第7話:私の目指すもの
松本譲は、キャンバスの真ん中に作った、白い空白に薄い橙色を塗っていった。
少しづつ、厚みを考えながら、先の細い絵筆で、薄い橙色を重ねていった。
先に塗った白の油絵の具の部分に、形を整えるように薄い橙色を塗っていった。
白の部分が、薄い橙色で塗りつぶされた。
紡錘形の様な、薄い橙色の部分が出来上がった。
松本は、スマホを取り出し、写真を表示した。
写真をじっと見ながら、少しづつ、薄い橙色を広げていった。
細い絵筆で、柔らかい曲線をいくつも、描いていった。
写真を見ながら、上から曲線になるように、線を重ねていった。
松本は、時より手を止めて、写真を見つめた。
絵筆を置いて、人差し指で空中に、線をなぞるような仕草をした。
キャンバスの前に体を構え、薄い橙色に沿うように、空中で指を動かした。
水面の青と、コンクリートの灰色を深く潰さぬよう、慎重に、脳内でシミュレーションを繰り返した。
また松本は細い絵筆をとり、薄い橙色を描き込んでいった。
幾重もの線が次第に柔らかい球体の固まりのような質感を作り出していった。
その球体と繋ぐ曲線が結びついた。
人の体の様な、しなりを見せていた。
松本は、一度キャンバスから離れ、全体を確認した。
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松本は、今日はいつもよりも早めに家をでて、学校に向かった。
書きかけの油絵に、細かく描き込みをしたかったためだ。
学校の校門が近くなった時、後ろから声をかけられた。
松本が振り返ると、市川が駆け寄ってきた。
市川が、松本に謝った件以来、二人は部活後に一緒に帰ることが多くなった。
松本は、しばらくは、市川の気まぐれだろう、と思っていたが、連日続くと、次第に合わせてくれてるのかなと思い、気にしなくなっていた。
「追いついた!!」
市川はピタリと、松本の横についた。
「別に、走って来なくてもいいじゃん」
「走らないと、すぐ校舎に入っちゃうでしょ。」
市川は、松本に合わせて歩き出した。
「今日は早いね。なんで?」
「水泳部のプールを開くの、当番制なんだ。」
「で、市川さん、今日、当番だと。」
市川は、松本の方を向いて、嬉しそうに何回も頷いた。
「松本くんは、なんで、絵を描くの?」
門を通り、生徒玄関で、松本は市川に尋ねられた。
「なんでって・・・」
松本は、内履きの靴を手にとったまま、少しとまった。
「自分の金使わずに、油絵が描けるか?」
市川は笑い出した。
「なんか、すごいね。」
市川は笑いが止まらない。
「それは、どっちで?金を使わない方?油絵を描く方?」
「ううん、両方~」
市川は笑いが止まらなかった。
「市川さんは、なんで水泳してるの?」
市川は、そう言われ、必死に笑いを止めた。
「私ね、水泳だけだったんだ。」
松本は、小首をかしげた。
「ずっと水泳?」
「うん、気がついたら、ずっと水泳。」
市川は、内履きの靴を履き、玄関の廊下に上がった。
「親が、水泳の選手だったんだ。だから、子供の私も水泳。」
松本はへぇと言いながら、内履きの靴に履き替え、玄関の廊下に上がった。
「英才教育じゃん。」
「でも、出来が良くないの。」
「なんで?ずっとエースだろ?」
市川は、小首をかしげた。
「学校ではそうだけどね、でもずっと、タイムが縮まらなくて。」
松本と市川は職員室へ向けて歩き出した。
「そのために、練習してるんだからねえ。」
「ただね、一位にならなければいけないの」
松本は、市川の横顔を見上げた。
「一位、ねぇ。」
市川は立ち止まった。
松本も足を止めた。
「私は、市の大会で優勝して、当たり前なんだって。そう、親から言われてるの。」
松本の目に市川の表情が、沈んで見えた。
「なんで、去年、全国大会に出れなかったんだ?って怒られた。県大会にもでれなかったのに。」
松本は笑ったが、市川には暗く笑ってるように見えた。
「でも、今年は、大丈夫でしょ。毎日、がんばってるんだし。」
松本は、頷いて、市川の方を向いた。
「で、来月の末が、市の大会なんだ。市川くん、応援来てね。」
市川は、口角を目一杯上げて笑顔になった。
「行けたら行く。でいい?」
「それは、大阪の人の”行けたら、行くで”?」
「予定がないから、大丈夫。応援行きます。」
松本は、ため息をつきながら、頷いた。
「松本くん、ありがとう!じゃあ、頑張るね!!」
市川は、そう言うと、片手を上げ、職員室へ走っていった。
「アレだけ元気なら、大丈夫でしょ。」
松本は、ゆっくりと歩き出した。
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松本は、薄い橙色の全体像を描き終わったことを確認した。
遠目で見ると、腕を頭につけて、立ったまま、横を向いているように見えた。
細い絵筆を手にとって、黒を混ぜた薄い橙色で、輪郭を作っていった。
顔のシャープな輪郭。
肩から腕にかけての、やや筋肉質な輪郭。
肘から手にかけての、線が細くなる輪郭。
松本は、写真と見比べながら、輪郭を描き込んでいった。
厚いけど、膨らみのある胸から腰への輪郭。
筋肉質だが、膨らみのある腰から太ももの輪郭。
太ももからつま先へと、逆三角形のように、すっと降りていく輪郭。
松本は、複雑に、柔らかい輪郭を描き出していった。
一度、絵筆を置いた。
松本は、基本的に人を描き慣れていない。
静物デッサンは多くしていたのだが、人のデッサンはほとんど機会がなかった。
でも、今回は、なんとしてでも描きたいという気持ちが上回っていた。
この輪郭を描くまで、何度、何十度、何百度も、白地の紙に、デッサンを繰り返して行っていた。
自分の手の中に、その質感が落ち込むまで何度も、4Bの鉛筆を走らせて練習をしていた。
それを、松本の頭の中で再構成して、キャンバスに油絵として、描き出していった。
一線、もしくは、一点と、バランスを確認しながら、松本は、輪郭を描いていった。
次第に輪郭は、艶を帯び始めてきた。
人間の肌のような、艶を帯びてきた。
生々しい、艶を帯びてきた。
松本は、輪郭と水面から反射する光で出来る影を、薄い橙色に描き込んでいった。
その影は、憂いを含み、物憂げに見えた。
疲れと悩みを含んだ影が、薄い橙色を覆った。
顔の部分の目と思しきところには、まっすぐに左を向いていた。
輪郭だけでもわかるくらい、目の輪郭は、力強さを持っていた。
松本は、体中の輪郭を書き込むと、すこしキャンバスから離れて見た。
少し、バランスがおかしい所を見つけて、描き込むをした。
そして、また、キャンバスから離れて、全体を見た。
全体を見て、修正を描き込むという動作を、何回も繰り返した。
次第に、輪郭と影が、薄い橙色の部分に、さらなる質感をくわえていった。
「俺が、絵を、描きたい、って、理由か。」
松本は、椅子から降りて、床に座り込み、キャンバスを見上げた。
窓からの光が穏やかになり、油絵の具の色が、白く光で飛ぶことなく、松本の目に入った。
「そうやぁ、プールの縁って、コンクリの色でよかったか?」
松本は、窓際に行って、プールを見た。
プールでは、練習が終わっているようで、誰もいなかった。
スマホを構え、プールサイトを撮ると、また床に座り込んだ。
「あ、色が違うわ。ゴムっぽい緑色みたいなのだわ。」
松本は、パレットにプールサイドと同じ緑色を作り、その濃淡の色を含めて複数作った。
広めの絵筆を手に取ると、プールサイドのコンクリートのグレーに、塗り重ねていった。
プールサイドで見えた緑色のゴムっぽいものは、滑り止めの塗料だった。
ただ、全面、その緑で塗りつぶされているわけではなく、歩く所とプールの縁だけ、その色に塗られていた。
松本は、それに合わせて、プールサイドとプールの縁を塗っていった。
受けているだろう光の角度を考えて、緑に濃淡を描き込んでいった。
さっき撮った写真と見比べて、プールサイドの修正を終えた。
薄い橙色の足の部分が、ひたっと、プールサイドに張り付いているように見えた。
松本は、濃いめの薄い橙色を細い筆にとり、足の輪郭を書き足した。
プールサイドに浮かび上がった、足首が、今にも前へ踏み出しそうなくらい、立体的に描きこんだ。