第5話:激しく波立つ水面
松本譲は、キャンバスの空に、絵筆を入れた。
川に向けて、うねるように筆を降ろしていった。
幾度も幾度も、キャンバスの上半分から、波打つように降ろしていった。
隅から真ん中へ、端から中心へ、松本はいくつもの線を重ねた。
空の奥から、天高く、空気が舞い上がるようにも見え、周辺から一気に川に大量の水色が流れ込んでいるようにも見えた。
最初は薄く、徐々に、凹凸がはっきりするように、油絵の具を重ねて行った。
窓から入る光でキャンバスが波打っているようだった。
松本は空の水色に当たる光の線を見ながら、さらに、絵筆を滑らせていった。
油絵の具を重ねながら、途中で手を止めて離れて見ながら、そしてまた近づき、空を塗っていった。
空は厚みを変え、より一層、立体的に、傾斜して見えるようになってきた。
キャンバスの上半分、空の両端から中央にかけて凹型に油絵の具が重ねられていった。
そして、その凹みは全て、川との接点が一番低くなるように重ねられていった。
線だけでなく、ついには立体的にも、空が全て川に、一点に流れ込んでいるようになっていった。
松本は、水色の絵の具を塗る手を止めた。
立ち上がって、上下左右から、キャンバスを凝視した。
1つの角度として、同じ様な絵に見えないようにしたかった。
一通り確認し終えると、絵筆を持ち替え、白の油絵の具を塗り始めた。
複雑に浮き立った水色の凹凸に、白い線を細く塗りだした。
空の水色に、陰陽を塗り込んでいった。
同時にもう2本絵筆を並べて、草むらと川にも白を塗り込んでいった。
いくつもの白の線がより集まり、キャンバスに明確なうねりを作り出した。
光が、見ている人からキャンバスの中心へ流れ込んでいるような、白線だった。
松本は、キャンバスの中心に引き込まれるような錯覚に、陥った。
絵筆の白が、どんどん書き加えられていった。
中心から、キャンバスの隅に広がれば広がるほど、その錯覚の勢いが増して行った。
松本は、少し、キャンバスから目を離した。
だが、白の線の吸い込まれるような錯覚が、松本の視界を覆った。
松本は、そのまま、さらに白の線の書き込みを、キャンバスの隅へと広げていった。
キャンバスの中心から広がった白い線が、ついに、隅々に到着した。
空と川と草むらの油絵。
白い線が、絵全体をうねるようになぞり、中心の川と空の接点に吸い込まれるように集約されている。
松本は、窓のサッシに置いてあったスマホを手に取り、写真に撮った。
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美術部室に入った時、窓からまばゆい光が差し込んでいた。
日に焼けないように壁側に伏せてあった、キャンバスを持ち上げ、イーゼルに置いた。
その時、松本の目に、プールのまばゆい青が飛び込んできた。
無意識に、スマホを取り出して、窓のサッシに置いた。
プールを中心に外が写るように立て掛けた。
そして、動画撮影ボタンを押した。
今日は、教室で市川達水泳部員が集まって、練習がないとか言う話をしていたので、安心してプールの色の変化を撮ろうと思っていた。
松本は、キャンバスに意識を吸い込まれるような感覚で、絵を描いていた。
どんどん美術部室に入ってくる陽の光の強さが変わっていっても、全く、気がつなかった。
自分のイメージが揮発しないうちに、どんどん、キャンバスに書き込んでいっていた。
そして、手を止めた。
少し離れて、キャンバス全体を確認し、スマホで写真を撮った。
撮った写真をスマホで確認している時、外から声が聞こえた気がした。
窓に寄ってみると、誰もいないはずのプールサイドで、何人もの生徒や教師が、言い合いをしているように見えた。
そのまま無視しようと思ったが、ふと、市川の姿が目に入った。
「何言ってるかだけでも、聞いてみようかな。」
松本は、スマホと貴重品をポケットに入れて、美術部室を出ていった。
松本が下に降りてみると、水泳部の部員たちが、数人の教師を取り囲んで、なにか言い合いをしているように見えた。
話が聞こえるギリギリの所で、止まって見ることにした。
「覗きの次は、盗みですか?いい加減にしてくださいよ!」
女子生徒が、教師に詰め寄っていた。
「大会控えてるの知ってるでしょ?なんで安心して、練習させてくれないんですか?」
「だから、さっきも言ったように、学校には、下校まで鍵がかかってるから、誰も入れないのよ。みんなで落してないか探しましょ?」
「そんなわけないじゃないですか?先生は、調べてくれないんですか?」
教師は、同じやり取りの繰り返しで困り果てていた。
「先生は、私達の内、誰かが盗んだって言うんですか?」
「そんなこと、一言も言ってないじゃない。」
「じゃあ、誰がしたっていうんですか?」
松本は、話が終わらないな、と感じ、近寄った。
「なにか、あったんですか?」
教師と生徒たちは一斉に、松本の方に向いた。
「覗きしてるあんたには関係ないわよ。」
「誰が覗きをしてるって証拠があるんだ。」
松本は、覗き魔扱いをした水泳部員に言い返した。
「今日、水泳部の練習、中止じゃなかったんですか。」
「どこで、そんなこと、聞いたの?」
「今日、教室で、水泳部員が集まってたの、見てたんで、話が聞こえたんです。」
水泳部員達は、互いに顔を見合わせた。
「アレは、練習を遅らせよう、って話をしてたの。」
「僕が、美術部室に来た時は、まだ誰もいなかったのはそういうわけだったんですね。」
松本は、スマホを取り出した。
「今日、誰もいないと思って、窓からプールを撮ってたんです。動画で。色の変化の資料が欲しくて。」
水泳部員たちはどよめいた。
「やっぱり、あんた、覗きしてるじゃん!」
「今日だけ、しかも、誰もいない時から撮ってるのに、覗きもなにもないだろ。よく考えれば?」
松本は、松本を罵った女子生徒の方を向いて、自分の頭を人差し指でつついた。
「口悪いわね!」
「お互い様だろ?」
「えっと、松本くん、だったけ、その動画、調べさせてくれない?」
女子生徒と松本の間を入るように、教師が話をしてきた。
「わかりました。データのアップ先を教えて下さい。」
「協力、ありがとう。」
松本と、教師は、スマホを触りながら、動画のアップ先を決めて、その場でアップロードをした。
「松本くん、ありがとう。でも、今回の動画は、流石に怪しまれるから、以後、気をつけてね。」
「先生、それ、あいつの覗きの証拠ですよ!」
「まあ、落ち着いて。これがあれば、だれが、あなた達が練習中に更衣室に入ったか、わかるでしょ。」
興奮収まらない女子生徒を、教師はなだめていた。
「先生、以後気をつけます。」
教師は、松本からの返事に、手を降って答え、水泳部の女子生徒たちと、別の所に移動し始めた。
「松本くん。」
市川が、松本に、何か言いかけた時、松本は振り返り、美術部室に向かって、歩いていった。
市川は、松本の遠ざかっていく背中を、目で追い続けた。
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松本は、美術部室に戻ってくると、さっき絵が完成したキャンバスの前に立ち尽くした。
出来上がったその時は、非常に満足してたが、なにが物足りなさを感じた。
さっきまでのダイナミックさを感じなくなっていた。
さっきまで感じていた白の縁取りが、途端に色あせて見え、ただ激しいうねりが覆っているだけに見えた。
更に、窓から入ってくる光が少なくなり、油絵の具の凹凸もはっきりしなくなり、べたっとした色合いだけが目にこびりついた。
松本は、絵が不快に感じた。
その瞬間、窓際の机の引き出しから、幅広の絵筆と大量の白の油絵の具を取り出した。
パレットに、山盛りの白をひねり出し、幅広の絵筆に乗せた。
松本は、キャンバスに、大きく”✕”を描いた。
左上隅から右下隅へ大きく筆を下げ、左下隅から右上隅へと大きく筆を上げた。
キャンバスを 二本の太い白線で潰した。
そして、さっき完成した絵画を白で塗りつぶし始めた。
左官が壁塗りをしているように、大きく腕を振り回し、全面に白を重ねていった。
松本は、夕日の赤が差し込む美術部室で、キャンバスを猛然とリセットしていった。