ用特設医務室だった。床に敷かれた筵の上に何人もの怪我人が無造作に寝かされている。母の隣には皮膚が熟れ過ぎて腐ったトマトのようになった男性か女性かも判別不能な半死体が転がっていた。今にも死にそうなのに手だけで服の胸ポケットを弄っている。家族の写真が入っているらしい。目が見えないのだろう。指の感触もないのだろう。写真を指で摘まんでもまだ探している。そうこうしている内に写真は指の間から床に落ちた。
奇跡だ。それともこれが家族愛か。目が見えなくて指の感触もないはずなのに彼だか彼女だかは落ちた写真の在処を探り当てた。もう死にそうだ。身体がブルッと大きく震えた。写真が手から落ちた。拾う。震えた。写真が手から落ちた。拾う。震えた。写真が手から落ちた。拾う。
「しかしこの医務室には切断用の器具がもう残されていない」
僕はアイドル医の顔を正面から見た。彼の目は半端な同情に濁っていた。
「つまり?」
「僕は他の患者を診なければならない」
「つまり?」
「親族の君にしか任せられない」
「つまり?」
「幸いにも腕はもう薄皮一枚で繋がっているような状態だ」
「つまり?」
「直ぐに戻ってくるから」
「つまり?」
「君がお母さんの腕を食い千切れ」
噛みながらゲロを吐いたような気がする。それにしてもお腹が減っている。何かの本で読んだ事がある。人肉は刺身にして酢味噌で食べると舌上美いと。こうも書いてあった。人を食べた者の背後には緑色の輪が浮かび上がるのだと。母の味は噂に聞くよりも甘かった。僕は母の肉を飲み込む誘惑に辛うじて勝った。僕は母から生まれた。だから食べるとしたら母が僕を食べるべきだ。アイドル医は「頑張ったね」と僕の肩を叩いた。アドレノクロムを注射された母は、応急だが処置を受けた事もあって落ち着きを多少だが取り戻して、
「ありがとう」と、言った。「一緒に生き抜こうね」
言った直後にルナリアンが医務室に乗り込んできた。母の体を三本の荷電粒子ビームが串刺しにした。串刺しだと。畜生め。串刺しにしてどうするんだ。焼くのか。焼いて食うのか。畜生め。それは僕の母親だ。お前らにはくれてやらないぞ。食うなら僕が食う。
気が付いたら僕は塹壕内を彷徨していた。通路は死屍累々だ。どいつもこいつも呑気そうに重なり合って死んでいた。僕は何処かで拾った國民簡易小銃を杖代わりにしている。二本の脚ではもうあれこれが重たくて体も精神も支えきれない。何度も何度も足を滑らせた。吐き出された様々な体液が足元で凍っているのだった。
これも昔の本に書いてあった。人は不完全な死体として生まれるのだと。時間を掛けて完全な死体に近付くのだと。僕もそう思う。思うならば敵弾に身を晒せばいいのに。
塹壕の傍の川が凍っているのに燃えている。人やアイドルの血液が流れ込んでから引火したのだろう。暖かい光が点いたり消えたりしてその度に見え辛い位置に倒れている死体が浮かび上がる。「こんにちわ!」と、ばったりと出くわした紳士が帽子を脱いで挨拶をした。紳士には右腕がない。彼は僕に名刺をそれはそれは恭しい手付きで寄越すと「右腕を探しているんです」と告げた。見れば分かる。「見つけたら電話を下さい」と言い残して彼は去った。「死にたくない!」と死体の下に生き埋めにされた誰かが叫んだ。彼は「後五分だけでいいから生きていたい!」と言葉をつづけた。笑えた。朝、母親に起こされるときのようだ。死は日常の延長線上にあるのだといよいよ思う。笑うと頭の上で何かがパリパリと鳴った。浴びた血が乾いて頭皮と髪の毛とが固まってしまっていた。僕に将来があるとすれば三五迄には禿げるだろう。
泣くのにもカロリーが必要だ。そのカロリーが足りていない。足りていないなら泣けない。
僕に足りていないのは果たして本当にカロリーだけか?
退避壕に文字通り転がり込んだ。先客が居た。妙齢の女性だ。震えている。見れば赤ん坊を抱いていた。嘘だ。抱いていなかった。それはもう赤ん坊ではなかった。ルナリアンに殺されたのではない。死因は窒息死だろう。僕は笑った。笑うしかなかった。女性は竦み上がった。僕のお腹の虫がグゥと鳴くと彼女は反射的に我が子を僕に差し出そうとさえした。
そこまでされては僕とても腹が鳴る以前に立つ。どうせ死ぬんだからと凶暴な欲求に駆られていると、
「君!」
闖入者は二人連れだった。背広の上に桃色法被を重ね着している。法被の左胸に複数の缶バッジがバッジ裏の安全ピンで固定されていた。略綬 (勲章の受賞歴を示す印) である。アイドルのマネージャーだ。背中に担がれているのが担当アイドルちゃんらしい。両足の膝から下が迷子になってしまったのか存在していない。それでも流石はアイドルだ。困り顔を浮かべてはいるがそれ以上の渋面は決して作らない。むしろこの状況下に於いてさえもアイドルらしい科を作ろうと努力している。
「その銃を貸してくれないか」
僕は無言で差し出した。マネージャーとアイドルちゃんが異口同音に「ありがとう」と言った。アイドルちゃんの方だけが「ジャーマネも今日までありがとうね!」と微笑んだ。これから起きる事がその微笑みから僕にはようやく察された。慈悲の一撃だ。僕は固唾を飲んだ。忘れていた寒さが突如としてぶり返した。
マネージャーはアイドルちゃんを床に下した。アイドルちゃんは背を壁に預けると夏の夜に最後の一本のアイスを惜しみながら食べつつ聴く風鈴の音のようなソプラノで、
「本当に今日までありがとうね」
と、繰り返した。
マネージャーが銃を構える。狙いはアイドルの命である顔面だ。マネージャーの指が引き金に掛かる。アイドルちゃんが唐突に「やっぱり止めて二人で逃げよう!」と訴えた。無駄だった。彼女の恐らくは十数回は工事されたであろう顔面を七・六二ミリ弾が三秒間三〇回に渡ってぶん殴った。硝煙がプンと薫る。僕のマズル・フラッシュで焼かれた目に視力が戻る頃、マネージャーは銃を捨てていて、それを握っていた手を懐に突っ込んでいた。驚いた。マネージャーにではない。アイドルちゃんにである。あれだけの銃弾をお見舞いされても彼女はまだ生きていた。指先が動いている。七・六二ミリ弾はコンクリート・ブロックを砕く程の威力があるのに。
「しくじったか」マネージャーは嘆いた。「すまんな。すまん。でも死ねる筈だ」
彼は背広の内ポケットから煙草の箱を取り出した。国民にその味の不味さが広く膾炙している配給品の〝ヴィクトリー・シガレット〟だ。
「君は」マネージャーは煙草を咥えながら僕に尋ねた。「自殺する準備があるのか」
「はい」と、僕は滑らかに騙った。
「良かった。それじゃあお先に。そうだ。これだけは言っておきたい。ごめんな。俺たちを許すな」
彼は煙草に火を着けると、深く、深く深く、最愛の女性を抱くときのように恍惚な表情を浮かべながらその灰を有害な煙で満たした。
煙が吐き出されることはなかった。彼はズボンのポケットから取り出した小瓶を自らの頭に振り掛けた。可燃性の液体だったようだ。彼は燃えた。僕の目の前で。喉が早くに焼けたからか絶叫を耐え聴くのは本の数秒でよかった。アイドルちゃんも検め直すと死んでいた。あの妙齢の女性も、徴兵された際に尊厳維持局から渡される薬剤で、一人静かに何時の間にか死んでいた。安らかな死に顔だった。羨ましかった。僕もその薬剤を靴の中敷きの裏から引き摺り出した。
床にあのアイドルちゃんの物と思わしきマイクが転がっていた。柄の部分の刻印――『|CAST IN THE NAME《アイドル皇帝の名に》| OF PRIMA DONNA《於いてこれを鋳造す》,YE NOT GUILTY.』――が目に焼き付いた。刻印の下に描かれている我が国花、今は絶滅してしまったサクラの花は、刃物か何かで上からバッテンを書かれて消されていた。異星人野郎に国花を渡さないようにするためだろう。
錠剤を口に放り込もうとした。間が悪かった。背後から忍び寄っていたらしいルナリアンに向う脛を蹴り飛ばされた僕は危うく昏倒、転倒、七転八倒、悶え苦しんだ。息がし辛い。溢れた鼻水が鼻先で凍っているからだった。
ルナリアンは容赦も慈悲も無く僕を嬲った。奴は明らかに楽しんでいた。その細長い手足の何処にそのような力があるのか、聞く所に拠れば五トンにもなるパンチ力で以て、僕の腹を殴って殴ってそれから殴った。僕は血を吐いた。胃酸と混ざって酸化してしまったらしい血は赤黒かった。
ここまでか。
往生した。思考が変にクリアになった。戦争音楽は終盤を迎えて益々盛んだ。僕はこの音に蓋をされた地獄の底で死ぬ。悪くない。でもお腹が減った。それだけはなんとかしたい。ならないだろうか。ならないだろうな。そのときだ。丁度そう考えたとき、十何度目かの殴打が僕の横頬を捉えて、何処かの歯が折れて舌の上に転がった。
固い歯だった。硬い歯だった。堅い歯だった。
何故だろう。自分でも分からない。無性にムカついた。だってそうだろう。どうして僕がこんな銀ギラ銀の謎の宇宙人の片手間的娯楽の犠牲者になって死なねばならない。こいつらは母を殺した。父も間接的に殺した。どいつもこいつも殺した。僕は舌を運動させて例の折れた歯を奥歯の方へ押し遣った。ルナリアンはその間にも僕の全身を殴る蹴るの暴行狼藉フィーバー・タイムだ。好きにしろ。左目がグチャとかグチャグチャとか言った。だからどうした。畜生め。
噛む。噛み砕く。自分の歯を。根本に歯茎の一部が付着していた。血の味がする。鉄の味だ。
何が悪い。僕が僕の歯や肉を食って何が悪い?
そうだ。僕は分かってしまった。僕の命をどうこうしていいのは僕だけだ。畜生め。左目が全然見えない。見えない左目なんて要らない。左目も食ってやる。左目を食った栄養で右目が良く見えるようになればそれでお釣りがくるだろう。畜生め。殺してやるぞ。殺すだと。誰を。このルナリアンをだ。そうだ。殺されてたまるか。
戦う。僕が僕の意思でもう死んでもいいやと思えるその日まで殺されてたまるか。
僕は暴れた。暴れても何の意味もなかった。それでも暴れた。暴れる度に頭を背中を腹を殴られた。だからどうした。
事態は前触れもなく流転した。ルナリアンが、表情筋がお前らのような異星人野郎にもあるんだな、笑いながら拳を振り上げたが、その拳がピタリと止まった。奴は小首を傾げた。傾げたときには奴の上半身と下半身は横にズレていた。僕自身、今日は何が起きたのかを理解するのに大変苦労する日だが、この日一番大きな〝?〟を頭の上に浮かべてしまった。
斬られたのだ。何に。巨大な刃に。誰に。決まっている。
アイドルに。
鏡のように磨き上げれた刀身に僕の顔が映り込んでいた。汚い顔だ。顔中に凍傷だの切り傷だの擦過傷だのがある。その顔の上をツーとルナリアンの青い血が伝っていった。かと思うと切断されたルナリアンの胴からモツだの何だのが噴水のように勢いよく零れた。位置関係の都合上、僕は頭から被ったが、ルナリアンは死後数秒でその全身が塩に変換される。原理は分からない。兎にも角にもそうなのだからそうなのだとしか言えない。頬が嫌に痒くなった。
「生きていますか?」
その美容、季節を殴るように咲く花の如く、美しいと感じてはいけない種類の美しさ、――暴力の美しさを全身に湛えたその人は、身の丈よりも大きな剣 (馬鹿げている!) を肩に担いでいた。熟年のアイドルらしく体のライン、特に腹部のラインを隠すようなゆったりとした黒セーラーを着ていて(頭の片隅でこんなときでも僕を俯瞰している僕が『三〇過ぎたオバサンが黒セーラーは幾らアイドルでも無理があるよなあ』と漏らした)、左手にキラリと煌めく何かを嵌めている。
誓いの。僕はそれが何かを知っていた。誓いのメリケンサックだ!
恋愛禁止条例と姦通罪が適応されるアイドルは公には恋人を作れない。コソコソとでも余程の実力者で無ければ許されないだろう。で、その恋人が、慣習的に結婚指輪の代わりに愛するアイドルに贈るのがこのメリケンサックだった。メリケンサックはメリケンサックであって指輪ではない。建前上の理論は『武器をプレゼントしただけです』で苦しいながらも成立する。メリケンサックは指を通す穴が五本分もあるから、一本分の穴しかない指輪の五倍の愛情が込められるし、指輪の五倍はルナリアンを殺せる計算にもなる。
〝余程の実力者〟だ。僕はこの人を知っている。知らない者がこの世界に一人でも居るだろうか。
彼女の黒セーラーが内側から爆ぜた。アイドルの非変身時の防御装備として採用されているこの黒セーラーはセーラー服であってセーラー服でない。これは〝爆発反応装甲板〟なのである。布の断面に超高性能の爆薬が仕込まれており、外部から何等かの衝撃、熱量を受け取るとそれが外側に向けて炸裂する事でダメージを相殺する。俗に〝セーラー服を脱がさないで装甲〟と呼ばれるそれだ。
「新手か」彼女は狭い退避壕の中で器用に大剣を振り回した。振り回した際の風圧で〝セーラー服を脱がさないで装甲〟の断片が春一番に攫われた桜の花弁のように螺旋を描きながら舞う。セーラー服はその布面積の五割近くを一度に失った事で被覆としての役割を喪失していた。露わになった下腹部は矢張り少し膨れている。
「君」――と、彼女は呼んだ。
「私はこれから歌って踊って殺します。でもそれには貴方の応援力がなければいけない。だから、君、歌いなさい」
『歌いなさい』。その命令形が僕を勇気付けた。彼女は静かに十八番を口遊み始めた。
彼女の歌声は筆のようだった。彼女の声に叩かれた僕の心に薄い色がちょっぴりずつのせられる。赤くて青くて黄色くて。僕は泣いていた。そうだ。これだ。
思い出した。泣き方を。笑い方を。生きる希望を。
「アイドル皇帝陛下よ我を守り給え」彼女は複数のルナリアンを一刀のもとに斬り伏せ斬り捨てながら言った。大剣が薙ぐ度に突風が僕の肌を切り裂く。彼女は退避壕の入り口に殺到するルナリアンの大集団を睨みながら更に言う。「貴方達も自由に祈りなさい。もしも祈る神が居るのなら」
僕は肺を雑巾のように絞りながら有らん限りの声で歌った。
僕はこの歌の題名さえも忘れていた。でも思い出した。思い出せさえすれば何の問題もない。
この、大の大人が歌うには余りにも幼稚で恥ずかしい歌の題名は――
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