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足りない甘さ

――沼に這入ってる自覚はあったけれど、抜け出さない見返りが余りにも大きくて、問題は些事に思えた。


――――その内飽きられて終わる日が来るだろうと、そのくらいの心配はあるけれど、今はこの時間が楽しくて、待ち遠しい。

 ウグイス張りの床の軋み音が、少しずつ近づいてくる。

 ミシンの手を止める前に、ふすまは開いた。


「そろそろ休憩時間ですよ、いのりさん」


 振り返った私に野高のだかさんは流し目を向けて、軽やかに話す。


「まだ30分くらいしか経っていません」


「私が襖の前に立った時、きっかり60分が経ちました」


 左手に抱えたお盆から白磁のティーカップを私の横に置くと、首筋に向けて「アズキさんが帰ってくる前に」と彼は言った。


 私は彼の脇に手をまわして、その口をふさいだ。舌先を歯裏に沿わせて、つるっとした表面を愛でる。ピアノの白鍵にも似た滑らかなエナメルを順々に撫でると、したためていた思いが放たれていく。情感が、高まっていく。


 野高さんも為されるがままではなくて、私の背に手をまわして、背骨の両辺を2本指で撫でおろす。ぞくりとした。


 その反応を受けて、今度は逆さに撫で上げる。瞬間、身体の芯からイナズマが走るような錯覚がやってきた。産毛が総立ちになっているのがハッキリと判る。


「お返しです」


 それは等倍なんてものじゃなかった。何倍もの大波を、連弾のように私の内奥につぎ込んできた。


「野高さんはイジワルです」


「ごめんなさい。でもね、これには訳があるんです。実はアズキさん、もうリビングに居るんですよ」


 "アズキさん"というのは、夫の連れ子のアズキちゃんのことで、この春小学2年生になった元気な女の子だ。


「一応、お菓子と紅茶を出して時間稼ぎはしてますけど、この後ゲームの約束してるので長居はできないんですよ」


 そっか、連絡帳に今日は早く終わると書いてあったな。良くないと思いつつも、もう少し遅くなってほしかったと願ってる私がいた。


「だからって――んっ」


 好きなだけ興奮させておいて、そういう場所に1度も触れないのはどうなの、と言おうとして、その口は親指と人差し指で摘まれた。


「そんなの、その方が愉しいからですよ」


 反論しようにも、言葉をひねる前に悦びをぶつけてくるので、考えは全て押し流されてしまう。


 内腿の際を、野高さんが攻めてくる。漏れ出た軌跡は踵まで及んできていた。


「もう、ね?」


「いいや、ここ迄です」


 せり上がった思いが溢れかける分岐点ぎりぎりで、野高さんは辞めてしまった。


 着崩れた衣服を整えて、ネクタイを締めなおす。腰にプッシュしたレモンフレーバーのコロンは、去年の同じころ、初めて来た時に着けていた香りだった。


「またあとでね」


 来るときは揚々な気分を催す音でも、今はただの聞きなれた軋み音だった。


 そしてまた、暇が返ってきた。縫い途中の服の前に直って、よれ掛けた布をピンとさせる。作業を再開させながら、私は出会った頃のことを思い出していた。


 それは梅雨の最中だというのに全く雨が降らず真夏日が続いた、6月の終わり頃だった。

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