第8話:自分の描く偶像
松本譲は、パレットに、複数の色を少しづつ用意した。
水面の青系、プールサイドのグレー系と緑系、そして、薄い橙色系。
濃淡いくつも用意し、細い絵筆をなども持ち替えながら、細部を描き込んでいった。
プールの水面は、より輝きを増していった。
プールサイドの影は、より立体的に、ザラッとした質感が増していった。
プールサイドに立つ人物像は、より艶っぽさを増し、水の雫が生々しくなっていった。
松本は、キャンバスの向きを変えた。
窓からの光にあてて、質感を確認した。
どの様に光が反射するか、どのくらい凹凸が影響するかを、じっと見つめた。
キャンバスの向きを戻し、薄い橙色の人の形に、『髪』と『目』を描き込んだ。
日陰になった艶っぽいショートヘアーに、目尻がシャープな目を描き込んだ。
髪は手に掻き分けられるように、目は影の中でも存在感を感じるように、描き込まれた。
松本は、絵筆を置き、じっとキャンバスを見つめた。
キャンバスは右から真ん中へへこんでいき、人型の所は手前にせり出し、そして真ん中から右へと膨らんでいく様な、厚みを確認した。
松本は、油絵の具が乾いている部分に、そっと、手を触れた。
<~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~>
松本の小さい頃の記憶だった。
幼稚園の頃、母に連れられて、二人で電車に乗り、遠くの街に旅行に出た。
対面式の座席に座ると、窓が高く、外が見られなかったので、母に横にいてもらいながら、窓から流れていく風景を眺めていた。
「母さん、外、流れてく」
幼い松本は、どんどん流れていく風景に興奮し、何か見つけては、母親に振り返って、小声で話しかけた。
母親は、そうだねそうだね、と微笑みながら、幼い松本を見ていた。
目的地の駅に着くと、幼い松本はびっくりした。
駅の改札口を出ると、至る所に、像や彫刻、そしてガラスのショーケースに入った伝統工芸品が並び、きらびやかだった。
松本の住んでいる街ではありえない光景に、幼い松本は激しく興奮した。
駅を出ても、街中、至る所に像が立っていた。
母親と歩く街中、伝統工芸品の店が点在し、ガラスの向こう側には、きらびやかな友禅や色鮮やかな焼き物が並び、幼い松本は何度も立ち止まり、張り付くように見ていた。
何度も何度も立ち止まる松本をみて、母親は軽く頭をなでて、歩くよう促していた。
しばらく歩くと、大きな庭園の入り口みたいなものが見えてきた。
その交差点を右に渡ると、長い長い階段が姿を表した。
幼い松本は、1段1段、母親の手にしがみつきながら登っていった。
その階段の先には、濃い赤橙色のタイルが壁一面に張られた建物が、すっと、姿を表した。
幼い松本は、長い階段を登り終えると、母親の手を離し、入り口へ向けて駆け出していった。
階段を登り、庭園の様な通路を走り抜け、大きな駐車場の入り口を左に曲がると、5段程度の階段の上に、その建物の入り口が見えた。
幼い松本がその階段を登り、入り口の扉の前で立ち止まった。
少しすると、母親が追いついた。
幼い松本は、母親の顔を確認すると、手を握り、その建物ー美術館に入っていった。
中に入り、右に曲がると、母親は、その美術館内の特別展示会入り口に行き、かばんからチケットを取り出し、職員に渡した。
職員は、半券をちぎり、母親に返した。
「譲、この階段を上に上がるよ。」
母親は職員の受付をした窓口の反対側にある階段を指差し、幼い松本を連れて上がっていった。
一度踊り場のある吹き抜けの階段を上がると、沢山の大人が出入りしていた。
幼い松本からは、人の体しか見えず、母親の手に必死にしがみついて歩いた。
少し、人混みがはけると、開けっ放しになっている重い扉が見えた。
その扉の奥は、薄く黄色に輝いて見えた。
松本は、今考えてみたら理解できた。
母親が連れてきてくれたのは、その都市で行われていた、その美術館所蔵の伝統工芸品の展覧会だった。
豪華に細工された伝統工芸品や、絵画など、沢山のものが、ガラスのケースの中で展示されていた。
全ての展示が、幼い松本の顔の位置でも見えるように展示されており、掛け軸や絵画は見上げるように、そして工芸品などは、幼い松本の目の前に置いてあるように見えた。
どれも、幼い松本の目からは、とてつもなく大きく見えた。
蒔絵細工の螺鈿のキラキラした反射面が、幼い松本には、この世のものには見えなかった。
母親とひとしきり回ると、再び、上がってきた階段を降りた。
下に降りると、幼い松本はふと立ち止まり、左側を見た。
そこは、その美術館の常設展示のフロアだった。
幼い松本は、常設展示のフロアを指差し、あれも見たいと、母親に言った。
母親は、一度、ちらっと見ると、わかった行こう、と言い、幼い松本と一緒に歩き出した。
開かれっぱなしの重い扉の入り口の奥に、白く、巨大な、立位像が、フロアの真ん中に設置されていた。
幼い松本は、その像に、釘付けになった。
<~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~>
松本は、一通り描き上げ、スマホで撮影をした。
窓から入ってくる光で少し写真が飛んでいる気がした。
窓からの光の影響を受けないよう、キャンバスの向きを内向きに変え、再度、撮影をした。
「松本くん、いる?」
丁度、市川が美術部室のドアを開けた。
松本は、スマホを下げ、ポケットに入れた。
「なに?」
松本は、ゆっくりと振り返った。
「あ、描いていた絵、完成したんだ。」
市川は、ゆっくりと、キャンバスに近づいていった。
松本は、少し顔をそらしながら、横にどいた。
市川はキャンバスの前に立つと、驚いた様な表情になった。
「これ・・・プール・・・人?」
市川は、キャンバスに指差し、松本を見た。
松本は、視線をそらしつつ、かすかに頷いた。
「プールサイドで・・・裸?」
市川は、ハニカミながら、松本を向いた。
「う・・・うん。」
松本は、市川に目線を合わせられなかった。
市川は、改めて、キャンバスをじっと見た。
「まるで、本当に、そこにあるみたい・・・」
市川は、一瞬指をつけそうになったが、すぐに引っ込めた。
「ごめん、大切な絵なのに、指紋付いちゃうね。」
「まあ、ほとんど、表面乾いているから、大丈夫だけど。」
「油絵って、こんなに綺麗になるんだ。初めて見た。」
市川は、改めて油絵を見つめた。
「でも・・・」
市川は、キャンバスから視線をそらした。
「でも、この女性・・・、私っぽいね。」
市川は、キャンバスをもう一度見た。
松本は、顔をそらした。
「ねえ、これ、裸だよね。」
市川は、松本の方を見た。松本は市川から顔をそらしたままだった。
「これ、どうやって描いたの?」
松本は、鼻の頭を右手人差し指で掻いた。
「学校来るときさ、見えたんだよ。」
「な、なにを!!」
市川は真っ赤な顔をして、声を荒げた。
「前さ、学校に来た時、階段を上がってる時にさ・・・」
松本は、鼻の頭を掻いていた右手で、後頭部を掻いた。
「窓から、プールサイドが見えて、その時、練習してる市川さん見えてさ。」
松本は、市川から視線をそらし続けた。
「その、プールサイドに立ってる姿がさ、綺麗だな、って思ってさ。」
「・・・そうなんだ。」
市川は、松本が絵を描く時に使っていた椅子に座って、松本を見上げた。
「私の事・・・、こう見えたんだ?」
市川は、松本を見たまま照れくさそうに笑った。
「こう・・・というか、まあ、水着姿はわかってるから、そこから・・・まぁねえ。」
松本は、スマホで撮ってる事を隠した。恥ずかしくて、市川の方を向けられなかった。
「そうなんだ。でも、すごく綺麗。こんなにもキラキラして見えてたんだ。すごくて・・・なんだか、恥ずかしいな。」
市川は、椅子から立ち上がって、美術部室の入り口に向けて歩いた。
「市川くんが、窓から見えたから、上がってきたんだけど、やっぱ、来ちゃまずかったかな。」
市川は、振り返らずにそうつぶやくと、ドアを開けて、外に出ていった。
松本は、見られたくない人に見られた、と感じた。
「迂闊だった。」
松本は、市川がノック無しでいきなり入ってくることを、想定してなかった。
あの時、市川がプールサイドに立つ姿が、とても綺麗に輝いて見えていた。
その光景をそのまま絵にしたい、そう思い無意識で写真も撮っていた。
松本は、なんだか、気恥ずかしくなった。
松本は、パレットに大量の白色の油絵の具を置いた。
一番広い絵筆を手に取り、白の油絵の具を多く付けた。
そして、キャンバスに大きく『✕』を描いた。