第1話:走る水音
イーゼルに立て掛けたA3サイズぐらいのキャンバスに、ペンディングナイフを差し込んだ。
ペンディングナイフをスライドさせると、キャンバスから、油絵の具の固まりが浮き上がってきた。
何層にも重なった油絵の具の固まりは、バームクーヘンの表面を削ぐように、マーブル模様の様な色で切り出されていった。
一削ぎ、一削ぎごとに、油絵の具のかけらが床に落ち、枯れ葉のようにイーゼルの下に散らばっていた。
松本譲は、自分が所属する美術部室で、背もたれのない丸椅子に座りながら、キャンバスに、地層のように重なった油絵の具を削いでいた。
何度か絵を描くと、再び使えるようにするために、固まった油絵の具を削ぐ。
学校校舎の一角の、部室長屋にある、4畳程度のスペースの部室では大量に画材が置くことが出来ない。
そのため、美術コンテストに出展することがなければ、新しいキャンバスなど買うことが許されないので、練習はこのように、キャンバスに重なった油絵の具を削いで、再利用をしていた。
今回も、5回、絵を、その都度、写真を撮って残していた。
描いた絵を振り返るために、極力、大きな画素で撮って、タッチが確認できるようにしていた。
ただ、学校では、パソコンがないため、持って帰って家で確認するか、パソコン部にパソコンを貸してもらうしか、過去の絵の確認は出来なかった。
松本は、他の部員がそのようにするなか、あえて、写真を撮るだけ撮って、振り返るということをしなかった。
過ぎた過去には、興味がなかった。
と言ってるが、本人は気恥ずかしくて、振り返りたくなかっただけだった。
松本にとって、一番好きな時間が、キャンバスに何層にも重なった、油絵の具の固まりを削いでいる時だった。
その時に、どのくらい描いたか思い出していた。
それが、一種の彼の振り返りだった。
荒削りで油絵の具が掘り起こされていき、キャンバスの布地のくすんだ白が、荒々しく姿を表してきた。
そこから、ゆっくりと、右から左へと、撫でるようにペンディングナイフを滑らせた。
松本の膝に、削った油絵の具が降りかかり、その都度、手で払った。
油絵の具の固まりはベタベタで、手にかけらが張り付いた。
張り付きっぱなしが気持ち悪いので、手で叩くように払った。
キャンバスから落ちた絵の具のかけらは、イーゼルを中心にして散らばったままだった。
まずは、キャンバスを再び描きやすい状態にする。
松本は、キャンバスを指でなでて、削り残しを探して、ペンディングナイフで削った。
キャンバスが破れないように、キャンバスの布地が削れて薄くならないように、慎重に油絵の具を削った。
何もないと思われたところから、油絵の具のかけらが浮き出て、ペンディングナイフを伝って、松本の手に落ちた。
まるで、蝋を削ったような、細かい油絵の具の粉が、松本の手に落ちたようだった。
手の甲に表面に薄く、粉を吹くように降り積もって行った
一度、ペンディングナイフを滑らせる手を止め、イーゼルから離れた所にある、ゴミ箱の上まで移動し、手を払った。
松本は、もう一度、キャンバスに戻り、布地を手でゆっくりとなでた。
手の平に、油絵の具の凹凸が当たる感覚が無くなっていた。
キャンバスは、度重なる使用で、いろんな色が滲んで、くすんでいた。
松本は、ロッカーから、箒とちりとりを取り出し、落ちた油絵の具の固まりを掃き出した。
ある程度貯まると、ずしっと重さを感じ、ゴミ箱に捨てた。
それを数回繰り返し、最後には、油絵の具の粉も、掃いた。
ゴミ箱の縁に、何回も、ちりとりをガンガンぶつけて絵の具の固まりや粉をゴミ箱に落とし、箒とちりとりをロッカーに戻した。
松本は、手をパンパンと叩きながら、再び、キャンバスの前の椅子に座った。
「何を描こうかな。」
松本は、のけぞって、後頭部を壁に押し当てた。
南向きの窓から入ってくる光で、天井がゆらゆらと、輝いて見えた。
部室長屋の下には、学校のプールがあった。
プールに、放課後の西日の光を反射され、部室長屋がある南側校舎の教室の天井に、光が当たっていた。
松本は、プールに水が張られている事に気づき、椅子をずらし、座ったまま、窓のサッシにアゴを乗せ、外を見た。
外では、プールに多くの人数の生徒が居た。
みな、競技用水着に着替え、列をついて、順番に泳いでいた。
松本は、プールをじっと見た。
長方形の25mプールは、白と銀と青がゆらゆらと揺らめいて見えた。
プールは、太陽の光を吸い込み深い青だった。
波打つ青が、光を反射し、白や銀に輝いていた。
そのプールの中を、黒い人型が規則正しく、右左と動いていた。
松本は、一度アゴを上げて、窓に両腕を置いて、その上に体を乗り出すようにしながら、頭を乗せた。
眩しくて、思わず、目を細めた。
プールから反射してくる光が、チラチラ目に入ってくるのが、眩しかった。
「あ、夏かぁ。」
あと十数日で、夏休みに入る時期だった。
外は、薄っすらとセミのなく声が聞こえ、空気が熱くて、痛かった。
今年の夏は、暑くならないと、天気予報で言っていたのを思い出した。
「天気予報ですら、嘘を付く。」
松本は、予報ハズレのこの天気を恨んだ。
外には、いろんな音が聞こえた。
遠く、運動場で、サッカー部の練習の音や、野球部のバットの音も聞こえた。
ハンドボール部とバスケ部が、プールと校舎の間の通路を、走っていった。
「夏休み。どうしようか。」
夏休みは、職員室に一度顔を出せば、部活をしていいことになっていた。
松本と同じ美術部員は、夏休みは、部活をしないと言っていた。
夏休み中は一人で、美術部室を使えるということだった。
松本はクラスに友達は、多くなかった。
夏休みを利用して、どこかに行こう、とか言う話を受けることはなかった。
そもそも、多くの生徒は、今年の夏休みは、遊ぶどころではなかった。
再来年、受験を控え、夏期講習に行くクラスメイトが、かなりの人数居た。
松本は、美術学校に行こうと思っていたので、イマイチ、受験の話題にもついていけれなかった。
「そういえば、あいつら、夏休みは、北海道と沖縄に行くって言ってたな。」
松本は、クラスメイトで仲のいい数人の生徒のことを思い出した。
一度でいいから、北海道や沖縄で、街で体験できない色を見てみたいと思ってた。
どこまでも広がる緑の地平線。
遮るものがない真っ青な空。
そして、どこまでも透明で海底が見える海。
そういう物を、えに落とし込めれれば、どれだけ、楽しいだろうか。
むしろ、ネットでそういう物をみて、描こうか。
でも、現実をみて、体験しないとわからないことだらけだろうな、と妄想した。
現実は、松本の親の仕事の都合上、そういう所に行く時間がなかった。
結局、お盆も含めて働き詰めで、松本は夏に遊びに行ったことがなかった。
本心では、とても、行きたかった。
「ただ単に、長いだけの休みの、どこがいいって言うんだ。」
松本は、顔を左に倒した。
後頭部が、西日を受けて、ジリジリと熱かった。
ただ、油絵の具の匂いが充満する美術部室に顔を入れておくよりも、遥かにマシと思い、そのまま西日に焼かれた。
「はぁ、プール、いいなぁ。涼しそう。」
松本は、目の前のプールに視線を落とした。
ただ、運動が苦手な松本は、泳ぐことがほとんどできなかった。
「あ、沈むわ、俺」
松本は、自分の現状を思い出し、苦笑いした。
25mはおろか、10mすら泳ぐことも怪しかった。
小学校の頃、友達と行った県営プールでは、ほとんど、プールサイドで日焼けを満喫していた。
「こんなことを言ってる場合じゃないわ。何を描こう。とにかく、学校の金で油絵が出来るんだから、どんどん描かなきゃ。」
松本は、いろいろ思い出した。
最近見た風景や、学校で見たもの。
休みの日に出かけて見た街の光景や、ちょっと自転車で遠出した山や川の光景。
松本はいくつか拾い集めて、頭の中で混ぜてみた。
目の前をぐるぐると、いろんな色がまざって、マーブリングのようになった。
仕舞には、目を回し、顔を伏せた。
「なんか、思い出した。後で、写真漁ろう。」
松本が顔を上げると、プールサイドから、生徒が一人、松本を見上げてた。