前編
「ふぁぁぁぁぁぁ」
大あくび、からの、
「ふぅ、うううううぅぅっぐっ」
両手を広げ、精一杯の伸び。
そして俺は、目の前の水堀に糸をたらす。
頬をなでる春の風が心地よい。都会の真ん中で、ここだけはゆっくりとした時間が流れている。
俺は都会の喧騒から離れた、この釣堀で過ごす時間がとても好きだ。水面にたらした浮き、その一点を眺めながら、世間から切り離された、自分の時間を堪能する。
「平和だねぇ」
何だかオッサン臭いなぁ。俺はまだ27歳だっていうのに。
俺の名前は【相馬 良太郎】それなりの大学を卒業後、それなりの企業に就職する予定であったが失敗。その後、名も知らないような防犯グッズメーカーに営業マンとして就職できたが、訪問販売も憚られるご時勢では、会社の進める営業スタイルは押し売りじみた手法ばかり。そもそも俺には向いていなかった。ついには営業回りすら嫌になって、俺はその時間を釣堀で潰していた。
「相馬さん、またエサ無し釣りでしょ? 釣堀に来て、釣る気無いとか……」
俺の時間に介入してくる声がした。
俺に声をかけてきたのが【水原 ナナ】ちゃん。2年前、亡くなったおじいさんの後を継いで、20歳で大学を辞めた。そして現在、24歳そこらで釣堀を経営している。ついでに言えば、俺のアパートの大家さんでもある。
大学の頃からそこで暮らしている俺は、彼女が中学生の頃から知っている。そのせいもあって、お互いが気楽に喋れるくらいの関係性を築いていた。
小柄で、少し高く可愛い声の彼女。整った顔立ちを隠すような大きな眼鏡、無造作に束ねた髪もそれを演出している。化粧っ気でもあればいいのだが、陰キャっぽいというか、俺以外には大人しい感じだし、何だかもったいない感じの子だった。
「ねぇ、ちゃんとエサ買ってくださいよぉ。こっちも商売なんですから」
「いや、釣れたら困るのよ。俺、魚触れないんだから」
「だったら釣りなんてしないで、さっさと契約の一つでも取ってきたら?」
「え~! いつも自販機で売り上げ貢献してるじゃん」
「うちは釣堀なんですよ。平日は相馬さん以外、客居ないけどね」
彼女とは、毎度こんな感じの会話を交わしている。
飲み会の類にも呼ばれないタイプの俺にとって、彼女との会話は意外と楽しかった。
この釣堀はアパートの住人限定で入場料無料なのだ。エサ代は500円だが、エサをつけなければ無料で時間つぶしする事ができる。俺はそこに目をつけた。
当然、自販機を頻繁に利用して、最低限の売り上げ貢献はしているし、家賃もきちんと払い込んでいるから、彼女も文句こそ言うけど、追い出す事はしない。
「はぁ。相馬さんじゃなかったら、追い出してますからね」
彼女がため息混じりに呟いた。
「ナナちゃん、いつも俺に居場所を与えてくれてありがとうね!」
冗談めかしに言い返すと、
「なにそれ! もう! ゴミでも釣ってやがれぇ!」
『パシッ』「うぷっ!」
俺は、投げられたタオルを顔面で受け止めた。どうやら、思った以上に怒らせてしまったらしい。
事務所に引っ込んでいく彼女の背中を眺めながら、あとで缶コーヒーでもおごって、お怒りをお納め願わなければと思った。
「クンクン……お、柔軟剤変えたかな?」
賑やかしが去った後で、静寂が訪れた。
さて、いつ会社に戻ろうか……頭の中で少し現実がちらついたが、そんな事はさっさとかき消して、俺はまた釣り針を水面に垂らす。
『チチチッ……チチッ』
平穏を音にしたような、小さな鳥のさえずり。何て言う鳥だろうか?
「平和だねぇ」
俺の口から突いて出た。もはや口癖だな、こりゃあ。
そう思ってニヤついた瞬間だった。
『バサバサッ!』
木々の中に隠れていた鳥も、一斉に飛び立った。そのはばたきが、静寂を押し飛ばしていく。
それと同時に『ググッ!』
浮きが大きく沈み、当たりを告げた。そして、竿は大きく弧を描く。
「うわっ、かかった、かかった!」
ここは釣る事自体を楽しむ釣堀である。その狭い堀の中には、たくさんの元気な鯉が、尾びれをひらつかせている。エサ無しだろうと、以前も釣れてしまうことがあった。
「ナナちゃ~ん!! 釣れちゃったよ! こっち来て!!」
大声でナナちゃんを呼んだ。俺は魚に触れない。男としては情けないが、ナナちゃん頼りになってしまう。
「え~ 相馬さん、今日も釣れちゃったの? もう!」
ナナちゃんが、スリッパをペタペタ鳴らしながら駆けてきた。どうやら、缶コーヒーを奢るまでもなく、お怒りは収まっていたようで。
「ああ、ちょっと! 何釣ったんですか!」
折れそうな竿を見て、ナナちゃんが叫ぶ。今までに無いくらいの強い引きで、彼女に竿を託したくても、手放すと水中に持っていかれそうで出来なかった。
「ちょっと! どんだけ大きな鯉が居るんだよ、ここ!!」
「これは、釣堀の主かもしれませんよ!」
「マジ!? そんな大物が居たのか!」
「いえ、私も初耳です!」
「えぇぇぇぇ!!」
「ちょっと大きい玉網持ってきます!」
その瞬間だった。
『カッ』
俺の瞳に、光が飛び込んできた。
「うおっ! まぶしっ」
と、怯み、目を閉じる。
「あれ?」
さっきまであった、手応えがない。
怪しんで目を開けると、光も消え、さっきまでの強い引きも無くなっていた。
「ナニコレ……」
「あら、バラしちゃったかな? 引きが無くなった」
「いや、相馬さんっ! 今のナニ? 何の光?」
ナナちゃんが、ハイテンションで騒ぎ立てる。
「何だろうな。不思議ダネ~」
「そんな某人気ゲームのモンスターみたいに、言わないで!」
「ハハッ、わかったか」
「そりゃ一応、世代ですから」
ナナちゃんは、俺のくだらない小ネタも、ちゃんと拾ってくれる位の、オタク知識を持っていた。
「おい、ちょっと騒ぎすぎだってば。ただの反射光じゃないの?」
昼下がりの太陽は真上に近い。きっと水面に反射した光が目に入っただけだろう。俺はそう思ったんだが……
「そうかなぁ? 何だか、変な感じがしたんですけど、私だけ?」
ナナちゃんは、水面を見つめ、考え込んでいる。
俺は超常現象の多くが、錯覚や幻覚の類だと思っているタイプの人間だ。だから大騒ぎする気は無かった。
「別に~。俺は特に、何にも感じなかったけどねぇ」
そう言って、話を強制的に終わらせようとした時だった。
「あ! 相馬さん、竿がまだ、しなってますよ!」
ナナちゃんが、立て置いた竿の異変に気付いた。
「お、ホントだ、気付かなかった」
竿を取り、引くと、確かな重みが伝わってくる。
「こりゃ根掛かりかな? そっと上げてみるか」
竿が折れないように、釣り糸に手をかけ、ゆっくりとその重みを引き上げる。
「そんなに重くないな。寝掛かりじゃないぞ」
「あれ~? 相馬さん、ホントにゴミ釣っちゃったの?」
ナナちゃんが薄ら笑いを浮かべながら、茶化してきた。
「おいおい~! ここの釣堀はゴミも放流してんのかい!」
俺もふざけ口調で言い返す。
いい大人が二人して、何やってんだか。ま、こんな賑やかな時間があってもいいかもな。
そんな事を思いながら、どれどれ……俺は、引き寄せた大物に目をやった。
「うわあああっ!!」
俺は手に持っていた釣り糸を離し、反射的に顔を背ける。
「キャァァァ!!」
ナナちゃんも一緒に、悲鳴を上げた。
すぐ目を反らしてしまったが、釣り針の先に、引っ掛かっていたのは、多分……
死体だった。
ナナちゃんは、怖いもの知らずか、恐れ知らずか、身を乗り出して、ソレを見つめようとしている。
さっきの悲鳴はなんだったんだよ。改めて、ナナちゃんの肝の太さにびっくりした。
そんなことより、
「す、すぐに、警察呼ぶぞ!」
直視できない俺は、ソレから背を向けて、スマホを取り出した。
すると、
「あれ? 何かおかしいですよ!」
ナナちゃんが、何かに気付き、さっき手放した釣り糸を拾い上げ、また引き寄せだした。
何かおかしい? そりゃそうだ。釣堀で死体を釣るなんて。
それにも増して、ナナちゃんが平気で死体を引き寄せだすなんて! 彼女はお母さんのお腹の中に、恐怖心を置いてきたんじゃないか? そう思った。
どちらにせよ、ありえないやろ! 湧き上がる恐怖心を誤魔化そうと、頭の中でツッコミを入れつつ、
「ナナちゃん、大丈夫か?」
俺の精一杯の問いかけ。
大丈夫じゃないのは俺だ。110番通報すら、手こずる始末。
「えっと……これで――」
発信ボタンを押そうとした瞬間、
「ああ! 相馬さん、ストッ~~プ!!」
死体を観察していたナナちゃんから、待ったがかかった。
「な、何? どうしたの?」
俺の狼狽した姿を尻目に、
「相馬さん、死体じゃないよ」
「え?」
そんな、さすがに、見間違うわけ……
「これ、リアルだけど、とにかく自分の目で、しっかりと見てみなよ!」
ナナちゃんに促され、俺は勇気を振り絞って、死体の方に目をやった。
「あぁ!」
確かに、これは死体じゃない。
ソレは、水に浸かっているというのに濡れていない。
正確に表現するならば、撥水加工で水を弾いているような、そんな肌の質感だった。
「ほらね、そもそも、水死体がこんなにキレイなわけ無いじゃん」
「あ、確かにスタイルバツグン! まるで生きてるみたいだ」
「こらっ! ナイズバディの美人さんだからって、鼻の下伸ばさない!」
『トスッ!』
ナナちゃんのツッコミチョップが額にヒット。
「痛っ! いきなりなんだよ~!」
「それにさぁ」
ナナちゃんは、俺の言葉を無視して、手に持った釣り糸を引っ張る。
『グイッ』
その奇妙な死体は、20代女性の力でも、持ち上げることが出来た。
「相馬さんも言ってたけど、これ、全然重くないじゃん」
ナナちゃんに言われ、俺はさっきの手応えを思い出す。
「確かにそうだな。浮力を考えたとしても……」
俺の中にあった恐怖心が、一気に消えていった。
「ちょっと、相馬さん、相馬さ~ん」
突如、ナナちゃんが、ニヤニヤしながら、
「私、わかっちゃった! これは男性がエッチな目的で使う、お人形さんじゃない?」
と、少し頬を赤らめながら言った。
「はぁぁぁ?」
「ほらぁ、ダッチなんとかだっけ? めっちゃリアルだねぇ」
ナナちゃんは勘違いしている。ダッチなんとかは通称、空気嫁と言ってだな、空気で膨らませる……
「あっ!?」
その時、俺は奇妙な死体の、もっと奇妙な事に気が付いてしまった。
「どうしたの? 突然、大きな声出して」
「なぁ、軽い、軽いって言ってたけど……」
「うん、それが――」
「じゃあこれ、一体、何の素材で出来てるんだろう?」
この人形、人間の大きさなのに、物理法則を無視しているとしか、思えない程、異常に軽い。
「こんなに軽いなんて、一般的なシリコン製だったとしたら、ありえないんだよ」
俺には多少、リアルドールについての知識がある。だからこそ、違和感を覚えたのだった。
「そ、相馬さん、こういうのにマジ詳しいじゃん。まさか……」
ナナちゃんの笑顔が、徐々に引きつっていく。
「おいおい! 勘違いするな!! 自分でも忘れちゃうけど、俺って防犯グッズ屋だろ? 留守中の防犯用に、そういう人間そっくりのリアルドールも扱ってるんだよ!」
実際に防犯用のリアルドールは実在する。人間に見えるだけでも、一定の防犯効果は期待できる。車の助手席に乗せる用で、上半身だけのモデルもあるくらいだ。
「だから、ナナちゃんが妄想するような事は無いの! 勘違いも大概にしとけよ~」
「あっ、そういう事か。ごめ~ん。相馬さんならあり得るかな~、なんて」
「いや、あり得ないから! そもそも、あんな高いもん買えないって!」
勝手な妄想はやめてもらいたい。
とまぁ、とりあえず気を取り直したところで、
「そう言われたら、確かにおかしいね」
「だろ? とりあえず、水から上げてみようか」
俺達は二人がかりで、慎重に奇妙な死体を釣り上げた。
「うへぇ~。 疲れたなぁ」
重さは大した事無かったが、大きさもあって、二人掛りでも大変だった。
「糖分が欲しいわぁ」
そう言いながら、うっすらと滲んだ汗を、さっきのタオルで拭っていると、ナナちゃんがそそくさと事務所から戻ってきた。
「あ! アイス食ってる!」
「ほひほん、ほうははんほふんほあひはふほ」
ナナちゃんは、小さなアイスを一本差し出してきた。
「おっ、サンキュー!」
疲れた身体に、アイスの甘さが、
「染みるわぁ~」
一息ついた後、二人して、食べ終わったアイスの棒を噛み々々しながら、引き上げた奇妙な死体を眺めていた。
「なんというか、やっぱ変ですね」
「ああ、何もかもな……」
そもそも、釣堀でこんなモノが釣れる事も、それが異常な軽さだという事も、とても奇妙な事なのだが……
「ピタッと、止まってますよね?」
「ああ、ありえんわ……」
この奇妙な死体は持ち上げたり、動かす事はできるのだが、どう動かしても、姿勢どころか、髪の毛の一本にいたるまでピタリと固まって動かない。ビデオで一時停止された映像のように、完全に止まっている。体温も感じず、感触も硬く、ツルツルで、本当に物体だった。
「本当に、奇妙奇天烈のオンパレードだな、こりゃ」
俺は思わず呟いた。この奇妙な死体の外見は、群青色の長髪に、日本人と変わらない肌色。なのに日本人離れしたナイスバディ。人種すらよくわからんが、容姿はかなり整っているような。血色一つをとっても、生きた人間と遜色無く思えた。
「奇妙な死体ねぇ……これって結局、何なんだろうなぁ……」
すると、俺がこぼした言葉に、ナナちゃんが突然、
「相馬さん! 奇妙奇妙と、何だか頭が頭痛になりますよ!」
「なんじゃそれ。どういうこと?」
「要するに、何だか、可愛く無いって話です」
「いや、頭が頭痛に突っ込んだんだよ! ……その、可愛く無いって、どういう意味?」
「呼び名ですよ! 女の子なのに。折角なので、私達で名づけましょうよ?」
名前? 確かに、考えもしなかったが、ずっと奇妙な死体と呼ぶのも、気色悪い感じだな。
「良~し、それ採用! ってわけで、ナナちゃんに任せるよ」
「え~。 私で、いいんですか~?」
絶対、自分で付ける気マンマンだったくせに。だが俺はゲームキャラの名前も【ああああ】とかで済ましてしまうタイプなので、ここはナナちゃんが適任なのだ。
「じゃあ今、思いついた名前を発表しますね」
ナナちゃんはまた薄ら笑いを浮かべ、しばらくタメた後、
「命名! ダッチちゃ――」
「ブッブー! それはアウトォ~~~~!!」
俺はコンマ数秒で後悔した。
「やだぁなぁ~。 冗談ですよぉ」
この流れで、それは一番名付けてはいけない名前だ。
「冗談はいいから、マジメに頼むよ」
ナナちゃんは少し考え込むと、今度は普通に、
「じゃあ、カープちゃんってことで。どうですか?」
「カープ? 何だかプロ野球チームの名前みたいだな」
「そうです! そこと同じ意味。英語で鯉ってことね」
「あ~ね。釣堀で釣れたからか。うん、じゃあそれでいこう」
ちょっと語源は微妙だけど、語感、響きはいいのではないだろうか。
そんなこんなで、奇妙な死体は【カープちゃん】と名付けられた。
俺はそのカープちゃんを眺めながら、ふと問いかけてみた。
「んでもって、このカープちゃんをどうすんの? オーナーさん?」
「へぇ? オーナー……あ、私の事か」
「こんなのが水堀の中に、自然発生するわけないじゃん。釣堀のオーナーとしては結局、警察に届けたほうがいいんじゃないの?」
「そっか。誰かの落し物かもしれませんしねぇ」
「落し物? 俺はどっかの研究機関が不法投棄した、に1ペソ賭けるわ。どっちにしろ、俺達の手に負えることじゃないだろ?」
「確かに。ああ~! 折角、名付けたのに、もうお別れなんですね」
「ハハハ」
我ながら乾いた笑い。ナナちゃんは、釣り上げた俺以上に、カープちゃんの事がお気に入りみたいだが、俺がオーナーの立場だったら、不法投棄に怒り心頭だけどな。
『ピロピロピロ――』
突如、事務所の電話が鳴り響いた。
「あ、ちょっと失礼します」
ナナちゃんが、またスリッパをペタペタ鳴らしながら、事務所に戻っていった。
ナナちゃんの配慮で、バスタオルがかけられたカープちゃんを横目に、俺は少し散らかってしまった周囲を片付け始めた。
「俺の平穏な時間が、お前のせいで台無しだぞ、なぁ」
語りかけるように呟いたが、当然カープちゃんからの反応は無かった。
「相馬さ~ん! た、たいへんですっ!!」
彼女が慌てて戻ってきた。
「どうしたの、ナナちゃん?」
「その、死体……カープちゃんを引き取りに来るって、電話が……」
「えっ? もう通報したの?」
「いえ……えっと、国土交通省の、関連団体の……何か長い名前のところからで」
「なんでまた、そんなところから?」
「私にもさっぱり。まだ数十分しか経ってないのに」
「だよねぇ……」
これはまた、奇妙な事が続く。そしてそれは、何かどこかで繋がっているような……
「……誰かに監視でもされてんのかな?」
俺は思わず呟いた。すると、
「あら、ご明察」
女の声。もちろんナナちゃんではない。まるで頭の中に直接語りかけてきたような、ハッキリと聞こえた。
その声がした刹那、背後に突然、嫌な気配が現れた。
そして、その気配を放つ者が、ガバっと後ろから、俺の身体を抱きかかえてきた。
『ゴンッ』
俺は自らの後頭部を、相手の顎辺りにぶつけ、振り向きざま、片腕を取った。そして体を預け、流れるように逆技を極め、地面に押し潰した。
「ぐわぁ!」
瞬く間に制圧完了。幼少期から、身体に染み付いた動作だった。
奇妙な出来事より、よっぽど、こういう荒事のほうが慣れている。
それは俺が、実家で代々継承する【剛柔術 円氣道】という武術を修めているからだ。
「ななななな、なんですかぁ!」
状況が飲み込めなかったナナちゃんが、突如騒ぎ出す。
「離せっ!」
自由を失った男は、精一杯の抵抗を試みている。
「少し黙れ」
「痛たたぁ!!」
極めた部位に、力を入れて大人しくさせた。じたばたしても、ここまで完璧に極まったら、簡単に抜け出す事はできない。
しかし、コイツは直前まで気配も感じさせずに、どこから現れたんだ?
とりあえず、これは緊急事態。さっさとお巡りさんを呼ばなければ。
「ナナちゃん、これこそ警察案件だ!」
突然目の前で繰り広げられた荒事に、いまだ興奮状態のナナちゃん。
「110番だよ! 早く!!」
と、喝を入れるように、大きな声で指示を飛ばす。
「えっ! あ……っ、はい!」
その声で我に帰ったナナちゃんは、ポケットを弄った後、
「すみません! 携帯、事務所に置きっ放しでした!」
今度はスリッパを脱ぎ捨てて、裸足で駆け出していった。
うちの会社には、防犯グッズ部門と別に警備部門が存在している。
一般的に警備員は、武道や護身術の鍛錬を欠かさないものなのだが、以前から指導者がおらず、他から呼ぶには予算不足という事で、消滅の危機だったらしい。
そこに採用試験を受けに来たのが当時、大学を出て、就職浪人待ったなしの俺。履歴書をカサ増しする為に書いた、古武道の師範という経歴。これがお偉いさんの目に留まり、指導員兼任を条件に、特別枠で採用してもらったのだ。
苦労はしたけど、俺の指導を受けた人達は、今では施設警備などで活躍している。
実は、営業成績が万年最下位でも、クビにならない理由がそれだ。ちゃんと朝から先生してきてるんだよな。ナナちゃんとは、長い付き合いだけど、詳しく話してなかったから、びっくりさせちまったか。
「うぅぅ……おい、このままで済むと思うなよ」
腕を絞り上げていた男が、脂汗をかきながら、呻く様に言った。
「あ? どうゆうことだよ?」
「ふふ……その女が、どうなっても……」
「ナナちゃん!?」
男の言葉を受け、視線を上げると、事務所の扉を開けようとしている、ナナちゃんの背後に、別の男が迫っていた。彼女は慌てていて、それに気付いていない。
『ゴリッ』
「痛ぅぐわぁぁぁぁ!!」
そのまま男の肩関節を外し、立ち上がって、助けに向かおうとするが、とても間に合いそうに無い。
「ナナちゃん!! 後ろっ!! 危ないっ!!!!」
駆け寄りながら、大声で危険を伝えるが、男は彼女のすぐ後ろまで迫った。
「クソッ!!」
と、叫んだ、その時だった。
『バンッ!』
突然、誰も居ないはずの事務所の扉が勢いよく開く。
そこから、全身黒づくめな初老の男が飛び出してきた。
「キャアァァァァ!」
突然の登場に、ナナちゃんが悲鳴を上げ、その場に固まる。
迫っていたスーツ姿の男も、その音に一瞬立ち止まった。すると、
「失礼、お嬢さん」
その全身黒づくめな初老の男は、滑らかな体裁きでナナちゃんと、スーツ男の間に割って入り、
『パンッ』
という乾いた音と共に、拳を繰り出して、男を後ろに吹っ飛ばした。
「女性に乱暴は、良くない」
速くて重い玄人の一撃。
全くムダの無い身のこなし。
このオッサン、只者じゃない。
まるでウチの爺ちゃんのような、練りに練った武の片鱗を見せつけられた気分だ。
吹っ飛ばされた男は、完全に伸びてしまったようだ。ピクリともしない。
「あの連中め……後手に回ってしまったな」
全身黒づくめな初老の男は、そう呟いて、倒れている男を一瞥。
「どうも。国土交通省の方から参りました」
と、満面の笑みを向け、へたり込んでしまったナナちゃんに、手を差し伸べた。